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◆◆オーストリア=ハンガリー海軍 Császári és Királyi Haditengerészet
<◆海軍
<第一次世界大戦FAQ目次
フォン=トラップ夫人
(画像掲示板より引用)
K.u.K. Kriegsmarine(墺洪海軍,独語)
ホルティ回想録(PDFファイル,英語)
リッサ海戦
http://www.kaho.biz/huousensou.html
http://www.d3.dion.ne.jp/~ironclad/Tegetthoff/tegetthoff1.htm
【質問】
第二次大戦のときのハンガリーの摂政,ホルティはなぜ海軍提督なのですか?
ハンガリーに海はあったんですか?
【回答】
オーストリア・ハンガリー二重帝国時代には,ハンガリーには唯一の海への出口フューメ(現クロアチア領リエカ)がありました.
ここのダヌビウス造船所では,元々帝国海軍の駆逐艦や水雷艇などの小艦艇しか建造されていなかったのですが,第一次大戦前夜に拡張され,新鋭軽巡洋艦ノヴァラ(ホルティ提督の艦)とヘルゴラント,フィリブス・ウニーティス級ド級戦艦の4番艦セント・イシュトヴァーンなどの大型艦も建造されるようになりました.
(HN "12")
ホルティ・ミカローシュといえば,第一次大戦時に巡洋艦・駆逐艦部隊を率いてイタリア沿岸部やオトラント海峡の連合国封鎖線を襲撃した気鋭の提督として知られている.
第一次世界大戦勃発の翌1915年,ドイツ,オーストリア・ハンガリー二重帝国と三国同盟を結んでいたイタリアは,当時オーストリア領であったダルマチア(現クロアチア領),アルバニアなどの領有を狙い,5月23日に対オーストリア宣戦を行った.
イタリア海軍は主力となるタラント軍港にド級戦艦と前ド級戦艦,アドリア海に面したブリンディジ港には巡洋艦と駆逐艦を配備し,またベネチアには前ド級戦艦2隻,装甲巡洋艦4隻を中心とした艦隊を進出させ,さらに英仏から派遣された艦艇も加えオトラント海峡の封鎖を行った.
6月5日,イタリア海軍は仏駆逐艦4隻に護衛された巡洋艦4隻を派遣してダルマチア南部ラグーサ(現クロアチア領ドブロブニーク)・カッタロ(現モンテネグロ領コトル)間の鉄道を砲撃し,同日軽巡洋艦ニノ・ビクシオと仏伊駆逐艦4隻もリッサ島を砲撃した.
これに対し,アントン・ハウス提督の指揮するオーストリア海軍は,戦艦の温存策をとりつつも,一方では軽巡,水雷艇,潜水艦などを活用したTip
and run raidsと呼ばれる奇襲攻撃で敵に被害を与えた.
まず1915年5月23日に,イタリアが対オーストリア宣戦するとホルティ提督の艦隊は即座に出動し,翌24日には軽巡洋艦ノヴァラ,駆逐艦1隻,水雷艇4隻を率いてイタリア沿岸,コルシニの敵水雷艇と信号場を襲撃.この襲撃時には,アントン・ハウス提督(二重帝国海軍司令長官)率いる本隊(ド級艦フィリブス・ウニーティス以下の戦艦10隻,駆逐艦4隻,水雷艇20隻)もアンコナを砲撃している.
6月9日には潜水艦U4がアルバニア沿岸部で英巡洋艦ダブリンを雷撃して損傷を負わせ,同17日には装甲巡洋艦サンクト・ゲオルグ,水雷艇14隻がリミニその他のイタリア沿岸を,17・18日にはホルティ提督率いる軽巡洋艦ノヴァラ,アドミラル・スパウン,駆逐艦4隻,水雷艇4隻がアンコナとリミニの中間にあるファノとペサロを急襲して打撃を与えた.
また7月7日には,潜水艦U26(独潜水艦UB14がオーストリア艦籍に編入されたもの)が北アドリア海に出撃していたイタリア装甲巡洋艦アマルフィを撃沈し,18日には潜水艦U4が南ダルマチアのラグーサを砲撃していた同装甲巡洋艦ジュゼッペ・ガリバルディを沈めた(オーストリアの潜水艦部隊はドイツの援助で強化され,大戦中に新たに20隻――計27隻――が就役した)
一方オーストリア側は8月8・13日の戦闘で潜水艦U3とU12(艦長エゴン・レルヒ)を失っている.
(HN "12")
余談ですが,イタリア・ロンバルディア北部にはガルダ湖という湖があり,1859年までオーストリアはここに,艦艇13隻よりなるガルダ湖艦隊を持っていたようです.
1859年のイタリア統一戦争でオーストリアが敗れたために,同艦隊はロンバルディアとともにイタリア(当時サルディニア)に引き渡されたようですが.
・・それにしても,琵琶湖ほどの大きさしかないこの湖に,オーストリアが艦隊を保有していたとは驚きでつ.
ホルティ Horti 略歴
1868年 ケンデレシュ生
ハンガリーの軍人・政治家
フィウメ(現,クロアチア リエカ)の海軍兵学校で学ぶ
第一次世界大戦中,オーストリア・ハンガリー帝国海軍提督
戦後,ハンガリーに帰国
1919(大正8)年 クーンの社会主義政府に対する反革命を指導 政権を奪取
ハンガリー国民軍総司令官
1920(大正9)年 国会で摂政に任命される
1921(大正10)年3月 前オーストリア皇帝でハンガリー王でもあったカール1世が復位を企図 これを拒否
10月 再度カール1世の復位を拒否
1938(昭和13)年 ミュンヘン協定 トリアノン条約でチェコスロバキアに割譲したスロバキアの一部をとりかえそうとするが,失敗
ナチス・ドイツに援助を求める
1938(昭和13)年 第一次ウィーン裁定 スロバキアの一部を獲得
1940(昭和15)年 第2次ウィーン裁定 ルーマニア領のかなり広い地域(トランシルバニア北部)を獲得
これらの見返りに,ハンガリーは第2次世界大戦でドイツ,イタリアに味方することを承諾
1942(昭和17)年 ドイツの敗戦を確信 連合国との単独講和を企図
1944(昭和19)年 ドイツ軍,ハンガリーを占領 親ドイツ政権を樹立
10月 ソ連軍,ハンガリーに侵入 ソ連との停戦を企図するがドイツ軍に逮捕され,特別列車でドイツに連行される
終戦時,バイエルンでアメリカ陸軍に逮捕される
1945(昭和20)年 釈放
1951(昭和26)年 ポルトガルに移住
1957(昭和32)年没
ホルティ肖像
(画像掲示板より引用)
【質問】
上のホルティ略歴を見ると,カール1世の復位を二度拒否していますが,摂政であるところのホルティに,そんな権限があったわけですか?
それとも,カール1世が国民に不人気だったと言うことですか?
消印所沢 ◆z3kTlzXTZk
【回答】
マジャールにとって,王制の維持は必要不可欠の状況でした.即ち,王制を維持することで,二重帝国時代の領土要求に対する正当性を持たせる事が出来る,と,支配層は考えていた訳です.
本来,赤化したとしても,フランスのフォッシュ首相は可成り好意的で,スロヴァキアからマジャール赤軍が撤退すれば,ルーマニア軍が占領したトランシルヴァニア地方の還付も考慮に入れていたのですが,クン・ベーラ首相が利害得失を考えずに居座ったために,フランスとしても最後通牒を出し,ユーゴスラヴィア,ルーマニア,チェコスロヴァキア軍によるマジャール赤軍の掃討を行い,報復的措置として,領土を周辺諸国に割譲した訳です.
その喪失した領土を返還させる為の方便としては,中世の条項におけるマジャール法で,「聖イシュトヴァーンの聖なる王冠の領土」であるという基礎が必要でした.即ち,王国を止めて共和国になるということは,領土放棄と見なすと判断した訳です.
1919年の赤色政権崩壊時,反革命政府は,一時的に王国はハプスブルク家の一族,ヨーゼフ大公を摂政に選出しています.
しかし,反革命政府は1920年1月に実施した選挙結果だけで,王政復古を保証する旨の宣言を行い,これが,協商国の心証を害して,結果的にトリアノン条約の過酷な処分に繋がった訳で,ハプスブルク王家の復帰は,本来はチェコスロヴァキアの様に戦勝国側に立っていたマジャールを敗戦国に落剥させた思いが指導層にあり,また,ハプスブルク家の復辟は,協商国,周辺諸国の脅威に映ったため,その外部からの圧力(マジャール赤色革命の転覆は周辺諸国軍隊によるものを想起されたし)により,最終的にカール国王の廃位に繋がった訳です.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2)
【質問】
オーストリア・ハンガリーでは,オーストリアの帝国議会とハンガリーの王国議会が別々にあって,それぞれ別に内閣を持っていたが,外相と蔵相と陸相は同じ人だった,ということは陸軍は共同だったということですね?
では,海軍はどうだったのでしょう?
【回答】
1867年の二重帝国成立後,何もかもが帝国と王国の二重支配を受けます.
海軍も同様で,予算に関しては,帝国側と共に王国側の予算承認権がありました.
これが故,海軍の予算が屡々王国側の反対で執行出来なくなったことがあった様です.
このため,国防に関しては,帝国,王国の両方から独立させることとなり,1889年に二重帝国海軍が成立しました.
純粋にハンガリー王国の支配が及ぶとすれば,ドナウ川河川艦隊くらいではないか,と思います.
【質問】
開戦直後のオーストリア=ハンガリー海軍の行動は?
【回答】
オーストリア=ハンガリー海軍艦艇はサラエボ事件以来厳戒体制下に置かれ,7月下旬~8月上旬には駆逐艦と水雷艇の一部がポーラからモンテネグロ方面に移動し,8月8日には軽巡洋艦(正式には防護巡洋艦でつが,ここではこれまで通り軽巡に統一させていただきます)ツェンタと姉妹艦のシゲトヴァールが,セルビアに味方したモンテネグロ沿岸部の封鎖活動を開始しました.
だが味方であるはずのイタリアが局外中立を宣言したために海軍当局の方針に混乱が生じ,その間にも英仏は8月12日にオーストリア=ハンガリーに宣戦・即座に同海軍の行動を妨害するためにアドリア海に艦隊を派遣してきました.
そして8月15日には,モンテネグロのアンチバリ沖で軽巡洋艦ツェンタと駆逐艦ウランが,フランスのド級・前ド級戦艦部隊11隻と英国の水雷戦隊に遭遇.
これに対し駆逐艦1隻はカッタロ方面へ回避したが,軽巡ツェンタは退路を遮断され,仏ド級戦艦ジャン・バールなどの砲撃を受けて撃沈されてしまいます.
この時ツェンタの乗組員は,一部の戦死者や自力で岸まで泳いだ人を除き,大部分が仏艦艇に拾われて手厚い?もてなしを受けたとのこと.オーストリア=ハンガリーはその時はまだ英仏に対し宣戦していませんでしたが・・
8月22日にようやく英仏に対し宣戦布告し,同24日にはすでにカッタロへ移されていた海防戦艦モナーク,ウイーンがモンテネグロとその境にある英仏側の拠点を砲撃しました.
【質問】
WW1でのオーストリア・ハンガリー艦隊の行動は?
【回答】
1914年6月24日,オーストリア・ハンガリー帝国の帝位継承者フランツ・フェルディナント大公は,ボスニア・ヘルツェゴヴィナ地方で行なわれる陸軍大演習視察のため,当時帝国の外港だったトリエステからド級戦艦「ヴィリブス・ウニーティス」に乗り込んで,ダルマチア沿岸部のネレトバ川河口まで行きました.
大公はここで汽船「ダルマト(Dalmat)」に乗り換えて,川に沿って内陸部へと進みました.
サラエボ近郊のイリッツェで陸軍大演習を3日間視察した後,フェルディナント大公はサラエボ入りし,ウイーンから汽車で来た妻のゾフィーと再会しました.
しかし6月28日に,大公夫妻はサラエボ市街でオープンカーに乗っている時に,セルビア人の学生ガブリロ・プリンチップに撃たれて死亡しました.
大公夫妻の遺体はサラエボからネレトバ川へと移され,そこから汽船「ダルマト(Dalmat)」によって河口へと運ばれました.
フェルディナント大公暗殺の訃報を受け,オーストリア・ハンガリー帝国海軍長官&艦隊総司令官を務めていたアントン・ハウス提督は,ただちにポーラ軍港で汽船「ラクロマ(Lacroma)」に乗り,護衛艦2隻(ド級戦艦「テゲトフ」軽巡洋艦「アドミラル・スパウン」)とともにネレトバ川河口へと急ぎました.
かけつけた護衛艦隊に見守られながら,大公の遺体は戦艦「ヴィリブス・ウニーティス」に移され,その後このオーストリア・ハンガリーの艦隊はゆっくりとトリエステに移動しました.
艦隊が沿岸部のまちや村を通過するごとに,教会の鐘は祈りの文句を歌い,住民も去り行く艦隊に対し敬意を払いました.
いわゆる7月危機と呼ばれるこの1ヶ月間,ハウス提督はポーラに留まっておりましたが,7月18日に彼は海軍をバルカン半島方面での戦争に備えて動員するようにとの指令を受け,22日には準ド級戦艦「エルツヘルツォーク・フランツ・フェルディナント」「ラデツキー」「ズリーニ」をカッタロへ派遣しました.
当時砲塔装甲艦1隻と小型艦艇のみに守られていた同地を強化するためですが,2週間もしないうちに,3隻の戦艦はポーラへと引き下がり,カッタロへは駆逐艦・水雷艇数隻と水上飛行艇が送られました.
セルビアに対する最後通牒が下された運命の7月23日,ハウスはドナウ(ダニューブ)川の河川艦隊を動員し,オーストリアがセルビアに宣戦布告したちょうど1時間後・同28日から29日にかけて,河川砲艦「テメシュ」「ボドログ」「ツァモス」はベオグラードを砲撃しました.
対バルカン半島方面での戦争に備え所定の海軍力動員を行う中,ハウス提督はイタリア情勢と三国同盟内の海軍協定に基づくオーストリア,イタリア両国海軍の行動の見通しを考えていました.
あいにくこの数ヶ月の間,オーストリア・ハンガリーとイタリアの関係は再び悪化の方向へと向かっていました.
アルバニアを巡る両国の関係は,2度にわたるバルカン戦争を通し改善されましたが,1914年の夏には再び行き詰まりを見せていました.
またイタリアは,オーストリアがダルマチア南部のカッタロへの影響力を強めていることにも強い懸念を示しました.
1913~14年にかけてイタリアは,オーストリアがモンテネグロ(セルビアの同盟国)のロヴツェン山(MountLovcen:カッタロに隣接している地域)を購入もしくは併合することを恐れていました.
ロヴツェン山頂のモンテネグロ砲台はオーストリアにとっては厄介な存在であり,同国がロヴツェン山の潜在的な敵の戦力を排除することによってカッタロは安全な港となり,より多くの艦隊が停泊するオーストリア・ハンガリー海軍の根拠地となる道が開けるでしょう.
イタリア海軍の提督達は,イタリア,オーストリア両国海軍の共同作戦計画が実施されることを想定しておりました.
実際「イタリア海軍(ド級戦艦隊)の戦争準備と(燃料となる)石炭の蓄えられた状態が,ハプスブルクの艦隊のために使われる」という報告をハウス提督は受け取っておりました.
しかしオーストリア側の期待は,7月31日にイタリア政府の返答
「オーストリアのセルビアへの宣戦は,三国同盟条約第7条により不当な侵略行為とみなし,その結果イタリアには参戦の義務はない」
というものを目にした時に打ち砕かれました.
同日オーストリア・ハンガリーは総動員令を発しましたが,イタリアは8月2日に中立を宣言しました.
その一方で,8月4日の早朝にはドイツ海軍・地中海艦隊の巡洋戦艦「ゲーベン」が,フランス領アルジェリアの港を砲撃(ドイツは8月3日にフランスに宣戦)しました.
ドイツ地中海艦隊を率いていたウィルヘルム・スーホン提督【少将】は,フェルディナント大公暗殺の後ハウスよりポーラ軍港の使用を認められていました.
スーホン率いる巡洋戦艦「ゲーベン」と軽巡洋艦「ブレスラウ」は大戦勃発時にポーラを出港し,8月2日にはシチリア島のメッシナに入りました.
メッシナは,独墺伊の三国連合艦隊が非常事態時には集結する場所でしたが,スーホンはここでイタリアの中立宣言を知り,単独でアルジェリア沿岸部へ向かいました.
8月4日早朝,スーホンはフランス領アルジェリアの港を砲撃(ドイツは8月3日にフランスと開戦)の後,再びメッシナへ向かいましたが,同日英国もドイツに対し宣戦しました.
その後マルタから出撃した英国艦隊がメッシナ周辺部を封鎖しているという情報を耳にし,スーホンは8月5日にオーストリアの助力を求める嘆願をポーラへ打電しました.
それはハウスにとっては厄介な問題でした.当時英仏はすでにドイツと開戦していましたが,両国はオーストリア・ハンガリーに対しては宣戦しておりませんでした.
いずれにせよ,ハウスは「ゲーベン」と「ブレスラウ」を救うためにオーストリアの艦隊を動かすというリスクを冒す気にはなれませんでした.
また,スーホンの電報がポーラへ到着した時,ハウスは(8月4日の時点で)すでにフランス艦隊がツーロンを出港・コルシカ島沖に到達していることも知っていました.
電報が繰り返される中で,ハウスは地理的な面と速度の面という単純な理由により,自らの艦隊を港に留めておく正当性を強調しました.
オーストリア・ハンガリー海軍艦艇の大部分はポーラにあり,メッシナからは580マイル(1マイルは約1609メートル)も離れていました.
また,ドイツ巡洋戦艦は依然としてオーストリアのド級・準ド級戦艦隊よりも数ノット速かったので,「ゲーベン」の目的がただ単に敵の追跡から逃げきることなのであれば,オーストリア艦隊の護衛は無意味でした.
再びメッシナに入っていたスーホンの艦隊は,8月6日の夕方に同地を出港し,アドリア海の入り口にあたるオトラント海峡へ向かいました.
ベルリン政府はオーストリア側の方針変更を求め,ハウスの艦隊にアドリア海南部のブリンディジまで来ることを要求しました.
そこは長靴の形をしたイタリア半島のかかとの部分にあたり,オーストリア艦隊と「ゲーベン」「ブレスラウ」との集合地点として指定されました.
スーホンの艦隊がアドリア海での避難場所を捜し求めていると考え,8月7日アントン・ハウス提督は,ド級戦艦「ヴィリブス・ウニーティス」「テゲトフ」「プリンツ・オイゲン」準ド級戦艦「エルツヘルツォーク・フランツ・フェルディナント」「ラデツキー」「ズリーニ」装甲巡洋艦「サンクト・ゲオルグ」軽巡洋艦「アドミラル・スパウン」駆逐艦6隻,水雷艇13隻よりなるオーストリア・ハンガリーの大艦隊を,ポーラから出動させてアドリア海南部へと急がせました.
それは危険な賭けでした.
出動したオーストリア・ハンガリー艦隊と合流したドイツ軍艦2隻は,いざという時には英国艦隊を打ち破るだけの力は十分ありましたが,もし英仏艦隊が連合すれば,その勢力はオーストリア,ドイツ艦隊を圧倒することでしょう.
しかしオーストリア海軍の作戦任務は,大艦隊がアドリア海中部をさらに南下しようとした所で突然の終わりを迎えました.
7日の午後ドイツの海軍司令部はスーホンの艦隊に行き先の変更を命じ,「ゲーベン」と「ブレスラウ」はギリシャ南部のマタパン岬沖を通り,オスマン・トルコ帝国入り口に当たるダーダネルス海峡へ向かうこととなりました.
最終的にハウスは彼の艦隊にポーラへ戻るよう命じました.
(続く?)
【質問】
イタリア参戦に対し,オーストリア=ハンガリー海軍はどう対応したのですか?
【回答】
1915年5月23日にオーストリア・ハンガリー帝国に宣戦したイタリア王国は,主力となるタラント軍港にド級・前ド級戦艦,アドリア海に面した南部のブリンディジ港には巡洋艦,駆逐艦を配備し,ベネチアには前ド級戦艦2隻,装甲巡洋艦4隻を中心とした艦隊を進出させ,さらに英仏から派遣された戦艦,軽巡,駆逐艦も加えオトラント海峡の封鎖活動を始めました.
これにより,南部に退いていた英仏海軍もブリンディジを根拠地として再びアドリア海内に進出し,6月5日,イタリア海軍は仏駆逐艦4隻に護衛された巡洋艦4隻を派遣して,ダルマチア南部のラグーサ(現クロアチア領ドブロブニーク)・カッタロ間の鉄道を砲撃し,同日軽巡洋艦「ニーノ・ビクシオ」と仏伊駆逐艦4隻もリッサ島を砲撃しました.
これに対し,オーストリア・ハンガリー帝国海軍長官&艦隊総司令官のアントン・ハウス提督【大将】は,戦艦を中心とした主力艦隊の温存策をとりつつも,軽巡洋艦,駆逐艦,潜水艦を活用したTipandrunraidsと呼ばれる奇襲攻撃で敵に被害を与える作戦を取りました.
6月9日にはルドルフ・ジングレ【大尉】の指揮する潜水艦「U4」がアルバニア沿岸部で英巡洋艦「ダブリン」を雷撃して損傷を負わせ,同17日には装甲巡洋艦「サンクト・ゲオルグ」水雷艇14隻がリミニその他のイタリア沿岸を,17~18日にかけてはホルティ・ミクローシュ【大佐】の率いる軽巡洋艦「ノヴァラ」「アドミラル・スパウン」駆逐艦4隻水雷艇4隻よりなる艦隊が,アンコーナとリミニの中間にある軍事施設ファノとペサロを攻撃して打撃を与えました.
ホルティの艦隊はさらに北上してリミニも砲撃しました.
一方ドイツ本国からは分解した潜水艦(「UB1」「UB15」)が鉄道を通してポーラ港まで運び込まれ,オーストリア潜水艦「U10」「U11」として就役していましたが,6月10日に「U11」はベネチア沖でイタリア潜水艦「メドゥーサ」を撃沈し,また同26日には「U10」が同海域でイタリア水雷艇「PN5」を沈めました.
そして7月7日には潜水艦「U26」(独潜水艦「UB14」がオーストリア艦籍に編入されたもので,乗組員は全員ドイツ人)が北アドリア海に進出していたイタリア装甲巡洋艦「アマルフィ」を撃沈し,18日にはルドルフ・ジングレ【大尉】の指揮する潜水艦「U4」が南ダルマチアのラグーサ・グラヴォサ沖で,同地の鉄道を砲撃していたイタリア装甲巡洋艦「ジュゼッペ・ガリバルディ」「ヴァレーゼ」「フランチェスコ・フェルッキオ」を急襲し,旗艦「ジュゼッペ・ガリバルディ」を魚雷攻撃で沈めました.
これと同日,イタリア軽巡洋艦「マルサーラ」「クアルト」駆逐艦3隻よりなる艦隊も,別ののダルマチア沿岸部を砲撃していました.
以上のように,オーストリア潜水艦部隊はドイツの援助で着々と強化されつつあり,ドイツ本国からは分解した潜水艦を鉄道を通してポーラ港まで運び込み,この地で組み立てて順次アドリア海での戦闘に参加させ,またポーラ工廠では独のUB型をもとに新しい潜水艦を順次建造・竣工させました.
(これによりオーストリアの潜水艦は大戦中に新たに21隻(計27隻)が就役しました.)
一方オーストリア側は8月8・13日のベネチア沖と南アドリア海の戦闘で潜水艦「U3」と「U12」を失いました.
【質問】
オーストリア=ハンガリー海軍によるイタリア沿岸部砲撃作戦について教えてください.
【回答】
殆ど奥側のワンサイド・ゲームに.
オーストリア・ハンガリー帝国の同盟国であるイタリア王国は,1915年5月4日に三国同盟を破棄しましたが,当時帝国海軍長官&艦隊総司令官を務めていたアントン・ハウス提督は,5月19日には軽巡洋艦・駆逐艦部隊をアドリア海中部に派遣してイタリアのガルガノ半島沖・ペラゴサ(島)・ダルマチアのラゴスタ(島)沖防衛線の哨戒活動を行わせ,同時に潜水艦部隊をトリエステ湾とリッサ島,モンテネグロ沖に展開させてこれに備えました.
イタリアは5月23日の16:00pmにオーストリア・ハンガリーに対し宣戦しましたが,オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は全国民に当てて声明を出し,かつての海軍の英雄テゲトフの精神と諸民族の一致団結(ヴィリブス・ウニーティス)のもと,同盟に違反した新たな敵に全力で立ち向かう姿勢を示しました.
同日20:00pm,アントン・ハウス提督の指揮する,戦艦12隻巡洋艦5隻駆逐艦17隻水雷艇30隻よりなるオーストリア・ハンガリー海軍の大艦隊がポーラからアドリア海に出撃,ハウスは艦隊をいくつかに分けてアドリア海の中部から北部にかけてこれを展開させました.
ハウスの目標は,アドリア海沿岸のイタリアの都市と鉄道を砲撃してこれを破壊することでした.
オーストリア艦隊のイタリア沿岸部に対する攻撃は,翌24日の3:00amに,ホルティ・ミクローシュ【大佐】率いる軽巡洋艦「ノヴァラ」駆逐艦1隻水雷艇4隻が最北部のコルシニ(nearラベンナ)を襲撃した事により始まり,
装甲巡洋艦「サンクト・ゲオルグ」水雷艇2隻がリミニ,
準ド級戦艦「ラデツキー」水雷艇2隻がポテンツァ,
その姉妹艦「ズリーニ」水雷艇2隻がセニガリア
をそれぞれ砲撃しました.
そしてハウスとマクシミリアン・ニェゴヴァン提督【中将】の率いる,ド級戦艦「ヴィリブス・ウニーティス」「テゲトフ」「プリンツ・オイゲン」準ド級戦艦「エルツヘルツォーク・フランツ・フェルディナント」前ド級戦艦「エルツヘルツォーク・カール」「エルツヘルツォーク・フリードリヒ」「エルツヘルツォーク・フェルディナント・マックス」,同じく「ハプスブルク」とその姉妹艦「アルパード」「バーベンベルク」駆逐艦4隻水雷艇20隻よりなる本隊は,勢いよくアンコナへ進んで同地を砲撃しました.
ハウス提督は自らの旗艦「ヴィリブス・ウニーティス」ではなく,戦艦「ハプスブルク」の艦上からこの作戦を指揮しました.
一方他の艦艇は,イタリア艦隊の進攻を警戒するための偵察部隊としてアドリア海中南部に展開し,軽巡洋艦「アドミラル・スパウン」「サイダ」「ヘルゴラント」防護巡洋艦「シゲトヴァール」駆逐艦9隻がその任務を務めました.
このオーストリア海軍の(主力艦隊を含む)全体が参加する作戦任務は,(ドイツ巡洋戦艦「ゲーベン」と軽巡洋艦「ブレスラウ」を救うために出撃して以来)実に9ヶ月と半月ぶりでした.
リミニでは装甲巡洋艦「サンクト・ゲオルグ」が貨物輸送列車と鉄道橋に被害を与え,セニガリアでは準ド級戦艦「ズリーニ」が列車を破壊して鉄道駅と同橋梁に損害を与えました.
同じくその姉妹艦「ラデツキー」もポテンツァの橋梁に損害を与えました.
また最北部のコルシニでは,ホルティ・ミクローシュ【大佐】率いる軽巡洋艦「ノヴァラ」を中心とする艦隊が,沿岸部のイタリア軍事施設と信号場を破壊し,同時に沿岸砲台と戦闘を行いました.
こういったオーストリア・ハンガリー艦隊の攻撃に対し,軽い防備が施されたイタリア沿岸部からは,ほとんど反応がありませんでした.
ただし,イタリア軍の沿岸砲台と戦闘を行ったホルティ艦長の「ノヴァラ」からは6名の死傷者が出ており,これはオーストリア側の唯一の死者であり,「ノヴァラ」は損害を受けた数少ない艦艇の1つとなりました.
一方アンコナは,ハウス【大将】とニェゴヴァン【中将】率いるオーストリア・ハンガリー海軍本隊(主力艦隊)の激しい砲撃にさらされており,これにより電気・ガス・そして電話サービスが一時的に途絶し,鉄道駅とアンコナ郊外の石炭・石油施設はそのほとんどが破壊されました.
港湾部ではイタリア商船(汽船)3隻が損害を受けて1隻が撃沈されました.
都市部の損害を受けた施設には,警察署・軍の兵舎・軍事病院・砂糖精製所・そして銀行も含まれておりました.
これにより,30名の軍事施設の職員と38名の民間人が死亡し,その他150名が負傷しました.
アドリア海中南部に展開していた巡洋艦・駆逐艦よりなる偵察部隊もまた,沿岸部の鉄道に沿った拠点を攻撃しました.
バルレッタでは軽巡洋艦「ヘルゴラント」がイタリア軍要塞と貨物輸送列車を砲撃し,
テルモリでは軽巡洋艦「アドミラル・スパウン」が鉄道橋梁と貨物輸送列車に被害を与え,
カンポマリノの駅舎と貨物輸送工場を破壊しました.
マンフレドニアでは駆逐艦2隻が鉄道駅と構内を砲撃し,陸橋・商船・工場にも損害を与えました.
その後,偵察部隊は巡洋艦2隻・駆逐艦2隻よりなるイタリア海軍艦艇と出くわしましたが,ペラゴサ島沖で軽巡洋艦「ヘルゴラント」と駆逐艦3隻よりなるオーストリア艦隊は,イタリア駆逐艦「タービン」を追い詰めて,これを撃沈しました.
ただし,「タービン」の攻撃でオーストリア駆逐艦「セペル」も軽い被害を受けており,その乗組員数名も負傷させられました.
その戦闘の後,「セペル」艦長ジャンコ・ブコヴィッチは〝その予想を遥かに超えていた〟というイタリア国籍・同艦艇乗組員の奮闘を高く評価したようです.
オーストリア艦隊の攻撃により,イタリア沿岸部の鉄道は長い間機能不能状態となりました.
ただ,初日に軍用列車が中心部と南部から前線に向かうと同時に,イタリア側は別のルートへと方向転換せざるを得なくなりました.
イタリア国民は意気消沈し,特に砲撃を受けた都市の市民とローマの代表者達は,オーストリア・ハンガリー海軍が300マイルもの海岸線にわたる多くの拠点を(ほとんど損害を受けずに)砲撃できた事,その艦艇を失う事なく自国の港に戻れた事に驚かされました.
【質問】
ペラゴサ島攻防戦について教えてください.
【回答】
イタリア海軍は1915年7月11日にリッサ島の南80キロに位置するオーストリア領のペラゴサ島を急襲してこれを占領しました.
オーストリア・ハンガリー海軍はアドリア海中部のイタリア・ガルガノ半島~ペラゴサ島~ダルマチアのラゴスタ島にかけて防衛ラインを設定しており,ペラゴサ島はオーストリア海軍の戦略上重要な拠点でした.
イタリア側はアドリア海を南北に分断してオーストリア海軍を遮断するための足がかりとして,またダルマチア沿岸部に対する偵察拠点確保のためにペラゴサ島へ進出しようとしたようです.
イタリア海軍はどのような艦隊構成でこの島を攻撃・占拠したかについては,手元に資料がないためよくわからないのですが,当時島にはオーストリア軍の通信兵が6名しかおらず,イタリア軍は40~90名の兵を上陸させて3インチの銃砲2門たらずでこれを占拠したようです.
以後イタリア海軍は,島とその周辺部に潜水艦部隊を配備するようになりました.
また7月12日には,北東に位置するラゴスタ島をフランス艦艇が砲撃したようですが,フランス軍の同島占領を望まないイタリア政府は,これを拒絶しました.
これにより,オーストリア海軍のアントン・ハウス提督はラゴスタ島の防衛ラインを強化するとともに,7月19日には水雷艇3隻でリッサ島沖での機雷施設を開始しました.
早くも7月13日には,オーストリア駆逐艦「タトラ」が空中からの偵察機の支援により,ペラゴサ島のイタリア側の拠点砲撃を試みたようですが,これがフランス潜水艦「フレスネル」に阻止されたり,同艦がオーストリア水上飛行艇の攻撃を受けたりと早くも戦闘が始まりました.
オーストリア海軍は7月27~28日にかけては,軽巡洋艦「ヘルゴラント」「サイダ」駆逐艦(タトラ級)6隻,水雷艇4隻よりなる艦隊をペラゴサ島に派遣し,108名の兵を上陸させましたが,以後2週間にわたり抵抗を受けたようです.
オーストリア・イタリア両国軍がどのような戦闘を行ったのかは資料不足でわかりませんが,ただこの時オーストリア駆逐艦「バラトン」がフランス潜水艦「アンペレ」の雷撃を受けました.
まあ大事には至らなかったようですが・・.
一方オーストリア海軍の根拠地ポーラからは,7月31日に準ド級戦艦「エルツヘルツォーク・フランツ・フェルディナント」前ド級戦艦「エルツヘルツォーク・カール」「エルツヘルツォーク・フリードリヒ」「エルツヘルツォーク・フェルディナント・マックス」巡洋艦3隻,駆逐艦16隻が出動したものの,48時間後には港に戻ってきております.
これは外洋に出動しようとしていたのか,それともポーラ周辺部の哨戒活動に出ていたのか,詳しい事情や目的はちとわかりませんが・・.
ただし潜水艦部隊はペラゴサ島方面に出動させたようで,8月5日にはゲオルグ・フォン・トラップ【中尉】の指揮する潜水艦「U5」が,ペラゴサ島沖合部に展開していたイタリア潜水艦「ネリーデ」と交戦してこれを撃沈しました.
その後8月16~17日にかけて軽巡洋艦「ヘルゴラント」「サイダ」駆逐艦4隻,水雷艇4隻よりなるオーストリア艦隊が再びペラゴサ島を攻撃しました.
この時駆逐艦「ディナラ」が敵潜水艦の雷撃を受けたようですが,特に大事には至らなかったようで,イタリア側は貯水施設に被害を受けた後,この島から撤退していきました.
ペラゴサ島を巡るイタリア・オーストリア両国軍の攻防についてですが,手持ちの『Thenavalpolicy~』の文献によると,
「Thegarrison(イタリア軍守備隊は)withstood(よく持ちこたえた)an
attack on 28July.(7月28日のオーストリア軍の攻撃に対し)〔281頁〕」という記述がある事から,両国間にそれなりの激戦?らしきものがあったと思われます.
その後
「Pelagosa was evacuated on 18 August, one
day after a heavy shelling from the scout
cruisers Saida and Helgoland and several
destroyers.〔同頁〕」
とあり,イタリア軍がどのような形で島から兵を撤退させたのか興味がある所です.
もちろんゲオルグ・フォン・トラップ【中尉】の活躍も,
「the U5-then still under Trapp's command-torpedoed
and sank the Italian submarine Nereide.〔同頁〕」
という形で記述されております.
【質問】
オーストリア=ハンガリー海軍は,オスマン帝国への支援はしなかったの?
【回答】
検討されたが,実行はされていません.
1915年2月下旬,連合国海軍によるオスマン帝国のダーダネルス海峡への攻撃が始まると,ドイツはハウス提督に対し,オスマン帝国に艦艇を送って援助するよう圧力をかけてきました.
ハウスは(一時)新しく竣工した最新軽巡洋艦「ノヴァラ」とその姉妹艦「アドミラル・スパウン」に軍需物資を積み込んでトルコへ送る事を検討していたようで,
特に,大胆さと勇気さを兼ね備えたホルティ【大佐】が艦長を務める「ノヴァラ」がその任務に適していると考えました.
しかし最終的に,その任務はリスクが大きすぎると判断したようです.
ドイツはまた,オーストリア海軍に対し潜水艦2隻を,ダーダネルス海峡へ派遣して,同地の連合国海軍に当たらせるよう要請してきました.
しかし,当時のオーストリア海軍には戦闘に用いる事のできる潜水艦が5隻しかなく,ハウスが拒否したためにこれも立ち消えとなりました.
【質問】
軽巡「ノヴァラ」の独潜曳航作戦について教えてください.
【回答】
オーストリア・ハンガリー帝国海軍の改アドミラル・スパウン級軽巡洋艦「ノヴァラ」は1915年1月10日,フューメ(現クロアチア領リエカ)のダヌビウス造船所で竣工しましたが,ホルティ・ミクローシュ【大佐】が艦長を務める同艦に初の大仕事が回ってきました.
ドイツは,オーストリア海軍に対し潜水艦2隻を,ダーダネルス海峡へ派遣して,同地の連合国海軍に当たらせるよう要請してきました.
しかし,当時のオーストリア海軍には戦闘に用いる事のできる潜水艦が5隻しかなく,ハウス提督はそれを拒否.
ドイツはそのため,自国海軍の潜水艦を同地に送る事を考えました.
そこで,オーストリア海軍の水上艦がドイツ潜水艦をギリシャのイオニア海域まで牽引する事となり,5月2日にホルティ艦長の軽巡「ノヴァラ」はドイツ潜水艦「UB8」を伴い,ポーラを出航しました.
その後2隻の艦艇はオトラント海峡を無事に通過しましたが,すでに同海峡を封鎖していたフランス巡洋艦隊が退いてから1週間近くが経過しておりました.
(4月26~27日にかけて,ゲオルグ・フォン・トラップ【中尉】の指揮するオーストリア潜水艦「U5」が,同海峡を哨戒していた仏装甲巡洋艦「レオン・ガンベッタ」を撃沈した事による)
とあるサイトによると,5月6日にホルティ艦長の軽巡「ノヴァラ」は,イオニア海のキファリニア島沖で,同海域に退いていたフランス艦隊と遭遇したらしいのですが,それを見事にかわし,独潜水艦を切り離した後,無事にアドリア海内の母港へ戻る事に成功したようです.
(潜水艦は11日にコンスタンティノープルに到着)
ホルティが作戦任務を行った場所は,カッタロから約300マイル南の地にありました.
その後,5月15~16日にはオーストリア駆逐艦「トリグラヴ」が独潜「UB7」を伴い,ホルティの偉業に続きました.
それから3週間後の5月24日3:00am,ホルティは軽巡「ノヴァラ」駆逐艦1隻水雷艇4隻を率い,オーストリア・ハンガリー艦隊の先陣を切って,アドリア海に面したイタリア北部のコルシニを襲撃,同地の沿岸砲台と接近戦を交えたのです.
【質問】
提督アントン・ハウスはどんな人物か?
【回答】
提督アントン・ハウスは1851年6月13日にスロベニアのトルメインにて出生,1869年に海軍に入りました.
その後フューメ(現クロアチア領リエカ)の海軍士官学校の指導者として,有名な書物「Oceanography
andMaritime Meteorology」を公表したのですが,1900年にはアジアにて軍艦を指揮(自身は装甲巡洋艦マリア・テレジアの艦長だった),そして義和団の反乱の間他の欧米列強と共に海兵隊を中国(清国)の北京に侵攻させました.
彼は1902年まで北京に留まり,1907年に海軍中将に昇進,そしてその年の5月から10月にかけてはオーストリア・ハンガリーの代表としてハーグの第2平和会議に参加しております.
1912年より海軍及び艦隊の司令官,その後1913年2月22日にモンテクッコリが辞任した後,皇帝フランツ・ヨーゼフ1世より海軍長官(大将)及び艦隊司令長官に指名され,同年の独・墺・伊の三国同盟更新時には,彼が地中海の三国連合艦隊の総指揮にあたり,非常時には仏海軍などに対応する予定だったようです.
彼は海軍の戦略家として高く評価されていたようで,
「帝国の艦隊は,敵を積極的に攻撃するために用いられるのではなく,あくまで地中海における連合国海軍の活動を抑止させるための手段として位置づけられるべき」
という考えを主張.
第一次大戦時には戦艦を中心とする主力艦隊の温存策を採りましたが,大戦勃発直後の8月上旬には,ド級・準ド級戦艦6隻,巡洋艦2隻,駆逐艦・水雷艇19隻よりなる艦隊を,当時地中海にいたドイツ巡洋戦艦ゲーベン,軽巡洋艦ブレスラウ護衛&アドリア海南部の哨戒を目的として(英仏との正面衝突を避けつつ)一時出動させており,1915年5月23日にイタリアが対墺宣戦した直後には,戦艦12隻,巡洋艦5隻,駆逐艦17隻,水雷艇30隻よりなる大艦隊をアドリア海北部のイタリア沿岸部に出撃させ,自身はマクシミリアン・ニェゴヴァン中将と共にド級戦艦ヴィリブス・ウニーティス以下の戦艦10隻,駆逐艦4隻,水雷艇20隻の本隊を率いアンコナを砲撃しました.
興味深いのは,彼が旗艦ヴィリブス・ウニーティスではなく戦艦ハプスブルクの艦上からこの作戦を指揮したことで,その後は軽,艦艇や潜水艦を用いたTipand
run raidsと呼ばれる奇襲攻撃により,イタリアなどの連合国海軍を苦しめますが,彼はドイツの無制限潜水艦戦を支持した数少ないオーストリアの指導者の1人だったようです.
1916年にはGrand Admiralの称号を得ましたが,肺炎により1917年2月8日にポーラのド級艦ヴィリブス・ウニーティス艦上で死去,享年66歳.
彼の遺体は戦後7年を経て,1925年にウイーンに移されました.
・・余談ですが,彼は帝国内のいくつもの言語を話すことができ,またピアノに熟練し,珍しい植物収集を趣味とした知性的な紳士だったようです.
【質問】
「サウンド・オブ・ミュージック」のトラップ少佐は,オーストリアの人なのに,なぜ海軍なのですか?
【回答】
トラップ少佐はサブマリンエースです.
オーストリア・ハンガリー海軍では第一次大戦前に潜水艦部隊が編成されると,伝統にとらわれない気風と高給により,若い士官の関心を引きました.
開戦時7隻の近海用潜水艦しか持っていませんでしたが,フォン・トラップ中尉はその中の艦長の一人でした.
海軍上層部の無理解により,オーストリア・ハンガリー海軍の潜水艦作戦範囲は母港であるプーラ付近にのみ許可が出されていて,アドリア海南部での戦闘も困難でしたので,1916年末時点で中小型船を18艘しか沈めることが出来ませんでした.
しかし17年になり,ようやく考えを改めた海軍は,随一の長距離作戦が可能なU-14と新型のU-10型2隻の潜水艦を南のカッタロに移動させて無制限潜水艦戦を宣言しました.
ホルティ提督の艦隊のオトラント海峡の連合国封鎖線襲撃により,地中海に出撃可能となったU-14は,2ヶ月で合計3万トンの船舶を撃沈する戦果を挙げました.
戦勝ニュースに飢えていた新聞はU-14の艦長フォン・トラップを盛んにエースとして取り上げ,国民的英雄扱いしました.
映画「サウンド オブ ミュージック」のエピソードにありますように,ドイツがトラップ少佐を自軍に招こうとしていたのは潜水艦戦のエースである彼の実績と名声を欲していたからです.
(軍事板)
トラップ少佐とイタリア海軍とのやりとりで印象的なのは,アドリア海中部のオーストリア領・ペラゴサ島をめぐる戦いです.
ペラゴサ島はアドリア海の戦略上重要な拠点であり,イタリアはここを占領してダルマチア攻撃のための足がかりを築こうとしました.
1915年7月11日,イタリア海軍はペラゴサ島を急襲してこれを占領し――当時,島にはオーストリアの通信兵が6名しかおらず,イタリアは難なくこれを占領――,以後周辺部に潜水艦部隊を配備するようになりました.
これに対してオーストリア海軍は,巡洋艦・駆逐艦部隊を派遣して兵の上陸を試みましたが,これは伊仏潜水艦部隊と島の守備兵の抵抗によって阻止されたため,ひとまず艦隊を撤退させました.
その一方,潜水艦を同地に派遣してこれに対抗させ,8月5日にはゲオルグ・フォン・トラップの指揮する潜水艦U5が,沖合部に展開していたイタリア潜水艦ネリーデと交戦してこれを撃沈してからは戦局はオーストリア側が有利となり,8月16・17日には再び派遣されてきた軽巡洋艦ヘルゴラント,サイダ,駆逐艦4隻,水雷艇4隻よりなるオーストリア艦隊の総攻撃により,島の奪回に成功しました.
von Trapp
(画像掲示板より引用)
【質問】
トラップ男爵の最終階級は大佐ではないのか?
【回答】
トラップ男爵(正確には准男爵)だが,開戦時は上級中尉(英米軍でいう中尉と大尉の間の階級)だった.
開戦後,武勲を挙げるに従って昇進したが,少佐で終わった.大佐には程遠いランクであった.
今は亡き帝政オーストリア=ハンガリー二重帝国海軍の佐官は大佐,上級中佐,中佐,少佐の4段階であって,それぞれカピテーン・ツール・ゼー,フロッテイレン・カピテーン(戦隊指揮官),フレガッテン・カピテーン軽巡洋艦指揮官),コルベッテン・カピテーン(護衛艦指揮官)となるが,これらの呼称は略すと全て「カピテーン」になってしまう.そこを英語に置き換えれば,「海軍大佐殿」に化けてしまうことになる.
今は絶版となっている三笠書房の「トラップ一家物語」(後妻のマリアが書いた自伝)でも,ナチ・ドイツによる「併合」が行われた夜,執事のフランツが「ヘル・コルベッテンカピテーン(海軍少佐殿)」と呼びかけるところがある.20年連れ添った旦那の軍歴と階級を間違える訳はない.
また,ドイツで発行されている「世界海軍著名軍人略伝」の中でも「海軍少佐」と明記されている.
ゲオルク・トラップ経歴
1894-1989海軍兵学校
1898海兵隊少尉に任官
1900義和団事件に従軍
1908航海科に転科(階級・Linienschiffsleutnant)
1908潜水艦隊に配属
1911U4艦長に就任(階級・Kommandant)
1915U5艦長に転任(階級・Kommandant)
1915レオン・ガンベッタ撃沈
1916U14艦長に転任(階級・Kommandant)
1917貨物船ミラッツォ撃沈
1918階級Korvettenkapitaen
1918Uボートステーション・ゴルフvカッタロに転任(階級・Kommandant)
1919予備役編入
授章メダルは,
マリアテレジア騎士十字勲章
レオポルト騎士十字勲章
三級アイゼルネクローネ勲章
戦功銀章
三級軍事十字章
戦功銅章
ドイツ一級鉄十字章
ドイツ二級鉄十字章
オットー戦功章
カール勇猛章
WW1従軍記念章
義和団従軍記念章
勇猛勲章(義和団事件戦功)
【質問】
トラップ少佐と同じように潜水艦で活躍したレルヒは日本じゃマイナーですが,戦後はどうなったんで? ドイツ海軍入り? 亡命?
【回答】
実はレルヒ Egon Lerch は戦後まで生きておりません.1915年8月の北アドリア海の戦闘で命を落としております.
彼は14年12月末のオトラント海峡でフランスのド級戦艦ジャン・バール(防護巡洋艦ツェンタの仇)に魚雷2発をぶち当て,これに損害を与えた(大戦を通しオーストリアUボートが敵戦艦に損害を与えた唯一の例)ことで,戦史に名を残しています.
また,彼はルドルフ皇太子の娘さんの愛人だったようで,塚本哲也著「エリザベート~ハプスブルク家最後の皇女」文芸春秋
にもその事が出てきております.
【質問】
トラップ少佐やジングレ大尉と共にマリア・テレジア騎士十字章を受賞したヘルマン・リジーレ(Herman
Rigele)大尉の第一次大戦中の戦歴は?
【回答】
1918年9月に入るとオトラント海峡には駆逐艦31隻・水雷艇10隻・潜水艦8隻・駆潜艇36隻(米艦艇)
・ドリフター153隻といった,大小合わせて250隻を超える連合国艦艇が集結し,10月2日には伊戦艦3隻・伊英巡洋艦8隻・同駆逐艦16隻・水雷艇8隻・米駆潜艇と伊MASよりなる艦隊が北上,アルバニア沿岸部のオーストリア勢力下の都市ドウラッツオを砲撃しました.
対するオーストリア側は,駆逐艦・水雷艇・潜水艦の小部隊が敵艦隊への襲撃を試みたようで,この
時ヘルマン・リジーレ(Herman Rigele)大尉の指揮する潜水艦U31が,英巡洋艦Weymouthに対し魚雷攻撃を行ないましたが,最終的にこれを沈没させるまでには至りませんでした.
そしてその2週間後の10月17日にオーストリア潜水艦部隊に対し戦闘中止命令が下されました.
【質問】
マリア・テレジア軍功十字章とは?
【回答】
1757年7月18日のコリーンの戦いの大勝利を記念してマリア・テレジア女帝により設けられた
,帝国内の士官への最高軍事勲章です.
中央にオーストリアの紋章を配し,周りにラテン語で「勇気」と記されています.
世襲の貴族称号も併せ持つ勲章であり,1918年11月まで授与されました.
この章には,「大十字章」と「軍司令官十字章」と「騎士十字章」とがあります.
しかし上の二つは,国家元首や最高司令官級や軍司令官などに贈られる「儀礼的な勲章」と考えたほうがいいので,実際上は3番目の騎士十字章が代表的な戦功勲章となるでしょう.
110個が贈られたそうです.上は大将から下は中尉まで受賞者の階級は様々です.
Uボートの艦長で受賞したのは3人で,トラップのほかはルドルフ・ジングーレ(Rudolf
Singule)大尉とヘルマン・リジーレ(Herman Rigele)大尉です.
リジーレ大尉は受賞者の最後の生存者として,1982年に101歳の生涯を閉じたそうです.
養老院で慰問のために上映された「サウンド・オブ・ミュージック」を見て,かつての畏友トラップ少佐が「コケ」にされていると,彼はカンカンになったというエピソードが伝えられています.