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「朝目新聞」(2013/06/08)●十字軍「えっ,今日は異教徒ぶち殺していいのか?」
「地政学を英国で学ぶ」:ローマ帝国ではなくビザンティン帝国を範とすべし
『Crusader Archaeology』(Adrian J. Boas著)
ラテン人が征服したあたりで,広く考古学的見地から社会再現を試みた本らしい.
これから読む.
農村やキプロスあたりなど,昔の十字軍研究で見逃されがちだった点も,まとまっているようだ.
中には何度もみる図面もあったりするが,細かいところは違っているのかな.
この分野はフランスが,熱心に十字軍を送り出したこともあって伝統的に強いが,この本はイスラエルの大学の先生が書いている.
――――――軍事板,2010/02/14(日)
青文字:加筆改修部分
『古代豪族と武士の誕生 (歴史文化ライブラリー)』(森公章著,吉川弘文館,2012/12/20)
『前九年・後三年合戦 11世紀の城と館』(入間田宣夫編, 高志書院,2011/12)
【質問】
大学入試過去問をやっていたら,正誤問題で,つぎのような問がありました.
ビザンツ帝国で実施された軍管区制に関する正誤問題です.
「軍管区制の実施により,中央集権化がすすんだ」
これは,正しいでしようか,間違いでしょうか?
中央の支配力は後退したという文献もありますが,山川の教科書では「中央集権化がすすんだ」とあります.
入試問題の性格上,二者択一ですから,悩んでいます.
【回答】
確かこんな経過だ.
7C世紀にスラーム勢力侵入.非常時のため軍管区をつくり,司令官に強い権限を与える
→軍管区司令官による反乱続発,すなわち中央権力が弱体化する
→8~9世紀,対イスラームの戦局が好転し,中央軍の強化や軍管区細分化で中央集権化し反乱が収まる
軍管区そのものは,地方軍の司令官に権限を与えるわけだから,軍管区制を実施すれば中央集権化するわけではない.
が,結局は軍管区制を施行したまま集権化するし,山川のように記述している教科書もあり,それに従って問題を作れば正解になるので微妙なところだ.
正解になるか間違いになるかは,問題を作った大学教員のレベルによって,異なるような気がするな.
あまり良い問題じゃないと思うので,気にしたり悩んだりしないほうが良いかも知れない.
世界史板,2006/11/25(土)
青文字:加筆改修部分
【質問】
ビザンツ帝国史にマケドニア朝というものが出てきたんですが,これはビザンツ帝国が一度滅びてマケドニア朝っちゅーのが東ローマを占拠したということですか?
【回答】
ただの王朝名です.
マケドニア朝の初代のバシレイオス1世は農民出身ながら,前皇帝を暗殺して帝位を乗っ取ったんです.
そしてバシレイオス1世以降,その子孫が帝位を継ぐので,バシレイオス1世の出身地にちなんで「マケドニア朝」というのです.
バシレイオス1世 在位867~886
マケドニアに入植していたアルメニア人の農夫の子.
生まれて間もなく家族ごとブルガリアの捕虜となり,奴隷にされたが,成長後に脱走.コンスタンティノープルで皇帝テオフィロオスの同名の従兄弟の部下となった.
その後,容姿と体力により頭角を表し,皇帝の厩番の地位につく.
やがてミカエル3世に気に入られ,侍従長官となった.
ミカエル3世の妾の一人だったエウドキア・インゲリナと結婚.
そして,ミカエル3世の命令で,宮廷の実力者バルダス(ミカエル3世の母の兄)を殺し,共同皇帝となる.
が,間もなく恩人のミカエル3世をも暗殺して単独の皇帝となった.
【質問】
オットー1世って誰?
【回答】
オットー1世(912~973)は,ザクセン朝第2代のドイツ王で,初代神聖ローマ皇帝.
即位すると国家統一に力を注ぎ,956年のレヒフェルトの戦いでマジャール人を撃破し,その西方進出を阻止するとともに,オストマルク辺境領(後のオーストリア)を置いて,その後の侵入に備えた.
また,帝国教会政策を進めるために,3回にわたるイタリア遠征を行ない.第2回遠征の時,962年に教皇ヨハネス12世から「ローマ皇帝」の冠を授けられ,これが「神聖ローマ帝国」(962~1806)の起源となった.
【質問】
どうして日本では楯や毒矢などが普及しなかったのでしょうか?
【回答】
『法然上人絵伝』の夜討の場面などに,手持ちの楯は登場しています.
また,隼人の盾は,井戸の枠板に使われていたものが出土していますね.
『延喜式』によれば,長さ五尺・広さ一尺八寸・厚さ一寸.
手持ち専用の盾は,弥生時代の遺跡からも出土している他,埴輪にも見る事が出来ます.中世の絵巻によく登場する大型の楯も,勿論手に持ったまま移動する事は可能でした.
『十二類合戦絵巻』などに出て来るのがそれですが,ただどちらかといえば,矢を防ぐのに立ててその背後から矢を射る場面の方が多く,白兵戦での使用はあまり見られない様です.
『法然上人絵伝』での使用も,夜討の場面において,矢ではなく太刀が使用されている事が大きいでしょう.
なお狩猟に限らず,馬上で弓を使用する事,「弓馬」をセットで捉えて重視する事は,少なくとも『続日本紀』の時代には存在した様ですね.
ただ,武士の本分が騎射にあり,弓矢を構えていては盾の使用が不可能である事から,盾職人というものに到らなかったのでしょう.
鎧同様の発達を見せていれば,丈夫な雑兵用の盾も生産される様になったでしょうが,肝心の騎乗する武士が使用しないのに,お金のかかりそうな金属製の盾が雑兵の為だけに生み出される事も無かったかと.
楯といえば,楯を挟んで矢を射掛けあう「楯突戦」が連想されましたから.
戦闘経験はほとんどそれだけというぐらい,戦場では白兵戦よりも飛び道具を使用する機会の方が多かった様です.
それなら金属製の「盾」より,木製の「楯」の方が必要になるでしょう.
山野野衾 ◆a/lHDs2vKA in 日本史板,2005/01/02(日)
【質問】
藤原氏の地位のはじめは,大化の改新の武力クーデターだと思うんですが,そのイメージはいつごろ薄れたんでしょうか?
中世や近世に「藤原の貴族も,もとは武人」と指摘する者はいなかったのですか?
【回答】
古代日本においてはもともと,豪族が自分で支配する土地と人民を持ち,その親玉が大王(のちの天皇)といった具合でした.
豪族は人民を支配し,他の豪族に攻め込まれれば土地を守るために,自分で軍隊を持ち,自ら甲冑を身にまとって戦もしたわけです.
蘇我馬子なども自ら出陣して,物部守屋と戦っています.
天皇も同様で,白村江の戦いなどでは女帝である斉明天皇が,朝軍を率いて九州まで行っています.
もっとも律令が施行されると(天智天皇の近江令が初?),豪族は土地と人民を天皇に差し上げ,代わりに天皇から給料をもらう官僚になりました.
甲冑を捨て文官になったわけです.
貴族の誕生です.
しかし,治安を守るための武官は必要でした.
平安時代には貴族は血を嫌ったこともあり,甲冑を身に着け治安を守るのは,身分の低い官僚の仕事になりました.
源氏や平氏は天皇の子孫ですが,天皇になれなかった皇子たちは臣籍降下させられ,藤原氏らとの出世争いにも負けた皇子の子孫たちは,身分も低くなり地方へ下っていかざるを得なくなりました.
武家の平氏や源氏はこうして生まれたのです.
つまり平安末期に突如,歴史の表舞台に登場した武家の平氏や源氏は,古代豪族がそのまま武具を身にまとって生き延びたのではなく,もともとは甲冑を身に着けていなかったけれども,中央から出世争いに脱落した人々が,人が嫌がる殺傷の仕事を引き受けることによって生き延びたものです.
現在にも警察というものがあるように,治安を守るための武官は,優雅な平安貴族たちの時代にもいたわけです.
源頼朝の先祖などは,藤原氏に媚を売っていましたしね.
日本史板
青文字:加筆改修部分
▼ ちなみに平安後期に藤原保昌という,武勇にたけた人がいたのですが,この人が亡くなった時に当時の人が,
「弓矢の家でないのに,武士のまねごとをするから家が絶えてしまった」
と噂したと今昔物語に書かれています.
当時の概念では氏というより,家筋が重視されたようです.
http://www.geocities.jp/ktmchi/rekisi/cys_36_2.html
ばっし in FAQ BBS
青文字:加筆改修部分
▲
【質問】
平安 → 鎌倉
これはわかります.
じゃあ,平安時代のボスは誰なの?
あと,飛鳥時代に聖徳太子がボスだったのはわかります.
それで,そのあと聖徳太子の子供が暗殺されたんですよね.
じゃあ,そのあと,誰がボスになったの?
【回答】
平安時代の国家の最高責任者は天皇です.
鎌倉時代もそうです.
鎌倉幕府がなぜ成立できたかというと,源頼朝らが軍事力を背景に,従来朝廷が一括して受け持ってきた軍事・裁判・行政の権利を,幕府直轄領においては幕府が行う権限を勝ち取ったからです.
鎌倉時代にはまだまだ二重政治で,幕府直轄領においては幕府の裁断が通りましたが,幕府直轄領以外では朝廷の裁量にゆだねられ,幕府の置いた守護地頭の主張と,朝廷の置いた国司の主張とが食い違い,裁判や争いが起きることも多くありました.
ちなみに飛鳥時代に,聖徳太子がボスであったことはありません.
当時の日本の最高責任者は,あくまでも推古天皇です.
聖徳太子が本当にボスならば,天皇になれていたでしょう.
図式的にはこんな感じかな.
平安初期のボス 天皇
平安中期 天皇と摂政または関白または内覧
平安後期 治天の君(天皇の父または祖父)
鎌倉
承久の乱以前 治天の君と幕府
承久の乱以後 幕府
幕府のなかのボスは誰かつーと,少々ややこしいのだけど.
【反論】
ボスが権力を意味するなら,必ずしも天皇はボスじゃない.
天皇は「権威」.
現在でもそれは生きているが,日本は権威と権力を分離して設ける伝統のおかげで,権力が個人に集中しにくいように機能している.
天皇の権威は権力と乖離していても,厳然として存在しているから,裏づけがなくとも形骸化はしていない.
ただし天皇や朝廷単体に対する,直接的な畏敬が常に存在するわけではなく,日本の体制を形作る秩序の源流として揺るぎがない.
大河の下流集落の住民が,その水流の恩恵に預かりながら,水源を知らないようなもので.
ボスの話から遠くかけ離れてしまったが,時代のボスとはこの水源ではなく下流への水をせき止める力のある者であると定義すれば,よりすっきりした回答が導きやすいのでは?
日本史板,2009/07/10(金)
青文字:加筆改修部分
【質問】
平将門の乱に関連した「興世王」っていますよね?
王って付いてるってことは,天皇の孫だったと言うことですが,どの天皇の孫なんでしょうか?
【回答】
幸田露伴著 『平将門』より:
「興世王とは如何なる人であるか,古より誰も余り言はぬが,既に王といはれて居り,又経基との地位の関係から考へて見ても,帝系に出でゝ二代目位か三代目位の人であらう.
高望王が上総介,六孫王が武蔵介,およそかゝる身分の人がかゝる官に任ぜられたのは,当時の習であるから,興世王も蓋し然様いふ人と考へて失当でもあるまい.
其頃桓武天皇様の御子万多親王の御子の正躬王の御後には,住世,基世,助世,尚世,などいふ方々があり,又正躬王御弟には保世,継世,家世など皆世の字のついた方が沢山あり,又桓武天皇様の御子仲野親王の御子にも茂世,輔世,季世など世のついた方々が沢山に御在であるところから推して考へると,興世王は或は前掲二親王の中のいづれかの後であつたかとも思へるが,系譜で見出さぬ以上は妄測は力が無い.
たゞ時代が丁度相応するので或はと思ふのである.
日本外史や日本史で見ると,いきなり「兇険にして乱を好む」とあつて,何となく熊坂長範か何ぞのやうに思へるが,何様いふものであらうか」
また,中田憲信編『皇胤志』でも,「桓武天皇の後裔にして伊予親王の玄孫」とされているが,この説,実は信憑性は乏しいらしい.
>● 『皇胤志』に、時世王の子として興世王を擧げる(但し、其の系線を棒消ちしてある)が、これは「世」字を通字であると憶測して系譜を繋げただけに過ぎず、確乎たる根據はないと考えられる。
http://www.geocities.jp/ahmadjan_aqsaqal/ssr/2s2/si216001.html
「不明」とするのが無難な結論だろう.
日本史板,2005/06/12(日)
青文字:加筆改修部分
【質問】
平将門は敗れた後はどうなったか?
【回答】
939年,俵藤太に討ち取られた平将門は,晒し首にされた.
「罪人」の首だけを晒すというのは,このときが初めてだった.
それ以前は死体自体を晒していた.
例えば,587年7月,物部守屋が蘇我馬子に討たれた際,守屋の側近,捕鳥部万(ととりべのよろず)は山中に逃げ込んでゲリラ戦を展開したが,最期は自刃.
すると朝廷は,
「万の死体を八つ切りにして,八つの国に串刺しにして晒せ」
と命じたという.
詳しくは『生首考』(パロル舎,1994/12/18)を参照されたし.
【質問】
女真族って決して,女性だからとか関係ないですよね?
【回答】
ジュルチンという言葉は「民」を意味するツングース語.
女真や女直は当て字.
普通は当て字に悪い意味の漢字を使用するのだが,女真族は女尊男卑の習慣を持つ民族だったらしく,このことが「女真」という当て字に反映しているみたい.
また,男尊女卑の中華思想として,女の字を侮蔑の意味で当て字としているとも言われている.
ちなみに朝鮮は起源ははっきりしていないが,潮仙(地名)由来,中国人が朝光鮮麗の地(朝日が綺麗な土地)と呼んだ等,いろいろな説がある.
倭は小さく醜いと言う意味で,元来は古代日本語の第一人称「わ」に由来すると言われている.
鮮卑は鮮やかなまでに卑しいと言う意味.
世界史板
青文字:加筆改修部分
【質問】
刀伊の入寇って何?
【回答】
1019年,女真族の一派とみられる集団を主体にした海賊が壱岐・対馬を襲い,更に筑前に侵攻した事件.
刀伊は「胡」を意味する韓国語「トエ」に,適当に漢字を当てはめた表記と考えられている.
女真も高句麗と同じく,ツングース系民族.
満州にいたとされる.
まずは3月27日,刀伊が賊船約50隻(約3,000人)の船団を組んで突如として対馬に来襲,島の各地で殺人や放火を繰り返した.
賊は続いて壱岐を襲撃.
老人・子供を殺害し,壮年の男女を拉致し,人家を焼いて牛馬家畜を食い荒らした.
国司の壱岐守・藤原理忠は,ただちに兵147人を率いて賊徒征伐に向かうが,3,000人という大集団には敵わず全滅.
藤原理忠軍を打ち破った海賊は,次に壱岐嶋分寺を焼こうとした.
嶋分寺側はこれに対し,常覚(島内の寺の総括責任者)の指揮の元,僧侶や地元住民たちが応戦.
賊を3度撃退するが,その後も続いた賊徒の猛攻に耐えきれず,常覚は1人で島を脱出し,事の次第を大宰府に報告へと向かった.
一方,寺に残った僧侶たちは全滅し,嶋分寺は全焼した.
その後,刀伊勢は筑前国怡土郡,志麻郡,早良郡を襲い,さらに博多を攻撃しようとしたが,最初の襲撃の後を襲った荒天の間に形勢を立て直した大宰権帥・藤原隆家により撃退された.
博多上陸に失敗した刀伊は,4月13日に肥前国松浦郡を襲ったが,源知(松浦党の祖)に撃退され,対馬を再襲撃した後,朝鮮半島へ撤退した.
彼らは高麗沿岸にて同様の行為を行ったが,高麗水軍はこれを撃退.
このとき,拉致された日本人約270人が高麗に保護された.
9月,高麗虜人送使・鄭子良が,この270人を日本に送還.
高麗使は翌1020年2月,大宰府から高麗政府の下部機関である安東護府に宛てた返書を持ち,帰国した.
このとき,藤原隆家はこの使者の労をねぎらい,黄金300両を贈っっている.
9世紀から11世紀に掛けての日本は,記録に残るだけでも新羅や高麗などの外国の海賊による襲撃・略奪を数十回受けており,中でも筑前・筑後・肥前・肥後・薩摩の九州沿岸は,特に酷い被害を被っている.
だが,この事件に対し,朝廷は何ら具体的な対応を行わず,殆ど再発防止に努めた様子も無し.
刀伊の乱は,天慶・承平の乱と並んで,藤原氏による摂関政治の行き詰まりを暗示し,新興勢力「武士」が台頭してくる踏み台となった事件となった.
【参考ページ】
姜在彦『朝鮮儒教の二千年』(朝日選書,2001),p.80
http://kotobank.jp/word/%E5%88%80%E4%BC%8A
http://hansenjuku.cocolog-nifty.com/blog/2008/10/post-60e9.html
http://yururi.aikotoba.jp/samurai/history/toi.html
【質問】
藤原隆家って誰?
【回答】
平安時代きっての「さがな者」(荒くれ者)で,刀伊撃退の立役者.
藤原道隆の四男として,979年に生まれる.
清少納言が仕えた中宮定子の弟.
また,藤原道長の甥でもあり,かつ政敵.
というのも,藤原道兼死去後の関白職&「氏の長者」争奪レースにおいて,道隆の同母兄・伊周 Korechika (当時,内大臣)が,道長(当時,権大納言.内大臣より3段階も官位が低い)に逆転負けを食らい(995年6月),その遺恨が残ったからだ.
「遺恨試合」は7月の七条大路特設リングで行われた.
道長の従者と隆家の従者とが大路で鉢合わせ.
「道を空けろ!」
「そっちこそ道を空けろ!」
のマイクアピールをした後,両者入り乱れての大乱闘.
矢を射るという反則技を使った者まで出て,負傷者もあったという.
その三日前には,伊周と道長との間で,氏長者の所領帳の所有をめぐって罵り合ってもいる.
しかしどうも,この伊周という兄者,ちょっと「かしこない子」だったようで,その年,「オレの恋人を花山法皇が寝取ろうとしている」と勘違い.
兄思いの隆家が,これに怒って花山院(念の為に言うと,出家した元天皇ですよ)を弓で射るという暴挙に出る.
兄者の勘違いだったのに.
∧_∧
∧_∧ (´<_` ) 兄者、落ちつけ。
バン ( #´_ゝ`) / ⌒i
バン ∩ \ | |
/ /ミ / ̄ ̄ ̄ ̄/ |
__(__ニつ/ / .| .|____
\/____/ (u ⊃
政敵・道長はこの事件を知って,チャンスとばかり,花山法皇奉射の罪に,東三条院呪詛・大元帥法を行った罪もくっつけ,伊周・隆家の兄弟を京都から追放することに成功.
内大臣・伊周は大宰権帥に,中納言・隆家は出雲権守に格下げとなった.
これが世にいう長徳の変(996年)である.
大赦があって,翌年には兄弟は帰京できたが,官職は中納言止まり.
その頃,懇意にしていた藤原実資から隆家は,道長からの圧迫を避けるためと,眼病の治療のために,「遠任之案」を勧められた.
そこで隆家は自ら進んで大宰権帥の任命を望み,大宰府に下った.
その任地で遭遇したのが,刀伊入寇(1019年).
日本はそれまでも,壱岐や対馬などを中心に,新羅や高麗や女真族の海賊から何度も襲撃を受けていたが,このときに襲ってきた武装勢力(女真族だったらしい)は,数千人規模.
防人制など遠に崩壊していた当時,まとまりもない九州の武士を率い,刀伊を撃退したのが隆家だった.
「さがな者」の本領発揮である.
小競り合いや揉め事は日常茶飯事でも,大規模反乱や外国の侵攻には全く無気力無関心で,これほどの騒ぎがあったのに九州の防衛体制の見直しもしなかった平和ボケの平安貴族たちは隆家を賞賛すらせず,それも含めて武士たちになめられていく原因をつくっていくことになるが,道長は(具体的にどうしたという記録はないが,)隆家を個人的に賞賛または報奨を与えたという.
同年12月,隆家は大宰権帥を辞して帰京.
1044年,正月1日,正二位・前中納言として薨去した.
享年66.
ちなみに,平治の乱の首謀者として有名な藤原信頼は,隆家の子孫である.
【関連リンク】
藤原氏北家12(家系図)
中納言参りたまひて
漫画板,2014/11/21(金)
青文字:加筆改修部分
【質問】
金帳汗国ってのは,キプチャク・ハン国の当て字?
【回答】
キプチャクというのは,ハザールが滅びモンゴルが来る以前の11世紀頃から,中央ユーラシア北西部の広大なステップ地帯に住んでいた,テュルク系の言語を話す遊牧民集団のこと.
ハンガリーではクマン,ルーシではポロヴェツ(黄色っぽい連中)とも呼ばれ,ペルシア語では彼らの住む地域を「キプチャク草原(ダシュト・イ・キプチャーク)」と呼んだ.
彼らはイスラム世界に優秀な奴隷戦士(マムルーク)として輸出され,各地に王朝を築いたりした.
ジョチ家のモンゴル王家がここを征服すると,ヴォルガ下流の都市サライに「黄金の帳幕」による宮廷を構えた.
それでこの宮廷や王朝を「アルタン・オルド」といい,スラヴ語で訳してゾロター・オルダーと呼んだ.
キプチャク汗国というと,キプチャク族の王朝のようなので,しいていえば「キプチャク草原を治めるカンの国」か.
血統からいえばジョチ・ウルスと呼び,この王家はサライの政権が滅んだのちも,クリミアに移って繁栄した.
キプチャク平原の遊牧民は,モンゴルと次第に同化して行った.
ルーシは,単独ではジョチ・ウルスに対抗できない規模の小公国が乱立してて,ジョチ・ウルスの宗主権を認めていた.
当時のヨーロッパには,ルーシに攻め込み,ヨーロッパからジョチ・ウルスを追い出せる大国は無かった.
ジョチ・ウルスが内紛から分裂しまくり,その隙に他の諸公国を併合しまくって,力を付けて自立したモスクワ大公国と,ジョチ・ウルスから分裂した諸ハン国に攻撃されまくって,ようやくジョチ・ウルスは滅びた.
世界史板,2010/04/23(金)
青文字:加筆改修部分
【質問】
イードリックとは,どんな人物か?
【回答】
11世紀,バイキング侵攻以後に,勝ち馬に乗り換えるべく度重なる寝返りを行った,英国国王の元重臣.
以下引用.
イードリック(Eadric Streona.~1017年)はイギリス国王エセルレッド2世
(Ethelred 2= Ethelred the Unready.968~1016年.在位978~1013年・1014~16年)http://en.wikipedia.org/wiki/Ethelred_II_of_England.1月1日アクセス)
の重臣でしたが,1008年から1009年にかけてのバイキングの侵攻の際に侵攻側に内通し,1015年にデンマーク王家のクヌーズ(=カヌート=Cnut.995~1035年)(注1)が侵攻してくるとクヌーズ側に寝返ります.
ところが,エセルレッドが戦死してその息子エドムンド2世
(Edmund 2=Edmund Ironside.989?~1016年.在位1016年)(http://en.wikipedia.org/wiki/Edmund_II_of_England.1月1日アクセス)
が後を継いで戦況の巻き返しに成功すると,イードリックは今度はエドムンド側に寝返ります.
1016年に一時,エドムンドとクヌーズはイギリスを分割して統治しますが,同年中に恐らくイードリックによってエドムンドは殺害され,その結果,クヌーズがイギリス全土を手中に収めます.
そして翌年クヌーズは,勝ち馬に乗り換えるべく度重なる寝返りを行ったイードリックを処刑するのです.
(以上,特に断っていない限りhttp://cunnan.sca.org.au/wiki/Eadric_Streona(1月1日アクセス)による.)
(注1)1016年にイギリス王に就任,1018年には兄の死亡に伴いデンマーク王に就任,1028年にはノルウェー王にも就任し,三つの国王を兼ね,大王と称された.カヌートの死後7年でこの「帝国」は崩壊する(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%8C%E3%83%BC%E3%83%88%E5%A4%A7%E7%8E%8B.1月1日アクセス)
【質問】
「アジア産の香辛料をアラブ商人が地中海世界へ持ち込み,それをイタリアの商人がヨーロッパに売りさばき,莫大な富を得ていた.
その他,中国産の絹や陶磁器なども,イスラム圏を介して欧州へもたらされ,アラブ商人は中継貿易で大儲けしていた」
というような説明が,大航海時代が始まる動機の一つとして良く使われれることが多いと思うのですが,こういう「高価なアジア産の商品」を購入するために,ヨーロッパ側は,一体どんな商品をアラブ商人へ代価として支払っていたでしょうか?
【回答】
▼金・塩・奴隷.
銀・塩・奴隷.▲
大航海時代初期の時代は主にルテニア人(今のロシア人の一部とベラルーシ人とウクライナ人)が商品奴隷.
ポーランド,リトアニア,クリミア・タタールがこれで儲けた.
この仲介業務にユダヤ人,イタリア人,アルメニア人などが関与し,口銭を得て儲けた.
ポーランド王国はウクライナ人を狩って,奴隷としアラブに売って香辛料を得ていた.
その後13世紀に塩坑を開発して,奴隷より実入りがいいのでウクライナ人狩りをやめて,もっぱら塩を売って香辛料を狩った.
奴隷はユダヤ人がアラブに売り,香辛料はアルメニア人がアラブから運んできて売った.
ルヴフ(現在のウクライナのリヴィウ)の市は昔は奴隷と香辛料を取引していたが,のちには塩と香辛料を取引するようになった.
ウクライナ人が増えて邪魔くさいので,ウクライナ人を農奴にして,モンゴルがいなくなったウクライナで大規模な農地開発をやった.
それでポーランドは,穀物輸出も大きな収入源となり,中世欧州最大最強国家へと変貌していくことになった.
キエフ・ルーシ時代からのウクライナの公たちも,ポーランド貴族になってウクライナの地方支配者として,ウクライナ人農奴を使って農地開発.
16世紀に入ると,その農奴生活が厳しくなってきた.
アメリカからの輸入穀物との価格競争が激しくなって,穀物相場が下落.
生産性を上げるために,以前は農奴一家あたり週延べ2日などの領主への賦役で済んでいたのが,ついには週延べ8日にまで増えてしまった.
これではウクライナ人の農奴一家の父ちゃん一人では,毎日働いても手が足りないので,母ちゃんや兄ちゃんや姉ちゃんやジジババまで総出で賦役分担しなくてはならなくなった.
この生活が嫌になって領地を逃げ出して,ザポロージェの中州の湿地帯に集まって共同生活をはじめたアウトローたちがコサック.
リトアニア大公国も昔は,ウクライナ人を狩って奴隷にして売り払ったのが主な国庫収入源.
ポーランドもリトアニアも,ウクライナ人を全部排除したのではなく,ちゃんとした家柄のウクライナ人は自国の貴族として平等に扱った.
ウクライナで奴隷狩りを直接やっていたのは,王国と大公国のウクライナ人貴族.
より正確にはルテニア人貴族.
(ウクライナとベラルーシのあたり全体をひっくるめて,ルテニアと呼ぶ)
……ウクライナ人つーか,スラヴ人・キプチャク人・タタール人かな.
黒海北岸のクリミア半島にはイタリア商人のコロニーがあり,ここを拠点としてイスラム世界へ白人奴隷が輸出された.
当時のイスラム圏はテュルク系の軍人政権が多かったので,こいつらはマムルークとして重宝された.
14世紀にはここから欧州全土へ,黒死病が広まってしまったが.
世界史板,2010/03/22(月)
青文字:加筆改修部分
▼ 回答に金・塩・奴隷のうち,奴隷と塩については異論がありませんが,金については明確な誤りです.
当時の金の主要な産出地といえば中央アフリカです.
ヨーロッパじゃないです.
金はむしろ,ムスリム商人がサハラ砂漠を縦断して,地中海まで運んできてました.
岩塩はヨーロッパ産のものです.
(いわゆる塩金貿易,岩塩と金が同重量で取引された)
ヨーロッパに入ったアフリカ産の金は,主に金貨鋳造に使用され,ヨーロッパ商業圏内で流通していました.
というわけで,金がヨーロッパからイスラーム世界に流れることはありえません.
ヨーロッパ人が,香辛料や絹織物などの奢侈品の対価として支払っていた貴金属は,金ではなく銀です.
日本や新大陸の銀鉱山が開発されるまで,南ドイツが世界の銀の産地でした.
また,塩のみならず毛織物や木工品といった生活用品・手芸製品を輸出していたほか,武具もムスリム商人に売っていたようです.
当時のヨーロッパ人は十字軍の敵に,質の良い北イタリア産の鉄製品を売っていたのだから,あほみたいな話ですが.
これに東欧のスラヴ人奴隷を加え,奢侈品の対価としてはけっこう多種多様な商品を取り揃えていたのが,イタリア商人でした.
【参考ページ】
●塩金貿易関連
http://www3.plala.or.jp/red/04world/0533.htm
http://en.wikipedia.org/wiki/Trans-Saharan_trade
http://eurekajwh.hp.infoseek.co.jp/kougi/kougi/nisiA/af01.html
http://blog.livedoor.jp/dg_law/archives/51722942.html
http://www.genkigaderu.net/perm04/01/rensai_01.html
●地中海貿易関連
http://www.happycampus.co.jp/docs/983431363901@hc05/4609/
http://www31.ocn.ne.jp/~ysino/koekisi3/page010.html
http://www.yk.rim.or.jp/~kimihira/yogo/03yogo0603_1.htm
http://www.shigaku.or.jp/world/silver1.htm
DG-Law in FAQ BBS,2010/8/19(木) 22:32
青文字:加筆改修部分
ソースのほうですが……正直,大学受験相当のレベルなので,高校世界史の真っ当な資料集なら,模式図で載ってます.
とりあえず手元の帝国書院の資料集には,ばっちり載っていました.
学術書で示したほうが良いとなると,図書館にある中世ヴェネツィア史か東方貿易を扱った書籍なら,大概載ってると思います.
シルクロード系の本でも載っているかもしれません.
具体的に示せと言われると,私としても手元に無いので,少々お待ちいただければ,そのうち図書館に行ってまいります.
DG-Law in FAQ BBS,2010/8/27(金) 20:0
青文字:加筆改修部分
▲
【質問】
十字軍(1096年~13世紀後半)は合計何回あったの?
【回答】
8回説と7回説とがある.
第5回十字軍,ホノリウス三世がハンガリー王とオーストリア侯に命じた.
これを,カウントしていない説と,カウントしている説がある.
カウントすれば全部で8回,カウントしなければ,7回となる.
8回説に依るならば,
第7回十字軍が1249年(フランス王ルイ9世がエジプトに侵攻,アイユーブ朝軍に敗退)
第8回十字軍が1270年(ルイ9世がチュニスに侵攻.王の病死により撤退)
となる.
余談だが,1290年,エルサレム王国の最後の拠点となっていたアッコンで,十字軍兵士がムスリムの農民と商人を虐殺.
これを理由にマムルーク朝スルタン・カラーウーンが出兵を決意.翌1291年にカラーウーンの後継者ハリルがアッコンを攻略.
これがパレスチナにおける十字軍国家の終焉となった.
上述のものとは別に,民間レベルや小規模なのも十字軍と呼ばれた.
悲劇の少年十字軍(騙されて奴隷に売られちゃった)等がある.
【質問】
十字軍は「聖地奪還」を口実にして,「異教徒相手に略奪しまくって小遣い稼ぎ」が目的の戦争じゃなかったっけ?
【回答】
初期で前戦で闘った連中は「聖地奪回」を本気にしていたのは事実.
略奪と虐殺の宴になったのは,異教徒を人と思っていなかったってのもあるが,兵站が現地調達基本というヨーロッパ的思考を,水も食料も少ない中東でやったおかげで,
攻城戦で腹ぺこ→ようやく落とした時には腹ぺこで気が立った兵士が城内に殺到
ということを繰り返したせいでもある.
最大の開戦理由は,「地中海商圏の確保」がでかかったとは思うけどね.
【質問】
十字軍についてお尋ねします.
1096年から彼らが東に向かう際に,その途上の路銀や食料はどうしたんでしょうか?
救援要請したビザンツとは,それを巡って小競り合いになったとかwikiには書いてありましたが,一般的なところではどう対処していたのか教えてください.
あ,もちろん敵地に到達する以前の話です.
【回答】
本来,貧しい巡礼者は村々の裕福な人や修道院で施しを受けながら旅をしたため,第1回の庶民十字軍もそのつもりだったが,当初は聖地奪回の美名の下に喜捨していた途中の村人達も,あまりの数に根を上げて,与えないようになったため,途中からしばしば略奪が起こるようになった.
諸侯十字軍は自前の資金で必需品を調達したが,足りなくなったり,敵対的な態度を取られたりすれば,略奪に走ることもあった.
以下引用.
――――――
wikipedia
中心的な存在であった諸侯たち,ヴェルマンドゥワのユーグやノルマンディー公ロベール,>トゥールーズ伯レーモン・ド・サンジルなどは資産を売り払ってまで十字軍の従軍費用を捻出している.
現世的な富よりも宗教的な情熱が騎士たちを動かしたことの証左として,ゴドフロワ・ド・ブイヨンと弟のブルゴーニュ伯ボードワンが,かつて教会と争ったことの償いとして,自らの土地を教会に寄進して出発したことがあげられる.
さらに貧しい下級騎士たちは寄付を受けるか,裕福な騎士の世話になるかしないと十字軍に参加できなかった.
たとえばボエモンの甥で後のアンティオキア公タンクレードも叔父に仕えることを条件に十字軍に参加している.
寄進や慈善行為の支えによって行われた第1回十字軍とは対照的に,後の十字軍は特定の裕福な王や皇帝による主導や十字軍税の援助によって行われている.
――――――
勿論,足りなくなれば徴発(掠奪)だろう
戦争しに行ったというより,狂信的で武装した後進国の難民が,移住のために押し寄せてきたみたいな感じだもん・・・
エルサレムを奪還する為に真面目にやっていたのは第一次だけで,それ以降は金儲け目的の為に十字軍が結成されている
(子供十字軍みたいに例外もあるが)
道中で
「俺たちは十字軍だから,お前ら必要なモノを提供するのは当たり前」
と言う論理で略奪をほしいままにし,ユダヤ人を見かけると
「聖戦前の景気づけ」
として虐殺……なんてのも結構いたらしい.
カトリック教国においては,基本的には義軍であり,援助を与える義務があるため,進路上の領主たちは武力で退治するわけにも行かず,武力を示しながら説得するか,ある程度の金を与えて自領を通らないように交渉した.
ビザンチン帝国との間では,小競り合いどころか一度滅ぼしている.
逆に道すがら農民に殺されたり,領主に奴隷にされて売り飛ばされたり……と,なんでもアリ.
当時は想像を絶する野蛮人の世界ですから.
世界史板
青文字:加筆改修部分
船べりでゲロ吐く十字軍
ビザンツ帝国に到着した十字軍専用車(うそ)
(画像掲示板より引用)
【質問】
ドイツは第2次大戦のとき,バルバロッサ作戦なるものをやってますよね? その命名が腑に落ちないんすよ.
このバルバロッサってあきらかにあのドイツ王フリードリヒ3世のことでしょ? あんなバカの名前付けたら縁起悪いっしょ?
誰かこの作戦名の真意教えてくれません?
【回答】
違います.この場合のバルバロッサは,フリードリヒ一世(在位1152-90)です.
彼は,即位してのちイタリアに勢力を伸張し,また同時に東方への(つまりスラブ民族への)勢力の伸張を行ったことでも知られています.
最期は第三次十字軍遠征において,小アジアでSaleph川を渡ってる最中,溺死ししているんですが,昔からドイツ国民には人気がある皇帝のようです.
オンラインで読める,わりと詳しい伝記▼
http://www.hfac.uh.edu/gbrown/philosophers/leibniz/BritannicaPages/EmperorFriedrich-IBarbarossa/EmperorFriedrich-IBarbarossa.html
ちなみに第三回十字軍のときに編成されたのが,後にドイツの東方拡張の主役となるドイツ騎士団.ただし,これの結成はフリードリヒとは直接関係ないみたい.
【質問】
フランス南部の「アルビジョワ十字軍」や,ドイツの宗教農民反乱「フス戦争」とか載った,十字軍の本とか無いかなぁ?
【回答】
「絵で見る十字軍物語」には,確かアルビジョワ派の話はちらっと出てたような気がする.
フス戦争は流石に守備範囲外だろうな.
フス戦争については,軍板的には『火器の誕生とヨーロッパの戦争』が触れているのをよむのがいい.
『近世軍事史の震央 人民の武装と皇帝凱旋』も,フス戦争に触れているが,ちと「民衆史観」が全体的に強すぎる気もする.
1992年に出版(論文はそれ以前に執筆)では,やむを得ないかもしれないが.
アルビジョワ十字軍のほうは,白水社の『異端カタリ派』が,「南フランスへの北フランスによる政治的」侵略として,アルビジョワ十字軍の政治過程を扱っていたはず.
また,佐藤賢一の「オクタゴニアン」(だっけ?)が,アルビジョワ派十字軍を題材にした小説だったはず.
史学雑誌などが閲覧できる環境なら,バックナンバーあさると,フランス王権と南仏の抗争に関し,政治史・文化史・宗教史の分野で何本も論文あるはず.
大学生なら市販されてる本よりも,CiNiiで検索してヒットしたのを,片端から参照していけばいいんじゃね?
pdfで全文読めるものあるし.
軍事板,2010/09/11(土)
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【質問】
シモン・ド・モンフォールってオクシタニアがパリ伯に「征服」された時の負け組みの人の直系?
シモン5世がの出身が,南仏ではなくノルマンディーって事は,4世が敗北して南フランスが征服されてから,ノルマンディー公に匿われて英国に渡ったというような,安直な解釈でよいかな?
【回答】
アルビジョワ十字軍率いて戦死した人(シモン四世)の,同名の息子(シモン五世)がイングランドへ渡った.
出身地はノルマンディー.
モンフォール家は元々,ノルマンディのモンフォール伯で,イングランドにも所領があった.
シモン4世は第4回十字軍に参加しながら,コンスタンチノープルに行かず,聖地に向かった真面目な人だが,儲け損なったことに後悔したためか,アルビジョワ十字軍のリーダーになり,南仏を征服してトゥールズ伯,プロヴァンス侯になったが,南仏勢の反攻にあい,まもなく流れ矢にあたって戦死.
所領は大陸側が長男,イングランド側が次男のシモンが受け継いだ.
当時ジョン王はフィリップ2世と全面対決しており,味方に付かない者の所領を没収したため,このような相続となったわけで,両属が当り前の封建関係も,この時代になると世知辛くなってきている.
シモンはイングランドに渡って,レスター伯シモン・ドモンフォールとして歴史に名を残す.
長男の家系はモンフォール伯として残り,ブルターニュ継承戦争でブルターニュ公になり,百年戦争のリュシュモンもその子孫.
そもそも封建領主というものは,戦争の勝ち負けとか,主君からの御褒美とか,金銭での売買とか,遺産の分与とか,縁組の手土産とか,バクチで取り合ったりとか,いろいろな理由であちこちに分散して所領を持っているものだよ.
加えて,「忠臣二君に見えず」の儒教圏とは違い,ヨーロッパとか回教圏とかでは,こっちの領地の恩地奉公とあっちの領地の恩地奉公の君主が別の王様だったりすることが多々ある.
ノルマンディー公が,イングランドでは王様でも,ノルマンディーの領土についてはフランス王に臣下として振舞わなければならなかったりする.
軍役に参加して勝てば褒賞として占領した先の領地を貰うだろ.
新しく貰った領地の経営が面白ければ,新しい方の領地に張り付きにもなるだろう.
大体,イギリスとフランスとがちゃんと別の国になったのは17世紀の中頃,なんとなく別の国という意識が出てきたのも15世紀後半だからな.
世界史板
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【質問】
ビザンツ帝国が第四回十字軍の敵対象になるまで,どのような経緯があったんですか?
【回答】
第四回十字軍の本来の目的地は,イスラム勢力の穀倉地帯,エジプトだった.
そこを占領すればイスラム勢力の補給路を断って,容易にイェルサレムを奪回できるから.
で,ヨーロッパからエジプトまでは地中海を渡っていかなければならない.
当時,十字軍の大兵力を輸送できるだけの海軍力を持っているのはヴェネツィアぐらいだった.
だから十字軍の統率者たちは,ヴェネツィアに輸送を頼んだんだけど,その費用が馬鹿にならない.
そこで,十字軍とヴェネツィアはアドリア海の港町,ザラを攻撃し,略奪した.
それでも費用は足りず,十字軍は出発することができなかった.
そこへ,イサキオス2世とその弟アレクシオス3世の帝位争いで国を追われていたビザンツ皇太子アレクシオスが,父イサキオス2世と自分の復権のために十字軍に助力を頼んだ.
アレクシオスはそのときに見返りとして莫大な財貨を約束した.
費用が足りずに困っていた十字軍はそれに応じて,コンスタンティノープルを陥落させた.
…というわけだ.
世界史板
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【質問】
第四次十字軍ってどうしてあっさり,難攻不落と言われていたコンスタンティノープルを落とせたんですか?
【回答】
第4次十字軍がコンスタンティノープルを陥落させることに成功した(1204年)のは,金角湾を攻略して防御が比較的手薄な海側城壁に,ヴェネツィアの巨大なガレー船を横付けして攻撃,同時にフランス騎士隊が陸上から攻撃を仕掛けたから.
この攻防の最中にアレクシオス3世が逃亡し,残された城内の人間がイサキオス2世を復位させて,城門を開き降伏した.
世界史板
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【質問】
インノケンティウス三世って第四回十字軍提唱者なのに,なぜ第四回十字軍でコンスタンティノープルが占領されて怒ってるんですか?
【回答】
つか,もともと十字軍はイスラム(ルジューク・トルコ)の進出で聖地エルサレムへの巡礼が困難になったことから,ビザンチン帝国皇帝アレクシウス一世が教皇ウルバヌス二世に援助を要請したことから始まっている.
第1次から第4次になっても基本は同じで,エルサレムを異教徒イスラムの手から解放することが目的.
助けに行ったはずのビザンチン帝国の首都,コンスタンティノープルを占領するのも問題だが,略奪したり別の国を作っちゃだめでしょ(笑)
世界史板
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