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江戸美人

(画像掲示板より引用,原出典不明)


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「Togetter」◆(2013-07-04) 捏造された「江戸しぐさ」(偽史・ウソ)

「Togetter」◆(2018/08/29) 「江戸時代はユートピアだった」 70-80年代に流行った新左翼史観

「異をとなえん」:(2010-01-15)武士の窮乏化とグローバリゼーション

「日経ビジネス」◆(2013/03/28) 日本には木が多すぎる 『森林飽和』の著者,太田猛彦・東大名誉教授に聞く
 昔の日本は緑がいっぱいという「里山幻想,緑の常識」はウソ.
 江戸から明治は禿げ山ばかり.

メガとんトラック」◆(2010/04/10)【MMD】 りれい将軍

『グアダラハラを征服した日本人―17世紀のメキシコに生きたフアン・デ・パエスの数奇なる生涯』(メルバ・ファルク レジェス他著,現代企画室,2011/01)

『〈甲賀忍者〉の実像』(藤田和敏著,吉川弘文館,2012.1)

『徳川歴代将軍事典』(大石学著,吉川弘文館,2013/8/30)


 【質問】
 「江戸」の範囲は?

 【回答】
 前にも橋の話で取り上げましたが,「御府内」と言う言葉曖昧でした.
 これは江戸の土地についての支配系統が異なっていて,行政の統一性を欠いていた事が原因です.
町人地の支配は町奉行,寺社地は寺社奉行,武家地は大目付・目付が支配していました.

 例えば,旗本が遠出する場合.
 勝小吉の話なんかにも出てきますが,旗本は江戸から出る場合,幕府に届け出をする必要がありました.
 ところが,江戸の内外の境目は何処かがきちんと決まっていなかったりします.
 1791年に,大目付から老中に対し,御府内の範囲は何処から何処までかを諮問していますが,その回答は,江戸城曲輪内(東は常盤橋門,西は半蔵門,南は外桜田門,北は神田橋門)より2里の範囲であると言う曖昧なもの.

 寺社奉行,町奉行,それぞれの立場でもこの解釈はまちまちです.

 その考えは凡そ4種類ありました.
 ・幕府の『御府内備考』で調査する範囲で町奉行所支配場の範囲と同じ.
   → 江戸城曲輪内より2里四方の範囲.
 ・刑罰の江戸払の御構え場所(江戸払に対する立入禁止区域)
   → 品川,板橋,千住,本所,深川,四谷大木戸より内側
 ・寺社方勧化場(寺社の寄付を募る事が出来る地域)
   → 東は砂村,亀戸村,木下川村,須田村限り,西は代々木村,角筈村,戸塚村,上落合村限り
      南は上大崎村,南品川宿限り,北は千住,尾久村,滝野川村,板橋限り
 ・札懸場(変死者,迷子の年齢,衣服などの特徴を掲示した場所)の範囲と同じ
   → 東は木下川村,中川通,八郎右衛門新田限り,西は代々木村,上落合村,板橋限り
      南は品川より長峰六件茶屋限り,北は下板橋,王子,尾久川通限り

 幕府が江戸の範囲として統一見解を示したのは,その大目付の諮問から30年近く経った1818年で,8月に目付牧野助左右衛門から「御府内外境筋之儀」が提出されたのが契機となり,勘定奉行,そして評定所で,この件についての打ち合わせが繰り返され,年末の12月になって,老中阿部正精は,江戸絵図に朱線を引き,「書面伺之趣,別紙絵図朱引ノ内ヲ御府内ト相心得候様」申し渡しました.

 この範囲は,東は中川限り,西は神田上水限り,南は南品川宿を含む目黒川辺,北は荒川・石神井川下流限りとなっており,勧化場,札懸場の範囲にほぼ一致しており,町奉行支配範囲より遙かに広くなっていました.
 以後,御府内と同義語で,「朱引内」と言う言葉が使われる様になり,同時に夫れは「大江戸」の範囲を指すことになりました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/05/14 23:46


 【質問】
 阿片戦争で中国は痛い目を見たわけですが,その当時,日本には阿片は浸透していなかったの?

 【回答】
 さて,昨日から阿片の話を書いている訳ですが,中国と違って,日本への阿片の流入は意外に少なくて済みました.
 清と英国が戦い,清が敗北した阿片戦争の結果は逸速く日本に知らされ,1843年に早くも警世の書である昌平黌の学生である斉藤馨が,『鴉片始末』と言う僅か10数ページの書物を記して,清に流入した阿片惨禍と阿片戦争敗北に至る経緯を紹介しました.
 丁度この頃から,日本の海防をどうするかと言う話が盛んに為されるようになり,この書物は昌平黌周辺の漢学塾に通っていた諸家の侍の手から手へと筆写され,全国に広まっていきます.
 因みに,この書物には佐久間象山の跋文も付いていたから,余計に広まったのですが….

 『鴉片始末』を皮切りとして,この手の書物が次々に出版されるようになり,1847年に塩谷宕陰の『阿芙蓉彙聞』,1849年に佐藤信淵の『水陸戦法録』『存華挫狄論』が著わされ,清からは魏源の『聖武記』,『聖武記採要』,『海国図志』などが輸入され翻訳,出版されました.
 そればかりでなく,1848年には嶺田楓風が,庶民向けに漢字仮名交り文でしかも図入りの『海外新話』を板刻しました.
 この嘉永年間は,こうした海外事情本や海外脅威論がブームとなった頃で,他に『海外新話拾遺』,『海外夜話』,『海外実録』,『清暎近世談』などの書物が次々に出版されました.
 此等の本は何れも,夷狄侵寇の恐怖と無い混じりになった阿片の毒への,おどろおどろしい恐れが広く伝えられています.

 とは言え,権力者から見ればこの手の本は,妄りに政道を論じたものであり,先述の嶺田楓風は,江戸町奉行遠山左衛門尉によって,2年の押込と三都構えに処せられ,挿絵師は獄死しました.
 また,『聖武記採要』を翻刻した鷲尾毅堂も奉行所の詮議を受けた為,房州に逃げて難を逃れています.
 しかし,禁圧があろうとも,読み本は手を替え品を替え出て来ましたし,筆写して故郷に持ち帰るのは止めようがありませんでした.

 この様に,日本人には阿片の恐ろしさと嫌悪が植え付けられてしまったので,これをバネに近代ヨーロッパの先進軍事技術を吸収しようという動きが高まります.
 また,こうした動きがある事が,米国を始めとした各国に知れ渡っており,開国の流れの中で,例えば1857年に日米修好通商条約交渉の席上,ハリスの方から阿片貿易禁止条項の挿入を提案していますし,それに先だって締結された日蘭追加条約,日露追加条約にも既に阿片輸入禁止の条項が挿入されていました.

 それでも日本人は阿片への警戒を緩めていません.

 例えば,1862年に開国後初めて幕府が派遣した,貿易船千歳丸に乗った長州毛利家の高杉晋作や尾州徳川家の日比野輝寛,佐賀鍋島家の納富介次郎と言った面々は,清国が海外に向かって開いた上海の繁栄に目を奪われましたが,その繁栄が中国の人々を犠牲にして齎された事を目の当たりにすると共に,清国の上下階級が阿片の齎す害毒にやられ,その貿易の富も全て西洋人に支配されている事を認識した訳です.
 そして帰途,一行は呉淞まで便乗した中国人の水先案内人が,阿片を喫する恍惚の表情を見物し,彼がその収入月200余元を全て阿片に費やすと言った話を聞いて,改めて阿片耽溺の恐ろしさに驚いています.

 ところで,これらの条約には2つの穴が開いていました.

 1つは欧米人の阿片の持ち込みは,自家用の3斤以外は禁じられたのですが,西洋医学の導入と共に,蘭法医によって阿片が,鎮静剤などの役割で処方される様になります.
 1862年に攘夷決行を迫る朝廷説得の為,上洛した一橋慶喜が連日の心労で不眠に苦しんだ時,松本良順が6グレインの阿片を処方し,この不眠をピタリと治したと言う話があったりします.
 阿片は,安静,鎮痛,下痢止め,咳止めの為の内科万能薬であるように見えた為,条約上の取り決めは兎も角,薬用としての輸入は黙認せざるを得ませんでした.

 もう1つが以前にも触れましたが,無条約国である在留清国人の阿片吸食の問題でした.
 因みに,松浦静山が書いた『甲子夜話』の『続編』には,既に「清商の渡来するもの,船中に阿片煙草と云うものを飲む.これは阿片を練りしを煙管の火皿の所に詰めて,火を付けて煙を飲むなり」と言う記述があるくらい,清国人の阿片好きは有名でした.
 これまで,中国人は唐人屋敷に閉じ込めてきたのですが,西洋人との貿易が開始されるに及び,欧米人の雇用人名義で外国人居留地に住む様になると,彼らと接触した日本人の間にも吸食の風が伝わる心配が出て来ました.
 現に,1868年8月の長崎の新聞『崎用雑報』に,清国人が生阿片膏を売り,僅か半月の間に丸山の遊女4~5人が死亡したと言う記事が出て来ています.
 この年,長崎在住清国人の数は743名,うち居留地に288名(他に欧米人195名),その他,神戸居留地に300余名,横浜に660名もの清国人が住み,その数は欧米人よりも多く,増加率も欧米人よりも多くなっていましたから,清国人が溢れて,阿片の吸食と言う悪習が入ってくるのではないか,と懸念されました.

 この為,閏4月に発足早々の明治新政府は,太政官布告を出し,「カネテ御条約面ニコレ有リ候通リ外国人持チ渡リ候事厳禁ノ処,近頃窃ニ舶載之聞コレ有リ,萬一世上ニ流布致シ候テハ生民ノ大害ニ候」と,阿片煙草の売買や呑用の禁止を布告します.
 これは清国人の吸食需要に応じ,密輸の増加が懸念された為でした.

 その2年後の1870年8月9日,政府は販売して利を謀る者,首は斬,吸食する者は徒一年の「販売鴉片烟律」を公布しました.
 丁度その日,外務権大丞柳原前密が通商交渉の為,清国に向けて長崎を出航しました.
 条約締結の暁には,清国との往来も増え,清国人吸食者を媒介に,日本人にも吸食の悪習が広まる恐れがあるとして,同じ日に各開港場にいる烟癖のある清国人の退去と渡来禁止,日本人に阿片を売った者への厳罰を布告しています.
 これは条約締結を前にしての予防措置ですが,事程左様に,明治新政府は阿片の流入に神経を尖らせていた訳で,これが日清戦争に勝利するまでの明治政府の対阿片政策の基本となりました.

 更に,阿片煙草の原料となる阿片も薬用の阿片も阿片には変わりありませんから,これまた同じ日に生鴉片取扱規則を布告し,全国の薬店所持の阿片の品位量目を地方官庁で記帳し,以後薬店と医者は売買の度に官庁に届け出る事,鴉片の輸入は地方官庁を通し,税関に届け出て注文する仕組みにして,薬用阿片の規制にも乗り出しましたが,これは上手くいきませんでした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/09/08 22:56

 さて,西洋諸国とは不平等条約を押しつけられた日本が,最初に結んだ対等条約は隣国,清との通商条約である日清修好条規でしたが,これには阿片に関する禁止条項がありませんでした.
 条約正文に阿片の輸入禁止を明記出来なかったのです.
 これは,清国全権の李鴻章が明記すると,日本では禁制物資なのに清国では禁制物資ではないと記載する事になり,体面に関わると清国が反対した為でした.
 因みに,この条約は相互に治外法権を認め,第3条には
「両国ノ政事禁令各異ナレバ,其政事ハ已国自主ノ権ニ任ス」
と言う条項で,阿片禁止の意が込められていると,李鴻章と交渉に当った日本側全権の伊達宗城から説明されていますが,通商章程の付属の税則に阿片を禁制品としたに留まり,しかも,これには取締方法,罰則規定などはありませんでした.

 この為,例え日本で違反者を捕えても,それが清国人であれば,裁判権は清国側にあり,取締りに難渋する事になります.

 阿片規制が出来なかった2つ目の要因は,その輸入が日本人ではなく,外商の手に委ねられていた点にあります.
 彼らも治外法権によって保護されており,日本政府は薬用阿片輸入規則を作って規制しようと公使団と交渉しますが,既にこれまでも輸入を黙認させてきた既得権を主張し,失敗に終わりました.
 特に強硬だったのが英国で,パークスは先頭に立って反対しています.
 因みに,彼は第二次阿片戦争当時に広東領事を務めており,強硬派として知られていました.

 最後の要因は日本自身にありました.
 阿片は江戸期にも「津軽」と呼ばれ,使われていたのです.
 産地は南部と甲斐で,『和漢三才図会』には,阿片と木香,黄蓮,白木の粉末を調合して作った丸薬が,痢病に効能が有り,一粒金丹,如神丸,一粒丸と言う名称で一般に売られていたと言う記述があったりします.
 また,1837年に大坂道修町の薬問屋街の雇人が摂津国三島郡西面村の実家に罌粟栽培を勧めたのが切っ掛けで,大坂近郊でも阿片栽培が始まっていました.
 となると,海外産の規制を幾ら行っても有名無実になってしまいます.
 しかも悪い事に,国産阿片はモルヒネ含量が一定せず,医療用としての信頼性に欠けていました.

 その点,輸入品のトルコ産は品位も10~12%と一定し,正しく処方出来,精良阿片の輸入を規制するのは在留外国商人の糧道を断つに均しいと言ったのがパークスでした.

 そこで,外商の輸入を止めさせるべく行ったのが,内務省第七局(後の衛生局)長の長与専斎を中心として,国産品の総買上,阿片の専売制実施,それに伴う一切の私的輸入と販売の停止を実現させる薬用阿片売買竝製造規則の制定でした.
 この方針が定まった1875年の段階では,横浜居留地の外国人人口は2,496名,内清国人は1,300名と過半を占め,「神奈川県邏卒取締表」に依れば1872年6月から1876年12月までに阿片取締件数が欧米人4名,日本人ゼロに対し,1873年4月の日清修好条規の批准で条約国人となった清国人が26件と突出していました.

 業を煮やした日本側は,1875年9月,先の税則に罰則規定を設ける様交渉しましたが,清国側は領事が引き取り本国送還の上,自国で処分すると譲りません.
 偶々,領事の派遣が遅れたので,それまでは日本側で処罰出来ましたが,領事が信任されてしまえば,それも出来なくなると言う苦しい状態に日本政府は追い込まれました.

 この為,内務省は2つの調査を実施しました.

 1つは国内の薬用阿片の需要量調査で,官公立病院と開業医の使用量から概算し,年間需要を4,810ポンド(国産3,910ポンド,外国産903ポンド,外国産の内,欧米人需要が200ポンド)と見積もります.
 因みにこの時,外国商人などへの調査は行っていません.
 彼らに聞いても,まともな答えが返ってこないのが目に見えており,それだけ,政府の意向が軽んじられていた訳です.

 2つ目の調査が国産阿片の調査です.
 1875年11月,各府県に管下の栽培農家の製造高,採取の時期等を調べ,見本を付けて差し出す様に通達しています.
 この見本を分析して品位を確かめ,出来れば国産阿片を育成して,外国産を駆逐しようとしましたが,時は地租改正の嵐の真っ直中で,各地も不穏な動きは続き,見本の提出が遅れていました.

 内務省の動きが遅れる中,外商の密輸入への対処は緊急を要し,先ず外務省案が先に検討されました.
 外務省案では,欧米人需要の200ポンドについて,1ポンド25~26円と見て5~6,000円の予算を組んでトルコから良質阿片を輸入し,それを供給すれば先ず外商の密輸入は意義を失うと考えられました.
 勿論,法規を設けると公使団の反対に遭うのは判っているので,簡単な売渡規則を開港場の横文字新聞に広告し,頒価も原価に僅かな手数料を加え,利益を見ないで売り下げると言うもの.
 その上,阿片密売に大規模に手を出している英国人薬商の大量注文にも寛容に応じてやれば,公使団の摩擦を避けられようという何とも消極的な案でした.

 一方,内務省の調査分析結果は,1877年5月で,大阪府他4県から46見本の提出があり,その内17見本は9%以上のモルヒネを含有しているのが判った事から,政府で検査して買上げ,品位の向上に努めれば,医療用として使える事が判りました.
 これを受け,同年8月,国産品も全て買上げ,外国人需要と国内不足分合わせて900ポンドを政府が輸入して売り下げ,薬用阿片売買竝製造規則を制定し,内外国人共に同じ規則で取り締まる内務省案が纏りました.
 結果的に外務省もこの案に同意し,11月5日,それまで税関で黙認してきた外商の密輸を,「一層厳密ニ防禦」する方針が政府決定になりました.
 そして,清国政府が范錫朋横浜領事の任命を通知してきたのが,1878年1月でしたので,何とか間に合いました.

 しかし,一難去ってまた一難.
 税関の水際作戦の結果,英国人薬商ハルトレーの荷物の中から,阿片が発見された事から話しが始まります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/09/09 23:12

 さて,明治初年,明治政府は清国からの阿片吸引と言う悪習を防止する為,税関での水際防禦を強化します.
 そして,外国人商人が行っていた阿片密輸をも摘発する様になりました.

 1877年12月14日,英国人薬商ハルトレーが申告した薬材の荷の中から,横浜税関は2ポンドの阿片を見付け出しました.
 直ちに,神奈川の英国領事裁判に偽申告の咎で告発しましたが,それを嘲笑うかの様に,ハルトレーの荷からは,1878年1月8日に17ポンド,更に英国の商人コッキングの荷からも50ポンドの阿片が摘発されました.

 ところが,これだけ明確な証拠が出たにも関わらず,2月20日の英国領事裁判の結果は「無罪」.
 判決文は,阿片には薬用と吸食用の2種類があり,条約は人命維持に不可欠な薬用阿片の輸入は禁じていない,だから日本政府も輸入を認めてきたのである.
 今回輸入したのは薬用であり,これは合法的なものであるから,罪に問う事は出来ないと言うものです.
 これは従来,パークスが主張してきた論理でした.

 丁度この頃,明治政府は,前政権が幕末に列強各国と相次いで結んだ不平等条約の内,関税自主権を回復すべく条約改正交渉に着手したばかりでした.
 と言う事で,世間の耳目が条約改正問題に集まっていた最中,こうした日本を嘗めきった領事裁判の結果が出た訳ですから,世論はその不当,軟弱外交の非を鳴らして,激昂しました.

 このハルトレー事件は条約改正を国民的な課題に広げ,内に民権外に国権の回復を叫ぶ自由民権運動に弾みを付けた事件となります.
 こうして,この判決は政府を窮地に追い込む事になりました.
 また,この判決が間接的に,内務卿の大久保利通の命を縮めたのではないか,とされています.

 ところで,この領事裁判の結果を覆すには,英国内閣の司法委員会に上告するしか手がありません.
 4月,政府はロンドンの上野公使に上告手続方を訓令しますが,英国政府はこれを取り上げてしまうと,条約をあからさまに無視したパークスの進退問題になってしまう事から取扱に苦慮していました.
 丁度そこに,救いの神が現われました.
 この頃,英国議会ではQuakerの反阿片運動と結んだ野党,自由党の阿片貿易反対勢力が強く,反阿片協会の運動が大きく盛り上がっていました.
 そこで,上野公使はこの協会に援助を求めました.
 早速,反阿片協会は阿片に薬用,吸食用の区別はなく,条約違反の判決を吾が外務省は認めるのかと抗議を行い,この抗議に英国外務省は困惑します.

 その後も続く英国商人の密輸摘発に,7月上野公使と会談した外務次官のJ.ポンスホートは,パークス公使は「粗漏ノ罪ヲ免レサル所アリ」と応えています.
 つまり,パークスが幾ら強硬姿勢を示した所で,本国政府の支持がない事が明白になった訳です.
 大英帝国から見れば,日本に対する阿片の取引など,たかだか年間900ポンド程度に過ぎません.
 これを針小棒大に,大英帝国の商業上の利益云々などと取り沙汰するのは意味がないと言う事で,上野公使は英国政府の動きを見て8月9日,明治政府に,
「阿片輸入儀ニ付相当ノ約定ヲ結ヒ此後ノ紛議ナキ様ノ処置可致旨在日本英国公使へ指示アリタル由」
と報告しています.
 こうした動きを見て,漸く明治政府も愁眉を開き,8月9日付で早速懸案の薬用阿片売買竝製造規則を施行日は追って通知と但し書き付で布告する事にしました.

 更に上野公使は反阿片協会と綿密に打ち合わせ,反阿片協会は,1879年1月28日にソールズベリ外相宛に建白書を送りました.
 それには,今回の事件は,日本政府の薬用阿片輸入規則の制定を英国公使が承認せず,在留英国人に施行できないために起ったものであり,僅か20余年前,阿片輸入を禁じて開国し,以来その敏捷勇心によって非常無比の進歩を為した日本に,阿片に耽溺する在留清国人が増加せんとする今,日本政府の今回の措置は当を得たもので,政府は速やかに日本駐在公使に命令し,現在の紛紜を止めさせ,これに協力する立場を表明すべきだと建言しました.
 この建白書は,2月7日のロンドンタイムズ紙に,英国議会でのパークス非難の記事と併せて掲載されています.
 こうして,ハルトレー事件は英国側への圧力を駆使した日本側の全面勝利に終わり,ソールズベリ外相は上野公使宛に,「裁判ハ全ク不正ニシテ至当ノ処分ト難見做」と公式に表明しました.

 この事件を経て漸く先述の様に,5月1日に薬用阿片売買規則竝製造規則を施行出来た訳です.
 この事件は,日本外交のささやかな勝利ではありましたが,欧米文明の進歩を採り入れれば,条約改正は可能になるという自信を井上馨外相に植え付けました.
 そして,欧化主義による条約改正交渉に一路邁進した訳です.

 とは言え,その切っ掛けが阿片であったと言うのは,今日では全くぼやけてしまっている訳ですけどね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/09/10 23:01

 さて,ハルトレー事件により,外国人商人の跳梁を封じ込め,国産と外国産も全て内務省で買上げ,特許薬舗で売捌くと言うビジネスモデルが出来上がります.
 病院,医師,一般薬舗は量目住所氏名を記入して買入れ,内外国人とも医師の処方箋がないと買えません.
 特許薬舗は,半年ごとに量目住所氏名の明細表を,栽培農家は免許願を所轄官庁に提出し,栽培阿片は内務省にしか売れないと言う事になりました.
 これによって,薬用阿片の密輸,密売は規制出来ましたが,そうは言いつつ,完全に封じ込めたかと言えば難しかったりします.

 特に在留清国人の吸食取締に難渋しました.
 彼らに何故吸食の悪習が広まったかと言えば,漢方薬の効き目が悪く,伝承技術の漢方医に藪が多かった事があります.
 漢方薬は効き目が遅く,しかも高貴薬は値が高いので,贋物も多く,医者が患者の弱みにつけ込んで薬礼を搾り取る手段でした.

 この点,阿片は効き目の早い万能薬であり,病気治療薬として重宝されたのもあります.
 また,中国人が信仰している道教には仙薬信仰と言うのがあり,薬を薫じて無限の境地に遊ぶと言う状態は,謂わば理想世界であり,地位もあり富もある家長が老境に入って阿片に耽溺した場合は,如何に国法で禁じようと家人がこれを諫めるというのは儒教論理から行くと出来ません.

 その上,阿片は社交場裡の欠かせない嗜好品で,清朝末期に於ける華やかな都市文化の彩りだったからでもあります.

 ところで,阿片専売は在留欧米人の規制に関しては上手くいきました.
 元々儲けるつもりは毛頭無かったので,外務省案ではポンド当り25~26円,内務省案では20円と,外国産阿片の市中価格を目安に輸入価格を見積もり,18,000円の貸下金を受けて発足したのですが,いざ政府が輸入してみると,外国産阿片は意外に安い事が分りました.
 例えば,日清戦争までの価格を調べると,1882年の時点でポンド当り4円,一番安い時で1886年の2円94銭,高くても1894年の5円29銭であり,元々予定していた買入価格を1桁下回っています.

 これを外国産はそのまま砕いてモルヒネ品位11~12%の粉末とし,1匁当りの瓶に詰め15銭5厘,即ちポンド当り18円70銭で売ると,単純計算でポンド当り14円~16円儲かります.
 これに対し内国産は,品位6%以下は没収し,6~7%で100匁6円30銭,品位が1%上がる毎に70銭増し,9~10%では8円40銭,即ちポンド当り10円15銭で買上げ,外国産と混合して9~10%の品位に調製して,ポンド当り16円40銭で売る事になりました.
 但し,これでは内国産は買上価格に調製,瓶詰め,通信運搬の経費を加えると3割ほど上乗せになるので,1880年4月,1885年3月に相次いで買上価格を引下げ,1886年には6~7%未満で4円50銭,モルヒネ品位が1%上がる毎に45銭増しで買い上げる事にしますが,これでも儲かりません.
 実際にはこの買上価格は,1885年までは全量をかなり高価格で購入していました.

 これは,薬用阿片売買竝製造規則が施行されても,農家は栽培免許を願い出ずに,密売に回し,道修町の薬問屋がそれを売捌くと言う構図が長らく続いていた為です.
 この農家の密売分を表に出す為,政府は敢えて高価格で全量買上を実施します.
 その結果,1887年までに栽培農家の免許願も出尽くし,ほぼ全量を収納出来る様になりました.
 そこで,政府は方針を一変させ,1887年10月に布告した内務省告示第5号で,品位9%以下は全て没収,買上価格は品位9~10%で100匁4円50銭と外国産並に引下げます.
 結局,国産阿片栽培は旨味が無くなり,以後国内の罌粟栽培は衰退していきます.

 因みに1897年当時,府県の倉庫には296貫余の没収阿片が積まれ,一方,所管の内務省衛生局は儲かりました.
 1895年度の衛生局の阿片関係支出は7,931円,対する収入は16,624円80銭と倍以上の利益を上げていました.
 これにより,阿片専売はやり方により儲かる事が分かりました.
 また,日本人に吸食の悪習が拡がらなかったのも,自信になります.

 一方で,在留清国人の吸食取締には難渋しました.
 1つは官憲が吸食犯を捕えても,裁判権は清国領事にあり,政府間に本国送還処分による取り決めはありましたが,実際には難しかったからです.
 その為,これが格好の新聞種として世論の政府叩きに使われる様になり,日本人の清国人に対する侮蔑感を煽る事になります.

 清国人からすれば,吸食という行為は誰に迷惑を掛けるで無し,個人の嗜好の問題でした.
 それを土足で人の家に踏み込んで逮捕するのは如何なものか,それは日本官憲の嫌がらせではないか,と言う訳です.

 1883年には長崎の居留地で,巡査が吸食中の清国人を発見して連行しようとした所,領事の承諾無く拘引する権利はないと多数の清国人が押し寄せて乱闘となり,巡査が抜剣して5名を傷つけ,1名を死亡させる事件が起きました.
 清国人側では居留民大会を開いて条約違反と糾弾し,清国領事は巡査の居宅捜索中止を要求するほどになります.
 この為,日清間の対立感情が刺激される中,長崎では巡査の佩剣が禁止されました.
 更に,この騒ぎは尾を引き,1886年に清国の北洋艦隊が来訪した時,飲酒暴行の清国水兵の逮捕に端を発し,数百名の上陸水兵と巡査との大乱闘事件となって暴発しました.
 世に言う,「定遠号事件」と言うのがこれです.
 そしてこの事件は,全国に喧伝され,阿片への恐れと,これを嗜む清国人への嫌悪感がない交ぜとなり,日本人の間に敵愾心が醸成されていきます.
 更に1888~89年になると,
「日清談判破裂して,品川乗り出す東艦,西郷死するも彼が為,大久保殺すも彼奴が為,遺恨重なるチャンチャン坊主」
なる歌が蔓延るのも,この頃からだったりします.

 この均衡が破れたのが日清戦争であり,大国清に挑んだ新興国の日本は,最終的に圧勝しました.
 こうして,その勝利の結果,台湾を領有した事が,日本政府の阿片政策に大転換を促す契機になっていきます.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/09/11 23:30


 【質問】
 江戸時代の庶民教育機関は?

 【回答】

 近代の学制以前,庶民教育機関としてあったのは「寺子屋」と総称される施設です.
 寺子屋は中世の寺院に於ける僧侶による俗人教育に発し,入学を寺入り,生徒を寺子と称して,寺子の会する屋,つまり建物の事を「寺子屋」と言ったのが定着したとされています.

 その寺子屋は江戸時代に普及していきますが,特に江戸中期以降,18世紀末頃から増加傾向が目立ち,19世紀前半以後は急速に全国への普及や拡大が認められ,明治初期までの間に,全国で15,000カ所以上に達しています.

 一方,寺子屋とほぼ時期を同じくして「私塾」が開設され,寺子屋と同じ様な増加傾向が見出されています.
 この原因として,商業資本主義の発展に伴う生産力増強に伴い,生活に余裕の出た庶民が数多く私塾に通うようになった事,儒学に対する新興の学問を導く教育施設が増加した事,藩学・郷校に飽き足らず,社会の改革を直接に指導し実現しうる人材を養成しようとする塾の出現などが指摘されています.
 その数は様々な数字が出されており,幅がありますが,最低でも1,500カ所以上,多い数字では数千カ所に達しています.

 私塾の教師は学者,文人,芸能人,武芸者であり,自宅を教場として開設しています.
 しかし,私塾は概して,寺子屋より高度な学問や伎芸を教授することを特徴としている為,塾生には武士階層も多く見られており,庶民教育の為の施設とは一概には言えない部分もあります.

 『日本教育史資料』に依れば,その分布を現在の都道府県に置き換えてみると,寺子屋の設置が最も多いのが長野県の1,341カ所,次いで山口県1,304カ所,岡山県1,031カ所,愛知県977カ所,熊本県910カ所,兵庫県818カ所となっています.
 東京都は意外に少なくて487カ所,京都府は566カ所,神奈川は507カ所,大阪府は流石に商都だけあって778カ所と多かったりします.
 更に意外なのが島根県で,ここでは674カ所も寺子屋がありました.
 これに対し,寺子屋が少ないのは宮崎県が9カ所,富山県17カ所,鹿児島県19カ所となっています.

 一方,私塾が多いのはこれまた岡山県で144カ所,次いで長野県が125カ所,東京都がそれに続き123カ所,山口県が106カ所,大分県が92カ所となっていて,今度は逆に大阪府は20カ所,京都府が34カ所,兵庫県と千葉県,それに宮城県が52カ所で並んでいます.
 これ又少ないのは北海道で,これは全く設置されておらず,鹿児島県が1カ所,和歌山県が3カ所,富山県,鳥取県,三重県,静岡県がそれぞれ4カ所となっています.

 こうして見ると,結構な地域格差があった訳ですが,ただ,これは明治期の調査であり,中央政府の手になる学事統計への各府県当局の調査の協力体制によって数が左右されたりしました.
 例えば,富山県の場合は寺子屋が17カ所,私塾4カ所とされているのですが,加賀百万石の前田家にも関わらず,そんな数しか無いのかと云えば然に非ず,実際には350余校もの寺子屋があったりします.

 長野県での寺子屋と私塾の数の多さについては,
中小藩が分立していたり,天領や知行地が入り組んでおり,それぞれが独自に教育政策を行った事,街道が発達した事で,京都や江戸文化の流入が容易になり,そうした諸条件が相乗的に作用して,一般民衆の間に広範な学習要求を生み出し,またそれに応えうる多数の知識人が存在したと言う文化的風土が強調されていますし,山口や岡山についても藩政時代の萩藩や岡山藩が特別に教育熱心だったことが働いていた訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/08/02 23:24
青文字:加筆改修部分


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