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◆◆◆島津氏 Szimazsu Klán
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<◆戦国時代 目次 Hadakozó Fejedelemségek Kora (Japán), Index
戦史FAQ目次


 【link】


 【質問】
 島津氏(できれば義弘)を題材にした小説を読みたいのですが,何から読めばいいでしょうか?
 史実に忠実で,ある程度面白いものがいいです.

 【回答】
 これは結構難題かも.

 まず,戦国時代の島津氏をネタにした小説自体が少ない.
 とりあえず思いついたところをあげると,
・『島津義弘』徳永真一郎 青雲社
・『島津義弘』加野厚志 PHP文庫
・『島津奔る』池宮真一郎(絶版)

 どれもこれもなあ…
 ある程度史実に忠実なのは加野さんのだろうが,私は余り面白いとは思えなかったのだよ.

 『島津奔る』は60万部突破のベストセラーとなった物の,後に盗作問題が発覚して絶版.
 内容に関しては「おもしろい」という一方,「義弘マンセー過ぎ」と賛否両論だったような記憶.

 そもそも,史実どうこう言うなら,義久公を中心とするのが自然であろう.
 義弘など当主ですらなかった.

 ま,「幸村」も似たようなモンだけどね(笑

日本史板,2003/09/07
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 島津発祥の地は?

 【回答】
 宮崎県に都城市と言う市があります.
 都城市は,他の宮崎県の都市と異なり,文化的には鹿児島に近く,実際江戸時代は島津領でしたし,そもそも島津家が発祥したのも都城です.
 従って,都城市の人々は,宮崎よりも鹿児島に親近感を抱いていると言います.

 島津発祥の地は,都城市中心部北東側の郡元町にあります.
 この付近は,古代に島津と言われた地でした.
 927年,醍醐天皇の命令を受けて完成し,967年,村上天皇の時に施行されたのが延喜式です.
 その中の兵部省諸国駅伝馬条を見ると,日向国には「島津駅」があり,そこに駅馬と伝馬が置かれたことが確認できます.

 こうした島津駅などの「駅家」と言うのは,都と諸国を結ぶ駅路に30里(当時は1里=約530mなので約16km)毎に置かれた宿泊施設を指します.
 そこには人や物を載せるための馬が置かれており,それが駅馬,更に郡役所である郡家に置かれた運搬用の馬が伝馬と言いますが,日向国の場合,一郡の面積が広いために,郡家単位に伝馬を置いたのでは,距離がありすぎたことから,駅に伝馬も置かれたのです.

 島津駅は物資の集散地として機能する事になりますが,1024~28年の万寿年間に島津を拠点とした荘園が成立します.
 当時,この辺りの土地は「無主の荒野の地」とされ,これが開発されて,宇治関白家(藤原頼通)に寄進して荘園が成立したとあります.
 この荘園を開発したのが,太宰府の役人だった平季基で,彼がその荘園を開発して宇治関白家に寄進し,その後,その荘園を宇治関白家から託されて,太宰府から島津荘に移り住んだ記録があります.
 この時1026年9月9日に,神柱大明神を造営しました.
 これが現在の神柱神社で,最初,現在の都城市梅北町にある黒尾神社の場所に造られました.

 更に,早水町,郡元町,祝吉町は,「日向国図田帳」にある「島津院」と呼ばれる場所で,島津荘の役所であった「島津荘政所」があった場所とされています.
 因みに,「図田帳」とは「大田文」とも呼ばれ,鎌倉期に一国毎に国内の田地面積や領有関係を収録した土地台帳のことです.
 この島津荘は,その後も拡大して行き,日本でも最大級と呼ばれる荘園になっていきました.

 時代は少し下り,1185年8月17日付で,源頼朝は惟宗忠久を島津荘の荘園管理人である下司職に任命しています.
 更に惟宗忠久は,併せて島津荘の幕府派遣の地頭職である惣地頭職にも任じられています.
 任命後,忠久は1186年に薩摩国山門院(現在の鹿児島県出水市)木牟礼城に入りますが,一旦,1188年に戻ります.
 その後,1196年に再び山門院に戻り,その後,間もなくして都城に移ってきました.
 この時忠久は,都城祝吉に館を造って,これを祝吉御所と名付けて住みました.

 尤も,異説も有り,祝吉ではなく安久町の堀之内御所に入ってそこを拠点にした説,最初,堀之内御所,次いで祝吉御所に入った説もあり,余りはっきりしていません.
 ただ,島津荘に入ってきた事は間違いないようです.
 そして,この地の惟宗忠久がその地名を取って,島津忠久と改名したとしています.

 こう言った訳で,都城は島津発祥の地とされている訳です.
 しかし,忠久はその後,1203年に発生した鎌倉幕府の権力闘争である比企氏の乱に連座して,日向国,大隅国守護職,島津荘日向方・大隅方の地頭職を没収され,それらは総て北条氏が抑える事になり,一旦,島津氏の影響力は減退します.
 島津氏が再び舞い戻ってくるのは,それから100年以上経った14世紀中頃となる訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/12/16 22:22
青文字:加筆改修部分

 さて,島津荘の惣地頭として,一旦は九州のこの地に乗り込んできた島津家は,鎌倉初期の権力闘争に敗れてこの地を一旦去ります.
 しかし,島津御庄内とされた地域は,その後,島津氏の家号となった為に,島津が取れて単に「庄内」と言い表されるようになりました.
 その範囲は,北郷,中之郷,南郷よりなるとされ,ほぼ現在の都城盆地を指します.

 一旦,この地と縁が切れた島津氏が,再び舞い戻ったのは,1352年のこと.
 島津資忠が,1351年に行われた,足利尊氏率いる北朝軍に参加し,南朝の懐良親王率いる菊池氏などと戦った筑前金隈合戦の軍功により,尊氏より庄内北郷300町の地(現在の都城市西部地域)を付与され,薩摩迫(現在の都城市山田町)に移住して,地名を家号とし,北郷氏と改め,この地の支配者となりました.
 因みに,島津資忠は,島津本宗家第4代,島津忠宗の六男です.
その後,北郷氏は薩摩迫から現在の都島町に都城を築いて移住しますが,以後,一貫して北郷家は都城の領主として君臨することになります.

 一応,1352年に都城盆地を領した北郷氏でしたが,未だ盆地全体を治めた訳でなく,最終的に都城盆地を統一したのは,それから200年の後,北郷家第8代,北郷忠相までかかっています.

 まず,1375~1384年頃,北郷氏は樺山氏と共に,室町幕府が九州統制のために置いた九州探題の今川了俊等と争い,都城を守り切ります.
これは都城周辺を支配する北郷氏の領国支配最大の危機であり,居城である都城を守り切ったが故に,以後,ここが北郷氏の居城として維持された訳です.

 しかし,1453年には守護島津忠国によって,月山日和城に移動させられます.
 都城は一度は守護直轄地となってしまったのです.
 その後,1476年に漸く北郷氏第6代,北郷義久が都城への復帰を果たしました.
 そして,1477年4月19日,北郷義久は,相州家,伊作家,薩州家,豊州家と呼ばれる島津分家と共に,守護である本家の島津武久を盟主に仰ぐことを誓い,以後,宗家と一致して行動を共にする事を約束しました.
 北郷氏としては,守護である島津本家を支えることで,自らの領土である都城の支配を安定化させ,その後も引き続き島津本家との関係を保ちながら勢力を拡大していったのです.

 北郷氏が都城盆地で大きく勢力を伸ばすのは,1516年以降です.
 この間,北郷氏は都城盆地の有力在地領主であった和田氏と友好関係を築きながら,都城の支配基盤を固めていきました.
 その中心人物が,北郷氏第8代,北郷忠相です.
 北郷忠相は,第7代北郷数久の長男で,飫肥を治めていた島津分家,島津豊州家季久の娘を母とします.
 1517年,忠相は北郷家の家督を継ぎますが,その時,北郷氏が治めていたのは,都城,安永城,山田城の3つの城に過ぎず,周囲には伊東氏,北原氏,新納氏と言った力のある武将が犇めいていました.
 こうした状況の中で,忠相は島津本家の力を借りながら都城盆地の統一に乗り出し,幾多の合戦を重ねて,1555年頃に遂に都城盆地の平定を果たしました.

 北郷氏はその勢力を拡大するに従い,安永,山田,志和地,野々三谷,梶山,梅北,財部,高城,山之口と言った都城盆地各地に,その地域の責任者となる地頭を置いていきました.
 その後,北郷忠相,忠親親子は,「庄内」という地域名を自らの領地の名称として用いるようになり,それは都城盆地全体を指す地名となっていった訳です.

 この忠相は,都城島津家の「中興の祖」と呼ばれ,都城島津家で尊敬され,顕彰される人物となっていきます.
 彼が着用したと言われる鉄錆地南蛮胴具足が現在も残されており,都城島津家では,忠相の象徴として家代々の重宝の筆頭として代々受け継がれ,護られているそうです.

 さらに忠親を経て,北郷氏第10代,北郷時久の代になると,更にその勢力は拡大します.
 領地は,都城盆地の他,現在の曽於市一帯,更に霧島市の一部をも抑えるようになりました.
 時久の時代に,北郷氏の領地は最大となり,地頭を中心とした地方行政組織も整備され,法令による支配が行われるなど,この地域の北郷氏の支配が安定していることが判ります.

 1558~1580年頃の永禄年間になると,北郷家の家臣に対して知行を与えた「坪付」と呼ばれる史料が多く残されています.
 例えば,1562年2月19日付けで,北郷時久が重臣である土持摂津介頼綱に対し,現在の鹿児島県曽於市末吉町諏訪方に属する法楽寺門と西中野門を与えたものや,2月20日付けで同じく時久が土持美濃守に曽於市末吉町諏訪方に属する大窪門を与えたものなど,時久本人が北郷氏の上級家臣に発給した文書が残されています.
 更に土持頼綱が入水治部少輔に宛てた坪書写や和田匡盛,土持頼綱連署の坪付,更に和田匡盛が発給者である坪付が,多く見られます.
 この様に,北郷氏自身でなく,重臣からも知行を与えるための坪付が出されていると言う事は,既に北郷家内部での行政機構が整備されていっている事が分かる訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/12/17 23:41
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 島津氏は源氏?

 【回答】
島津初代と源氏の関係

 比企尼 (頼朝の乳母)    伊豆に流された頼朝を援助し続けた比企氏の娘
  ↓長女               ↓次女
丹後局(島津初代忠久の母)  川越尼(2代将軍頼家の乳母)
 ↓息子  ↓娘           ↓
 忠久  源範頼側室      源義経側室

 忠久の母,丹後局は生涯で数回の結婚を繰り返していて,実は忠久の父もはっきりしない.
 そこから,忠久が頼朝の子であるという説が生まれて,戦国時代頃には真面目に皆が信じている伝説になってしまっていた.
 ちなみに現在残っている頼朝の墓は,江戸時代終盤に,島津氏源氏説を真面目に信じてた島津重豪が建てたもの.

 島津を名乗る前の惟宗氏は藤原氏系の大貴族,近衛家の分家から本家の家来化した侍で,島津荘は元々近衛家の荘園だったという話もあるそうな.
 だから元々,惟宗氏は島津荘と縁があったし,近衛家との長い関係も,それこそ現在まで続いていく.

漫画板,2013/05/16(木)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 島津家と近衛家との関係は?

 【回答】
 島津家は近衛家と近しい関係です.
 島津荘と宇治関白家との関係で言えば,開発領主が平季基で,荘園の名義上の持ち主が藤原頼通となります.
 この藤原頼通と言えば,位人臣を極めた藤原道長の長子であり,絶大な権力を握っていました.
 そして,藤原頼通の長男である藤原基実が祖となって出来たのが,近衛家です.

 一方,源頼朝と惟宗忠久の関係はと言えば,惟宗忠久を島津荘惣地頭職に任命しています.
 家伝とかでは,頼朝と忠久は親子関係であると言われたりもしましたが,最近の研究では忠久は京都生まれで惟宗広言の息子であることが判明しています.
 忠久は,京都の公家を警護する北面の武士であり,彼の親戚は大隅と日向国の国司を務めていました.

 惟宗家は,その近衛家の家司を務めた家柄でした.
 摂関家などで使う家司と言うのは,家の事務を司る職員のことを指します.
 つまり,惟宗忠久は,近衛家に仕える家人でもあり,源頼朝の御家人でもあった訳です.
 と言う事は,惟宗忠久は,日向島津荘を領していた近衛家の後押しによって,地頭職や守護職を得たのでは無いかと言う類推が成り立つ訳です.
 そして,その後も,島津家は近衛家とは近しい関係を築いていくことになるのです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/12/16 22:22
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 なんで漫画にしてもネット上にしても,島津ってなんというか戦基地外で描かれてしまうん?
 実際そんなに恐ろしい連中なのか?
 戦基地外といえば,まず武田を思い浮かべるんだが,島津と比べたら武田なんかガキみたいなものなのか?

 【回答】
 戦国時代までの武士ってのは,個々人では雑兵より圧倒的に強く,しかも名誉のために平気で死ぬまで戦うメンタルもった戦士階級.
 ただし,自分の武功しか頭にないので,個々人が勝手にやるばかりで命令を全然聞かず,武功を建てられるチャンスがあれば抜け駆け,突出,勝手に別働隊になる等当たり前.
 とても命令一下で集団で行動する火縄銃や弓の部隊で使えない.
 何より,1人雇うのに100石ぐらいかかる高コスト兵種なのがネック.

 だから普通の戦国大名の軍隊は,武士が3割,雑兵7割.

 島津は違う.武士10割.
 まず,武士が武士のくせに貧しくて,自分で農作業しないと食えないのに文句言わない.
 じゃあ他の国の武士より弱いかというと,若年層を集団教育で殺人マシーンにしたてるシステムができてて怖い.
 そのシステムのおかげもあって,武士が島津家に盲目的な忠誠を誓っていて,雑兵のように言うことを聞く.
 兵法が合理的で身も蓋も無く,
「白兵戦じゃ1人で10人殺すのは無理.飛び道具ならできる」
というのがお家兵法なぐらい火力大好き.

 こんな土地に火縄銃が来たらどうなるかは,火を見るより明らかで,死ぬまで戦うメンタル持った,白兵戦でも個人戦闘のプロである武士が,命令一下雑兵のように忠実に火縄銃をぶっ放し続ける異常な軍隊ができあがる.

 そこにイギリス人のような,嫌な外交感覚を持った島津家乗せたらできあがり.

漫画板,2014/10/25(土)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 釣り野伏って何?
 3行で教えて!

 【回答】
 野戦において全軍を三隊に分け,そのうち二隊をあらかじめ左右に伏せさせておき,機を見て敵を三方から囲み包囲殲滅する戦法.
 先攻部隊が押して引き,押して引きを繰り返し,いかに自然な負けを演出し退却するか,というところに指揮官の技量が問われるため,これを成功させるには,高い練度・士気を持つ兵と,戦術能力に優れ冷静に状況分析ができ,かつ兵と高い信頼関係にある指揮官が不可欠となる.
 騎兵が少ないという薩軍の弱点を補うために,島津義久により考案・実践されたと言われ,島津氏は釣り野伏せやその応用より,耳川の戦い,沖田畷の戦い,戸次川の戦いなどに勝利している.

 【参考ページ】
http://homepage2.nifty.com/inutomononohu/newpage(simaduyosihiro9).htm (→キャッシュ
http://ff-factory.jugem.jp/?eid=124
http://sawapp.hateblo.jp/entry/2015/05/28/225820
http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2008/11/post-1736.html

【ぐんじさんぎょう】,2016/11/20 20:00
を加筆改修

(画像掲示板より引用)


 【質問】
 島津氏は腕っ節だけじゃなく,政でも手練だったの?

 【回答】
 島津の外交はよく,イギリス人的って言われる.

1 敵の敵は味方.
 目的のためなら,昨日の敵と簡単に手を結ぶ.
 また,相手が昨日の敵どころか,今日の自分の敵であっても,今日のもっと大きい敵への牽制になるなら,裏から手を回して援助ぐらいは当たり前.

2 盟約を結んだら,自分からは決して違えない.
 またそれを売りにするが,巧妙に相手に違えさせようと工作し,また,ルールの穴を突いて合法的に,盟約を無かったことにするのは大好き.
 彼らの結ぶ盟約は時々,最初から抜け道がある場合すらあるので注意.

3 平時には結構gdgdなことをやってるわりに,チャンスに乗っかるのだけは異常に上手い.

 ちなみに関が原戦後,家康と義久の交渉中に,協力関係にある倭寇を使って,家康が明に出した交易船沈めたらしい(笑
 島津潰したら明へのルートが絶たれるどころか,海外交易ルートがあらかた途絶する.
(秀吉の朝鮮出兵のため,北回りのルートは死んでいた)

漫画板,2013/05/17(金)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 島津豊久って誰?

 【回答】
 島津豊久は島津家久の嫡男として,薩摩串木野城で誕生.
 島原の沖田畷の戦いに初陣で参加して以来,父,家久と伴に,そして家久亡き後は,伯父の義弘とともに常に戦場にあり,島津家でも有数の猛将として知られていていました.
 関ヶ原の戦いにおける島津の敵中突破の退却行)は非常に有名だが,それが出来たのはこの豊久の奮戦があったからこそであり,豊久自身は殿軍(しんがり)をつとめて戦死しました.

 【参考ページ】
http://www.mmjp.or.jp/askanet/ending_shimadzu_toyohisa.htm
http://pozyu.hp.infoseek.co.jp/toyohisa.htm
http://www.kanko-sekigahara.jp/kankou/kr1-21.htm
http://blog.livedoor.jp/mansaku21/archives/51280244.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1493.html

 ちなみに死後,「ドリフターズ」に出演していることは,ヒラコーのファンにしか知られていない.

何か所も傷痕が残る,島津豊久の鎧
http://blogs.yahoo.co.jp/rowmoment_boy/12864357.htmlより引用)

【ぐんじさんぎょう】,2009/5/8 21:00
に加筆

▼ 朝鮮征伐では豊久が海戦の時に,敵船に飛び移って皆殺し→船乗っ取りをやってたな.

 慶長2年7月15日,毛利壱岐守率いる日本水軍の一手として,漆川梁海戦に参戦.
 日本水軍と朝鮮水軍が睨み合う中,目付役の大田飛騨守が自船に乗り移ったのを見て,豊久も自身の軍船に乗り込み,錨を上げ,他を出し抜いて漕ぎ出しにかかる.

 旗頭の毛利壱岐守が,
「おい! 勝手になにやってんだ,止まれ!」
と怒鳴るも,後ろを振り向く気配もなく,どんどん船を進める豊久.
 そこで大田飛騨守が櫓の上に立ち,
「豊久を討たすな,兵も船も続け!」
と下知.

 戦端が開かれる中,豊久は朝鮮水軍で三番目の大船に漕ぎ着け,
「豊久跳んで敵船に移り,敵を斬ること麻の如し」
と記録されるほど暴れまくる.
 敵を殲滅して奪取した船は焼かず,のちに秀吉に献上して感状をもらった.

 もっと詳しく知りたい場合は,「朝鮮記」「本藩人物誌」などなどを参照.
 それのみで1冊の本になってるのは玉里文庫版だけど,古書としてはたぶん入手不可能.
 同じものが「鹿児島県史料拾遺」に収録されている.
 ただし文字は手書き,謄写版なので少々読みにくい.
 あと,「鹿児島県史料 薩藩旧記雑録 後編1」にも収録されている.
 こちらは活字で読みやすいのでおすすめ.
 ただしいずれも,現代語訳はされていない.
 どれも国会図書館にはあったよ.
 それ以外の図書館にあるかはわからないや.

漫画板,2012/06/04(月)
青文字:加筆改修部分

678 :名無しんぼ@お腹いっぱい@転載は禁止:2014/12/22(月) 12:36:54.57 ID:uZwu3hvb0

 大河ドラマ「豊久」を考えてみた.

第1回  伯父's無双回
第2回  親父無双回
第3回  家久,串木野拝領
第4回  豊久誕生(産まれる時に光が差して白いハトが飛んだとか話を盛る)
第5回  弟・忠仍が産まれてお兄ちゃんになる(4歳)
第6回  はじめてのおるすばん(家久が上洛)(5歳)
第7回  耳川の戦い(7歳)
第8回  はじめてのおひっこし(家久,佐土原拝領)(8歳)
第9回  家久が父貴久の追善能を催す.弟と共に鞁・大鞁を打つ(13歳)
第10回 初陣・沖田畷の戦い(1)
第11回 初陣・沖田畷の戦い(2)
第12回 初陣・沖田畷の戦い(3)
第13回 肥後国・八代城で元服(14歳)
第14回 元服祝いに刀をくれた上井覚兼と一日中酒盛り
第14回 肥後出陣に向け,家久と共に豊後境検分に赴く(15歳)
第16回 疱瘡にかかる.(弟にもうつす)上井覚兼がお見舞いに来る
第17回 穂村で狩猟.瀬戸山大藏丞の家で夜中まで酒宴,俳諧,茶湯(16歳)
第18回 戸次川の戦い



 豊久で50回,いけるかもしれない.

漫画板,2014/12/18(木)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 沖田畷の戦いって何?

 【回答】
 沖田畷(おきたなわて)の戦いは天正12年3月24日(1584年5月4日),島原半島北部にて発生した,龍造寺隆信軍と有馬晴信・島津家久連合軍の合戦.
 肥前島原領主・有馬晴信が龍造寺氏を離れ島津家に誼を通じたことから,有馬を討伐しようとする龍造寺軍と,有馬を救援しようとする島津とが武力衝突した.

 このとき,龍造寺軍3万に対し,有馬・島津両軍あわせて6千~8千と劣勢.
 そこで島津家久は,低湿地で大軍を展開することが困難な沖田畷を戦場とした.
 沖田畷付近で龍造寺軍先鋒部隊が島津軍と遭遇,交戦すると,島津軍は徐々に後退.
 勢いに乗った龍造寺軍が,一気に攻め立てようと沖田畷の畦道を突き進んだところ,待ち構えていた島津軍の銃撃を浴びた.
 これがいわゆる「釣り野伏せ」
 思わぬ銃弾の飛来に龍造寺軍は先陣が崩れ,退却しようにも後続の軍が次々と続いてくるため身動きがとれず,狭い道の中で大混乱.
 そこに島津軍が三方から龍造寺軍に攻めかかり,さらには新納忠元・伊集院忠棟らの率いる伏兵をも蜂起させたため,龍造寺軍は総崩れとなり,龍造寺隆信は戦死.
 龍造寺軍は殿軍を犠牲にして退却し,以後,龍造寺氏は衰退していくのだった.

 ちなみに,この合戦が島津豊久の初陣.

 「これ無理だよね」「明日負けるよね」モードになりかけてた諸将出陣前日,
「まだ元服前のお子さんは可哀想だし,家に帰したらどうですかー?」
家久に言ってきたらしい.

 息子の性格をよく知ってる家久は,そこでピーンときて,わざとみんながいる前で,豊久に「帰れ」と命じてみせた.
 すると案の定,豊久は,
「いーや,帰りません.明日は俺が先陣切って討ち死にします」
と言い放ち,それに大いに感動した諸将が,
「この子を死なせちゃならん,俺もやったるでー」
と奮起.
 家久は陰でよしよしとほくそ笑み,「これで勝つる!」と確信したとか.

 【参考ページ】
http://www2.harimaya.com/simazu/html/sm_oki.html
http://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/ka/Okitanawate.html
http://www.geocities.jp/sayufm_musiclabo_s/EnsoTop/NextSanko/okitaFro.html

漫画板,2014/11/28(金)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 庄内の乱における山田城攻めについて教えてください.

 【回答】

 慶長4年(1599)3月,伏見島津邸において,島津忠恒が家老・伊集院忠棟を殺害した.
 国許でこの報を受けた忠棟の子・忠真は,自領の都城および勢力下の12城をもって蜂起.
 いわゆる庄内の乱が起こった.

 忠恒は,忠真領の最前線にある山田城の攻略を,島津中務大輔豊久らに命じ,6月23日,城攻めが開始された.
 豊久軍は卯の刻(午前6時)から午の刻(午前12時)まで,激しく攻め立てたが城方を崩せず,逆に戦意が衰えたところに痛烈な反撃を食らい,あろうことか城方に軍旗を奪われてしまった.
「はっはっはっ,見よ! 名将家久公の子,他国にも聞こえし島津中書とて,何ほどの事やあらん!」
 城方は,奪った軍旗を城内に立てて晒し物にした.

 これを見た城攻め諸将は,驚愕した.
「あれは…まさか?」
「ば,バカな!」
「豊久様の旗が城内に?!」
「なんと…何という事じゃあ………」
「早や,豊久様が一番乗りを果たされたわ!」
「さすがは豊久様じゃあああ!」
「者ども,後れをとるなーっ!」
「ヒャッハー! 豊久様に続けえええええ!」
 激しく勘違いした諸将は奮起,先を争って城へ攻め入ると,一気に本丸まで駆け上がった.

 その日の内に山田城を攻め落とした豊久軍は,主将の長崎休兵衛・副将の中村兵左衛門まで討ち取る大功を立て,豊久には忠恒から感状と太刀が与えられた.

豊久(………まぁ良か.)

戦国板,2011/10/02(日)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 戦国時代における,北郷家と島津本家との関係の変遷について教えられたし.

 【回答】
 戦国期が近付くと,北郷家と島津本家との関係が変化していきます.

 今までは,都城の統一を優先する為に北郷家は,島津本家の庇護下に積極的に入ると言う形だったのですが,1545年3月18日,北郷忠親と忠相等一門衆が伊集院に集まり,新たな守護として,島津貴久を継承させることに同意しています.
 この島津貴久を担ぐ中心人物となったのが,北郷忠親と忠相の親子でした.
 即ち,今までは本家の指導を仰ぐ形で,本家からの指示に忠実に従っていたのですが(ですから,以前は都城から話されたこともあった訳で),今度は島津貴久の守護継承を,北郷家が中心となって一門衆が認めると言う形となって,従来の立場が少しく逆転していることが伺えます.

 因みに,当時の薩摩守護家の家督を巡っては,明徳,応永,嘉吉の頃に内訌が相次ぎ,更に1483年になると伊作久逸の乱と言う内訌が勃発し,1506年には肝付氏が再び叛乱,1526年になると守護の勝久の跡目を巡って内訌が勃発し,守護家の力はかなり弱体化していました.
 その為,一族の支持が無ければ,島津貴久の継承は危ういものとなります.
 実際,勝久の室の兄で,薩州島津家の当主である実久が,この決定を不服として兵を挙げ,幾度も貴久と戦を行う事になるのです.

 しかし,1550年頃にはこの乱は平定され,守護としての貴久の権威が相対的に向上していきます.
 更に,1552年12月4日には島津貴久は北郷等,家中の主な者と起請文を取り交わしました.

 丁度,この年の8月に島津貴久は調停から従五位下・修理大夫に補任され,守護としての権威が更に上がりました.
 こうした官位の威光を背景に,領国内の領主層を纏め,外敵の侵攻からの結束を高める為に取り交わしたのがこの起請文です.

 ここでは,一味同心すること,即ち心を一つにして力を合わせること,一家として互いに裏切らないようにすることなどを約束しています.
 この起請文に連署したのは,島津貴久の他,一族の島津忠将,北郷家から豊州島津家に養子に行った島津忠親,喜入忠俊,北郷忠豊,樺山幸久,北郷忠相であり,島津家の中心を為す人々であり,彼等と盟約を結ぶことにより,島津貴久自らの家督継承者としての立場を,改めて一族の各武将に認知させた訳です.

 1561年になると,北郷家第10代,北郷時久と島津貴久の関係が更に変化します.
 4月7日付で島津貴久が樺山善久に与えた書状に於いて,時久に末吉(現在の鹿児島県曽於市末吉町)の知行を与え,志布志の番を任せたと書き記しています.
 また,6月12日には,貴久が時久に対して末吉城を与えたことが記録に残っています.
 10年前はひ弱な守護だったのが,相次ぐ戦いに打ち勝ち,朝廷の権威を笠に着て,島津貴久は,北郷氏に対して所領を与える立場になっていったのです.

 更に天正期になると,貴久の跡を継いだ守護の義久は,他の領主とは一線を画した地位を確立します.
 そして,島津義久は九州統一を目指して,先ずは島津本家と北郷氏の共通の敵である伊東氏に対する,本格的な攻撃を開始しました.
 この攻撃を前に,島津氏と北郷氏は1574年9月10日に,盟約を結んでいます.
 この起請文では,伊東氏との戦いに当たって,特に親しくし,互いに約束・掟に背かないようにすること,暫減などが無いように,互いに各仕事をすることが無い様にすることなどを約束しています.
 同様の起請文は,義広の老中ともとも交わしています.

 こうして伊東氏との戦闘を制し,日向に進出した島津氏は,今度は豊後の大友氏を攻めることになります.
 1578年7月の大友攻めでも,島津義久と北郷家第10代,北郷時久及び11代,北郷忠虎との間で起請文を交わしています.
 7月20日付の時久との起請文では,大友氏との戦いでは,「永代に於いていよいよ同懐致すべき事」と「同じ思い」若しくは「兄弟」という意味を持つ「同懐」という言葉を用いて,今後一致して進んでいくことを約束しています.
 また,8月3日付の北郷忠虎との起請文では,万一世の中を引っ繰り返すようなことが起こった場合,親類の間柄であっても,逆心の無いように「無二の忠勤」を尽くすことを求め,そして「讒佞」つまり中傷や疑惑の無いように互いに申し開きをする事が記されています.

 更に11月13日の島津義久の北郷忠虎宛の起請文でも,同じ文言が繰り返されています.

 こうして見ていくと,1574年の段階では,北郷氏と島津氏はほぼ対等な関係を保っていました.
 しかし,島津家の領土が拡大して行く1578年以降になると,島津義久が北郷忠虎に対し,「無二」の「忠勤」や「無二」の「奉公」を求めるようになります.
 即ち,今まではほぼ対等な文言だけが使用されていたのに対し,この頃から明らかに島津氏の主導で起請文が作成され,島津氏が上位に立った文言が見られるようになっていきます.

 やがて1579年12月になると,島津義久から隠居した先代の北郷時久に対し,知行の宛行状が発せられました.
 此所では北郷時久が島津義久に対して「無二の忠勤」を尽くすと神に誓ったことを評価して,義久が時久に対し,従来の所領安堵と,今後獲得した所領の保障を約束しています.
 即ち,義久は時久の所領を与え,保障する存在として現れており,更に島津本家が北郷家に対して上位に位置することを示すようになった訳です.

 とは言え,島津家と北郷家の間は,完全な主従関係と言う状態では未だありません.
 完全な上意下達の主従関係であれば,一々起請文を取り交わす必要が無い訳です.
 「起請文」の形態は,一揆契約を結ぶ場合の確認事項を書いたものです.
 現在の我々は,「一揆」=百姓一揆という風に考えがちですが,本来の一揆の意味は,特定の目的を達成する為に造られた集団,或いは組織のことです.

 起請文中には,「一味」とか「同懐」と言った言葉が出て来ますが,これは対当関係を表す言葉です.
 これは一揆によっては主導する者がいることがあるものの,基本的な形態は,構成者が互いに対等な関係であると言う事によるものでした.

 その対等性については,実際,島津本家からの軍役に対する,北郷氏のサボタージュの事例があったりすることからも伺えます.
 また,1585年に於ける豊後入りに関しては,島津義久は島津家久,島津忠長,北郷時久,伊集院忠棟,平田光宗,町田久倍,本田親貞,伊集院久治,上原尚近,上井覚兼が参加して協議して行われています.
 この豊後入りの会議の参加者は,島津家の老中や地頭で,「談合衆」と呼ばれる人々でしたが,その中には北郷時久も含まれていました.
 これだけを見れば,北郷家は本家の枠組みに包摂されているかの様に見えますが,談合後の宴会の座順では,北郷時久は客の中では筆頭に位置づけられており,主従関係が少しずつ見受けられるものの,まだ島津家中では別格の客分的な存在であることが伺えるのです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/12/18 23:51
青文字:加筆改修部分

 さて,島津が九州統一に乗り出していた頃,畿内では織田信長が倒れ,新たな支配者として羽柴秀吉が登場しました.
 そして,秀吉は毛利を服させた後,長宗我部を下し,遂に九州の地までやって来ます.
 1585年,天下統一を進めていた秀吉は,九州諸大名に対し戦闘の停止を命じます.
 しかし,島津はそれを無視して九州制覇を目指し,龍造寺氏を滅ぼし,大友氏を追って北上していきました.
 これに対し,秀吉は,畿内及び中国,四国地方の諸大名を動員して九州攻めを敢行し,その圧倒的な兵力の前に島津が攻め取った領土は瞬く間に奪還され,遂には薩摩侵攻が予想される事態になりました.

 此に於て,島津本家は秀吉に対して膝を屈することを決断,1587年5月8日,遂に島津は降伏を余儀なくされます.

 ただ,各地の国人達は簡単に降伏しませんでした.
 新納忠元や島津歳久などと共に,北郷氏も中々降伏せず,北郷時久は島津義久に対し,「庄内で一戦を交えて御家の御運を開きましょう」と直談判に及んだりもしており,北郷氏は島津とは別に独自に抗戦の構えを見せていました.

 これについて,島津義久は剃髪して,1587年5月16日,川内(現在の鹿児島県薩摩川内市)の泰平寺にて,秀吉に和を乞うた際の様子を,北郷時久に書面で伝えてきています.
 この書面で義久は,島津降伏後の処置として,北郷氏が領している大隅氏はその取扱が不安定になっており,秀吉が大隅を島津から取り上げ,これを長宗我部氏に与える考えを示しており,秀吉の考えを引っ繰り返すにはかなり難しいと申し伝えています.

 結局,他の豪族達と同じく,北郷氏も秀吉の軍門に降ることになりました.
 5月26日,秀吉から北郷氏の処遇案が島津義弘に示されます.
 それに依れば,先ず第1の条件として,北郷氏は人質を差し出せば大隅の知行を変わりなく与えるとしています.
 そして,第2に,日向国内に北郷氏が知行する1000町ばかりの所領は,別に人質を1名,島津久保と同様に詰めさせ,奉公させる事で,北郷氏に安堵する事を約束しています.

 一方で第3に,先の2つの条件に違背すれば北郷氏を攻め滅ぼす,と脅しを掛け,この為に,北郷氏の居城である都城を島津義久,島津義弘は両国の人数を総動員する他,遠征軍の豊臣秀長,毛利輝元,宇喜多秀家,大友義統,小早川隆景,吉川元長,宮部継潤,蜂須賀家政,長宗我部元親,尾藤知定,黒田孝高に命じて包囲軍を編成する.
 なお,北郷氏を討ち果たした後は,大隅の所領は島津義弘に与えると約束していました.
 そして,その包囲軍の兵糧補給は,島津家が責任を負うと命じていました.

 こうした条件を提示された結果,北郷氏は御家の滅亡を恐れ,北郷忠虎の弟である北郷忠頼と北郷三久を人質として差し出す事となり,その見返りとして,北郷氏は豊臣秀吉より直接朱印状を受け,旧領が安堵されることになりました.
 但し,その朱印状そのものは現在では残っていません.

 ただ,1590年7月19日付の北郷時久宛の島津龍伯の書状の中に,北郷氏が直接秀吉から「朱印」を受けたこと,その事により,北郷家の色々な公役は,島津家の内では無いと言う意識があると言う事が書かれています.
 即ち,北郷家が実際に秀吉から朱印を受け,この事を根拠にして島津家から独立していると言う意識を持っていたと思われ,守護の島津家に代わって,自らの領地支配に対する保障を,新たな実力者として君臨した豊臣秀吉に求めようとした動きがあった事が伺えるのです.
 こうした関係を構築しようと,北郷氏が色々と骨を折っていることが,当時の記録から伺えます.

 北郷氏の豊臣側の取次は,石田三成の兄である石田正澄が受けていたようです.
 例えば,1590年11月6日に,唐船との交易で得た品物として,北郷時久は豊臣秀吉に対し,砂糖500斤,大きな壺1つ,花入2つ,香炉3つ,茶碗大小3つ,唐金の鉢1つ,餌刺鍋1つ,金板20枚,金箔50枚を献上していますし,年代不明ですが他に味噌100樽を贈っていて,それを秀吉が大変喜んだという記録が残されています.

 また,北郷時久の息子である北郷忠虎も,石田三成を介して様々なものを秀吉に贈っています.
 例えば,1590年の1月14日には年頭の挨拶として,太刀1腰,馬代銀子3枚を贈り,11月8日には鷹1連,12月18日には音信物として紅茶30斤を贈っていました.

 この様に北郷家は,島津家中なのに半独立大名として,豊臣家との取次を行っていた伊集院家と同じく,新たな天下人である秀吉との直接的関係を志向し,積極的に行動しています.

 ところが,豊臣政権は北郷氏の思惑と異なり,大名の権力を強化して,それを梃子に全国を統治することを考えていました.
 即ち,豊臣秀吉を頂点としたピラミッド形の組織で,地方行政組織としては各々の有力大名家を中心とした領国経営を想定していました.
 それが島津家の領国に関しては,島津義弘を中心とした領国経営となった訳です.
 それは,1587年の秀吉から北郷時久・忠虎親子の朱印状に於いて,「兵庫頭(義弘)申し次第緩ぎ存ぜず相はたらき候なり」と,時久・忠虎親子に対し秀吉が,義弘の指示に従い,揺るぎの無いように働くように命じていることからも伺えます.
 つまり,豊臣政権からすると,北郷氏はあくまでも島津家中の一領主,即ち島津の陪臣と言う位置づけだった訳です.

 一方,北郷氏は秀吉から直接朱印状を貰った事を重視していました.
 何故こうした秀吉の庇護を必要としていたかと言えば,自身の家臣団統治が未だに近世的な脱皮を果たせていなかったからです.
 例えば,北郷氏は文禄検地以後に祁答院に移封されますが,この時に行動を共にした家臣は,16,000名のうち,僅かに530名でしかありませんでした.
 その中には,北郷忠虎から朝鮮出兵についての感状を受けた薗木重継が,北郷氏の祁答院移りに際し,「志和池の宰」を理由に伊集院家臣となって都城に残ったという記録も残されています.
 こうしたことから,北郷氏の家臣掌握は未だ強固なものとなっていなかったことを示しているのです.

 この祁答院移封は,文禄検地後の1595年8月に行われました.
 しかも,秀吉から島津氏への宛行状に於ても,北郷氏の名前を確認する事が出来ず,「給人分」の中に包含されてしまいます.
 そして,知行高も69,000石から37,000石へと激減しました.
 更に10月には,北郷時久の弟である北郷三久に対して,川内平佐等の知行地が与えられ,以後,三久の家系は川内平佐の領主として分家していきました.

 1598年1月26日付の知行目録に於いて,北郷氏の知行地を見ると,北郷時久の孫である北郷忠能分領として,薩摩祁答院の大村,黒木,山崎,府内,佐土,宮之城,神子,時吉,鶴田,湯田,求名,中津河,平川,紫尾,虎居,柏原,久木野,日向真幸院,薩摩薩摩郡川内の久見崎で合計21,777石2斗1升8合8勺,北郷三久分領として薩摩入来院塔之原,薩摩薩摩郡孝江,宮里,天辰,平佐,薩摩国薩摩郡市来川上,薩摩国祁答院久冨貴で11,543石2斗5升1合,更に北郷久村分領として,薩摩国祁答院蘭牟田,長野,中津河,宮之城仮屋敷の3,004石6升7合4勺となっており,合計の総石高が36,324石5斗3升7合2勺となり,元々の時久の知行地が,北郷忠能,北郷三久,北郷久村の3者に分割されてしまったのです.

 因みに,北郷三久は忠虎の弟で忠能の叔父に当たり,忠能が幼少だったことから,その後見役を務めた人物でした.
 また,北郷久村も忠虎の弟で,忠能の叔父に当たります.
 この様に,北郷氏の独立志向は封じられ,島津氏の領国内部に位置する島津家の家臣としての地位が固定化されることになったのです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/12/19 23:56
青文字:加筆改修部分

 1598年8月18日,一代の英傑であった豊臣秀吉がその生涯を閉じます.
 これを切っ掛けに,島津領国内部は不安定なものとなりました.

 当時,豊臣政権の島津担当である石田三成に対し,島津側の窓口として活動していたのが伊集院幸侃(忠棟)でした.
 しかし,幸侃は豊臣政権の目指す中央集権体制を形成する路線で進もうとしていたのに対し,在地領主層は豊臣政権に不満を持っており,その先鋒たる島津忠恒に殺されてしまいました.
 これを切っ掛けに,国許に於いて伊集院幸侃の子である伊集院忠真が,島津氏に対し叛乱を起こします.
 これが,伊集院氏が領していた北郷氏の元の領国,都城盆地=庄内を舞台に,1年に亘って繰り広げられる「庄内の乱」です.
 結果的にこの乱では,豊臣政権に不満を持っていた在地領主層の活躍によって島津氏の勝利に終わりますが,この事は逆に,中央集権的な豊臣政権の方針が否定され,島津氏は領内秩序の形成に際して,在地領主層に配慮する形での政策を余儀なくされてしまいます.

 ところで,伊集院氏が都城に封ぜられた際,入れ替わりに押し出されたのが北郷氏でした.
 その北郷氏は祁答院(現在の鹿児島県薩摩郡さつま町と薩摩川内市の一部)へ移されていたことも有り,庄内の乱では都城への返り咲きを果たす為,島津氏側について大いに活躍しました.
 その結果,庄内の乱後の論功行賞に於いて,都城への返り咲きが認められました.

 その領地は,1600年3月に,「返地」と言う形で,高25,000石余,そして,「加増」と言う形で10,000石が島津氏から与えられました.

 1600年11月23日付の島津忠恒の北郷忠能宛書簡には,大意この様に書かれています.

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 庄内は元々北郷氏代々の土地であったが,秀吉の太閤検地により秀吉の朱印が出され,伊集院忠棟に与えられた.
 しかし,忠棟には驕りが出たことから,成敗を加えられた.
 そこで,都城を始め各所を北郷氏へ返し,10,000石の加増となった.
 そして,志和池・山田・野々三谷の三箇所は「粉骨の地」として残しておいたが,北郷家がこれまで13代に及び本家に忠節を尽くしてきたので,それに感じ入って又此度の合戦での活躍の褒美として与える事にした.
 今後は更に忠節を尽くす様に.
 別に都城の家老の者には,この知行地の中から配分しなさい.
 其方は未だ幼少であるので,家老と相談しながら諸事進めるように.
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 即ち,島津忠恒から北郷忠能に都城の一部が先ず返還され,11月に志和池,山田,野々三谷の3箇所が与えられます.
 また,島津氏としては「庄内」が北郷氏の本貫地であるとの認識があった様で,庄内の乱後,最初に知行を与える際には,その土地を「返し遣わす」と表現し,更に志和池・山田・野々三谷についても,元々北郷氏の所領だったと言う事が示されています.
 この様に,島津氏は,北郷氏が以前から都城を支配する領主であった事を認めていました.

 ただ一方では,北郷氏がこれまで忠義を尽くしていること,また今後も忠節を尽くすことを条件にこの3箇所の領地を与えており,また,この知行の内から北郷氏の家老へも配分することを命じ,忠能に対して,都城の行政運営に際しては家老へよく相談して行うようにとも命じています.
 この事は,北郷家は領主である忠能1人のものでは無く,家臣との関係によって成り立っていることを諭したものです.
 更に,忠能に対し,今後色々な行事や政策は入念に行う事を指示していることから伺えるように,都城領内の運営のあり方についても島津家当主の関与が見られるようになっていきます.

 例えば,1600年5月4日には,忠能の叔父である北郷三久に対し,島津本家の家老である平田増宗,島津忠長が連署する知行宛行状を受けて,島津氏から直接高城の地を与えられていますし,11月20日には,北郷氏の重臣である北郷久観が,平田増宗や島津忠長等の連署で新たに北郷領である山田から300石を知行として与えられています.
 因みに,久観は,北郷氏第6代,北郷敏久の四男久隆の子孫で,安永地頭を務めるなど北郷氏の屋台骨を支えていた重臣でした.
 北郷氏の土地である久観に,島津本家が直接知行を与えたのは,忠能がまだ若年である為に,北郷家を存続させるには,重臣達が率先して忠能に奉公することを求めたのであり,忠能に忠節を尽くすことを条件として,島津氏が所領を北郷氏の家臣に与えていると言う形を取っている為です.

 この頃になると,島津氏の領国内部では,16世紀初頭の島津氏と北郷氏等とが対等な関係を構築してきたのとは逆に,島津氏を頂点に,島津氏→北郷氏→北郷家臣と言う序列が形成され,上位者に対し権力を集中する形になっていきます.
 確かに,庄内の乱では在地領主の力が強くなったのですが,それを上回る力を島津本家が持っていたのです.

 北郷氏の家臣に直接島津本家が所領を与え,その所領を与えた条件として,北郷家への忠節を求めたのは,北郷家の存続の為に力を尽くすことでした.
 それは即ち,島津本家による北郷氏への内政干渉を許容する事を意味すると共に,一方では北郷氏による家臣団編成に対する助力でもありました.

 此処に至ると,島津本家と北郷氏との間に主従関係が確定し,北郷氏の島津家家臣化が進んでいきます.
 この後も,島津本家は北郷氏に対して,領内政治について度々指示を行っていったのです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/12/20 23:37
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 さて,対豊臣戦も終わった1617年9月5日,やっと鹿児島島津家に対し,幕府から領地判物を下されることとなります.
 この時の石高は,60万5,607石余となっています.
 その後,鹿児島島津家は琉球の支配を石高に加えることを幕府に承認されたことから,1634年8月4日の判物では,琉球の石高12万3,700石が加えられ,72万9,000石余で表高が確定しました.

 この鹿児島島津家領内の総石高は,蔵入高と給地高の2種類に分けられます.
 蔵入高は,そこから得られる年貢諸役が島津家に直接入る高のことで,給地高は家臣に知行として与えている高で,家臣各人に属するものとなります.
 この蔵入高は,17世紀前半までは凡そ20万石,以後,1720年代以降は30万石台を上下しています.

 この様に広大な領知高を誇る鹿児島島津家の支配体制は,外城制と言う特有の制度が採られていました.
 これは領内を外城若しくは私領と呼ばれる113の区画に割り,それぞれに地頭若しくは領主を置いて支配させたものです.
 外城は島津家直轄領で,ここには藩当局から任命された地頭が配置されました.
 外城の地頭の家筋は固定されておらず,任地の異動もあると言うもので,謂わば現在の公務員のような立場です.
 但し,地頭は1630年代になると,当局の方針で任地に居住することは無くなりました.

 これに対し,私領の領主は家筋が固定しており,21の領主家が存在しました.
 これらには,「一門家」或いは「一所持」と呼ばれる家格がありました.
 彼等は島津家から一定規模の地域の運営を委任された存在であり,一定の自立性を持って領地の運営を行っていました.

 都城は,北郷家改め都城島津家が支配した「私領」となります.
 保有石高は,1612年に41,315石余,1615年には44,456石余と増えますが,1620年には30,231石に減少し,以後3万石前後を行き来し,18世紀の1728年には33,386石余,19世紀初頭の1801年には35,624石余,幕末の1868年には38,545石と,大体3~4万石前後を保有していました.
 この領域を現在の行政区分で見ると,合併前の都城市域と山田町,三股町の一部,更に飛地として鹿児島県曾於郡大崎町の一部,同じく霧島市福山町の一部などが含まれています.

 先述の様に,北郷家は1599~1600年の庄内の乱後に,祁答院(現在の鹿児島県薩摩郡さつま町と薩摩川内市の一部)から都城に復帰しましたが,移封前は都城盆地を始め,広大な領地を持っていましたが,復帰後直ぐに返還された領地には志和池,山田,野々三谷は含まれておらず,11月に与えられました.
 1611年には志布志の夏井村229石1斗5升5合が加増され,1612年6月付の知行目録を見ると,都城,高城,勝岡,山之口など41,315石1斗7升を領しています.

 その後,1614年に島津家久が家中に四分の一上知令を出し,都城島津家は高城,勝岡,山之口の3,626石余を献上しましたが,慶長内検後の1615年には,44,456石4斗4合3勺が与えられています.
 この時の支配領域は減少しているのですが,石高が増加しているのは前にも見たように,九公一民の採用など苛酷な石高の増加が慶長内検で行われたことと,太閤検地による家臣団の不満を緩和する目的で高の操作を行った事から起きた現象だったりします.

 とは言え,折角の石高上昇も,上洛や出府による出費や江戸藩邸の火災による再建費用などが重く伸し掛かり,島津家の財政は更に悪化,蔵入地の増加を図るため,藩政当局は1619年には再び上知令を出し,これに伴って,1620年の都城島津家の石高は30,231石に減少しました.
 以後も上知令が繰り返され,それにつれて都城島津家の石高も減少の一途を辿っていきます.
 それが下げ止まったのは,都城島津家が領内の生産力向上を目指して,灌漑施設を整備したり,新田開発を積極的に行った為でした.

 この都城の石高も,宗家と同様に蔵入高と給地高に大別できます.
 1637年時点の「惣高目録」では,惣高30,411石1斗3升2合の内,蔵入高が15,672石6斗6升8合で,その他領主の内儀方(私用)高を合わせると19,230石9斗6升9合と,惣高の63.2%を占めています.
 残りが給地分となります.
 また,享保内検後の1728年の「御蔵・給地目録」では,惣高33,386石8斗8升8合3勺2才の内,蔵入高が20,287石1斗8升4合4勺5才で惣高の60.8%を占め,残りが寺社や家臣への給地高となっています.

 この様に,陪臣と言えど都城島津家は,石高的に見れば近隣諸大名と大した違いの無いことが判ります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/12/23 22:47
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 土持親成について教えてください.

 【回答】
 土持親成(つちもち・ちかしげ)は,戦国時代,日向国北部を領した武将.
 生年不詳.
 県土持氏は,日向国北部縣(あがた)を中心に栄えた,平安時代以来の名門だが,親成は歴代当主の中でも,稀にみる文武両道に優れた名将と評されていた.

 さて,土持氏は室町時代以来,伊東氏との間で領土争いを繰り広げていた.

 親成は当初,大友宗麟に臣従したが,伊東氏衰退に伴う島津氏の日向への本格的進出や,大友家中の混乱により,親島津・反大友に傾斜.
 天正5年(1577年)12月10日,島津氏の調略によって,日向国が島津氏の一円支配に入ると,翌天正6年(1578年)1月2日,親成は島津義久と結び,大友氏から離反.
 義久によって石塚,三ケ名を宛がわれた.

 しかし,伊東義祐らの要請により,同年3月15日に大友宗麟は兵力3~4万をもって日向国へ侵攻.
 これに伊東旧臣が呼応して,門川方面から縣に攻め込み,石ノ城に潜伏中の長倉祐政も蜂起.
 これにて,土持・島津間の連絡線がほぼ途絶.
 同年4月10日,松尾城は陥落.
 親成は捕縛され,豊後国への移送中に豊後浦辺にて自害させられた.

 なお,これらの戦闘において,キリスト教による理想国建設をめざしていた大友軍が,縣領内の神社仏閣をことごとく焼き払ったため,寺社建築・仏像・古文書など宮崎県北の文化財が,ことごとく破壊・破脚され,宮崎県北部地域の近世以前の一次史料は,ほぼ喪失している.

 ちなみに,『歴史群像』の島津三州統一戦読んでいて一番ワロタなのが,土持氏を討伐に行くときの大友ソーリン.
「光栄あるサン=フランシスコの祝日,王は夫人ジュリヤと共に土持領に向け出発せしが,その乗りたる大船には,白緞子に赤き十字架をかけ,錦繍を施したる旗を翻し,また多数の十字架の軍旗を並べ,同船の武士は青年も老いたる者も皆ロザリオ及び彫像を宗に懸けいたり」(フロイス)

 どこの十字軍?

 【参考ページ】
http://www.harimaya.com/o_kamon1/buke_keizu/html/tutimoti.html
土持親成 | 豊後大友理想郷伝説
http://www1.bbiq.jp/shima6/sunbyo_g.html
http://www.wainet.ne.jp/~tenmei/jyokaku5%20matuo.html
http://sengokubusho.info/ta_file/tu/tuchimochi_chikashige.html

漫画板,2013/05/15(水)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 あるHPで,
「1575年3月29日
 島津義久が琉球使節に対し,島津氏の使僧が粗略な扱いを受けたことなどを詰問,両者の関係が悪化する」
と紹介されていたのですが,ぐぐってもこの事件の概要すらはっきりしません.
 何が原因でこんなにもめたのか?
 事件の経緯はどうだったのか?
 沖縄史には全く疎いので,皆様のご教示お待ちしてます.

 【回答】
 いわゆる「紋船(あやふね)一件」.
 琉球との貿易を印判(朱印状)の発行で管理しようとする薩摩島津氏と,それを敬遠する琉球が対立した事件.
 紋船とは琉球が薩摩に派遣した官船で,舳先に青雀黄龍の装飾がされていたためこう呼ばれた.

 印判をめぐる両者の対立は以前よりあったのだが,この時は島津氏が紋船を,当主の代替わりごとに派遣して慶賀すべしと主張したこともあって,問題はいっそう深刻になった.

 事件後,島津氏は制裁措置として,商船の琉球渡海を禁じた.
 これにより,琉球は朝貢貿易によって買い取った唐物を捌けなくなった.
 他国へ売ろうにも売ることが出来ない.
 琉球はかつて東南アジア方面にも販路を持っていたのだが,16世紀以降ポルトガルや倭寇の進出により貿易は不調となり,1570年を最後に断絶してしまっていた.
 つまり当時の琉球は,日本(薩摩)との交易に頼らざるを得ない状況にあり,その足元を見た薩摩が高圧的な姿勢に出たわけだ.

 結局,近々に冊封(とそれに伴う貿易)をひかえていた琉球は屈服し,毎年のように薩摩へ使者を送って商船渡航を要請するほかなかった.
 また,国王から島津氏への書状や進物もいっそう丁重となり,経済政治両面での薩摩の優位がほぼ確定することになった.

日本史板,2004/04/03
青文字:加筆改修部分


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