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◆1~8世紀 Amíg a 8 Század
戦史FAQ目次


(画像掲示板より引用)


 【link】

Runes & Vikings

朝目新聞」●役に立たないムダ知識,奈良時代の陰陽師の組織と労働環境  (of Kousyoublog /by 駄文にゅうす)

●書籍

『阿倍氏 四道将軍の後裔たち 古代氏族の研究 3』(宝賀寿男著,青垣出版,2013.3)

『白村江の真実 新羅王・金春秋の策略』(中村修也著,吉川弘文館,2010.3)

『壬申大乱 (古田武彦・古代史コレクション13)』(古田武彦著,ミネルヴァ書房,2012/8/30)

『ローマ亡き後の地中海世界』(塩野七生著,新潮社)<「たむたむ」


◆1世紀~4世紀


 【質問】
 ヴィンドボナ(Vindobona)とは?

 【回答】
 トラヤヌス帝 (Trajanus) が紀元後1世紀頃,北方の蛮族に対するドナウ川沿いの守りを強化した際,帝国軍駐屯地カヌントゥム (Carnuntum;ウィーンから50kmほど東に現在もある町)の側面を援護する目的で作られた,もう一つの駐屯地.
 同地は,ドナウ川とウィーンの森に囲まれ,守りやすく攻め込まれにくい地形が軍事的に有利だと判断されたようだ.
 『ヴィンドボナ(ヴィンドの財産?)』という名前は,ケルト語の地名に由来しているのではないかと推測されている.

 やがて入植も行われるようになり,ヴィンドボナの最盛期には駐屯地とその周辺部合わせておよそ35,000人ほどの人間が居住していたようだが,マルコマンニ人とクアディ人が169年から170年にかけてドナウ地域に侵入したのを皮切りに,異民族がたびたび侵入しては,その都度,北方の駐屯地や都市は大きな被害を被り,最期はゲルマン民族大移動によって破壊し尽くされる.

 433年にローマ帝国は,ヴィンドボナを含むパンノニア州をフン族に譲渡することを余儀なくされ,入植者は大部分イタリアに移住したが,残った住民は駐屯地北東部分の,破壊を免れた地域に一つの強固な砦を囲むようにして再び生活を始めたようである.
 この砦こそが中世に入ると,ウィーン最初の城様の建物となった.

 【参考サイト】
http://members.aon.at/hwien/rekishi/vindobona.html


 【質問】
 南匈奴は騎馬民族にしては活動が活発じゃないように思えるんですけど.

 【回答】
 今の中国が一国で広大な地域を支配しているから,南匈奴がショボイと考えがちだけど,侵入前と侵入後では中華世界そのものが何もかも変わったといってよいほど変化してる.
 中国の古代の枠組みほとんどつぶしているぞ,アレ.
 晋の皇族つまり司馬氏の大半があぼーんしただけでなく,漢の嫡流(献帝の子孫や曹操の子孫,つまり陳留王や劉備の直系)もほどんど死んだり消息不明になってる.
 隋の統一まで何百年もかかっているし,漢族自体が言語のアルタイ化が起こってしまって,華北の出の漢族も大半が北方民族の習俗にそまっちゃってる.
 隋,唐も匈奴ではないとはいえ,鮮卑系の王朝だし,古代世界からいた士大夫階級も南北朝までに,王朝交代の度に連座してあぼんしたり没落して庶民になったりするわで,華北も江南もかわらんし・・・・

 だいたい,江南に逃れた連中も,いってみれば北方民族の圧迫うけて民族大移動状態だしなー.

世界史板


 【質問】
 マルコマンニ戦争とは?

 【回答】
 160年代後半から,北方からのローマ帝国侵入を図ったマルコマンニ人と,ローマ帝国との戦い.
 マルコマンニ人はゲルマン人の一派.

 ローマ皇帝マルクス・アウレリウスは繰り返しマルコマンニ人と戦わなければならなくなり,180年,その戦いの中,ヴィンドボナ(現在のウィーン)の近くで死去.
 彼の息子で後を継いだコンモドゥス帝(在位180-192年)は,しばらく戦いを続けたが,和平を結んでローマへ撤退.
 これ以降,ローマ帝国は軍事的に守勢に立つことになった.

 なお,紀元175年,マルコマンニ戦争でマルクス・アウレリウスに敗れたサルマート人兵士のうち5000名余は,外人部隊としてブリテン島に派遣され,スコットランド国境のハドリアヌスの長城の配備についた.
 そして退役後も故国には帰らず,現在のランカシャーのリブチェスター近辺にあった外人部隊の拠点に定着した.
 この地方の発掘調査の結果,サルマート人社会はその後5世紀にもわたって存続したことが明らかになっている.(「アーサー王伝説のサルマート起源説」より)


 【質問】
 邪馬台国は日本の近畿か九州と言われているけど,日本の一部の学者や中国人を初めとする海外の学者は,魏志倭人伝の卑弥呼は日本ではなく,フィリピンやボルネオ島など東南アジアや南洋ではないか?という説も出ているというけどどうなんでしょうか?

 【回答】
 その説の根拠はおそらく,魏志倭人伝の記述だろう.
 記された出発点から邪馬台国までの道程をそのままたどるなら,日本海を渡り日本に上陸し,そのまま九州を縦断してさらに太平洋を南へ航海した先になってしまう

 ちなみに「鹿児島(推測地点)から船で10日,上陸して1ヶ月」とある.
 フィリピンやボルネオは流石に行きすぎな気がするが,1ヶ月も歩き回れる陸地は太平洋にはほかにない.

 だから,ムー大陸なんじゃないかっていうトンデモまであ〔以下略〕

世界史板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ヤマト政権の実効支配地域は?

 【回答】
 大和朝廷が成立した時,その支配が及んだのは畿内・中国・四国・九州北部だけだった.
 その後,律令体制を整え,徴税システムを作り上げ,兵役も課した.

 しかし,九州南部や関東・東北には土着の勢力が存在していた.
 大和朝廷は彼らを隼人・蝦夷などと呼び,彼らの支配する地域を獲得しようとした.
 しかし,土着勢力はやすやすと負けなかったので,朝廷は出羽国や陸奥国などを設置したものの,実効支配できなかった.

日本史板,2003/03/07
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 地中海ではローマ帝国やオスマン帝国のような環地中海国家が形成されたのに,もっと狭い日本海には,沿海州~樺太・日本列島にかけて,東のローマ帝国とも言うべき「環日本海帝国」がなんで形成されなかったんだろう?

 【回答】
 ながらく大陸側に中華帝国や遊牧帝国があったのと,造船レベルが低いのと,日本海の波濤が半端ないのと(台風も来るぜ),単純に寒いから.
 渤海使は日本海を突っ切って北日本までやって来たが,両国の連合はならず.
 アイヌは樺太・沿海州とも交易してたが,文明レベルは高くなかった.

 イタリア軍の水中翼艦艇を海自がまねして作ってみたことがあるんだよ.
 で,結果は大失敗.
 地中海の穏やかな海では運用できた水中翼船も,日本海の荒波にはかなわなかった.
 つまりはそういうこと.

 遣唐使や鑑真和上がどれだけ苦労して海を渡ったことか…….

世界史板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 神功皇后が朝鮮半島の南部を支配し,高句麗と争ってますが,高句麗は文化的にはともかく軍事力は強い方だと思います.
 その高句麗と争う日本は,当時の国力は世界史的に見て「中」程度の国でしょうか?

 【回答】
 まず,神功皇后自体の存在と事績が不明確なので,具体的な年代が分からない.
 また,そのころの倭国の勢力,地盤,動員可能兵力,そういったものすら分かってない.
 さらに言えば,全般的に3~5世紀ってのは日本史そのものが不明確なので,国力の推定が出来ない.
 ついでに言うと,高句麗だって建国から滅亡まで一貫して軍事大国だったわけでもない.
 おまけに,同時代に存在した古代国家というもののほとんどは事績がよくわからないので,世界史的に国力を比較と言われても比較しようがない.
 まあ,東ローマや南北朝中国よりは弱かっただろうことは,アホでも分かる.

世界史板

(画像掲示板より引用)


 【質問】
 韓国海軍に KWANGGAETO-THE GREAT「広開土大王」(在位391-402)という駆逐艦がありますが,高句麗の韓国での歴史的位置づけはどうなっているのでしょうか? 鴨緑江以北に興った高句麗の王はやはり韓国の祖なのでしょうか? 民族的にも同じなのでしょうか?

 【回答】
 (1) 韓国の歴史認識は,アカデミズムと,ナショナリズムに根ざした在野の歴史家で,かなりの相違があります.
 現在の韓国の歴史教科書が檀君を神話と明記せずに5000年の歴史(半万年と言っています)があると記載しているのは,ナショナリズム主導の在野の歴史家が政治的に運動した結果です.
 このような事態を背景に,過去の歴史の建て直しと称して,古代の朝鮮が広大な領土や勢力圏を持つ強大国であったという主張もされており,かつての高句麗やその北方も領土としています.

 (2) 現在の朝鮮半島は韓国と北朝鮮に分かれており,特に北朝鮮は高句麗を先祖として位置付けています.韓国も上記のような事情で先祖としています.

 (3) 韓国朝鮮人はもともと,女真系民族を「オランケ」という蔑称をもって呼び,野蛮人だと見なしていましたが,ナショナリズムの肥大化とともに,現在では扱いをあいまいにして,使い分けている状況です.

世界史板



 【質問】
 小学生のときに使っていた歴史の教科書に,日本兵と思しき人物が,広開土王碑に碑に手を加えている写真が載っていたことを覚えています.
 あれは改ざん写真だったのでしょうか?(HN "昭和38年生まれ")
 【回答】
 その写真を見た韓国の学者イ・ジンヒという人が
「日本による朝鮮支配を正当化する為軍部が改竄した」
とする説を発表しましたが,90年代に入って中国で取られた拓本が発見され,その拓本と日本の軍人が取った拓本が一致することから,単に拓本取ってただけで何も手を加えていないことが判明しております.
 ただ,韓国では任那日本府と共に否定されます.

 なお,厳密に言うと,日本の軍人が現地で取ってきたのは,いわゆる拓本ではなく,「墨水廓填本」とか「双鉤加墨本」などというものです.
 これは,先にとられた文字の見づらい拓本の字画をなぞって,別紙に文字の輪郭を写しとり,その輪郭の外を墨で填めて拓本らしく仕立てたものです.



 【質問】
 高校の先生が,「広開土王碑に日本軍がイタズラした」とか言ってるんですけど,実際はどうなんですか?

 【回答】
 中国の所有する,明治維新以前に取られた拓本にも,日本側と同じ文章が書かれている.
 中国の学者によってそれが本物であることが発表されたことで,改竄説は完全に否定された.
 つまり書かれている文章は改竄されていない.

 その先生にその根拠を聞いた方がいいよ.
 まあ多分,日教組の教員だろうから,結論ありきの駄目教師だろうけどね.

 てか,その授業に基づけば,古代に倭が朝鮮半島に進出してなかったことになるけど,そんなんでどうやって話を繋げてるんだ?
 百済王朝との関係とか,白村江の戦いとか,伽耶とか,大伴金村とか.

日本史板
青文字:加筆改修部分



 【質問】
>どうやって話を繋げてるんだ?

 授業では朝鮮半島に進出していることになってるんですけど,騎馬民族征服王朝説を強調したり,広開土王碑は日本軍に改竄されたとか説明するんです.
 騎馬民族征服王朝説のほうは本当なんですか?

 【回答】
 騎馬民族征服説は,古代日本に騎馬民族の習慣(家畜の去勢等)がない点,騎馬を育成していた物証が考古学的に得られない点などから,現在の日本の学界では否定されつつある.

 本当に困った先生だな.
 今でもそんなのがいるのか.

 対策としては無視するのが一番なのだろうけど,あなた自身がここで質問されてるように,問題意識を持つことはとてもいいことなので,その先生を論破できる知識を身につけてぜひ実践して欲しい.
 広開土王碑や騎馬民族征服説はちょっと調べれば簡単に否定できると思うよ.

 しかし,こんな個人思想垂れ流しの日本史教員の授業なら,この先もとんでもない説が出てきそうだな.
 もし公立の教員ならば法に触れる行為ではあるので,あまりにもひどければ他の日本史の先生に話してみるのもいいかもしれない.

 ここ数年の話なので,の教員は新しい学説を勉強していないのかもしれないね.
 下手したら,某神の手によって発掘された遺跡のことを,今でも教えているかも.
 日本史を専門にする人間は,過去をただ学ぶだけでなく,常に新しい学説の発表や新たな遺跡や史料の発見といった事案にも敏感でなければいけないのだがが.
 新聞レベルでも週に1件くらいは,古代遺跡の発掘や発見などのニュースが出ているくらいだかから.

 いろんな意味で困った人だね.

日本史板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 中国の五胡や欧州のフン族やゲルマン族が4世紀に,活発に活動を始めた原因はなんでしょうか?
 寒冷化などの環境変動でもあったのですか?

 【回答】
 フン族が黒海北方から西に移動し,そこに住んでいた東ゴート族を征服.これを従えて西ゴート族に迫った.
 西ゴート族は375年に南下を開始し,ドナウ川を越えて,ローマ領内に侵入したのが,ゲルマンの移動した原因.

 フンに感しては人口爆発説,気候の変化説,疫病説など,諸説があるが正確なところは不明.

 中国の五胡は中華王朝の混乱や,庸兵として雇われたのと八王の乱が遠因.

世界史板


 【質問】
 東フランクの大諸侯ザクセン家は,カール大帝に服従させられたザクセン人と同じ一派ですか?

 【回答】
 サクソン(ザクセン)人は2世紀ごろからドイツ北部で勢力を拡大し始めた部族集団.
 4~5世紀には分派がブリテン島に渡ってアングロ・サクソンとなり,本土では7世紀までにフランク王国と拮抗する大勢力に成長.
 8世紀後半にはウィドゥキント王のもと,30年もの間フランクとの戦争を繰り広げるが,ついに敗れて軍門に降りキリスト教に改宗.
 ウィドゥキントは最初のザクセン公に封じられる.
 つまり最初のザクセン公は,カール大帝がザクセンを征服した際に,降伏したザクセン人のリーダーであるウィドゥキントに授けたものだとされる.

 しかし彼の孫リウドルフの一族は,フランク王国内でも勢力を保ち,リウドルフの曾孫ハインリヒ1世はドイツ王(東フランク王)となってザクセン朝を開く.
 さらにハインリヒの子オットー2世は,962年に初代の神聖ローマ帝国皇帝オットー1世となった.

世界史板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 西洋はローマ帝国の崩壊によって,文明レベルが千年ほど逆行してしまいましたが,中国や中東はひとつの王朝・統一国家が滅んでも,そこまで極端な事は起こっていないようですが,何が原因なんでしょうか?

 【回答】
 「西洋はローマ帝国の崩壊によって文明レベルが千年ほど逆行」したという事実はありません.
 詳しく答えようにも,文明レベルという物差しが曖昧で具体性に欠け,ひどく返答しづらいです.

 例えば有輪鋤や三圃制の発明など,北ヨーロッパの農業技術は,俗に暗黒時代と呼ばれる中世初期を中心として,その前後に大きく進歩しています.
 また,中世初期のアイルランドは戦乱から逃れていたという好都合があったので,キリスト教伝来に伴って生まれた修道士たちの手によって,学芸が栄えました.

 いつ・どこの何が劣っていたのか,またそれと比較される地域や時代は何かを書き添えてください.
 もし貴方が曖昧なイメージしか持っていないのなら,そのようなイメージを植えつけたのはどんな書物か推測し,まずその書物の論から検分する必要があります.
 貴方の頭の中のイメージやその根拠を勝手に決めつけ,それをなじるようなことはしたくないのです.

世界史板,2010/01/15(金)~01/16(土)
青文字:加筆改修部分


フン族


◆5~8世紀


 【質問】
 ギリシア火とはどんなものだったのか?

 【回答】
 ギリシア火は単なる油ではなく,硝石や硫黄,タールのようなものを含んでいたようです.
 また,アラムコの社誌に,実際にはギリシアではなく,イスラム圏のカリニコスという兵士の発明である,という記事が載っていたようです.

www.sfusd.k12.ca.us/schwww/sch618/War/FireWeapons.html

System


 【質問】
 山川の教科書の西ヨーロッパ世界の成立のところで,
「西ローマ帝国が滅亡すると,ローマ教会はしだいにビザンツ皇帝が支配するコンスタンティノープル教会から分離する傾向をみせはじめ,独自の活動を展開するようになった」
とあるんですが,西ローマ帝国が滅亡したら後ろ盾が無くなって,むしろビザンツの支配下になったんじゃないんですか?
 それに「使徒殉教の地であるローマの司教は,教皇として権威を高めるようになった」のは,西ローマ帝国が滅亡する前のことですよね?

 【回答】
 オドアケルの反乱は496年に終結したが,現在の教皇を意味する「キリストの代理者」の称号が実際に用いられたのは,その同年からのはず.
 つまり,現在の意味での教皇は西ローマ滅亡後に誕生した.

 ただ西ローマの滅亡が原因というよりは,キリスト教がその時点までに,国家の積極的庇護を必要としない,国家を凌駕する勢力になったと見た方が自然だと思うけどね.

 最近の教科書見てないから知らないけど,原因とかいう書き方してるの? 読み違えてない?

世界史板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 3~9世紀ごろの飛鳥,奈良,平安京の政府や人間にとって,九州や関東,東北などは完全に朝鮮と同じぐらいの外国扱いなんでしょうか?

 【回答】
 九州は外国扱いなどありえない.
 中国・朝鮮半島外交の玄関口だし.

 関東は…役人を派遣したりはしていたんだから外国ではないでしょ.
 中級以下の貴族にとっては,「国司として赴任する可能性のある場所」だ.
(律令成立以降は)

 東北はある程度,外国扱いだったと言えるかもしれない.

日本史板,2010/01/04(月)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 大和朝廷やらの古代,民の苦しみを救うと称して,仏像建立などして民を使役したり,税を課したりして,かえって民を苦しめることになったと思うのですが,当時は誰もこれをおかしいと思わなかったのでしょうか?

 【回答】
 感覚としてはあったかと.

「かまどの煙が見えないって事は,メシもろくに食ってねえんじゃね?
 3年免税してやっか」
って伝説もある.

 また,橘奈良麻呂は変後捕らえられて,「なぜ謀反を起こしたのか?」と尋問され,(この後刑死しているから,拷問の末かもしれんが)
「大仏などを作って民を疲弊させている,今の政治は間違っていると思ったから」
と答えているよ.
 刑官に
「大仏造営は,おまえの父左大臣橘諸兄の時代に始まったことで,お前は自分の父親のやったことが間違っていると主張したいのか」
と言われて口をつぐんだとか.

 実際に史書に乗ってる話だから,こう考える人は当時もいたということだろう.

 大仏造営には大量の水銀を使ったので,実際の作業に駆り出された農民たちは,かなりの者が水銀中毒になったとも推測されるらしい.

日本史板,2010/02/25(木)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 日本書紀に「任那日本府」という記述があるないの論議で…

>番号 : 181739 翻訳 ニックネーム : jager 2003-06-04 20:29:05

> 馬鹿なやつ
> 欽明2年(540)4月,「安羅や加羅,多羅の諸旱岐らとともに任那日本府吉 備臣」と,有るじゃないか

というカキコがありました.
 しかし,これを検索してみると,なぜか半月城通信にまったく同じ文言がありまして,原文引用とは思えないのです.
 実際のところはどうなのでしょうか?
 個人解釈のサイトでも「日本府」となっていますが,当時の機関・役職である国府,国司などを指すのか,今一つ判断がつきかねます.
 度々の質問ですが,宜しくお願いいたします.

 【回答】
 日本書紀の成立は8世紀で,「日本」という国号の成立は7世紀,が定説になりつつあります.
ですから,4~6世紀に「任那日本府」と言う言葉があったと言うのは,常識的には変な話です.

 日本書紀には「任那日本府」と記述があります.
 日本書紀は,この辺の記述は「百済本記」から引用したといわれてます.
 しかし厄介なことに,この百済本記は偽書との説もあり,任那日本府の存在についても,意見はまとまってません.

 最近の講談社「日本の歴史」全25巻では,「加羅に影響力を持っていた」程度の記述になってます.
 文部省検定調査官の判断基準では,日本がかつて植民地的支配をしていたと取れるような記述には訂正要求し,「任那日本府」の語句は削除対象のようです.
 「作る会」の教科書でも,「日本の拠点となった」にとどまっています.
 他社は全て,「加羅(任那はあまり使わない)と列島の交流は深かった」的な記述です.

 個人的には,倭国とは列島と半島南部を含んだ生活文化圏で,列島の国づくりが進む過程で,百済・新羅の国づくりの速さに,加羅と列島の共同国づくりが出遅れ,百済・新羅に編入されたのではと推測しています.
 もともと,列島と半島南部は一つの倭と言う国みたいなもので,支配とか拠点ではないような気がします.

 以下に任那日本府問題の諸説を張っておきますので,参考にしてください.

------------
(1) 《百済本記》の史料価値

 (a) 《日本書紀》編者により,大和朝廷の国内統一の過程を,加羅地方に仮託したとする偽書説.

 (b) 660‐663年に亡命してきた百済貴族が,大和朝廷での政治的地位を要請するために編纂した歴史書とする説.

 (c) 597年に百済王子阿佐が来朝したとき,大和朝廷との国交再開を要請するため,百済王朝からもたらされた歴史書とする説.

(2) 大和朝廷と加羅諸国・百済との関係

 (a) 大和朝廷の南朝鮮支配は,4世紀中ごろから6世紀中ごろまで,約250年間つづいたとする説.

 (b) 大和朝廷ないしは日本列島内の倭国(倭)が,5世紀後半に加羅諸国を一括して,直接支配したとする説.

 (c) 4世紀後半に百済と加羅諸国が,6世紀初頭に百済・加羅諸国と大和朝廷が,それぞれ国交を開いた.
 百済が大和朝廷と国交を開いた目的は,国際関係の強化と軍事力の援助にあったとする説.

(3) 任那日本府の名称と実態

 (a) 正式な名称を任那日本府とし,伝承記事の朝鮮出兵・遣使などを含め,大和朝廷の朝鮮経営が全てここを基地としたとする説.

 (b) 任那日本府は仮称で,原名は任那倭府であるとし,その実態は大和朝廷が百済王を仲介にして,加羅諸国を間接的に支配したとする説.

 (c) 原名は倭府で,倭を加羅諸国の別名とみ,実態は百済の支配下に入った加羅諸国内の,反百済自立派の亡命者集団であるとする説.

(4) 任那の調 600‐645年に,任那の調を新羅が5回,百済が1回納めている.

 (a) これを大和朝廷が加羅諸国を支配していた証拠とする説.

 (b) 百済・高句麗の滅亡後,新羅が百済の使者を4度,高句麗の使者を8度派遣したのと同様,新羅の外交政策とする説.

 以上の諸説のうち,比較的穏当な説とみられるものは,(1)(c),(2)(c),(3)(c),(4)(b)であろう.
 今後の研究では,まず《日本書紀》の任那日本府像を明確にしたうえ,その歴史像をもとに,加羅史を中心とする朝鮮古代史や日本古代史の他の 事象の歴史像との関係を追究し,史実解明への緒を求め,最後にその成果にもとづいて,日本・朝鮮の関係史のみならず,両国古代史を抜本的に 再検討することが必要であろう.
------------

 なお,上記諸説の引用元は,『世界大百科事典 第2版』(日立ソリューションズ)と思われる.

日本史板,2003/06/05
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 白村江の戦い(663年)で,日本は数万の軍勢を朝鮮に揚陸して攻めあがってきてますが,古代日本の技術でこれを可能にしたのは何ですか?
 好太王碑に書いてあるように,舟を使った戦には慣れてたんでしょうか?

 【回答】
 神武東征の時代から,古代の日本人は水上戦に慣れている.
 てゆうか前近代の日本の戦争って,特に瀬戸内などの西日本では水上戦がメインだし,また東日本でも江戸内海(現東京湾)と香取内海(現霞ヶ浦)という大きな内海(現代よりも遙かに広い)が存在する関東地方なんかは,水上戦がメインだったといわれる.
 平安初期に起こった平将門の乱と藤原純友の乱は,いずれも水上戦がメインの戦乱だったしね.

日本史板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 「平安末期から鎌倉時代が島津氏所蔵文書がなくなると,暗黒時代になってまう」そうですが,島津の人ってそんなに記録つけてたの?
 日記好きなの?

 【回答】
 島津の人たち自身も,腐っても元貴族なだけあって記録好きなんだけど,何より700年,任地替えもされずに一箇所に留まっていたってのが大きい.

 そう言われると
「相馬は? 相良は?」
って話にもなるけど,鎌倉から室町の守護は本来,鎌倉なり京なりで勤めて,任地には代官を置かなければいけなかった.
 けど薩摩の場合,現地の混乱が激しかったのか,元寇からずっと島津氏は薩摩に入りっぱなしで,幕府勤めをしてない.
(というか島津は初代から,なぜか薩摩滞在が長かった.
 5年ぐらい薩摩に行きっぱなしとか,他だと考えられない)

 そういう事情があるためか,例えば頼朝がとか鎌倉幕府がいつ,どういう風に兵力を動員したとか,諸法度を出す際に現地にどう指示したのかとか,そういう一次文書は殆ど薩摩にしか残っていない.

 また,「頼朝様ご落胤説」が,南九州の経営に大事だったんで,必死に頼朝関係の書状を集めてたってのもある.

 他方,人気の土地は支配者がころころ変わって,記録が残ってない.
 残ったものが正しいかどうかは,また別の話だけど.

漫画板,2013/07/06(土)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 平安時代の軍事制度について教えてください.

 【回答】
 一言で言えば,平安時代の軍事制度は不完全であり,地理的環境の影響から軍隊を重視しないものだった.
 律令制の下では各「国」に,軍事や警察の仕事を受け持つ軍団が置かれ,中央の兵部省が統帥していた.
 兵士は戸籍に基づいて,一般農民から選ばれ,郡司級の土豪が農閑期に教連を行なった.
 しかし,その武器も食糧も兵士の自弁であったことから士気は低く,戦力として通用しなくなってきたため,792年,陸奥・出羽・佐渡と九州大宰府管内を除いて軍団制を廃止し,郡司の子弟から選んだ「健児(こんでい)」を兵力の中心とした.
 この健児制により,郡司の本体である地方豪族が公然と武装するようになり,武士団発生の端緒となった.

 「平安京エイリアン」において,平安京側防備の主戦力でもあった(うそ

 【参考ページ】
http://www.mboso-etoko.jp/dictionary/article.php?flg=2&code=970
http://heian.kyo2.jp/e76689.html
http://www.t3.rim.or.jp/~miukun/japan4.htm
http://www.ab.auone-net.jp/~tsuka21/theme/bushi01.html
http://blog.sina.com.cn/s/blog_4ed7722b01000ebn.html

(画像掲示板より引用)

【ぐんじさんぎょう】,2010/12/26 20:30
を加筆改修

 検非違使の標準装備:円匙

Bernoulli in mixi,2010年12月22日 06:14

 そのエイリアンはスペルカードを使用(違

おりんりん in mixi,2010年12月22日 15:10


 【質問】
232 :名無しんぼ@お腹いっぱい@転載は禁止:2015/09/14(月) 20:26:04.59 ID:b7B4+NkX0

貴族同士での殴り合いなんかも結構あったと聞きましたが


 【回答】
235 :名無しんぼ@お腹いっぱい@転載は禁止:2015/09/14(月) 20:30:42.27 ID:qpJwYfUX0
>>232
遊びにいった先に可愛い女の子がいたからレイプした(罪悪感なし)とか普通だし,ま,多少はね

当時の感覚では貴族以外は人間じゃないからってレイプしたことを日記に書き残して,
それを1000年後に子孫に学習されるとか…


243 :名無しんぼ@お腹いっぱい@転載は禁止:2015/09/14(月) 20:49:41.63 ID:zOzL4bGq0

鷹狩や弓矢は平安貴族のたしなみだぜ
紀貫之も海賊対策で名を上げたし


244 :名無しんぼ@お腹いっぱい@転載は禁止:2015/09/14(月) 20:50:43.14 ID:b7B4+NkX0

軟弱なふりして実は柳生と互角という烏丸少将みたいな人も実在してほしいな
もちろんルックスは成田三樹夫
http://www.nicovideo.jp/watch/sm21227917


245 :名無しんぼ@お腹いっぱい@転載は禁止:2015/09/14(月) 20:58:38.62 ID:b89bluX00

平安後期になると貴族の下っ端なんか荒っぽさからして武士と変わりませんよ
そんなのが島津初代

246 :名無しんぼ@お腹いっぱい@転載は禁止:2015/09/14(月) 20:58:50.54 ID:a3OTjBjs0

「おじゃっ! おじゃああっ!」
と奇声を上げながら見事な連続斬りからの三段突きしてくる公家眉とかいやだなあ…


247 :名無しんぼ@お腹いっぱい@転載は禁止:2015/09/14(月) 21:02:34.04 ID:zOzL4bGq0
>>244
あの成田三樹夫はすごかった.
だって,いわゆる麿呂メイクなのに,目つき怖いんだもん
襲い来る伊賀忍者を一人で返り討ちにするし


253 :名無しんぼ@お腹いっぱい@転載は禁止:2015/09/14(月) 21:25:50.09 ID:MG/oGpsb0

「柳生一族の陰謀」?


260 :名無しんぼ@お腹いっぱい@転載は禁止:2015/09/14(月) 21:36:34.43 ID:a3OTjBjs0
>>253
高校柳生部
という単語を突然思いついたんだが,これ甲子園じゃなくてどこを目指せばいいんだろうか


264 :名無しんぼ@お腹いっぱい@転載は禁止:2015/09/14(月) 21:45:18.32 ID:j1gR3FcK0

プロ柳生とか柳生賭博とか
おっかないイメージしかわかない


268 :名無しんぼ@お腹いっぱい@転載は禁止:2015/09/14(月) 21:58:47.99 ID:FeLzTXib0
>>264
柳生拳とか死人でそう


270 :名無しんぼ@お腹いっぱい@転載は禁止:2015/09/14(月) 22:01:07.44 ID:xzmEfeqI0

孝行柳生…


274 :名無しんぼ@お腹いっぱい@転載は禁止:2015/09/14(月) 22:08:43.60 ID:yTjTjDMZ0
>>260
柳生ワールドチャンピオンシップ


278 :名無しんぼ@お腹いっぱい@転載は禁止:2015/09/14(月) 22:52:38.99 ID:b7B4+NkX0

キューバ柳生
アフリカ柳生

なんかすげー強そう


279 :名無しんぼ@お腹いっぱい@転載は禁止:2015/09/14(月) 22:54:39.53 ID:IQIdil3A0

草柳生ってめっちゃ強そうな忍者っぽい


280 :名無しんぼ@お腹いっぱい@転載は禁止:2015/09/14(月) 22:56:10.40 ID:yTjTjDMZ0

いや,各地に溶け込んで諜報活動する柳生だろ?


281 :名無しんぼ@お腹いっぱい@転載は禁止:2015/09/14(月) 22:58:54.27 ID:j1gR3FcK0

柳生の本場はアメリカとかいわれても困る


282 :名無しんぼ@お腹いっぱい@転載は禁止:2015/09/14(月) 23:07:05.95 ID:GrI9dglGO

野牛近鉄斎というネーミングは天才だと思った


283 :名無しんぼ@お腹いっぱい@転載は禁止:2015/09/14(月) 23:12:50.95 ID:9mh4eQoJ0

柳生拳

強そう

284 :名無しんぼ@お腹いっぱい@転載は禁止:2015/09/14(月) 23:14:19.07 ID:b89bluX00

柳生拳って向い合って座って鍋の蓋と木刀でやるやつだろ


285 :名無しんぼ@お腹いっぱい@転載は禁止:2015/09/14(月) 23:14:27.53 ID:xzmEfeqI0

少年柳生

多分過去編か番外編


287 :名無しんぼ@お腹いっぱい@転載は禁止:2015/09/14(月) 23:17:00.05 ID:IQIdil3A0

軟式柳生

穏健派(当社比)


288 :名無しんぼ@お腹いっぱい@転載は禁止:2015/09/14(月) 23:18:29.11 ID:qpJwYfUX0

一本足打法に完全敗北する流派の話題はそこまでだ
http://futalog.com/pic/m/150725/1437795140940.jpg

漫画板,2015/09/14(月)


 【質問】
 武家って,荘園にいた低階層者の自警団みたいなものが発端?

 【回答】
 最近の説(っていっても他の説など知らんのだが)では・・・

 貴族や大寺社などの荘園領主は,班田収受制が崩れたことによって流民化した農民を集め,「苗(みょう)」という耕作単位ごとに,監督責任者をおいて開墾を行わせた.
 優秀な担当者は,より多くの苗を任されるようになる.
 これらは大苗(大名)と呼ばれ,やがて治安維持や徴税の円滑化のために,武力を持つようになった.

 彼らは自分の担当する苗の名前を名乗り(苗字),また,自分の苗の支配権を確実なものとするために,積極的に中央の貴種を婿に迎えた.
 この貴種たちは,家格の低い者が殆どであったが,婚家の経済力によって俄かに朝廷内での発言力を高め,やがて武家と呼ばれる新家格を形成するようになった.

 また,朝廷周辺に職能集団としての武芸貴族が派生し,それが地方に国司などとして派遣され,地方有力豪族層と結びついた,との説も有力.

 個人的には,京都特別職芸集団としての武士貴族と,地方豪農層の武装化が絡み合ってると思うが,各地の反乱軍退治などには,京都から職業武士貴族が出発(地方で援軍は受けるだろうが)
 勝つと凱旋し,人気者になっている.

日本史板,2003/01/10
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 倭国が渤海と同盟して,新羅を攻める計画があったという話を聞いたんですが,詳しく教えてください.

 【回答】
 新羅攻撃計画立案者は藤原仲麻呂.
 本人が失脚して中止.
 また,新羅と敵対関係が薄れたのも,中止の理由.

 渤海は727年,新羅を牽制することのできる勢力である日本に使節を派遣,日本と結ぼうとした.
 ここに渤海と日本の国交が開始され,以後919年(延喜19)まで続くが,その間渤海からの使節の来日は34回に及び,一方,日本からの遣渤海使派遣は13回で,その多くは渤海の使節を送る使であった.

 こうした両国の通交の歴史は,大きく2時期に区分できる.
 第1期(727‐811)は,渤海が新羅を牽制することを日本に期待して使節を派遣する一方,日本は新羅を蕃国に位置づけ続けるために,渤海の協力を得ようとする政治的な目的をもった外交であった.
 特に759年(天平宝字3)に藤原仲麻呂政権によって立案された新羅征討計画は,日本と渤海が連携して征討を実現しようとしたものであり,そのために両国の使節の往来も頻繁であった.
 しかし,藤原仲麻呂政権の衰退にともなって新羅征討計画が消滅し,また大欽茂が762年に唐から渤海国王に冊立されて唐との緊密な関係が維持され,同時に新羅との緊張も緩和されるにしたがって,日本と渤海との関係も変質し始めた.

日本史板,2003/07/29
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 732年のトゥールポワティエの戦いで,なぜカールマルテルはイスラムに勝てたのですか?

 【回答】
 勝ったというか,たまたま混戦でイスラム側の指揮官が戦死したので,イスラム側が一時撤退しただけだった筈です.
その後,再侵攻がある前にウマイヤ朝が倒れて計画自体がうやむやになったんだと記憶してますが.

 とにかくフランク側の軍制がイスラム側よりも優れていたというわけではありません.
 カール=マルテルは配下の掌握に非常に苦労していたようです.

(勇者トンヌラ ◆CSZ6G0yP9Q in 世界史板)


 【質問】
 ムグ山の戦い(7世紀後半)は何故起こったか?

 【回答】
 ペンジケントの町を棄てて逃亡しようとしたソグド人を,アラブ人が阻止しようとしたためだという.
 以下引用.

 この人物〔ディワシュチチ〕は,ムグ山出土の文書から判明したことであるが,ペンジケント侯国の領主であると共に,一時期サマルカンド侯国の王でもあった.そして,幾つかの侯国によって結成されているゼラフシャン同盟の盟主でもあったのである.
 しかし,ディワシュチチはもう何年も安らかに眠ったことはなかった.アラブの侵略軍がこの地方に永久駐屯を始め,ソグド人が造っている全ての侯国を己が支配下に置いたからである.
 あらゆる要求が三日にあげず,アラブの代官から通達されてくる.
 ディワシュチチは,その要求する全てをアラブに与えねばならなかった.農作物も取り上げられ,手工芸品も取り上げられる.人も徴発される.
 一番辛いのは,やたら処罰されることである.
 そういう不幸なソグド人達の貰い下げに奔走することで,ディワシュチチの毎日は埋められている.
 それから回教への改宗の要求である.ソグド人達にとっては,これだけは耐え難いことである.

 ある日,一つの考えが,ディワシュチチを襲った.それは市民全部がこの父祖伝来の土地を棄て,アラブの勢力が及ばないパミールの山襞の中に,新生の天地を開くことである.このペンジケントの町を棄て,町ぐるみ奥地へ引っ越すことである.
 ディワシュチチのこの考えは誰一人にも反対されなかった.

 計画はその日から秘密裏に実行に移された.
 大切な品々は,アラブに気付かれぬように,ムグ山の小さい砦へ運ばれ,そこに埋められた.いつかそこに掘り出しに行くような時代も来るかもしれない.埋めておかないより埋めておくほうがいいだろう.
 ペンジケントの市民は,恐らくパミール山中への逃亡のために,半年も,1年も,あるいはそれ以上の日子を費やったに違いない.町から次第に,大切なものは姿を消していった.
 毎日のように意地の悪いアラブの役人や兵は,ペンジケントの路地路地を見回っていたが,誰もそうしたことには気付かなかった.
 そしてある夜,ペンジケントのソグド人達は,永年住み慣れた父祖の地を棄てたのである.2千人から3千人のソグド人達は,女も子供も含めて長い隊列を作り,夜の闇に紛れて,パミールを目指したのである.

 おそらく不幸はすぐやってきたのである.町を棄ててから2日目から三日目に,彼らはアラブの騎馬隊が自分達を追っていることを知らねばならなかった.
 伝令は,長い隊列の到るところに飛んだ.
 進路は変更された.事態がこうなった以上,アラブと闘う以外,残された途はなかった.
 ソグド人達は新天地開拓の夢を棄てて,ひとまず勝手知ったムグ山の砦に篭った.

(井上靖著「西域物語」,朝日新聞社,2003/6/1《オン・デマンド版》,p.80-81)


 【質問】
 ムグ山の戦いの結末は?

 【回答】
 ソグド人は敗北し,市民のごく少数だけがペンジケントに帰還したと思われる.
 以下引用.

 ディワシュチチが全市民を戦闘態勢に配置替えし終った時は,既に城はアラブの大軍の囲むところとなっており,その日から攻囲軍と篭城軍との間には烈しい戦闘が開始された.
 ディワシュチチも自ら先頭に立って闘った.
 攻囲軍はアラブ兵ばかりではなかった.中央アジアの河間地帯の諸民族が皆,駆り出されて攻囲軍に加えられている.
 最も激しい戦闘は,城の外で行われた.ソグド人達は勇敢だった.
 〔略〕

 しかし,勝てる戦闘と勝てぬ戦闘がある.ペンジケントの市民達に約束されているものは,敗戦であり,死であった.
 城外の戦闘でソグドの男という男は皆,殪(たお)れた.
 この日の統率者ディワシュチチの死闘の姿は,千2百年後の今日,ムグ山上の砦から出土した盾に描かれているソグド騎士像一つからでも,はっきりと思い描くことができる.

 ディワシュチチは生き残りの兵を纏めて城に引き上げた.
 そして,女と子供と老人と,生き残りの兵を助けるために,攻囲軍との間に交渉を開始した.
 激戦のあった翌日,ディワシュチチは単身交渉のために攻囲軍の陣営に赴いた.そして捕らえられ,斬られた.
 それから間もなく,統率者を失った篭城軍は,百家族の者の生命の保護を歎願して城門を開いた.
 悲劇はさらに新しい形でソグド人達を襲ったに違いないのであるが,それについて語るものは何も遺されていない.果たして百家族の者の生命が保証されたかどうかも分かっていない.

 このペンジケントの悲劇に前後して,サマルカンドにおいても同様の悲劇が起こっている.
 サマルカンドの市民達は,サマルカンドの町を棄ててフェルガナ盆地を目指したが,盆地の入り口に位置しているホージェントで,アラブ追跡軍の捉えるところとなり,全員殺されるという悲運を持ったのである.

 〔略〕

最近のロシアの考古学者達は,ディワシュチチに棄てられてから,古代ペンジケントの町の一部には,たとえ僅かでも生活の煙は立っていたのではないかと見ている.
 そして,この町が完全に死滅している時期を770年頃に想定している.
 この想定は私達の心を明るくする.たとえ少数の者でも生命を助けられ,一度棄てたペンジケントの町に帰る事ができたと考えられるからである.
 そして彼らの死と共に,この町は完全に死んだのである.
 そしてそれ以後,この悪夢の立ちこめている故地に,ソグド人達は寄りつかなかったのである.

(井上靖著「西域物語」,朝日新聞社,2003/6/1《オン・デマンド版》,p.81-82)


 【質問】
 八幡様は,なぜ八幡様というのでしょうか?
 幡=旗,八幡=八旗,で清代のように8つの軍団を,応神天皇,神宮皇后が率いていた,というわけではない?

 【回答】
 対隼人戦の行われていた,辛国城に八つの旗が降って来たからというのが中世の説明でしたが,実際には中国の軍制にある「八幡」に由来するという説があります.
 応神天皇霊という説もありますが,これは後付けで,本来は辺境を守護した軍神であったらしい.
 『続日本紀』では,早くも仏教式に「大菩薩」と呼ばれています.

(山野野衾 ◆a/lHDs2vKA in 日本史板)


 【質問】
 タシロの乱について誰か頼む.

 【回答】
 バイエルン大公タシロ3世は763年,カール1世のアクィタニア遠征への従軍を病気を理由に拒否.
 タシロに対して警戒心を抱いたカールは,タシロの後ろ盾になっていたランゴバルド王国を滅ぼすと,バイエルンに兵を向けた.
 787年タシロは降伏し,バイエルンはカロリング朝に統合された.
 794年,フランクフルトの王国会議でタシロとその子孫は永久に大公位から排除された.
 タシロはアヴァールと通じていたらしく,795年にはカロリング朝とアヴァールとの戦争が始まっている.

カラジチ◆mWYugocC.c


 【質問】
 征夷大将軍とは?

 【回答】
 古代日本において,将帥の出征には1軍=兵1万の場合,「将軍」1名,「副将軍」2名,「軍監」2名が定められていた.(『軍防令』)
 ところが稀に,国家危急存亡のとき,最低3万-「将軍」3名の上に,さらに「大将軍」1名が置かれることがあった.
 この「大将軍」には節刀が帝より親授されることになっており,その儀式は,天皇のもつ大権を臨時に委譲することを意味していた.文字通り,戦時における3万を越える将兵の生殺与奪の権限が与えられたわけだ.
 後世の日本史は,この古代の「大将軍」を一括りにして「征夷大将軍」として記憶した.
 蝦夷を征伐する「大将軍」である.

(日本史板)


 【質問】
 坂上田村麻呂ってどんな人?

 【回答】
 平安初頭の武将.犬養の孫.苅田麻呂の子.
 坂上氏は応神朝に渡来したという阿知使主を祖先とし大和国高市郡に蟠踞した倭(東)漢氏の一族で,武術に秀でていた.

 田村麻呂も「赤面黄鬚,勇力人に過ぐ,将帥の量あり」といわれた.
 785年(延暦4)従五位下,787年近衛少将となり,以後越後守などを兼任していたが,791年に征東副使の一人として蝦夷との戦いに加わった.
 数年にわたる戦闘で功をあげ,795年従四位下,翌年陸奥出羽按察使兼陸奥守,さらに鎮守府将軍を経て,797年征夷大将軍に任じられた.
 801年胆沢を平定し,功により従三位勲二等に叙され近衛中将となった.
 802年胆沢城を築城し,鎮守府を多賀城から移し,翌年志波城を築城するなど,古代蝦夷経営の成果をあげ,804年再度征夷大将軍に任じられた.
 しかしその経営は
「往還の間,従者限りなし.人馬給し難く,累路費え多し」
と田村麻呂の没時の伝にも見えるように,大規模な遠征は多くの問題を残し,805年の徳政の論争によって,平安京造営とともに征夷が中止された.
 その後の田村麻呂は,中納言,中衛大将,右近衛大将,兵部縁,大納言などに任じられ,正三位まで昇ったが,811年粟田別業で没した.54歳.
 死後,彼は従二位に叙された.

(日本史板)
http://homepage3.nifty.com/so_you/list/073.htm


 【質問】
 ヴェルダン条約とメルセン条約の違いが分かりません.

 【回答】
 3兄弟によって国が三分割された.
 分割されたのは統治上の問題と言うよりも,フランク王国の伝統が分割相続だったから.

 ヴェルダン条約はルートヴィヒ敬虔王の領土をどう分割するかという争いに決着をつけたもの.
 これで東西中の三つに分裂する.

 ヴェルダン条約(843年)で,
ロタールは中部フランク王国:イタリア,プロヴァンス,ロタリンギア(オランダ・ベルギー,ラインラントなど)
ルートヴィヒは東フランク王国:のちのドイツ(神聖ローマ帝国)やスイス
カールは西フランク王国:のちのフランス王国
となった.

 で,その後,中部フランク王国のロタール1世が死んで,中部フランクが三兄弟に分割される.
イタリアと帝位……長男ルートヴィヒ2世
ロタリンギア……次男ロタール2世
プロヴァンス……三男カール

 863年にカールが死に,869年にロタール2世が死んだが,どちらも後継者がなかった.
 そんで残ったルートヴィヒ2世と東西フランクの間で,この2人の領土の継承が争われた.
 その決着がメルセン条約.
 プロヴァンスは西に.ロタリンギアは東西で分割.

 このメルセン条約は現在の独仏伊の原形を決めたとか言われてて,確かにその国境は今に似てるといえば似てるんだが,実際には880年にリブモント条約が結ばれて,ロタリンギアは全域東に帰属することになる.

 しかしその後も東西フランクの領土争いは続き,中部フランクは無数の中小国に細分化されていくのでした.

カラジチ ◆mWYugocC.c(黄文字部分) in 世界史板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 分割される前のフランク王国って領土的にはフランス,イタリア,ドイツが合体したものと考えていいのでしょうか?
 すごいと思うんですが,どうやってそこまで領土広げられたんですか?

 【回答】
 カール大帝が中央集権制を導入したりしてひたすら頑張った.
 秦の始皇帝が統一を成し遂げたのと似てるかも知れないね.
 どちらも決して一代で全てを成し遂げた訳ではないけど.

《フランク王国》

4~5世紀:ローマ帝国よりガリア北部に領地を与えられ,ゲルマン諸族の侵入を防ぐ
5世紀末:クローヴィス,アレマン族を破りドイツ南部を征服,フランク王国がカトリック教会に改宗する
6世紀:西ゴートをイベリアへ駆逐してガリア統一,しかしクローヴィス没後王国は分裂
     北東部のアウストラシア,北西部のネウストリア,南西部のブルグントという三分国になる
     さらに宮宰が実権を握り内乱時代へ
8世紀:アウストラシアの宮宰カロリング家がフランク王国を再統一
    カール・マルテルはイベリアから攻め込んできたイスラム軍を撃退,
    小ピピンはアキテーヌを征服,北イタリアのランゴバルド王国を攻めてラヴェンナを教皇に寄進
    さらにその子カールはランゴバルド・ザクセン・カタロニア・バイエルン・アヴァールなどを征服
9世紀:ついにカールは西ローマ皇帝に即位し,カール大帝(シャルルマーニュ)となる
     しかし所詮蛮族国家の緩やかな連合体に過ぎず,かつてのローマ帝国ほどの統一性はなく,インフラも行き届いていなかった
     そして領土分割により,ヨーロッパを統一する大帝国は二度と現れなかった.

世界史板
青文字:加筆改修部分


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