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18世紀
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「VOR」◆(2012/12/02) フランス 18世紀の城が間違って壊される
「ストパン」■(2009-08-20)[中・東欧][歴史]ハプスブルク帝国の国民統合と軍隊――極東に囚われた俘虜たちを通して
「それにつけても金のほしさよ」◆やる夫・テレジアが女帝と呼ばれるようです
「リアリズムと防衛を学ぶ」:マスコミと戦略が戦争を起こす 「戦争はなぜ起こるか」 クリミア戦争の場合
『オーストリア軍の歩兵1740‐1780 マリア・テレジアの軍隊』(フィリップ・ヘイソーンスウェイト著,新紀元社,2001.10)
『フリードリヒ大王の歩兵』(フィリップ・ヘイソーンスウェイト著,新紀元社,2001.8)
【質問】
スロバキアの作家が書いた歴史小説を,部分的に訳したものを,WEBで公開してた方がいらっしゃった(既に閉鎖)のですが,
内容として,1700年のハンガリー国境線における傭兵達の描写が,リアルな割には余りにも人種雑多で驚きました.(中にはインド人まで)
これは実際に有り得たのでしょうか?
まさかイスラム系の傭兵はキリスト教陣営にはいないでしょうけど,旧教と新教の対決では,自分の信仰とは無関係に,雇い主の為に戦うのですか?
【回答】
17世紀末までハンガリーを領有していたオスマントルコ帝国はインド洋やペルシャ湾沿岸まで版図に納めていたから,アフガンや海路を経由してインドのイスラム教徒傭兵がハンガリーまで行っていた可能性はある.
そのインドではイギリス東インド会社が,傭兵としてイスラム教徒やヒンズー教徒の傭兵を雇っていた.
その傭兵(セポイ)に支給された紙薬莢に豚や牛の油が防水用に塗られているという噂が発端でおきたのが,有名なセポイの乱.
三十年戦争あたりの傭兵は,金次第で動く戦争企業家みたなものだから,クライアントの信教はあまり気にしなかった.
【質問】
スペイン継承戦争の結果オーストリア領になったシチリアとナポリが,ブルボン朝支配下になったのは,どういう経緯ですか?
【回答】
●1713年ユトレヒト条約
シチリア→サヴォイ・ピエモンテへ
ナポリ→オーストリアへ
●1718~20年四重同盟戦争(theWaroftheQuadrupleAlliance)
シチリア→オーストリアへ
※スペイン戦争での失地回復(特にイタリアでの)を目論むスペインのフェリーペ5世が,サルデーニャ及びシチリアへ侵攻.
これに対し英仏蘭墺が対抗し,その企図を挫いた.
戦後,皇帝カール6世はブルボン家によるスペイン相続を改めて認める代わりに,(サルデーニャよりも豊かな)シチリアを獲得.
一方,代地としてサルデーニャを受け取ったサヴォイ・ピエモンテは,一応割を食った格好だが,この後サルデーニャ国王を名乗れるようになったし,まあOKかな,と.
(元々ユトレヒト条約でおいしい思いしすぎ.)
●1733~35年ポーランド継承戦争
シチリア及びナポリ→スペイン・ブルボン家へ(というかその分家のナポリ・ブルボン家へ)
※名目的にはポーランド王位の継承を巡る戦争であったが,ユトレヒト条約後の(イタリア支配を巡る)西-墺対決の最終的な精算の場として,半島では最も熾烈な戦いが行われた.
結局,
北伊・中伊→ハプスブルク家のヘゲモニー,
南伊→ブルボン家のヘゲモニー,
ということで確定.
【質問】
ピョートル大帝のヒワ汗国侵攻は,どんな結果になったのか?
【回答】
ロシア軍は近代装備の兵3千で,西トルキスタンのヒワ汗国に侵入したが,夜襲をかけられて部隊は壊滅し,兵の殆どは帰国できなかったという.
以下引用.
アブル・ガージーが亡くなってから53年後の1717年に,ヒワ汗国は突如,ピョートル大帝の派した,近代的装備を持った優秀なロシア軍の来寇を受ける.隊長はベコウィチ・チェルカッスキー,副官はフランケンベル,3千の軍隊であった.
急使によって事態の重大さを知ったヒワ汗国では,兵を動員してロシア軍に夜襲をかけ,これを徹底的に破った.
隊長のベコウィチでさえ裸にされ,首を刎ねられたくらいであるから,他の兵達がいかなる運命を持ったかは想像に難くない.生きて母国へ帰りついた兵は,ごく僅かだった.
ピョートル大帝は,再び軍をアム・ダリヤ下流の砂漠の国に送ることはなかった.
それから150年ほど,ヒワは隊商の町として栄えるが,1873年,ロシアのカウフマン将軍の攻撃を受け,今度は徹底的に破られて,遂にロシアの属国とならねばならなかった.
(井上靖著「西域物語」,朝日新聞社,2003/6/1《オン・デマンド版》,p.151)
【質問】
wikipediaの「大北方戦争」の項に
>1709年スウェーデン軍,ポルタヴァの戦いで壊滅.
>カール12世はオスマン帝国に逃亡.
>スウェーデンの優位崩壊.
って書いてあるんですが,オスマン帝国に亡命って他に行く所なかったんですか?
あと帰国が1714年らしいんですが,その間なにをやっていたんでしょうか?
【回答】
まず,カール12世の進軍経路は,ポーランド発→ウクライナの黒海近辺で越冬→ポルタヴァの戦い となってます.
つまり,南のウクライナから北のモスクワ方面への侵攻という形ですから,退路も南へという形にならざるをえませんでした.
ポルタヴァの前哨戦でのカール12世の負傷もあり,スウェーデンと同じくロシアと敵対していた南のオスマン朝を頼らざるを得なかったという事ですね.
1709年7月のポルタヴァでの敗戦から1713年の初めまでカールやマゼッパがいたのは,オスマン朝に亡命したといっても,黒海の北側のオチャキフ(現ウクライナ領)市にあったオスマン朝の砦や,ティギナ(ベンデルィ,現モルドヴァ領)市の郊外にスウェーデン軍が築いた陣地で,カールはそこからオスマン朝やその属国のクリム・ハン国にロシアとの共同戦線を張るように要請.
ロシアへの攻撃に積極的なクリム・ハン国のデヴレト・ギレイ2世の働きかけもあり,ロシアと事を構えるのに消極的だった,オスマン朝のスルタン,アフメト3世はロシアとの戦端を開き,総司令官バルタジュ・メフメト・パシャ率いるオスマン軍はロシア軍を破り,オスマン側に有利な内容の1711年7月21日のプルートの和約を結ぶも,なおも戦闘は続き,オスマン朝は優位を生かせず戦線は膠着し,スルタンはバルタジュ・メフメトを解任し,政策をロシアとの講和に転換.
一転してオスマン朝にとって厄介者になったカールは,ティギナ郊外に滞在中,1713年の初めにオスマン朝とクリム・ハン国の兵士に急襲され,トラキアのディドュモテイコン(ディメトカ)を経て,アフメト3世の宮廷があったエディルネに移送される.
オスマン朝とロシアとの間の講和条約が結ばれて,1714年の10月に本国スウェーデンに帰国できるようになるまでは,オスマン側に不利になるような余計な動きをしないよう軟禁状態.
その間,カールはトルコで何をしていたかというと,まずは怪我の治療と回復.
そして,手紙でのやり取りで内政や外交について様々な指示を出していたようです.
他には,フランス語の習得(元々はフランス語嫌いだったらしい)といった事が知られています.
【質問】
ロートリンゲン公カール(1712~1780)は王子?
【回答】
じゃない.
兄が皇帝で,その継承者だから,直訳して「王子」としてしまうところもあるが,間違い.
ロートリンゲンは公国であって王国じゃないから,どう訳しても王子じゃないよ.
もっとも,プリンス系の称号は訳すときすごく困るよな.
公(dux系)の上だったり,同程度だったり,下だったり…
日本語にすると「王」だけど,実はただの伯爵だったりするからな.
まあ,西園寺公望も近衛文麿も,海外へ行ったら皇族と勘違いされて困ったらしいし.
(旧華族の「公爵」は,英訳すると何故か prince になってします)
明治初期の頃,対等と言う意味で,外国の君主は全部皇帝って書いてたし.
最近の話ではジェネラル中谷がいたな.
――――――
In the most general terms, when not referring to the children of a king, "prince" refers to a sovereign or semi-sovereign individual who has direct personal rule over a relatively small territory, as with Monaco and Liechtenstein today.
Because the Germans were much more used to minor princes than were other European states outside the Empire, and because German has the additional title of "Furst", "Prinz" in German does not have the very royal cachet it does in English, and sometimes may be classed as a lesser title than "Herzog", or "Grosherzog" depending on a particular title's history.
"Furst" is a uniquely German title that is best translated to "prince" and should be regarded as superior to "prince". It designates the head (the "first") of a princely house, or the head of a branch (or "cadet") of such a house.
For example, the German form of Prince Rainier's title is "Furst von Monaco" (Princess Grace was "Furstin").
Electors of the Holy Roman Empire were termed "Kurfurst, Kurfurstin". "Grosfurst" is the word used in German for a Russian grand duke (son of a tsar).
From these examples, we can see that in the German system (and elsewhere in continental systems), a prince is sometimes something more than a mere noble, but not necessarily royal and it is this distinction that makes comparing it with the British system difficult.
ttp://www.heraldica.org/topics/odegard/titlefaq.htm
――――――
軍事板,2010/02/11(木)
青文字:加筆改修部分
【質問 kérdés】
オーストリア継承戦争って何?
Mi az Osztrák örökösödési háború?
【回答 válasz】
カール6世歿後,マリア=テレジアがハプスブルク家の全領土を継承することに対し,バイエルンやザクセンの選帝侯が異議を唱えたことを発端として,1740年から48年にかけて発生した一連の戦争.
バイエルン,ザクセンにはスペイン,フランス,プロイセンが味方に付き,ハプスブルク側には英国が味方に付いて,ヨーロッパの主要国を巻き込む戦争に.
1748年のアーヘンの和約によって終結し,女王の継承権は認められたが,機業・鉱産業が盛んだったシュレジエンをプロイセンに割譲.
なお,神聖ローマ皇帝の座は名目上,彼女の夫フランツ一世が継いだが,実権はマリア=テレジアにあった.
このシュレジエンの奪還を目指し,また,プロイセンへの復讐に燃える彼女は,宰相カウニッツをしてフランス・ブルボン家との提携や,内政整備を行わせ,次の七年戦争へと抗争は続くことになった.
【参考ページ Referencia Oldal】
https://www.y-history.net/appendix/wh1001-114.html
https://kotobank.jp/word/オーストリア継承戦争
https://www.sekainorekisi.com/my_keywords/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A2%E7%B6%99%E6%89%BF%E6%88%A6%E4%BA%89/
【ぐんじさんぎょう】,2019/5/19 20:00
を加筆改修
ちなみにこの継承戦争でシレジアに侵入して居座り,マリア=テレジアに基地外呼ばわりされたフリードリヒ二世(大王)は皇太子時代に,新教国・旧教国の垣根を超えて彼女との婚姻を進められそうになった.
侍従長などが画策し,名将オイゲン公も推薦したという説がある.
(オイゲン公はバイエルンとの婚姻外交を勧めていたという説もある)
フランツ一世との結婚は,相思相愛の恋愛を成就させてのもので,当時の国王クラスの婚姻としては珍しいケース.
この戦争の結果,帝国はプロイセンにシレジアを割譲するはめになるが,マリア=テレジアは七年戦争に際して,フランスのルイ15世公妾のポンパドゥール夫人,ロシア女帝エリザヴェータと,「プロイセン絶対ぬっころす同盟」を形成し,「ペチコート同盟」と呼ばれた.
こういう下着の名称をわざわざ用いる男どもの下世話さが確認できるとともに,女って怒らすと怖いねということを物語る逸話.
ソフトヒッター99 in mixi,2019年05月20日
【質問 kérdés】
七年戦争って何?
Mi az Hétéves háború?
【回答 válasz】
ハプスブルク家がシュレジエンをプロイセンから奪回しようとしたことを直接の原因として,1754年~1763年まで行われた戦争.
プロイセンは英国と結んで,予防先制攻撃としてハプスブルク領ザクセンに侵入.
対するハプスブルクはフランス,ロシア,スペイン,スウェーデンの援助を受けて対抗したため,英仏間の植民地競争の要素も絡んできて,世界規模の戦争となった.
一時はベルリンも危うかったが,ロシアではフリードリヒ2世を崇拝していたピョートル3世が皇帝となってプロイセンとの単独講和に応じたことで,ハプスブルクも戦争継続が困難となり,1763年,フランス・スペイン・イギリス間にパリ条約,オーストリア・プロイセン間にフベルトゥスブルク条約が結ばれ,戦争は終結した.
フベルトゥスブルク条約ではプロイセンのシュレジエン領有が確認されて,プロイセンはドイツの中心国家となった.
また,イギリスには植民地帝国としての繁栄がもたらされた.
スウェーデンには殆ど何も得るものが無かったが,従軍兵士を通じてジャガイモがもたらされた.
同時にこの戦争は絶対王政各国の財政を圧迫し,イギリスからのアメリカ独立戦争,フランスではフランス革命という市民革命が起こる契機となった.
【参考ページ Referencia Oldal】
https://kotobank.jp/word/七年戦争
https://www.y-history.net/appendix/wh1001-122.html
https://www.sekainorekisi.com/my_keywords/七年戦争/
mixi,2019.5.26
【質問】
カーナティック戦争って何?
【回答】
カーナティック戦争(Carnatic Wars,カルナータカ戦争とも)は,イギリス領マドラスと,フランス領インドの首都であったポンディシェリとの間で,3次(第1次:1744年-1748年,第2次:1749年-1754年,第3次:1756年-1763年)にわたって繰り広げられた戦争.
ヨーロッパのオーストリア継承戦争と連動し,ムガル朝インドにおいて英仏の抗争を軸に,ムガール帝国,マラータ同盟,マイソール王国などを巻き込み,南インド東海岸の貿易拠点や荷物の集散地をめぐって争われた.
同戦争はオーストリア継承戦争後も続いたが,1757年のプラッシーの戦いで勝利を収めたイギリスが,最終的にはフランスを駆逐してインドの植民地化を行うことになった.
【参考ページ】
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AB%A1%BC%A5%CA%A5%C6%A5%A3%A5%C3%A5%AF%C0%EF%C1%E8
http://wiki.livedoor.jp/greenland4/d/%A5%AB%A1%BC%A5%CA%A5%C6%A5%A3%A5%C3%A5%AF%C0%EF%C1%E8
http://www.sekaishi.com/mailmag/sekamo/69.html
http://ashita.yu-yake.com/asia-history/india-history.htm
【ぐんじさんぎょう】,2009/6/16 21:00
に加筆
【質問】
サンドイッチの語源となったサンドイッチ伯爵について教えてください.
【回答】
その語源となったサンドイッチ伯とはサンドイッチ伯ジョン・モンタギューのことである.
モンタギュー家は,1662年のチャールズ2世の王政復古の際の功績でド,ーバーの北にあるサンドイッチの領主に任ぜられ,代々,イギリス海軍の重鎮として活躍.
4代目のジョン・モンタギューは,1749年から1782年まで海軍大臣を勤め,アメリカ独立戦争では強硬派として名を馳せたが,一方で公私混同も目立ち,これが独立戦争での敗因の一つになったとして,戦後失脚している.
私生活では無類のギャンブル好きだった彼は,ある日,ロンドンの賭博場で一昼夜にわたりギャンブルに興じた.その間,食事のためにテーブルを離れる時間を惜しむあまり,召使いに指示してこれを作らせたという.
以来,考案者の名をとってサンドイッチと呼ばれるようになったともいわれている.
また,1778年の第3次世界就航で現在のハワイ諸島に到達したジェームス・クックは,この島々を「サンドイッチ諸島」と命名した.クックの探検航海の推進に力を注いだサンドイッチ伯にちなんだのである.
サンドイッチ諸島は,その後,現地名の「ハワイ諸島と呼ばれるようになり,サンドイッチ伯の名もまた歴史の彼方に消え去ったが,食べ物の方のサンドイッチは,軽食のベストセラーとして,現在も世界の人々に親しまれている.
(世界史板)?
【質問】
1762年 カディス沖でリマの財宝輸送船を英海軍アクティブ号とフェイバリット号が拿捕したが,この時の拿捕賞金は艦長がそれぞれ6万5千ポンド,各水兵が484ポンドだった.
ちなみに,当時のイギリス人の年間所得は大体10ポンドくらい.当時の1ポンドは現在の100ポンド程度らしいので,艦長は現在の邦貨に換算して1億3千万円,水兵は百万くらいを手にしたことになる.
拿捕賞金とか今は国際法違反なのかな?
【回答】
いまでも有まつよ.ロイヤルネービー.
ただし個人に分配やなくて共済組合かなんかに入るらすい.
http://plaza4.mbn.or.jp/~ysino/hansen
によると1739年,熟練水夫の月給は1ポンド4シリング,未熟練水夫の月給は19シリング,強制徴募に応じると賜金として月給三ヶ月分プラスアルファが出たようです.
拿捕賞金という宝くじに当たるような僥倖に恵まれないとしても,まあ,普通の熟練工程度の給料は得ていたようで,しかも普通の熟練工が日雇いなのに比較すると,安定していたとは言えるようです.
(軍事板)
http://www.eh.net/ehresources/howmuch/poundq.php
【質問】
「パトリオット」という映画を見ると,戦闘の時は,太鼓を叩きながらキレイに整列して行進しながら競技のように銃を撃ち合っているんだけど,これがアメリカ独立戦争当時の戦闘スタイルなの?
【回答】
そう.
アメリカ南北戦争で施条銃が普及するまでは,小銃の射程距離は短く有効射程は現在のピストル以下だった.
隊列を組んで射撃する際,敵の白目が見える距離で発砲しろという経験則があるほど.
30メートルとかで,マスケットを撃ち合う場合,隊列を組んで火力を集中する戦闘法が最も優れていた.
太鼓を組むのは戦列を維持しながら行動するための手法.
隊列の端には経験を積んだ兵卒上がりの下士官がいて,隊列を乱したりびびって逃げ出す奴がいないように部下を指揮監視していた.
鉄の規律で知られたプロイセン軍では,隊列から外れた(逃げ出そうとした)兵士は即下士官によって射殺されることになっていた.
また,当時の軍服は赤やら青やら派手な色彩をしていたり,旗手が部隊の旗を持って一緒に進軍している.
これはどの部隊がどこにいて,どういう状況かを,軍を指揮する将軍が遠くからでも把握できるようにするため.
【質問】
七年戦争からナポレオン戦争頃の,作戦や戦術について書かれた本や,同時代を扱った,一兵士や戦闘指揮官レベル視点から書かれた戦記の,おすすめはありますでしょうか?
【質問】
戦闘技術の歴史3と七年戦争上下を読了しました.
この他に,七年戦争からナポレオン戦争頃の,作戦や戦術について書かれた本や,同時代を扱った,一兵士や戦闘指揮官レベル視点から書かれた戦記を読みたいのですが,おすすめはありますでしょうか?
【回答】
「戦略・戦術・兵器 事典③ヨーロッパ近代編 ⑤ヨーロッパ城郭編」学研
「覇者の戦術」新紀元社
歴史群像48「ナポレオ 戦争編」学研
「ナポレオン戦争全史」松村劭(原書房)
「ナポレオン戦線従軍記」フランソワ・ヴィゴ=ルシヨン(中公文庫)
ナポレオン軍の従軍士官手記
Lans ◆xHvvunznRc : 軍事板,2011/10/21(金)
青文字:加筆改修部分
『ナポレオン―ロシア大遠征軍潰走の記』
オーギュスタン・コレンクール
時事通信社
大陸軍馬事総監の回想録から,ロシア遠征の部分を訳出した本.
人名が名前では無く※※公と言った風に書かれているので,多少の予備知識が必要かも.
『東方の夢―ボナパルト,エジプトへ征く』
『一八一二年の雪―モスクからの敗走』
『反ナポレオン考―時代と人間』
両角 良彦
朝日選書
一般の読者が気軽に読める事を目指したナポレオン時代史,とは言っても内容は十分濃いです.
従軍兵士や同時代人の回想録からの引用が多く,徴兵制度,医療体制についても生の声が.
『ライプチヒ戦場哀話』
ゲルハート・グラフ
信山社出版
1813年のライプチヒ会戦に参加した,両軍兵士の回想だけをまとめた本.
収録数は4~5本ですが,書簡(?)がほぼ全掲載されています.
会戦全体についての説明は無いので,事前に流れを知っておく事をお勧めします.
訳に癖は有りますが,翻訳された事自体が奇跡の様な本.
出版社は『ナポレオン戦争史』の信山社.
アルバート・A・ノフィ著 「ワーテルロー戦役」
コイノニア社
ワーテルロー戦でのナポレオン軍と連合軍の戦闘行動が,時系列にそって解説され,19世紀初頭の軍隊の装備,編成,戦術なんかも分かるようになってる.
ローラ・フォアマン&エレン・ブルー・フィリップス著
「ナイルの海戦 ナポレオンとネルソン」
ジョン・テレン著 「トラファルガル海戦」
どっちも原書房.
こっちは海.
軍艦の等級や海戦への動き,そこでのエピソードや戦術なんかが,解説されてる.
軍事板,2011/10/21(金)
青文字:加筆改修部分
【質問】
ポツダム巨人軍について教えてください.
【回答】
巨人軍とは言っても,発行部数だけは日本一の,強欲ボケジジイに率いられた某新聞の私兵ではありません.
どうなるK-1…チェ・ホンマン,年内にも兵役へ
18世紀前半,プロイセンにフリードリヒ・ヴィルヘルム1世ちゅう君主が居りまして,そのお方,たいそう大柄な兵隊がお好きで,大枚はたいて各地から大男を集めて部隊を編成しました.
それが“巨人軍(ポツダム巨人軍)”です.
始めは同軍の中から長身の兵士を選抜していたのですが,その内エスカレートして行き,国内どころか他国でも,長身の男が居ると聞けば徴兵官を差し向け,通常の何倍もの契約金や給与でスカウトし(その辺,どこかの巨人軍と同じですな),場合によっては誘拐まで行って兵隊をかき集め,王は悦に入っていました.
当然,他国領に押し入ってまで兵士を集めることは当然外交紛争となりましたが,王はまったく反省せず,その王の奇癖は国際的に有名になり,各国の大使は外交儀礼の贈り物として,芸術品や宝石の代わりに長身の兵士を連れて来るようになったそうです.
で,大金を使って育てたその巨人軍ですが,肝心の戦闘力は如何かと言えば,フル編成の状態では,王は一度も実戦に投入していないので未知数です.
その後,息子のフリードリッヒ2世(フリードリッヒ大王)が即位した際,実質解体され,残留希望者だけで一個大隊に再編成されたそうですが,その戦闘力は,他の大隊と比べてもそれ程突出している訳でもなく,かといって目立って劣っている訳でも無い,大金を消費する割には可もなく不可もない程度だったようです(この辺も,某巨人軍と同じ?).
翻って,チェ・ホンマンですが,入隊しても使い所に困るでしょうね.
戦車とかの車両系は身長でダメでしょうし,歩兵とてトラックや兵員輸送車,ヘリとかにも乗らなければならないからキツそうだし,前線はキツいでしょうね.
かと言って,後方で事務やらせるのも事務所が暑苦しく成りそうだし.
38度戦の板門店あたりに張り付かせるとか,広報活動で頑張ってもらうしかないのでしょうかね?
新所沢の三等兵◆Uk in mixi,2008年01月06日20:47
【質問】
フリードリヒ大王は,七年戦争(1756~1763)の時は苦戦してかなりジリ貧だったようですが,その場合は,現地の略奪上等で戦わないと,軍を維持できないですよね?
略奪を禁じたナポレオンのような余裕は,とても無かったと思いますが.
【回答】
19世紀後半に各国の鉄道網が整備されるまで,どこの国の陸上輸送力も極めて貧弱で,国外にいる大軍に十分な食料を長期間送り続けることなど,全く不可能なことでした.
すなわち,ナポレオン戦争の頃までの軍隊は,戦時に国外で行動するときの食料は現地で調達するのが常識でした.
通常は,各軍の一部の部隊が任務として食料の調達を命じられて,組織的・計画的に食料を購入または「徴発」し,他の部隊に分配しました.
当時も,兵士に略奪を禁じる命令があちこちの国で出されていますが,それは個々の兵士に無秩序な略奪行為を禁じただけで,部隊の規律と行軍能力を保つのが目的であり,決して軍として略奪行為の必要がなかったわけではありません.
ナポレオンが略奪を禁じたことは有名ですが,それは彼以前に仏軍を指揮した革命政府が,大動員した国民軍の兵士に食糧を十分に供給する術を持たなかったために,食料の現地「徴発」を政策として推し進めたため,兵士たちの間に規律の緩みや士気の低下が拡がったのを嫌って出した命令でした.
フリードリッヒ大王の禁令も,前線部隊の戦闘力を維持するのが目的だったのではないかと思います.
したがって,大王の軍が現地で食料の組織的な略奪…もとい,「強制徴発」を行わなかったわけではないでしょう.
【質問】
フリードリヒ大王の斜行陣について詳しく知りたいと思っているのですが,テルシオ,マウリッツ式,グスタフ・アドルフ式などと比べると,どうも注目度が低いのか,詳しい本に出会った事がなく…
詳しく説明してくれている本があったら,教えて頂けないでしょうか.
もしくは,斜行陣が効果的だった,ロイテンの戦いとかの戦史が書いてある本を…
【回答】
近代デジタルライブラリーにあったよ.
明治以前までなら大抵あるから,探すと良いよ.
市販では伊藤政之助『世界戦争史 西洋近古篇』なら詳しく載ってるよ.
折込地図がいい感じで,著者の史観全開だよ.
あと,最近出た『戦闘技術の歴史3』にも載ってんじゃね?
他にも探せば結構あると思うよ.
軍事板,2011/01/08(土)
青文字:加筆改修部分
戦闘技術の世界史3では,11pに渡って記述(うち4pは戦況図とイラスト)
あまり斜行陣自体についての説明はありません.
斜行陣というか陣形についてなら,かえってジィミニの戦略概論の第4章の攻撃戦闘とか良いかも.
Lans ◆xHvvunznRc in 軍事板,2011/01/08(土)
青文字:加筆改修部分
ちなみにフリードリヒ大王の斜行陣って,プラハの戦いで大失敗してるし,ロイテンで勝ったのがそうかなってくらいですよ.
ツォンドルフは12ポンド砲の大火力で勝ったようなもんだし.
軍事板,2011/01/08(土)
青文字:加筆改修部分
【質問】
ミュンヒハウゼン男爵って誰?
【回答】
カール・フリードリッヒ・ヒエロニュムス・フォン・ミュンヒハウゼン(1720~97)は,ドイツ軍人,狩猟家,冒険家.
若くしてフリードリッヒ大王の騎兵隊長を務め,ロシア戦役,トルコ戦役に出征.
多くの場所を転戦して得た見聞を,社交サロンにおいて面白おかしくしゃべって聞かせていたものを,詩人ゴットフリート・アウグスト・ビュルガーが纏め,「ほら吹き男爵ミュンヒハウゼンの冒険」として出版したのが元で,「ほら男爵」として有名となったとさ.
【質問】
ホーエンフリードベルグ行進曲って何?
【回答】
荘重にして謹厳.
やたらと一杯あるドイツマーチ中でも,もっともそれらしい一曲ですね.
昔からいろいろなところが,数多くのバリエーションで演奏してきた名作です.
1745年,神聖ローマ帝国皇帝カール7世が崩御します.
このあとを継いだのが女帝マリア・テレジアですが,ザクセン王国と組んで,前年奪われたシュレージェン(シレジア)奪還を目指します.
対するプロイセン王フリードリヒ2世は,敵をシュレージェンに積極的に誘因,ホーエンフリードベルグで迎え撃って,ケーニヒグレーツまで敗走させることに成功します.
このとき大活躍したのが,アンスバッハ・バイロイト竜騎兵連隊です.
この騎兵連隊の勲功と栄誉を称え,作曲されたと言われます.
ただ,残念ながら作曲者は今も不明です.
フリードリヒ2世(大王)自ら五線紙に筆をとったという噂が根強く言い伝えられていましたが,証拠がありません.
ともかく,アンスバッハ・バイロイト騎兵連隊専用の行進曲としてまずは知られ,その後後身であるバーゼヴェルグに駐屯する胸甲騎兵「王妃」第2連隊に引き継がれます.
胸甲騎兵「王妃」第2連隊.うむ.(なにが)
実際,この連隊の名誉連隊長は代々,王妃様が務めることになっていました.
こら,そこの貴様,萌えちゃいかん.不敬だぞ.
ところでやはり人気のある曲だけに,他でも演奏されたがりまして,歩兵バージョンなんかも作られ,他の部隊でも行進曲として用いられるようになっていきました.
一番の例では普仏戦争後の1870年,ベルサイユ宮殿におけるプロイセン国王ヴィルヘルム1世の,ドイツ皇帝戴冠式で演奏されています.
そして第1次大戦後.マーチ大好きナチス党がこの曲を見逃すわけもなく,これまた嫌になるくらい演奏されまくったのは言うまでもありません.
でも結局,この曲はそれこそベートーベンの第9やワグナーのワルキューレなみに認知度があったせいか,戦後のナチパージにもひっかからず,今もあちこちでいろいろなアレンジで演奏され続けていますとさ.
http://www.youtube.com/watch?v=Ntqdy0Gm2zg
おまけ:
カイザー・ヴィルヘルム2世のただ一人の皇女.
写真は第2王妃騎兵連隊名誉大佐(1909)のときのもの.
ゆずこせう in mixi,2012年01月15日10:29
青文字:加筆改修部分
【質問 kérdés】
マリア・テレジア勲章とは?
Mi az Mária Terézia Rend?
【回答 válasz】
マリア・テレジア勲章(写真1)はマリア・テレジア軍事勲章とも呼ばれる.
(画像が崩れている場合は引用元参照)
1757.6.18,七年戦争のコリン Kolin の戦いにおいて,一連の対プロイセン戦争で初めてオーストリア軍が大勝したことを契機として,オーストリア=ハンガリーの女帝マリア・テレジアによって制定された.
これは特に将校の果敢な戦功――敵を打ち負かし,帝国に貢献する行為――を授与するためのものであり,兵士にとって最高の名誉と考えられた.
この勲章には元々
・騎士十字章
・大十字章
の2つの等級があった.
1965.10.15,ヨーゼフ二世は指揮官十字章と,大十字章のホルダーとして使われる胸星(写真2)とを追加した.
1918.11.4,ハプスブルク帝国崩壊によりマリア・テレジア勲章の授与は中止されたが,1938年,摂政ホルティ・ミクローシュの命により,ハンガリーにおいてさらに授与されることが決定された.
第二次大戦中,ハンガリーにおいてマリア・テレジア勲章を授与されたのは陸軍第9歩兵師団長,コルネール・オスターニィ Kornél Oszlány
少将一人だけだった.
彼はドン河河畔,ヴォロネジ近くの戦闘での功績により,マリア・テレジア騎士十字章を授与された.
この勲章の格は第二次大戦ハンガリーにおいて最上位となっており,制服着用時には最前列につけることとされた.
図1は着用例(wikipediaより引用)
戦後,マリア・テレジア勲章はハンガリーでも授与されることはなくなったという.
【参考ページ Referencia Oldal】
http://live.warthunder.com/post/444008/en/ ※写真1引用元
http://www.vitezirend.co.hu/Tradition/horthy_kituntetesei.htm
http://kituntetes.webnode.hu/kituntetesek/magyar-osztrak-monarchia/maria-terezia-rend/ ※写真2引用元
2017.8.17
【質問 kérdés】
聖イシュトヴァーン勲章とは?
Mi az Szent István Rend?
【回答 válasz】
聖イシュトヴァーン勲章は1764年,マリア・テレジアによって制定された.
A Szent István Rend 1764-ben Mária Terézia magyar királynő alapított.
今日ある聖イシュトヴァーン勲章の前身であり,マリア・テレジア勲章に次ぐ高い格の勲章だった.
授与されることができるのはハンガリー人貴族だった.
元の法令では,20の大十字勲章(写真1上段),30の指揮官章(写真1中断),50の騎士勲章(写真1下段)のみが許されていた.
騎士大十字章は非常に重要なものと考えられ,国王は受勲者を「いとこ」として扱うことになっていた.
これらの勲章は,受勲者死去時には賞勲当局に返還された.
この勲章は,軍功によって授与されるものではなかった.
受勲者は主として国家公務員,高官,外交官だった.
大十字勲章には,990mmの金鎖がついていた.
鎖は王冠を模したものを繋げたものだった(写真2).
それぞれの勲章には,「小勲章」と呼ばれるミニチュア状のものがあり,略綬につけることができた.
(写真3)の左下,右上下のものがそれである.
摂政ホルティ・ミクローシュ――彼もまた受勲者の一人だった――は1938年,この勲章の復活を試みた.
第二次大戦中,ナチス・ドイツの影響下にあったハンガリーでは,ホルティや,この勲章の叙勲者(ヘルマン・ゲーリングやヨアヒム・リッペントロープなど)は大いに議論の余地があると考えられており,その叙勲者の大部分は合法的であるとは認められていない.
戦後,殆どの叙勲者のデータは失われた――金庫と共に.赤軍の女性兵士によって礼服さえ引き裂かれた――ので,どれだけ多くの人が実際にこの勲章を授与されたのかすら不明である.
1938~1945年の間の叙勲者として知られているのは3人だけである.
エデ・テレキ=デ=セーク・パール・ヤーノシュ Pál János Ede Teleki de Szék 伯爵およびシェレーディ・ユスティニアーン・ジェルジ
Jusztinián György Serédi が大十字勲章を授与,ウライ・イシュトヴァーン István Uray が指揮官章を授与された.
外国人ではヘルマン・ゲーリング,リッペントロープ,そしてイタリア外相ジャン・ガレアッツォ・チャーノが大十字勲章を授与された.リッペントロープとゲーリングが受章したとする書類は存在しないが,彼らがこの勲章をつけている写真が存在している.
聖イシュトヴァーン勲章は指揮官十字勲功章よりも前につけるものとされ,聖イシュトヴァーン指揮官十字章は王冠付き特別功績大黄金章/王冠付き万功大黄金章よりも前につけるものとされ,聖イシュトヴァーン大十字勲章はハンガリー功労大十字章よりも前に,マリア・テレジア騎士勲章よりも後につけるものとされた.
第二次大戦後は着用を禁止されたが,2011年に復活したという…
【参考ページ Referencia Oldal】
http://live.warthunder.com/post/444603/en/ ※写真1引用元
http://kituntetes.webnode.hu/kituntetesek/magyar-osztrak-monarchia/szent-istvan-rend-/ ※写真2引用元
https://librarius.hu/2017/08/20/ok-ketten-kaptak-a-magyar-szent-istvan-rend-dijat/ ※写真3引用元
(画像が上手く表示されませんので,引用元から参照してください)
mixi, 2017.8.30
【質問】
産業革命以降,19~20世紀初頭までの戦争体系とか全般兵器を扱ってる本とか,工業化による戦争の変遷とか分かる本で,オススメはあるかい?
既読は火砲入門,戦車入門,補給戦(読みかけ)護衛空母入門 戦術と指揮 位か.
【回答】
マクニールの『戦争の世界史』
また,これは指定よりスパンがかなり大きいが,中公文庫のマイケル・ハワード著『ヨーロッパ史における戦争』あたりはどう?
ちょっと試しで読んでみて,合いそうでしたらどうぞ.
余談だが,石津さんが解説書いてたのは嬉しかった.
ってかまぁ,俺が石津さんの『リデルハートのリベラルな戦争観』で,軍事系にちょっと足を踏み入れたからだけど.
日経が『名著で学ぶ戦争論・インテリジェンス』とか,『戦略原論』とか軍事系の解り易く新しい本を色々出してくれるのは,にわかには非常に嬉しい.
ヨーロッパ史における戦争から得る物を感じたなら『戦争の科学』を勧める.
ヨーロッパ史における戦争の兵器に重点を置いた物だと思ってくれ.
ただし監修が残念な人.
内容は面白いけど,ちょこっと首を捻る記述※があったりする.
そこらへんの訳者・監修者の補足説明が不足ってのが,実にもったいない.
ついでに『機関銃の社会史』.
題名で察しはつくから,説明はいらんよね?
※ 例えばイングランド長弓兵の戦例で,なぜクレイシーじゃなくアジャンクールを示していたり.
クレーシーは1346年.
アジャンクールは1415年.
長弓が重騎兵を圧倒した初の大会戦という意味合いなら,クレーシーを挙げるべき.
百年戦争の重大な決戦という意味合いでなら,アジャンクールのほうが有名だよな.
軍事板,2010/10/30(土)~10/31(日)
青文字:加筆改修部分
【質問】
露土戦争,全部で何回あったっけ?
【回答】
露土戦争は計6回.
・第一次露土戦争(1768~1774)
フランスの後押しを得たトルコはロシアに宣戦.
しかし戦場で完敗.
1774年のクチュク・カイナルジ条約で,ケルチなどの黒海北岸のいくつかの地域を失い,『キリスト教徒保護』の名目でトルコ内政に干渉する権利をロシアに認める.
・第二次露土戦争(1787~1792)
エカチェリーナがグルジアとベッサラビアの割譲をトルコに要求したのに対し,憤慨したトルコ皇帝が宣戦するも敗北.
1792年のヤッシー条約によって,ドニエステル河までの黒海北岸をロシアに奪われた.
・第三次露土戦争(1806~1812)
ナポレオンに激励されたトルコが,ロシアの既得権を否認した為に勃発.
イギリスが仲介に入ってブカレスト条約が結ばれ,ロシアはモルダヴィア・ワラキア二公国の支配をあきらめる代わりにトルコからベッサラビアを獲得.
ロシアのバルカン進出は,中東からインドにかけての地帯に強い関心をもつイギリスや,バルカンに野心を寄せるオーストリアなどの強い反発を招き,ここに『東方問題』もしくは『バルカン問題』と呼ばれる,近代欧州外交史上最大の問題の一つが発生.
・第四次露土戦争(1828~1829)
トルコ支配下にあったバルカン諸民族が独立闘争を開始.
列強のバルカンへの関心が強まる.
1821年にギリシア人が独立運動を始め,それに対するトルコ・エジプト連合軍の弾圧に,欧州諸国の世論は沸き返ったが,ロシアはギリシア・セルビアの自治を認めるよう,単独でトルコに迫り1828年に宣戦を布告.
ロシアが勝利してアドリアノープル条約が締結され,ロシアはさらに黒海北岸の東部地域と海峡の自由航行権を手に入れ,ギリシアの独立・モルダヴィア・ワラキアの自治拡大,セルビアの自治をトルコに認めさせた.
・第五次露土戦争(1853~1856)
バルカン諸民族の自立過程にロシアが影響力を強めていく形勢に,諸列強の反発が高まり,ロシアがトルコ帝国内のキリスト教徒に対する自国の干渉権を条約化するよう要求したのに対し,トルコが英仏を後楯としてそれを拒否.
黒海の海戦でトルコ艦隊が全滅したのを見た英仏は,1854年にロシアに宣戦布告.
これにより,『クリミア戦争』が開始されたが結局,ロシアは敗北し,1856年のパリ条約によって黒海の非軍事化・トルコ内政への干渉禁止などを認めさせられた.
・第六次露土戦争(1877~1878)
野心を捨切れないロシアは,普仏戦争で列強の目が欧州に向いている時期に,黒海の軍事化を強行.
1875年にボスニア・ヘルツェゴヴィナで反トルコ蜂起が起こり,翌年蜂起はブルガリアへも波及し,セルビア・モンテネグロがトルコに宣戦.
ロシアはトルコに対しブルガリアでの虐殺中止,ロシアへの特使派遣などを要求.
それが拒否されると宣戦を布告.
こうして開始された六度目の露土戦争においても,ロシアの軍事的優勢が明らかになり,ロシア軍はコンスタンティノープルへ兵を進めた.
英墺が軍事的圧力をかけて牽制したのでロシアも進撃を諦め,1878年3月にトルコとサン・ステファノ条約を締結し黒海北岸の領土をさらに広げた.
条約によりセルビア・モンテネグロ,ルーマニアは完全に独立し,広大なブルガリア自治公国がつくられることになったが,ロシアの勢力拡大を恐れた列強はベルリン会議を開き,ブルガリア領を縮小させた.
世界史板
青文字:加筆改修部分
【質問】
オーストリアのラウドン将軍とは,どんな人物だったか?
【回答】
ラウドン将軍はマリア・テレジア女王陛下時代の優秀な将軍でした.
久保田正志『ハプスブルク家かく戦えり-ヨーロッパ軍事史の一断面-』(錦正社,2001年)に,彼に関する記述があったので,その一部を抜粋.
□7年戦争(または第3次シュレジェン戦争)1756~1763年
第3項
1758年 ~(略)~しかしダウン将軍の副将ラウドンは,マリア・テレジアの誕生日ということもあって,14日朝5時に濃霧の中プロイセン軍右翼(南側)を奇襲し~(略)~プロイセン軍はカイト元帥を含む死傷者9500人を出し砲101門を失って退却した.〔266頁〕
第4項
1759年 ~(略)~これに対しダウンは,直ちに前面のプロイセン軍を攻撃することはなく,自陣からラウドン率いる兵2万を割いて北上させ,クネルスドルフの高地にいたロシア軍に合流させた.
~(略)~妨害に出てきたプロイセンの騎兵は沼地に入って進撃が鈍っていたところをラウドン軍の騎兵部隊が撃破した.
プロイセン軍はロシア軍を撃破したものの,ラウドン軍の騎兵に左翼を襲われて形勢は逆転し,更に高地から逆落としに(オーストリア・ロシア)同盟軍が襲って,遂にプロイセン軍は総崩れとなり夕刻までに配送した.〔268頁〕
※その他〔270・273頁〕にも将軍の活躍に関する記述あり
7年戦争の転換点は1762年5月のロシア軍の戦線離脱だった.~(略)~なお,勇猛なラウドンを軍政家のダウンの地位においていれば随分違っただろう,とクラウゼヴィッツは評するが~(略)~指揮官が違えば勝てたとは一概には言えまい.〔276頁〕
□対トルコ戦争(1787~1790年)
~(略)~この間,ハプスブルク家はトルコと平和交渉に入ったが,成功しなかったため,病気と外交交渉に専念するためヨゼフ(ヨーゼフ)2世は軍から手を引き,軍司令官ラーシ元帥も不手際から更迭され,早期に講和に入るための戦果を挙げるために,7年戦争の名将ラウドンが総司令官となった.
ラウドンは,トルコ軍のボスニア侵攻を撃退,1789年10月8日にベオグラード攻略に成功するなど,手際の良さを見せ,またハプスブルク軍とロシア軍は連合して7月30日にベッサラビアでトルコ軍を撃破し,11月上旬までにブカレストを攻略した.〔286頁〕
【質問 kérdés】
墺土戦争(1787-1791)について教えてください.
Kérem, mondja meg nekem a Osztrák-török háború (1787-1791)-t.
【回答 válasz】
露土戦争(1787-1792)というチャンスを狙い,ロシアと同盟していたオーストリアがオスマン帝国に対して起こした戦い.
ハプスブルク軍はオスマン領に侵攻したものの,オスマン帝国軍はハプスブルク軍排除を優先.
オーストリア軍はムハディエ海峡やセベシュの戦いで敗北し,セベシュでは危うくヨーゼフ二世も捕虜になるところだった.
オスマン軍はハプスブルク領だったルーマニアのティミショアラを占領し,ドナウ川を越えてバナトに侵攻.
だが,ロシア軍がオジ要塞を占領すると,オスマン軍はバルカン方面での作戦を中止し,対露戦に注力.
これにより形勢逆転して,ハプスブルク軍はロシア軍と合流してフォン=ラウドン元帥指揮の下,ベオグラード要塞を3週間包囲した末に攻略.
その後も戦局はハプスブルク軍優勢に進んだが,戦地ではマラリアなどの疫病が蔓延.
両軍に多数の罹患者が出て数千人が死亡.
ヨーゼフ二世自身も前線視察の際に感染し,1790年2月20日に死亡.
跡を継いだレオポルト二世は,プロイセンがオスマン帝国を支持して介入してくる脅威があったため,フランスとイギリスの仲介により,1791年8月4日にシストヴァ条約を結んでオスマン帝国と講和.
得られた領土は少なく,戦争により国内経済に打撃を与え,1788~89年の小麦凶作に起因する暴動もウィーンで発生.
また,新しい徴兵制が施行されると,徴兵を恐れた多くの貴族が家族を連れてウィーンを脱出.
啓蒙君主だったはずのヨーゼフ二世の評判は急落した.
余談だが,このようにウィーンは音楽どころではない状況だったことから,モーツァルトも困窮のうちに1791年に死去している.
あれ? モーツァルトの死はサリエリではなくヨーゼフ二世に責任があるのでは?
【参考ページ Referencia Oldal】
https://blogs.yahoo.co.jp/jgda_2012/10396171.html
https://classic.opus-3.net/blog/?p=28248
https://military.wikia.org/wiki/Ottoman–Habsburg_wars
http://dictionnaire.sensagent.leparisien.fr/Austro-Turkish War (1787–1791)/en-en/
https://www.zum.de/whkmla/region/germany/au17801790.html
https://tr.wikipedia.org/wiki/1787-1791_Osmanl%C4%B1-Avusturya_Sava%C5%9F%C4%B1
mixi, 2019.6.23
【質問】
キャプテン・クックって誰?
【回答】
「キャプテン・クック」ことジェームズ・クック(1728-79)は,英国の探検家・航海者.
18歳から船会社で見習い水夫として働いて航海術を身につけ,1755年,英国海軍に入り,7年戦争中に敵軍の前で危険な水深測量を行った功績により,艦長に昇進.
その後,ロイヤル・ソサエティの要請で3回の大平洋の探検航海を行い,その功績によって中佐に昇進したが,1779.2.14,船の修理のために訪れたハワイにおいて,先住民の攻撃を受け,死亡した.