c

「戦史別館」トップ・ページへ

「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ   サイト・マップへ

◆1800〜1854年
戦史FAQ目次


(画像掲示板より引用)


 【Link】

『Cavalry』(Nolan著)

 19世紀半ば,クリミア戦争で有名な軽旅団の突撃で戦死した英軍騎兵将校の書く騎兵論.
 当人が軽騎兵連隊の者なので,胸甲騎兵やランスには否定的.
 著書の構成,章立ては,今の野戦教範のように整っては居ないが,単純な動作要領,隊列運動要領を超えた,なぜかくあるべきなのかという論考が多く参考になる.

 ただし,隊形に関する用語などが今一つ把握できていないため,何を意味しているかは不明.
 open column 等々を良く調べておく必要あり.

 東欧の騎兵連隊での勤務経験も著作には生かされており,さらにインド連隊の話も盛り込むなど,著書の基礎にある経験は豊か.

――――――軍事板,2009/07/24(金)

「ザイーガ」:【画像】クリミア戦争時の古写真(1854年〜1856年)

幸町文化会館(ネルソン提督)

「それにつけても金のほしさよ」◆やる夫が鉄血宰相になるようです

『世界諸国の制度・組織・人事1840-2000』(秦郁彦編,東京大学出版会,2001)

 秦先生の労作.
 1840年から2000年までの世界中の人事やらなにやらが全部載っているという,恐るべき書物.
 どのページを繰っても部署名と人の名前がびっしり.
 各国の略史も載っているので知らない国でも安心.
 ただし資料収集が間に合わなかったのか,バルトの小国等の軍司令官名が載っていないのは惜しい.
 とはいえ研究者必携.
 人事フェチ必携.
 ついでに「1979年のアルゼンチン陸軍総司令官の名前はロベルト・エドゥアルド・ビオラっていうんだぜー」と地味な知識自慢をしたい人も必携.

 あ,欠点を書き忘れていた.
 定価で三万円もする.

------------軍事板,2002/10/09

『ハプスブルク帝国の鉄道と汽船: 19世紀の鉄道建設と河川・海運航行』(佐々木洋子著,刀水書房,2013/8/20)

『北清事変と日本軍』(斎藤聖二著,芙蓉書房出版,2006.5)


 【質問】
 19世紀のポスト・ナポレオンな軍事史を扱った本ってありませんか?
 クリミア戦争からボーア戦争まで,何でもかまいませんので…
 南北戦争に関しては,「49の作戦図で読む詳細戦記」という書籍が,絶版ながらあるようなのですが.

 【回答】
 ボーア戦争なら,岡倉登志さんのそのものずばりのタイトル『ボーア戦争』がありますかね.
 後,もう少し待てば,『戦闘技術の歴史・4』が出ると思いますが.
 んでもって,19世紀のプロイセン徴兵制については,阪口修平と言う人の『歴史と軍隊』と言う本が,最近出ていますね.
 同じ作者で,『軍隊(近代ヨーロッパの探究)』とか,ラルフ・プレーヴェの19世紀ドイツの軍隊・国家・社会』なんてのも…
 最近多くなったような気がする.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板,2010/11/01(月)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 アメリカ人がコーヒー党になったきっかけは米英戦争?

 【回答】
 米国民の嗜好品として有名なのがコーヒーであり,映画ではカウボーイが焚火でコーヒーを沸かしていたり,兵士がブリキのカップでコーヒーを飲んでいるシーンが良く出て来ます.
 元々,米国は英国の植民地だった事もあり,紅茶の国でした.
 確かに,独立戦争前にはボストン茶会事件などと言うものも起こしましたが,それでも英国様式の生活を捨て去った訳ではなく,英国製品は米国人にとって,ステータスシンボルとして存在していました.

 それが変化したのは,1812年から始まった米英戦争です.
 丁度この頃に欧州ではナポレオンの軍隊が大陸を席巻し,英国は孤立を深めていました.
 英国は,大陸諸国,特にフランスの交易を妨害する為に,優勢な海軍力を用いて海上封鎖を実行します.
 この時,米国は中立を宣言していたのですが,フランスなど欧州諸国との貿易に打撃を受け,英国海軍の厳しい臨検に不満が高まった結果,英国との間に戦端を開きました.
 この為,英国の製品も輸入が途絶し,紅茶が不足した事から代替品が模索される事となり,眼を付けたのが,丁度その時期に欧州諸国から独立を果たし始めていたラテンアメリカ諸国から輸出されるコーヒーだった訳です.

 1820年代にはブラジルのコーヒーが,少しずつ米国に出回り始めました.
 今までアラビアやアジア諸国と言った遠方の地で生産されていた,高価で少量しか手の入らなかったコーヒーが,つい眼と鼻の先から送り出され,輸送賃が安い上に大量に生産された事から,安価であり,紅茶に代わって米国人の嗜好を変える事になりました.
 それにつれて,コーヒーを入れる為のパーコレーター,ドリップ器具,磁器や金属のポットも作られる様になっていきました.

 そうして1823年,モンロー大統領は次々に独立を達成していたラテンアメリカ諸国の歓心を買う為,ラテンアメリカ諸国の主権を擁護する宣言を発表しました.
 その中でモンローは,南北アメリカを一括りにして「我々」と表現し,欧州諸国の西半球への植民地回帰の動きを牽制します.
 一方で,米国はラテンアメリカ市場を独占するという野心を抱き,かつ,西方への開拓を進め,自領を拡大していく事になります.

 その西部への開拓者達にとって,コーヒーと言うのは冷えた身体を温め,疲れた心身を癒す代物でした.
 彼らはコーヒーの生豆をフライパンで煎り,すり鉢と擂粉木で挽き,強烈な苦味が出るまで焚火で煮立て,ミルクや砂糖を入れて飲みました.
 当然,こうした乱暴な入れ方では,滓が表面に浮かぶのは避けられないので,卵,鰻,鱈などを混入する場合も有ったと言います.
 1830年には米国は約17,417トンのコーヒーを輸入し,国民一人当りの年間消費量は約3ポンド,即ち1杯のコーヒーに10〜12グラムのコーヒー生豆を使うとすると,3日に1杯のコーヒーを飲んでいる計算になります.
 但し,コーヒーは幾ら安価になったとは言え,未だ未だ貧乏な庶民が口にするのには程遠い嗜好品でした.

 そのコーヒー飲用が庶民にまで広がるのは,南北戦争まで待たねばなりません.
 南北戦争時,米国全体のコーヒー消費は減少しました.
 北の政府を率いたリンカーン大統領は,ニューオーリンズなど南部の諸港を封鎖して,輸入されるコーヒー豆に課税し,南部に於けるコーヒーの自由売買を阻害しました.
 一方で,北軍はコーヒーを大量に買い取り,戦地の兵士を活性化させる目的で配給したので,兵士の多くがコーヒー飲用を習慣化しました.
 因みに,北軍が配給した兵士1人当りのコーヒーの割当量は,1日コーヒー4杯分に当る0.1ポンドで,年間に直すと,1830年の12倍以上の36.5ポンドに達しています.
 各中隊では,料理番は携帯用のコーヒー・ミルを持ち歩き,銃後では自動焙煎機の開発も進められていきます.
 そして,復員した彼ら兵士こそ,黎明期のコーヒー業界にとって重要な顧客となるのです.

 1870年代に入ると,コーヒー生産国はブラジルを筆頭に,コロンビアやグアテマラもコーヒーの増産体制に入っていきます.
 そして,世界中に大量にコーヒーが供給される事になり,更に輸送,焙煎,包装などに技術革新が行われてコストが削減される様になると,遂に庶民に手の届くところまで降りてきました.
 1870年のコーヒー輸入量は約104,953トン,一人当りの消費量も40年前の倍である6ポンドとなり,3日に2杯のコーヒーを飲んでいる計算になりました.
 この数字は世紀末まで上昇し続け,1880年代までにその消費量は,平均的な欧州人の実に6倍に達しました.
 そして,1876年には米国のコーヒー輸入量は,世界のコーヒー輸出量の凡そ3分の1を占め,その4分の3はブラジルから輸入されています.
 この頃には中西部にも愛好者が広がり,下層農民や都市労働者も,コーヒーを飲む人々が増えていきました.

 コーヒーが大衆化するにつれ,従来,ニューヨークやボストンを中心に高価なジャワ・コーヒーを輸入する事で利益を上げていた大手輸入業者の力が弱まり,大手焙煎卸売業者の力が高まっていきます.
 これら焙煎卸売業者の代表的なものとして,
シカゴには「エイト・オクロック」ブランドのグレート・アトランティック・アンド・パシフィック・ティー社が,
ピッツバーグには「アリオサ」ブランドのアーバックル兄弟商会が,
サンフランシスコには「フォルジャーズ」ブランドのフォルジャー商会と,初の真空瓶詰めコーヒーである「ヒルズ・ブラザーズ」を手がけるヒルズ兄弟コーヒー社が,
ボストンには高級ブランドの「スタンダード・ジャワ」を有するチェイス&サンボーン社が
有名です.

 こうして各々の大都市を拠点に,周辺地域や他の大都市へとコーヒービジネスを展開していき,特にA&P社は100以上のチェーン店で,安価なコーヒーを販売する事でコーヒーの大衆化に貢献しました.
 これらの業者は,或いは衝突したり,或いは連合したりしながら,米国に大量のコーヒーを流通させ,ラテンアメリカで生産されたコーヒーはこうした業者を通じてブランド化され,米国の消費者に販売される様になっていき,米国人の燃料となっていった訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/06/15 22:26

 19世紀末に掛けて,米国の国力が増し,1898年にスペインと戦争して,フィリピン,グアム,キューバ,プエルトリコを支配し,ハワイを併合していよいよ海外進出を本格化させていきます.
 当然,その方向はアジア方面に限らず,「裏庭」であるラテンアメリカにも向いています.
 米国人の自称「愛国者」達は,自国のこうした海外膨張政策を正当化し,米国の制度や文化を途上国の人々に普及させる事が,「優秀なるアメリカ国民の使命」であると思っていました…
 つい最近もこんなフレーズを聴いた様な覚えがありますが(苦笑.

 時に19世紀後半になると,コーヒーの需要と供給の関係が逆転し,供給の方が需要を上回り,市場価格が乱高下を繰り返す様になりました.
 従って,従来,ニッチな市場を模索して生き延びていた中小コーヒー業者は生き残りが厳しくなり,一定量のコーヒーを確保し,ある程度の値段で売って利益を捻出する工夫が必要になりました.
 その安全弁の役割を果たす様になったのが,1880年代前半に設立されていたニューヨーク・コーヒー取引所で,此処で米国で販売されるコーヒーの輸出入を管理し,市場価格の乱高下を防止する働きを持つ様になります.

 一方,コーヒーが売れ出すと,それを眼の敵にする2人の男が出て来ます.
 1人は,代用コーヒー「ポスタム」を販売したチャールズ・ポストであり,もう1人は,砂糖トラストの「帝王」と呼ばれたH.O.ハヴマイヤーです.

 ポストはコーヒー不健康説の急先鋒となり,1895年に種々の穀物から作った代用コーヒー「ポスタム」を販売して,20世紀初頭には150万ドルを売り上げました.
 彼の会社,ポスタム・シリアル社は,「それには理由がある」などの決まり文句,地元びいきの広告戦略,ダイレクトメールを駆使して,「コーヒーは有毒アルカロイドであり,脳の組織を確実に破壊する」などと宣伝し,その飲用を止めて健康的な「ポスタム」に切り替えよう等と宣伝して,丁度健康志向の高まりも相まって,爆発的に売れ,更にポストはグレープナッツやコーンフレークと言った健康食品を売り出してコーヒーの有力な対抗馬に成り仰せました.

 もう1人のハヴマイヤーの方は,大手コーヒー焙煎卸売業者のアーバックル兄弟商会の代表ジョン・アーバックルが,独自に袋詰した砂糖を販売して,ハヴマイヤーの権益を侵した事に腹を立て,アーバックル兄弟商会に宣戦を布告しました.
 1896年にアーバックルが製糖所を建設すると,ハヴマイヤーは有力な焙煎業者を買収し,アーバックルに当てつけて異常な低価格でコーヒーを販売すると共に,アリオサ・ブランドの違法表示を指摘して,アーバックル兄弟商会へのネガティブ・キャンペーンや,訴訟を繰り返しました.
 しかし,既に米国市場の6分の1を抑えていたアーバックル兄弟商会の優位は揺るがず,結果的にハヴマイヤーは甚大な損害を抱えて,20世紀初頭に降伏する事になりました.

 1900年になると,米国は約339,956トンのコーヒーを輸入し,米国人1人当りの消費量は13ポンド,3日で4杯のコーヒーを飲んでいる計算になります.
 1870年に比べると輸入量は3倍以上,個人消費量は2倍以上に増え,これは年間1人当り16ポンドを消費していたオランダ人に次ぐ数字になりました.

 その20世紀の最初の年,1901年はブラジルにとってコーヒーは記録的な豊作となりました.
 その為,世界全体のコーヒー生産量は消費量の2倍に達しました.
 当然,需給関係のバランスが崩れていますから,コーヒー価格は1ポンド当り6セントにまで急落し,生産国の生産者は翌年の生産が出来ず,危機的な状況に追い詰める事になります.
 ニューヨーク・コーヒー取引所は,1902年,「コーヒーの生産と消費を考える国際会議」を開催し,コーヒーの供給過剰問題や低価格改善の豊作を模索しましたが,成果は得られませんでした.

 一方,同じ時期に,カフェインを薬物と見なして,商品広告やラベルでの適正表示を求める食品法改正運動が高まりました.
 それまで,コーヒーはカフェイン飲料の代表格であるにも関わらず,ラベルに成分を表示せずに,チコリやドングリ,下手をすればおが屑が混入されていたコーヒーが,コーラと並んで批判の矢面に立たされています.
 こうした状況では,業者が結束して広告キャンペーンを行う必要がありましたが,焙煎業者と輸入業者,あるいは企業間の競争や対立が激しく,とてもそうした結束を維持出来る状況にありませんでした.

 こうした状況の最中,1908年,コーヒーの低価格と資金不足に苦しんでいたブラジル・コーヒー局は,ドイツ系アメリカ人の大資本家であるハーマン・ジールケンを介して,英国やドイツの銀行から7,500万ドルの融資を受けました.
 当然,その見返りとして,彼はアーバックルなどのコーヒー業者と連携しながら,ブラジル産のコーヒーの管理・販売権,ブラジル側の諸費用負担など自分達に圧倒的に有利な条件を呑ませ,彼はその特権を悪用して,サントス,ニューヨーク,ハンブルクの倉庫に保管した大量のブラジル・コーヒーを操って,相場を操作して高値で売り捌くなど,コーヒー市場を独占しました.

 勿論,自由主義を標榜する米国国民がこの横暴を黙っている訳もなく,世論が騒いだ為に遂に司法省が動き,司法省はこれを不正な「コーヒー・トラスト」による所行と見なして,法的な措置を検討すると共に,マスメディアもコーヒー業界を「強盗団」や「ペテン師」と呼んで攻撃を開始.
 そして,こうした原因を作ったのは,
「腹黒いブラジル人がコーヒーの価格を意図的につり上げ,米国の消費者をカモにしているからだ.
 ブラジルこそ諸悪の根源である」
であると考えた者も多くなりました.
 司法省は彼を審問しましたが,彼曰く,
「自分達のビジネスが合法で,自分は貧しいブラジル人を救済する委託販売業者である」
と胸を張って主張して,追究の手を逃れました.
 これに対し,司法長官は訴訟に踏み切り,ニューヨークの倉庫に備蓄されたコーヒーの押収を狙います.

 ところが,これにはブラジル政府が待ったを掛けました.
 倉庫のコーヒーはサンパウロ州の所有物であり,融資の担保として預けてある為,米国世宇府にそれを没収する権利はないと言う論理で抵抗したのです.
 司法省は,コーヒーへの課税をちらつかせますが,逆にブラジル政府は米国の小麦粉に対する,30%の特恵関税を廃止すると表明したので,米国の小麦輸出業者がブラジルとの関係改善を,議会に陳情する事態になりました.

 結局,米国政府と議会が小田原評定をしている内に,ジールケン等は貯蔵コーヒー300万袋をまんまと売り抜けたのでした.
 とは言え,悪い事は出来ないもので,その利益の凡そ3分の2は,第1次大戦勃発後のドイツの銀行で凍結されてしまい,大戦後のヴェルサイユ条約で,その資金の多くがブラジルに返還される事になりましたが….
 しかしこの出来事により,米国人達がブラジルに抱く反感は,1930年代まで無くなる事はありませんでした.

 多くの米国人は,自分達の食文化が「悪のコーヒー王国」ブラジルによって攻撃されていると感じていたのです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/06/16 22:57

 さて,先日はブラジルを眼の敵にした米国の話をしましたが,それでブラジル産のコーヒーを排除したかと言えばさに非ず.
 1914年の段階でも,相変わらず米国で消費されるコーヒーの4分の3に当る337,322トンは,未だにブラジルから輸入されていました.
 因みに,ブラジル,コロンビア,中米諸国の上質コーヒーの多くはドイツ系商人の手に握られており,ドイツのハンブルク,フランスのルアーブル,ベルギーのアントワープ,オランダのアムステルダムを通じて欧州へと輸出されていました.
 ところが,米国にとってこの状態をひっくり返す好機がやってきます.

 言わずと知れた第1次世界大戦です.

 ラテンアメリカのコーヒー生産者は,ドイツ商人が足止めを食らい,欧州へと商品を輸出出来なくて困窮していました.
 そこへつけ込んで行ったのが米国人です.
 1915年,早くもカリフォルニア州がドイツに代わって最大のグアテマラ・コーヒーの買い手となりました.
 この他,米国人商人達はこれらの地でコーヒーを買付け,自国だけでなく北欧に高値で輸出しています.
 北欧諸国がそんなにコーヒーを消費した訳でなく,北欧のダミー会社を通じてドイツがコーヒーを買い付けるのに手を貸していた訳です.
 1917年に米国が連合国側に立って参戦すると,敵国ドイツの資産を没収する法律を制定し,ラテンアメリカからドイツへのコーヒー輸出路を封鎖するなどをして,ドイツが持っていたコーヒー権益を奪取する目論見を持ちます.
 とは言え,裏では前述の様に,ドイツに入るのを承知で,北欧を経由する輸出をしている訳ですが….

 また,米国政府はブラジル政府から大量にコーヒーを買い取り,ブラジルに於けるドイツ人商人の影響力を排除すると同時に,ブラジルの対ドイツ参戦を取付ける事に成功しました.

 この米国参戦により,再び戦場の米国兵が塹壕で愛飲したのがコーヒーです.
 特に戦地で重宝されたのが,お湯を注ぐだけで飲めるインスタント・コーヒーで,ジョージ・ワシントン社(米国初代大統領の子孫と称する人物が経営していた)の即席コーヒーは,兵士達から愛情を込めて「ジョージ」と呼ばれ,戦地で人気を博しました.
 ジョージ・ワシントン社は,戦中は元より戦後も,自社コーヒーが米国兵と共に敵国と戦ったとする愛国的な宣伝を行いましたが,米国人の嗜好は,再び質の高いコーヒーを求める様になった為,一般消費者には受け入れられませんでした.

 こうして,ドイツとの戦争は1918年に終結するのですが,再び米国国民とブラジル政府との戦争が勃発します.

 大戦によって封鎖されていたラテンアメリカ諸国から欧州への輸出が再開されますが,ブラジルは,その欧州市場の復興とコロンビアや中米諸国のコーヒー取引増加に懸念を感じて,コーヒー価格を引上げ始めたからです.
 しかも1919年に,米国で禁酒法が成立し,アルコール飲料の代用品としてコーヒー飲用が増加すると見込んだ事も,ブラジルの生産業者及びその生豆を輸入している米国のコーヒー輸入・焙煎・卸売業者を強気にさせました.
 更に,ブラジルは資金を米国側に提供し,米国の焙煎・輸入業者がコーヒーの宣伝・広告活動に力を入れ始めたのもこの頃です.

 1918年に1ポンド12.1セントだったコーヒー価格は,1920年までに24.8セントと倍以上に高騰し,再び反ブラジル感情に火を付ける事になります.
 この価格高騰が影響して,1920年代初頭,米国は1900年の倍になる666,785トンのコーヒーを輸入しましたが,国民1人当りの年間消費量は5.13キログラムとなり,1日1杯を呑んでいる計算ですが,これは1900年次を下回っています.

 こうした状況に危機感を強めた焙煎業者と輸入業者は業界団体を統合して,全米コーヒー協会(JCTPC)を作り上げました.
 この組織は「コーヒーによる利益を守る」と言う共通目的の為に,大規模な宣伝・広告キャンペーンを相次いで打ってきます.

 ところで,1917年にボストンで行われた調査では,チコリなどを利用した伝統的な飲み物こそ飲用されなくなったものの,コーヒーを毎日飲んでいるのに対し,紅茶も週5回飲んでいると言う結果が出ています.
 未だコーヒーは,米国を代表する「国民的飲物」ではなかったのです.
 そこで,JCIPCはコーヒーを「国民的飲物」として,心理学的,文化的に米国へ定着させる為に,議会にコーヒー業界のロビー政治家を送り込むと共に,ビルボード,ラジオ,新聞,雑誌,映画と言ったメディアを駆使したキャンペーンを展開しました.

 この頃の宣伝活動にはいくつかの特色がありました.

 1つ目は,職場でのコーヒー飲用を習慣づける,「コーヒー・ブレイク」概念の創出と普及が挙げられます.
 最終的に,この「コーヒー・ブレイク」は1952年に200万ドルもの予算を使った,コーヒー業界の宣伝キャンペーンによって創り出され,自動販売機の普及と共に米国社会に定着するのですが,その萌芽は1920年代に見られる様になっています.
 既に1912年,JCPICの前身団体である焙煎業者の団体NCRAが,コーヒーと労働生産性の研究に資金を援助した上で,「コーヒーは肉体的労働と精神的労働両方の能力を高める」と公言していましたが,1920年代にはこの説は社会的に認知され,休憩時間にコーヒーを飲む為のコーヒー・ステーションやカフェテリアが会社や工場内に設置されていきます.

 2つ目は,当時のジェンダー関係を巧妙に利用していました.
 片や,第1次世界大戦をきっかけに社会に進出し始めていた女性達に着目し,「ややこしい問題もなく,料理をする事もなく,無駄な時間を使わずに準備出来る」インスタント・コーヒーを宣伝していました.
 一方で,こうした自立する女性に批判的な保守主義者に対しても,男性の為にコーヒーを準備する女性イメージを宣伝に利用していました.
 つまり,「三歩下がって夫の影を踏まない」慎ましやかな女性が入れるコーヒーこそ,疲れて帰ってきた夫を癒すのだなどと宣伝した訳です.

 3つ目は,医学雑誌などで「科学的」にコーヒー不健康説に反駁し,その医薬的な効果を強調した事です.
 その為,1921年にJCTPCは元米国陸軍の軍医総監で,マサチューセッツ工科大学の細菌工学教授を務めていたサミュエル・スコットを雇用し,彼はコーヒー不健康説を一蹴して,
「コーヒーは,正しく準備され,正しく飲用されるなら,快適さとインスピレーションをもたらす飲物であり,文明の破壊者と言うよりは,寧ろ文明の奉仕者である」
と断言しています.
 またJCTPCは,コーヒーの効能を評価する英国の医学論文を引用し,コーヒーは「煙草と相性の良い知識人の飲物」だと宣伝しました.
 これは一般の労働者や農民よりも,食の健康問題や効能に敏感な知識層のコーヒー飲用を促進する為のものでした…
 今なら袋だたきに遭うか,一笑に付される代物ですが.

 4つ目として,公立学校で子供向けのコーヒー・キャンペーンを実施した事です.
 これは,米国の子供にコーヒー飲用を習慣づけさせ,一生涯コーヒーを購入するお得意様に仕立て上げて,更にその子孫をもコーヒー漬けにしようとした訳です.
 これについては,ロビー政治家を議会に送り込み,献金を通じて中学校の管理者達を抱き込んで,「滋養食品としてのコーヒーの価値」を教え込もうとし,更に思春期の大人に憧れる子供の心理を巧みに突いて,子供達に「大人の飲物」であるコーヒーを広めようと画策しました.

 5つ目は,コーヒーを飲む事が,後進国を貧困から救済する行動であると言うイメージを流布した事です.
 これは,第1次大戦で世界の富を一身に集めた米国こそ,世界の民主主義と経済の促進を図る主役であると思う人々も少なくない事に着目したものです.
 特に,コーヒー焙煎業者の幹部達は,南北両アメリカ大陸は経済的な相互依存関係にあると指摘した上で,
「コーヒーに対して支払われる多くの金は,米国から持ち出されてしまうのではなく,ラテンアメリカ諸国に対する米国の輸出量増加という形で,米国に残り続ける」
と言った主張をしていました.
 つまり,米国の消費者がコーヒーを買う事でラテンアメリカ諸国は豊かになり,やがて彼らは米国の工業製品の消費者へと成長するのだと言う論理です.
 最後のこれは,米国人の反ブラジル感情を軟化させる為にも繋がる,一石二鳥のものでした.
 マスメディアは,業界の資金を受けて,ラテンアメリカをエキゾチックな熱帯イメージを流布し,米国人がこれらの国に経済支援を行う事は,「文明化の為の十字軍」であるとも表現されました.

 こうして様々なイメージを纏ったコーヒーは,米国の「国民的飲物」に成り仰せた訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/06/17 22:06


◆1816-1894年


 【質問】
 イシドロ・スアレス大佐とは?

 【回答】
 1824年,ペルーのフニンの激戦で有名を轟かした軍人.
 独立間もないアルゼンチンを20年近く支配した独裁者ロサス将軍の又従弟.

 ちなみに作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスの母親レオノルは,このスアレス大佐の孫.

(J. L. ボルヘス Borges 「伝奇集」,岩波文庫,1993/11/16, p.265)


 【質問】
 「33人のウルグアイ人」とは?

 【回答】
 ウルグアイ史における最大の英雄達である.
 1825年,ラバジェ将軍に率いられた彼らは,ウルグアイ川を渡ってブラジル側の大軍を繰り返し撃破し,その支配を逃れた.
 彼らは独立してオリエンタル州臨時政府を結成したが,後にリオ・デ・ラ・プラタ州連合に加わった.

(J. L. ボルヘス Borges 「伝奇集」,岩波文庫,1993/11/16, p.256訳注)


 【質問】
 明治維新以降の,日本の陸地測量の歴史を教えられたし.

 【回答】
 以前,海図の話を書いたのですが,地形図に関しては,日本独自の発展を遂げていました.
 その精巧な地形図を作ったのは,例の「百万歩の男」伊能忠敬です.
 彼が測量し,作成した地形図は,彼の死後,1821年に高橋景保等によって伊能図が編集作成されて,幕府に納められました.
 これは部外秘になっていたのですが,1828年にシーボルトと高橋景保との間に地形図の交換が露見,所謂シーボルト事件により,国外に流出してしまいました.

 この地図は1852年,『シーボルト日本地図』として刊行されています.
 そして,程なくして開国.
 そうした中,1861年に英国海軍が日本沿岸の測量を申し出てきました.
 この申し出には,陸地に関する部分も含まれていたのですが,幕府は伊能図を見せて,その必要はないと陸地の測量を断固拒否.
 英国海軍側も伊能図の正確さに舌を巻き,陸地に関する部分の測量を諦めたと言います.

 そして,明治維新.
 1869年に新政府は民部省を設置し,その下に戸籍地図係を設けて,全国の測量と戸籍調査を開始しました.
 兵役制度を施行する為にも,日本の人口の把握する事,そして,交通の近代化に必要な鉄道敷設の為に,国内の精密測量が必要とされた訳です,
 1871年には,英国人マックウェンを測量師長として5名の御雇い外国人を招聘し,測量技師の養成と指導に当らせ,他にも米国,フランス,ドイツと言った列強の協力を得て,様々な測量技法を学んでいきます.

 先ず,工部省測量司の手によって,東京府下の三角測量を開始し,皇居富士見櫓を第一点にして13点の三角点を設置,基線を本所相生町通り,現在の両国回向院前に設定し,市街地の測量を開始しました.
 その後,1875年からは関八州の測量に着手しました.
 その間,1874年の機構改革で,内務省に地理寮と測量司が設置されて,工部省測量司の業務は内務省に移管され,1877年には2つの機構は地理局として組織が改められ,5,000分の1東京実測全図が完成します.

 一方,軍としても,作戦の際に地図は欠かすことが出来ません.
 1871年に兵部省に,陸軍参謀局間諜隊を創設します.
 この部隊の任務は,「平時に於いては,地理の偵察,調査と地図の編成作製を行う」事を任務とし,中佐を隊長として任命しました.
 1872年に兵部省は陸軍省と海軍省に分割され,地形図作成作業については陸軍省に機能が渡され,海軍省は水路部という海図作製主体の部署が新設されました.

 因みに,この地形図と海図,敗戦間近い頃に本土決戦を覚悟して米軍の上陸地点を予想する為,陸軍の地形図と海軍の海図を合わせて軍事極秘地図を作製するまで,両者が会合する事は全く無かったと言います.

 1873年以降,陸軍は主として軍事要地の測量を開始し,合わせて兵要地図の作製を開始しました.
 こうした動きは,1877年の西南の役で加速され,この時に陸軍参謀局陸地測量部では九州を重点的に測量し,「西南の役図」「九州全図」を作製して軍用に供しました.
 この時の原版は銅板だったそうです.
 この西南の役の結果,戦争には地図が必要であると言う,基本的なことが再認識されるようになります.

 1878年に参謀局が廃止され参謀本部が設置されると,参謀本部内に地図課と測量課が置かれ,戦争に必要な地図を作る組織が整えられました.
 そして,1881年には全国地図作製基本計画が成立し,全国測量が開始されました.

 最初の地形図は,1880年参謀本部の「軍管地方二万分の一迅速測図」,最初の海図は以前触れましたが,1872年の兵部省海軍水路局の「陸中国釜石港之図」でした.

 1888年5月には参謀本部内で陸地測量部が発足し,初代部長に小菅智淵工兵大佐が就任し,海軍の英国式海図作成法に対し,陸軍はドイツ式測量技術による地図作りを主体にしていきました.

 時代は下って,1931年,満州国が成立するとその基本測量が急務となり,測量技術者養成に注力し,1934年3月,満州や中国大陸を統括する為に,関東軍測量隊を編成して派遣しました.
 一方,戦時色が濃くなっていくと,国土防衛上,秘密保持や軍事極秘を要する土地,建物,施設などを地図上で艤装するようになりました.
 これを戦時改描と呼び,都合の悪い所は改竄したり,塗りつぶしたり,消してしまったりしました.
 こんな小手先の事をしたとしても,その後の空襲では何の役にも立っては居なかったりしたのですが.

 1937年7月7日,日中戦争が勃発し,大陸各地へは多くの測量隊が派遣され,100万分の1外邦図や兵要地図が作られ,1938年には地図に対する検閲と統制を強化する為に「陸地測量部防諜規定」を制定します.
 しかし,多くの民間出版社が手がける地図を全て統制することが難しく,結局,1940年11月1日,地図作製,検閲,販売の規制を強化する為に,その一元化をすべく,日本統制地図を設立しました.
 但し,地方での一元化は未だ行われていなかったので,太平洋戦争中の1944年8月24日に,地図発行を完全に一元化する日本地図が設立され,日本の地図作製は,特高警察と参謀本部の統制下に置かれる事になりました.

 そうこうしている内に,日本の敗色は濃くなり,1945年4月には陸地測量部は三宅坂から,杉並の明治大学校舎に疎開し,地図印刷は大日本印刷,凸版印刷,共同印刷に外注して,緊急作業隊を編成して監督しました.
 しかし,東京都内への空襲の激化に伴い,疎開が検討されることになります.
 当初は箱根が検討されていましたが,地図の作製に必要な写真を扱う為にも,水質が良くて水量が豊富な地域を探し,また,本土決戦に備えて,天皇皇后両陛下始め大本営,各官庁,日本放送協会などが松代に移転することが決まった為,陸地測量部も長野県松本平波田村周辺に疎開することになりました.

 本部は波田国民学校,その他の組織や倉庫は,温明,梓,安曇,塩尻の各国民学校へ分散疎開し,幹部の一部は皇族が疎開される予定だった大宮熱田神社の大宮会館1階に宿舎を設けました.(因みに皇族方はその2階を利用する予定だったとか)

 総勢1,000名を超える人々とその荷物は,荷造りだけでも相当な時間と労力を必要としましたが,5月24日の空襲により20万分の1地勢図の銅版の原版,地図や資料の多数が貨車毎新宿駅で焼失し,三宅坂の庁舎も炎上したので,残ったのは多摩川縁にある倉庫に移転していた5万分の1地形図の銅版の原版のみでした.
 これらの銅版の大半は安曇国民学校に疎開され,戦後,辛くも連合軍総司令部の接収を免れて,その後の日本の地図作りの礎に残すことが出来た訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/08/07 21:17


 【質問】
 黄帝内経・傷寒論・金元医学の諸書物等を見る限り,中国では医療用にアヘンは用いられていなかったようですが,英国帝国主義者の謀略以前から,嗜好品としてはアヘンが使用されていたということですか?

 【回答】
●旧来(+学校教科書)のアヘン戦争のイメージ

 英国には中国に売る物がなかった.
 アヘンを売った.
 アヘンが蔓延し,社会問題となった.
 アヘンが禁止され,積荷も捨てられる.
 英国が戦争をしかけた.欧米の植民地主義の象徴.
 アヘン戦争による脅威が,日本に対して大きな影響を与え・・・・

●新しいアヘン戦争のイメージ(論争中・議論中)

 四川アヘンの市場があり,英国もインドアヘンを売ろうとして,市場競争をめぐる争いに.
 また,自由貿易を兼ねてから望んでいた英国は,アヘン問題をきっかけに攻撃を開始する.
 戦後,南京条約が締結されたが,条約の内容からすれば,アヘンは重要視されておらず,また英清貿易が伸びなかったし,利益も大して上がらなかった.

世界史板


 【質問】
 アヘン,アローの二度に渡る戦争でシナが弱いってことはよく分かってたのに,日清戦争で日本が勝つまで,「眠れる獅子」と恐れられていたのは何故?

 【回答】
 その敗戦後,ある程度改革とか,兵器の輸入をやって,みかけ上は近代化した上に国力があるからじゃないかな.
 軍隊なんかだと,西洋人を顧問に迎えたり,定遠・鎮遠のようなヨーロッパ一線級の戦艦を導入している.
 清海軍は,ドイツ人顧問の教える当時ヨーロッパで常識だった戦法に従って負けたので,別に近代化していなかったわけじゃない.
(横長に艦隊組んで,衝角を相手にぶつけるように動く.ヨーロッパでその考えが捨てられたのは日清戦争の戦訓から)

 当時の日本は,小型の快速な船で縦列を組んで,小口径の弾を当てまくるという,イギリス海軍発祥の方法を採用して勝った.
 日本での演習では,横隊よりも単縦陣の方が常に勝利したという結果が得られてたので.

世界史板

 また,アヘン戦争,アロー戦争共に(口実としては)ちょっとしたイザコザから始まったものだったので,列強もガチンコとは思えなかったんじゃないかな.
 英軍は海岸の拠点占拠が主で,内陸奥地に進撃するっていう大戦略は立ててなかったらしいし.

 アヘン・アローに負けた中国はその後近代化を開始したし,帆船と青銅砲を装備した過去の中国とはもやは違うと思っただろう.

 それに対して日清戦争は,朝鮮も係わりもはやイザコザではないガチンコ勝負.
 その清に日本が勝ったので,「こいつは近代化うまくいってないな!」と思ったんだろう.

世界史板

▼「アヘン戦争やアロー戦争でも清仏戦争でも全部惨敗したけど,どれも清朝は全力を出してないのです.
 総力戦じゃないのです.
 次はおまえが行け!といったノリで,小出しに軍を出していただけです.
 近代的な国民軍じゃなく,有志の私兵軍だったのです」
 だから欧米は,清朝が近代化して総力戦を戦えるようになれば,結構な強国なんじゃないのかなとみていたということなのです.

 最後まで近代化できずに,辛亥革命になりましたけどね.

 なぜ近代化できなかったのか?
 これは
簡単に言うと,
「異常に集団性が高いが,肯定的かつ良い結果を生む集団性でない,もしくは頭の悪い組織作りしかできなかった」
という事に尽きます.

 文革とか徹底振りを見ても分かるとおり,集団主義,集団性を高める事,全体主義的な文化性については,日本や欧米どころの騒ぎではなく,単に「集団化」に限定するならその能力は異常に高いです.
 しかしそれが近代史が証明してる通り,それが肯定的な集団作りではありませんでした.
 日中戦争の後半では海外の支援を受けて,兵器の近代性では日本を超えてる面もありましたし,兵員の動員数,兵站の有利さなど総力では日本より優位な点も多々あったのに,日本に散々打ち破られました.
 戦略や戦術指導,組織的な効率性有能性,個々の能力で日本より劣っていました.
 要するに上がバカで下もダメだったのが原因.

世界史板,2009/12/23(水)〜12/24(木)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 シュレスヴィヒ・ホルシュタイン問題の歴史的経緯を教えられたし.

 【回答】
 ドイツという国は,19世紀に諸邦が寄せ集まり,最終的にPrussiaの主導の下,統一を果たした訳ですが,四方に紛争地を抱えていました.
 南部は二重帝国,
 東部はポーランドを巡るロシアと二重帝国,
 西部は言わずと知れたアルザス・ロレーヌを巡るフランスとの争い,
 そして北部は,シュレスヴィヒ・ホルシュタインを巡り,デンマークと争っていました.

 今でこそデンマークは小国に甘んじている訳ですが,19世紀には世界中に植民地を保有していたりした,それなりに強国に数えられた国でした.

 元来,シュレスヴィヒとホルシュタインは別の国で,前者はシュレスヴィヒ公国,後者はホルシュタイン伯国(1474年以降公国)でしたが,シュレスヴィヒは中世初期からデンマークの支配下にあり,ホルシュタインはドイツ人が多数派で,神聖ローマ帝国を構成していました.
 これらの地はシャウムブルグ家の支配の下,同君連合を結んでいましたが,1459年にシャウムブルグ家が断絶した事で,デンマーク国王がシュレスヴィヒ公爵とホルシュタイン伯爵を兼ねる事になります.
 但し,前者はデンマークが支配し,後者が神聖ローマ帝国支配下にあったのは変わりません.

 1806年に神聖ローマ帝国が崩壊し,ウィーン会議の結果,ドイツ連邦が成立しますが,デンマーク国王は,ホルシュタイン公としてドイツ連邦に参加する事になります.

 1848年,ドイツで三月革命が勃発すると,デンマークはシュレスヴィヒを併合を宣言しますが,キールの臨時革命政府は両公国のデンマークからの離脱とドイツ連邦の加盟を目指し,1848〜50年の第一次スリースウィー戦争により,ドイツ連邦軍はデンマーク軍をシュレスヴィヒから排除する事に成功します.

 しかし,英国とロシアの干渉で,1852年にロンドン議定書が締結され休戦に持ち込まれ,両地域は現状維持となりますが,1863年3月に議定書を破ってデンマークは再びシュレスヴィヒの領有を宣言します.

 18世紀以来,デンマーク王家はドイツ語を使用し,ミサや学校,裁判に於てはデンマーク語を使用していただけで,行政用語はドイツ語でした.
 この二重言語状態は,シュレスヴィヒ・ホルシュタインでも同じです.

 ところが,1839年に即位したクリスチアン8世は,1840年に官房令を発布し,行政語をデンマーク語にすると共に,官吏にもデンマーク語の使用を義務付けます.
 但し,デンマーク語の使用に慣れない官吏も多く,一旦ドイツ語で書いた文書をデンマーク語に翻訳して使用する事も認めていました.
 これに反発したのが弁護士達で,1841年に結局裁判用語に関してはドイツ語の儘とする通達が出されました.

 次の国王フリードリヒ7世の治世になると,シュレスヴィヒ長官ティリッシュによって,ドイツ人地域にもデンマーク語の使用を徹底する事になり,1850年ドイツ人教育のギムナジウムにデンマーク語を命じ,ドイツ語の個人授業も禁止,教会語もデンマーク語化を進め,牧師候補生にもデンマーク語の能力を要求します.

 1863年,ロンドン議定書違反を理由として,デンマーク(国王は連邦構成員の一人)に対する連邦制裁を決議し,12月にザクセンとハノーファーの軍隊がホルシュタインを占領,1864年1月にはオーストリアのプロイセン連合軍がシュレスヴィヒを占領し,3月にはユトランドにも侵入して6月にはこれを完全に占領します.
 ドイツ連邦の構成諸邦は,アウグステンブルク公を君主とする両公国の独立を主張しますが,オーストリアとプロイセンは,ロンドン議定書の堅持を目的と主張し,結局10月のウィーン講和条約で,デンマークは両公国をオーストリアとプロイセンに割譲します.

 以後は両公国は両大国の共同管理下に置かれ,1865年8月のガスタイン協定でシュレスヴィヒはプロイセンの,ホルシュタインはオーストリアの統治下に成りますが,それから1年も経たない1866年に勃発した普墺戦争で勝利したプロイセンは,両公国を自国に組み込み,全体をプロイセンの州として扱う事になります.

 先にデンマーク語教育をしていた両地域は,今度はドイツ語教育に方向転換する事になり,学校査察を行って授業の様子を細かく報告されると共に,師範学校の再編成でドイツ化の拠点とします.
 行政・裁判言語も,二重言語状態からドイツ語オンリーとなりますが,教会言語のみ,都市部ではドイツ語化が簡単だったのですが,農村部では住民の生活に宗教が深く食い込んでいた為,簡単には行かず,堅信礼はデンマーク語,ミサは午前中はドイツ語だが,午後はデンマーク語とするという緩和措置が行われています.
 最終的に,1888年のAnweisung für den Unterricht in den nordschleswigschen Volksschulen(北シュレスヴィヒ言語教育令)によって,デンマーク語を排除し,ドイツ語化の徹底が図られる事になった訳です.

シュレスヴィヒ・ホルシュタイン戦争のデンマーク陸軍
faq17w02.jpg
faq17w.jpg

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年07月07日21:11


 【質問】
 1848〜49年にオーストリア国内が民族運動でゴタゴタしている最中,デンマーク人のDahlerupなる人物がオーストリア海軍の司令長官に就任し,以後,数年にわたり海軍の再編成に務めたようですが,彼はどのような人物ですか?

 【回答】
 Hans Birch Freiherr von Dalerup は,デンマークの海軍軍人ですが,オーストリア帝国が1848年の「3月革命」で混乱に陥り,近年領土としたベネツィアの「反乱」により,オーストリア海軍軍人約5千人のうち,帝国に忠誠を誓ったのが,わずか士官72人と水兵665人という危機的事態に陥った海軍を再建するために招請されたそうです.
 基本的に当時の帝国海軍を構成していたのがイタリア系の人間が大半であったから,当然の結果といえますね.

 1849年3月にダーラップ提督が着任して,再建に乗り出しベネツィアの反乱を8月に鎮圧しています.
 その後,1852年に皇帝の弟フェルディナント・マクシミリアンが海軍総司令官に着任するまで,その任にあったようです.

(権兵衛さん in 世界史板)

#Hans Birch Freiherr von Dalerup 氏の略歴
1790年8月25日,デンマーク,ゼーラントのヒラーレエト産まれ.
1851年8月16日叙爵(勲功)
1872年9月26日,コペンハーゲンにて没(best: 同市Holmenskirche,異端(笑)
 因みに彼の二代後に「ベーメン人のカルバン派の異端」が提督になるまで,カトリックしかアドミラルになっていません.(つまりドイツ海軍史上初のエヴァンゲリック)

 父はハンス・ジャンセン(21.4.1758.〜30.1.1838)
 母はソフィーネ・マリー・ビルヒ(1767〜1799)
 妻はルイーゼ・マルガレータ(2.12.1829結婚)でデンマーク海軍少将ヨースト・ファン・ドックウムの娘
 子はハンス・ヨースト・ヴィルヘルム(27.9.1830生,9.12.1876,デンマーク金融相就任)
    イーダ・スザンネ・ソフィー・ルイズ(7.3.1833生)
    (一人夭逝)

#ベネチアの叛乱
 イタリア系ではなくベネチア系であるからで故にベネチアが翻意であった場合不服従となっただけ.
 ベネチアが他のイタリア諸邦の為に不服従(消極的抵抗)を起こした事例は私は知らない.
 現在でも,ベネチアのゴンドラ乗りが観光客相手に「オーソレミヨ」を舟歌として歌っていることを,怒りを覚えて胆忍しているのがベネチア人.

イケイケ吉野 in 「三脚檣」 BBS

シュレスヴィヒ・ホルシュタイン戦争のデンマーク海軍
上から順にHeimdal,Niels-Juel,Rolf
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq39dn.jpg
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq39dn02.jpg
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq39dn03.jpg

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年07月07日21:11


 【質問】
 第一次シュレスヴィヒ・ホルシュタイン戦争(1848−50)の最中に,プロイセン陸軍砲兵がデンマーク木造戦列艦「クリスチャン8世」を一撃で爆沈させたという話を聞いたのですが,本当ですか?

 それと同時に,デンマークフリゲート「ゲフィオン」が座礁してしまい,プロイセンに鹵獲されて,同名のプロイセン海軍3等巡洋艦になったとも聞きました.

 【回答】
 確かこの話は,海軍関係の「トリビア」のひとつとして有名なものです.
 詳しい資料は手元にありませんが,「陸の砲兵隊に撃沈された唯一の戦艦」 として知られていると思います.戦艦というか,戦列艦ですけどね.(陸上の砲台と撃ちあった戦艦が沈んだというのはいくつかあります.))

 後者も本当ですね.
 デンマーク海軍の帆走フリゲートであるGefionが1848年に座礁して,プロシアが捕獲,自国海軍に組み込んで,Eckernfoerdeと改名,後にGefionに再改名して1891年まで使用しています.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 世界史板)


 【質問】
 Billeデンマーク海軍提督の世界周航について教えられたし.

 【回答】
 19世紀半ばになると,欧米各国は植民地の獲得に躍起となります.
 実はデンマークもその流れに遅れまいと,東アジアに使節を送ることになりました.

 その先頭を切って行われたのが,1845〜47年に行われた,Bille提督のコルベットGalathea号による世界周航です.
 彼の使命として,政府から命令されていたのは,先ず海域や港湾の測量と言った海洋地理学的事業ですが,それ以外に,既に実態を失っていたデンマーク・アジア会社の拠点であったトランケバーとサランポーを1845年に英国に売却したので,その終焉に立ち会うこと,次が東アジアにデンマークの国旗を翻すことでした.
 因みに,トランケバーとサランポーの代りの土地として,ニコバル諸島をデンマーク領にすべく準備が行われていましたが,調査の結果,気候がデンマーク人の滞在に適さず,1848年に計画は断念されています.
 最後に,中国では新たに任命されたデンマーク領事を無事に就任させる事でした.
 当時のデンマークも領事館開設に積極的で,1825年には281カ所だった領事館は,1848年には363カ所に増えています.

 まぁ,以上4つの目的を以て,世界周航に出た訳です.

 Bille提督と言うのは,デンマーク海軍の中でも立志伝中の人物で,1848年の対独戦役の際に,勇名を馳せ,戦後は実務能力を買われて政界入りし,海軍大臣に就任して,19世紀後半のデンマーク海軍の増強に力を入れました.
 為人は威風堂々厳格な人で,後進にはその厳格さから余り好かれていませんでしたが,教養もあり,何事にも積極的な海軍軍人でした.
 1868年に現役を退きますが,1874年に行われた岩倉使節団の来訪の際には真っ先に駆付けています.

 ところが,このBille提督,非常に衝動的な人…と言うか当時,海軍軍人たるもの,独自の判断で動くべしを地で行く人だったので,当初の目的はおろか,飛んでもない事を遣って退けます.
 彼は政府に何の相談もせず,1846年8月に浦賀沖に来て,日本と交渉しようとしたのです.
 結局,日本との交渉は成りませんでしたが,次に寄航したハワイ王国では,国王と正式に通商条約を締結しています.
 これまた,政府には相談しない独断です.

 Bille提督が日本に赴こうとしたのは中国での出来事でした.
 中国では1845年に総領事Hansenが就任し,英米仏と同条件で中国での商行為に携わり,領事を置く許可を纏めました.
 そして翌年,Bille提督がデンマークから赴き,Hansen総領事が指名した3名の領事を無事に赴任させ,事務の開始を見届け,かつ,デンマーク人が列強諸国と対等の立場で商取引を行いうる許可の再確認を清から取付けることになります.

 先ず,香港領事Burdsは英国のDavis総督が許可を受けて直ぐに落着しました.

 次いで,広東領事Mathesonについては,彼がJardin & Matheson商会の社長と言う事で,香港の英国政庁が難色を示しますが,結局,英国当局が反対を取り下げ,彼は広東に赴くことになりました.
 ところが,広東では英国人と中国人の紛争が起き,銃撃事件まで発展し,騒然となります.
 英国総領事の求めにより,Bille提督は乗艦Galathea号から60名の上陸部隊を派遣し,その騒ぎを鎮圧しました.
 英国当局からは評価されたものの,収まらないのが現地政府の市長です.
 そこで彼は市長に丁寧な書状を書き,彼の面子を重んじて,彼の代理人と会う事を受容れた為,これも無事纏めることが出来ました.

 最後の上海では,領事館の用地を探す必要がありました.
 この為,外国代表と交渉権を持っていた両広総督である耆英と交渉を持ちますが,彼はBille提督が上陸部隊を送って英国を手助けしたのを嫌い,例えば,書簡に書かれているHansen総領事の国称「丹国」と,Bille提督が用いた国称「大尼」の相違などについて,徹底的に拘るなどの嫌がらせを行いました.
 結局,Bille提督が辞を低くし,事情を懇切丁寧に説明することで,耆英を説き伏せ,漸く,上海領事Duusの就任が確定しました.

 此の交渉の間,香港総領事のDavisらと語らい,極東情勢の情報を仕入れているのですが,当時流行の西洋中心主義の影響を受け,列強諸国に後れを取ってはならじと,オランダの厚い壁が壊れて北から南から開国を促されている,剥身状態になっている日本に対しても,力で交渉しようと考えたのかも知れません.

 幸いにして彼は国王から当初の計画を変更する事が可能であるとの委任状を頂いていました.
 そして,彼は日本に向けて舵を取ります.
 丁度その頃:,米国の東インド艦隊も日本に到達し,穏便に日本を去っていました.
 Bille提督が日本に来たとき,既に日本側には,そうした彼らに対応する十分なKnow-howが蓄積されていた上に,浦賀まで来たものの,野比沖に行こうとして悪天候に遭遇してしまい,結局,本土に足跡を印すこともなく終わった為,Bille提督の航海は,米国艦隊の二番煎じとしてしか受け止められていなかったりするわけです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2008年03月03日22:25


 【質問】
 小銃の旋条は理論上15世紀には生まれたにも関わらず,19世紀半ばになるまで一般化しなかったのは何故でしょうか?

 【回答】
 猟銃としては一般的だった.が,ライフリングに弾を噛ませる為には,銃身内径より大きな弾を使うしかない.実際には僅かに小さい弾を革で包んで銃口から装填するんだが・・・・・,そんな力仕事をしてたら毎分1発程度しか発射できない.軍用銃としてはそれほど実用的では無かった.

 ライフル銃自体は存在していたが,弾丸を回転させるには弾を銃身にしっかり食い込ませなければならず,当時の前装式の銃ではその為装填が難しかった.
 また,無煙火薬発明以前の火薬は,大量のすすが銃身内に残るので,銃身と弾の隙間が小さい当時のライフル銃では,しっかり中を掃除をしないと暴発の危険性があった.
 故に速射性に欠け,猟兵や狙撃兵等の一部に装備は限られていた.

 ところが,1852年にフランス陸軍のシャルル・ミニエー大尉が発明した『ミニエー弾』によって,ライフル銃が脚光を浴びる事になった.
 これはライフリング付きの銃身を持つ前装銃でも容易に装填できるよう,弾頭の底に窪みを設け,ここに鉄の栓を入れたものだった.
 発射時に燃焼ガス圧で鉄栓が入り込んで,弾頭の周囲をスカート状に押し広げ,ライフリングに食い込ませるというアイデア.これによりライフル銃が各国の小銃の標準になり,射程距離と命中率が飛躍的に上昇した.


◆クリミア戦争


 【質問】
 クリミア戦争の際,なぜオーストリアは英仏側についたのか?

 【回答】
 ドナウ川やバルカン半島でロシアの影響力が強まることを恐れたためだという.
 以下引用.

 1853年にロシア軍が今日のルーマニアの大半を占領し,オスマン帝国の君主に圧力をかけると,ウィーンは困った状況に追い込まれた.
 ここを流れるドナウ川は,オーストリア商業の幹線水路であり,加えて,バルカン半島でさらにロシアの影響力が強まれば,オーストリア南部国境の向かいの諸民族や各国政府に対してオーストリアが有している支配力が削がれる恐れもあった.

Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)上巻,p.310


 【質問】
 クリミア戦争に英国は何故参戦したのか?

 【回答】
 とめどなく前進しているロシアのパワーを抑えんがためだったという.

 1854年にイギリスが参戦を決意したのは,とめどなく前進しているロシアのパワーを抑えんがためだった.
 クリミア戦争中,パーマストン卿は次のように述べている.
「将来のヨーロッパの平和にとって,最良で一番効果的な安全保障とは,ロシアが後に獲得するであろう国境地帯の領土,すなわちグルジア,チェルケス,クリミア,ベッサラビア,ポーランド,フィンランドをロシアから切り離すことである.
 ……それでもロシアは依然として巨大な列強としての地位を獲得するだろうが,隣国への侵略にはさほど有利な立場は保てなくなるだろう」3

 ロシアはクリミア戦争で敗北し,1856年のパリ条約では屈辱を味わった上,黒海での立場も著しく弱められた.
 しかし,それから15年の内に条約は破棄され,ロシアは自由に黒海艦隊を再建できた.
 一方,ロシアは中央アジア征服に乗り出したが,これはイギリスの警戒感を煽った.
 1891年から1902年にはロシアは極東へと急速に前進し,まさに崩壊の瀬戸際にあった中国から最大の戦利品を得るかに見えた.
〔原注〕
 3 M.B.Broxup (ed.), The North caucasus Barrier, St.Martin's Press, New York, 1992所収のP.B.Henze, 'Circassian Resistance to Russia' , pp.62-111の80ページに引用されている.

Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)下巻,p.114-115


 【質問】
 クリミア戦争でオーストリアが英仏側についた選択は正しかったのか?

 【回答】
 愚の骨頂だったという.
 以下引用.

1854年から56年までのクリミア戦争時にとったオーストリアの政策は,愚の骨頂だった.
 ウィーンは積極的に英仏側につき,ロシア皇帝に戦争の脅しをかけて,ロシアとの同盟を破棄してしまっただけでなく,その後20年間に渡り,一貫してロシアを敵に回してしまったのである.
 その間,ヨーロッパのパワー・ポリティクスに重大な変化が起こり,それらは全てハプスブルクの不利益となった.
 オーストリアが,その脅しにも関わらず,最終的には英仏の同盟国側に立って戦闘に参加しなかったことも,英仏の反感を招いた.

 しかし実際には,オーストリアがクリミア戦争で何もできなかったからこそ,英仏は,ドイツとイタリアにおけるオーストリアの突出した立場を確実に保障したのかもしれない.

Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)上巻,p.310

 オーストリアは地政学的な立場,相対的な弱さのため,大半の歴史を通じて同盟が不可欠だった.
 〔略〕

 オーストリアは1813年から14年に,主な戦勝国として頭角を現し,失った領土を奪還し,イタリアにおいて支配的な勢力となったほか,ドイツでも突出した勢力になった.
 しかし,オーストリアの対外的な関与は,今や自国の資源の限界を越えていた.
 これはとりわけ,オーストリアの財政が,20年に及んだ戦争で疲弊した上に,1815年から48年にオーストリア経済は,工業化を終えたイギリスばかりか,工業化の途上にあったドイツ北部よりも著しく遅れていたからである.

 オーストリアの地位と領土を保障したのは,主にロシアだった.
 これは,ジャコバン主義革命の脅威と,間違いなくそれに続くであろう国際的な無秩序状態――現実に1792年以降の数十年に渡る戦争で発生した――の脅威に対して,平和と保守的な安定を維持するためには,オーストリアとの同盟が極めて重要であるとして,メッテルニヒがロシアを説得できたおかげだった.
 1848年から50年には,ロシア軍がハンガリー革命に介入したことで,ロシアの保障のもたらした価値がどれだけ重要かが明らかになった.
 ベルリンがドイツにおけるオーストリアの突出した立場に挑戦するのをやめたのも,ロシアの圧力のおかげだった.

同,p.307-310

 【質問】
 当時のオーストリアは,ロシアとの同盟の重要性を認識していなかったのか?
 【回答】
 誤った「教訓」を引き出しており,認識していなったようだ.
 以下引用.
 しかし残念ながら,若き新皇帝フランツ・よぜふとその顧問が1848年の事態から学んだ教訓は,王朝を救ったのは自国の軍隊であると言うものだった.
 そのため,現実主義政策を追及し,軍事力に依拠することが,帝国としての地位を守り,国際問題において揺らいだ自信を取り戻す最良の手段だと考えた.

Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)上巻,p.310


 【質問】
 「アルプスの少女 ハイジ」に登場するお爺さんが,傭兵となって戦っていたと思われる戦争は?

 【回答】
 おんじがトービアスの母と出会ったのは,軍からの逃亡期間中であったことが原作でふれらているため,1858年には軍を離れていた事が判る.
 逃亡期間が長かったと想像させる文もあるため,1855年まで傭兵をしていたと仮定する.
 以上の推定とナポリの傭兵だった事を合わせると,おんじが第一次イタリア独立戦争(1848〜49)を戦っていた可能性が高い.

 ちなみに1880年ハイジ第一部初版の書名は
Heidi'sLehr-undWanderjahre
「ハイジの修業時代と遍歴時代」
である.

unknown

▼ 〔略〕
 そして,何といっても「アヌスの少女ハイジ」.
 どこをどうすれば,あんなおばかな発想(褒め言葉)ができるのやら(笑
 「低燃費少女ハイジ」のあの絵で,アニメ化されることを切に希望します.

 それに比べて,テレビでの「ハイジ」の紹介のされ方の,なんと画一的,発想貧困なことか.
 なつかしのアニメ名場面ベスト50といったような番組ですと,まず間違いなく「クララが立った!」のシーンしかやらないじゃないですか.
 違う.
 間違ってる.
 一番の感動シーンは,アルムおんじ(爺さん)が,あんなに嫌がっていた町暮らしを,ハイジのために決断するところじゃないですか.

 そもそも,ハイジの主人公を誰だと思ってやがりますか?
 ハイジじゃないんですよ.
 爺さんの精神的成長の物語なんですよ.
 でなきゃ1話,2話を使って,爺さんの人となりをあんなに長々と説明する必要もないわけですよ.
 それに比べて同じ1〜2話で,ハイジ自身の説明なんて,ほんの僅かじゃないですか.
 これを見ても,どちらが真の主人公なのかは一目瞭然.

 さて,このおじいさん,第1次イタリア独立戦争(1848〜49)で傭兵をしていたらしいことまでは判明しています.
 第1次イタリア独立戦争は,サルディニア王カルロ・アルベルト率いるサルデーニャ王国及びイタリア諸国連合が,1848年に開始したものです.
 きっかけは1848/1/12のシチリア革命.
 これで両シチリア王国は「立憲君主制」になるのですが,シチリア住民はこれに不満を持ち,「両シチリア王国に対する独立戦争」を開始します.
 島を支配しているブルボン家に対する戦争です.
 次いで1848/3/17,ベネチア革命が起こり,ベネチアがオーストリアからの独立を宣言します.
 これは翌日,ミラノに波及し,ロンバルディアもオーストリアからの独立を宣言.
 これら地域にサルディニアが味方し,1848/2/23,オーストリアに宣戦布告.
 さらにトスカーナが彼らの味方につきます.

 さて,スイス人傭兵というのは,戦史上,昔から有名な存在で,フランス革命の際にも最後までルイ16世の側で戦って,全滅したというエピソードや,教皇クレメンス5世を逃がすための時間を稼ぐために戦って,やっぱり全滅したというエピソードもあります.
 国土の大半が山地で農作物があまりとれず,めぼしい産業が無かったスイスにおいて,傭兵稼業は重要な外貨収入源でした.
「スイスは他に輸出するものがないので,『血を売る』ことでしか外貨を稼げなかった.だから絶対に逃げない,命令に忠実である」
というのが,スイス人傭兵に対する評価でした.
 今日でも,ヴァチカン市国はスイス人傭兵によって警護されていますが,これはクレメンス5世のために殉職した彼らに報いるためのものです.

 おそらく若きアルムおんじも,デルフリ村の他の若者たちと一緒に,出征していったに違いありません.

 しかし相手が悪かった.
 相手は歴戦の名将,ヨハン・ヨーゼフ・ヴェンツェル・フォン・ラデツキー伯爵率いるオーストリア軍でした.
 独立軍は1849/3/23,ノヴァーラの戦いで敗北してしまいます.
 デルフリ村の傭兵たちも,次々と倒れていったことでしょう.
 やがて部隊は壊滅し,兵士たちは散り散りになってしまいます.
 負傷した仲間に肩を貸して,必死に安全なところまでたどり着こうとするおんじ.
 食料も水もなく,口に入るものは何でも食べ,泥水をすすって,さらに体調を悪くする.
 口の中には栄養不良で口内炎だらけとなり,靴も破れて足も血豆だらけ.
 負傷している戦友は,どんどん衰弱していく.

 そしてとうとう彼は歩けなくなり,やっと見つけた,とある廃屋に倒れ込むように横たわる.
 負傷している戦友は,息も絶え絶えになりながら,若きアルムおんじに言う.
「俺はもうだめだ.
 ここに置いていけ.
 お前だけでも生き延びろ」
と.
「あきらめるな! 俺達は二人ともデルフリ村に帰るんだ!」
と若きアルムおんじ.
 だがそのときには,すでに戦友は意識不明になっていた……

 彼が戦友を置いていったのか,息を引き取るまで一緒にいたのかは分からない.
 誰にも永遠に分かるまい.
 原作によれば,何年もかかってデルフリ村にやっとのことで,命からがら帰っている.
 しかし村人の,彼に対する態度は冷たかった.
 どうやら彼の寡黙さが災いしたらしい.
 しかもスイス人は,『黒いスイス』(福原直樹著,新潮新書)によれば,閉鎖的で他人の詮索好きであるという.
 日本で言えば,富山県の県民性に近いだろうか.
「戦友を見殺しにして逃げてきた」
「人殺しだ」
といった噂が立ってしまい,彼は孤立.
 そのため,彼は山小屋で一人,孤独に暮らすようになったのだった…

 …と,こんなふうに,アルムおんじに感情移入して「アルプスの少女ハイジ」を観ると,クララのエピソードが邪魔に思えてきて,めっちゃ大損.▲

「アルプスの少女 ハイジ」
(引用元:朝目新聞)


 【質問】
 皇帝フランツ・ヨゼフ時代のオーストリア陸軍の質は?

 【回答】
 歩兵部隊の装備はフランスより優っていたが,その兵器に見合う戦術を兵士は訓練されておらず,戦略物資運搬用の鉄道もなく,司令官や参謀将校達は,戦争の様相の変化に無知だったという.
 以下引用.

 1858年から59年までの,ナポレオン3世とピエモンテ王国に対する戦争で,オーストリア軍の歩兵部隊の装備はフランスより優っていたが,
「射程を測らせたり,動いている標的に照準を定めさせたりすることは,教養のない農民徴用兵に教えるなど,とても不可能だと信じて」
いたので,その兵器に見合う戦術を兵士に訓練させることができなかった.
 1814年以降,列強と戦った経験のないプロイセンに比べ,オーストリアは1859年以降,近代戦争の教訓を汲み取ってきたと考える事もできよう.
 加えて,フランツ・ヨゼフは1866年当時,3400万人の臣民を抱えていたのに対し,プロイセンは1900万人に留まっていた.
 殆ど全てのドイツ諸邦も,オーストリア側に立って戦った.もっとも,ザクセンを除いて戦闘の効率はお粗末なものだった.

 不適切な財政状態は問題ではなかった.なぜなら1848年以降,軍部は政府のお気に入りで,しかも皇帝が決める予算の優先権を抑える議会組織もなかったため,1850年代は「かつてないほど軍事予算が拡大した10年間だった」からだ.13
 しかし,外部からのコントロールを受けない軍の高官は,軍のために思慮分別なく予算を使った.
 戦術的な訓練は無視され,時代後れになり,戦略物資運搬用の鉄道も敷かれなかった.
 そしてとりわけ,司令官や参謀将校達は,教育を受けた兵員が増加し,新兵器や新たな通信技術が生まれたことが,現代の戦争をどのように変えつつあるかについて,頭を使って考えようとはしなかったのである.
 1866年にプロイセンが勝利したのは,経済的にオーストリアより発展していたからでもなければ,ドイツ民族主義者の原則を効果的に組み入れていたからでもない.
 プロイセンの将校,特に参謀将校が,軍人としての職業について熱心に学ぶよう奨励されたからであった.

 これについて,フランツ・ヨゼフ自身も責任の一端を負わなければならない.
「軍の力は,教養ある将校よりも,忠実で騎士のような将校の中に存在する」14
と述べたのは,フランツ・ヨゼフ本人だった.
(原注)
 13 最後の2つの引用の出典は,G.Wawro, The Austro-Prussian War. Austria's War with Prussia and Italy in 1866, Cambridge University Press, Cambridge, 1996, pp.24, 38.
 14 HM, vol.V, Die Bewaffnete Macht, 1987所収のJ.C.Allmayer-Beck, 'Die Bewaffnete Macht in Staat und Gesellshaft', pp.30-31.

Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)上巻,p.312-313


 【質問】
 アームストロングって誰?

 【回答】
 サー・ウイリアム・ジョージ・アームストロング Sir William George Armstrong (1810〜1900)は,英国カンバーランド生まれの発明家.
 クリミヤ戦争時,後装式旋条砲のアームストロング砲を発明.
 のち,英国兵器廠長官を経て,兵器製造会社,アームストロング社を設立した.

 ルイだのニールだのランスといった,その他大勢のアームストロングについては省略.

【ぐんじさんぎょう】,2012/01/25 20:00
を加筆改修

 (´ω`)自分が,「アームストロング」でパッと思い浮かべるのはサッチモだけ!(

ウルザさン in mixi,2012年01月19日 09:43

 ランス・アームストロングが大勢と空目,恐ろしすぎる・・・.

赤の9番 in mixi,2012年01月19日 14:52

 アームストロング=腕っ節が強いの意=石工=メーソンリー……
 この姓を名乗る連中は,すべてユダヤ人ですね,わかります.

ソフトヒッター99 in mixi,2012年01月19日 19:29

 「完成度高けーなオイ」は,その他大勢.

ぎんなんそう in mixi,2012年01月19日 20:34

 ネオアームストロングサイクロンジェットアームストロング砲かぁ…

ウルザさン in mixi,2012年01月20日 09:09


 【質問】
 ナイチンゲールって誰?

 【回答】
 フローレンス・ナイチンゲール Florence Nightingale (1820〜1910)は,クリミア戦争以降,負傷兵の環境改善に大きな貢献をした看護婦.
 1854年,ロンドンの貧困女性病人援護の会の会長だった彼女は,知人の軍務相シドニー・ハーバートから,この戦争の戦病者・戦傷者の看護を依頼されると,ただちに38名のボランティアの女性を組織して戦地に向かい,彼女らのチームは野戦病院の衛生環境を強引に改善し,死亡率を数パーセント下げてみせた.
 そのときの過労により,以後は車イス生活となったが,今の陸軍の医療や衛生業務ではクリミアと同じような悲劇が起こると考え,陸軍省の衛生業務を改善する仕事に傾注したという.


 【質問】
 資産家の娘という恵まれた地位にありながら,家族の大反対の中,当時の下層階級の職業である看護婦としてクリミア戦争に従軍したナイチンゲールって,偽善者なんですか?

 【回答】
 ナイチンゲールも誤解されまくってる「偉人」の1人.
 この人はボランティアとは無縁で,クリミア戦争での後方の惨状を憂う世論に乗り,政府の要請で陸軍の病院の衛生状態改善に尽力した.
 イギリスの統計学の基礎を築いたとも言われ,看護の分野にも統計学を初めに持ち込んだ.

 ナイチンゲールの名声は,無関係の赤十字の活動がナイチンゲールの功績とすり替えられたことが多いし,赤十字もあえてその誤解を利用してきた.

軍事板


目次へ

「戦史別館」トップ・ページへ

「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ   サイト・マップへ