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◆◆◆艦艇 Hadihajók
<◆◆オーストリア=ハンガリー海軍 Császári és Királyi Haditengerészet
<◆海軍
第一次世界大戦FAQ目次


 【Link】

STEAMERS REQUISITIONED OR HIRED FROM LLOYD AUSTRIACO AND OTHER SOURCES
(二重帝国軍による徴発/雇い汽船リスト&船暦有,英語)


 【質問】
 開戦前夜時のオーストリア=ハンガリー海軍艦艇配備状況は?

 【回答】
 第1戦闘艦隊〔マクシミリアン・ニェゴヴァン中将〕
ド級戦艦(艦隊旗艦)フィリブス・ウニーティス〔アントン・ハウス大将(艦隊総司令官)〕,テゲトフ,プリンツ・オイゲン(第1戦艦隊)
準ド級戦艦エルツヘルツォーク・フランツ・フェルディナント,ラデツキー,ズリーニ(第2戦艦隊)
 第2戦闘艦隊〔フランツ・レイフラー少将〕
前ド級戦艦エルツヘルツォーク・カール,エルツヘルツオーク・フリードリヒ,エルツヘルツォーク・フェルディナント・マックス(第3戦艦隊)
ハプスブルク,アルパード,バーベンベルク(第4戦艦隊)

 巡洋艦隊〔ポール・フィードラー中将〕
装甲巡洋艦サンクト・ゲオルグ,カイザー・カール6世,カイゼリンウントケイニギン・マリア・テレジア,
軽巡洋艦(防護巡洋艦)ツェンタ,アスペルン,シゲトヴァール
 第1水雷艦隊
軽巡洋艦サイダ,駆逐艦12隻,水雷艇10隻 
 第2水雷艦隊
軽巡洋艦アドミラル・スパウン,駆逐艦6隻,水雷艇18隻
 
 沿岸守備艦隊
海防戦艦モナーク,ウイーン,ブダペスト(第5戦艦隊)
防護巡洋艦カイザー・フランツ・ヨーゼフ1世,
水雷巡洋艦パンター

 各軍港に配備
□トリエステ
 水雷艇4隻
□ポーラ(現クロアチア領プーラ)
 装甲艦マルス(旧テゲトフ),駆逐艦3隻,水雷艇15隻,潜水艦6隻 
□セベニコ(現クロアチア領シベニク)
 水雷艇10隻
□カッタロ(現セルビア・モンテネグロ領コトル)
 砲塔装甲艦クロンプリンツ・エルツヘルツォーク・ルドルフ,水雷艇6隻
□フューメ(現クロアチア領リエカ)にて,
 ド級戦艦セント・イシュトヴァーン,軽巡洋艦ヘルゴラント,ノヴァラ〔⇔ホルティ・ミクローシュ提督)が建造中
□中華民国・青島にて
 防護巡洋艦カイゼリン・エリザベートが寄港中
□ポーラ(現クロアチア領プーラ)
 装甲艦マルス(旧テゲトフ),駆逐艦3隻,水雷艇15隻,
 潜水艦U1,U2,U3,U4,U5〔艦長ゲオルグ・フォン・トラップ〕,U6 +U12(まもなく竣工)

From "The Naval Policy of Austria-Hungary 1867-1918"


 【質問】
 開戦直後,アドリア海の外にいたオーストリア=ハンガリー艦船はどうなったの?

 【回答】
 第一次大戦勃発当時にアドリア海の外にあった海軍艦艇は計2隻でした.
 このうち,汽船「タウルス(Taurus)」は,コンスタンティノープルに停泊しておりましたが,これは即座に動いてオーストリア本国に戻ることに成功しました.
 そしてかの有名な防護巡洋艦「カイゼリン・エリザベート」は,1週間前の7月21日に中華民国のドイツ租借都市・青島に入港しておりました.
(同艦は1913年8月19日にポーラを出航していた)

 あと大戦勃発前に世界中にちらばっていたオーストリア・ハンガリーの商船群ですが,これは各港で拿捕・抑留されてしまいました.
 The Austrian Lloyd社は汽船8隻が海外の港に抑留(内英国4隻ポルトガル1隻中国3隻)され,Hungarian Adria Line社も8隻の大型船を失いました(内スペイン2隻ブラジル2隻オランダ・フランス・ポルトガル・ロシア各1隻).
 Austro-Americana社は特に多数の船舶の喪失に悩まされ,海外で抑留された船は計18隻にのぼりました(内アメリカ8隻スペイン5隻ブラジル2隻アルゼンチン2隻キューバ1隻).

 その一方,大戦勃発から2週間後には,Lloyd社の蒸気船「Baron Gautsch」が,ポーラ沖のオーストリア海軍機雷敷設域に迷い込むという事件が起こりました.
 同船は大戦勃発により,東地中海の様々な港に取り残された自国の行楽・保養客を満載して,カッタロ~トリエステ間航路を航行中でしたが,最終的に船は沈没して147名が死亡,生存者は159名でした.

ハウス in 世界史板


 【質問】
 二重帝国の海軍戦艦は,どのように評価されているのか?

 【回答】
 でわ,福井静夫の二重帝国海軍戦艦評なぞを.

 それは,英国系の技術を基とし,またその戦艦の性格は極めて英国のものと類似している.
 アドリア海と言う制限された作戦海面のために,その装甲艦(戦艦)は,
(1)伊海軍の対応艦を目標とした.
(2)作戦海面の特徴である多島嶼,狭水路の運動に適するよう,比較的小型,高速を目的とし,主砲,副砲の配置に苦心の跡が見られる.

 英国式装甲艦は,多年二重帝国海軍の中核であって,ポプラーのサミューダ造船所で外国向きに多数建造された,所謂,エドワード・リード式装甲艦の系統であり,我が扶桑(初代)や,当時のトルコ戦艦の多数と同系統のものである.

 二重帝国の戦艦の特徴として,

 (1) リッサ海戦以後,特にラムを重視し,頑丈,かつ著しい艦首の突出ラムを有し,また重砲(主砲及び準主砲)の前方射撃を良好とした.
 その門数の50%以上は前方に発射可能である.この傾向は,第一次大戦時の弩級艦,即ち最後の主力艦まで一貫している.

 (2) 第一次大戦時の弩級艦は三連装30cm砲塔4基を背負式として搭載し,近代戦艦の主砲配置として,断然進歩した方法を率先して採用,
当時の列強海軍の注目の的となった.
 しかし,主砲の爆風が強く,また,その機構の作動など,色々の欠点があったようで,次いで第一次大戦末までに計画された(設計のみ)新大型戦艦及び巡洋戦艦は,この方式を廃止し,大戦前のドイツ戦艦の要領に近い方法にと転換を意図しつつあったようである.
(一方ではドイツ海軍は二重帝国海軍式の「Michigan」配置へと転換しつつあった.

 (3) 軍港としてはアドリア海北部のポーラと同南部のカッタロを主に使用した.
 前者は立派な大軍港で工廠もあり,後者は第一次大戦中に作戦基地として使用され,整備された.
 ポーラ軍港は二重帝国海軍の全艦隊を収容できる大軍港であった.

 (4) 戦艦の建造は,ポーラ工廠とトリエステの造船所で行った.
 トリエステのスタビリメント・テクニコ社は世界一流の大造船所で,付近にも大艦を建造できる分工場を有し(第一次大戦後はイタリアの大造船所となり,現在に至る),弩級艦などはここで建造された.
 他にも相当の施設があり,ポーラ工廠も巨艦を建造する様に拡張中であった.

 (5) 砲は主にクルップ系とシュコダ系を使用した.
 しかし,弩級艦の3連装30cm砲は,英国Vickersの技術を導入したという.

 (6) 魚雷は英国のホワイトヘッドが発明して実用化した直後に,その工場をフューメに設立し,此処で生産するホワイトヘッド魚雷は,世界の各海軍が使用し,我が国でも明治10年代より,ここから購入した.

 (7) 二重帝国の戦艦は,第一次大戦では優勢な伊および連合国海軍(主に英)にアドリア海入口のオトラント海峡を厳重に封鎖され,アドリア海内でも制海権を伊に抑えられて,ポーラ軍港に留まり,時折出撃するくらいであった.
 しかし,その性能より見るに,決してアドリア海のみの行動に我慢したようではない.
 殊にラデツキー型およびフィリブス・ウニーティス型弩級艦は,当時の一流戦艦であり,その7隻の存在は伊海軍にとって一大脅威であり,特攻的襲撃で弩級艦4隻中2隻を沈めることに成功した.
 しかし一般的に見て,航続力は他国の大戦艦と同じであっても,二重帝国海軍戦艦の居住性はかなり苦しく,長期の連続外洋行動は不必要のためもあるが,性能的に困難だったと思われる.
 その主因の一つは,立派なダメージ・コントロール装置と,防御区画法であったようだ.
 二重帝国海軍のダメージ・コントロールは第一次大戦中,独戦艦のそれに比肩しうる程であって,戦後押収した二重帝国海軍戦艦の艦内を調査した連合国技術調査団に,大なる感銘を与えている.
 例えば,前弩級艦ラデツキーの応急訓練及びそのダメージ・コントロール取扱書の完備などは,独戦艦以上のものであったという.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 世界史板)


 【質問】
 中華民国向けに建造されていた艦艇を,なぜオーストリア=ハンガリー海軍は接収しようとしたの?

 【回答】
 喪失艦艇の埋め合わせのためです.

 オーストリア海軍は1914年に防護巡洋艦「ツェンタ」と「カイゼリン・エリザベート」を失いましたが,こういった喪失艦艇の埋め合わせをする事がほとんどできず,中華民国用に建造されていた4900トン級大型巡洋艦と1860トン級巡洋艦3隻を接収しようと考えました.
 ちなみに,これらの艦艇を建造していたモンファルコーネ(トリエステ北西部)の造船所ですが,パイロンズオフィス編『未完成艦名鑑1906~45』(光栄,1998/1)によると

 イタリアの参戦後に,一時イタリア軍に造船所ごと占領されるという事態に陥ったが,オーストリア軍が造船所を再占領し,ことなきを得ている.
 その後(上記大型巡洋艦は)オーストリア式の武装で再設計され,同海軍の巡洋艦として建造が続けられたが,結局竣工しないまま廃棄された.〔44頁〕

との事です.

HAUS◆Vsb1IJhbMs in 世界史板

 余談ですが,基本的にオーストリア・ハンガリー二重帝国の諸艦は,大多数がSTT(Stabilimento Tecnico Triestino)で,一部がDanubiusで建造されています.
 Danubiusは王国領のフィウメにあり,STTは帝国領のトリエステですね.
 あと,トリエステにはCNT(CantiereNavaleTriestino)とMonfalconeがあります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 世界史板


 【質問】
 終戦時のオーストリア=ハンガリー海軍艦艇配備状況は?

 【回答】
◇終戦時のオーストリア=ハンガリー海軍艦艇配備状況◇

【ポーラ軍港】
 準ド級戦艦Radetzky,Zrinyi,Erzherzog Franz Ferdinand
 ド級戦艦Prinz Eugen,Tegetthoff,(×Viribus Unitis)
(以上軍港内の北西から南東にかけて並んでいた主力艦艇)

 前ド級戦艦Habsburg,Arpad,Babenberg
 海防戦艦Budapest,
 装甲艦Mars
 装甲巡洋艦Kaiserin und Konigin Maria Theresa
 防護巡洋艦Aspern,Szigetvar
 水雷巡洋艦Leopard
 駆逐艦Tatra[Balaton]Csepel,Blitz,Csikos,Dinara,Huszar,Orjen,Planet,Trabant,Turul,Ulan[Uskoke,Velebit,Warasdiner]
 水雷艇Tb8,10,74,77,78,81,86,94,98 [Tb51,59,64,67,68,70,75,80,90,92,95,99]

【カッタロ軍港】
 前ド級戦艦Erzherzog Karl,Erzherzog Friedrich,Erzherzog Ferdinand Max
 海防戦艦Monarch
 装甲巡洋艦Sankt Georg
 防護巡洋艦Kaiser Franz Josef I
 水雷巡洋艦Panther
 駆逐艦Pandur,Reka,Satellit,Scharfschutze
 水雷艇Tb6,9,15,54,62,73,76,79,82,83,85,87,88,89,93,97,100

(ハウス in 世界史板)


 【質問】
 オーストリア=ハンガリーの残存艦艇は,その後どうなったのか?

 【回答】
弩級戦艦Tegetthoff(テゲトフ)
 休戦と同時に独立を認めたユーゴに移管するも,伊の主張で賠償艦として同国に引渡.
 艦籍に編入せず24年解体.
 [世界の艦船増刊近代戦艦史]

弩級戦艦Prinz Eugen(プリンツ・オイゲン)Tegetthoffと同型
 ユーゴから賠償艦としてフランスに引渡,22年にツーロン沖で標的として撃沈.
 [世界の艦船増刊近代戦艦史]

準弩級戦艦Erzherzog Flanz Ferdinand(エルツヘルツォーク・フランツ・フェルジナンド)
 上記Tegetthoffとともに伊への戦利艦として19年3月22日ヴェネチアに到着.
  [世界の艦船No108(1966年8月号)掲載の「写真オーストリア戦艦史下」]

沿岸防御用小型戦艦Erzherzog Kronprinz Rudolf(エルツヘルツォーク・クローンプリンツ・ルドルフ)
 20年ユーゴに引渡(以後不明)
 福井静夫氏の「世界戦艦物語」によると1887年進水の老兵,すると早々に除籍か?
 どこで見たのか記憶が確かでないですが,ユーゴに譲渡された旧オーストリア戦艦,それをフランコパンナ?とか命名したと言う話,この艦のことでしょうか?
[第二次大戦駆逐艦総覧:大日本絵画]

Habsburg級前弩級艦 Habsburg/Arpad/Babenberg(1900~02)
 全艦英国に引き渡されたが,1921年にイタリアで売却,解体.

Erzherzog Karl級前弩級艦 Erzherzog Karl/Erzherzog Friedrich/Erzherzog Ferdinand Max(1903~05)
 3隻ともYugoslavia海軍に引き渡されたが,フランスと英国に賠償として引き渡され,売却,解体.

海防戦艦 Kronprinzessin Erzherzogin Stephanie(1887)
 1910年には除籍され,機雷学校の練習船になっていたが,1920年イタリアに賠償として引き渡し,
 1926年,繋留地で解体.

海防戦艦 Kronprinz Erzherzog Rudolf(1887)
 1919年にYugoslavia海軍に賠償として引き渡され,Kumborと改名.
 しかし,老朽化のため1922年に解体.

Monarch級海防戦艦 Monarch/Budapest(1895~96)
 両艦とも英国に引き渡され,1920~21年に掛けてイタリアで売却,解体.

軽巡洋艦Novara(ノヴァラ)
 仏戦利艦,巡洋艦Thionville(ティオンヴィル)として短期間使用.
 [世界の艦船増刊フランス巡洋艦史]

軽巡洋艦Saida(サイダ)
 20年9月19日イタリアに引渡,21年より巡洋艦Venezia(ヴェネチア)として使用.
 37年3月11日除籍

軽巡洋艦Helgoland(ヘルゴランド)Saidaの同型艦
 20年9月19日イタリアに引渡,23年より巡洋艦Brindisi(ブリンディジ)として使用.
 37年3月11日除籍
 [世界の艦船増刊イタリア巡洋艦史]

装甲巡洋艦 Kaiserin und Koenigin Maria Theresia(1893)
 老朽化のため除籍状態で,1917年に武装撤去(武装はイタリア戦線へ)され,
 ドイツ潜水艦乗員の宿泊船となり,1920年に英国に引き渡し,イタリアで売却解体.

装甲巡洋艦 Kaiser KarlVI(1898)
 1920年英国に引き渡し,イタリアで解体.

装甲巡洋艦 Sankt Grorg(1903)
 1920年英国に引き渡し,イタリアで解体.

防護巡洋艦 Kaiser Franz Joseph I(1898)
 僚艦Kaiserin Elisabethは青島で自沈.
 1917年に武装を撤去し,水上司令部として機能していたが,1919年にフランスに引き渡し.
 引き渡しの途次,大嵐によって1919.10.にCattaro湾のKumborで沈む.

軽巡洋艦 Panther級 Panther/Leopard(1885)
 英国に賠償として引き渡し,1920年,イタリアで売却解体.
 ちなみに,この艦は英国が提唱していた,雷装衝角艦を具現化したもの.

軽巡洋艦 Tiger(1887)
 1919年にYugoslavia海軍に引き渡されたが,1920年にイタリアが賠償として没収し,売却解体.

軽巡洋艦 Zenta級 Aspern/Szigetvar(1897~1900)
 英国に賠償として引き渡し,1920年,イタリアで売却解体.

駆逐艦,主力駆逐艦7隻が20年9月伊に戦利艦として移籍.
 Tatra(タトラ),Fasana(ファサナ)と命名,23年除籍.
 Balaton(バラトン),Zenzon(ゼンゾン)と命名,23年除籍.
 Csepel(チェペル),Muggia(ムッジア)と命名29年3月15日廈門沖で台風で喪失.
 Orzen(オルゼン),Pola(ポーラ)と命名.31年Zenzonを襲名.37年除籍.
 Triglav(トリグラフ),Grado(グラード)と命名.37年除籍.
 Lika(リカ),Cortellazzo(コルテラッツォ)と命名.39年頃除籍.
 Uzsok(ウツォーク),Monfalcone(モンファルコーネ)と命名.39年頃除籍.
  [第二次大戦駆逐艦総覧:大日本絵画]
  [世界の艦船No147(1969年8月号)掲載の写真イタリア駆逐艦史第7回]

【水雷艇群】[第二次大戦駆逐艦総覧:大日本絵画]
 ギリシア,21年水雷艇6隻を獲得.20年に分配を受けたとの記述もあり詳細不明.
 92F,獲得後Proussa(プロウッサ)と命名.41年4月4日コーフー沖で独軍機の空襲により戦没.
 95F,獲得後Pergamos(ペルガモス)と命名.41年4月25日サラミス沖で空襲により戦没.
 95F,獲得後Panormos(パノロモス)と命名.38年3月トウルロス岬沖で座礁沈没.
 誤植なのかどちらも前艦名が95F,どちらが本当の95Fか不明.
 98M,獲得後Kyzikos(キジコス)と命名.41年4月24日サラミス沖で空襲により戦没.
 99M,獲得後Kios(キオス)と命名.41年4月22日アテネ沖で空襲により戦没.
 100M,獲得後Kidoniai(キドニアイ)と命名.41年4月26日モーレア南方で空襲により戦没.

 ポルトガル,水雷艇6隻を獲得.内2隻は19世紀,他4隻は一次大戦海戦前後の竣工.
 全て40年に除籍.
 ルーマニアの項では74Tの同型6隻との記述有り,こちらの方が正しいと思う.

 ルーマニア,水雷艇7隻を獲得.
 74T,Viforul(ヴィフォルール)と命名.32年予備艦.
 75T,Vartejul(ヴァルテジュール)と命名.32年予備艦.
 80T,Vijelia(ヴィジェリア)と命名.32年予備艦.
 81T,Sborul(スボルール)と命名.44年ソ連が接収,Musson(ムッソン)と命名.
 45年9月22日返還,原名に戻る.修理後46年再役.59または60年除籍.60年解体.
 82F,Naluca(ナルカ)と命名.44年8月20日ソ連軍のコンスタンツァ空襲で沈没.
 83F,Smeul(スミュール)と命名.44年ソ連が接収,Toros(トロス)と命名.
 45年9月22日返還,原名に戻る.修理後48年再役.59または60年除籍.60年解体.
 84F,Fulgerul(フルゲルール)と命名.回航途中にボスポラスで浸水沈没.

 ユーゴスラビア,沿岸用小型水雷艇4隻,近海用水雷艇12隻を保有.
 なお他に上述の戦艦,特務艦各種,モニター,小艇等を保有.
 76T,T1と命名.41年4月伊が捕獲.原名のまま伊が使用.43年9月脱出同年12月返還.Golesnica(ゴレスニカ)と改名し59年除籍.
 77T,T2と命名.39年頃登録抹消.
 78T,T3と命名.41年4月伊が捕獲.原名のまま伊が使用.43年9月16日フューメで独が捕獲TA48として44年8月15日再役クロアチア所属.44年12月14日独が再取得し,45年2月20日トリエステで被爆沈没.
 79T,T4と命名.39年頃登録抹消.
 87F,T5と命名.41年4月伊が捕獲.原名のまま伊が使用.43年9月脱出同年12月返還.Cer(セール)と改名し,63年予備艦.
 93F,T6と命名.41年4月伊が捕獲.原名のまま伊が使用.
 43年9月11日ケセナティコ北方10マイルに自沈.
 96F,T7と命名.41年4月伊が捕獲.原名のまま伊が使用.43年9月独が捕獲.クロアチアに引渡,以降不明.
 97F,T8と命名.41年4月伊が捕獲.原名のまま伊が使用.43年9月11日ダルマチア諸島からの伊兵撤退時ブンタ・オリヴァで独軍機が撃沈.独捕獲時にT3は改名,T'7は改名なしの理由不明.あるいは独軍への編入の有無か.
 12隻とあるが残り4隻の動向が不明,旧式で早々に除籍か,あるいは8隻が正解?

番外:弩級戦艦Viribus Unitis(フィリブス・ウニーティス)Tegetthoffと同型で本艦がネームシップ
 休戦直前の18年10月末ユゴー新政府が捕獲,Yugosiavia(ユーゴスラビア)と改名.
 同年11月1日早朝,ポーラで伊軍ロセッティ少佐とパオルッチ少尉の仕掛けた,人間魚雷から切り離された弾頭部の爆発で沈没.
 この撃沈の詳しい経緯は,歴史群像の2005年2月号にのっています.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2他 in 世界史板)

 余談だが,艦艇ではないが,商船(定期客船)「カイザー・フランツ・ヨーゼフ1世」は次のような運命を辿った.

 第1次大戦終結まで,オーストリアは海への出口と小さな海運を保有していた.
 1903年にコジルーヒ兄弟が創設したウニオネ・アウストリアカ社である.本船は同社の主力船であった.
 移民をアメリカに輸送する目的で建造され,一度南アメリカへの往復航海を行った.
 19年に戦後賠償としてイタリアに分配され,コジルーヒ・ラインの手に渡った.
 船名を「プレジデンテ・ウィルソン」「ゴング」「マルコ・ポーロ」と変えて運航.
 その後ロイド・トリエスティノ社,アドリアティカ社へと所有が移った.
 第2次大戦末期の44年,ラ・スペツィアで船体に穴を開けて沈められた.

トン数:12567総トン
主要目:145・55m×18・35m
機関:2軸4段膨張式蒸気機関12500馬力
巡航速度:17ノット
航路:トリエステ~ニューヨーク
収容人数:1等125人2等550人3等1230人
造船所:トリエステ海軍モンファルコネ
材質:スチール

------------トニー・ギボンズ編著『ビジュアル版 船の百科事典-紀元前5000年から現代まで-』(東洋書林,2005/3)

 【質問】
 「プリンツ・オイゲン」について教えてください.

 【回答】
 戦艦プリンツ・オイゲンは,オーストリア=ハンガリー海軍のティゲトフ級戦艦の3番艦.
 戦艦なのに,ドイツ重巡のほうのプリンツ・オイゲンに知名度で負けているという,かわいそうなフネである.

 1912年1月16日,トリエステのスタビリメント・テクニコ・トリエスティーノにて起工.
 1912年11月30日,進水.
 1914年7月8日,就役.
 第一次世界大戦では,まずドイツ艦「ゲーベン」「ブレスラウ」のトルコへの脱出を支援.
 1915年5月には,イタリア・アンコナへの都市砲撃を実施した.
 一方,イタリア空軍は80回以上のポーラ軍港空襲を行い,「プリンツ・オイゲン」乗員は対空射撃をたびたび行った.
 1918年6月,オーストリア海軍はプーラにあったテゲトフ級戦艦4隻を以て,オラント海峡封鎖網への攻撃を行うことを決定し,4隻はアドリア海へ.
 しかし,アドリア海に向かう途中の6月10日,姉妹艦「セント・イシュトヴァーン」が,イタリア魚雷艇MAS-15の雷撃を受け沈没.
 作戦は中止となり,以降,「プリンツ・オイゲン」はポーラ軍港に温存されることとなった.

 大戦終結後,フランスに賠償艦として引き渡され,1922年6月28日,空爆試験の標的艦として使われ,トゥーロン沖で沈められた.

<性能諸元>

排水量 20,000トン
全長 152 m
全幅 27.9 m
吃水 8.7 m
機関 ヤーロー式石炭・重油混焼缶12基+パーソンズ・ギヤードタービン2基4軸推進,27,000hp
最大速 20.4ノット(23.5 mph; 37.8 km/h)
航続距離 10ノットで4,200海里 (7,800 km)
乗員 士官32名,下士官16名,兵員993名
兵装 30.5cm(45口径)三連装砲4基,15cm(50口径)単装砲12基,6.6cm(50口径)単装砲18基,53.3cm水中魚雷発射管4基

 【参考ページ】
http://en.wikipedia.org/wiki/SMS_Prinz_Eugen
http://hu.wikipedia.org/wiki/SMS_Prinz_Eugen
http://www.naval-history.net/WW1NavyAustrian.htm


 【質問】
 戦艦「ツェント・イストヴァーン」の沈没までの経緯は?

 【回答】
 大戦もはや4年目に入った1918年の夏,アドリア海に閉じ込められた形でいたオーストリア=ハンガリー帝国海軍は,膠着した戦争の局面の打開を図った乾坤一機の大博打を打つことにした.
 陸ではイタリア軍に対してソエア戦線での大攻勢を行い,海軍もこれに呼応したからだ.

  海軍総司令官に任命されたミクロス・ホルティ・デ・ナギィバーニャ少将が立案した作戦は壮大なものではあったが,複雑極まるものでもあった.2つの攻撃部隊と7つの支援部隊が相互に連携しながら行動しなければならないからだった.
 計画ではオトラント海峡での主力艦隊の攻勢と共に,準ド級戦艦エルツヘルツォ-ク・フランツ・フェルディナント,ラデツキー,ズリーニを中心とする艦隊をベネチア沖に展開させ,また潜水艦部隊にブリンディジとヴァロナを襲撃させるつもりだった.

 プーラから出撃した戦艦部隊は二手に分かれて進撃することになったが,それに付けられる小型艦艇が不足していたので,その警護網は手薄にならざろう得なくなった.
 ホルティ提督自ら座乗する戦艦 Viribus Unitis ,Prinz Eugenと五隻の護衛艦艇は1918年6月8日にプーラを出港した.
 また戦艦 Szent Istvan,Tegetthoff は翌9日にプーラを出た.護衛に当たるのは駆逐艦1隻と魚雷艇5隻の少数であった.
 後者の出港が遅れたのは港の防潜網の移動,撤去に手間取ったためである.
 その遅れを取り戻すべく,艦隊は16ノットの高速で航行をすることとなった.
 しかし,そのため「SI」の機関は過熱してしまい,安全のために12ノットに減速して進むしかなくなった.
 しばらくして,また増速できるようになったが,「SI」の煙突からは盛大に煙が吐き出されることになり,遠くからでもひときわ目立つことになった.

 翌10日の未明には,プーラから東南へ100キロほど進んだ艦隊だったが,思わぬ事態に遭遇することになった.

 プレムダ島の沖合いで,たまたまイタリアの魚雷艇2隻,MAS15とMAS21が自軍の潜水艦のために,測深,機雷の有無などを調査していた.
 イタリアの指揮官ルイジ・リッツォ大尉は前年モナーク級の装甲艦「ウィーン」を撃沈した猛者であった.
 僚艇21号は「テゲットホーフ」を狙ったが,魚雷1本の発射に失敗,他の1本は命中したが不発に終わった.
 しかし,「SI」には「幸運の女神」は微笑まなかった.午前3時31分に2発の魚雷が相次いで,右舷の中央部に命中し炸裂.艦体外郭部と機関室の隔壁部に大きな損害を受けて,主機関室に大量の浸水を生じた.そのため艦は右舷へ大きく傾斜して停止した.
 軽微な損傷に留まった2つの補助機関室の動力を使用して,必死の排水活動が行われたが,傾斜を止めることはできなかった.
 次善の策である,付近のモーラ(Molata) 島への座礁策も失敗した.
 すべての主砲を左舷に向け,バランスを少しでも回復させようとしたが無駄であった.

 遂に万策尽き,総員退艦が命じられた.
 その間にも艦の傾斜は増してゆき,遂に横転した.数度転覆した腹を揺らしながらも,静かに艦首の方から沈み始めて,艦体全てが海に没したのは午前6時12分のことであった.
 最後まで電力を供給する作業に従事していた補助機関室に留まっていた機関員を含めて,89人の犠牲に留まったのは,不幸中の幸いであった.

 「ツェント・イシュトヴァーン」のその後

  冷戦が終わった後の1990年から足掛け8年をかけて,オーストリア,ハンガリーにクロアチアの合同チームが水深66メートルに眠る「SI」の残骸を調査した.
 それによると,艦体は裏返しになった状態で横たわっていて,着底した際の衝撃で艦首から約30メートルほどのところで破断しているそうである.
 主砲塔は沈没時と変わりなく,すべて左舷正面に向いたままだった.
 また艦体には大きな穴が4つ見つかったそうで,うち2つは魚雷によるもの,また1つも魚雷による可能性がある.
 そうなると被雷時の報告が誤っていたことになるが,結論はまだ出ていない.
 残る1つは着底時の衝撃によるものか,または内部の原因によるものか不明.
 前部弾薬庫は艦体の亀裂部分から入ることが出来るが,危険はある.
 かつて艦尾で帝国の誇りを象徴していたネームプレートは,引き上げられ,今はプーラの海事博物館に展示されている.

 なお,手元の資料では「SI」と同級の「テゲットホフ」の基本的数値は,
全長152・83メートル,
全幅27・336メートル,
喫水長8.741メートル,
満載排水量21,595トン,
最大速力20.3ノット(37.57キロメートル),
航続距離10ノットで4200海里(7774キロメートル),
乗員数1097人(士官31~38人)
となっています.

 開戦後,戦訓から多少の改造が施されたとしても,10%もの排水量が増えるようなことが行われたかは不明.

(権兵衛さん in 世界史板)

  ホルティ提督の回想録より

 最高司令部よりの認可を受けて,[封鎖線打破]作戦は1918年6月11日に設定された.
 目的地の到達するには2晩の秘匿を必要とした.まず,グラボーサ?(Gravosa)港北のスラーノ(Slano)泊地から第1戦艦部隊から出撃を命じた.
 ザイツ大佐指揮下の第2戦艦部隊は目的地までの距離が半分のグロッサ(Grossa) は24時間の余裕があるので,それまで待機させることにした.
 原因不明の理由により,港湾の防潜網の移動が遅れ,更に戦艦テゲットホーフの機関のトラブル――これは,「ツェント・イシュトバーン」と混同しているようです―― により,艦隊の進行は遅れた.未明になって,イシュトバーンが闇にまぎれて接近してきたイタリアの魚雷艇の攻撃を受け,2本の魚雷を被雷した.
 3時間と経たずに同艦は沈没し,魚雷艇は逃げ去った.
 これは我々の意図が敵に知られたことを意味した.オトラント海峡の封鎖線が一層強化されるこ とは明らかであった.
重苦しい状況の中で,私は艦隊に撤収を命じた.

(権兵衛さん in 世界史板)


 【質問】
 戦艦「ズリーニ」について3行以上で教えてください.

 【回答】
 戦艦「ズリーニ Zrínyi 」は「ズリーニ」突撃砲の水中戦ヴァージョン……ではなく,オーストリア=ハンガリー海軍の前弩級戦艦で,「ラデツキイ」級の3番艦.
 1908.11.15,トリエステのスタビリメント・テクニコ・トリエスティーノにおいて起工され,1910.4.12進水,1911年7月竣工.
 日本では戦艦「薩摩」「安芸」などが同世代.

 第一次バルカン戦争中の1912年11月~12月,「ズリーニ」は他の「ラデツキイ」級戦艦と共に,エーゲ海へ派遣さる.
 第一次大戦においては,イタリア参戦直後の1915.5.24,水雷艇2隻を伴ってイタリアの港湾セニガリアを攻撃.
 しかしその後,オーストリア=ハンガリー帝国海軍は現存艦隊主義を採ったため,「ズリーニ」も出撃せずに温存された.
 戦後,賠償艦としてスプリトにおいてアメリカ海軍に接収されたが,予備役に編入されたまま同地に留め置かれる.
 1920.2.9,嵐に遭って座礁し,同年11.7除籍.
 パパジャPapajabaに曳航後,ヴェネツィアでイタリアに賠償艦として譲渡,解体された

 【参考ページ】
http://blog.livedoor.jp/irootoko_jr/archives/2118237.html
http://blog.livedoor.jp/irootoko_jr/archives/2141210.html
http://hush.gooside.com/Text/2S/23Su/S308cSuri_.html
http://www.pediaja.com/%E3%83%A9%E3%83%87%E3%83%84%E3%82%AD%E3%83%BC%E7%B4%9A%E6%88%A6%E8%89%A6
http://www.pediaja.com/ズリーニ%20(戦艦)

戦艦「ズリーニ」写真
faq160413zr.jpg
faq160413zr2.jpg
faq160413zr3.jpg
(こちらより引用)

【ぐんじさんぎょう】,2016/04/16 20:00
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 【質問】
 駆逐艦「メテオール」って何?

 【回答】
 「メテオール Meteor」はオーストリア=ハンガリー海軍最初の駆逐艦(水雷駆逐艦 Torpedofahrzeug / torpedo boat destroyer ).
 フリードリッヒ・シーシャウ/ダンツィヒ造船所で1887.6.16に進水,
 同時期のドイツの嚮導艦 D1 や D2 に酷似しており,ドイツ式としては典型的な艦首舵を備えていた.
 350mm魚雷発射管は当初,艦首に搭載されていたが,1904年,甲板上に旋回式発射管を搭載するよう改められた.
 第一次大戦時,既に老艦だったため,ポーラの哨戒任務に就き,戦後の1920年,賠償艦としてイタリアに譲渡され,解体された.

排水量 428.15t
全長 57m
全幅 6.85m
喫水 2.57m
主機 1軸,2,700 IHP
速力 19.7 kts
燃料搭載量 石炭100t
航続距離 3,400 nm/11kts,1,455 nm/16 kts
乗員 士官5+下士官兵55

 【参考ページ】
http://hush.gooside.com/Text/6m/64Me/m431meta.html
http://homepages.thm.de/~hg6339/data/ah/destroyers/1896_tb_meteor-type/ctb_1896_meteor.htm
『Kriegsschffe der Welt 1860 bis 1905』3(Herausgegeben von Roger Chesneau und Eugene M. Kolesnik著,Bernard & Greafe Verlag Koblenz,1985),p.183

「メテオール」2面図(1897年)
(こちらより引用)

【ぐんじさんぎょう】,2012/04/18 20:50
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 【質問】
 「ブリッツ」級駆逐艦って何?

 【回答】
 「ブリッツ Blitz」級は1888年以降就役し始めた,オーストリア=ハンガリー海軍の駆逐艦(水雷駆逐艦 Torpedofahrzeuge / torpedo boat destroyers ).
 狭義にはブリッツ Blitz とコメート Komet の2隻を指すが,広義にはマグネート MAGNET,プラネート PLANET, サテリート SATELIT, トラバント TRABANT を含めた6隻を指すこともある.
 前者2隻はともかく,6隻全体で見ると,排水量は360~540t,主機出力は2600~5000hp,武装は35cm魚雷×2~45cm魚雷×3と,かなりばらつきがある.
 「級」というより「群」とすべきか.
 6隻とも第一次大戦を生き延びたが,サテリートはフランスへ,他5隻はイタリアへ,戦利艦として分配された.

 【参考ページ】
http://www.naval-history.net/WW1NavyAustrian.htm
http://www.mlorenz.at/Bewaffnete_Macht/20_Kriegsmarine/20_Kriegsmarine.htm
『Kriegsschffe der Welt 1860 bis 1905』3(Herausgegeben von Roger Chesneau und Eugene M. Kolesnik著,Bernard & Greafe Verlag Koblenz,1985),p.183-184

「マグニート Magnet」2面図
(こちらより引用)

「ブリッツ」写真
「コメート」写真
(こちらより引用)

【ぐんじさんぎょう】,2012/04/14 20:50
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 【質問】
 「フサール」級駆逐艦って何?

 【回答】
 フサール Huszár 級は1905年より,英国ヤロー社によって建造された,オーストリア・ハンガリー海軍の駆逐艦(水雷駆逐艦 Torpedofahrzeuge / torpedo boat destroyers ).
 これの前にヤロー社が日本海軍の注文によって建造した雷(いかずち)型を手本とし,魚雷発射管甲板を艦首楼後方に移すなどしている.
 12隻が建造されたが,一番艦「フサール」は1908年,座礁沈没したため,同名の代艦が追加建造されている.

<要目(「ウラン Ulan」)>
排水量 390 / 420 ts
全長 68.39m
全幅 6.25m
喫水 1.78/1.85 m
主機 ヤロー蒸気ボイラー 2,2軸,6,000 IHP
速力 28.5 kts
燃料搭載量 90.6 t(石炭)
航続距離 500 nm/28 kts
乗員 士官5 下士官以下65

 【参考ページ】
http://homepages.thm.de/~hg6339/data/ah/destroyers/1905_dd_huszar-class/1905_cdd_huzar-class.htm

駆逐艦「ウラン」2面図
(こちらより引用)

駆逐艦「フサール」(初代)
(こちらより引用)

【ぐんじさんぎょう】,2012/04/10 20:50
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 【質問】
 駆逐艦「ヴァラスディナール」って何?

 【回答】
 駆逐艦「ヴァラスディナール Warasdiner 」は,オーストリア=ハンガリー海軍の駆逐艦(水雷駆逐艦 Torpedofahrzeuge / torpedo boat destroyers ).
 元は,中国の清朝が海軍強化のため,1911年にトリエステ造船所に大量発注した艦艇のうちの1隻「ルン トゥアン Lung Tuan」で,オーストリア=ハンガリー海軍のフサール Husza'r 級駆逐艦の準同型艦.
 同艦はトリエステのスタビリメント・テクニコ・トリエスティノ社 SSTにて起工されたが,中国における辛亥革命によって,既に起工していた本艦は,注文を取り消され,英国に売却されることになった.
 ところが第1次大戦が勃発したため,戦火を避けるべくトリエステからポーラに曳航されて,英国式の武装は撤去され,1914.9.10,オーストリア=ハンガリー海軍の1隻として就役した.
 戦時中は船団護衛,機雷敷設,偵察などに従事.
 損傷しながらも終戦まで生き延び,イタリアに戦利艦として譲渡された.
 1921年,廃艦.

排水量:386t(基準)/ 404.8t(満載)
全長 67.13m
全幅 6.25m
喫水 1.8m
主機 ヤーロー型石油・石炭混焼缶4基,2軸,6747hp
最高速度 30.6ノット
武装 L45 7cm 砲×2,L30 7cm砲×4,45cm魚雷発射管×4
乗員 70

 【参考ページ】
http://de.wikipedia.org/wiki/Liste_der_Schiffe_der_K.u.k._Marine
http://www1.hinocatv.ne.jp/hr-aks5/taisen1915.2.html
http://homepages.thm.de/~hg6339/data/ah/destroyers/1905_dd_huszar-class/1905_cdd_huzar-class.htm
http://www.palba.cz/portal.php?topic_id=4954
http://www.warshipsww2.eu/lode.php?language=E&period=&idtrida=1939

「ヴァラスディナール」写真
こちらより引用)

【ぐんじさんぎょう】,2012/04/08 20:50
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 【質問】
 タトラ級駆逐艦って何?

 【回答】
 タトラ Tátra 級は1910年から就役し始めた,オーストリア・ハンガリー海軍の駆逐艦(水雷駆逐艦 Torpedofahrzeuge / torpedo boat destroyers )で,同型6隻.
 さらに1914年に,6隻の追加建造が決定され,これがトリグラフ(2代目) Triglav II 級となった.
 第一次大戦で2隻が戦没.戦後3隻がイタリアへ,1隻がフランスへ,賠償として譲渡された.

 【参考ページ】
http://www.naval-history.net/WW1NavyAustrian.htm
http://en.wikipedia.org/wiki/T%C3%A1tra_class_destroyer
http://ja.wikipedia.org/wiki/タトラ級駆逐艦
http://battleships.ru/warships/tatra_1911_a-hmalkov/ship_rsmalkov.html
http://www.kuk-kriegsmarine.at/tatraklasse.htm

側面図
タトラ級駆逐艦「リカ Lika」写真
(こちらより引用)

【ぐんじさんぎょう】,2012/03/20 20:20
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 【質問】
 どなたか二重帝国の駆逐艦タトラ級の8隻目の名前を教えてください.
 イタリアに譲渡とされた7隻,リカ、トリグラフ、ウソツォク,オルエン,タトラ,セッペル,バラトンは,世界の艦船196911月号(数年前にJR水道橋から神保町へ向かう途中の古書店で1冊100円で20冊くらい買ったうちの1冊)でわかったのですが.
 大日本絵画の「第二次大戦駆逐艦総覧」のイタリアの項目にも譲渡のあった7隻しかのっていません.
 光栄の「艦船名鑑1939-45」も退役済らしくて載ってません,まあこれはもともと網羅されていませんが.
 素人でよくわかりませんのでご協力お願いします.
 しかしユーゴとルーマニアでは,二重帝国の旧水雷艇がWWⅡ後も使用されているんですね.

 【回答】
 まずTatraClassの駆逐艦は6隻が,1912~13年に掛けて6隻が建造されています.
 Tatra,Balaton,Csepel,Lika,Triglav,Orjen,
 いずれも,PortoRe(Kraljevica)にあるDanubiusの建造.
 ところが,このうちのLika,Triglavの2隻は,Durazzoで1915年11月29日に触雷,沈没しました.

 でもって,1917年に同じ造船所で,改型のTatraClassが4隻建造されました.
 これは機関出力を増大し,船型が僅かながら大きくなり,8mm機関銃が追加されています.
 これらの艦には,Triglav(II),Lika(II),Dukla,Uzsokと命名されています.
 つまり,TriglavとLikaはTatra級と改Tatra級の2艦が存在した,と.
 で,後者の内,Duklaだけは,フランスに引き渡され,Pierre Durandとなって,1936年に除籍されました.

 ちなみに,同型艦に同じ艦名を与えているケースは,前級のHuszar Classにもあります.
 ネームシップのHuszarが,1908年12月3日に座礁沈没したので,1910年にPola海軍工廠で建造された同型艦に同じ名前を付けています.
 この辺,不幸な沈没では名前を継承しなかった日本とは違いますね.

 後,駆逐艦としては,TatraClassの更なる改良型が4隻発注されましたが,これは建造着手で敗戦を迎えました.
 この艦は,タービンをAEG-Curtissから,Danubiusに変更し,主砲を10cmから12cmに口径を増大,対空砲も66mmから90mmに口径を増したものとなっていました.

 後,二重帝国の駆逐艦としては,先のHuszarとTatraの間に,Warasdinerと言う駆逐艦が1隻だけ建造されています.
 これは,STTが1911年に,清国政府から受注していたもので,Huszarをタイプシップとし,LuanTuanと命名された試作艦が建造された後,12隻が建造される予定でしたが,1912年に清朝が瓦解,で,二重帝国に譲渡され,Warasdinerと命名されて二重帝国仕様の武装に変更して1隻だけ就役したものです.
 ちなみに,この艦は大戦を生き抜き,1920年にイタリアに引き渡されてスクラップとなりました.
 もう少し清朝瓦解が遅ければ,もしかしたら日本海軍にこの艦が鹵獲されていたかもしれません.

眠い人 ◆gQikaJHtf2

 大戦後,主力駆逐艦7隻が20年9月伊に戦利艦として移籍します.
 それらの艦名は以下の通り.

Tatra(タトラ),Fasana(ファサナ)と命名,23年除籍.
Balaton(バラトン),Zenzon(ゼンゾン)と命名,23年除籍.
Csepel(チェペル),Muggia(ムッジア)と命名29年3月15日廈門沖で台風で喪失.
Orzen(オルゼン),Pola(ポーラ)と命名.31年Zenzonを襲名.37年除籍.
Triglav(トリグラフ),Grado(グラード)と命名.37年除籍.
Lika(リカ),Cortellazzo(コルテラッツォ)と命名.39年頃除籍.
Uzsok(ウツォーク),Monfalcone(モンファルコーネ)と命名.39年頃除籍.

 [第二次大戦駆逐艦総覧:大日本絵画]および,[世界の艦船No147(1969年8月号)掲載の写真イタリア駆逐艦史第7回]参照.

 各艦の名前の意味は,
「Uzsok」→ウジョーク?(地名らしい)
「Huszar」→フザール(ユサール兵マジャール軽騎兵)
「Scharfschutze」→シャルフシュッツェ(狙撃兵)
「Csepel」→チェペル(ブダペストの川中島)
「Dukla」ドゥクラ(プラハのサッカーチームに同名のがあるが詳細不明)
「Orjen」→オルイェン?(ダルマチアの山の名前?)
「Csikos」チコーシュ(馬)
「Pandur」パンドゥール(パンドゥール兵軽歩兵の一種)
「Turul」トゥルル(ハンガリーの建国伝説上の鳥)
「Uskoke」ウシュコケ?
「Magnet」マグネート(磁石)
「Satellit」ザテリート(衛星)
「Komet」コメート(彗星)
「Planet」プラネート(惑星)

世界史板


 【質問】
 二重帝国の潜水艦技術って,どうだったのですか?
 WW1前に,デンマークへ潜水艦を輸出しているらしいのですが.

 【回答】
 保守的な体質(と言うか予算制限とか色々なファクター)があって,米英仏と言った主要海軍国が潜水艇を採用したことが明らかになるまで,潜水艇の採用はありませんでした.
 1904年に帝国海軍技術委員会(MTK)が,潜水艇の建造を提言しますが,それは種々の理由で却下され,1905年1月に改めて機密プロジェクトとして,潜水艇の実用試験艇を建造することになりました.

 1908~09年に掛けて,
米国のLakeがポーラで建造したU1級2隻,
キールのGermania造船所が建造したU3級2隻,
リェカのWhitehead社がHolland社の設計に基づいて建造したU5級3隻(ノックダウン生産が2隻,国産化1隻)
の3クラス7隻により,採用が比較検討されました.
 これらは米国設計のものが単殻式,ドイツ設計のものが複殻式船体を持ち,ガソリンエンジンとモーターを装備していました.
 LakeのU1は,潜行性能,操舵性は良かったのですが,装備していたガソリンエンジンが出力不足で,それらの性能の良さが相殺されました.
 GermaniaのU3は,潜行性能が思わしくなく,装備したエンジンは屡々煙を吐き出すのですが,反面,居住性は最も良かったとされました.
 HollandのU5は,ガソリンエンジンによるガス中毒が常習的に発生しました.
 これら試験艇の評価の結果,二重帝国海軍は,排水量500t程度,複殻式船体とディーゼル主機により,水上速力16~18ktsを発揮,武装は45cm魚雷発射管3~5門を有する潜水艦を,WhiteheadとGermaniaに発注します.

 このほか,水中速力12Ktsを発揮できる500tの大型潜水艦をGermania造船所に発注しています.
 運用的には,従来の可潜艦と言うことで隠密性重視からすると,水中速力重視というのは全く新しい概念を模索していたと言えるでしょう.
 残念ながら,この艦は建造時に大戦が勃発し,ドイツに売却されましたが.

 ちなみにデンマーク向け輸出艦は,WhiteheadのFiume造船所製らしいです.
 3隻建造で,1911~13年頃竣工,無事に引き渡されているとありました.
 この艦は,その前の1908年にDenmarkは初めての潜水艦をItalyに発注しますが,これも余りにも低性能&ガソリンエンジンの信頼性の無さで1隻だけに留まり,次にWhiteheadに発注した訳で,独自設計に近いと言えます.
 これらの艇(A級と後に呼ばれた)は,その後国産化され3隻(うち1隻は国民の献金で)建造されています.

 ちなみに,FiumeのWhiteheadでは,Peru,Portugal,Holland,Brazil,BulgariaにもU5クラスの潜水艦を売り込んたそうです.

眠い人◆gQikaJHtf2 in 世界史板


 【質問】
 1号水雷艇って何?

 【回答】
 1号水雷艇 Torpedoboot I は,オーストリア=ハンガリー海軍の沿岸用水雷艇(Küstentorpedoboot)のプロトタイプ.

 1873年10月,ロンドン,ソニークロフト社に於いて,同海軍の今後に関する報告が行われ,ノルウェー,デンマーク,スウェーデン各海軍の水雷艇が,その俎上に上った.
 当時の"自走式水雷"は,夜戦用としてもまだまだ不十分な性能しかなかったが,海軍当局は,兵器の進歩に遅れまいとして,1874年,ソニークロフト社に対して水雷艇を発注することを決定した.
 かくして1号は1875.6.19,竣工した,

 この新兵器「魚雷」の使用法は確立されていなかったものの,さらに水雷艇の追加発注が行われることになった.
 それら追加発注の艇については,項を改めて述べることとしよう.
 
 1号は1893年,ダニューブ川の警備艇に転用され,1907年には売却された.

 ps. google翻訳につき,内容に勘違いがあるかもしれないので,念のため.

排水量 7.5t
全長 20.7m
全幅 2.61m
喫水 1.24m
主機 1軸,184 PSi(1892年 98 PSi)
速力 18.52kn(1892年 13kn)
兵装 魚雷2
乗員 9

 【参考ページ】
http://www.battleships-cruisers.co.uk/destroyers2.htm
http://www.kuk-kriegsmarine.at/
『Kriegsschffe der Welt 1860 bis 1905』3(Herausgegeben von Roger Chesneau und Eugene M. Kolesnik著,Bernard & Greafe Verlag Koblenz,1985),p.178

【ぐんじさんぎょう】,2012/04/24 20:10
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 【質問】
 2号水雷艇って何?

 【回答】
 2号水雷艇は,1号に引き続いて建造された,オーストリア=ハンガリー海軍の沿岸用水雷艇(Küstentorpedoboot).
 英国海軍の水雷艇「ライトニング」が,1877年8月中旬,ロンドンのソニークラフト社によって建造された後,オーストリア=ハンガリー海軍によって発注され,1878.5.21進水したのが本艇である.
Nach Fertigestellung des britischen Torpedobootes Lightning bestellte die k.k. Marine Mitte August 1877 bei Thornycroft in London ein Boot nach diesem Muster, das am 21.5.1878 vom Stapel lief.
 1881年,フィウメにおいて,ホワイトヘッド技師の手によって,Bug-Doppel※※ 魚雷発射管が搭載され,そのため1本だった煙突は,横方向に2本シフト配置し直された.
1881 erfolgte bei White-head in Fiume der Einbau von Bug-Doppeltorpedorohren, und statt des urspru:nglichen Einzelschornsteins erhielt das Boot zwei seitlich versetzte.
 2号水雷艇は水雷学校において,試験と教育のために用いられた.
Torpedoboot II diente in der Folge als Versuchs-und Übungsfahrzeug der Torpedoschule.
 1989年に,フィウメの海軍兵学校へ転属となり,1904.6.24,艦籍抹消.
 1905年に売却,解体された.
1989 wurde es der Marineakademie Fiume zugewiesen, am 24. 6 1904 gestrichen und 1905 zum Abbruch verkauft.

 ※ google翻訳につき,内容に勘違いがあるかもしれないので,念のため.
 ※※ 適訳不明.

排水量 28.4t
全長 26.5m
全幅 3.5m
喫水 1.55m
主機 1軸,300 PSi
速力 18.5kn
兵装 35cm魚雷2
乗員 10

 【参考ページ】
http://www.battleships-cruisers.co.uk/destroyers2.htm
『Kriegsschffe der Welt 1860 bis 1905』3(Herausgegeben von Roger Chesneau und Eugene M. Kolesnik著,Bernard & Greafe Verlag Koblenz,1985),p.178

【ぐんじさんぎょう】,2012/05/01 20:30
を加筆改修


 【質問】
 「3号」級水雷艇って何?

 【回答】
 3号・4号水雷艇は,2号に引き続いて建造された,オーストリア=ハンガリー海軍の沿岸用水雷艇(Küstentorpedoboot)であり,2隻は同型艇.

 元々の目的は,ポーラ Pola の海軍装備を,ソニークロフト艇によって再構築するためのものだったが,1877年,他の計画と競合するものとして,この計画はとりやめになった.
Die ursprüngliche Absicht, die Thornycroft-Boote beim Seearsenal Pola nachbauen zu lassen, wurde fallengelassen, als bereits 1877 Yarrow mit einer Konkurrenzofferte auf den Plan trat.

 両艇は1879年5月竣工し,ロンドンにおいて比較試験が行われた.
Die Boote liefen im Mai 1879 in London von Stapel und dienten eingehenden Vergleichserprobungen.
 4号は,その有効性を示すため,追加の弓の舵※※を,造船所自らの費用によって装備されていた.
Torpedoboot IV war von der Bauwerft auf eigene Kosten mit einem zusa:tzlichen Bugruder versehen worden, um dessen Wirksamheit zu demonstrieren.

 両艇は練習艇として使用され,1904.6.24に艇籍抹消,1905年に解体のため売却された.
Beide Boote dienten als Schul-und Übungsboote und wurden am 24.6.1904 gestrichen und zum Abbruch verkauft.

<要目>
全長 26.42m
全幅 3.3m
喫水 1.3m
主機 1軸,430 PSi
速力 17.5ノット
武装 35cm魚雷発射管2
乗員 10

※ google翻訳につき,内容に勘違いがあるかもしれないので,念のため.
※※ 適訳不明.

 【参考ページ】
http://www.battleships-cruisers.co.uk/destroyers2.htm
『Kriegsschffe der Welt 1860 bis 1905』3(Herausgegeben von Roger Chesneau und Eugene M. Kolesnik著,Bernard & Greafe Verlag Koblenz,1985),p.178

【ぐんじさんぎょう】,2012/05/06 20:40
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 【質問】
 「5号」級水雷艇って何?

 【回答】
 5号~8号水雷艇は,オーストリア=ハンガリー海軍の沿岸用水雷艇(Ku:stentorpedoboot).

 他の海軍では一般的であるとして,オーストリア・ハンガリー海軍の艦艇は,外国製艦艇で再構成されることとなった.
Wie auch in anderen Marinen ublich, wurden in O:sterreich-Ungarn ausla:ndische Musterboote adaptier nachgebaut.

 比較試験の時と同様,ヤーロー社の艇はソニークラフト社のものより,優れた生産ラインや機械を有していたため,ポーラ海軍工廠において,4号水雷艇の同型艇を建造することとした.
Als nach den Vergleichserprobungen feststand, dass die Yarrow-Boote zwar eine mangelhafte Bauausfuhrung, aber bessere Linien und Maschinen als die Thonycroft-Boote besassen, wurde im Seearsenal Pola eine Viererserie nachgebaut.

 本艇での改修点は,装甲の追加で,それによって排水量は増加した.
Die Deplacementserho:hung gegenu:ber den Musterbooten ru:hrte von der Panzerung mit schusssicheren Blechen her.

 これら4隻の水雷艇をもって1882年,帝国海軍に最初の水雷戦隊が編成された.
Gemeinsam mit Torpedoboot IV bildeten diese Boote 1882 der erste Torpedo-Flottille der K.k. Kriegsmarine.

 1897年,これらの艇は3等水雷艇に分類され,1994.6.24,解体のために売却された.
1897 erflogte die Einstufung als Torpedoboote III Klasse, am 24. 6. 1994 die Streichung und der Verkauf zum Abbruch.

基準排水量:27.68t
全備排水量:30t
全長 27.77m
全幅 3.31m
喫水 1.35m
主機 1軸 430PSi
速力 18.3kn
兵装 35cm 魚雷発射管×2
乗員 10

※ 例によってgoogle翻訳のため,正確さは保証できません.

 【参考ページ】
http://www.battleships-cruisers.co.uk/destroyers2.htm
『Kriegsschffe der Welt 1860 bis 1905』3(Herausgegeben von Roger Chesneau und Eugene M. Kolesnik著,Bernard & Greafe Verlag Koblenz,1985),p.179

【ぐんじさんぎょう】,2012/05/18 20:50
を加筆改修


 【質問】
 ヤーローA型水雷艇って何?

 【回答】
 「ヤーローA Yarrow-A」型こと,9号~10号水雷艇は,オーストリア=ハンガリー海軍の沿岸用水雷艇(Ku:stentorpedoboot).

 1880年,ヤーロー社はロシア帝国海軍向けに,航洋性を改善した水雷艇「バトゥミ Batum」級を建造した.
1880 lieferte Yarrow fu:r die kaiserlich-russische Marine zwei Torpedoboote der Batum-Klasse mit verbesserter Seeausdauer.
1880 lieferte Yarrow fur die kaiserlich-russische Marine zwei Torpedoboote der Batum-Klasse mit verbesserter Seeausdauer.

 一方,黒海に「Batum」を移送中,オーストリアの委員会がこれを訪問し,「ヤーローA」型と称されることとなる,「Batum」同型艇を2隻発注した.
Wa:hrend des U:berfu:hrungsmarsches ins Schwarze Meer wurde Batum in Fiume von einer o:sterreichischen Kommission Besichtigt und daraufhin zwei Musterboote dieses in der Folge als >>Yarrow-A<< bezeichneten Typs bestellt.
Wahrend des Uberfuhrungsmarsches ins Schwarze Meer wurde Batum in Fiume von einer osterreichischen Kommission Besichtigt und daraufhin zwei Musterboote dieses in der Folge als >>Yarrow-A<< bezeichneten Typs bestellt.

 両艇は1881年8月にロンドンで進水し,(以下翻訳不明)
Die beiden Boote liefen im August 1881 in London von Stapel und verlegten als erste Auslandsbauten mit einer Kraft - die anderen waren alle per Schiff eingetroffen - nach O:sterreich-Ungarn.
Die beiden Boote liefen im August 1881 in London von Stapel und verlegten als erste Auslandsbauten mit einer Kraft - die anderen waren alle per Schiff eingetroffen - nach osterreich-Ungarn.

 早い時期に両艇は戦隊へ配属された.
In den ersten Jahren waren sie dem U:bungseskadre zugeteilt.
In den ersten Jahren waren sie dem Ubungseskadre zugeteilt.

 1901年,魚雷発射管を2本に増やし,1904.6.24,解体のため,売却された.
1901 wurden die TR ausgebaut, am 24. 6. 1904 erfolgte die Streichhung und der Verkauf zum Abbruch.

 なお,1884年までに,この9~10号と同型である11~12号が建造を予定されていたが,これは実現化しなかった.
Bis 1884 fu:hrten die beiden Boote die Nummern XI und XII, weil IX und V urspru:nglich zwei Booten Kleineren Typs vorbehalten waren, die aber dann nicht gebaut wurden.
Bis 1884 fuhrten die beiden Boote die Nummern XI und XII, weil IX und V ursprunglich zwei Booten Kleineren Typs vorbehalten waren, die aber dann nicht gebaut wurden.

基準排水量:36.5t
全備排水量:46.75t
全長 31.2m
全幅 3.69m
喫水 1.6m
主機 1軸 500PSi(最大630PSi)
速力 17.8kn (18.7kn)
兵装 35cm 魚雷発射管×2 (1899年 ×1)
   37mm速射砲×1
乗員 15

※ 例によってgoogle翻訳のため,正確さは保証できません.

 【参考ページ】
http://www.battleships-cruisers.co.uk/destroyers2.htm
『Kriegsschffe der Welt 1860 bis 1905』3(Herausgegeben von Roger Chesneau und Eugene M. Kolesnik著,Bernard & Greafe Verlag Koblenz,1985),p.179

【ぐんじさんぎょう】,2012/05/23 20:40
を加筆改修


 【質問】
 水雷艇「ヴィーパー」って何?

 【回答】
 「ヴィーパー Viper」は,オーストリア=ハンガリー海軍の外洋型水雷艇 Hochsee-Torpedoboot.
 1895年に英ヤーロー Yarrow 社にて建造された.
 ドイツで建造された同海軍の「ナッター Natter」との間で性能比較試験が行われ,優越性を示した.
 1908.12.31,セベニコにおいて,命令ミスによって桟橋と衝突し,前甲板を大きく損傷した.
 1910年,同海軍は水雷艇の名前を「T-boot (番号)」に改めており,ヴィーパーは T-boot 17と改名された.
 1911年から第一次大戦終戦まで,本艇はBocche di Cattaro (Boka Kotorska)を基地としており,掃海や船団護衛に従事した.
 戦後,賠償艦としてフランスに引き渡され,1920年にスクラップとなった.

排水量 122ts
全長 44.96m
全幅 4.5m
喫水 2.25m
主機 1,800 ihp; 1 VTE
最高速度 26 kts
航続距離 650 nm/17.5 kts; 1,500 nm/10 kts (石炭搭載量28t)
乗員 22
兵装 450mm魚雷×3,L33 47mm速射砲×2

 【参考ページ】
http://homepages.thm.de/~hg6339/data/ah/destroyers/1895_ctb_viper-type.htm
http://www.kuk-kriegsmarine.at/tb13tb18.htm
『Kriegsschffe der Welt 1860 bis 1905』3(Herausgegeben von Roger Chesneau und Eugene M. Kolesnik著,Bernard & Greafe Verlag Koblenz,1985),p.182

2面図
写真
(こちらより引用)

【ぐんじさんぎょう】,2012/04/19 20:50
を加筆改修


 【質問】
 水雷艇「ナッター」って何?

 【回答】
 「ナッター Natter」は,オーストリア=ハンガリー海軍の外洋型水雷艇 Hochsee-Torpedoboot.
 ドイツ・シハウ社 Schichau の設計で,1895年に建造され,同社に特徴的な艦首舵を備えている.
 ただし複数の小さな問題により,契約時の計画速度を達成できなかった.
 1897~1898年に,艦尾を改装.
 1910年には改名されて,「T-boot 18」となった.
 1911年には,艦首にあった魚雷発射管2基は,2つの煙突の間の甲板上に,1基を搭載するよう改装.
 さらに1917年に,連装発射管に換装された.
 第一次大戦中,本艇は雷撃訓練任務に従事.
 戦後の1920年1月末,賠償艦としてイタリアに渡され,スクラップとして売却された.

排水量 166.2 ts
全長 47.25m
全幅 5.3m
喫水 2.8m
主機 2,050 ihp; 1 軸
最高速力 23.7 kts
航続距離 1,400 nm/12 kts; 1,600 nm/10 kts (石炭搭載量 33t)
乗員 22
兵装 cal 33 47mm速射砲×2,450mm魚雷×3

 【参考ページ】
http://homepages.thm.de/~hg6339/data/ah/destroyers/1895_ctb_natter-type.htm
http://www.kuk-kriegsmarine.at/tb13tb18.htm
『Kriegsschffe der Welt 1860 bis 1905』3(Herausgegeben von Roger Chesneau und Eugene M. Kolesnik著,Bernard & Greafe Verlag Koblenz,1985),p.182

2面図
(こちらより引用)

写真
(こちらより引用)

【ぐんじさんぎょう】,2012/04/20 20:00
を加筆改修


 【質問】
 「コブラ」級水雷艇って何?

 【回答】
 「コブラ Cobra」級は,オーストリア=ハンガリー海軍の外洋型水雷艇 Hochsee-Torpedobootで,同型4隻.
 寺沢武一作.
 1898年から1989年にかけ,英ヤーロー社で竣工.
 左腕にサイコガンを持つ宇宙海賊.
 本級より前の2艦「ヴィーパー」「ナッター」の比較試験の結果,「ヴィーパー」のほうが優れているとされたことで,その「ヴィーパー」を僅かに拡大したものが建造されることとなり,それが本級となった.
 血なまぐさい過去から逃れるため,記憶を消し顔を整形して,世間には死んだことにして別の人生を送っていたが,1910年に各艦は,以下のように改名された.
T-Boot 13 (旧 Python)
T-Boot 14 (旧 Kigyo)
T-Boot 15 (旧 Boa)
T-Boot 16 (旧 Cobra)
 第一次大戦後,賠償艦としてKigyoは英国へ,それ以外はフランスへ引き渡され,いずれもスクラップとして売却された.

 なお,ネット上では「プートン Python 」級と呼ばれていることが多いようだが,ここでは『Kriegsschffe der Welt 1860 bis 1905』における呼称に従った.

排水量 132t
全長 46.5 m
全幅 4.6 m
喫水 1.4 m
主機 1,800 hp (1,342 kW)
最高速力 24 kts
乗員 士官2,下士官以下20
兵装 L/33 47mm速射砲×2,45cm魚雷発射管×3

 【参考ページ】
http://en.wikipedia.org/wiki/SMS_Boa
『Kriegsschffe der Welt 1860 bis 1905』3(Herausgegeben von Roger Chesneau und Eugene M. Kolesnik著,Bernard & Greafe Verlag Koblenz,1985),p.182

「ボア」2面図
(こちらより引用)

「コブラ」写真
(こちらより引用)

「コブラ」の活躍
faq111217cb.jpg
faq111217cb2.jpg
(画像掲示板より引用)

【ぐんじさんぎょう】,2012/04/22 20:00
を加筆改修


 【質問】
 「カイマン」級水雷艇って何?

 【回答】
 「カイマン Kaiman」級は,スパウン提督の増強策によって建造された,オーストリア=ハンガリー海軍の水雷艇.同型24隻.
 1905年に英ヤーロー社にて1番艦「カイマン」が竣工,これを原型として23隻がオーストリア=ハンガリー国内で建造された.
 ちなみに13隻がオーストリアSTT社で,10隻が,当時ハンガリー王国領だったフィウメで建造された.
 この港湾都市フィウメの領有権問題も,興味深くあるのだが,別の機会に譲る.
 1913年,これらの艇も改名され,「カイマン」は「T-Boot 50 E」となり,他の23隻は,「T-Boot 51~73」となった.
 「E」は「England」のE.
 第一次大戦中,これらの艇は船団護衛,掃海,防空などの任務に就いたが,戦後,4隻は新生ユーゴスラビア王国海軍に引き渡され,また,Tb-52はポーラ沿岸の Sette Castelli 港にて悪天候により大破,喪失.
 それ以外の艇は連合国側に,賠償艦として引き渡された.

 【参考ページ】
http://www1.hinocatv.ne.jp/hr-aks5/Spaun.navy7.html
http://homepages.thm.de/~hg6339/data/ah/destroyers/1904_tb_kaiman-class/ctb_tb51-tb73.htm
『Kriegsschffe der Welt 1860 bis 1905』3(Herausgegeben von Roger Chesneau und Eugene M. Kolesnik著,Bernard & Greafe Verlag Koblenz,1985),p.182

「アナコンダ」2面図
(こちら
より引用)

「カイマン」写真
(こちらより引用)

【ぐんじさんぎょう】,2012/04/23 20:00
を加筆改修


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