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◆◆外交 Diplomácia
<◆江戸時代 目次
<戦史FAQ目次
外交儀礼として,1613年,徳川秀忠から英国国王ジェームズ1世に贈られた甲冑
現在はロンドン塔,ホワイト・タワーの中に展示されている
(tumblrより引用)
【質問】
明が女真族の侵攻を受けて滅ぶ寸前,徳川幕府に対して援軍を要請したと聞いたのですが,これは本当なのでしょうか?
明にしてみれば,秀吉に庭先に攻め込まれた記憶がまだ色濃く残っているでしょうし,日本を味方と思う理由が分かりません.
そもそも,中国の王朝が外国に助けを求めるというのは,なんか違和感があるのですが….
【回答】
1644年に明が滅びた後の,明の流れを汲む派の抵抗復活戦争ですね.
ですから,正式に中国王朝が助けを求めたとはいえないかと.
正式な明王朝はすでに滅びて,皇帝は殺されてましたから.
さらに,彼らは日本だけでなく,ローマ法王にまで援軍を求めてます.
以下,文献引用.
「中国,明朝滅亡ののち,その遺王たちは江南各地で清朝に対抗したが,彼らが建てた政権を南明と総称する.
南明の抗清運動は各地の政権がそれぞれ正統を主張して対立し合い,統一勢力を生み出せず,内部には諸臣の間に不和と党争がたえず,新興の清軍の前に敗れ去った.
ただ,この間に,周鶴芝や馮京第また苫氏一族がしばしば日本に援軍を求め,桂王やその重臣にキリスト教徒が多かったことから,彼らの政権はローマにまで援助を求める使節を派遣するなど,注目すべき動きも存在した」
日本史板,2003/07/16
青文字:加筆改修部分
【質問】
Spangbergの日本探検は,どんなものだったのか?
【回答】
1721年,北方戦争が終結すると,ロシアは西への拡張を諦め,東に目を転じます.
この為,コサックを派遣して東方に要塞を築くなど,陸上からの支配圏拡大を行った他,海路からもユーラシア大陸の東の果てを探す探検隊を送りました.
特に顕著な業績を上げたのがBeringで,彼は1725~30年の第1回探検でユーラシア大陸と北米大陸が切れていることを発見し,その海峡に彼の名が付けられましたし,1733~42年の第2回探検では,カムチャツカとオホーツク海のみならず,白海から東シベリア海沿岸に至るユーラシア大陸北岸の測量を行った上,前回果たせなかったアラスカへの旅を実現しましたが,カムチャツカに帰還する途中に暴風と壊血病の為,ペトロパブロフスク近辺の孤島で生涯を終えます.
因みに,アリューシャン列島に属するこの島も,ベーリング島と名付けられています.
当時のロシア海軍軍人の中核は,ロシア人よりも外国人が担っていました.
Beringもその一人で,彼はデンマーク出身です.
そして,探検隊の中核も同国人で占めていました.
Beringの第2回探検の際には,別働隊として副官Spangbergが日本への航路を見つけ,日本の島々を偵察する目的で南下する事になっていました.
ロシア政府からは,調査の第一の目的として,千島列島に幾つの島があり,そのどれに人が住み,何処からが日本なのかと言う事を調べる様に,つまり,日本とロシアの国境線を何処に引くかという事を確定させる資料を得ようとした訳です.
次いで,千島列島から南下して日本に達し,日本の政体を調べると共に,通商和親関係を結ぶ可能性があるかどうかを調べることも目的でした.
この目的の為,Spangbergはアルハンゲル・ミカエル号,ナデージュダ号,サンクト・ガブリエル号の3隻の船を準備します.
前2者はオホーツクで建造し,最後の1隻は第1回探検で使用した船です.
更にロシア政府は,若しカムチャツカに漂着した日本人が居れば,彼らを連れ帰り有効の証として引き渡せ,余り陸に近づきすぎて日本人に攻撃されるな,太平洋で日本船を捕えて,不和を作るななど事細かく指示し,通訳を連れて行って情報も蒐集する様に命じています.
残念ながら,当時日本人の漂流者はおらず,Spangbergが乗船させた通訳は千島のアイヌとはコミュニケーションが図れたものの,日本人とは話せませんでした.
こうした事細かな指示の背景には,日本の情報が海外に伝わってないのが第一に挙げられます.
Spangbergが携えていった日本関係の図書は,KaempferとVareniusの著作であって,100年前のカトリック宣教師の本だった訳で,その内容は推して知るべし.
Spangbergは,1738年,39年,42年に日本行きを試みます.
最初は,1738年6月で,千島列島沿いに南下しましたが,8月に食糧が尽きたのと濃霧で進めなくなり,引き返しました.
食料を追加する必要から,冬の間に小型船Bolsjeretsk号を建造し,4隻体制で1739年5月に出発,途中で,英 国人Waltonが指揮するアルハンゲル・ミカエル号が離れてしまうアクシデントがありましたが,6月16日に陸地を発見し,Bolsjeretsk号を探検に向かわせました.
これは気仙沼の大島でした.
翌日,ナデージュダ号が艦隊から離れてしまいますが,やがて日本船が1艘,岸からBolsjeretsk号のところにやって来て,18日に,Spangberg自身が陸地に近づいていきます.
日本船は2隻に増えており,陸には篝火が焚かれ,人が大勢出ていました.
20日になると,Spangbergは船をゆっくり岸沿いに走らせますが,日本船は19艘まで増えており,防衛陣地が作られていたのを発見します.
この場所は,仙台湾網島の舟渡でした.
更に2日後,離れていたナデージュダ号が現れたところで一旦錨を降ろします.
この場所は,仙台からほど近い荒浜沖で,此処で日本の漁船がやって来て,平目など代償の魚を持ってきたのを始めとして,米,胡瓜の塩漬け,生の大根,タバコの葉,菜っ葉などの野菜を供給してくれ,物々交換が始まり,ロシアの服などと金貨で購ったりした,また,有力者らしき人物がやってきて,女帝の肖像画に接吻したとまでSpangbergの報告書にはありました.
しかし,この好奇心の強さが,逆にSpangbergを警戒させ,錨を上げて網島の西の田代島,三石海岸沖に移動します.
此処でも土地の有力者らしい者と接触を持ちますが,言葉が通じなかったのと,彼らの船を囲んで,10人程度が乗り組んだ船が79隻も漕ぎ寄せてきたので,乗組員を上陸させるのは断念.
その日の中に田代島を去り,牝鹿半島を回って金華山を通過し,更に北上.
途中,山川海岸の小村で水を補給し,海上で漁をしている日本人を見つけ,小型船で同じく魚を獲りに行かせ,鮟鱇を捕って食糧の補給をした後,7月3日に色丹に到達.
島で水の補給をした後,国後を経由して,今度は北海道の沿岸を本州の北東端まで進み,其処から引き返して,カムチャツカを目指して千島列島沿いに航海し,出港地に戻りました.
こうして,元々の目的である千島列島の位置とその情報,日本への航路を確かめると言うのは達成した訳ですが,残念なことに,ロシア政府は彼の報告書に疑問符を付け,3度目の日本行きを命じました.
ところが1742年の最後の日本行きは,失敗に終わりました.
Spangbergの日本航路の発見は,サンクト・ペテルブルクに達した後,欧州全域に広まり,オランダ本国を経て,バタビアのオランダ東インド会社に伝わりましたが,日本でも当然の事ながら,当時この領域を支配していた伊達家によって記録されています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi, 2008年02月27日21:55
【質問】
Spangberg来日に対し,仙台藩はどのように対応したのか?
【回答】
大混乱に御座候.
網島に近い牝鹿半島の尖端,鮎川に伊達家の海防警護番所がありました.
1739年5月の異国船発見は,番所開設93年ぶりの一大事であり,肴町に対し,注進が発せられました.
これは,Spangberg到着後2日経過してからの事でした.
注進の際,
「船印は黒地に筋違いに十文字」
としていましたが,実際には今のロシア海軍旗と同様,白地に青い十字を対角線にして交差させたもので,余程観測者が慣れていなかったか,動転していたかが伺えます.
仙台伊達家では,兵を緊急呼集し,物頭が何名の足軽を連れ,仙台湾を囲む様に石巻,網島方面の何処にどんな武器を持って出発したかを事細かに記録したほか,「水練早業之者」まで動員して,戦闘準備を進めていました.
2日後,今度は仙台東方,荒浜に3隻の異国船が観測され,仙台湾を半円を描いて航行する様も目撃されています.
当初は中国船だと思って船に近づいたのですが,中国人の様に頭を剃っていない.きっとオランダ船だろうと言う報告が,仙台の米問屋から上がってきました.
通訳らしい者がいて,彼に乗組員の数,船長の名などを漢文にして示したのですが,彼が答える漢文は凡そ漢文になっておらず,自分の名を挙げて,不幸な境遇を訴え,助けを求めると言う有様で,全く通訳の用を為していませんでした.
様々な人々が此の間,船に乗っています.
肴町へ網島から八之丞と言う漁師が呼ばれ,他の漁師5~6名と共に,ロシア船に招き入れられた様子も報告されます.
それによると,鯛を一枚やると,豆板銀の様な貨幣をくれ,もう一人が平目をやると,「虎之皮の様皮頭巾」をくれたと話しました.
また,貰ったものも肴町に提出され,船は頑丈で少しも揺れなかったとか,船員達は皆,背が6尺もあり,唐犬が6頭いたと報告していました.
田代浜にロシア船が移ると,更に詳しく観察され,船の大きさ,帆の材質と大きさ,操作の具合,マストの高さまで記録すると共に,彼らの容姿も詳しく描かれました.
大年寺の役僧龍門は,乗船して船内を見廻り,彼らの食べ物は,麦粉で作った餅の様なもので,乾いていて硬く,鶏か豚の血を混ぜてある様だった.オランダ人が食べる「パン」とか言うものらしいと書いていますが,これは黒パンのこと.
それに,何か「鬢付」の様なものを付けて食べているが,それはオランダ人の言う「ぼうとる」と言うものらしい…「ぼうとる」はバターのこと.
ワインは赤,硝子若しくは金属の容れ物で飲み,彼らは日本のタバコを好み,太鼓や弦楽器もあり,船艙には毛皮が沢山入っていた.
また,居室には地球儀の様なものがあり,それには色々な国の名前が黒インクで書かれていたがその言葉は漢字ではなかった.
田代浜の役人千葉勘七は,漁師と共にロシア船に乗り,中を調べました.
異常はない様だったという報告と共に,彼らは煙草が好きで,自分が課した煙管を返してくれなかった.分金を持っていて見せてくれたが,船艙まで見せてくれなかったと報告しています.
同じく田代島の三石で組頭の善兵衛も,ロシア船に乗組み,その内部を観察しています.
船には,
「鉄にて廻り八九寸,長さ四尺程にて,本の方には穴なし,先の方に細穴有之,中は空なる物四本御座候」
と大砲の存在を報告しています.
言葉は通じなかったものの,日本船,煙草と言う言葉は通じ,松前は知っていたので,韃靼人か,オランダ人ではないか,と言う分析を報告しています.
其の後,彼らは仙台湾を遁走した訳ですが,牝鹿半島の太平洋側にある奥州矢川浜に異国船がやってきて水を補給し,海に出ていた平三郎と言う農民が煙草をやったら,お礼に銀貨を貰ったとしています.
因みに,途中で離れた英国人船長の操るサンクト・ガブリエル号も,日本に到達していました.
こちらは仙台湾ではなく,もっと離れた房総半島の安房国天津村に辿り着き,此処で市右エ門と言う人物に,大根の料金として銀貨を与えたことが記録されています.
其の後,仙台伊達家は,銀貨一枚と日本人に与えられたカードを1枚,幕府に提出していますが,勿論,こんな重大事件を放置しておくと,幾ら譜代扱いとは言え,どんな難癖を付けられるか判りません.
異国船が現れた報告は,当時江戸に滞在していた当主松平(伊達)陸奥守吉村の下に,僅か3日後に報告され,先ず異国船が現れたとの情報と共に,もし鉄炮が駄目なら大砲を用いて良いか?と言うお伺いを立てるものでした.
翌日の第2報では,異国船が2隻から3隻に増え,仙台湾の反対側に出没し,東に移って,やがて消えたとありました.
この情報は早速,伊達家の谷田作兵衛から,偶々江戸に滞在していた長崎奉行荻原美雅に渡されました.
これは異国船関係の事件の所轄が長崎奉行だったからです.
数日後,伊達吉村は事の顛末を老中本多忠良に報告しました.
その報告には,喜惣兵衛と平三郎の話が書かれ,カードと銀貨1枚が届けられると共に,喜惣兵衛が貰った食べ物も長崎奉行に提出されました.
長崎奉行は,それがパンであることを確認します.
2日後には龍門,千葉勘七,善兵衛らの報告も長崎奉行に提出されましたが,千葉勘七の報告は,更に詳細を究め,見た物,飲んだもの,帰りに貰ったもの,船上にいた人物も詳しく描写していました.
翌日,老中本多忠良は谷田作兵衛を呼び,主格老中松平乗邑の指示を谷田を通じて,伊達家に言い渡します.
それは,
「異国人が上陸して来たら直ちに捕えよ.
逃げたなら放置して,後で1,2名捕えれば良し.
上陸しなければそうするよう仕向けて捕えよ.
船が去るのなら仕方がないが,出来るだけ岸に近づけて捕える様に仕向けるべし.
但し,相手が不義な事をするのならば兎も角,そうでなければ,こちらから挑発したり,攻撃しないこと」
と言う極めて曖昧な物だったりします.
10日が過ぎ,千葉勘七の新情報として,伊達家は紙合羽と交換した相手の服を提出します.
そのポケットの中に,煙草入れ,木の実4つ,真鍮の小鈴,花色のハンカチに包んだボタン,干し魚の端くれ,何やら書かれた一片の紙が入っていたとして,紙片とカード,銀貨が調査の為長崎に送られました.
1月後に返事が届き,カードはトランプであること,銀貨は「ムスコビア」つまり,ロシアの物と言う結果を知らされます.
カードは持ち主に返されましたが,銀貨は没収され,代わりに持ち主に銭一貫文を与える様,老中決定として勘定奉行神尾春央から仙台伊達家の岡本八右衛門に伝えられました.
この銀貨を調べたのは,出島のオランダ商館長Visscherでした.
彼はロシア語が読めませんでしたが,ロシア文字であることは判りました.
此処に,新たに日本交易にロシアが加わったことが判明し,オランダにとって警鐘が鳴らされることになります.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2008年02月28日22:25
【質問】
ハンベンゴロ事件とは?
【回答】
1771年,「ハンベンゴロ」と名乗ったと伝えられる外国人をリーダーとする異国船が阿波に寄港した事件.
河合敦によれば,このリーダーはハンガリー系ポーランド人,ベニョフスキイで,ポーランド軍に身を投じてロシア軍と戦い,捕虜となってカムチャッカに流刑となっていたが,仲間と共に反乱を起こし,帆船「聖ピョートル」を乗っ取って日本に逃れてきたものだという.
彼は「ロシアは日本侵略を企てている」という作り話をオランダ商館に書き送り,それが幕府に伝わって,海岸防備論が台頭するきっかけとなった.
詳しくは,河合敦著『なぜ偉人たちは教科書から消えたのか』(光文社,2006/6/30),p.270-271を参照されたし.
【質問】
ロシア全権公使レザノフと,江戸幕府との交渉の顛末は?
【回答】
1800年代,欧州各国では各地の富を求めて東奔西走します.
その中で競争を制したのが英国で,マカオ,広東からアラスカ航路を開き,中国や欧州の製品がアラスカの毛皮と交換され,巨大な利益を上げていました.
彼らは太平洋を5ヶ月で越えていました.
アラスカは元々ロシアの勢力圏で,ロシアの露米会社が経営していました.
英国と違い,彼らの場合は陸路を利用しましたが,アラスカで買上げた毛皮は,オホーツクまで船で運ばれ,其処から難路を越えてキャフタに運搬された為に,此処まで2年掛っていました.
このオホーツク航路は船も乗組員も質的に劣悪だったので,積荷は屡々損なわれていました.
せっかく原料供給地を持っているのにも関わらず,そんな旨味が全然無いと言うのがロシアの不満でした.
英国が5ヶ月で太平洋を渡れるのであれば,頑丈な船を用意してアラスカと,未だ英国が進出していない日本の間に航路を開けば,巨大な市場である日本が毛皮を買うであろうし,其の他シベリアの産物を,短期間に持ち込むことが出来る,こうロシア人達は考えたわけです.
経済的な理由だけではなく,アラスカ,アリューシャン列島,シベリアなどの各地域の植民地からの産物を売りさばく市場を求め,それでこの地域を維持していくロシアの政策上,日本市場への進出がロシアの至上命題になりました.
露米会社は1802年,ロシア政府の後援を得て,ロンドンで2隻の船を購入し,これをNadezhda号,Neva号と命名します.
この船隊の責任者にはKrusenstern,Kisjanskijの2名が選ばれました.
この計画に,Nikolai Petrovich Rezanovがしゃしゃり出てきます.
この辺りは,前にも触れましたが,元々貿易を求めるだけだったのに,日本との国交を開くことなどが加えられ,全権公使としてRezanovその人が任命され,更に彼は露米会社の重役会入りも果たしました.
そして,日本への手土産として,1793年に石巻を出港して嵐に巻き込まれ,アリューシャン列島のアンドトレイカ島に漂着した若宮丸の乗組員16名のうち,生き残りを日本に連れて帰ることになりました.
若宮丸の乗組員は,元々イルクーツクで無為の日々を送っていたのですが,一行13名は伊勢の漂流民だった新蔵と共に,サンクト・ペテルブルクに送られ,途中で病気になった3名を除く10名が首都で皇帝アレクサンドル一世に謁見します.
このうち6名はロシア残留を望み,左平,津太夫,儀兵衛,太十郎の4名が帰国を希望しました.
4名はRezanovに預けられ,衣服と支度金を与えられ,1803年7月にクロンシュタットを出港し,ペトロパヴロフスクまで,彼らの通詞を善六が勤めました.
善六はロシア残留を決めたのですが,彼の話は,漂流者達は全く日本側に伝えていません.
最初に彼らが寄航したのはコペンハーゲンで,8月22日に到着.
ここで天文学者と自然科学者を乗船させ,1ヶ月滞在して準備を整えた後,9月15日に出港,カナリア諸島,ブラジル,ホーン岬などを経てハワイに到達し,Neva号はアラスカに向かい,Nadezhda号は一旦カムチャツカに戻って船の点検と,食糧補給を行って,長崎を目指すことになりました.
1804年7月4日,Nadezhda号はペトロパヴロフスクに到着し,善六を下船させますが,図らずも彼ら5人は,日本で最初に世界一周を果たした人々になりました.
8月20日に,ペトロパヴロフスクを出港したNadezhda号は,千島列島,日本列島沿いではなく,航路を南に取り,太平洋から土佐辺りで北上,そこから西へ進んで9月26日に長崎に達しました.
この交渉は予めオランダに通知され,バタヴィア,出島のオランダ商館長を通じて予め長崎奉行や幕府に伝えていました.
しかし,オランダが商売敵になる国を易々と増やす事はしません.
Rezanovの目的は失敗する運命にありました.
Rezanovを待っていたのは,役人が次々にやってくる割には何も捗らない非効率な交渉で,後に世界中に知れ渡った日本式交渉術で,オランダ商館長だったDoeffはRezanovに合おうともしませんでしたし,手助けすらしませんでした.
皇帝の親書は江戸に送ってあったが,何の返答もなく,1805年1月になって,やっと目付遠山金四郎景晋を長崎に送る決定をします.
彼への指示は,漂流民の扱いについて,
「漂流民達は引取るが,ロシア人が拒否するのであれば受取らなくとも良い.
今後,同じ手口を使うのなら断固拒否すべし」
と言う極めて強硬なものでした.
3月に遠山が長崎に到着し,交渉が始まりましたが,お辞儀の仕方などの些細な所で対立が起き,4月5日に予備交渉が持たれ,Rezanovの期待が裏切られたことが判明して,彼の野望は打ち砕かれた為,彼は激高します.
4月6日に,幕府の意向を一方的に読み上げられ,交渉が決裂.
しかし,遠山から通詞を通じて,要求を受容れなければ,江戸から次の指示が来るまでに2ヶ月掛ることを聞かされたRezanovは要求を受容れ,2日後に暇乞いをして出港し,何ら収穫が得られない儘に終わったわけです.
Resanovが其の後焼討とかそうした蛮行に及んだのは,この時の屈辱が発条になっているのかも知れません.
兎も角,世界一周してきた4名の漂流者は,長崎に14ヶ月留め置かれました.
長崎で奉行の尋問を受けていた為で,その間,最年少だった太一郎は精神を病んでしまいました.
せっかく日本に着いたのに,故郷に帰れなかったから無理もありません.
一行は12月に江戸に着き,1806年2月に当主である伊達周宗に目通りしますが,太一郎は既に廃人同様になっており,目通りは津太夫,儀兵衛,左平の3名のみ.
その彼らは,津太夫が60歳,儀兵衛43歳,左平42歳になっていました.
其の後,彼らは4月半ばまで,藩医大槻玄沢の調べを受け,14年ぶりに故郷に戻りました.
大槻玄沢は,翌年に全15巻の『環海異聞』を著し,並行して対ロシアの歴史的関係を記した『北辺探事』と続刊である『北辺探事補遺』を著しています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008年03月01日21:31
こんな動物の毛皮は嫌だ
(画像掲示板より引用)
【質問】
出島でのオランダ船入港受け入れ手続きは,どのようなものだったのか?
【回答】
長崎出島にオランダ船が入港するまでには様々な手続きが踏まれました.
オランダ船はバタヴィアを出て,シャムや中国,琉球などに寄り,貿易品を積み込んで,日本への航海に就きます.
この船は黄海に入り,東シナ海からやがて九州は長崎の地に近づきます.
出島には2つの門がありました.
1つは対岸の江戸町と1本の石橋で繋がった表門,これを一ノ門とも言い,鑑札を持った人間しか出入りを許されない門でした.
もう1つは,島の西北端にある水門で,これを二ノ門とも言い,表門より大きな幅9間(16m)の構えで頑丈に木が組まれ,出入口が左右に振り分けて2つ作ってあります.
門を出ると,其処は海に張り出して石垣を築き,土を盛って平らに均した幅15間(27m),奥行き9間(16m)ほどの二揚場となっており,普段は内と外から鍵が掛けられ,しかも封印までされています.
オランダ船来港の季節とも成れば,奉行所の役人が海の方からやって来て,外側にぶら下がった鍵の封印を開けて解錠し,もう1人の役人が同じ様に内側の鍵を開けます.
南からの風が吹けば,奉行所は忙しくなり,もし,入港が普段の年よりも伸びるのであれば,諏訪神社などの寺社に命じて加持祈祷を行わねばならなくなります.
長崎へは九州西沿岸から東シナ海の方に西南方向に伸びていく野母半島,北へ延びる西彼杵半島の間を抜け,幅1km,奥行き4kmの長崎湾を通って,大小様々な島を抜けて辿り着くわけです.
1638年,天草の乱を平定した老中松平信綱が,この地に立ち寄った際,野母半島の突端にある権現山に異国船遠見の番所を設置せよ,と言い置き,これが長崎に数多く存在する遠見番所の最初となりました.
旧暦の例年4月初めには奉行所から,外国船が現れる時期故,念を入れて浦々を見張られたいと言う命令書が,御目付連名の書状がおのおのの遠見番所に送られます.
そして,オランダ船の帆柱が見えると,最初に発見した遠見番所に信号旗が掲げられ,それが,遠見番所から遠見番所に中継されて奉行所に届きます.
これを「白帆注進」と呼び,その注進が届くと,日本側のオランダ船受容れ準備が開始されます.
先ず,奉行所派遣の検使2名,配下の役人,町役人らに加え,和蘭商館から商館員2名と通詞が加わって,何隻かの小舟が仕立てられ,波止場から沖に向かいます.
年によって違うかも知れませんが,概ね検使などが乗るのは屋形付の大船,それ以外の人々が乗り組む小舟で合計8隻,これに和蘭商館の出迎え船が加わります.
沖に出て,船に近づくと,和蘭商館の出迎え船とオランダ船との間で旗を見せ合って確認し,それを日本側が確認します.
19世紀初頭までは,儀式的なもので,旗もオランダ国旗でしたが,フェートン号事件によるオランダ商館員の拉致を切っ掛けに,その旗は双方で予め決められた秘密のものに変えられました.
此の儀式を「旗合わせ」と呼びました.
オランダ船であることが確認出来れば,出港地と乗船人数をオランダ船から文書で提出させ,それを船上で通詞が翻訳して,検使に差し出します.
19世紀まではいきなり検使が乗り組んだのですが,フェートン号事件で奉行所側は慎重になったようです.
翻訳を確認した後,漸く検使がオランダ船上に乗り込みます.
船上では,検使に対し船長が,異国風説書,積荷物色立(積荷の目録)を受け取ると,直ぐに踵を返して,波止場にとって返し,奉行所へ直行して,通詞から書類を提出させます.
奉行所では,書類の封を切り,通詞に渡して和解(翻訳)を命じます.
通詞達は,奉行所から出島に赴き,和蘭商館のカピタン部屋にて,現カピタン,新任のカピタンがバタヴィアから来れば,彼も交えて,翻訳に取りかかります.
その間,漸くにしてオランダ船は湾内に入っていき,出島に入港となります.
通詞達は,その間,書類の翻訳,下書き,奉行所の内見,清書に追われ,2冊清書し終えて,新旧カピタンと通詞目付,大通詞,小通詞らの署名捺印を経て,風説書の1冊は,オランダ船入港が未の刻(14時)以前ならその日の中に,以後なら翌日に,江戸迄急送させる必要がありました.
ですので,午の下刻(13時)に長崎に着いた船なんかは,沖繋りをさせておいて,未の刻以後の入津とし,翻訳の時間稼ぎをすると言う小細工も施したようです.
碇を降ろしたオランダ船は,入港の際,祝砲として石火矢を撃ち鳴らします.
検使が再び乗り込むと,火薬を取り上げ,稲佐の煙硝倉に一時預かりとなりました.
これで荷卸し開始…ではまだない.
そして,入港翌々日,漸く,商館長は,長崎会所調役,町年寄と言った貿易業務の責任者達に,今回の船が運んできた輸入品目録の披露を行います.
送り状の翻訳も荷卸しと並行して行われています.
カピタン部屋に副商館長(ヘトル)と大通詞がオランダ語,日本語で読み上げる商品名と数量を,小通詞と会所役人が筆記し,終わると,銘酒,蜜漬,コーヒーの振舞がありました.
こうして出来た文書「本方差出和解」は,当日中に町年寄から奉行に差し出され,これで漸く,荷揚げの許可が出る訳です.
翌日,商館長はオランダ船に赴き,乗組員一同の人員点呼を行い,来港オランダ人が守らなければならない御法度の数々を読み上げて,やっと乗組員は上陸を許可されるわけです.
この御法度は,「阿蘭陀人日本エ渡来の上出嶋に於て荷役初日かぴたんヨリ末々阿蘭陀人共エ読み聞き来船列びニ出嶋水門エ張り置き候壁紙の趣」と呼ばれ,箇条書きにて,隠し商いの禁止,日本刀持ち出し禁止,日本人との金銭貸借禁止,出島内での帯剣禁止,堀を越えてはいけない,蔵の錠を壊すな,船から海に飛び込むな,酔っぱらうな,ゴミを無闇に捨てるな,日本人の不興を買うな,鳥獣を無闇に殺すな等々,奉行所の役人を横に,カピタンは重々しくこれらを読み聞かせた後,カピタン署名入りの書き付けを船内の壁に貼り,出島の水門にも張られる事になりました.
此の一連の手続きを経て,やっと荷卸しが開始される訳です.
因みに,こうした記録は様々な人々によって記録されているのですが,大田直次郎もこの地を訪れています.
彼は,直参の武士であり,能吏でした.
支配勘定の身分で,大坂銅座に1年出張赴任して,功宜しく白銀7枚を賜っていたりもします.
その後,大坂から1801年には長崎勤務を命じられ,奉行所(俗に立山御役所と呼ばれた)の隣にある目付屋敷(俗にこちらは岩原御屋敷と呼ばれた)に赴いています.
この大田直次郎,江戸では知る人ぞ知る狂歌師で,「世のなかに蚊ほどうるさきものはなし文武といふて夜も寝かさず」とか,「カキクケコ貰て直にタチツテト」なんて句を残している,大田南畝,又の名を蜀山人と言う人だったりします.
彼は,此の赴任の途次で船に乗って酷い目に遭い,「子々孫々の末迄も海船には乗らぬ事」と書いていたのですが,長崎で検使となって船に乗らなければならない,皮肉な任務を遂行していた訳です.
なお,大田直次郎は,長崎奉行所に勤務したと所々に書かれて居ますが,実は彼の役職は奉行所ではなく支配勘定ですから,目付役所の人間であり,この部署は勘定奉行に直結の役所です.
此の役割は,異国交易の公正と市中取締の厳正を目して,奉行を補佐し,彼を監視する複雑なものでした.
役所も奉行所の隣で成りは小さいのですが,重要な役職だったりします.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/08/29 23:31
【質問】
フランス革命以後の情勢は,日蘭貿易,および幕府の海防政策にどんな影響を与えたのか?
【回答】
日本貿易の旨味は,1685年に幕府が交易額の上限を取決めて以来,下降線を辿ってきました.
これは金,銀,銅の無制限の流出を抑え,国内市場を守る為に採られた政策でしたが,この為,オランダも交易に熱意を失い,1790年代になると,交易船の来港は,年1隻の割合になってしまいました.
しかし1801年になると年2隻となり,若干持ち直したかの様に見えます.
当時,フランス革命の余波によってオランダでも国王が英国に亡命し,1794年にネーデルランド連合国が崩壊します.
1795年,蘭印でも,バタヴィア共和国がフランスの影響下に誕生し,オランダの植民地は英国の保護下に入るという国王の決定に背いた為,英国は,オランダとバタヴィアの航路を断ち切るという暇に出,その結果,日本にはオランダに注文した文物が届かない事態に陥っていました.
1806年になると,ナポレオンの弟,ルイ・ボナパルトがオランダ国王となりましたが,1810年に彼は退位し,フランスに統合されました.
ところが,1813年ライプチヒでナポレオンが敗退すると,英国に亡命していた国王は復位し,オランダは独立することになりました.
最終的には1815年のウィーン体制により,ルクセンブルクとベルギーを統合したネーデルランド王国が誕生しました.
バタヴィア共和国は1811年に,英国によって占領されましたが,1816年にオランダ独立の延長として,王国に返還されました.
この様に,オランダは混乱期にあり,1800年代の初頭には東アジアでの特権的立場が崩れ始め,代わって英国の台頭が始まるわけです.
こうした状況では,日蘭間の交易船がまともに日本に到達出来ようはずもなく,1797~1807年の10年間で日本に来れたオランダ船は,1802年にMathilda
Maria号のみでした.
そこで発案されたのが,中立国の船をオランダ船と偽って貿易を継続することで,実はその間,8隻の米国船,ブレーメンの船が1隻,デンマーク船が1隻,さもオランダ船の様な顔をして長崎に入港しています.
1807年7月22日,米国東岸セイラムからの傭船,Mount
Vernon号が入港,次いで31日にデンマーク船Susanna号が入港しています.
昔,デンマーク東インド会社の日本交易を体よく邪魔した割には,掌を返した様な態度です.
Susanna号は,バタヴィアで傭船契約を結んで,綿織物,鉛,象牙,砂糖,香料などと弾薬並びに将軍や長崎奉行への贈り物を陸揚げし,銅と樟脳を積荷に長崎を出港しています.
このSusanna号はフィラデルフィアで建造され,31名が乗組み,Smit船長の指揮で,デンマークを出港し,東アジアに向い,バタヴィアには無事に到着したものの,帰りの1810年,インドで廃船となってしまいました.
1808年になると,更に英国船が長崎に侵入,所謂,フェートン号事件を起こします.
こうした内外の激変に対応する為,幕府は日本の地理的位置を確認するべく,高橋景保に命じて地図を作らせます.
高橋は先ず,長崎通詞でオランダ語以外に英仏露語を熟す馬場佐十郎と,天文暦算家の間重富に,最新の海外の地理書を翻訳させました.
そして,Arrowsmithの世界図を基盤に,3年を費やして1810年に『新訂萬国全図』を完成させました.
この地図は当時,世界的に見ても最高峰に位置するもので,その理由として,間宮海峡の記載が掲げられています.
この地図は内容だけでなく,亜欧堂田善の高度な銅版画技術により卓越したものになっていました.
特に,2つの半球の中央に日本が据えられており,周辺部に載せられているミニサイズの世界図は京都を中心に描かれていました.
永井則が1846年に刊行した『銅版萬国輿地方圖』は,この地図と1839年に作成されたKampenの地図を基に作られています.
因みにこの地図の流出が原因で,高橋景保は獄死した訳ですが.
…と,こんなにまでして海外情勢の把握に努めたのにも関わらず,外交は稚拙ですし,前にも触れた様に,松平定信政権は,海外の国が攻めてきたら如何にして上手く降伏するかを考えていた訳で.
ついでに,水野忠邦政権になると,鳥居耀蔵と江川太郎左右衞門が独自に東京湾防備案を出していたりするのですが,幕府に金がない為に,前者は,平根山・観音崎・富津に大小筒1~2門を装備した「砲船」を5隻ずつ配備,後者は,観音崎,平根山,竹ヶ岡,富津に5~50艘の端船を都合110艘配備と言うものですが,前者の「砲船」は,鮮魚運搬用の押送船の改造型,後者の端船も同様だったりします.
鳥居は,富津・旗山の防御線で台場と「砲船」を以て防戦すれば,異国線の江戸湾侵入は難しいと説いていますが,江川は,幾ら防いでも封鎖線が広すぎて侵入は不可能であるとし,本来は洋式軍艦を建造して,これに当たる事が必要と言う立場だったのですが,モリソン号事件で陸上砲撃で追い払えた為に,江川の策は退けられ,鳥居の策が或程度受容れられた事になります.
な~んか,「経済一流,政治は二流」という言葉を思い出しました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2008年03月02日21:18
【質問】
フィリピン・グアムを植民地にしてたスペインは,江戸時代中期・後期・幕末に,日本に影響を与えるような事件を起こしたりしてないのですか?
ロシアやアメリカは,時々来航したりしてますけど.
【回答】
スペインはフェリペ二世の時期が全盛期で,それ以降はどう考えても衰退期.
17世紀に入ると,ヨーロッパ内においても,新たに強国に成長し始めた英仏などの勢力に,締め上げられているような状態になる.
そして18世紀に入ると,スペインの王位継承問題を巡る仏墺の対立によって,スペイン継承戦争が起こって国内はズタズタになり,さらに18世紀末以降は,オーストリアとともにフランス革命&ナポレオン戦争に振り回される.
ヨーロッパ外のことに干渉するような余力は,正直全くない.
日本史板
青文字:加筆改修部分