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◆紀元前 Időszámításunk előtt
戦史FAQ目次


(画像掲示板より引用)


 【link】

Spartacus Educational

「朝目新聞」(2013/07/22)●洞窟壁画は我々の偉大なる先祖が麻薬でヨタって描いていたことが判明

「検証blog」:あれくさんだ大王.

●書籍

『アレクサンドロス大王 今に生き続ける「偉大なる大王」』(澤田典子著,山川出版社,2013.5.8)

『アレクサンドロス大王』/澤田典子 (2013/05/20)◆「丘陵のユルタ」

『アレクサンドロス大王,その戦略と戦術』を読み解く (2013/05/04)◆「国際インテリジェンス機密ファイル」

『騎兵隊長・馬術』(クセノフォン著,生活社,1944)

『壬申大乱 (古田武彦・古代史コレクション13)』(古田武彦著,ミネルヴァ書房,2012/08/30)

『人類にとって戦いとは1 戦いの進化と国家の生成』(国立歴史民俗博物館,東洋書林,1999.3)

『図解古代兵器』(水野大樹著,新紀元社,2012.3)

『<図説>古代の武器・防具・戦術百科』(M.J.ドアティ著,原書房,2011.2)

 普通にまじめな良書.
 少なくなくとも,古代戦に興味があるならマスト.
 コアなマニアには流石に物足りないかも知れんが,通史としてなら十分.
 細かい装備,軍装よりは,戦争史の流れを掴みたい人向け.
 A.フェリルの「戦争の起源」が愛読書の人にはお勧め.
 というか,アッシリアの破城槌の説明が日本語で読めるなんて,いい時代だな,オイ.

――――――軍事板,2011/03/16(水)

『戦闘技術の歴史1 古代編』(サイモン・アングリム著,創元社,2008.8)

 なんとか読了.
 こういう,綺麗なイラストの多い本は,素人の俺でも楽しく読めるんで助かる.

 マクニールの「戦争の世界史」じゃ,平時の教練はマウリッツが先人みたく書いてあるけど,ローマの頃からあったのね.
 でなきゃ,ファランクスやレギオンみたいな,複雑な隊形は組めないもんなあ.

――――――軍事板,2011/03/29(火)

『ソーシャルパワー:社会的な<力>の世界歴史1 先史からヨーロッパ文明の形成へ』(マイケル・マン著,NTT出版,2002.10)

 まだ流し読みだけど(適当な読了本が無いorz),「ヨーロッパ史における戦争」を,古代オリエント・中国・ギリシア・ローマ世界まで掘り下げた感じの本.
 ただし「ヨーロッパ史における戦争」よりも断然読みにくいけど.
 ゲームのシヴィライゼーションシリーズが好きな人で,ポール・ケネディとかジャレド・ダイヤモンドとかが好きな人なら,興味をそそられる類の本だね.

――――――軍事板,2011/03/26(土)

『日本古代の王権と東アジア』(鈴木靖民著,吉川弘文館,2012.3)

『〈流求国〉と〈南島〉 古代の日本史と沖縄史』(来間泰男著,日本経済評論社,2012/10)
『随書』の流求国は沖縄か?

『歴史群像アーカイブ VOLUME4 Special Issue 西洋戦史 ギリシア・ローマ編』(学研,2008.9)


 【質問】
 農耕文化は川のほとりに栄えるもの?

 【回答】
 そうであり,そうではない.
 世界四大文明なるものが,いずれも大河ともにあり,現代の穀倉地帯も多くが河川とセットなのでみな当然のように,川の近くが農業に適してると考えているが,それはある程度高度な土木技術とセットの話.
 水が近くにあるから,川の横が便利と思いがちだが,水は低きに流れるもの.
 川はその辺りで一番低い場所を通っているわけで,ポンプの無い時代は,結局は上流から長い水路を引いてくる必要がある.
 また,川といえば洪水もつきもので,ダムの無い時代は堤防と河道変更により防ぐしかないが,どちらも結局は,それなりに大規模な土木事業を必要とする.

 つまり,川があるから大規模農業地帯が形成出来たというより,
「ある程度まとまった労働力を行使できるようになったから,河川の脇で農業が出来るようになった」
が正しい.

 日本においても,初期に水田が形成されたのは,山裾の自然湧水地帯.
 水路なしで水が流れるままに手に入るし,洪水の危険も少ない.
 たまに現代で土砂崩れのニュース等で,そんな危険な場所に住むのが悪いと叩く向きがあるが,大規模工事による防災対策なしなら,そういった場所が本来一番安全だった.
 関東平野などは,北条氏,徳川からの連綿たる治水対策なしでは,その殆どが洪水と渇水を繰り返す原野地帯に過ぎなかったはず.

 また,長大な水路を建設・維持するには,それだけ広い勢力圏が必要だし,堤防も切れ目があってはならないから,上流までずっと支配しなくてはならない.
 河川横に農業地帯を形成した時点から,国家は膨張・帝国化が運命づけられたといえる.
 河川が文明を産んだというより,文明があるから河川利用が可能になった.

 あえてうならば,河川が産んだのは国家.

漫画板,2013/06/22(土)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 日本人のルーツは?

▼ 【回答】
 日本人の起源に関しては異論が多い.
 日本人論関連を当たっていって,自分で信用できる説を探すと良い.
(それこそ騎馬民族征服説やら半島経由や南方経由,はたまたポリネシアン説など様々である)
 同志がいたり,大学に在籍しているなら,参考図書をがむしゃらにあたるよりも,知見のある人と討論するべきである.

日本史板,2010/03/11(木)
青文字:加筆改修部分

 NHKの「我々はどこからきたのか」での研究結果,日本人のDNAサンプル取りまくって世界中にルーツを求めた末に出た結論.
 なんとマンモスを追ってユーラシア大陸を横断してしまった民族が日本人のルーツ.
 DNAの5割ほどという痕跡を残してる.寒さに対応するため,目は細く,省エネ型の小さな体になった大きな要因.

 そして,日本列島の近畿までその民族が制圧して,南からあがってきたのは,今の中国福健省とかあるあたりの海岸周辺の民族.海を渡って「直接」入ってきた.潮の流れに助けられたらしい.
 で,彼らはユーラシアからきた連中より体が大きく,一気に列島を北上し近畿あたりで拮抗した.
 彼らのDNAが4割.

 その後,稲作の技術などが鍵になって劇的に混血が始まった.
 今は南北均等に血が混じり,ユーラシア系と中国南部系だけで90%は構成されている.
 残りの10%はインドネシア系等のさまざまなDNA,
 今の朝鮮半島のDNAと似たものが5%ほどだそうだ.

日本史板

▼ 私的には「二つの倭人」説が近いと考えている.
 日本人の構成は弥生人7:縄文人3であり,縄文人の形質は少数派である.
 縄文人は,日本が陸続きだった氷河期に日本に流入した原モンゴロイド.
 この形質は原コーカソイドであるアビシニア系や,チベット系に濃く見られる形質であり,つまるところ高地・離島系の「駆逐された古い形質」である.
 縄文海進期において日本列島は豊饒化し,縄文型採集経済が発達する.
 このころには中国大陸も温暖化し,いまの黄土平原まで湿潤化していた.
 縄文海進期の末になると,温暖化が終焉し,長江型の稲作農耕文化が,北方から来た麦作農耕文化に圧迫され,南方へ下がった稲作の北限にそって,長江文化民族(倭人)が移動した.
 殷から周にかけて漢人が南進し,倭人は海を通じて東南アジアに拡散した.
 その一派が日本に到来し,後期縄文文化に稲作を伝えたとされる.
 現在では,縄文後期からの稲作のはじまりが定説である.

 縄文海進期の終わりによって海岸線が後退し,日本各地に肥沃な沖積平野とその湿地帯が広がった.
 これは多湿を好む稲に向いており,稲作の定着の中で日本列島内で弥生人が爆発的に増加したと見られている.
 西日本では早期から縄文人と弥生人の交雑が進み,新しい倭人が登場し,縄文文化がもっていた海洋交易圏を継承し,九州-対馬-半島南部を結ぶ倭人圏を形成する.

日本史板,2010/03/11(木)
青文字:加筆改修部分

 【反論】
 倭人が南方から来たことは明らかで,まず稲作の北限がソウル付近であること,そして倭人のもつ文化的傾向が半島南部にしか認められないことである.
 倭人の形成は東へと進んでいき,ちょうど時期を合わせるように大和川の西流があり,奈良盆地にあった大和湖が縮小した時期にあたり,奈良盆地が倭人の中心地となった.
(縄文海進期には大阪は河内灘で奈良は大和湖が満々と広がっていた.)
 現在,絶賛発掘中の纏向や唐古・鍵などが弥生期の畿内の代表的遺跡である.
 邪馬台国ところあいの重なる3世紀には,日本が古墳時代に突入し,倭人の目印として「前方後円墳」が登場するので,倭人の勢力圏はよりいっそう分かりやすくなる.
 前方後円墳は日本固有の墳墓形式で,その分布は畿内・中国を中心に,内地と半島南部に広がっている.

日本史板,2010/03/11(木)
青文字:加筆改修部分

(画像掲示板より引用)


 【質問】
 世界最古の戦争は?

 【回答】
 不明ではありますが,文明世界の最も初期の頃から戦争の記録,伝説があります.

 最初期の戦争は記録の不備からよくわかっていないとはいえ,戦争によって殺害されたと見られる人骨は石器時代から出土していますし,紀元前25世紀頃には,ウンマとラガシュの戦争が比較的詳細に記録されて残っています.
(現存世界最古の徴兵記録含む)
 『シュメル』小林登志子著・中公新書等を参照.

天武 in FAQ BBS

 また,BC1700頃~1325には,ヒッタイト Hittit のアナトリア征服が行われています.
 その次に,フルリ人の征服事業がBC1700頃~1500頃に行われ(セム人を追放した),
ヒクソスのエジプト侵入がBC1674頃~1325年頃に実施され,
ヒッタイト・フルリ戦争がBC1620頃~1325年頃に起き,
BC1469年の第一次メギドの戦い,と続きます.

 トロイア戦争は,BC1200年頃なので,更に200年下ります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2

faq17j.jpg
http://www.jp-tr.com/icerik/genel/history/hittit.htmlより引用)


 【質問】
 古代メソポタミア・エジプト・ギリシアなどにて戦闘に使われていた投石(機械ではなく人力の)とはどのようなものでしょうか?

 【回答】
 ダビデが使ったと言う『石投げ紐』じゃないのかな?
 ミケランジェロのダビデ像が肩に担いでいるアレ.

 これは,紐の真中に石を包むようにおいて,紐の両端を持ってぐるぐる回し,目標に向かって放るときに紐の片方だけ手から離す.
 すると石は目標に飛んでいき,石投げ紐は手元に残り,次弾を装填,という使い方.

 ちなみに,人間が普通に石を投げるだけでも結構威力は大きい.
 投石兵という兵科が戦国日本あたりまで大真面目に残っていたほど.
 鍛えた人間が振りかぶって投げる石というのは,意外と人を怯えさせるし,殺しもする.

 ピサロがインカ帝国を攻略したとき,インカ帝国の主兵力も投石部隊だったが,そんな原始的な連中だから負けたのかというとそんなことでもなく ,火縄銃があっても数の差で壊滅させられかねない,危険な相手だった.

 余談だが,インカが負けたのはヨーロッパ人が持ち込んだ天然痘のせい.
 そのため,戦争を始める前に既に社会がガタガタになってたのがかなり大きい.
 仮にピサロが負けても,じきに次の征服者にやられていただろうと思われ(あんま関係ないけど)

世界史板

投石
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq07i.jpg
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq07i02.jpg
(朝目新聞より引用)


 【質問】
 古代エジプトって何?

 【回答】
 紀元前3000年に始まった第1王朝から,紀元前30年にプトレマイオス朝が滅亡しローマ帝国の支配下に入るまでの,ナイル川流域の諸王朝を指す.
 以下のような各王朝があった.
エジプト原始王朝時代(上下エジプト王国,紀元前4200年頃-紀元前3150年)
エジプト初期王朝時代(第1~第2王朝,  紀元前3150年-紀元前2686年)
エジプト古王国   (第3~6王朝,   紀元前2986年-紀元前2181年)
エジプト第一中間期 (第7~第10王朝,  紀元前2181年-紀元前2040年)
エジプト中王国   (第11~12王朝,  紀元前2040年-紀元前1663年)
エジプト第二中間期 (第13~第17王朝, 紀元前1663年-紀元前1570年)
エジプト新王国   (第18~20王朝,  紀元前1570年-紀元前1070年)
エジプト第三中間期 (大司祭国家、   紀元前1069年-紀元前525年)
エジプト末期王朝  (第21~第26王朝, 紀元前525年-紀元前332年)
プトレマイオス朝  (第27~第31王朝, 紀元前332年-紀元前30年)

現代        吉村作治のメシのタネ

 紀元前2429年生まれのカーメンマンは,エジプト第一中間期以降の各王朝を体験している.
 ミスターカーメンと混同しないように.

 【参考ページ】
http://ja.wikipedia.org/wiki/古代エジプト/
http://en.wikipedia.org/wiki/Ancient_Egypt

古代エジプトの様子
(画像掲示板より引用)

カーメンマン

【ぐんじさんぎょう】,2010/07/05 21:00
を加筆改修


 【質問】
 古代エジプトの2人乗り戦車についてです.
 戦闘中は馬をほったらかしにして戦うのでしょうか?

 【回答】
 古代エジプトの2人乗り戦車は御者と兵士が1名ずつ乗っている.
 戦闘中でも御者は手綱で馬を御した.
 なお兵士は弓矢や投槍といった飛び道具で攻撃する.

蛇足
 古代の戦車といっても,時代や地域によって構造や運用が違っている.
 古代エジプトの戦車は軽量で比較的速力があるが,乗っている兵の数が1人ということもあって,接近戦には弱い.
 そのため,飛び道具で遠くから攻撃する.

軍事板


 【質問】
 密集隊形はファランクスが最初?

 【回答】
 対騎兵を問わないで密集隊形の名前としては,ファランクスの前身となった「エリン」が最初.
 後に「ファランクス」,「サリッサ」といわれる槍を使った.
 ファランクスが発展して「マニプル・レギオン」となる.これが紀元4世紀.

 次に密集隊形が登場するのは,14世紀のスイス戦闘団.これは対騎兵戦術としても使用される.この戦術の固有名詞はなかったと思う.
 13~14世紀のスコットランドにおける長槍方陣は,シルトロン(Schiltron)と呼ばれていた模様.
 これはイングランドの文献では「盾円陣(Shield Circle)」と記述されていたようだ.

 後には,「テルシオ」と呼ばれる槍銃混成の方陣がある.
 他にもマウリッツ型,グスタフアドルフ型の槍銃混成の方陣があるけど,これらも発明者の名前を取っただけで固有名詞はなかったと思う.

(画像掲示板より引用)


 【質問】
 サルマタイ人とは?

 【回答】
 サルマタイ (Sarmatae, Sarmatia) は紀元前4世紀~紀元後4世紀にかけ,南ウクライナを中心に活動していたイラン系遊牧民族です.
 優れた騎馬戦闘術と重武装の武具甲冑を持っていました.
 それは人馬共に鎖帷子か鋳鉄の鎧で武装し,長く重い矛を持って,集団突撃するというものでした.

【ぐんじさんぎょう】:2008/7/30


 【質問】
 サルマタイ人が下馬して戦っていたというのは本当なのか?

 【回答】
 サルマタイ人は,馬にも鎧を着せて装甲化し,長槍を構えて敵軍に突撃し,敵兵を串刺しにするという戦法を採用していた.
 この頃は
まだ鐙が発明されてなくて,揺れる馬上で身体を安定させることが困難だった為に,サルマタイ重装騎兵は,敵軍に長槍騎兵で突撃し,敵兵を串刺しにした瞬間,馬から飛び降りていたというのは本当なの?
 また,サルマタイ人の重装騎兵を受け継ぎ,完成度を高めたパルティア人も,まず軽装騎兵が遠距離から弓矢で攻撃し,続いて重装騎兵が長槍を構えて敵軍に突撃,敵兵を串刺しにしていた.
 そして敵陣に切り込んで乱戦になると,棍棒で戦っていた.

世界史板
青文字:加筆部分

▼ 【回答】
 はっきり言ってそんな事をして何の意味があるのかさっぱり解りません.
 と言うか,突撃の瞬間に飛び降りるなんて,自殺行為も良い所な上,重装騎兵の最大の武器である衝撃力を全く生かす事が出来ません.

「揺れる馬上で身体を安定させることが困難だった」
と言うのも怪しい物です.
 Peter ConnollyやMarcus Junkelmannなどの歴史家は,当時の馬具を再現して何百回も実験を繰り返しましたが,彼らはいずれも
「鐙が無くとも馬上突撃は十分に可能」
と言う結論を出しています.
 以下のスレッドで,550以降からこの事について議論が行われていますが,海外のマニアの考察が翻訳されているのでそれが参考になると思います.
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/army/1197660143/l50

トビ in FAQ BBS


 【質問】
 古代日本の戦争のやり方は?

 【回答】
 日本における「戦争」の始まりは,紀元前3世紀,弥生時代の九州地方であると見られている.
 当時の遺跡(佐賀・吉野ヶ里等)からは,磨製石器製の鏃,短剣(歴史が下ると朝鮮半島製の青銅剣,矛,戈となる)が発見されている.
 これら残された武器から,当時の戦闘の様子は,
「弓で矢を射かけながら,剣などの打突具で決着をつける白兵戦・接近戦」
であったと見られている.

 【参考ページ】
『日本軍事史』(高橋典幸・山田邦明・保谷徹・一ノ瀬俊也箸,吉川弘文館)

kureseki by massage, 2011/09/18
【ぐんじさんぎょう】,2011/09/20 20:20
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 【質問】
 古代日本に軍隊はあったのか?

 【回答】
 通称『魏志倭人伝』に書かれている,邪馬台国の派遣したという「一大率」なる存在が,古代日本に早くも軍隊があったことの証とされている.
 一大率=一人の大率 は,中国における刺史のようであると,魏志倭人伝には表現されている.
 刺史とは,単なる行政監督官を越え,兵・民・財政各部面に亘って強大な権力を有する軍政長官のことであり,諸国はこの一大率を「恐れ憚った」と,文献は伝えている.

 【参考ページ】
孫栄健「『魏志』東夷伝への一構想―正史の文脈に「倭人伝」を読む 」(日本文化叢書)

【ぐんじさんぎょう】,2011/09/27 20:00
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 【質問】
 弥生時代の主な武器は?

 【回答】
 剣,矛(槍),戈,弓矢など,縄文時代よりも多彩な武器が出現.
 初期は石製,中期までは主に青銅製だったが,次第に鉄にとって替わられている.
 その後の青銅製武器は,大型化して祭祀などに用いられた.
 青銅製武器は大陸からの輸入のほか,主として鋳造により製造された.
 たとえば九州北部では,銅鏃を一度に49個造れる鋳型が出土している.
 この鋳型は,裏返しにすると,大型の鏃を一度に8個作れる鋳型になっているという.
 鉄器は,鍛造の発達した岡山など,一部地域を除き,材料の鉄を切り取り,刃を磨き出す「鏨切り」によって製造されたと考えられている.

【ぐんじさんぎょう】, 2013/11/25 20:00
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 【質問】
 古代日本において,武器が青銅から鉄へ移行したのはいつ頃か?

 【回答】
 通常の世界史においては,武器は青銅から鉄へと移行する期間があるものだが,日本においては隣国中国からほぼ同時期に青銅,鉄を輸入し始めたため,明確な移行期間は見られない.
 それでも,融点が低く加工が容易なことから,先に青銅器が普及しはじめたのは確かなようである.
 日本において,鉄の武器が現れ始めたのは紀元後一世紀ごろで,同時期における鉄製武器(鏃等)は,ほぼ九州一帯で発見されている.

 【参考ページ】
高橋典幸他『日本軍事史』(吉川弘文館)
石野博信他『研究最前線邪馬台国』(朝日新聞出版)

【ぐんじさんぎょう】,2011/09/29 20:20
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 【質問】
 邪馬台国は中国に朝貢していたのか?

 【回答】
 邪馬台国では弥生時代末期,180年あたりから「倭国乱」れ,のちに女王卑弥呼が共立されたことが魏志倭人伝より判明している.
 「倭国乱」れた原因は,中国への朝貢,交易の主導権争いであり,中国交易の権利を得た邪馬台国が鉄を得たとみられるため,邪馬台国九州説派は,ほぼ九州でしかその時代の鉄器が発見されないことから,邪馬台国九州説を「確固たるもの」として展開している.
 が,そうなるとその後,ヤマト王権が近畿にて発展するわけであるから,九州邪馬台国は中国交易の独占権という圧倒的有利を得ていながら(そして戦争の時は,当時の中国王朝に助けてもらっていながら,)あっけなく滅びてしまった,ということになるが,この件に関しては何故か,邪馬台国九州説派は口を閉ざしてしまっている.

 【参考ページ】
前半2文は,
高橋典幸他 日本軍事史 吉川弘文館
と,
http://www.bell.jp/pancho/k_diary-5/2011_04_28.htm
あたりの,安本美典の九州説ごり押し.
 あと,文献としては拾わなかったが,古田武彦も相当酷い.
 ただ,酷いのは九州ごり押し部分だけで,他は,二人ともわりと良い研究をしているというのが,不思議でならない.

kureseki by massage,2011年09月25日 17時54分

【ぐんじさんぎょう】,2011/10/01 20:30
を加筆改修

 「九州政権が神武東征したでござる」でいいんじゃないの?

しまだ in mixi,2011年09月28日 23:03

 んー,そうなると神武東征により邪馬台国が出来て,卑弥呼が神功皇后の可能性は,現実味を帯びてきましたね.
 あるいはヤマトトモモソヒメか.

バルセロニスタの一人 in mixi,2011年09月28日 23:19

 トンデモの境界線上にある安本美典,古田武彦などのこの辺り,私の大好物です.
 九州説と近畿説で,年期の入った千日手議論が展開されそうで,続けて下さると嬉しいところ(笑

 かねてより考古学寄りなものは近畿説を,文献資料学寄りなものは九州説を支持するとは,よく言われます.
 昨今の考古学的発見の補強から,近畿説有利とは言え,やはり大和政権に伝承として,高千穂降臨説話が受け継がれている史実も,常に念頭に置かなければならないとは,個人的には思いますね.

ほっけ = うるふ in mixi,2011年09月28日 23:32

 所詮,魏志倭人伝は中国における伝承を,陳寿がまとめただけのものであり,しかも,混乱期なんですよね,両国とも.
 史料批判の材料も乏しいから,千日手になっちゃうのだろうけど…
 いっぺんチャイするくらいのことをした方がいいのではないのかと(笑)

ソフトヒッター99 in mixi,2011年09月29日 01:47

 間を取って,広島あたりにあったってことにしましょう.

Shaul in mixi,2011年09月29日 14:26


 【質問】
 オリエント世界についての質問なのですが,アッシリアがオリエントを統一したのが前670とあります.
 しかしその後の四国分立時代の四国のうち,三国は前8~前7Cにたてられた国です.
 ということはアッシリアによるオリエント統一時に,それらの国は服属していたということなのでしょうか?
 それでアッシリア滅亡後台頭してきたとなるのでしょうか?
 あるいは別に何かあるのでしょいか?

 【回答】
 新バビロニア王国(カルデア人),メディア王国(メディア人),エジプト(新王国),これらの国々はオリエント統一で服従していたが,アッシリア帝国は服従させた諸民族に対して圧制を行っていた為,
(特にエジプトに対しては苛烈な支配を行っていた)
 北方のスキタイ人の侵攻で混乱に乗じて,支配下のカルデア人,メディア人等に反乱を起こして滅亡させられ,その後,四国分立時代が始まった.
(その前にアッシリアはエジプトと連携して抵抗してたけど)
 アッシリア滅亡後台頭して来たのはエジプトだけだろうね.
 それ以外はアッシリアの勢いが衰えた際に勃興して来た.

世界史板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 アッシリアがメディアと新バビロニアに滅ぼされたというのは,アッシリアの領域内にメディアと新バビロニアという国が興ってアッシリアを滅ぼしたのではなく,アッシリアの領域外にもともとメディアと新バビロニアという国があって滅ぼしたということでしょうか?

 【回答】
 アッシリアは世界最初の帝国です.
 帝国というのは帝王が治める国のことです.
 帝王というのは諸王を束ねる王様のことです.

 アッシリアは広大な土地を征服しました.
 その結果,国は莫大な人口を擁することになったけれども,当時の貧弱な官僚組織では,すべての人間を管理することには無理がありました.
 そこで末端の管理は,その地域を統治していた王様にやらせることにしました.
 これが帝国のはじまりです.

 帝王が強力なうちは諸王は忍従しますが,帝国が弱体化してくると,それらの諸王は分離独立を唱えて,帝国に謀反を起こして立ち上がります.

世界史板,2009/05/17(日)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 アケメネス朝ペルシアに対するバビロンの反乱について教えてください.

 【回答】
 古代のアラビアでの話.
 あるとき,バビロンがペルシアに対して反乱を起こした.
 怒ったペルシアの王ダレイオス(在位BC521~486)は全軍を率いて鎮圧に向かった.
 しかし力で押そうが策略を用いようが,あまりにも強固に篭城に徹するバビロンは陥落する素振りすら見せない.
 それもそのはず.反乱を起こしたとき,バビロンの人々は食料の浪費を防ぎ覚悟を固めるため,自分の母親と妻の内一人をのぞく全ての女を「あらかじめ殺していた」のである.

 そこでダレイオスの側近ゾピュロスが「自分の耳と鼻を削ぎ落とし,笞で打たせて血みどろになった」上で献策した.
 王から与えられた仕打ちに耐えかねた裏切り者を自ら演じようというのである.
 ダレイオスはゾピュロスが功績を積みバビロンの内部で重用されるように,自軍の兵士をわざと無謀な状況にして攻め込ませ,「ゾピュロスに7千人の同胞を虐殺させた」.
 ゾピュロスの活躍に沸き上がったバビロンは,彼を城壁防衛の責任者に任じてしまう.

 こうしてバビロンの反乱は鎮圧させた.

軍事板


◆アレクサンドロス大王遠征


 【質問】
 アレクサンドロスによる"諸兵科連合"について教えてください.

 【回答】
 フィリッポス2世,アレクサンドロス大王のどちらもスキタイ人相手に戦い,いずれも勝利を収めているが,弓を射かけてくるスキタイ人に対してアレクサンドロスは,歩兵だけとか騎兵だけと言った具合の戦い方ではなく,両翼に騎兵を配置して諸兵科連合と柔軟性を確保するなど,複数の兵科を組み合わせて攻撃した.
 さらに,槍と剣で戦うヘタイロイ騎兵に騎馬投槍兵を組み合わせたり,騎兵の他に複数の重装歩兵を組み合わせて突撃.
 また,闇雲に攻撃を仕掛けるのではなく,射出機で最初に攻撃を仕掛けてスキタイ人たちを乱したり,飛び道具を使う兵士を活用して,軍勢が整うまで時間をかせいだりしたという.

 【参考ページ】
http://pezetairoi.hp.infoseek.co.jp/history/alacarte/Scythian-macedonian-war.html
http://plaza.rakuten.co.jp/mcneill/2007
http://divertente.blog50.fc2.com/blog-category-2.html
http://sanasen.jugem.jp/?eid=457
http://www.ingle.co.jp/past/log65-5.html

【ぐんじさんぎょう】,2010/04/27 21:00
を加筆改修


 【質問】
 ソグドの武将スピタメンは,アレクサンドロス大王にどう抵抗したのか?

 【回答】
 最初はマラカンダを奪回するなど勇戦したが,徐々に尻すぼみ.
 以下引用.

 アレキサンドロス大王の遠征がアム・ダリヤを渡って,ソグド人の住んでいる地帯であるソグディアナに入ったのは紀元前329年のことである.
 アレキサンドロス大王はそのとき27歳であった.
 ソグディアナというのは,中央アジアのゼラフシャン川流域のオアシス地帯で,今日のサマルカンド,ブハラ一帯の地に当たる.
 当時住民のソグド人達がいかなる生活をしていたかは分からないが,豊穣なゼラフシャン川流域のオアシスで,幾集団かに分かれて農業牧畜を営み,それぞれが小さい国を立てて,さらにそれらが集まって一つの連合国家の形をなしていたのではないかと思われる.
 ソグド人はイラン系の種族であった.

 アレキサンドロスはソグディアナの首都マラカンダを占領して,ここには守備隊を置き,主力はさらに東進してシル・ダリヤの岸に達し,ホージェント(今のレニナバード)の地にアレキサンドリヤ・エスタタという町を築いた.
 〔略〕
 アレキサンドロスは己が造った町を一巡し終わったとき,マラカンダから使者が派せられてきた.意外な報告であった.マラカンダの守備隊がソグド軍に包囲され,一兵残らず城から追い出されてしまったというのである.
 攻撃軍の指揮者はスピタメンというソグドの武将であった.

 アレキサンドロスは直ちにマラカンダに,メネデマを長とする救援軍を送り,アレキサンドロス自身はシル・ダリヤを越えて,天山山麓一帯の遊牧民の掃蕩に当たった.

 アレキサンドロスは再び使者を得た.これまた意外な報告であった.マラカンダに派した救援軍は,途中でスピタメンの軍隊に襲われ,歩兵2千,騎兵3百が討たれ,殆ど全軍が壊滅してしまったということであった.
 アレキサンドロスは,この敗報を外部に漏らした者は死刑にするという布告を出し,時を移さず自ら精鋭を率いてマラカンダに向かった.不敗の遠征軍が不覚にも受けた恥辱を,自らの手で濯ごうと思ったのである.

 アレキサンドロスがマラカンダに達した時は,城は空っぽになっていた.
 スピタメンは衝突を避けて城を捨て,遠く砂漠の地に退いたのであった.
 が,スピタメンはそのままではいなかった.彼はマサゲト人を味方にし,騎馬の大部隊を組織して,再びソグディアナの地に侵入してきた.
 アレキサンドロスは部下の一将軍をして迎え撃たせた.
 ソグド人12万が殺され,多数の者が捕虜になった.

 アレキサンドロスは,捕虜の中から敵ながら勇敢に戦った30人のソグド兵を引き出した.
 勇者ではあったが斬らねばならなかった.その勇敢であったことを称えた上で,斬罪に処することを申し渡した.
 すると,ソグド人達は些かも表情を変えず,それどころか,どこかに嬉嬉として悦ぶところがあるように見えた.
 王は不審に思って,そのわけを問い質した.
 ソグド人達は皆同じように答えた.
――アレキサンドロス大王といえば,今や世界に並ぶ者なき英雄である.その英雄の命によって死を与えられたのである.勇者としてこれ以上,満足なことはない.
 アレクサンドロスは,これらのソグド人達を斬首することを思い留まり,その内の4人は親衛隊に組み入れ,他はそれぞれの生国に帰らせた.
 生国に帰った者が皆,己が生国の住民達を大王に従わせるために全力を尽くしたことは,言うまでもない.

 一方,ソグドの武将スピタメンは勇敢に侵略軍に抵抗したが,相手がアレキサンドロスの遠征軍であってみれば,とうてい勝ち味というものはなかった.
 いつか部下は一人減り二人減り,後は逃亡の生活の毎日があるだけであった.

(井上靖著「西域物語」,朝日新聞社,2003/6/1《オン・デマンド版》,p.63-64)


 【質問】
 スピタメンの最期は?

 【回答】
 妻に裏切られて殺害されたという.

 執拗な追跡が,片時の休息も与えなかった.スピタメンも疲れ,兵も疲れ,妻も疲れた.
 あるとき,妻は言った.
「どうせ逃れられぬものなら,いっそのこと自首してみたらどうでしょう」
 3人の子供達も,父の前にひれ伏して,父に自首してもらうことを懇願した.
 スピタメンはそのとき,美貌な妻の面を見入っていた.そして,妻が自分の容色にものを言わせ,アレキサンドロスに通じようと企んでいるに違いないと思った.
 そうしたことはしそうなところのある妻であった.大胆でもあり,多情でもあった.
 スピタメンはよほど妻を殺そうと思ったが,それに耐えた.そして言った.
「余は余の運命を持っている.運命のままに,汝も余と苦しみを共にせねばならぬ.余はアレキサンドロスに降るくらいなら死を選ぶだろう」

 それからも苦しい逃亡の日々が続いた.
 スピタメンにとっては,逃亡の苦しみの上にもう一つの苦しみがあった.それは妻を信じられぬことであった.
 ある日,スピタメンは昼日中から酒宴を開いて,前後不覚に泥酔し,妻の手で寝台に運ばれた.
 妻はいったん部屋を出かけたが,思い直して,再び寝台に近寄っていくと,妻の腰から剣を抜き取った.
 妻は至極簡単に妻の息の根を止め,首を切った.

 彼女は夫の首を持って大王の陣営に赴いた.
 アレクサンドロスは,いつ何をしでかすか判らず,殺してしまわぬと安心できなかったスピタメンが,思いかけず一個の首級となって自分の目の前に現れたことに驚いた.
 アレキサンドロスは,美貌の女の功績も認めねばならなかったし,夫殺しとしての彼女の罪にも眼をつぶることはできなかった.
 やがてアレキサンドロスは叫んだ.
――殺さないでやる.余の陣営から直ちにどこへなりと立ち去れ!
 女はそのようにしないわけにはいかなかった.沙漠の中に入っていって,極めて当然なことであるが,再び戻ってこなかったのである.

(井上靖著「西域物語」,朝日新聞社,2003/6/1《オン・デマンド版》,p.64-65)


 【質問】
 マラカンダは現在の地名で言うどこにあったのか?

 【回答】
 アフラシヤブ都城址にあったという.
 以下引用.

マラカンダが古代サマルカンドであったことは,今日,学者の間で一致した見解になっている.
 それではマラカンダ即ち古代サマルカンドは,今のサマルカンドと同じ場所にあったであろうか.あるいはその付近であったであろうか.
 ソ連の考古学者ウェ・シシュキンは,マラカンダが現在のサマルカンドの北方に隣接している有名なアフラシヤブ都城址にあったとしている.
――マラカンダがアフラシヤブの地にあったことを示す直接の文書資料は,残念ながら今のところ発見されていないが,都城址の下層がアレキサンドロスのギリシャ,マケドニア軍来襲以前の時代に属することから考えて,ギリシャ・ローマの著作家のマラカンダなる都城がまさにこの地にあり,現在の都城址の全部,あるいはその大部分を占めていたと考える事ができる.
 シシュキンはその論文「古代文化の宝蔵――アフラシヤブ」(加藤九祚氏訳著「ソグドとホレズム」に収載)の中に記している.
 シシュキンは晩年の情熱をアフラシヤブの発掘に捧げ,1967年春,サマルカンドにおいて歿している.

(井上靖著「西域物語」,朝日新聞社,2003/6/1《オン・デマンド版》,p.67)


 【質問】
 アレクサンドロス大王の軍勢は何故インダス川の5つの支流の最後の5本目を渡河しなかったのか?

 【回答】
 多くの説があるが,一説によれば,当時のインドには戦象が多数用意されていたため,兵士達が恐れを抱いて渡河を拒否したのだという.
 以下引用.

菅沼 正確に言うと,アレクサンドロスの侵攻は,チャンドラグプタによるマウリヤ王朝の創始よりも少し前です.
 しかし,攻めこんだアレクサンドロスも,インド本国まで入ることができずに,インダス河の5つの支流の内,4本目を渡り終わった段階で,兵士達の反対にあって引き返さざるをえない羽目に陥るのです.
 何故兵士達が5本目の川を渡るのを拒んだかについては,古くから多くの説がありますが,この時点でナンダ王朝についての色々な情報が入るようになり,特にインドが当時,象を使った戦車を数多く持っているという情報が入ったために,怖くなってすくんでしまったのだとも言われています.

金岡秀友/菅沼晃/金岡都著「砂漠と幻想の国」(佼成出版社,1977/11/25),p.30


 【質問】
 ナンダ王朝軍はどれほど強力だったのか?

 【回答】
 「ナンダ家の富」という言葉があるくらい強力で,騎兵2万,歩兵20万,戦車2千台,象4千頭を持っていたという.
 以下引用.

------------
 釈尊が出世した当時の北インドは,仏典やジャイナ教文献で16大国などと言われるように,大小幾つもの国々があり,勢力を競い合っていた.
 中でも
アヨーディヤー,サーケータ,シュラーヴァスティーの3大都市を持つコーサラ,
ラージャグリハ(王舎城)を都とするマガダ,
カウシャンビーを都とするヴァンサ,
共和制をとっているヴァッジ族の国
が盛んであった.

 これらの国々の内で,最後に勝ち残ったのがマガダ王国である.
 天然の資源が豊富で,ガンジス河下流の平原を支配するのに適した地理的条件を備えたマガダ国は,仏典の中で名を知られるビンビサーラ王を経て,紀元前5世紀の終わり頃,アジャータシャトル王(阿闍世王)が即位し,コーサラを始めとする諸国を亡ぼして北インドに一大王国を立てた.
 史書によれば,その後のマガダの王はいずれも父や兄弟を殺して王位に就いたとされ,市民は第5世のナーガダーサカ王を「父殺しの系統」であるとして廃し,大臣シシュナーガを王位に就けたという.
 このマガダ国の第2王朝をシシュナーガ王朝と言い,十数代続いた後,第3王朝であるナンダ王朝がこれに代わった.

 この王朝は,「ナンダ家の富」という言葉があるくらい経済的にも軍事的にも強力で,ギリシャの史家ディオドロスによれば,騎兵2万,歩兵20万,戦車2千台,象4千頭を持つ強力な軍隊があったという.

 マケドニア出身のギリシャ王アレクサンドロスがインド侵入を企てたのは,ちょうどナンダ王朝のときであり,大王の軍勢が遂にインダス河を渡りきらず,引き返さざるをえなかったのは,ナンダ王朝の隆盛と何らかの関係があるとみられている.

 しかし,このナンダ王朝も,西紀前319年に挙兵し,アレクサンドロス侵入で混乱した西北インドを統一したチャンドラグプタによって亡ぼされ,ここにインド最初の統一王朝たるマウリヤ王朝が成立するのである.

------------金岡秀友/菅沼晃/金岡都著「砂漠と幻想の国」(佼成出版社,1977/11/25),p.77

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