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◆◆停戦以降 Fegyverszünet
<◆湾岸戦争
<戦史FAQ目次
『ペルシャ湾の軍艦旗 海上自衛隊掃海部隊の記録』(碇義朗著,光人社,2005.8)
【質問】
イラク戦争前のイラクでの「飛行禁止区域」ってなんでしょうか?
【回答】
その名の通り,イラク領空であってもイラクが無許可無申請の航空機(ヘリも含む)を飛行させてはいけない区域.
この空域を無許可無申請で飛行した場合国連軍は無警告による撃墜が可能.
また,国連軍(要は湾岸戦争の時の多国籍軍)所属機がこの空域を飛行する際は,イラク領空にもかかわらずイラク当局の許可を必要としない.
さらに,国連軍所属機がこの空域を飛行中にイラク側より攻撃を受けた(対空レーダーの照準照射も攻撃行為に含む)場合,無警告で反撃が可能.
そしてその反撃行為は,イラクの「主権侵害」とは認定しない
要するにイラクの領空にもかかわらず,イラクの主権が及ばない空域.
元々は湾岸戦争後,イラクが南部で非主流派のシーア派が起こした暴動や北部クルド人の独立闘争に対し,イラク軍が航空軍事力を使えないよう設定されたもの.
【質問】
湾岸戦争直後のシーア派反乱は,どのように推移したか?
【回答】
シーア派の牙城はカルバラだった.
カルバラはバグダード南西80kmの,ユーフラテス河畔にある宗教都市だ.
預言者ムハンマドの孫で,シーア派初代イマム・アリの次男フセイン(第3代イマム)が,シーア派再興のためにメッカからクーファに行く途中,対立するウマイヤ朝の軍隊に包囲され,抗戦空しく殉教した悲劇の地である.
シーア派教徒にとっては,イマム・アリの聖廟があるナジャフ(カルバラ南方80km),第8代イマム・レザの殉教地マシャド(イラン東北部)と共に3大巡礼地である.
イスラームの最重要巡礼地はもちろんメッカとメディナだが,シーア派教徒にはカルバラ巡礼のほうがインパクトが大きいようだ.
聖地だけに政府軍は攻撃を控えるだろうと予測した.
ところが,政府軍は容赦なく攻撃を加えた.フセイン聖廟のある広場で,激戦が展開された.
(林茂雄の目撃したところでは,)形勢不利になり,追い詰められると,フセイン聖廟に逃げ込んだ.
聖廟は神聖な場所で,血を流すことは許されない場所だ.イスラーム教国の常識では,それで戦闘行為が終わるものと誰しもが思った.
ところが政府軍――フセイン大統領直属の共和国防衛隊――は,驚いたことに聖廟に向かってロケット弾を撃ち込み始めた.紺と緑と青の彩色煉瓦で美しく飾られた聖廟を囲む壁に大穴が空き,金色のドームを持つ聖廟自体にも弾丸が降り注いだ.
その内に戦車が現れ,戦車砲を発射した.聖廟破壊は進んだ.
政府軍の聖廟攻撃が本気だと知り,シーア派反乱派は動揺した.結果論にせよ,聖廟破壊は彼らの本意ではないからだ.暫しの抵抗が続いた後,彼らは降伏した.
フセイン大統領が次に命じたことは,自分の軍隊が破壊したフセイン聖廟を即刻修復することだった.つまり,反乱鎮圧のために一度は聖廟を砲撃したが,それはやむを得ない措置であり,シーア派聖地への敬愛の念を持っていることを態度で示した.
この辺りのやり方に,フセイン大統領の人心収攬の上手さがあるようだ.
修復作業の真っ最中を,取材の名目で立入が許可されたが,破壊の様子は相当に酷かった.燦然と中空に輝く金張りドームの金板は,所々が欠落していた.弾丸が当たっただけでなく,戦闘のどさくさに紛れて持ち去られた金板もあったという.
政府側は反乱の暴徒がやったと言い,シーア派は占領したイラク軍兵士の仕業と言い,真相は藪の中だ.
(林茂雄「イスラムのシルクロード」,芙蓉書房出版,1997/1/25, P.107-110,抜粋要約)
【質問】
湾岸戦争後のイラク内乱に,イランの介入はあったのか?
【回答】
南部の都市バスラの市民はそのように証言している.
住民の証言を総合すると,次のようになる.
内乱に加担した武装勢力は,イラン側からシャットルアラブ川を泳ぐなどしてバスラに渡ってきた.
味方を識別するためか,緑色の布切れを頭や肩口に巻いていた.
明らかに軍事訓練を受けたグループであり,装甲車やロケット砲,手榴弾などもバスラに持ち込んだ――.
イラン政府は内乱への関与を強く否定しているが,
「イ・イ戦争中もイランはバスラを攻めた.イラン人以外で誰がバスラを破壊するものか」
というのが,住民らに共通する意見だった.
バスラ市役所の職員は,次のように目撃談を証言した.
「彼ら(イラン人)はイラク・バース党の幹部を射殺し,手足を縛ったまま道路に転がした.
それから死体の上に古タイヤを乗せ,ガソリンを撒いて火をつけたんだ」
なぜイラン人と分かったのかと問うと,
「自分には聞き取れない言葉を話していたからだ」
という.
イラクの公用語はアラビア語,イランのはペルシャ語である.
(布施広「アラブの怨念」,新潮文庫,2001/12/1,P.206-207,抜粋要約)
【珍説】
クルド人に対する毒ガス攻撃は,イランの仕業.
http://www.onlinejournal.com/Special_Reports/Chin111402/chin111402.html
に見られるように,ステファン・ペレティエ博士は
「クルド人 は青酸ガスで殺された.当時イラクが使用したのは糜爛(びらん)性ガスで,イラクに青酸ガスを製造する能力はなかった.一〇万人といわれた被害者の遺体も今日に至るまで見
つかっていない.シュルツ長官のクルド人虐殺説は虚構である」
と述べている.
国連の査察団が調査した1992年はアメリカの対イラクプロパガンダがもっとも激しかった時期であり,信用できるとは思えない.
【事実】
1995年3月にIraqは,糜爛性のイペリットを2,850t,神経ガスのタブン210tとサリン790t,VXを3.9t保有していたことが明らかになっています.
1988年3月におけるIraq東部にある人口8万人のHalabjaに対するIraqの攻撃では,3月16日から通常の砲爆撃による攻撃を開始し,19日までこれを続け,Kurd側の主張では,夜間にIraq軍機7~8機が来襲.14波に渡り,イペリット,タブン,サリン,VXが使用され,3000~5000名の住民が死亡したとのことでした.
イペリットについては,その使用が肯定されていましたが,サリンに関しては1991年1月の湾岸戦争で敗北した後,国連の査察団が1992年6月に現場の土壌を採取した結果,メチルホスホン酸とイソプロピルメチルホスホン酸(いずれもサリンが分解した後の発生物質)を検出し,サリン使用を実証しています.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2)
onlinejournalは911陰謀説のビデオとか売ってるみたいだけど,そういうところをソースにするってどうなん?
ペレティエは別項にもあるように
「イラン・イラク戦争でイラクが勝った(はあ?)のを予言していたのは俺だけ(はあ?)」
みたいなことを言っている「イラク分析官」なわけだから,ペレティエの発言の根拠を調べてそれを吟味してみないことには,その証言を全面的に信用することは難しい.
国連報告への反論についても同じ.「怪しい」だけで具体的反証が何もない.
通説のアラ探しだけではなくて具体的な新証拠を出さないことには,通説なんてそうそう引っくり返るもんじゃないよ.
だいたい,もしハラブジャ事件をイランがやらかしていたのだとしたら,当時からガチガチの反イランであったアメリカが黙ってはおるまいよ.
なお,イラク戦争後のヒューマン・ライツ・ウォッチによる調査によれば,ケミカル・アリがバスラ虐殺を指示したとする,具体的な証拠があるという.
以下に記事を引用する.
ケミカル・アリが指示 バスラ虐殺で報告書
国際人権団体ヒューマン・ライツ・ウオッチ(本部ニューヨーク)は17日,フセイン元イラク大統領のいとこで「ケミカル・アリ(化学兵器のアリ)」の異名を持つマジド元国防相が,1999年に南部バスラで多数のシーア派イスラム教徒が虐殺された事件に指示を出していたとする報告書をまとめた.
元国防相は,88年の化学兵器を使ったクルド人大量虐殺で戦争犯罪の容疑が持たれ,旧政権高官12人の中でも最初に起訴され,公判が始まるとの見方が出ている.
バスラでは当時,シーア派最高権威が殺害されたのをきっかけに暴動が発生.
報告書は元国防相が暴動を鎮圧するため,120人の処刑を命じたとする具体的な証言と書類があるとしている.
同団体は2003年4,5月にバスラで現地調査を行った.
ヒューマン・ライツ・ウオッチも,決して信頼性の高い情報源とは言えないが.
以下は,イラク戦争後に行われたサダム・フセインに対する裁判の際に出た報道.
5万人~18万人という犠牲者数の根拠や,「サダム政権による毒ガス攻撃」の証言を含んでいる.
アンファル作戦は「ジェノサイド」だった フセイン元イラク大統領の人道犯罪
【アルジャジーラ特約21日】1980年代の後半,サダム・フセイン大統領(当時)が実施したアンファルでの殺りく作戦で一体,何人が死亡したのか,知る人はいない.
5万人の死が確認されたが,不確かな数字である.クルド人の情報源と,破壊された村落の数に基づいて推定した人権グループは,1986年から89年にかけて,18万人の男女,子どもが殺されたと主張している.
ハラブジャでの毒ガスによる犠牲者の,ぞっとするようなテレビの画像が出て初めて,世界中がアンファル作戦の恐ろしさに気づいたのだった.それから20年,サダム・フセインと6人の共同被告たちは,この作戦で実施されたジェノサイド(皆殺し)を裁く法廷に立たされている.
この裁判は,1982年にドゥジャイル村で村民148人を殺害した事件でのサダムにとっての最初の裁判の結果によって先を越されない限り(判決は10月16日に予定),今年末まで続くとみられている.
アンファルという作戦名はコーランに出てくるスラート・アル=アンファルの故事にちなむが,その意味は「戦利品」である.
バース党政権によって暗号名として使われていたのだが,それはイラン・イラク戦争の延長上の作戦であった.
おそらくアンファル作戦で最も悪名高く,身の毛のよだつ攻撃は1988年,ハルブジャの町で行われた.
3月16日朝に始まり,その夜中,続いたのだが,イラク軍は致死性のマスタード・ガスと神経ガスを混合して詰め込んだ爆弾を次々に投下した.
化学兵器がただちに効果を発揮し,目が見えなくなり,嘔吐し,火ぶくれができ,けいれんし,窒息した.
攻撃の数日間で,男も女も子どもも,約5000人が死亡した.
死を免れた人たちも盲目,ガン,新生児欠陥などに長く苦しんだ.
生き残った推定1万人の人たちにとって,化学兵器が原因での障害や疾病は日々の出来事であった.
記者はこのほど,アルビルの北にあるクルド人の村,バルザンを訪れた.
そこで地元の女性たちはアンファル作戦の恐ろしい思い出,とりわけサダムの軍隊が進撃してきた日のことを話してくれた.
彼女たちによると,それは夜明けのことだった.
男たちは少年も含めて家から叫びながら引きずり出された.
バルザンとその周辺の村落で狩り出し作戦が行われ,1万2000人が収容所にトラックで運ばれた.
生きてその姿を見た人は誰もいない.
今,わかっているのは,捕囚たちが一列に並ばされて銃殺され,遺体は集団墓地に投げ込まれたこと.うつ伏せにされて,殺された後,ブルドーザーが遺体の上に土砂を敷いていったこと.集団墓地のへりにたたされ,背後から撃たれた人たちもいる.
だが,アンファルはハラブジャの無惨さやバルザン村での追放にとどまらない.
数百に上る共同体を組織的に破壊し,大規模な民族浄化が行われたのである.
クルド人が自分たちの住みかを追われた後,フセイン大統領はイラクの南部諸州から貧しい家族に対して,仕事がある,家賃の安い住居を提供するという甘言で釣って,キルクークなど北部の都市に移住させた.
クルド人たちは常に,アンファル作戦を「ジェノサイド」と呼ぶ.
2005年12月,ハーグの国際司法裁判所は,数千人に上るクルド人殺りくが,1948年のジュネーヴ協定が「一つの民族,人種,あるいは宗教グループを,全体ないし部分的に,破滅させる意図をもって行われた行為」と規定した「ジェノサイド」であると判示した.
私はバルザン村で出会った女性たちに,サダム・フセインが遂に裁きの庭に引き出されたのを見るかどうかと質問した.
すると,彼女たちは,古傷を開くようなものだから,見たくないと答えた.サダム・フセインが絞首刑になって,地獄に堕ちるのを望むだけだと言ったのである.
(ジョン・クックソン記者:翻訳・ベリタ通信=日比野 孟)
毒ガス攻撃の生存者が証言 「私のようにめくらにして欲しい」
【アルジャジーラ特約23日】フセイン元イラク大統領らのクルド人大虐殺事件を裁くイラク法廷の公判2日目の22日,生き残りの女性が検察側証人として出廷した.
フセイン元大統領ら7人の被告はいずれも訴追事実を否認,法廷が違法であり政治的反対者によって設立されたものであると非難した.
フセイン弁護団は,ジェノサイド(大虐殺)の存在を否定し,攻撃はイランによるものであるとした.当時はイラン・イラク戦争が続行していた.
訴追されたのは,1987年から88年にかけて,イラク政府が北部イラクのクルド人反政府勢力を対象に実施した「アンファル作戦」.
アディバ・オウラ・バエズさんは.1987年秋のバリサン村の爆撃について証言,軍用機が爆弾を落とし,「腐ったリンゴのような匂い」がする煙が広がったと陳述した.
5人の子どもの母親だったバエズさんは「そうすると娘のナルジスが私の所へ来て,目と胸と胃が痛いと訴えました.
どこが悪いのかと見ようとして近付くと,娘は嘔吐して私に吐いたものがかかりました.
家の中に連れて行って,顔を洗いました.
私の子ども全員が吐いたのです」と証言した.
「それから私の体の具合も悪くなりました.
それで,使われた兵器が有毒で化学性のものだとわかったのです」.
バエズさんは,村人がラバに乗って近くの洞穴に逃げたと語り,「しかしヘリコプターがやって来て山々を爆撃し,村人たちはどこにも避難できなくしたのです」と言った.
多くの村民と同様,彼女は毒ガスで視力を失ったと証言,洞穴の中で,人々は血を吐き,多くが火傷を追っていたという.
「私がわかった事のすべては,私が5人の子どもをじっと抱きしめていたことだけです.
目も見えず,何もできず,ただ『子どもを連れて行かないで』と叫ぶばかりでした」.
村民たちはイラク軍に収容キャンプに連行され,バエズさんは同じ部屋にいた4人が死んだと証言した.
拘束されて5日目,彼女は自分のはれたまぶたを指で引っ張り上げて見ると,「子どもたちの目もはれていて,皮膚は黒ずんでいました」と語った.
バエズ証言は,22日に証言したバシラン村と近くのシェイク・ワサン村の証人2人の証言とほぼ同じだった.
生存者たちは,この事件では原告の立場にあった.裁判長に誰を訴追するのかと尋ねられると,バエズさんは「私はサダム・フセインを訴えます.アリ・ハッサン・アル=マジドや(被告団の)ボックスにいるみんなを訴えます.神様,あの連中をめくらにして下さい」と叫んだ.
もし有罪となれば,被告たちは絞首刑となる.
サダム被告とその甥でアンファル作戦を組織したとされるバース党指導者,アル=マジドはジェノサイドの罪で起訴されているが,その罪では,民族集団の一部を絶滅する意図を証明しなければならないので最も難しい訴追となっている.
両被告はまた,人道上の罪,戦争犯罪にも問われているが,共同被告たちのほとんどは元軍人で同じ起訴内容である.
フセイン被告は1980年代に,アル=ドゥジャイル村でシーア派村民148人を殺害した別の事件でも判決を待っている.この事件でも彼を含め7人の被告は極刑になる可能性がある.(翻訳・ベリタ通信=日比野 孟)
【質問】
SCIRI,アッダワ党とは?
【回答】
SCIRI(イラク・イスラーム革命最高評議会)とは,イランに本拠地を置く,反フセイン政権のシーア派統一組織であり,アッダワ党はその秘密組織である.
その2つの代表であるモハマド・バクル・アル・ハキム師は,1960年代にイラク亡命中だったホメイニ師からイスラーム神学を学び,「イラクに於けるイスラーム政権樹立」を目指す.
武装ゲリラはハキム師が率いているだけでも約5万人.
湾岸戦争後,ハキム師は,従来は対立関係にあったクウェイトを訪問,ジャビル首長やサアド首相(皇太子)と会見するなど,フセイン打倒に向けた現実的な共闘体制を模索していた.
アッダワ党は,イ・イ戦争勃発直前の80年9月10日,イラク北部キルクークの油田施設を爆破,同月17日にも,同党員と見られるシーア派ゲリラがハナキンで軍用列車を爆破した.
これと軌を一にして,クーデター未遂事件が少なくとも4回起きた.
フセインは,バース党の支配を脅かすシーア派指導者らを79年から徹底的に粛清し,80年にはアッダワ党支持者を死刑にできる法律を制定.
(布施広「アラブの怨念」,新潮文庫,2001/12/1,P.209-211,抜粋要約)
【質問】
湾岸戦争がもたらしたものとは?
【回答】
一応,集団安全保障のドクトリンを復活させはした.
ただし,湾岸戦争のようなケースの方がどれだけ「典型例」なのかには疑問が残る
(つか,ここまで派手な侵略戦争の方が珍しいし,そのような戦争が常に注目を集めても,集団安全保障が機能するとは限らないと思う,アフリカ内戦とか,バルカン問題とか)
また,湾岸戦争での停戦は,国連の査察官がイラクを訪問して,各施設やBC兵器の施設を破壊したという先例となった.
だけど,サダム・フセインは政権にとどまった.
パパ・ブッシュは,バクダットを占領しないことにした,
パパ・ブッシュにしてみれば,イラク国民がフセインを放逐するだろうという楽観論があったし,何より,アメリカ世論も多国籍軍の参加国も,コストが高くつく占領には耐えられないと思ったからだ.
んで,これが後の戦争の種に(結果的に)なった.
これについて,ナイ教授は以下のように述べている.
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サダムが兵器開発計画を再開し,近隣諸国を脅かし,地域を不安定化させるという恐怖から,ジョージ・W・ブッシュ大統領はサダム放逐のために2003年イラクに侵攻した.
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<まとめ>
・湾岸戦争は集団安全保障を復活させたが,これは普遍性をもたない.
・パパ・ブッシュは,占領はアメリカ世論も多国籍軍も耐えられないと思ったから,占領政策はとらなかった.
・小ブッシュは,フセインが兵器開発を再開して地域を不安定化させるという恐怖から,イラクへ侵攻した.
詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授『国際紛争』(有斐閣,2005.4),第6章を参照されたし.
【質問】
80年代バブルにて,同時期に湾岸戦争が重なりましたよね.
日本では,原油高騰や多額の援助金などでそれに関わっていますが,これらはバブル崩壊にも関わってくるのでしょうか?
以下,私の文才ではお見苦しいので箇条書きで質問させていただきます.
援助金によるマネーサプライの変化などはでてくるのでしょうか?
原油高騰によりどんな影響が?
湾岸戦争による消費マインドの変化とは?
【回答】
それは,いろんな見方があると思う.
トリガを引くきっかけになったかもしれないが,バブル崩壊の原因ではないと思う.
世界的にバブルが崩壊したわけではないし.
バブル崩壊の原因はもっと単純だよ.
土地の値段を下げる政策をしたこと.
つまり,信用創造の逆をやったこと.
さらに追い討ちをかけたのが,崩壊後も土地の値段の抑制策がそのまま続けられたこと.
それで少なくとも10年失われた.
経済板,2009/09/12(土)
青文字:加筆改修部分
▼ なお,
http://www29.atwiki.jp/j-economy/pages/29.html#id_e17cd83e
を見れば分かるように,バブルがそもそも異常な状況下で生まれたものであり,崩壊するのは寧ろ必然だったといえよう.▲
【質問】
湾岸戦争後のイスラエル・PLOの関係は?
【回答】
湾岸戦争後には,それぞれ融和に向けて動き出したが,最終的には「元に戻る」の状態.
パパ・ブッシュは,湾岸戦争で生じた,政治的なつながりによって,1991年マドリード,1992年ワシントンで,イツハク・シャミル〔Yitzhak Shamir〕に,他のアラブ諸国と会合するように圧力をかけた,
これには長い時間がかかったものの,ノルウェーのオスロでイスラエル政府とPLOが秘密交渉を行い,原則宣言が調印された(オスロ合意)
この宣言によって,イスラエルがガザ地区,パレスチナ西岸の諸都市から撤退する一連の合意がなされ,イスラエルはPLOをパレスチナの代表として認めて,1994年以後,段階的に自治権をPLOに委譲した.
これと同時に,ヨルダンのフセイン国王は,ラビンと平和条約について交渉,この条約は1994年にワシントンで調印された.
湾岸戦争の時,フセイン国王は多国籍軍への支持を曖昧にしたので,イスラエルとの関係修復によって,再びアメリカと中東の石油産油国から好意を得られる,と計算していた.
PLOは,湾岸戦争ではフセインを支持,結果,クウェートとサウジアラビアからの援助を失って,経済状況が悪化していた.
皮肉なことに,これによる経済状況の悪化が,イスラエルに対する交渉態度を緩和させることになった.
だけど問題だったのはイスラエルの世論だった.
イスラエル国民は,パレスチナ国家のための占領地域割譲には懐疑的だった.
その結果,イスラエルはラビンを「売国奴」とみなして,超保守派の一人から暗殺されてしまった.
PLO側はどうかとういうと,アラファトは「腐敗した権威主義者である」と一部のパレスチナ人にみなされ(晩年のアラファトはモロにそうだと思うけど)ていて,これがハマスなど原理主義者の反対勢力に力を与えることになった.
で,和平プロセスに反対するグループのテロ爆破が原因となって,1996年のイスラエル選挙に影響を与え,リクード政権は,和平プロセスのスピードを落とさざるを得なくなった.
この状況でも,パレスチナとの間で,ワイ川合意を結び,その後エフド・バラク〔Ehoud Barak〕政権では,2000年夏に,キャンプ・デーヴィットでの交渉に大きく譲歩した.
だけど,結局この交渉は失敗,元の木阿弥となって,またテロとその報復に明け暮れることに・・・.
当時,クリントン大統領は,アラファトとバラクの双方に
「もし合意に達すれば,彼らが国内で暗殺される危険があるが,もし合意に失敗すれば,彼らよりも若い人々が双方で命を落とすだろう」
と述べた.
不幸なことに,これは当ってしまい,泥沼状態に・・・
また,クリントンは政権末期に(ノーベル平和賞狙いとも言われているが)タバで,バラクとアラファトに対して仲介を行って,交渉による解決を目指したけど,これも結局は失敗.
そうこうしているうちに,中東戦争でも活躍した,強硬派,アリエル・シャロンがバラクに変わって,2001年2月に,イスラエルの首相になってしまい,イスラエル側はどんどん態度を硬化させていった.
イスラエルの世論は,2000年9月以来,イスラエルで起きているパレスチナ人の自爆テロに対する,強い対応を求めていた.
この世論の傾向が,シャロンが首相になれた大きな理由であり,自爆テロは,ますますイスラエルの態度を硬化させる結果になった.(当然といえば当然の話だけど)
で,シャロンはアラファトを「テロリスト」と呼び,PLOとの平和的解決は不可能だと表明した.
<まとめ>
・湾岸戦争後,PLOとイスラエルは一時期融和姿勢になった.
・イスラエル国内では,占領地域の割譲に懐疑的であり,融和派のラビンは,国内強硬派に暗殺された.
・PLO側では,アラファトに対する評価が下落,原理主義者の台頭を許すことになった.
・原理主義者たちの自爆テロが,ますますイスラエルを硬化させ,結果,シャロン首相誕生を呼び,彼が,PLOとの平和的解決は無理であると表明したことにより,融和的な時期は完全に終わりを告げた.
なんつーかまぁ・・・お互い,逆方向に全力疾走しているのを見ているというか・・・
詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授『国際紛争』(有斐閣,2005.4),第6章を参照されたし.
【質問】
海上自衛隊ペルシャ湾派遣って何?
【回答】
湾岸戦争直後の1991年に,海上自衛隊の掃海部隊,いわゆる「ペルシャ湾掃海派遣部隊」が派遣されたもので,自衛隊にとって初の海外実任務.
掃海母艦「はやせ」を旗艦とし,掃海艇「ひこしま」「ゆりしま」「あわしま」「さくしま」,補給艦「ときわ」の計6隻から成る部隊が派遣され,6月5日~9月11日の99日間,多国籍軍派遣部隊と協力して掃海作業を実施.
・アラビア半島からの砂塵やクウェイトの油井火災による煤煙が舞い,日中の最高気温が40
度以上にも達する過酷な環境条件下で行われたが,人身事故は皆無だった
・掃海艇の運用は,当初計画では「3 隻運用,1
隻整備補給」としていたが,現地の過酷な自然環境への対応,整備補給の効率等を考慮し,「4
隻同時運用,4 隻同時整備補給」,すなわち,「All-on
All-off」に改められた
・掃海海域の一部に,イランが領海権を主張しているところが含まれていたため,イランとの間で外交交渉が行われ,親善のためにイランのバンダル・アッバース港にも入港した
・その海域が,シャトル・アラブ川の河口にあたり,上流から流れ込んでくる砂漠の砂で水中視界が極端に悪いため,機雷排除作業が極めて難しく,しかも海底には沖合のオイル・ターミナルへ沿岸から油送パイプが設置されおり,機雷探知機で探知した機雷を,その場所で爆破処分すると,油送パイプも破壊してしまう恐れがあるため,探知した機雷を一旦,無能化し,その後水中バルーンを使用して海底から浮上させて,曳航索を取り付け,作業艇でパイプから十分距離が離れた安全なところまで移動させてから爆破処分した
など,興味深いエピソードも多い.
が,一般国民にとっては,派遣されたこと自体,遠い記憶の彼方にあるかのようである.
また,当時強固に反対した人々もいたが,今日,「そんな人はいなかった」かのように,そうした人々に触れられることも少ない.
【参考ページ】
http://www.janafa.com/ronbun/wangan-soukai.pdf
http://www.mod.go.jp/msdf/mf/touksyu/wanngann.pdf
http://jjtaro.cocolog-nifty.com/nippon/2011/04/post-a7b4.html
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/6157
http://www.mod.go.jp/msdf/mf/touksyu/yoakenosakusen.pdf
【ぐんじさんぎょう】,2012/04/21 20:00
を加筆改修
ちなみに強固な反対論は,以下のように派遣された隊員のメンタル面にも,少なからず影響していた模様.
以下引用.
--------------
出港後,四隻の掃海艇を指揮する森田は思いを巡らせていた.
ある若い隊員がやって来て言った言葉が,頭から離れなかったのだ.
「僕たちのやっていること,間違ってないんですよね」
すがるような瞳に,森田は一瞬,声を詰まらせた.港を出る時に,見送りの関係者に交じって派遣に反対する人たちも集まっていて,対岸から大きな声で,
「二度と帰って来るな!」
と叫んでいたことを,気にしたのであろうか.
また,多くの隊員が,預かって欲しいと遺書を持ってきた.
「おい,何かあれば,俺だって・・・死ぬんだぞ・・・」
するとその時,外で何か大きな音がする.
見れば,海上自衛隊のP3C哨戒機,そして航空自衛隊の戦闘機F4ファントムが編隊で飛来,空からの見送りに来たのであった.
最後は同じく空自のC130輸送機が見送りに来た.なんと,操縦桿を握っているのは小牧基地司令だ.
本来ならば,このC130輸送機も,国際貢献に参加するはずであったが,不甲斐ない政治のために叶わなかった.
その思いからか,C130は,しばらくの間上空を旋回していたという.
また,四月三十日には石垣島で,夜,後方からスピードを上げて接近して来る船があった.見ると,海上保安庁の巡視船「よなくに」である.
マストには「ご安航を祈る」を意味する国際信号「UW旗」が揚がっている.しかも甲板には海上保安官が登舷礼で並んでいるではないか.
これが,国内最後の見送りとなった.
インド洋では,太平洋などに比べ自殺が多いというデータを見たことがあるが,確かになぜだかわからないが,寂しさ,虚しさがこみ上げてくる.
そんな,張り詰めていたものが,ふっと切れそうになったその時であった.
掃海部隊は信号を受信する.
「何か必要なものはないか? 頑張れ!」
日本のタンカーからであった.日の丸を掲げた巨大なタンカーが,まるで漂流する小船を救いに来たかのようにゆっくりと近付いて来る.
こんなに遠くの海でも,日本の船に会えるなんて!
この海域を通って日本のエネルギーの源を運んでいるのだ.
それなのに日頃,インド洋やマラッカ海峡を通って,長い航路を経て来るこうしたタンカーのことなど,意識することはない.
だが,この船とその船員たちの存在なしには,日本は存続できないのである.
頼もしい,まことに頼もしい同胞であった.送られた激励の信号に,心が震えた.
「俺たちのやっていることは,間違ってなんかいないぞ!」
-------------並木書房 桜林美佐「海をひらく」より
軍事板,2010/10/19(火)
青文字:加筆改修部分