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◆通史
WW1 FAQ目次
戦史FAQ目次


(画像掲示板より引用)


 【link】

「神保町系オタオタ日記」■(2009-04-29) 日記から見たスペイン風邪

「ワラノート」:やるおで学ぶ第一次世界大戦 〜開戦前夜編〜

『アラブが見たアラビアのロレンス』(スレイマン・ムーサ著,中公文庫,2002)

 作者はスレイマン・ムーサというヨルダン人.
 「アラビアのロレンス」は西洋人から見ると英雄に見えるが,逆の立場から見るとどのように見えるかと言う興味深い作品.
 従来あまり光が当たらなかった中東戦線の様相も描いているようで,面白そうである.

 ついでに作者は違うが,「アラブが見た十字軍」という本もお勧めです.

------------眠い人 ◆ikaJHtf2 :軍事板,2002/06/19

 【質問】
 第一次大戦以前の米独関係は,どういう状況にあったのか?

 【回答】
 ポール・ジョンソンによれば,当初は,アメリカのドイツ系移民は1785年頃には,全米人口の9%に達していたり,プロイセンが北軍を支持していたことなどから,アメリカは統一ドイツ出現を好意的に見ていたという.
 だが1870年以降,経済,通商,植民地,海軍力での競争により,米独関係は悪化.
 特にサモア諸島を巡る論争は,1899年の領土分割まで収まらず,後には対独不信が残ったという.

 詳しくはポール・ジョンソン著『アメリカ人の歴史』第3巻(共同通信社,2002.7),p.35を参照されたし.


 【質問】
 第一次世界大戦直前のニコライ二世とウィルヘルム二世の交換電報が載ってる本は無いかな?
 別宮さんのサイト以外に日本語で読みたいんだが.

 一応,同志が二の舞にならないように報告をすると,
ニコライ二世の日記:保田孝一・講談社学術文庫
には無かった.
 どちらかというとニコライ二世の日記を通して,その人間性を探ったもののようだ.
 ただ,大津事件に関しては詳しく書いてあるから,日露関係の資料にはいいかも.

 【回答】
http://wwi.lib.byu.edu/index.php/Willy-Nicky_Letters_between_the_Kaiser_and_the_Czar

1914分
http://wwi.lib.byu.edu/index.php/The_Willy-Nicky_Telegrams
The Kaiser's letters to the Tsar, copied from the government archives in Petrograd, and brought from Russia by Isaac Don Levine, ed., with an introduction by N.F. Grant. London, Hodder and Soughton Ltd, 1920
http://wwi.lib.byu.edu/index.php?title=Special%3ASearch&search=Willy&go=Go

 本ならこれ;
Letters from the Kaiser to the Czar, Copied from Government Archives in Moscow Unpublished Before 1920
http://www.amazon.co.jp/dp/1153237253

軍事板,2010/03/10(水)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 第一次世界大戦が始まった当初,国民は「数週間で戦争は終わる」と思っていたそうですが,これはなぜなのでしょう?
 当時は,戦争というのは相手国を滅ぼすまで戦わなかったということなのでしょうか?
 それとも相手が非常に弱いと誰もが考えていたのでしょうか?

 【回答】
 戦争を始める時は誰でも,自分の国にとって都合のいい筋書きを想定しているのです.
「クリスマスまでに終わる」といって始まったはずの戦争が,何年も何年もダラダラ続くなんて話はよくあることで,第一次大戦に限った話ではありません.

 第一次大戦の場合,戦争が長期化した一因に兵器の,特に野砲の性能向上があるそうです.
 そのせいで塹壕から出ないから戦争が長期化.

>当時は戦争というのは相手国を滅ぼすまで戦わなかった
というのは,あながち間違いではありません.
 日露戦争,米西戦争,ボーア戦争,バルカン戦争と,第一次大戦前の欧米の戦争は,相手国を滅ぼすまで戦ったりはしませんでした.
(アジアやアフリカで植民地を建設する時は別.その場合は容赦なく在地勢力を滅ぼしましたが)

世界史板


 【質問】
 シベリア出兵って何?

 【回答】
 シベリア出兵 Siberian Intervention は1918〜1925年,連合国が
「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」
という大義名分でシベリアに出兵した,ロシア革命に対する干渉戦争の一つ.
 日本が兵力7万3000人(のべ人数では22万人),アメリカが7950人,イギリスが1500人,カナダが4192人,イタリアが1400人の兵力を投入したが,各国の政情とその政略目的に大きなくい違いがあり,各国にとって意味のない出血に終わった.
 殊に日本は,事態の見通しと撤兵時期を大きく見誤り,酷寒の地での苦闘と2千余の生命,9億余の戦費を無にしながら軍事的,政治的にほとんど得るところなく撤兵した.

 【参考ページ】
http://ww1.m78.com/sib/siberian%20expedition.html
http://yokohama.cool.ne.jp/esearch/kindai/kindai-siberia.html
http://www.c20.jp/1918/08siber.html
http://kids.gakken.co.jp/jiten/3/30023370.html
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1110918236

【ぐんじさんぎょう】

1918〜24年のシベリア出兵時の組み写真

 おそらくウラジオストック上陸後の各国部隊の集合写真と思われますが,日本海軍陸戦隊や米軍,仏軍に混じってなんとイタリア・カラビニエリ(軍警察)部隊の集合写真が!!

 いやー,これは大収穫!

 立ち襟に,グレー迷彩カバーを掛けたカラビニ独自のイカ太郎帽,まだ一次大戦直後なのでベルトの左右に付けた弾薬嚢など,見せてくれます.
 それにしてもこの連中は,上海か北京駐留部隊から連れて来られたものなのか,今後の調査が必要ですね.

 もともと上海には在留イタリア人保護の目的でサン・マルコ海兵部隊やベルサリエリ部隊が駐留していたので,カラビニエリも居たとは思いますが,まさかウラジオにも居たとは意外でした.

 今もユーゴやイラクの紛争地帯にまっ先に送り込まれるのは,カラビニエリ空挺だったりしますね.
 伝統は続いている訳です.

 こういう物が売られているので,コンベンション通いは止められない….

 そして更にハンティングは続く(^。^)y-.。o○

よしぞうmaro' in mixi,2007年05月28日02:26
〜05月28日 20:43

シベリアにも出兵した試製(軽)装甲車写真
これは輸入トラックを改造して1輛だけ作られたタイプかと思われます

よしぞうmaro' in mixi,2007年09月15日21:50

シベリア出兵各国兵士軍装一覧絵葉書
イタリア軍がカルカノ/・ポーチを左右に付けているのも珍しいのですが,チェコ軍装も珍しい

よしぞうmaro' in mixi,2007年10月05日18:46


◆◆開戦原因


 【質問】
 第一次世界大戦の原因は,
●世界を動かしていた植民地帝国イギリスに対し,新しく力を持ってきたドイツが資源と植民地を求めて戦いを挑んだ
↑色々調べた結果,こんな感じで合ってるのかなと思ってるんですが,他に何かあったら是非教えてください.

 【回答】
 第一次大戦の原因は植民地や資源や経済じゃないぞ.
 そもそもドイツは英国が中立化することを期待していたし,英国議会もドイツがベルギーの中立を侵すまでは,戦争に消極的だった.

 大戦に至る原因は大小様々にあるが,大きいのはドイツ統一後のナショナリズムがもたらした他国との不和と,当時のヨーロッパのパワーバランスそのもの.

ドイツ・・・仏露2つの隣国を同時に敵にしたら勝てないと思い込んだ
フランス・・ドイツより人口が少ないので単独で戦争になったら負ける
ロシア・・・ドイツ・オーストリアより工業力が劣っており単独では(ry
英国・・・・ドイツかフランスがこれ以上強大化したら本国の安全保障が脅かされる

 この構図が何十年も続いており,様々な外交が展開され,植民地より本土が大事ということで,英仏が数百年の対立に終止符を打ち,ナショナリズムが原因でドイツは英仏露を次第に敵に回し,そして最後に”運悪く”破綻した.
 ロシアはブラフのつもりで総動員を始め,それが引き金でドイツは自国を守るためフランスに先制攻撃をかけ,イギリスはベルギーを渡さないために参戦し,最初の原因だったはずのオーストリアは,何が起こってるのか分からないまま流されていく.
 ロシアは,対墺動員だけなら恐らく戦争はなかったが,それではドイツに対し無防備になる.
 ドイツはシュリーフェン・プランの都合上,ロシアが対独動員を始めたら自動的にフランスに宣戦するしかなかった.
 ニコライ2世とヴィルヘルム2世の往復電報には,戦争をする気も無いのに,互いの事情がよく分からず,戦争に向かっていく悲哀がよく表れている.

(世界史板)


 【質問】
 第一次大戦は,軍拡競争の果てに,それが原因で戦争になった例だと言えるのでは?
 第一次世界大戦前のイギリスとドイツの建艦競争が,イギリスのドイツに対する猜疑心を高め,容易に発火しやすい状況を作り出したのでは?

 【回答】
 第一次大戦の開戦原因に英独関係はごく小さい関係しかないでしょう.

 英国がどっちに付こうが,仏露に攻め入ることはドイツの既定路線でしたから.
 少なくとも,シュリーフェン計画の内容を見る限りではそうです.

ゆきかぜまる & JSF(青文字部分) in mixi
黄文字:補修部分


 【質問】
 サラエヴォ事件について,4行で教えてください.

 【回答】
 第一次大戦の導火線.
 1914/06/28,オーストリア=ハンガリーの皇太子,フランツ・フェルディナント夫妻が、当時オーストリア領のサラエヴォにて暗殺された.
 暗殺したのは民族主義結社「黒手党」に属するセルビア人,ガヴリロ・プリンツィプ.
 これがきっかけとなって第一次世界大戦が勃発したという,傍迷惑にも程がある事件.

【ぐんじさんぎょう】, 2013/12/03 20:00
を加筆改修


 【質問】
 1914年にサラエボで,オーストリア皇太子がセルビア人テロリストに暗殺されなければ,第一次世界大戦は起きなかったのか?

 【回答】
 「第一次世界大戦」はともかく,オーストリアとセルビアの戦争はほぼ不可避だったのではないだろうか.
 オーストリア皇太子・フランツ・フェルナンド大公の暗殺は,口実であり,本質的な理由は,バルカン半島における,ナショナリズムの台頭・高揚であった.

 以下,ナイ教授の文章を引用.

「最終的にオーストリアはセルビアに対して開戦するが,セルビア人テロリストによるフランツ・フェルディナンド大公の暗殺が,その理由だったのではなく,セルビアを弱体化させ,バルカンのスラヴ民族のナショナリズムの磁力の中心にさせまいとしたことが理由だったのである.」

「オーストリアの参謀総長,コンラート将軍派,明確にその意図開陳している『暗殺への復讐ではなく,まさにこの理由で,オーストリアはセルビアに対し剣を抜かざるを得なかった(中略)我が帝国は,首筋をつかまれていた.絞殺されるのを許すか,最後の力を振り絞って滅亡を阻止するかの選択に迫られていたのだ』ナショナリズムによる帝国崩壊(の懸念)が,戦争の親の直接原因であった」

 また,これが世界大戦に発展したのは,ドイツの「シュリーフェンプラン」が,鉄道の発達により,破綻するという,ヴィルヘルム二世の恐怖が(自業自得ではあるのだが),オーストリアへの全面支援の表明を呼び,これが世界大戦への発展へのきっかけともなった.

 詳しくはジョゼフ・S・ナイ教授「国際紛争」(有斐閣,2005.4)第3章を参照されたし.

 補足.
 そもそも,シュリーフェンプランは破綻してると思うんだが・・・シュリーフェンは「軍事」に限定して,作戦を考える人だからなぁ.

「いずれにせよ彼は自らの職務にさえ忠実でありさえすれば,なすべき義務は果たしたと考える軍事技術者,テクノクラートであった.
このことは,二つの問題点を引き起こした.第一は政治に対する無関心であった.参謀総長はカイゼルの筆頭軍事顧問である.だが,総長たるシュリーフェンは,カイゼルの冒険的な世界政策がもたらす軍事的な危機について,警告することもしなかったし,ベルギーの中立を侵犯することが世界世論において,どのような批判をドイツが被るのかについて,顧慮することもなかった」
 「戦略思想家事典」(芙蓉書房出版,2003.10),204ページより引用.

ますたーあじあ in mixi

 ナイ教授以外の資料で同様の記述を見つけましたので,補足として紹介させて頂きます.
 簡単に言うと…

墺「セルビア人が,汎スラブ主義の旗印となって反抗しないかな…」
墺「でもセルビアは友好国だし大丈夫だろ,たぶん」

 1903年,親墺だったセルビアの国王が暗殺され,反墺な人が国王になり,セルビアは親仏・親露に走り出す.

墺「…(・・;)」

 1906年,墺はセルビアからの豚の輸入をストップ.(←豚戦争)
 しかし効果は無く,セルビアは墺から離反…

墺「……(〜〜;)」

 1908年,墺はボスニア・ヘルツェゴビナを併合.スラブ系から反発を買う.

墺の軍部「スラヴうぜー! セルビアうぜー!(`Д´メ)」

という経緯があった.

 以下引用.

 しかし皇帝は不安をぬぐえなかった.彼ら(セルビア人)が不満をつのらせ,そのうち汎スラヴ主義をかかげるようになるのではないか,とおそれたのである.

 この恐れは,ボスニア・ヘルツェゴビナを占領・併合した後は,当然大きくなった.
 とはいえ帝国がセルビア人を支配している間は,すべてうまくいくように思えた.カールノーキーは1881年にこう述べている.
「いかなる手段をとるにせよ,もしセルビアがわが国の勢力下にあるならば,あるいはもっと望ましくは,もしセルビアをわれわれが支配しているならば,ボスニアと住民をわが国が所有することについても,下ドナウとルーマニアにおけるわが国の立場についても,心配は無用となる.
 その場合にはじめて,わが国がバルカン諸国におよぼす権力基盤が固められ,重要な利害が一致するだろう」

 しかし1903年,ベオグラードでオブレノヴィッチ王朝が倒され,1906年に豚戦争が勃発し,1908年ボスニア・ヘルツェゴヴィナが併合され,セルビアとロシアがその後屈服すると,帝国がこうした立場からすべり落ちたのはあきらかだった.
 こうなると,軍部,とくにコンラートは予防戦争を迫った.

「図説ハプスブルク帝国衰亡史―千年王国の光と影」(アラン・スケッド著,原書房,1996.5),p295

 後は長くなるので省略しますが,この本によると,それでもまだコンラートのようなセルビア先制攻撃論を抑えることができており,それが皇太子暗殺によって皇帝も吹っ切れたようです.

 またこの本では,帝国のこういったスラブへの恐れを痛烈に皮肉ってます.
 同書p291より引用――

 しかし最後の最後まで,皇帝軍は戦い抜いた.
 11月3日と4日に,皇帝軍のうち35万人から40万人がイタリア軍に降伏したが,ドイツ系オーストリア人はわずか3分の1にすぎない.
 残りはチェコ人とスロヴァキア人が83000人,南スラヴ人が61000人,ポーランド人が40000人,ルテニア人が32000人,ルーマニア人が25000人,イタリア人が7000人だった.

 イシュトヴァーン・デアークによれば,
「これが最後の皮肉だった.つまり,ハプスブルグ帝国のために戦った最後の軍隊は,スラヴ人とルーマニア人とイタリア人がほとんどだった.理屈のうえでは,これらの人たちは連合国側に立っていたはずなのだ」
(略)
 最後まで戦っていた兵士の大半は,南スラヴ人だった.

使徒むーちゃ in mixi

▼ 国際紛争第7版の仮想現実を元に論を組み立てると,大体以下のとおりになる.
(尚,第5版から大きな変化はないと思う)

 まず,これを語るには,口実である「フランツ・フェルディナンドの暗殺」というファクターから,逆算する必要がある.
 もちろん,フェルディナンド暗殺は単なる口実であり,WW1の大きな要因とは言えない.

 ただ,口実がなく,そのまま2年間過ぎていたら,ドイツの「シュリーフェンプラン(改版)」は確実に破綻する.
(最初から破綻しているという突っ込みはナシで)

 理由:「ニ正面作戦」自体が鉄道の発達により,全く成り立たなくなるから.

 こうなると,ドイツも
ニ正面を相手取って戦う=いきなりの戦線拡大
の可能性が相当減少するのではないだろうか?

 といいつつ,第二帝国参謀本部の連中が,それを指をくわえてみているかは微妙.
 何かしら口実を見つけて,開戦に踏み切らざるを得ないようにするかも知れず.

 次にイギリス.
「当時,イギリスはアイルランドに大きな問題を抱えており,もう2年あれば,イギリスは国内問題で,仏露と協調を取れなくなったのではないか?」
という可能性.

 ただし,イギリスはヨーロッパに覇権国家を作らないっていうのがドクトリンだから,ドイツを放置するとは考えにくい.
(当時のアイルランド問題について詳細を知らないので,どれくらい深刻なのかがわからないです)

 ここまでが「戦争」自体が起こらない可能性.

 正直,これは可能性が低いと思う.
(ただ「確率が高い」=「確実ではない」ということをナイは言いたかったのだと思う.
 結局は,他の選択肢を放棄したということを強調しているように思える)

 次に,「戦争」が世界大戦に発展しない可能性だが,これは確率がそれなりに高いと思われる.
(これも「2年間開戦が遅れていたら」という,仮定の元で話す)

 この戦争の直接的原因は,オーストリアの対セルビア予防戦争なんだけど(だから,ロシアが動員を始めたわけで)ドイツがオーストリアに全面支援を表明しなかったら,単なる「オーストリアvsセルビア」の局地限定戦争で済んだのではないだろうか?

 この時点で,ドイツは2正面作戦を放棄せざるをえず,2極化していた同盟にも,何かしらの変化が起きた・・・
 すくなくとも,両方を同時に相手取って戦うという可能性は,相当低くなっているはず.

 予想として,オーストリアvsセルビアの限定戦争で,ロシアとドイツが口を出してきて適当なところで手打ち,というのが精精じゃーなかろうか?

 そもそも,ヴィル閣下は戦争に耐えられるほど神経太くないし.

 第3に,「単一方面戦争」の可能性.

 ドイツはシュリーフェンプランに固執したが,これは小モルトケとか軍部の意向が相当に強いと思う.

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 ロシアが軍隊に動員をかけると,ドイツも動員した.
 カイザーはフォン・モルトケ将軍に,東側正面だけに戦争準備をとどめることはできるかどうかを尋ねた.
 フォン・モルトケは,部隊および補給品の集合の計画に変更を加える事は兵站に対する悪夢であるとして,それは不可能と答えた.

(略)

 しかしながら,戦後になってドイツ陸軍の鉄道部門を担当していたフォン・シュターブ(Von staab)将軍が認めたところによれば,動員のスケジュールを滞りなく変更する事は,実は可能だったかもしれないのである.
 カイザーがこれを知って主張し続ければ,1正面だけの戦争に終わったかもしれない.
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

※ これに関しては,正直疑問がある.
 カイザーの力だけで,参謀本部が動かせたとは考えにくい.
 ドイツの皇帝は,ロシアのツァーほどの権限は持っていないし,ボンボンのヒステリー皇帝の言う事を参謀本部の連中が聞き入れたかどうかは・・・.

 第4の可能性として,イギリスが参戦しない状態でのニ正面作戦.

 ・・・まぁ,しかしこれはベルギーを通り道に使った時点でないな.
 うん,色々書いているけど,ナイ教授の書き方自体も消極的だし,俺もこれはなかろうと思う.

 最後に,これはいいまとめだと思うので,引用する.
 第五版よりも洗練されている感じ.

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 第一次世界大戦は,既に多くの神話ができあがっている,
 例えば,第一次世界大戦は偶発的な戦争だったという人がいる.
 しかし,第一次世界大戦は純粋に偶発的だったわけではない.
 オーストリアは意図的に開戦した.
 それに,どうせ戦争をするのであれば,ドイツは後でするより1914年にしてしまおうと考えていた.
 戦争の期間がどれくらいになるとか,どの程度深刻なものとなるのかについて計算違いがあったことは確かであるが,それと偶発的戦争とうことは違うのである.

 また,この戦争がヨーロッパの軍拡競争の結果とて起こったという見方もある.
 しかし1912年までに軍拡競争は終わっており,イギリスが勝っていたのである.
 ヨーロッパで軍隊の強大化についての懸念があったことは確かだが,この戦争が軍拡競争から直接に引き起こされたという見解は,あまりにも単純である.
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 問題は,硬直化した同盟がどう変化するか?ということになりそう.
 ドイツがもし,シュリーフェンプランを放棄するとしたら,世界はどうなっていたのか大変興味がある.
 仏・露によって閉塞状況に陥ったとしても,経済では大成長していたドイツが,それによって膨張が止まるのか?
 仏と英の植民地問題はどうなるのか?
 ロシアの国内状況は?
 これらのファクターを考える必要はある.

 ただ,ヨーロッパの全土が戦火に巻き込まれ,数千万人が(スペイン風邪の影響が大きいとは言え)犠牲になるような戦争は避けられたのではないか.

 そして,そうなるとWW2自体も,あのような形では起きなかったのでは?
 仮想現実は,危険ではあるが,蓋然性から組み立てると,それなりに合理性があると思う.

ますたーあじあ in mixi,2009年07月27日22:04


 【質問】
 皇太子の暗殺は「口実」だったんですか?

 【回答】
 少なくとも暗殺事件以降,オーストリアは最初からセルビアに戦争をしかけることを前提に最後通牒をしていますね…

 以下,「図説ハプスブルク帝国衰亡史―千年王国の光と影」(アラン・スケッド著,原書房,1996.5),p287より引用――

 あるハンガリー歴史学者によれば,ティサはセルビアの反応が交渉で解決できると思っていた,という.表向き,ベルヒトールトの言葉からはそうとしか思えなかったのだ.
 しかしベルヒトールトは,この最後通牒がかならず拒否されるよう細心の注意を払っていた.かならず戦争に突入させるため,彼はベオグラード駐在大使に「単純明快な」受諾を要求させた.

同じく,p276より引用――

 後にベルヒトールト夫人はこう語った.
「かわいそうにレオポルトは,セルビアに最後通牒を送った日には眠れませんでした.セルビアが最後通牒を受け入れるかもしれない,と気をもんでいたのです.夜中に何度も起きあがって,絶対受け入れられないように言葉を変えたり,つけくわえたりしてました」

使徒むーちゃ in mixi


 【質問】
 「オーストリアとセルビア」の戦争が,第一次世界大戦に発展しない可能性はあったのか?

 【回答】
 十二分にあったと言える,原因の多くは,皇帝ヴィルヘルムに帰せられるだろう.

 1890年代には,ロシアが全ての軍隊をドイツ国境に輸送するには,少なくとも2,3ヶ月はかかった,
 この時点では,シュリーフェンプランはそれなりに妥当性があったと言える.
 しかし,1910年には,この時間は18日にまで短縮された.
 1916年になれば,もはや二正面作戦の時間そのものが消滅し,ドイツは,二正面作戦を放棄せざるを得なかっただろう.

 逆の見方をすれば,1914年に暗殺が起きず,1916年まで戦争が起きなければ,ドイツは二正面作戦を放棄せざるを得なかったはずである(それ以降にオーストリアとセルビアは戦争になった可能性は高いが).

 イギリスの歴史家A.J.P・テイラーに至っては,戦争さえなければ,ドイツはヨーロッパの覇権さえ握っていたかもしれないと主張している.
 ドイツは圧倒的な力を持って,フランス・イギリスはそれに対抗できなくなっていたという理論だ.

 余談ではあるが,ヴィルヘルムの問題行動をもう一つ上げておこう.

 以下,ナイ教授の文章を引用

 「初期にカイザーは,1908年-1909年のボスニア危機の再演を考えていた.
 この危機の時には,ドイツがオーストリアを支援し,その結果,オーストリアはバルカンからロシアに手を引かせることに成功した.
 1914年にカイザーはオーストリアに全面支援を約束し,これですんだとして彼は休暇をとって出掛けた.
 かれが船旅(クルーズ)から帰ってみると,オーストリアは何と彼の残していった白紙小切手にセルビアへの最後通牒を書き込んでいたのである.
 これに気が付いたカイザーは,八方手を尽くして戦争が拡大しないようにした.
 (省略)
 もし彼の工作が成功していれば,この戦争のことを第一次世界大戦という名で記憶するのではなく,1914年8月のオーストリア=セルビア戦争と言う小戦争として記憶することになったであろう」

 ・・・伍長閣下もそうだが,ドイツ人って・・・.
 まぁ,他に要因もあるけど,やっぱりヴィルヘルムに要因の大部分があるとしか思えない.

 詳しくは 詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授「国際紛争」(有斐閣,2005.4)第3章を参照されたし.

ますたーあじあ in mixi

 おそらく皇太子の暗殺だけなら,セルビアに適当に粘着して終わったでしょう.戦争しようにも金がありませんので(笑).
 最終的に開戦の決断をさせたのは,やはりドイツの支持が取り付けられたからのようです.
 ドイツが「ロシアの膨張を食い止めるには今だ」と思ったのと同様,オーストリアも「バルカン問題でドイツの助力を得るのは今しかない,今を逃さず敵(セルビア)を排除すべし」と思い込みましたので…

 以下,アラン・スケッド著「ハプスブルグ帝国衰亡史」(原書房,1996.5),p284より.

 一九一四年にルーマニアとロシアが和解したことは大きな脅威だが,最も気になるのはドイツの態度で,一九〇九年以来変化したのはまぎれもなかった.
 いまではドイツは独墺二国同盟のことなど忘れたようで,トルコとバルカン諸国において,経済面で帝国とはりあっていた.
 また戦争の際も援護せずじまいで,援護する代わりに,軍事介入をすべきでないと言ってきた.
 オーストリアが介入したので,第一次バルカン戦争後,ドイツはブルガリアに対する支援を拒否した.また領土にかかわる講和条約を実行する責任も引き受けようとしなかった.
 そこで一九一四年七月,オーストリアの外務局はドイツへの苦情を書き並べ,もしドイツがやり方をあらためないなら二国同盟は更新しない,と暗に脅しをかけてベルリンに送りつけようとした.
 しかしこの覚え書を送る前に,新たな危機が発生した.ボスニアの首都サライェヴォで,皇太子フランツ・フェルディナント皇太子夫妻が暗殺されたのである.

(中略)

 開戦擁護の根拠は何か? まず第一に,暗殺事件によってオーストリアは道義的に有利な立場に立ったということがある.
 けれども犯人の証拠が不十分である上に,宣戦布告までに一カ月がたってしまっては,有利とはいえない.
 戦争は拡大しないだろうという希望もあった.しかしこれも一カ月遅れたためにあやしくなった.

 開戦を決定した本当の理由は,ドイツが支持を申し出たことである.
 バルカン諸国にかんするかぎり,こんなことは二度とあるまいと思われた.
 実際,奇妙にもたがいに状況は似ていた.ドイツも孤立をおそれていたのだ.
 もしこのチャンスに乗じて敵をつぶしておかなければ,ロシアが一九一七年に再軍備を最大にすると,ドイツ軍はヨーロッパで自由に動けなくなるだろう,というおそれもあった.
 したがって,バルカン諸国におけるオーストリアと,全ヨーロッパにおけるドイツは,ある意味で同じ立場にあると思われた.
 こうして,戦力を強めつつある敵国を前に,両大国はできるうちに戦争に突入する決定を下した.これだけではない.
 両国が戦争に出ざるをえなかったのは,外交政策がつたないことも大きな理由だった.

使徒むーちゃ in mixi


 【質問】
 コンラート将軍の様な勢力と,そうでない勢力が均衡状態だったのですから,「あの時点で」テロが起きなくても,結局のところ,何らかのテロがあり,それに対する紛争がおきた可能性はかなり低いのでしょうか?

ますたーあじあ in mixi

 【回答】
 とても微妙なラインのため,「こうなっていただろう」という予測は,どうとでも言えるので否定も肯定もできません.
 ただ…コンラートの対セルビア予防戦争論は,皇太子暗殺が起こるまでは却下されており,防ごうという意図があれば防げたレベルであると思います.
 たしかにセルビアは,オーストリア帝国のボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合に反発して軍の総動員までしていますし,それはコンラートの「セルビアはもう武力で分からせるしかない!」という強硬論の原因ともなっています.
 しかしセルビアはロシアの助力が得られないと分かると,結局はオーストリア帝国に屈服しています.

「セルビア,必死だな(失笑)」
という態度で臨むのがベターだったのでは.
(それ以前にボスニアを併合する必要性があったかどうかも怪しいですが.ロシアの援助がないとセルビアのボスニア併合はどのみち不可能ですので.)

 セルビアにしたところで,軍部は大セルビア主義に汚染されていましたが,政府は必ずしもそうではなく,少なくとも穏健派との協調を目指せば脅威を減らせれる可能性はあったと思います.

 外交でロシアとの修復不可能な不仲(とオーストリアは思った)に頭を抱えているところに皇太子暗殺がおきて,
「セルビアに対して道義的に優位に立てる」
「ドイツの援助も得られる」
「前から何かと生意気なセルビアを,徹底的にボコるチャンスがきた」
という誘惑に負けたのだろう,と思います.

 しかも,ロシアの参戦で世界大戦になる可能性についてはある程度理解しておきながら,
「相手(ロシア)が世界大戦を避けようとして譲歩してくれるだろう」
という無責任さでした…

注)
 ・ゼルビアはボスニア・ヘルツェゴヴィナを自国の領土と主張しており,オーストリアの併合(当時すでにオーストリアの行政管理下にあり,名を実にあわせただけとも言える)に対して激しく反発した

 ※オーストリア帝国史に詳しい方,違っていたらツッコミよろしくです

使徒むーちゃ in mixi


 【質問】
 第一次世界大戦の頃の各国の戦争計画が硬直していた理由に,鉄道のダイヤが挙げられていましたが,総動員と鉄道のダイヤにはどんな関係があるのでしょうか?

 【回答】
 ダイヤを単に時刻表と勘違いしてない?
 ダイヤ(ダイヤグラム)ってのは鉄道の運行計画を図示したもの.
 この場合は単に運行計画のことを指している.

 総動員計画のある国なら,平時のダイヤが総動員を考慮したものになっている.
 鉄道ってのは路線の接続や相互乗り入れがあったりして,運行計画を立てるのは結構手間.
 ましてや総動員のための運行計画なんて一度立ててしまうと,細かい変更は不可能なわけ.
 当時は鉄道の運行は蒸気機関車で,石炭の手配も大変だったからね.

 機会があるなら,日本の鉄道路線のダイヤグラムを見てみな.
 こいつに兵員や兵器,物資の輸送を割り込ませるんだから,綿密な計画がないと大混乱に陥る.
 JRでも青函トンネルと瀬戸大橋線開通以降で全国規模の大幅大や改定がないって事を考慮すれば,ダイヤの変更が難しいものと分かるはずだ.

 そしてWW1のヨーロッパだと,兵隊の移動から補給まで鉄道に依存してる関係上,駅が補給拠点になって,そこから,物資を持ってける範囲でしか戦ってなかったんだよ.
 だから,総動員しても鉄道ダイヤが乱れてると,前線に兵力を持っていけないんだよ.

 ただ,計画そのものに間違いが無いかと考慮する必要性はある.
 例えば第一次大戦時のオーストリアの動員計画は,兵員輸送の際に安全性を考慮して運行速度を落としていたとか,主要幹線鉄道をラッシュ時の混雑を避けてあまり利用しなかったとか,不備な点が幾つかあったりする.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 第一次世界大戦においてドイツやフランスは,シュリーフェンプランやプラン17のように,かなりトンデモな戦争計画を持っていましたが,他の国はどうだったのでしょうか?

 【回答】
 差はあれど,第一次世界大戦に参加した国々は似たような戦争計画を持っていた.
 共通していたのは皆,総動員の計画が第一であった点.
 シュリーフェンプランやプラン17が他国と比較して特異なのは,動員後,積極的に軍を敵国に進軍させている点.
 他の国は動員後は国境線に配備させる程度だった.

 ただし,イギリスは明確な戦争計画や動員の計画は持っていなかった.
 強いて言うならフィッシャー提督のバルト海作戦が戦争計画のひとつと言えるかも.
 個人の提案と言うか妄想に過ぎないが.トンデモ具合は前述のものを超越している.
 google検索してみれば,その詳細は分かる.

軍事板,2005/06/25(土)
青文字:加筆改修部分

 オーストリアとか,ロシアも開戦後どうするかという計画はあったものの,基本的に「鉄道を用いた動員計画」が全てだったと言われております.
 どうやら普仏戦争で,ドイツが鉄道を利用して動員しフランスに勝ったのがよっぽど印象に強かったのか,とにかく動員さえ敵国より早く終われれば戦争に勝てると思っていた模様.
 まあ,4年間も塹壕戦,総力戦が続くとは誰も想像せず,ナポレオン時代みたいに大平原に大軍が終結して,一〜二回会戦をやれば勝敗がつくと思っていたので仕方ないですが.

 とりあえず一番有名(であろう)参考文献:
バーバラ・タックマン「八月の砲声」
 ヨーロッパ各国が大した見識もなしに大戦になだれ込む様子がよく分かります.

軍事板,2005/06/25(土)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 第一次大戦は,列強の植民地の奪い合いで起きた抗争じゃないのですか?

 【回答】
 植民地を含めた勢力圏のせめぎあいが背景にあったことは確かだが,別に植民地の奪い合いを直接原因として勃発したわけじゃない.
 どの国も積極的に戦争を拡大しようとしたわけではなく――積極的に戦争を回避しようと努力した国もないが――,短期戦を想定していたのに,大戦になってしまったという意味で,「何が原因で起きたのか分からない」という評価になる.
 大戦に至った経緯が,動員合戦から始まって,戦時計画に基づいてまるで自動的に戦争に突入してしまったような感覚で,各国の当事者の思惑を超えてしまったのだから.
 直接の原因はオーストリア皇太子がセルビア人に暗殺されたのが発端だが,オーストリア皇帝が珍しくブチギレしてドイツを道連れに宣戦布告して,意固地になって戦い続けて,そうこうするうちに「敵の敵」やら「味方の敵」やら,いろんな国がわらわらと参加してなしくずしに「世界大戦」化していったから,どうしてそうなったのか当事者にもわからないという結果に.
 最初は単なる局地戦で短期決戦で終わるつもりだったのに.

 だから,よく言われるのは,
「軍事同盟が複雑に絡み合っていて,一国が戦争を始めるとその同盟国が自動的に参戦することの連鎖反応で,ヨーロッパ全体が戦争になってしまった」
という説明.
 もともと,各国の政治家にとっては,その複雑な軍事同盟は戦争をするためというより,できるだけ戦争を回避し,もし戦争が始まったら孤立せず自国に有利に展開させるための同盟のはずだった.
 実際に条約や密約に基づいて動員令や戦争準備を始めても,開戦するかどうかは,最後までコントロール可能と考え,また戦争が始まっても都合で停戦は可能と考えていたのに,一旦はじまると各国の軍はそれぞれの仮想的の開戦準備状況に対応して相互にエスカレートしていき,政治家から見ると追い込まれるような形で開戦せざるを得なくなり,あとは収拾がつかなくなったというのが実態.

 簡単に言えば,
「敵の敵だから援軍を送ります」
「敵の敵の敵の領地がガラ空き,獲得のチャンス!」
「なにやらわからない連中が来た,攻撃」
「味方だと思っていたのに攻めてきた,全滅させたれ!」
「であの国を滅ぼした暁には分割しましょう」
「貴国は来週から敵国となります,おたっしゃで」
「反乱が起きました,革命です」
「敵の敵の敵に向かって突撃!!」

世界史板


 【質問】
 WW1は,いわゆる「帝国主義の戦争」なんでしょうか?(’’*

 少なくともおっぱじめたオーストリアには,セルビアを併合する気なんか無く,ただただ脅威を潰したかっただけだし.
 動員かけたロシアだって嫌々だし.
 ドイツだって頭にあるのは「とにかく勝つには即効で動員」だし.
 フランスは受けて立っただけだし,英は独が巨大化してほしくなかったからだし.

 ただ途中から参戦してきた連中は,領土拡大のチャンスと燃えていたし,二枚舌もあったけど.

 少なくとも列強の間には,最初から列強同士の戦争を望んでいた国なんか皆無だと思う.

むーちゃ in mixi

 【回答】
 「戦争を望んだ」かどうかはともかくとして,3B政策やら,モロッコでの領土問題を見ていると,ドイツに関しては,少なくともそう思われてもしょうがないんじゃないかと.

 我らがヴィルたんは,そうする事でイギリスへのバランス・オブ・パワーを取ろうとしたんだけど,それがお互いの敵視を深める結果になった・・・と.

 オーストリアにしても,自らの「帝国」を維持せんがために「戦争」を仕掛けようとしたのでは?
 領土拡張はともかくとして.

ますたーあじあ in mixi


 【質問】
 第一次世界大戦は,連合国側が「デモクラシー対オートクラシー」と意義付けていた,という記述を参考書か何かで読んだのですが,これは「デモクラシー」が連合国で,「オートクラシー」が同盟国ということでしょうか?

 【回答】
 それで正しいです.

 第一次大戦は,なぜ発生したのかいまだに議論があるほど,「誰も望んでいなかった戦争」なのです.
 しかもヨーロッパ諸国,とりわけ英仏にとっては,第二次大戦と比べて比較にならない大量の戦死者を出した悲惨な戦争でした.

 このため,何のための戦争なのかを国民に説明する必要があり,たまたま同盟国側の政治体制がドイツ,オーストリア・ハンガリー,トルコとも,帝政であることを取り上げて,民主主義と専制軍国主義との戦いと位置付けた,ということです.
 もともと,政治体制の違いで対立していたわけではないですし,戦前は協商国側にもロシア帝国が存在していたわけで,後から言い訳として持ち出した論理にすぎません.

世界史板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 フィッシャー論争って何ですか?

 【回答】
 1960年前後,ハンブルク大学のフリッツ・フィッシャーによる第一次大戦期ドイツの戦争目的政策に関する研究に端を発する論争のこと.
 それまでの伝統史学が
「バルカン半島の局地紛争が,サラエボ事件を契機に世界戦争へと発展し,ヨーロッパ列強はそれらに引きずり込まれたのであって,特定の国家に勃発の責任を帰することは出来ない」
としていたのに対し,フィッシャーは
「ドイツは第一次大戦の勃発に明白な責任あり」
とのテーゼを立て,宰相ベートマン=ホルベーグの戦争目的政策からルーデンドルフの併合政策,第2次大戦期の侵略政策にいたるまでのドイツの積極的な紛争への関与を提唱.
 このドイツ第二帝制から第三帝国までの連続性を認めるフィッシャー論は,ヒトラーと第三帝国は否定するが,ビスマルクと第二帝制を擁護するドイツ伝統史学の潮流とは対立する思想であり,保守派の歴史家からリベラル派まで広く批判を受けることになった.
 西ドイツでは連邦議会や政治家までもが論争に介入し,戦後(冷戦時代)ドイツにおける世代間のナショナリズムの変化と伝統史学に対する史料批判,新たな社会史の構築の必要性を象徴する事件となった.

 詳しくは『歴史学事典6』pp.540-541を参照されたし.

世界史板


◆◆戦後


 【質問】
 第一次世界大戦では毒ガスも戦車も飛行機も決定打となっていないそうですが,それなら何が決め手となって勝敗が決まったのでしょうか?

 【回答】
 武器弾薬の製造能力,人員の動員数,それらを動かすインフラ,資本力と言った総合的な国力,その全てが世界最強であったアメリカが参戦したから連合国側が勝利しました.
 厳密には無制限潜水艦作戦に怒ったアメリカが参戦した際に,
「アメリカが本格的に参戦したら絶対負ける
 →なら今の内に勝負を決めないとマズイ」
と言った感じで,焦ったドイツが攻勢を仕掛けて失敗してしまったのが,決定的な敗因となっています.
 この敗北で,攻勢前はほぼ互角だった兵力差が一気に逆転してしまった為,銃後の反乱を含めて一気に前線が瓦解していしまいました.
 第一次世界大戦において,極一部の例外を除いけば攻勢を仕掛けた側が負けると言う構図が展開されていますので,その不文律を犯さざるを得ない状況に追い込まれた時点で,ドイツの敗北は決定付けられていました.

ue◆WomMV0C2P in 軍事板

 詳しいことは,A.J.P.テイラーの名著が出てるんで,それを読みなさい

軍事板


 【質問】
 第1次大戦後当時の集団安全保障の概念は?

 【回答】
 アメリカ大統領,ウッドロー・ウィルソンが考えた,国際秩序のシステムのことだった.

 基本的にリベラルの考え方で,今まで主流だった「バランス・オブ・パワー(均衡勢力)」に対して,国際的なルールを作り,多数の国で「非侵略国家連合」の様なものを作り,侵略国家へ,この連合をもって対抗しようと言う考えである.
 根底には,第一次世界大戦があまりに悲惨であり,バランス・オブ・パワーを維持するための戦争に,世界は耐え切れないというところから出てきた考え方だろう.

 ただ,色々な問題点がある.

1.そもそも,提案したアメリカが集団安全保障の国際連盟に参加しなかったこと.

2.各国家の主権を認めすぎたゆえ,拒否権が各国にある状態であり,強制力にあまりにも乏しかったこと.

3.全会一致が原則であり,権力の発動としては利害調整の作業があまりにも煩雑なこと

 まぁ,1.の時点で,相当怪しい体制ではあったと思う.

 詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ著「国際紛争」第4章を参照.

ますたーあじあ in mixi


 【質問】
 第一次大戦後の米英には,どのような利害対立があったのか?

 【回答】
 まずアメリカは,オスマン帝国時代にアメリカが帝国政府と交わした通商特権「カピチュレーション」の既得権の他,旧オスマン帝國領でのダーダネルス海峡の自由航行権,キリスト教布教活動を保護育成する権利,考古学調査や商業活動を十分行う権利を求め,英国と対立した.
 なかでも,アメリカが強硬に求めたのは,自国の石油会社の権利だった.

 その後,ギリシャ=トルコ紛争の結果,アナトリア地方でのキリスト教徒やアルメニア人の虐殺が起こると,英国はその責任を主にアメリカに押し付けようとしたが,アメリカは介入を拒んだ.

 以下,『平和を破滅させた和平』における,英米対立関係記述.

−−−−−−
 1919年,アメリカ国務省は法律を盾に,トルコの占領地域で行使されるアメリカの権利を主張し始めた.
 そこにはオスマン帝国時代に交わした一種の治外法権とも言うべき通商上の特権「カピチュレーション」の既得権にとどまらず,ダーダネルス海峡の自由航行権,キリスト教布教活動を保護育成する権利,考古学調査や商業活動を十分行う権利が含まれていた.
 なかでも,アメリカが強硬に求めたのは,自国の石油会社の権利だった.
 これがアメリカとイギリスに利害の衝突をもたらすことになった.

 発端になったのがニューヨーク・スタンダード・オイルの権利である.
 スタンダード・オイルは戦前から中東で油井探索を行っており,旧オスマン帝国からパレスチナとシリアにおける独占的な石油採掘権を与えられていたが,イラクでの採掘権は持ち合わせていなかった.
 中東の地域で最大の供給量を誇るスタンダード・オイルは,なんとしてもイラクでの石油採掘権がほしかった.
 それというのもマーケティング戦略上,顧客にできるだけ近いところで供給を確保する必要があったからである.

 ニューヨーク・スタンダード・オイルは1919年9月,2人の地質学者を調査のためイラクへ派遣した.
 その一人が妻に送った手紙の中に,うかつにも
「私が向かっているのは世界で一番石油埋蔵量の多い場所」
で,
「このパイはとてつもなく大きい」
から,何がなんでも
「採掘権を手に入れて,もともとアメリカ市民のものであるべき権利を確保しなければ」
と書いていた.

 この手紙は,連合軍が占領していたイスタンブールでイギリスの検閲官に差し押さえられ,写しがロンドンに送られた.
 イギリス政府はイラク駐在の高等弁務官サー・アーノルド・ウィルソンに命じて,地質学者らの調査を即刻中止させた.
 アメリカ国務省はニューヨーク・スタンダード・オイルから要請を受けて抗議を申し入れたが,イギリス外相カーゾン卿は,まことしやかな口実をもうけてこれをはぐらかした.
 戦時の取り決めにより,平和が回復するまでこうした行為は全ての国に禁じられている,と.

 さて,次に登場したのがニュージャージー・スタンダード・オイルである.
 ニュージャージー・スタンダード・オイルは首席地質学者は,早くも1910年の時点で,イラクで石油を掘り当てる可能性は高いと考えていた.
 しかし戦争が終わるまで,ニュージャージー・スタンダード・オイルは何も手を打たなかった.
 ようやく1919年2月,社長がイラクの油井探索を取締会に提案し,1ヵ月後,海外生産担当役員がパリに赴き,講和会議に臨んでいる政府代表団にこの問題を託した.

 その後,会長のA・C・ベドフォードが,自らヨーロッパへ渡った.
 中東の石油については,戦時中に戦後を見越したイギリスとフランスが,両国で独占しようという協定をいくつか結んでいた.
 協定は内密のものだったから,アメリカ政府は,自分たちを締め出すようなことは何も決まっていないと思っていた.
 ベドフォードがじきじきにヨーロッパへ向かったのは,そのことを調査するのが狙いだった.
 1920年4月27日,イギリスとフランスはサンレモ会議の席上,石油に関する秘密協定を制式に結び,将来中東で算出される石油を事実上,全て両国が独占することで合意に達した.
 ベドフォードはこの協定書の写しを,フランス代表団の一人から手に入れ,アメリカ大使館に提示した.

 イギリスとフランスが石油の独占をたくらんでいるという情報は,アメリカに大きな衝撃を与え,政府はこのサンレモ協定書を,アメリカの石油会社にとどまらず,アメリカの国益に反するものと見なした.
 第一次世界大戦に参戦したアメリカは,その経験から,陸軍にとっても海軍にとっても石油が欠かせないことに初めて気づいていたが,ひとたび戦争が終わると,そのアメリカが石油不足パニックに陥っていた.
 原油価格は高騰し,国内の石油埋蔵量がいずれ底を突くのではないかという不安が広がった.
 国務省の経済顧問は,海運会社や海軍に供給する燃料用重油を確保するためにも,石油ならびに石油製品の供給でアメリカが世界一の座を確保し続けるためにも,
「国外での石油供給源を確保することは(中略)経済的にきわめて重要である」
と書いている.

 1920年夏,サンレモ協定書が公にされると,その存在を確認したアメリカは抗議した.

 これに対してカーゾン外相は,イギリスは世界の石油生産のわずか4.5%を支配しているに過ぎないが,アメリカのそれは80%を閉めており,しかもアメリカは,自国の企業が開発を手がける地域からアメリカ以外の企業を締め出している,と論駁した.
 国務長官のベインブリッジ・コールビーは,アメリカの石油埋蔵量は,現在世界で確認されている埋蔵量の12分の1に過ぎず,国内の石油需要は供給を大幅に上回っており,今後予想される需要の伸びに応えるには石油資源の自由な開発が必要だ,と応酬した.

 アメリカとの関係がこじれたことを知ったイギリス政府当局は,アメリカが石油に関心を示すのは,イラクで相次ぐ反英暴動や,トルコで高まりを見せるケマリスト運動を支持しているからではないかと疑心をつのらせた.
 イラクでイギリスの公安当局に逮捕された暴動の首謀者の一人が,スタンダード・オイルが差出人の手紙を隠し持っており,その手紙には,アメリカの資金はバグダードのアメリカ領事が仲介して,イラク中部の聖地カルバラを拠点にするシーア派に回されている,と書かれていた.

 バグダードのアメリカ領事は,確かにイギリスのイラク統治に反対していた.
 だが,ワシントンは違っていた.
 いや,まるっきり逆だった.
 アメリカ国務省と石油会社は,イギリスが中東で支配権を握ることを歓迎していた.
 アメリカの石油会社が油田の探索,開発,生産に乗り出していたのは,自分たちから見て安定した信頼できる政権が存続している地域に限られていた.
 ニュージャージー・スタンダード・オイルの社長は,イラクはただの好戦的な部族の寄せ集めだ,と国務省に報告している.
 この人物に言わせれば,イギリスが牛耳るイラク政府という存在があって始めて,イラクに法と秩序を期待できるのだった.
 国務省近東局長アレン・ダレスも,アメリカ政府当局者の多くが恐れていたのと同じく,イギリスとフランスは中東から手を引くかもしれないし,本当に手を引けば,アメリカの国益は大きく損なわれると懸念していた.
 ダレスの話では,ガイ・ウェルマン(イラクにおける石油開発に一枚噛みたいと策を凝らしていたアメリカの石油会社の代理人)も,独自で開発事業を進めるよりは,イギリスの石油会社と共同で行うほうが,成功の確率は高いと考えていた.

 1920年夏,イギリスとアメリカの関係修復が始まった.
 イラクにおける石油の採掘は,当初の見込みよりリスクが高いと,地質学者がイギリス政府に知らせたのだ.
 しかしまた,石油が見つかった場合,その埋蔵量は莫大なものだから,イギリス一人の資本ではとても開発は困難で,アメリカの資本参加を呼びかけざるを得なくなるだろうと,一言申し添えることも忘れなかった.
 そのため――そこには政治的な理由もあったが――イギリスの石油業界の重鎮サー・ジョン・カドマンがアメリカに派遣され,両国の話し合いが緒についた.
 1922年6月22日,国務省を尋ねたニュージャージー・スタンダード・オイル会長のA・C・ベドフォードは,イギリスが所有するイラクの石油採掘会社に資本参加する件で,アメリカの石油会社7社を代表して交渉する運びになったと報告する.
 国務省に異論は無かったが,資本参加を希望するアメリカの石油会社を平等に扱うという条件をつけた.
 交渉は直ちに始まった.

 こうしてアメリカとの論争に決着はついた.
 しかし,中東の当地という厄介な任務をアメリカに押し付けられたイギリスは,その重荷をひとりで背負い込むことになったのである.

――――――p.804-808

 続き.

−−−−−−
 (1922年末までに,アナトリアに侵攻したギリシャ軍は駆逐され,トルコ領内にいた少数民族,キリスト教徒は,復讐心に駆られたトルコ人に家を焼かれ,あるいは殺害される.
 ギリシャ人だけで150万人がトルコから逃げ出す)

 フランス,イタリア,ボリシャヴィキ・ロシア,なかんずくアメリカに(この大惨事の)責任を押し付けるのは,イギリスの常套手段である.
 19月にチャールズ・エヴァンズ・ヒューズ国務長官と会談したワシントン駐在のイギリス大使によれば,中東を分割することで合意を見た連合国が,国際連盟から委任統治を受任するという手間隙のかかる手段を編み出し,その手続きに従ったのは,ひとえにアメリカを満足させるためだったという.
 そのアメリカは当時,既に中東の和平問題からすっかり手を引いていた.
 イスタンブル,ダーダネルズ海峡およびアルメニアを委任統治領として占領し保護することに同意したアメリカは,その2年後には,約束を反故にしていた.
 イギリス大使はさりげなく指摘した――1919年,連合国はおそらく自前の解決策を押し付けて,事の一件落着を図る腹づもりだったろう,しかしイギリスは,アメリカの意向を聞き入れ協力を確実なものにするため,数年も時間をかけて新たな責任まで引き受けたというのに,今は委任統治という大きな重荷をひとりで背負い込んでいる,委任統治はそもそもあなた方が言い出したことなのだ,と.

 ヒューズ国務長官は,次のように反論した.
『アメリカ政府に何がしかの責任があるという見解は,承服いたしかねる.
 (中略)
 わが国は勢力圏の分割を求めたことも,(中略),イスタンブルで策謀に手を染めたことも無い.
 (中略)
 この1年半に渡るギリシャ軍の悲劇にも責任はない.
 (中略)
 その件については,責任はもっぱらこの1年半のヨーロッパの外交にある』

 こうした非難の応酬の背景には,アメリカの外交政策の抜本的な変化があった.
 それは,ウッドロー・ウィルソンからウォレン・ガマリエル・ハーディングへと政権が交代したときのことである.
 ウィルソン大統領の中東政策は,キリスト教,特にアメリカの不況団体とその活動を支援することに狙いがあった.
 しかしハーディング大統領は,ウィルソンの推し進めた政策に興味を示さなかった.
 トルコ軍がスミルナに侵入したとき,メソディスト聖公会協議会をはじめとするアメリカの宗教団体は,キリスト教徒の虐殺を止めるために軍隊を派遣するようアメリカ政府に要請したが,ハーディングはヒューズ国務長官に,
「正直なところ,教会の関係者にはあまり寛容になれない.
 平和を促進するのは結構だが,最後は宗教の違いで争いになるのだから……」
と言っている.

 ウィルソンの中東政策にはもう一つ,主たる目的があった.
 現地の民族の自決を保証することだが,ハーディングはこれにも関心を示さなかった.
 ハーディングは,政府の行動を国益の擁護に限定した.
 中東においてアメリカの国益を守るということは,アメリカの民間企業の利益,基本的には石油会社の利益を守ることを意味した.
 トルコではアンカラ政府が,アメリカの企業グループに石油採掘権を与えるばかりになっており,アメリカの石油会社が要求する国内の治安と安定したビジネス環境をアンカラ政府が提供するのは確実に見えた.
 アメリカの企業に進んで門戸を開放しようとするアンカラ政府の態度が,アメリカ国務省に好感をもって迎えられ,アメリカの認識に好ましい影響を与えたのも無理はなかった.

 10月にボストンで演説に立った国務長官のヒューズは,スミルナの町が蹂躙されてギリシャ人,アルメニア人をはじめとするキリスト教徒が余儀なくされた窮状について触れ,
「トルコ軍の残虐な行為には,いささかの弁解も酌量の余地もない」
と述べている.
「だが同時に,状況を正しく評価するためには,ギリシャ軍のアナトリア侵攻が引き金となったこと,悲劇は戦争のさなかに起きたこと,そして撤退するギリシャ軍が町や村を幾つも焼き討ちしたり,市民に対して残虐行為を重ねたりしたことも考慮に入れなければならない」
 国務長官は,ギリシャ軍もトルコ軍も残虐行為を犯したことに注意を促した上で,アメリカは介入すべきだったという意見を否定して,すべては戦争の結果であり,アメリカはその戦争の当事者ではないことに聴衆の注意を喚起した.
 責任の一端を免れない連合国が介入しない以上,アメリカには介入する義務はない,というのである.
 アメリカ政府がトルコにおける自国の国民を守ることに専念したのは適切だった,とヒューズ長官は言った.

−−−−−−p.824-826

 ただし勘違いしてはいけないが,この当時,どの国もどの国とも互いに,利害関係を巡って外交的衝突を起こしており,連合国というのは事実上,瓦解していた状態であって,特に米英のみが衝突していたようなものではない.


 【質問】
 アメリカは国際連盟提唱しといて,上院の反対で参加しませんでしたが,この出来事の原因は授業では「伝統的相互不干渉」とだけ教えられました.
 他にも原因はあるんですか?

 【回答】
 国民レベルで存在する大戦への幻滅を,
 一部の孤立主義者が政治的に争点化した.(伝統的相互不干渉≒孤立主義)
 さらに共和党が,それを20年の大統領選に向けて,民主党政権批判として国政レベルで動員した,ということじゃないのかな?
(ここで悪役は上院外交委員長ヘンリー・カボット・ロッジ.)

 アメリカが国際連盟に不参加だったのは,南北アメリカの問題に域外国家の口出しを許すことになることをいやがったためでしょう.汎アメリカ主義です.
 アメリカは実は,好き勝手に介入して自国の利益を優先させていました.
 この現実に,理想主義が破れたのです.

 汎ヨーロッパ主義を唱えたクーデンホーフも,連盟に対しては懐疑をもっており,域外の大国,日本やアメリカが欧州に介入してくるとして批判的でした.
 汎ヨーロッパ主義というのはヨーロッパ・ナショナリズムです.これもまた孤立主義といえる.

 日本が国際連盟に参加したのはたぶん失敗でしょう.
 現実に理想がやぶれて脱退することになったわけですが.最初から参加しなかったほうがよかったと思われます.
 脱退したのは,大アジア主義的主張が強くなったからですが,これは東洋モンロー主義ともいわれていました.孤立主義ですね.

(世界史板)

 また,ジョゼフ・S・ナイも,アメリカがモンロー主義に走ったからだとしている.

 アメリカ人は「平常」を望んでいた.
 アメリカの利害は西半球に限定して,もつれた同盟関係によって,巻き込まれるのを嫌った.
 国際連盟参加反対の指導者的立場たるヘンリー・ガボット・ロッジは,国際連盟憲章16条がアメリカの主権侵害にあたると主張した.

 以下,ナイ教授の文章を引用

「上院の決定や国民の意思ではなく,集団安全保障を実施しようとする国際連盟の意志に基づいて,アメリカが遠方の戦争に巻き込まれるかもしれないとロッジは疑ったのである」

 また,ウィルソンがロッジとの論争を頑なに拒否したのも問題だったのだろう,ウィルソンの言い分にも,それなりに正当性があったはず.
 以下,ナイ教授の文章を引用.

「ロッジの孤立主義は,ヨーロッパでのバランス・オブ・パワーに対するアメリカの長年の態度を反映していた.
 ヨーロッパ諸国はバランス・オブ・パワーの名の下で汚らわしいことをしており,アメリカはそこまで身を落としてはならないというのである.
 しかし実際には,アメリカはイギリス艦隊の影でただ乗りしていたから,19世紀にバランス・オブ・パワーを無視することができたのである.
 事実,アメリカは中米やメキシコ,キューバと言った弱小の隣国の問題に干渉する時には,孤立主義とは無縁であった.
 第一次世界大戦の終りに際し,アメリカは2つの形態の道義主義に引き裂かれ,ヨーロッパのバランス・オブ・パワーに対する孤立主義の衝動が勝利した.
 その結果,第一次世界大戦でバランス・オブ・パワーの帰趨を決したこの国は,戦後秩序への責任を放棄したのである」

 詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ著「国際紛争」第4章を参照されたし.

ますたーあじあ in mixi

▼ 一方,ポール・ジョンソンによれば,上院外交委員長ヘンリー・キャボット・ロッジ上院議員の反対を,孤立主義の産物と考えるのは間違いだという.
 以下引用.

――――――
 彼はいつも敵役に擬せられるが,それは公平ではない.
 ロッジは孤立主義者ではない.
 ボストンの名門の出で,ボストンの名門というのはいつの時代でも,国際主義者である.
 ヘンリー・アダムズとセオドア・ルーズヴェルトという良き指導者に恵まれたが,そのどちらも歯に衣着せぬ国際主義者だった.
 ロッジは,その人たちならよしとするに違いない保証や連盟を目指していた.
 すべての証拠がそれを物語っている.(43)

 彼は考えた.
 この条約は善意のものではあるが,草案は下手だし後半にわたりすぎている.
 国家は,存続に関わる利益が危機に晒されない限り,戦争などしない.
 だから,実際問題として加盟国が連盟の決定を実施させるために戦争することはないだろう.
 いったいどんなものが,あるいはどんな人間が,国境を無制限に保証できるというのか.
 国境線は現実の軍事力の変化をそのまま反映する.
 アメリカは英領インドの国境や,山東半島の日本の領土を守るために戦争をするだろうか.
 するはずがない.
 そしてアメリカのイギリスとフランスとの取り決めは,存続に関わる利益の相互の恩恵に基づいていなければならない――その上で何らかの意味を持ってくる.

 アメリカ国民は,ロッジが高く評価しているように,自国の加盟に反対ではなかった.
 当時行われた投票結果によると,アメリカ国民は4または5対1の割合で,恒久的な平和維持団体に加入することを望んでいた.(44)
 上院の共和党員の大多数は,ある種の連盟に賛成だった.
 共和党内の真の孤立主義者はせいぜい10人あまりだし,さらにそのうちの何人かはすでに説き伏せられていた可能性もある.
 ロッジ自身,条約が圧倒的多数で批准されることを望んでいた.
 また,連盟の批准も望んでいたが,ウィルソンが考えたものとは違う形にしたかった.
(43)
 W. C. Widenor: Henry Cabot Lodege and the Search for an American Foreign Policy (Berkeley 1980)
 ならびにロッジ自身の著書 The Senate and the League of Nations (Boston 1925)参照.

(44)
 D. F. Fleming: The United States and the League of Nations ( New York 1932 ).
――――――ポール・ジョンソン著『アメリカ人の歴史』第3巻(共同通信社,2002.7),p.50

▼ そして同書によれば,ウィルソン大統領はロッジと元々そりが合わなかったためか,ウィルソンはいかなる変更も拒み,その非妥協的態度でウィルソンは孤立したという.
 上院では,ウィルソン支持派はロッジ案に反対票を投じ,条件主義者たちはウィルソン案に反対票を投じた.
 その結果,条約批准は流れたのだ,と説明している.

 詳しくは同書,p.51-53を参照されたし.▲


 【質問】
 パリ講和条約において,山東問題なんてのがあったらしいですけれども,山東半島にいかなる権益があったのですか?

 【回答】
 1898年の独清条約に基づく膠州湾租借地や鉄道敷設権,鉱山採掘権などの権益をドイツが山東省に持っていた.
 んで1914年に,日本は日英同盟に基づいてドイツに宣戦布告して,青島(チンタオ)の戦いにて日本とイギリスの連合軍が山東省でドイツを破った.
 それで,ドイツが山東省に持っていた権益の帰属をどうするという問題が生じた.
 それが山東問題.
 日本は対華21ヶ条要求において,中華民国(北洋軍閥政府)に山東省の権益を日本が継承することを認めろと要求したわけだ.
 中華民国は名目だけのことだったが,第一次大戦末期に駆け込み乗車でドイツに宣戦布告して,実際には何も戦っていないにもかかわらず戦勝国だという立場を主張.
 山東省の権益を中華民国に返還しろというのが中国の主張だった.
 パリ講和条約でも日本の主張が認められ,中華民国のは支持されなかった.
 しかし中国で五四運動などの反日運動が起きて,ワシントン会議において1922年の山東懸案解決に関する条約を結び,日本は中華民国(北洋軍閥政府)に山東省の権益を返還したのであった.

世界史板
青文字:加筆改修部分


 【珍説】
 〔パリ講和会議で〕日本は「人種平等案」を提出した!
 これは歴史上初の快挙で,それまでの白人専用の伝統的国際法の秩序を打ち破る観念だった.

 大戦には,各国の植民地人やアメリカの黒人など多くの有色人種が参戦.
 常に第一線に立たされ,負傷しても治療は白人優先にされ,有色人種から死んでいった.

 また,アメリカの移民排斥問題も切実で,日本は,この機にぜひとも人種平等の原則を打ち立てたかったのである.

 ところが「人種平等案」は賛成多数で通過したのに,米英が強硬に反対し,全員一致でなければ認められないと,強引に否決してしまった!

 ウィルソンは「14ヶ条」で「民族自決」を提唱していたが,それはあくまで東欧の民族だけで,アジア,アフリカの民族など眼中になかった.

 しかも大統領選挙のときにはこんなことを言っていた.
「私は移民禁止政策を支持する!
 白色人種と融合しない人種から同質の住民を作ることはできない!」

 世界で初めて「人種平等」を提唱したのは日本であり,それを力ずくで潰したのがアメリカ,イギリスだった!

小林よしのり「戦争論」3(2003/7),p.211-212

 【事実】
 人種平等決議を平和条約に盛り込むことを拒否した張本人はオーストラリアです.
 それは国防上の見地に基づくものでした.

 オーストラレーシア人の立場は〔殆ど外的脅威のないカナダとは〕異なっていた.
 地域の果てで孤立した,比較的小規模の白人社会だったため,イギリスがヨーロッパの列強諸国,そしてとりわけ日本から防衛してくれることを望んでいた.
オーストラレーシアの繁栄は程度の差はあれ,白人以外の先住民から収奪し,アジアからの労働者の移住を厳しく排除することに依拠していたため,世界で唯一の有色人種の列強国である日本の興隆を恐れるのももっともだった.
 オーストラリアはベルサイユ条約策定のパリ講和会議で,日本が呼びかけた人種平等決議を平和条約に盛り込むことを拒否した張本人であった.

Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)上巻,p.223

 オーストラリアも当時は英国領でしたから,「英国が強硬に反対し」たと言えないこともありませんが,そういう意図で書いたのだとしても,事実の歪曲にしかなりません.

 ちなみに,移民禁止の件にもツッコミどころがあるのですが,それはまた別の話.


 【質問】
 第1次大戦後,ドイツが天文学的賠償金を支払う事となったのですが,実際の支払いはどのような形で行われていたのでしょうか?
 想像では
1 ドイツマルクの紙幣を直接戦勝国に引き渡していた.
2 ドイツマルクを戦勝国の貨幣に両替してフランなりポンドなりで引き渡した.
3 賠償金の額に見合うだけの金銀・資源・製品等を引き渡していた.
のどれかだと思うのですが.

 【回答】
 最初の頃は3.の現物支払いです.
 特に鉱工業製品による支払いが行われており,有名なところでは,フランスによるデュッセルドルフ,フランクフルト地区の保障占領とか,ライン川西岸地区,ザール地方の国際連盟による3地域分割で,最長15年に及ぶ占領と,炭田の所有権,採掘権のフランスへの譲渡が行われています.
 このほか,現物支払いでは,1,600t以上の商船,漁船の1/4,家畜,石炭,ベンゾール,機関車,鉄道車輌,機械,海底電線などがあります.

 現物支払い分以外は,2,690億金マルク,これは42ヶ年の年賦で国家財政より支出します.
 但し,ドーズ賠償協定の締結後は,米国からドルの借款を受け,それを短期資金市場で運用し,租税収入と共に年賦を整え,返済していました.
 従って,2.の変形でしょうか.

(世界史板)


 【質問】
 ドイツがヴェルサイユ条約に基づいて,2020年まで賠償金を支払い続ける,というのは本当ですか?

ソース
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/column/opinion/189201/

ぴぴ in 「軍事板常見問題 mixi支隊」
青文字:加筆改修部分

 【回答】
 その対外債務の支払いの為に発行されたのが,Dewes-Anleiheで,1924年10月から11月にj掛け,8カ国で合計8億マルクが発行されました.
 発行条件は7%利付,償還期限は1949年10月15日,発行価格は額面の92%で,担保は関税,たばこ,ビール,砂糖への課税収入が充てられています.
 償還価格は欧州募集分は額面で,ニューヨークで発行された1.1億ドルは額面の105%です.
 ニューヨーク,ロンドンでは募集額の10倍,アムステルダムでは100倍の応募があり,プレミアムが付きます.
ポンド建てでは1,200万ポンドが発行されました.

 恐慌後,1930年のヤング案に基づいてYoung-Loanが発行されています.
 これは1930年6月発行で,5.5%利付,満期は1965年6月1日,発行価格は額面の90%で,ドイツを含む9カ国で3.5億ドルが発行されました.
 ポンド建ては1200万ポンドで,担保はドイツ鉄道会社に対する37年間に渡る年6.6億マルクの課税で,元利支払金は毎月国際決済銀行に支払われることになりました.

 因みに,この2種類の国債は,第二次大戦中もロンドンで取引が行われていますが,その価格は1939年9月22日にDewsは額面の3%,Youngは額面の5%に暴落しました.
 これは利払いの停止と元本返済の可能性が無くなった為です.
 その後,D-Dayなどのドイツ不利の状況が出て来るにつれ,その額面価格は上昇しました.

 1953年の協定で,ドイツ連邦政府は,盗難に遭いソ連で流通していた債権を除き,全ての公債の元利金支払いに同意しました.
 元本の返済はドイツ連邦政府が1969年まで行うとされ,利払いは東西ドイツ統一が実現するまで延期されることになっています.
 その当時で,Dewsが4.2億マルク,Youngが12.11億マルク残存していますが,1995年1月4日付の金融紙の報道で,DewsとYoungの利札を2010年10月3日に満期を迎えるドイツ国債と交換すると言う記事を掲載しており,その後,2020年に満期を迎えるドイツ国債と交換したりしたら,未だに利払いを続けている事になるのかも知れません.

 借り換え借り換えを重ねていくので,結構国債って長く保つものだったりします.
 日露戦争に発行した日本の国債も償還は1960年代だった筈ですしね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 「軍事板常見問題 mixi支隊」
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 第一次世界大戦後,ドイツではどのような少数民族問題が起こったか?

 【回答】
 現在,ドイツ連邦に於て国内の少数民族として認められているのは,4つの民族です.
 これらの民族は何れも欧州評議会に於ける『国内少数民族保護枠組条約』の対象となっており,彼らの使用する6つの言語は,『欧州地域言語・少数言語憲章』に基づき,様々な保護や援助対象となっています.

 まずは,1864年以来ドイツ領となったシュレスヴィヒ・ホルシュタインに居住するデンマーク系ドイツ人約5万人.

 2つ目が,オランダのフリースラントとドイツの東フリースラントに1世紀頃から居住し,7世紀に今はシュレスヴィヒ・ホルシュタイン州の一角であるヴィーダウ川,アイダー川間の細長い海岸地域とハリゲン群島から成る北フリースラントに移り,10〜13世紀頃にエムデン南方のザーターラントに移住したフリース人で,彼らは居住地域により北フリース語とザーターフリース語を話し,両地域で2万人(自分をフリース人と考えている人は7万人強ですが).

 3つ目が14世紀初頭の文書から登場し,大都市の人口密集地や全国各地の比較的小規模な街でも暮らしているシンティ・ロマ人で,彼らは所謂,ジプシーと呼ばれる人々で,ドイツ籍を持っているのは約7万人おり,彼らはロマニー語を話します.
 因みに,世界ロマ民族会議の本拠地は,ドイツのハンブルクにあります.

 最後が,旧東ドイツ地域であったカソリックのスラブ系民族であるソルブ人で,7世紀にゲルマン民族が移動した後のエルベ川とザーレ川に進出し,ドイツ東端のポーランド国境に近いラウジッツ地方に住んでいる人々です.
 この地域は1815年以来,ブランデンブルグ州とザクセン州に分かれており,ブランデンブルグ州のニーダーラウジッツには,ニーザーソルブ語を話す2万人が住み,ザクセン州のオーバーラウジッツには,オーバーソルブ語を話す4万人が住んでいます.

 第一次大戦で帝政ドイツが敗北すると,ポーランドやチェコスロヴァキアが独立すると共に,これら少数民族のうち,ソルブ人はチェコ人やポーランド人の独立を見て,ソルブ国の独立を求めますが,余りに人口が少なく連合国からは独立要求を無視されてしまいます.
 ワイマール共和国でも,その地位の向上を求め,ドイツ少数民族連合を1925年に設立するなど,その動きは当局を刺激し,1923年には政府部内にWendenabteilungという対ソルブ人監視部局を設置し,これが後にナチス台頭と同時に,ソルブ人の弾圧に繋がり,1935年からはバチカンとの政教協約で保護されていたカソリックの出版物以外,全てのソルブ語文書の出版が禁止され,焚書も行われ,大戦中は,ソルブ人の強制移住も検討された程でした.

 一方,シュレスヴィヒ・ホルシュタインとデンマークとは,元々ケーニヒス・アウ川の線が国境線でした.
 Versailles条約の結果,この地域の帰属は3回の住民投票で決められる事になりました.
 1920年2月10日,ケーニヒス・アウ川の線とクラウゼン線(トンデルン南部とフレンスブルク北部を結ぶ線)の間の地域に於て,1900年1月1日以前に生まれ,以来同所を居所とする者を対象に,地域の全投票を一括集票する住民投票が行われます.
 その結果,7万5183票対2万5329票でデンマークへの帰属が認められました.
 北部農村部では90%の賛成票を集めましたが,南部では半数を辛うじて超えた地域やドイツ票多数の地域がありましたが,一括集票の為異議は認められませんでした.

 3月14日,今度はクラウゼン線の南側北半分の地域で住民投票が行われました.
 これは町や村毎に集計する方式で行われ,こちらは,5万1303票対1万2859票でドイツ残留に賛成しました.

 更にクラウゼン線の残りの部分でも住民投票が行われる事になっていましたが,これは結局デンマーク側の要請で取り止められ(飛び地になりますから),クラウゼン線を以て,国境線とすることになりました.
 これが現在でも,ドイツとデンマークとの国境線になることになります.

 この結果,ドイツにはデンマーク系ドイツ人が残り,デンマークにはドイツ系デンマーク人が残る事になりました.
 そのデンマーク系ドイツ人に対しては,1920年にデンマーク首相Niels Neergaardが,
「我々はあなた方を忘れない」
と呼びかけ,以後,現在に至るまで様々な援助を行っています.
 1999年でも,Poul Nyrup Rasmussen首相は,デンマーク系ドイツ人と会談した時に,
「あなた方が我々と繋がる限り,我々もあなた方と繋がっている」
と連帯を表明しています.
 こうした援助を受け,デンマーク系ドイツ人は,域内ではシュレスヴィヒ連合という民族文化団体と立ち上げ,デンマーク復帰運動を起こす事になります.

 ところが,ソルブ人と同じく,1933年に発足したHitler政権は少数民族の動きを激しく弾圧し,彼らの言うアーリア系種族として少数民族としての扱いは受けたものの,デンマーク人としてのアイデンティティは押し殺す事を余儀なくされた訳です.
 これが,彼らをしてドイツ敗戦後に様々な動きを見せる事の伏線になります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年07月08日21:43


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