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◆◆元冦 Mongol hadjáratok Japán ellen
<◆モンゴル帝国
<戦史FAQ目次
「D.B.E. 三二型」(2012/06/26)◆元寇船の背骨は13.5メートル以上 長崎沖の再調査
>船の背骨にあたる部材「竜骨」(キール)は昨年10月の調査で12メートルの長さが確認されていたが,今回の調査で,少なくとも13.5メートルあったことがわかった.船の全長は25~27メートルと推定される.
「メガとんトラック」◆もし鎌倉幕府が元寇に負けてたらどうなったの?:アルファルファモザイク
『元寇 本土防衛戦史』(陸上自衛隊福岡修親会編・出版,1964)
パラパラっと目を通した.
詳しく読んでみたいんだけど,非売品なんだよなぁ.
福岡周辺の古本屋とかで売ってないでつか?
にしても,昭和38年発行だしなぁ.
もしかして,第4師団司令部で実費負担で譲ってくれないかな?
情報求む.
------------軍事板,2003/04/28
これ,いいよ.
ここまで徹底して「元寇を軍事的に考察」しているとは思わなかった.
作戦命令書みたいな本です.
目次だけでも書き出してみた.
第一章 元来寇の背景とその経緯
第一節 一般の情勢
一 蒙古の勃興と発展
二 日本の大陸通行
第二節 日本の国内情勢
一 執権政治の確立
二 武家の社会
三 大宰府と鎮西奉行
第三節 元使の派遣
一 元の招諭使派遣
二 国書の回答拒否
三 元使の累次の派遣と陰謀
第四節 軍事的考察
一 元軍の日本侵寇の動機について
二 元軍の日本に関する情報把握と情勢判断及び士気団結について
三 日本の元軍に関する情報把握と国民的な士気団結について
第二章 文永の役
第一節 元の遠征準備
一 元の高麗駐屯と造船
二 遠征軍の編成,装備,戦闘法
第二節 日本の防衛準備
一 防衛体制の強化
二 日本軍の編成,装備,戦闘法
第三節 戦闘経過の概要
一 対馬の戦闘
二 壱岐の戦闘
三 博多沿岸の戦闘
四 元軍撤退の一説
第四節 軍事的考察
一 両軍の戦闘に関する考察
二 地域の戦術的考察
三 鎮西軍の全般体勢と作戦指導の実際
四 文永の役の結末
第三章 弘安の役
第一節 元の再征準備
一 高麗駐屯と宣諭使の派遣
二 南宋征伐と元の反乱
三 造船と征日本省の創設
四 元軍の作戦計画と編成
五 再征準備の完整
第二節 日本の対外政策と防衛準備
一 元使の入来
二 敵国降伏の祈願
三 論功行賞と懲戒
四 基礎体勢の整備
五 異国征伐計画
六 石塁の構築
七 防衛準備の完整
第三節 戦闘経過の概要
一 対馬の戦闘
二 壱岐の戦闘
三 博多湾の戦闘
四 長門の戦闘
五 鎮西軍の海上追撃
六 鷹島の戦闘
第四節 軍事的考察
一 両軍の戦闘に関する考察
二 元軍の作戦と上陸点の考察
三 日本軍の全般体制
四 弘安の役の勝敗に関する考察
第四章 戦後の軍事情勢
第一節 元の対日軍事政策
一 防衛体制の整備
二 日本征服の執念
第二節 日本の防衛体制
一 沿岸警備と反抗計画
二 執権時宗の大往生
三 防衛体制の維持・強化
第五章 軍事的総合考察
一 文永,弘安の両役は日本にとっては正真正銘の自衛戦であり正当防衛だった
二 元軍の二次にわたる渡洋上陸作戦は何故に失敗し,
わが軍の上陸防御は何故に成功したのであろうか
三 海は元寇戦に関する限り日本に幸いしたことが多い
四 いわゆる神風の問題と神国思想について
五 大軍の作戦と兵站について
六 離島防衛の問題
七 むすび
付図 全盛期の元朝の版図 高麗時代の朝鮮半島 元寇当時における守護地
文永の役,元軍侵攻図 今津地区及び先遣部隊の戦闘図 赤坂,六波羅地区の戦闘図
博多湾の戦闘図 博多付近地形要図 石塁の位置及び石材の摂取・運搬推測図
弘安の役,博多湾の戦闘図 長門の戦闘図 全般経過図 大宰府侵攻のための上陸適地
付録 大宰府を中心とする古代の防衛
刀伊の賊の侵攻
朝鮮半島に逆上陸して威力偵察するくだりには興奮.
ほんと買ってよかった.
これが普通に入手できないのはまったく残念.
どうにかならないものか.
------------軍事板,2003/04/28
いくつか福岡の古書店に流通してます.
正確には 嘉穂郡の古本センターに二冊在庫.\1500と\2000
福岡市のまこと書房に一冊.\2500 北九州市の今井書店に一冊.\4000 計四冊.
これ,確かに非売品なんですけどね.
不思議だなあ.
某作家がこの本をネタにして短い雑文を書いていたのが記憶にあります.
兵力の数値でピンときました.
個人的な感想を言わせてもらえれば,これは買いですね.
------------軍事板,2003/04/29
ああ,第4師団が出している元寇の本か.
読んだ記憶があるが,あれはいいねぇ.
昭和38年の時点で,いわゆる「神風」の効用を冷静に分析していたのは良かったと思う.
神風=追撃期,あるいは敵の攻撃再興準備段階における海空の攻撃に相当,と位置づけていたのはなるほどと思ったよ.
------------ミリ屋哲@独房から ◆4EZIX.r92I :軍事板,2003/04/29
『蒙古襲来 (戦争の日本史7)』(新井孝重著,吉川弘文館 (2007/4/16)
『蒙古合戦と鎌倉幕府の滅亡 (動乱の東国史3)』(湯浅治久著,吉川弘文館,2012/10/22)
【質問】
元寇の戦いで,良い資料ないですかねぇ?
だよもん星人 ◆V2ypPq9SqY in 軍事板,2011/04/09(土)
青文字:加筆改修部分
【回答】
『蒙古襲来 その軍事史的研究』(太田弘毅著,錦正社,1997.1)
http://www.kinseisha.jp/0308.htm
第一部 第一次日本遠征-文永の役-
文永の役,元軍撤退の理由
第二部 第二次日本遠征-弘安の役-
1 第二次日本遠征時の東路軍・江南軍
2 江南軍鑑船隊の編制
3 弘安の役の東路軍・江南軍会合と糧食問題
4 弘安の役における江南軍の発進地
5 第二次日本遠征に参加した降宋職業軍人の立場
第三部 第三次日本遠征計画
1 元朝による第三次日本遠征計画と遼陽行省
2 第三次日本遠征計画と中国大陸の艦船等供給事情
第四部 補論
1 文永・弘安の役における元軍の水と糧食問題
2 蒙古襲来時,日本側前線の糧食事情
3 高麗の艦船用材木事情
4 元寇時の高麗発進艦船隊の編制
5 蒙古襲来時,元軍使用の矢について
他に検索結果から,良さそうな本を拾い上げると,
『元冦後の城郭都市博多』(佐藤鉄太郎著,海鳥社,2010.5)
『元冦役の回顧 記念碑建設史料』(太田弘毅著,錦正社,2009.11)
軍事板,2011/04/09(土)~04/10(日)
青文字:加筆改修部分
【質問】
マルコ・ポーロの金銀島って,本当に日本のことだったの?
【回答】
宋元時代の日本から中国への主要輸出品って金・硫黄・木材.あとは一部オタク向けの工芸品.
そして奥州の金山などあって日本が産金国だったから,その金が中国に流れていたわけです.
マルコポーロ(一人説と複数人説と両方あるが)がジパングを金の島と記したのは,この辺が理由でしょう.
以下は『新猿楽記』に見られる貿易品.
【本朝】
緋襟・象眼・繧[糸間]・高麗軟錦・東京錦・浮線綾・金・銀・阿古夜玉・夜久貝・水精・虎珀・水銀・流黄・白[金葛]・銅・鉄・[糸兼]・蝉羽・絹・布・糸・錦・纐纈・紺布・紅・紫・茜・鷲羽・色革
【唐物】
沈・麝香・衣比・丁子・甘松・薫陸・青木・竜脳・牛頭・[奚隹]舌・白壇・赤木・紫壇・蘇芳・陶砂・紅雪・紫雪・金益丹・銀益丹・紫金膏・巴豆・可梨勒・檳榔子・銅黄・緑青・燕脂・空青・丹・朱砂・豹虎皮・藤茶碗・籠子・犀生角・水牛如意・瑪瑙帯・瑠璃壷・綾・錦・羅・穀・呉竹・甘竹・吹玉
―――「中世流通史」:日・宋貿易
【質問】
マルコ・ポーロが日本を金銀島と呼んだのは,日本と欧州の金:銀の相場の差のせいで,日本の金銀が海外に流出したからでは?
だいたい鎌倉室町の日本の金:銀の相場って1:5.
(金は銀の5倍の価値しかなかった)
同時期のヨーロッパが1:12.
それが新大陸の銀山と水銀アマルガム法のせいで,銀の価値が下がり16世紀頃から1:16くらいになった.
で,日本のレートは上のとおりだから,日本で金を買おうってことになって,金が大量に流出,江戸時代には1:11くらいのレートになった.
あと,水銀アマルガム法のない日本では銀鉱石の価値が低く,これも超安価で輸出されていた.
なので金銀の産地としては,当時世界的に有名だった……と,こういうことでは?
世界史板・改
【回答】
全然違う.
だいたい時代が全然違って.てマルコポーロと関係なくなっている.
たしかに日本に水銀アマルガム法は無かったけど,灰吹法が伝わっており,日本の銀は16世紀に大増産されている(ほとんどが中国に流れた).
これに対して,金がVOC経由で大量に流出したのは,17世紀以降の話(行き先はこれまた西洋ではなくてインド).
江戸時代に三貨制が成立するまで,日本国内で銀は通貨として使用されていなかったから,絹などの中国製品の対価として銀が出て行ったに過ぎない.
18世紀にいたって,あまりの貴金属の流出に危機感を覚えた新井白石が,正徳新令で流出を阻止しようとしたのは有名な話.
また,江戸時代には銅(棹銅および銅銭)も大量に輸出されている.
戦国後期から江戸初期の日本では,絹や陶磁器など中国製品への需要は高かった.
一方で貴金属はわりと豊富にとれたけど,それ以外輸出品がなかった.
だから金銀銅が大量に輸出された.
で,その後国内の鉱山の生産力が衰えた――別子銅山みたいに17世紀の末になってから開発された鉱山もあるけど――ので,貴金属の輸出を制限して,代わりの輸出品として俵物などを開発,絹や砂糖,陶磁器,綿布などの国産化が図られた.
お陰で,絹は明治の近代化を支える大事な輸出品へと成長.
人,これを産業革命ならぬ勤勉革命と呼ぶ.
【質問】
日本=ジパング≠金銀島では?
〔上述の〕回答を見ると,当時の日本が主要な金産出国だったと言うことを論拠に
「日本=金銀島だった」
としています.
しかし伊達政宗の慶長遣欧使節団で有名なセバスチャン・ビスカイノが来日した目的が,「日本を拠点としての金銀島探索航海」であったり,同様の事例が他にも複数ある(手元のソースが新紀元社の「Truth In Fantasy61 大航海時代」で,ソースとして扱うには少々疑問符が付くような本ですが)事から,少なくとも当時のヨーロッパでは「ジパング=日本と金銀島は別個の存在である」と言う認識が一般的だったと思われるのですが.
東方見聞録でマルコ・ポーロがジパング=日本と金銀島を同一の島と断定していたのか,同じ海域にある別々の島と見做していたのかについても,確認が必要(ジパング=金銀島と東方見聞録で断定していたのなら,日本到達以降も金銀島探索が続けられた根拠が不明)かと思われます.
【回答】
平凡社東洋文庫の愛宕訳では,「金銀島」という表現は確認できませんでしたが,そもそも「黄金がザックザク(大意)」というのは,チパングの項の中に出てくる表現です.
チパング(ジパング)という単語自体が「日本国」から来ていることは間違いないと思います.
その中味が本当に日本のことを指しているのか(フィリピン説もある)は,別問題と言えば別問題ですが.
「大陸から誰も行ったことがない」とか明らかなウソが書いてますし――たしかに元寇の時期はおいそれとは行けなかったでしょうが.
一方で,ジパング遠征に関する記述は元寇の記録と符合するところが多いので,現実の日本情報も含まれていると言えるでしょう.
ピスカイノの探検航海については詳しく知りませんが,調べた限りでは,16世紀末から17世紀の「黄金島」伝説は,そもそもマルコ・ポーロからかなり時代が空いていますし,一種の都市伝説のように思えます(マルコ・ポーロの記録が伝説の発生・流布に影響を与えたのは確かなようですが).
これらの探検ブームを起点として,数百年前のマルコ・ポーロの認識を探るのは論理が転倒していると思います.
もちろん,最初に言い訳したように,チパングの項にある「黄金ザックザク(大意)」の部分が史実として日本のことだったかどうかは慎重な検討を要します.
もともとあのFAQ〔上述回答〕はmixiの段階では#07910bとセットで1つのFAQになっていて,そこへのつっこみの前振りとして書いたものでした.
そういう意味では「マルコポーロがジパングを金の島と記したのは」という部分は,「仮にジパングの項目の該当部分が日本のことだとすれば,マルコポーロがジパング=日本を金の島と記したのは」とすべきだったかも知れません.
【質問】
『東方見聞録』では,文永・弘安の役はどう書かれているの?
【回答】
東方見聞録 元寇要約;
「日本占領に出かけた大艦隊は,初戦大勝なるも,暴風雨に合い壊滅.
たまたま近くに小島があり,約3万人がだけが助かった.
上層部は,残った数少ない船で帰国.
残軍の殆どは遺棄された.
日本国王は,得たりと全軍を挙げ,残敵掃討作戦を開始.
元残軍は,島の一方へ退却すると見せかけ,侵攻してきた日本軍の船を奪い脱出.
本土側へ渡ると,奪った王旗を掲げての首都進攻作戦を行い,見事成功した.
日本国軍も,元軍が遺棄した船を使い,再度本土で集結.
すぐさま首都奪回作戦に着手.
6ヶ月間の包囲作戦の後,元軍は奮闘むなしく全面降伏した.
コレは1279年に起こったことである」
・・・・・・・ゴラァ,百万(ポーロのあだ名.公式記録にまで使用されている)!
IF戦記ならその旨大きく書いとけ.
軍事板,2003/05/11
青文字:加筆改修部分
【質問】
元の日本侵攻失敗の原因は?
【回答】
戦略面
南宋を生かしておいたため,日本攻略に全力をそそげなかった(一次)
日本側が使者を切り殺して挑発したため,充分な準備期間を置けなかった(二次)
戦術面
起伏が激しく平野部が狭い国土のため,モンゴル騎兵得意の機動戦術が封じられた.
二次侵攻の時は,さらに防塁まで築かれた.
結局どの戦線でもモンゴル軍は橋頭堡を確保し切れ無かった.
予備兵力と地の利に勝る鎌倉武士団は,昼夜を問わず戦いを挑んだ.
総合
結局は,機動力を封じられて補給に難が有る軽騎兵と,地の利および兵器の扱いに長けた,補給面の不安が無い重装歩兵の戦い.
これでは後者が有利で無いほうが不思議.
「神風」によって元軍が自滅したという説が仮に事実だとして,もし2日以降の戦いがあったとしても海岸線に橋頭堡を築く事さえ難しいと考えられるし,長期戦になれば日本軍の有利は加速するので,結果は日本軍の勝利で終われます.
▼ ただし弘安の役の鷹島集結後の行動予測として,博多とは逆方向から太宰府を突く可能性を指摘している本があったかと思います.
そっち方向の備えはお留守だったという可能性もあるようなので.
・鷹島への元側に残っている反撃の記録がない(全滅した?)
・博多の御家人集が鷹島の件を知ったのは嵐で壊滅したあと
このようなことが書かれていたと記憶しております.
出典は曖昧で記憶しておりませんが可能性としては『兵器と戦術の世界史』(金子常規著,原書房,1979.9)あるいは『兵器と戦術の日本史』(同,1982.5)あたりだったかもしれません.
【質問】
文永の役の両軍兵力は?
【回答】
数量は異説がありますがおおよそ,
蒙古,漢軍2万人
高麗軍5千6百人
梢工,水手1万5千人(高麗人6千7百)
総勢4万6百人
艦船900隻(高麗提供)
兵力構成としてはこんなもので,蒙古軍は督戦部隊のようです.
その他,女真族もいますが,蒙古漢軍は旧南宋攻略軍として編成された軍なので,蒙古風の装備,戦術を使用したと思います.
一方,日本側の総兵力は不明.
【質問】
元軍が行った残虐行為について教えてください.
【回答】
あるエピソードを語源辞典で見たことがある.
元軍兵士は,対馬・壱岐等で捕らえた娘達を獣欲の対象とした.
その両手のひらに穴を開けて縄を通し,船べりから吊り下げておいて,用を足すときは船上につり上げ,死ねば縄を切って海に落とした.
それを海岸で見ていた日本人達は嘆き悲しんだ,と言う.
それで,日本語の「むごい」の語源は「モンゴイ」からきているというらしい.
ちなみに上記の大本のソースは,中国の史書『新元史』.
【質問】
開戦前から,元冦の日本本土上陸地点は九州だと予測されていたの?
【回答】
文永,弘安の役両方とも予測されていました.
元軍の攻略目標は「大宰府」.
文永の役で壱岐,対馬占領の報はすかさず少弐氏に連絡されていたので,
予てからの手はずどうり大友,島津らの有力御家人は博多防衛戦を展開すべく集結しました.
これは,元の対日侵攻が予測されたものであり,元軍の目標,日本側の重要拠点が一致していたからです.
(元の使者は偵察隊)
事実,海岸線での防衛戦後,日本軍は後方の水城に後退.最終防衛ラインとしたのです.
この水城は隋,唐の侵略に備えて構築された城であり,日本の最重要戦略拠点大宰府を博多湾からの侵攻から防衛するためのものです.
ただし元軍は博多以外にも,長崎県の平戸,山口県の西海岸へも上陸来寇している,
【質問】
なぜ鎌倉幕府は元冦を洋上で迎え撃たなかったの?
【回答】
来寇する元軍船団を海上で迎撃するのは,まず無理.
その理由として
1)水軍組織力がなかった.
2)進撃航路を予想することは困難,当時の情報水準では海上会敵する事自体が不可能.
3)高麗軍は海域を知悉し,海上戦にたけており,待ち伏せ奇襲は無理.
これは,もし仮に『元軍に対抗できる水軍を保持』していたとしても,洋上での迎撃戦は難しい,そう思われます.
たしかに元軍の来寇航路は,ある程度の予想ならつくでしょう.
当時の技術的限界から,最短距離で,かつ比較的安全な,対馬・壱岐づたいの航路を主選択する以外に考えられません.
しかしそれでも,敵船団を捕捉し,予想海域で会敵する事が,可能とは思いません.
機動船の無い当時では,対馬(東)水道全域を監視するのは,ほぼ不可能だし,発見情報の伝達手段もありません.
それに何より,発見後,会敵予想海域へ急行する「船速度」をどうやって得るのでしょう.
偶然の遭遇を期待するわけにはいきません.
それと,当時の技術水準では,“玄界灘”洋上で船団同士の遭遇戦を行えるほど,自由に船が動き回れるとは思えません.
また,武装も貧弱でしょう.
(サラミス海戦を連想するのは無理があります.)
まあ,せいぜい,島陰か内湾の先で「待ち伏せ奇襲」をする程度しか考えられませんが,
(史実でもそうですが)数百隻の大軍相手に,それほどの戦果は期待できません.
また,高麗軍は,元寇以前の「刀尹の入寇」等,数次の海上侵略の主力水軍ですから,仮に元軍指導部が海戦に無理解だったとしても,そう侮れる相手ではありません.
結局,洋上で敵大船団を捕捉殲滅する構想は,あの時代では不可能だった,と考えます.
【質問】
日本の軍隊は集団戦闘をせずに,「やあやあわれこそはー!」って武将?同士の一騎打ちで戦争をやってたから,元寇のときに,敵が集団で攻めてきたので,最初は劣勢でした,ってお話(説)あるじゃないですか.
でも単純に考えたら,多対多の戦闘の方が有利なのは当たり前だし,中国とかから渡って来てただろう兵法書とかにも,集団戦闘のやりかたとか書いてあったはずですよねえ?
あと大河ドラマとか見てると,今なら源平合戦だけど,集団戦闘してるし,あるいはNHKの特番なんかで大化の改新とかありましたけど,あれでも集団戦闘してましたし.
ほんとの所はどうだったんですか?
【回答】
真実はともかく,大河ドラマやNHKの特番での映像を頼りにするのはどうかと.
映像化ということは,それだけ視聴者にみてもらうような作り方をわざとしているわけで・・・
で,当時は一騎討ちが主流では無い.
メインは騎乗した武者が弓を討ち合うこと.
機会があれば奇襲や放火だってする.
一騎討ちの相手を探してウロウロする馬鹿がいたらもちろん狙い頃だ(笑).
大体,「平家物語」からして,相手に殺されそうになったから命乞いして,助けてもらったところを騙し討ち,とかそんな話ばっかだぜ.
結局戦闘や戦争ってのは,所有している武具,動員できる兵士数その他諸々の要因を含めて,合理的な形態に帰結する.
元寇にしても,大量動員を前提とした戦法と,少数の戦争専門家用の戦法では,根本的に戦い方が違ったというだけ.
――――――
『八幡愚童訓』という,『蒙古襲来絵詞』と並ぶ史料に出ている話ですが,名乗りを挙げての一騎打ちというのも,珍しいですよ.
力量と身分が相応の相手と考えなければ,名乗りもせず,名乗り返されもしませんでした.名乗り返してもらえなかった例が,『平家物語』の熊谷直実,『義経記』の下人喜三太などです.
騎乗者には,乗馬の郎党もいれば,直接サポートしてくれる徒歩の下人・所従もおり,主の相手の馬の足を払うなどの行動も示しており,一対一や名乗りがあったからといって,固執していたとも思えません.
なお,『平家物語』には,その頃から騎射よりも組打や打物による一騎打ちが流行ったとかかれていますが,騎射も已然として健在でした.元寇の時にも,騎射で何人か倒しています.
ただ,最初から近接戦闘に移行した訳ではありません.
まずは楯を突き立てて矢を射掛けあう楯突戦から始まり,然る後に馳組戦と言って,直に近距離で戦うやり方に移行しました.
では,日本軍の苦戦についてはどうか.刀伊の入寇では,敵の弓の威力が高く,日本側の楯を貫いたとありますが,北東アジアの弓の弾力は強いものであった様で,日本側も弓が発達していたと言っても,まだ苦戦する事もあったかもしれません.
ただ,『八幡愚童訓』が宗教書であり,仏神による神風を称揚している事,文永・弘安の役でもそれなりに持ちこたえている事を考えれば,日本側が手も足も出なかったという程では無かったでしょうね.
中国とかから渡って来てただろう兵法書による集団戦闘の方法についてですが,兵制が違えば,採用されないこともままあります.
騎兵と歩兵の連携が見られるのは南北朝時代からと言われますが,12世紀初頭にも見られるともいい,前者は新しい秩序の構築と戦術の変化によってもたらされたもの,後者は古代的な編成の残存と見られています.
時代ごとの状況をご説明するのは大変ですが,
「戦術を知ったとしても,各時代ごとの秩序に合わなければ,採用されない」
という事を,ご了承下さい.
元冦
(画像掲示板より引用)
【質問】
蒙古騎兵はなぜ日本では活躍できなかったの?
【回答】
馬を世話すると分かるが,水は一日も欠かせない.しかも大量に.
カイバもそう.
運動も必要だ.
これらを欠かすと,すぐに馬は病気になる.
狭い船の中で,しかも熱気のある環境だとすぐにくたばる.
馬は暑いのが苦手だからね.
江南の軍の渡来では,あそこから馬を運んでくるのは,上記の理由を持って不可能といってよかった.(馬が途中でへばってしまう).
したがって長途航海に馬を運搬するのが至難だというのは,容易に想像がつく.
また元寇の間,元軍は船上で日常生活?を送っていたと思える.
馬を帯同していたら食餌等の問題で,船上生活は不可能だろう.
仮にそれらをなんとかできたとしても,玄海灘なら2日くらいでなんとか越えられるが,日本に到着したら即刻,馬を下船させ,水やカイバを与えなければならない.
幸いに日本は清流の国なので,水は豊富だが,与える牧草は供給に苦労するだろう.
モンゴルが大陸を制覇したような,機動的な騎馬戦を日本国土で展開するのは不可能といっていい.
事実,蒙古絵を見ても,馬に乗った蒙古兵は描かれてない.
蒙古兵の力は日本では発揮することができなかった.
したがって,モンゴル軽騎兵ではなく,散開歩兵であったと思われる,
これでは,弓術に秀でた鎌倉武士の騎馬隊に対し,充分な攻勢を示せず,橋頭堡を確保するどころか,慣れぬ船上生活に押し込められたまま消耗してしまったのだろう.
要するに,日本侵攻には無理があったということです.
【質問】
元冦の時,元の弩は日本の弓より威力が上だったと聞いたのですが何故ですか?
弓型よりクロスボウ型の方が効率がいいの?
それとも素材とか製造技術の差?
【回答】
クレッシーの戦いを参考にするといい.
本当は集団戦では長弓の方が装填も早くて数が打てて強いはずなのだけど.当時の日本には集団で弓を運用する職種がなく,逆に単騎で突撃すると命中率と威力に勝るクロスボウに討たれた.
集団で弓兵を統率するようになるのは室町以降になる.
元軍といってもモンゴル系の部隊だけじゃなくて南宋,高麗の兵隊もまじってる.
で南宋にはクロスボウが既に存在してたから,兵士がクロスボウを使用していたとしてもおかしくはないと思う.
元寇絵巻の有名な絵だと,元軍とおぼしき兵士は弓持ってるな
ついでに日本の弓も,単材使用はもっと昔の話.
鎌倉時代には三枚打の弓と呼ばれる弓が登場してる.一種の複合弓,
中心材に竹を両面に張り合わせて,籐で巻いて強化してある.
軍事板
【質問】
元寇における元軍が使用したてつはうについての知識・製法を,日本は元軍の捕虜から吸収することができなかったんでしょうか?
【回答】
元寇の主力は元の命令で動員された高麗兵だった.
彼らは「兵器を与えられて使われている」立場でしかなく,高度な技術を手(と脳)に持っている者は少なかった.
更に2度の元寇は日本,というか鎌倉幕府にもかなりの混乱をもたらしたため,その後のゴタゴタでそういった面に割けるリソースも少なかった.
兵器のコピーに関して言えば,弩(ど,おおゆみ)のコピーには着手したが,肝心な鉄弓の部分がコピーできず,諦めたという経緯がある.
あと,何より元軍の遺棄兵器は,奮戦したのに恩賞が貰えない御家人達が,使い道もよくわからないまま「戦利品」「舶来のお宝」として自己のものにしてしまい,幕府が提出を求めても,恩賞が貰えないことを理由に拒否し,大半は御家人の倉に納われたまま忘れ去られた.
後に,先祖が文永弘安の役に参加したという武士の家には,当時の元の兵器(の残骸や成れの果て)が代々伝わっていたりしたとのこと.
中には室町戦国安土桃山,そして江戸時代を経て明治まで伝わっている物品があったりする.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
元冦の際に元軍は毒矢を用いたそうですが,一体どんな毒を使っていたのですか?
【回答】
ゴビ砂漠の毒蛇から採取したmogain khoranという矢毒があったらしいが(ソースはオスプレイの「カルカ河の戦い」なので詳細は分からないが),元寇で毒矢を放ったのがモンゴル兵かどうか不明なので何ともいえませんね.
満州あたりの狩猟民族がトリカブト系の毒矢を放ってたのかもしれないし.
ちなみに,鉱物系の毒は中国では古代から研究が盛んで,毒殺にも度々用いられた.
植物系の毒も薬学なんかの絡みで研究も盛んで,日本でもトリカブトの毒を狩猟用の毒矢に用いていた.
【質問】
文永の役で蒙古高麗軍は,なぜ1日目の戦いの後,橋頭堡を築かずに船に引き返したのですか?
【回答】
『元史』によれば,日本側は数千人の迎撃体制しか出来てなかったにも関わらず,後退しながらも善戦したので,矢尽きて船に帰ったという.
元軍の戦術は「短弓」の飽和攻撃による敵兵力の減衰後包囲殲滅だったので,主兵装の「弓矢」がなくなるまで戦ったのだ.
高麗の将軍が督戦したが,元主将は肯わなかった.
なぜなら日本軍の増援が続々と到着しており,内奥部の防備は堅固と見込まれたからである.
元主将の判断は正しかったといえよう.
高麗将軍の言うことを聞いてなおも進撃していたら,それこそ全滅の憂き目に遭ったことであろう.
後退は予定の行動だったとか,高麗軍に戦意がなかったとか言うのは,近年のそうあれかしの空想の域を脱しない.
出兵兵士の大半を温存できた高麗軍は,元主将に感謝すべきというべきかも知れない.
【質問】
元冦襲来の際,「神風」は本当に吹いたの?
【回答】
気象学的見地に基づき,「神風」はフィクションだとする説もある.
文永の役では「なかった」説のほうが有力.
弘安の役のほうはまだ未確定.
井沢元彦さんの本では,当時天皇は反軍事的立場(要するに今と同じ空想平和主義?)で,鎌倉武士が頑張った(=武力で平和が守られた)のを素直に認められず,
「あれは神(風)のおかげであって,武士の力ではない」
ことを言いたくて神風のコンセプトを言いだした.みたいなことを書かれていて,面白かった.
もっとも井沢元彦の歴史情報をソースとすることには,問題もある模様.
軍事板(加筆修正部分:青)
私が聞いた「神風は吹かなかった」説は・・・
1.高麗の船大工サボタージュ説
高麗は被占領民であり,元に船を作れといわれたもののやる気がなく,また,「どうせ元に船なんぞわかりゃあせんだろう」てなことで手抜き工事かました.
その欠陥船で侵攻したもんだから,玄界灘の荒波でとうとう船が壊れてしまったと言う話.
2.執権ケチケチ説
「御家人の奮闘で勝った」なんてことになれば恩賞(領地)を与える必要があるが,防衛戦に勝ったところで元から領地が奪い取れるわけでもなく,元に逆侵攻もできないので,「神風で勝った」ことにしておいて,恩賞なし
の理由づけとしたという話.
(かなり苦しいですな,こっちは.実際不満がかわしきれずに,幕府衰退の原因になっちゃいましたね)
真偽のほどは不明.あしからず.
【関連リンク】
「朝目新聞」●元寇って本当に台風で勝てたの?何かおかしくない?
>数十年前の学者がものすごい適当言ってた可能性が高いのか….
【質問】
神風という概念は,元冦襲来のときに初めてできたの?
【回答】
「神風」という概念は,元寇より500年前の壬申の乱(672年)まで遡れるでしょう.
天文・遁甲(まあ一言でいえば魔法)好きの大海人皇子(後の天武天皇)は,伊勢,度会の神(後の伊勢神宮)らしき神に祈って,天候のコントロールと戦勝を求め,そしてその通り勝ちました.
そのためか,万葉集以来「神風」は,伊勢の国の枕詞(「神風の伊勢」)になっています.
だからこそ,天皇やら天台座主やら日蓮やら,ありとあらゆる連中が怨敵退散の祈祷をした元寇の時に,大風(あるいはちょっとした風)が吹けば,
「伊勢神宮の神風だった」
という結論がすぐに受け入れられたのだと思います.
【質問】
元冦襲来に際し,高麗人の造った船が手抜きだった,というのは本当でしょうか?
【回答】
フビライにせかされたため,高麗人の造った船が手抜きであったこともあっただろうが,白石一郎著『蒙古襲来』によると,当時の高麗の造船技術は未熟だったらしい.
乾いた木でなく生木を使ったり,鉄の釘でなく木の釘を使ってたとのこと.
南宋の造船技術は高かったろうが,弘安の役では揺れを防ぐために船同士を綱で繋いだらしいから沈むよな.
【質問】
元軍の海軍力は,そんなに駄目だったの?
【回答】
1284年宋の海将阿塔海(アタハイ,「あとうかい」ではない)にフビライは,東南アジア諸国への遠征を命じるがやはり暴風雨の為失敗している.
1279年に宋滅亡後公降将をもって海戦のノウハウを導入しても,結果はこの失敗.
この前に,文永,弘安の役で失敗しての都合3回目の戦いである.3度目の日本侵攻も計画していたと言う事なので,とことん海戦を理解していなかったのだろう.
元軍の指揮を高麗軍の金方慶が執っていれば,或はとも言えるが,元軍の副司令官・洪茶丘も高麗人だったことを考えると,元のトップに問題があったのだろう.
【質問】
元寇襲来の際,海戦は起きたのですか?
【回答】
文永,弘安の役において海戦が行われたのは弘安の役になります.
文永時と異なり,博多湾には20キロにもなる防塁が築かれていたため,元軍は上陸予定地点を変更し,志賀島に上陸
(別働隊300余隻が長門方面に迂回上陸し,本州からの援軍の阻止,日本軍の分断を図るが,それは日本軍の予測どうりの行動であり元軍は全滅する)
し,内陸部へ侵攻することにした.
ここで,「志賀島沖の海戦」が行われた.
といっても日本側にはまともな船もなく,元軍船からの「石弓」により,日本軍船(ただの小船)はなすすべもなく沈められてしまった.
その中で,伊予水軍河野通有,村上水軍村上頼久らが多大な戦死者(村上は戦死,河野は毒矢により瀕死)を出しながらも奮戦した.
この戦いの後,日本軍は昼間の海戦はやめて夜戦に切り替えた.
元軍は度重なる夜襲により,志賀島上陸を断念し壱岐島に後退.
この壱岐で元軍は,中国の江南から進発した江南軍(朝鮮の合浦進発軍は東路軍)と合流する予定であったための後退であった.
この元軍を追撃した際にも,壱岐島瀬戸浦で海戦が行われた.
これは,瀬戸浦を占拠停泊中の元艦隊に日本軍が挑むといったもので,約4日間に渡って海戦が行われるも,戦果はなかった.
ここで元軍は江南軍と合流する予定であったが,江南軍は壱岐には来ずに平戸に上陸してしまった為,東路軍は平戸に向かい江南軍と合流.
一旦,両軍は軍を引き合う事になった.
元軍は平戸で軍を編成しなおし,北松浦郡沿岸から侵攻を図るが,松浦党の活躍で失敗.
大きな船だと座礁が恐くて狭い水路まで追撃できない.
そのため松浦水軍は,油断している所を襲って矢をいかけたり錨を繋いでるロープを切ったりと,やりたい放題.
元軍は肥前鷹島で再集結したところを,ここでも日本水軍による夜襲を受ける.
日本軍は翌朝引き上げるが,その後博多湾への突入作戦の準備中,「神風」のため壊滅.※
以上,海戦といえるのは,「志賀島」「壱岐瀬戸浦」「鷹島」の3つがあるが,夜戦以外では殆んど効果はなく,逆に元軍になすすべもなく撃破されている.
正面きっての大会戦は望むべくもないが,「壱岐瀬戸浦」での攻防は問題のある戦いと言える.
夜襲及びゲリラ戦に徹するべきだったろう.
※ 気象学的見地に基づき,「神風」はフィクションだとする説もある.
【質問】
元冦襲来に対する鎌倉幕府の,水軍の使い方は適切でしたか?
【回答】
鎌倉幕府が農民出身の武士主体である以上,彼らの思考に陸上決戦があるのは仕方ないかと.
しかし,水軍衆の使い方は当時としては十分なものだと考えます.
また,元に内通する水軍衆が居なかった事は幸いであったと思います.
まだ愛国心というものが無かった時代,少なくとも水軍衆が幕府に協力的だった事で充分だと自分は思います.
さらに,大規模船団を作るには相当な予算と人材が必要であり.地方分権の鎌倉幕府にその力があったかどうかは不明です.
【質問】
もし鎌倉幕府が元軍に対抗するための水軍力強化に力を入れていたら,どんな作戦が可能だったでしょうか?
【回答】
外洋での遭遇戦は,可能とは考えられません.
これは,敵の航路,上陸地点,攻略目標が高い確度で予測されていても,情報伝達(伝令船),索敵(目視),自軍船舶の行動力の技術的限界,気象条件等による制約が大きからです.
当然,作戦を立てるにあたり,これらの事を前提に立案されるわけなので,外洋での遭遇戦は考えないでしょう.
それより,湾入り口近辺の海域の監視網を強化し,待ち伏せした方が確実となるでしょう.
または壱岐対馬周辺海域での迎撃,停泊地の強襲.
水軍=時の政府に認められた海賊です.
どちらかというと船隊組んで艦隊決戦をするよりは夜戦,ゲリラ戦が得意でしょう.
史実の海戦における夜襲等のゲリラ戦は,昼間の正面攻撃ではまったく太刀打ちできなかったため,執られたものです.
史実では「志賀島の上陸作戦」を阻止し,「鷹島の夜襲」は博多湾突入を妨害しています.
一応の戦果は上げており,これに装備,戦力がそろっておれば戦術の選択肢は多くなり,より大きな戦果を上げることは可能と思います.
(例えば,湾内に敵を追い込み,陸海から殲滅するとか,江南軍との合流前に東路軍を各個撃破するとか)
ただ,やはり〔当時の幕府に〕構築可能な水軍は,西海・瀬戸内等の水軍衆集合部隊になります,
常設部隊は望むべくもありません.
小部隊の襲撃には秀でても,統制のとれた艦隊行動は不慣れな部隊です.
また,元軍は支隊でも渡洋船が数百隻単位の船団です.
島陰に対抗船隊を隠すにしても,それほど大部隊を隠せるものではありません,
やはり,小部隊のゲリラ戦になってしまわざるを得ないのです.
有効な策としては,元軍上陸まで水軍主力を(周防灘に?)待避させておき,陸上戦闘が生起してから昼間,一挙に,沖合停錨中の空船団を奇襲し,火攻めする.
これで敵の糧秣船を沈没させる事に成功すれば,勝敗はつきます.
(史実の元軍が夜間,船に戻っていたのは,夜襲で糧秣船を焼かれるのを恐れていたのかも知れません.)
さらに,元軍が上陸戦闘中,水軍を壱岐島に派遣し奪還する.
元軍にとって対馬・壱岐は,後背地であり補給兵站基地でもあります.
退路を断ち,兵站線を切る,
一石二鳥の上策で,元軍を窮地に追い込めそうですが,直ちに元軍主力が逆襲してくるでしょう.
(場合によっては壱岐の水軍部隊が「孤軍」になってしまうおそれもあります.)
まあいずれにせよ,まともな水軍を組織していたとしても,陸海共同での挟撃戦とか,撤退敵軍の追撃戦とかに限られ,はなばなしい水上戦は,当時としては無理ではなかったかと,そう思います.
【質問】
筥崎(はこざき)宮楼門の掲額「敵國降伏」の意味は?
【回答】
道義立国の意味がある,という解釈がある.
筥崎(はこざき)宮「敵國降伏」は道義立國!!
福岡市にある「筥崎宮」は約1100年続いたお宮で,その昔神功皇后が征韓出陣の際に祈った場所といわれ今は毎年数百万の観光客が訪れます.
このお宮の楼門高くに「敵國降伏」という掲額があり,〔略〕元寇の襲来の折り亀山上皇のご親筆に拠ったものと伝えられています.
江戸時代の末期,文政元年(1818年)当時の儒学の最高峰・頼山陽がここを訪れその額を見上げて,本当に敵国を降伏させる意なら「降伏敵國」と(順序を逆に)書かねばおかしいのではないかと問題提起をしました(漢文流に「敵國ヲ降伏サセル」と詠む).
爾来地元の論壇では議論が巻き起こりましたが明治期に入り,当時福岡がうんだ大論客の福本日南(1857~1921)が
「敵國が自ら降伏するのは徳に由る,これは王道と呼ぶ.
敵國を武力で降伏させる,これは覇道と呼ぶ」
と解釈し,「敵國降伏」にはわが国の優れた徳の力で相手が自ずから屈し統一されるという日本の国柄が示されていると論じました.
さらに時代が下がって昭和5年,文豪徳富蘇峰(1863~1957)が参拝した際,同じ掲額の前で
「道義立國こそ,敵対する國がおのずから心服する道である」
と語られたそうです.
まあ,昭和5年という時代背景も,そうした解釈に関係していると思えなくもないが.
なお,4世紀以降の大和朝廷の朝鮮半島進出自体は,中国の『宋書』や朝鮮の『三国史記』の記述,遺跡からの出土品から事実として立証できるが,神功皇后の三韓征伐は創作と考えられているので念のため.
【質問】
元寇の時,九州に下向した鎌倉御家人が多かったのは,関東では北条氏の圧迫で生存の危機にあったから?
【回答】
個人的には, もかなり違和感を覚えるのですが.
東国御家人が西遷したのは,やはり承久の乱後がいちばん多かったと思いますし,それは北条氏に圧迫されたからではなくて,西国に莫大な恩賞地を獲得したからです.
元寇で幕府軍の主力となって戦った武士たちは,西国に所領を持っていたから動員されたわけでして,北条氏に圧迫されて逃げたということではないです.
そもそも彼らに動員を命じたのは執権北条氏なのですから,その北条氏から圧迫されて逃れたというのはおかしいです.
また,九州では,幕府はもともと太宰府守護所を介して統治していますし,元寇を契機に鎮西探題を設置するなど,寺社や朝廷の勢力が強かった近畿地方に比べると,幕府の勢力もかなり浸透しています.
▼ 私は上京前,厚木基地でおなじみの綾瀬市に住んでいたのですが,早川城という城があり,平安末期から鎌倉初期にかけて渋谷重国の居城でした.
この人,平治の乱で敗れた村上源氏の佐々木秀義親子を保護してました.
で,時代は移り,渋谷氏の子孫は薩摩に下り,その中に東郷平八郎が.
佐々木氏の子孫には,乃木将軍が.
戦前は,軍神二人の関連地であったことを,結構自慢していたようでした.
早川城址の城山公園には,東郷元帥の祖先発祥の地の碑があります.
水上攝堤 by mail,2009/6/10
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【質問】
「霜月騒動」とは?
【回答】
弘安の役で,鎌倉御家人が奮戦した結果,「御恩と奉公」の当然の果実として,彼等御家人には恩賞を与えなければなりませんでした.
しかし,相手は国内軍事勢力ではなく海外からの侵攻であり,恩賞として与える土地は全く捻出出来ていません.
其所で幕府は,こうした功臣達を粛清すると言う愚挙に出ます.
1285年11月のことで,これは所謂「霜月騒動」と呼ばれるものですが,これにより有力御家人である安達泰盛を頂点とする500余名の御家人が,得宗管領平頼綱の軍勢に急襲され,誅滅させられています.
安達泰盛は,鎌倉市の甘縄神明神社の辺りに館があり,背後には山城,中腹に館,下方には一族家臣の居宅や厩がありましたが,奇襲で敢えなく壊滅しました.
更に,肥後守護代の安達盛宗は博多で討たれ,「日の本大将」と呼ばれた少弐景資は筑前の岩門で,大曾禰長義の義父である宗長も関東で誅され,天野氏は安達派と平頼綱派に分断され,大半がその内訌で死にました.
武州金沢を領していた金澤顕時も,妻が安達泰盛の女であったことから,下総埴生に流され,執事の倉栖氏も死去しました.
因みに倉栖氏は吉田兼雄,吉田兼好(徒然草の兼好法師)の父親です.
この霜月騒動は,平頼綱の独走と言われていますが,実際には執権北条時宗の同意を元に行われた可能性が高いと考えられています.
しかし,余りにも他の御家人の反発が強かったので,1293年4月に執権北条定時はその罪を全て平頼綱に着せて誅滅した訳です.
結果的に,安達泰盛を頂点とした,弘安の役の最大の功労者を粛清して,恩賞を与えないばかりか,その所領をひねり出して恩賞を捻出し,他面北条一門の勢力拡大の資本としています.
平頼綱誅滅により,「霜月騒動は無かった事にする」と言う事で幕引きを計りますが,安達家は顕盛流と大曽禰流の2系統だけ復活したに留まり,騒動の前の5分の1又は10分の1にまで減ります.
こうした幕府の所業は,御家人達の間に北条の正体を見極めて幻滅を生ぜ占め,遂には信を置かなくなって,後年の鎌倉幕府滅亡の遠因となっていきます.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/08/14 21:45