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◆◆経過 A hadi események
<◆源平合戦 Taira–Minamoto-háború
戦史FAQ目次


 【link】

『敗者の日本史6 承久の乱と後鳥羽院』(関幸彦著,吉川弘文館,2012/09/18)


 【質問】
 源平争乱はなぜ起こったのでしょうか?

 【回答】
 平治の乱(平治元年・1159)でライバルの源義朝を滅ぼした平清盛は覇権を手にしました.
 当時の武士たちは,貴族から見れば血に穢れた存在で,立って歩く犬みたいに思われていました.
 本来,平清盛はそのような不当に扱われる武士たちの利益代表であるべきだったのです.
 しかし,平家は天皇の外戚となり,朝廷に寄生することで自らを公家化し,清盛は太政大臣に任じられるなど, 朝廷の顕官要職を一門で独占しました.
「平家にあらざれば人にあらず」
という,平家一門の栄華を極めた驕りは,武士たちの不満と,顕官要職を独占された貴族からも強い反感を持たれたのです.

(日本史板)

 伊豆蛭ケ小島(現在の静岡県韮山町)に流されていた源頼朝を東国武士団はなぜ支持したのでしょうか.
 東国の武士は源氏だけではありません.
 むしろ平氏の方が多いくらいです.
 関東地方の源氏は甲斐の武田氏,上野の新田氏,下野の足利氏,常陸の佐竹氏がありますが,伊豆,相模,上総,下総は圧倒的に平氏系の武士たちが占めています.
 頼朝の舅になる北条時政をはじめ,土肥実平,千葉常胤,三浦義澄,上総広常,畠山重忠など,頼朝に味方をした東国武士たちの多くが平氏です.
 伊豆は平氏の地.だからこそ平清盛は伊豆へ頼朝を流したのだと思います.
 しかし案に相違して,彼ら東国武士たちは頼朝を担いで,平家に反抗する兵を挙げることになります.
 頼朝を監視する立場だった北条時政などは,真っ先に頼朝に味方しました.

 このように見ると,「源平合戦」は「平平合戦」ですし,源氏同士が争った「源源合戦」とも言えます.
 源氏平氏に関係なく,東国武士団と中央政府(平家一門)の争いということです.
 近年は「源平」という言い方を避けて,「治承・寿永の内乱」という用語が使われています.

(日本史板)


 【質問】
 保元の乱の原因は?

 【回答】
 河合敦によれば,鳥羽法皇亡き後の,崇徳上皇と後白河天皇の,皇統を巡る権力争い.
 崇徳上皇が武士を集め始めたのを見た後白河が,平清盛や源義朝などを招き,先制攻撃をかけて一気に敵を征圧した.

 詳しくは,河合敦著『なぜ偉人たちは教科書から消えたのか』(光文社,2006/6/30),p.32-35を参照されたし.


 【質問】
 平治の乱とは?

 【回答】
 河合敦によれば,後白河法皇院政時代初期,実際に権力を握っていた藤原道憲(みちのり)(信西)が,権力争いが高じた結果,後白河の寵臣,藤原信頼(のぶより)の命を受けた源義朝勢に殺害され,その信頼も平清盛に謀殺された,という戦乱.

 詳しくは,河合敦著『なぜ偉人たちは教科書から消えたのか』(光文社,2006/6/30),p.35を参照されたし.


 【質問】
 保元の乱では源平は別れなかったのに,平治では源対平となったのは何故ですか?

 【回答】
 平治の乱は,源氏対平氏の戦いではありません.
 後白河上皇と二条天皇の親子対立が原因です.
 院政をとろうとする後白河上皇と,天皇親政を求める二条天皇はもともと対立しており,それがそれぞれの近臣によって激化し,ついに激突したのが平治の乱です.
 先の保元の乱では源氏と平氏がそれぞれ内部で争ったことにより,平氏の棟梁は平清盛,源氏の棟梁は源義朝,ということがほぼ決定していました.
 平治の乱で勝利した清盛は,このとき源氏の棟梁義朝を斬って権力をもつようになりますが,平治の乱は清盛と義朝の戦いが主だったわけではありません.

日本史板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 清盛は,義朝の遺児を,頼朝以下全員助命してやって,情け深い武士だったようですが, 中でも,頼朝は,源氏の嫡男と自他共に認める重要人物.
 この子の命を助けるのは良しとして, どうして,強制出家させ僧にしなかったのだろうか?
 あるいは九州あたりに流しておけば,関東の武士団が不平不満を持っていても,担ぐ神輿もなく,不平分子はひとつづつ潰して,平家の栄華はもう少し続いていたような気がするのだが.

 【回答】
 まず,平治の乱の頃の清盛と義朝では,官位・経済力・都での動員兵力において圧倒的に清盛が有利であった(清盛1000騎 義朝200騎)
 つまり,義朝一族は清盛からみると,大した勢力ではなかった.
 ましてや,後年義朝の遺児が挙兵して清盛の子供たちを滅ぼすとは当時,誰も思わなかったであろう.
 ところで,平治の乱では100人近くの流刑者が発生したらしい.
清盛にとってたいした敵ではなかった義朝の遺児の流刑地など大した問題ではなかったと思うし,考える余地もなかったと思われる.
 当時の記録を見ると,頼朝を伊豆まで護送したのは検非違使の役人で,平家の私兵ではない.
 死罪を免れえた頼朝に与えられた刑罰は「遠流」だったが,伊豆は,第一級の遠流国であり,先例を尊ぶ平安貴族には十分な刑罰ととらえられたと思われる.
 また,源義朝に加勢せず,消極的敵対関係となった源頼政の知行国で,息子の仲綱が伊豆守の当地には,監視体制が整っていると傍目には見えたからと考えられる.
 さらに,清盛の推挙で念願の三位になった頼政は,外部にも平家にも親平家勢力とみられていたので,彼外部伊豆を収めていることに,安心感があったかと思われる.

 また,平治の乱自体,源平の争いではなく,後白河上皇と二条天皇の争いとそれを取り巻く廷臣たちの争いが主で,義朝は信頼方の一武将として加わったに過ぎないという見方が強まっている.
(清盛は最初は圏外.状況が変わって二条天皇側近と手を結んだらしい)

 さらに,平治の乱直後は有力貴族がほとんど没乱したものの,清盛が完全に政権を制圧したわけではなく ,現在考えられているほど発言力があったわけではない.
 清盛の発言力が増してきたのは,義妹建春門院所生の皇子,高倉天皇が即位してからである.
 平治の乱直後の清盛は,対立する後白河上皇と二条天皇の間を要領よく立ち回っているのが精一杯という所であった.

 それから,坂東の武士たちが源氏に忠誠心があったかどうかということも,最近は疑問視されています.
 義朝が坂東で活躍したのも,坂東武士にとって利用価値があったからだとか,義朝が中央とのパイプ強化に努めて朝廷の有力者のバックアップがあったから,坂東に勢力を伸ばすことができたとの説もあります.
 朝の挙兵の成功は源氏への忠誠心などではなく,平家の家人になれた勢力に対する反主流派の反発が,頼朝を押し上げただそうです.

(日本史板)


 【質問】
 福原京は何が不評だったの?

 【回答】
 まず,土地が手狭.
 確か南北九条が造れず,六条か七条くらいで止めたはず.
 その土地も南北方向に傾斜(六甲山の麓なので)しているし,東西方向もいくつもの天井川で分断されている.
 港はあったにせよ,陸揚げしてからの移動・輸送がかなり困難なので,商業の中心地には不向きだと思われる.
 福原京が存続していても,経済活動の中心は早い段階で,他へ(大阪方面など)移っていたんじゃないだろうか ?

 ただ,政治都市・商業都市を分離するやり方がうまくいき,成功モデルとして認知されていれば ,後の政権もそれを真似し,今の東京一極集中のようなことは無かったんじゃないだろうかと思う.

(日本史板)


 【質問】
 倶利伽羅峠の戦いって何?

 【回答】
 寿永2年5月11日(1183年6月2日),源義仲軍と平維盛軍との間で戦われた合戦で,砺波山の戦いとも呼ばれる.

 その年の4月,源義仲討伐のため,平維盛は10万の兵力で北陸へ侵攻し,義仲軍を越中まで押し戻したが,加賀国と越中国の国境の砺波山において,義仲軍の夜襲を受けた.
 浮き足立った平家軍は退却しようとするが,退路は義仲方の将・樋口兼光に押さえられており,唯一敵のいない方向へ逃げようとしたら,そこは倶利伽羅峠の断崖.
 平家の将兵は次々に谷底に転落し,その谷底は降り積もった兵,馬で埋め尽くされた.
 「源平盛衰記」曰く,「平家一万八千騎,十余丈の倶利伽羅が谷をぞ馳埋みける」.
 谷には長きにわたって大量の白骨が散らばり,いつしか地元の人々はこの谷を「地獄谷」と呼ぶようになった.
 また,夥しい数の死体から出た血や膿が流れ込んだ小川は,「膿川(うみがわ)」と今日まで呼ばれている.

 総大将・平維盛は辛うじて京へ逃げ帰った.
 しかし,この敗戦の結果,源義仲の京上洛を妨げる兵力は,もはや平家には残されておらず,彼らは安徳天皇を伴って京から西国へ落ち延びることになったのである.

 なお,この戦いにおいて,義仲軍が数百頭の牛の角に松明をくくりつけて敵中に向け放ったという逸話があるが,眼前に松明の炎をつけられた牛が,敵中に向かって突進していくとは考えにくいため,創作である可能性が高い.

 【参考ページ】
http://www.geocities.co.jp/drpwd695/kurikara/kurikara.html
http://kankou.town.tsubata.ishikawa.jp/content/detail.php?id=40
http://koten.kaisetsuvoice.com/yoshinaka06.html
http://www.ranhaku.com/web05/c1/1_03.html


 【質問】
 義仲軍が義経・範頼軍を迎え撃つとき,どうして数千騎しか集まらなかったんでしょう?

 【回答】
 元々義仲直属の軍勢は少なかった.
 それが,色々な事情があって,北陸方面の在地勢力が義仲に付くことになった.

 しかし,頼朝のように「ご恩と奉公」や「恩賞権の独占」などのような緊密な主従関係を結ぶことができなかったことや, 配下についた在地勢力の利害を義仲はかなえることができなかった.
 また,都に入る際味方につけた在京の武力勢力も,後白河院幽閉などで離反させてしまった.
 さらに,その在京勢力にも鎌倉方からの切り崩しもあった可能性もある.

 その結果,最後には元々の義仲の直属勢力しか残らなかった.

(日本史板)


 【質問】
 壇ノ浦の戦いの概要を教えてください.

 【回答】
 本日未明,長門国壇ノ浦に於いて,源氏軍と平氏軍の大規模な海上戦闘が発生しました.
 平氏軍は朝方より潮流の有利にまかせ,短期決戦を挑もうとしましたが,源範頼率いる陸上部隊の連続射撃,
 源義経率いる海上部隊による装舵手への長距離射撃によって,平氏軍の艦艇は身動きが取れなくなっていましたが,正午になると潮流の変化から戦況は一転源氏優勢になり,敗北を悟った平氏軍より寝返り者が多数出ていた模様です.

 映像は平教経との戦闘を避け,友軍の艦艇へと逃げる源義経です.

 関係者の話によりますと,平氏軍は平知盛,平経盛,平教盛,平教経など主な指揮官か入水,或いは自刃しましたが,総大将の平宗盛は入水するも,泳ぎが上手だった為死に切れず,源氏軍に捕らえられたとのことです.
 また未確認情報ですが,三種の神器が水没したという情報も入ってきております.

 この戦いにつきましては,情報が入り次第,随時続報をお伝えしていきます.

 それでは,次のニュース……


 【質問】
 田舎に行くと,
「ここには平家の落人伝説が・・」
とかよく聞くけど,何で平家はあんなにまで逃げまくってたの?
 地の果てみたいなトコとか,徹底的な山の中とか.

 【回答】
 伝説.山奥の開拓者にとっては先祖の伝来を平氏に置く.

 付け加えて,学会の主流ではないが,ちょっと面白い説がある.
 成人T型細胞白血病と言う,エイズなどと同じレトロウィルスが引き起こす白血病がある.
 この病気,母子感染するのだが潜伏期間が異常に長いため(だいたい50年),昔は発病する前に寿命がつきていたので近年になって発見されたのだが,大阪や京都などでは保有者がほとんどいないのに,僻地,特に平家の落人伝説があるぐらいのド僻地になればなるほど,保有率が高まるんだと.
 もちろん,平家の公達が成人T型細胞白血病のウィルスを保有していた訳ではなく,どうもそういうド僻地の人間というのは,縄文形の狩猟採集民や,焼き畑や陸稲と言った,かなり古い文化を持つ先住種族だった可能性があるんだ.
 椎葉村の焼き畑とか,明らかに弥生系水田稲作民の流入によって,次第に追われていった先住民の可能性がある.木地師なども含めて,非農耕民は縄文の系譜を引いている可能性があり,木地師が天皇の権威を自分のよりどころとしたように,縄文系先住民が平家の貴種流離譚を取り入れた可能性が高い.
 北条氏も平氏だったように,そこまで平氏が迫害された訳でもないからね.

日本史板,2004/06/19~06/20
青文字:加筆改修部分


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