「軍事板常見問題&良レス回収機構」本館・准トップ・ページへ   サイト・マップへ

軍事板常見問題
きのこたけのこ戦争資料館
&その他の戦史別館
「常見問題」とは「FAQ」の意味です

サイト内検索
Google
WWW を検索 このサイトの中を検索
この別館の目次

戦史FAQ総目次
戦国時代FAQ目次
明治維新FAQ目次
第一次大戦FAQ目次
第二次大戦はWW2別館
冷戦FAQ目次
ヴェトナム戦争FAQ目次

このサイトの各館案内

主題歌
Kojii.net本社

本館
第1別館(WW2)
第2別館(欧露)
第3別館(北アイルランド)
第4別館(ベーコン)
第5別館(日本経済常見問題wiki)
第6別館(兵器)
第7別館(未分類草稿館wiki)
第8別館(テロリズム)
第9別館(戦史)
第10別館(総記)
第11別館mixi別館
第12別館(アジア)
第13別館(アフリカ・アメリカ)
第14別館(tumblr別館)

はてな分室
twitter(機能停止中)
 →臨時アカウントはこちら


画像引用元:朝目新聞,「ふたば」他画像掲示板複数

Tweet

faq11

 【質問】 日露戦争中の日本の戦艦には45cm魚雷発射管がついていますが,魚雷は何発ぐらい積んでいたのでしょうか?

Persons 人士 Személyek|軍事板常見問題 戦史別館

『真説 浅井長政嫡子 越後・浅井帯刀秀政』(浅井俊典著,宮帯出版社,2012/11/12)

 浅井長政と言えば,武田信玄による信長包囲網に賛同して,朝倉氏と共に信長に反旗を翻し,戦い利非ずして,奥方と娘等を信長に引き取らせた後,自らは自害します.
 また,落とした嫡子万福丸は,潜伏中に捕えられ,関ヶ原で磔刑に処せられて,男系嫡流は途絶えたことになっています.

 しかし,実は長政には信長に知られていない男子が1人おり,守役に守られて近江を落ち延びたと言う言い伝えが残っています.
 その伝説で一番有名なのが,近江の福田寺に落ち延びた万寿丸が,後に寺を出奔して江戸に出,お江の方と対面して後,細川家に仕官したというもの.
 様々な小説家が,この言い伝えを元に物語を書いています.

 ところが作者はこれに疑問を持ちます.
 元々,この作者自身も浅井家の末流に属する人なのですが,この人の先祖は越後の出だからです.
 その出自も,調べていくと浅井長政に辿り着きます.
 ただ,この事実は長らく表に出ませんでした.

 それは何故か,そして何故越後に浅井長政の末裔がいるのか,その辺りを資料を紐解きながら丹念に追った労作です.
 勿論,資料が乏しく,様々な断片を組合わせて論拠を作っているので,もしかしたら牽強附会と言われうるかも知れませんが,古文書,しかも一次資料を出来る限り当たっての論拠補強を行っているので,九州説よりも越後説の方がかなり有力では無いかと言う説得力があったりします.

 確かに常識で考えても,近江とその周辺で信長が一心不乱に浅井家の残党狩りを遣っているのに,小谷城の城下にほど近い寺に長政の嫡子が生存していると言うのは,余程の僥倖が無いと難しいでしょうし,江戸時代になって寺の僧正の地位を棄ててまで出奔して江戸に出て来ると言うのも,不自然です.
 更に,何の伝手も無い人が急に将軍家御台所に逢えるのかと言う疑問もありますし,何の実績も無い彼が細川家に仕官すると言うのもおかしな話です.

 作者は,近江の福田寺に落ち延びた嫡子は,そこに長くいた訳では無く,直ぐに信長包囲網の有力大名だった武田家を頼って更に落ち延びたのではないかと推測します.
 しかし,そこも安住の地では無く,武田家はその後暫くして信長に蹂躙されてしまいます.
 この為,武田家の家来筋であり,自分と同じ血統の横田家を頼り,更に窮鳥として,蘆名と上杉に両属していた山之内家を頼って行ったと考えています.
 ところが,蘆名滅亡後,上杉に属していた小大名であった山之内家は,今度は秀吉の奥州仕置によって滅亡の憂き目に遭い,浅井の嫡子は再び流浪して,山之内家が昔支配していた越後に更に落ち延び,潜伏する,と.

 これが越後浅井家の祖となったと作者は考えています.
 その後,関ヶ原の合戦で上杉家に呼応して一揆を起こした浅井家は,堀直寄の追討で更に潜伏を余儀なくされ,魚沼の山の中に居を構えます.
 上杉に変わって,会津を支配した保科家によって山之内家が取り立てられると,家来筋も軽輩ながら士分に取り立てられ,その客分格だった浅井氏にもお零れが回ってきます.

 保科家に取り立てられた際,山之内家に属する人々は由緒を書いて会津に提出する事になります.

 その頃,江戸では3代将軍家光の時代.
 その母であるお江の方は,言わずと知れた浅井長政の三女となります.
 また,皇室に目を転じると秀忠の女和子が,後水尾天皇の皇后となり,後の明正天皇を生みます.
 つまり,浅井家は織田家と徳川家に滅ぼされたのにも関わらず,遂には徳川家の乗っ取りに成功し,また皇室の外戚になったことになります.

 そして,お江の方の七回忌法要の時,明正天皇は曾祖父である浅井長政に対し従二位中納言を追贈したのです.
 これは水戸家の極官よりも格上の破格の待遇となります.

 由緒を書き提出する際,越後の浅井家当主は,事実を書くかどうかを悩んだのでは無いでしょうか.
 もし,自分が浅井長政の嫡子であると名乗り出たのなら,彼は将軍家と叔父甥の間柄となり,天皇に対しても血筋となります.
 更に,当時,自らの居住地を支配していた越後高田松平光長も,秀政とは叔父と姪の関係になる勝姫の子供であり,これまた縁戚関係となります.

 しかし,関ヶ原の合戦では上杉遺民一揆に荷担することによって,徳川家に対して弓を引いており,今更名乗り出ても,折角の長政の官位追贈に傷が付く可能性がありました.
 また,今までも生き延びるために余り大っぴらに長政嫡子という事を公にしなかったことから,由緒提出の際,自らを浅井家の傍流であると書き記したのでは無いかと推測しています.

 因みに,越後浅井家が,長政の嫡流である事を明らかにしたのは江戸時代後期に入ってからの事だそうです.

 この様な謎解きに満ちた本なので,中々知的好奇心を刺激されるものとなっています.
 ただ,古文が結構出てくるので,その辺が苦痛な人にはお勧め出来かねますが.

------------眠い人 ◆gQikaJHtf2,2016/06/06 23:08
Han, A Feudal Clan 藩 Klán|軍事板常見問題 戦史別館

『栗山大膳 黒田騒動その後』(小野重喜著,花乱社,2014)

 舞台は筑前黒田家.
 その筆頭家老だった栗山大膳が,黒田家二代目当主の黒田忠之と確執の挙げ句,領内での戦闘寸前の状態に迄なり,大膳はお恐れ乍らと幕府九州目付役の竹中采女正に訴えたのが黒田騒動の始まりです.
 当時は将軍家光の時代で,武人から能吏の世に移ってきましたが,まだまだ戦国の遺風が残っている時代でした.
 幕府の威光は,後の世よりも低く見られていましたが,武人と文官との対立が生じた結果,領内での戦闘が起き,家中取締不行届きで家のお取り潰しが相次いでいました.

 黒田家の場合も,初代長政が死去し,2代目当主としては未だ経験の浅い忠之が就任します.
 しかし,忠之は戦国の世に苦労して領国を手に入れた長政等の様な経験を持たず,物心ついたときには黒田家は既に中津とか福岡と言った広大な領地を有していました.
 こうした坊ちゃん育ちの忠之は,苦労も無く育ったため,自分の発する命令は全員が聞くのに慣れてしまい,領内で横暴な振る舞いをする様になりました.
 また,野心溢れる若者でしたので,家を保つと言うよりも,その家を如何に大きくするかに関心が向いていました.

 一方,栗山大膳は,父親の利安が播磨の小大名だった小寺家に仕えていた黒田孝高に仕官し,その小姓となって頭角を現わしていきます.
 利安は孝高の絶大な信頼を得て出世街道を上り,孝高が隠居して長政に家督を譲る際,家老として長政に仕え,朝鮮の役では,僅か2,700の戦力で4万の大軍を撃退するという大功を挙げています.
 また,施政官としても優秀で,朝鮮で占領した領土を能く治めたそうです.

 その息子である大膳利章は,中津時代に耶馬溪白米城で生まれます.
 関ヶ原の戦いの結果,筑前国主となった黒田家に於いて,利安は引き続き家老職となり,東部の要である上座郡志波に15,000石の封土を擁しました.
 これは国境沿いの細川忠興との対立に備えたものとされています.

 さて,黒田孝高の死去に際して,利安は長政の後見人にされました.
 関ヶ原で縦横無尽に活躍して家康の勝利に貢献した長政でしたが,家康はまだ黒田家に対する疑念を払拭しきれず,大坂冬の陣にて長政の出陣は差し止められました.
 そこで,利安が提案して,世嗣忠之を東上させ,家康に御目見得させる事にします.
 これにより,家康の嫌疑も解け,夏の陣の際に出た出陣命令には,忠之を担ぎ,自ら1万の兵を率いて兵庫まで出陣することにします.
 これらの行動は幕府の信頼を得ることに成功し,長政の地位は安泰となります.

 しかし,長政が死去するとまた利安も隠居し,代って息子の利章が家老となります.
 ところが,代替わりした忠之は権力を一手に集中して,思うままに政治を行うことに専心し,利章等五月蠅い家老を遠ざけるようになります.

 この頃,鳳凰丸事件が起きます.
 巨大な軍船とそれを碇泊させる港を幕府の許可無く築造したのです.
 幕府は怒りを露わにしますが,黒田家一体となっての弁明で何とかお咎めはありませんでした.
 更に忠之は行動をエスカレートさせ,小姓の倉八十太夫宗重を寵愛し,彼に新編の足軽200名を預け,9,000石を与えた上,2万石に上る領地の代官に任命します.
 宗重は,当主の威光を嵩に着て,横暴な振る舞いを多発し,遂には藩政が混乱する状態になりました.

 しかし,利章以外の家老は忠之に迎合し,遂に利章は孤立してしまいます.
 そこで,利章は腹をくくり,家老職の辞職願を出して采地に引き籠もりました.
 この対立は忠之が折れたことで一端は収まりましたが,重しになっていた利安の死後,再び対立が生じ,秀忠死後の当主お国入りの際,利章の出迎えがなかったことで頂点に達しました.

 そして冒頭のように幕府への訴えと言う挙に出たのです.
 ただ,その後の争論では,忠之の政治を批判しながらも,忠之を暴君として訴えたいと言う訳では無く,その性格が高じて黒田家を滅亡に導くのでは無いかと言う危惧が,大膳がこの様な行動に出たのだと言う弁明をしています.
 つまり,家を存続させたいが故の忠義の行動だ,と言う訳です.

 幕府の裁定は,黒田忠之は家中取締不行届きにつき筑前を召上げると言うもの,但し,その召上げた領地は,父祖の勲功に鑑み即日公議より拝領すると言う計らいでした.
 当然,喧嘩両成敗の観点から栗山大膳も黒田家から追放されますが,こちらは南部重直にお預けとなりました.
 しかしながら,完全に幽閉された訳では無く,150人扶持を宛がわれた上,領地内2~3里四方の行動は自由という比較的穏便な措置になります.

 因みに,もし幕府の裁定が更に苛酷なものとなる可能性があった場合に備え,大膳は黒田家の血族である梶原平十郎影尚に,家康が長政に送り,長政の死の間際に大膳が受け継いでいた感状を幕閣に提出せよと命じていました.
 この感状は,関ヶ原合戦時の長政の忠節を謝し,黒田家子々孫々に至るまで粗略にしないとのことが書かれていましたから,これが万一に備えての切り札となったのです.

 こうして,大膳は南部家に預けられます.
 しかし,此の地で大膳は伸び伸びと暮らし,林羅山との書簡を楽しんだり,禅僧との交歓を楽しんだりしています.
 そして,此の地で大往生を遂げたのです.

 大膳が南部家に流謫されたため,子孫は南部家に代々仕えることになります.
 この本の後段は子孫について,調べたことを書いています.
 また,南部家に行かなかった縁者についても触れています.
 その縁者は,国許でもそれなりの地位に就いた人もいましたが,直系については,或いは中津時代の縁を頼って秋月家に仕官したり,或いは毛利家に仕官したりしています.

 これまた,先日の浅井長政の話のように,一気に処断された訳でなく,日本の様々な地で生き延びていた訳です.
 この様に,意外に日本の武家というのは敗れても生き延びるケースが多かったりするのです.

------------眠い人 ◆gQikaJHtf2,2016/09/09 23:59




◆御意見・御要望はこちらまで


管理人:消印所沢 ◆z3kTlzXTZk

「軍事板常見問題&良レス回収機構」本館・准トップ・ページへ   サイト・マップへ

http://e.ggtimer.com/
http://c.cocacola.co.jp/