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◆1911〜1956年
戦史FAQ目次


(画像掲示板より引用)


 【link】

NHK『世紀をこえて』

 白眉はやはりイスラム原理主義者によるNY貿易センター爆破事件と,NY海底トンネル爆破計画の謀議テープでしょう.
 昨年の9.11テロの後,再放送されましたが,うーん・・・
 イスラムがこれほどアメリカを憎んでいたとは知りませんでした.

------------NHKの音楽は良いですね :軍事板,2002/04/21


 「世紀を越えて」では,対人地雷を特集した回が一番印象に残ってますね.
 端的に言えば,反政府軍も政府軍も豊富なレアメタル資源で巨万の富を築いて何をしているかといえば,もう山ほど地雷を買ってきて,お互いにそこいら中に埋めているわけなんですよ.
 で,政府軍は政府軍で「畑にまくことによって反政府軍の糧道を立つ」,反政府軍は反政府軍で「畑にまくことによって,農民が国内難民となって政府の負担がます」とか言ってるわけなんです.
 もう,お互いに何のために内戦してるのか完全に方向性を見失ってしまっている.
 人間という生き物が何のために生きているのかということの根本的な部分に対する疑義を提示する.
 さりとて,わかり易い「答え」なんぞは厚かましく例示しない,という構成は圧巻でした.

------------海の人 :軍事板,2002/04/21

「VOR」◆(2012/08/27)沿アムール地方 日本からの代表団が1919年事件の犠牲者を弔う

「朝目新聞」(2013/07/19)● ロシアのサイトに掲載された1950年代の日本

「神保町系オタオタ日記」■(2008-08-01)大正政変
>成田龍一『大正デモクラシー』(岩波新書)を読んでたら,都新聞社も襲われたことがあったらしい.大正2年2月10日のこと.

「地政学を英国で学ぶ」◆(2010/03/11)フォークランド紛争と米英の亀裂

『映像の世紀』全11集(NHKエンタープライズ , 2000)

 加古隆のあの音楽のせいで,プロパガンダなきプロパガンダ映画の傑作となったと思う.
 正直,NHKはファナチックというか大河ドラマの制作経験を生かし「劇的に」つくりすぎ.
 「13DAYS」のおさえた筆致に比べ,「NHK特集/キューバ危機の13日間?」は,ちょっと面白く作りすぎている.

------------軍事板,2002/04/21


 「映像の世紀」という番組名はしらなくても,あの音楽(パリは燃えているか)はたいていの人は知っているみたいですからねぇ.
 「世紀を越えて」のアディエマスも結構知名度たかいですよね.
 海の人は,映像の世紀のサブタイトル群は,いいセンスだと思いました.
 「世界は地獄を見た」とか.

 一貫した基調テーマとしての「人間が為し得たこと為し得なかったこと,為そうとしたこと,為そうとしてできなかったことの映像記録」の上で,個別な旋律として「破壊と創造」「生と死」あるいは「力ある者と従属する者」という「20世紀」の人類の様々なドラマティックを,よくもここまで集めたものであるという構成だから,人によって,その段階は様々であれとても圧倒されるものではありますよね.
 なんせ100年分ですし(笑)

 あれですね,たとえば名前ど忘れしたのですが,ソヴェトを訪れたイギリスの思想家が,熱っぽく共産主義の偉大さを語ったシーンとか,あるいは第一次世界大戦の「クリスマスまでには帰れる」,そして最終回の「JAPAN」に代表されるような「ここに昔あった」という,人間世界のはかなさと逞しさが非常に印象に残りましたです.
 感情を揺り動かされる場面は多かったのですが,不思議に,思想的な,信条的な何か妙な方向性というものが感じられなかったのが,あるいはあの番組の一つの回答なんだろうな,とも思いますです.

------------海の人 : 軍事板,2002/04/21


 「世界は地獄をみた」あたりになると,もうNHK劇的空間の真骨頂ですね.
 オラドゥールの虐殺からはじまり「神よ.人より大きな街を何ゆえ創りたまう」といわんばかりの聖書的なスターリングラード戦の描写には圧倒されましたが,本来,視聴者を圧倒し,感情に流しちゃうのは「報道」とはいえんでしょうね.
 いや,好きですが.

------------NHKの音楽は良いですね :軍事板,2002/04/21


 BGMって人に感情的なものを伝えるには必須だからね.
 80年頃からニュースの娯楽化が進んで,ニュースやドキュメントにBGMやSEが入れられ,無思慮な盛り上げ・或いは意図的なイメージの伝達がされるようになって,日本の報道が事実の伝達ではなくなった.
 対して海外のニュースでは,例えばアメリカのニュース(ABC・CBS・CNNとか)では,個々のニュースの放送の間はBGMもSEも全く無い.

------------軍事板,2002/04/21


 価値の位置付けを行なうトキュメンタリーでは,やはり「事実をありのままに」が理想の報道とはスタンスが異なるのでしょう.
 異様にクォリティの高いこの2つのシリーズに比べて,今度の「変革の世紀」はやや落ちる印象が有ります.
(私の印象に残ったシーンは,20年代ニューヨークのフィッツジェラルドによる多幸症的描写)

------------ G_Tomo :軍事板,2002/04/21

『児玉誉士夫,巨魁の昭和史』を読み解く (2013/04/16)◆「国際インテリジェンス機密ファイル」

『日本軍事史年表 昭和・平成』(吉川弘文館編集部編,吉川弘文館,2012.3)


◆1911〜1975年


 【質問】
 伊土戦争(1911.9〜1912.10)において,イタリアが勝った戦闘について教えてください.

 【回答】
 ベイルート港海戦.
 装甲巡洋艦フランチェスコ・フルッキオとジュゼッペ・ガリバルディが,トルコ海防戦艦アブニ・イラーと水雷艇アンゴラを,損害無しで撃沈.

軍事板,2000/09/14(木)

 伊土戦争では,イタリア軍は現在のリビア,当時のオスマントルコ領キレナイカの,トリポリ・トブルク・ベンガジなどの諸都市を一気に占領.
(見たかロンメル.トブルクだって一気に占領だ!)
 加えて,エーゲ海のトルコ領の諸島も占領しました.
 トルコ軍の弱体ぶりを見たバルカン諸国がバルカン戦争を始めたため,トルコはイタリアに休戦を申し入れ,かくして伊土戦争はイタリアの大勝利に終わったのです.
 トルコ側にろくな守備隊がいなかったのではないかと疑われる方も多いかと思いますが,敵の弱点を突くののは戦略の基本,強さの源泉.
 軍事の皆さんなら分かっていただけますよね?

 何しろ,相手は衰えたりとはいえ500年間中近東・バルカン・北アフリカを支配したオスマントルコの大帝国,こちらは統一から半世紀の出来星国家イタリア.
 日清戦争で老大国清を破った新興日本帝国ぐらいには誉めてもらっていいのでは?

 それにキレナイカの諸都市占領後も,トルコ軍は現地のアラブ人と協力してしぶとく抵抗を…
 奥地の連中は全然イタリア軍のいうこと聞いてくれないの.
 文明化されたトルコ軍とは休戦で手打ちをしたんだけど,イタリア文明のすばらしさを理解できない奥地の野蛮人共とは,20年ほどゲリラ戦を続けました.
 しくしく.

マランツァーニ in 軍事板,2000/09/14(木)〜09/15(金)

 ちなみに伊土戦争で,イタリア軍は世界で初めて航空機を実戦使用した.
 偵察と爆撃,10機程度のものだったが.

ペンネームC in 軍事板,2000/09/15(金)


 【質問】
 伊土(イタリア・トルコ)戦争において,両国海軍の間にどんな戦闘が起こったか?

 【回答】
 これについては,「世界の艦船第262集 イタリア海軍のあゆみ(1978/12)」の中で記載がありました.

 戦争は1911年9月29日〜12年10月15日まで続きましたが,トルコ海軍は海防戦艦1隻,水雷艇3隻,砲艦8隻,その他武装ヨット1隻を失ったようです.
 この内,海防艦アヴニ・イラー(Avni Illah)と水雷艇アンゴラ(Angora)はベイルート港に停泊中の1912年2月,イタリア艦隊の装甲巡洋艦ジュゼッペ・ガリバルディ&フランチェスコ・フェルッキオの攻撃により沈められました.

 ちなみに,オーストリア海軍は伊土戦争とは直接関わりがありませんが,この戦争が行なわれている間装甲巡洋艦マリア・テレジアをギリシャ領のサロニカに派遣(同地の利権確保&自国民の保護が目的)し,また準ド級戦艦エルツヘルツォ−ク・フランツ・フェルディナント,ラデツキー,ズリーニ,軽巡洋艦アドミラル・スパウン,駆逐艦2隻を東地中海のエーゲ海域に派遣して数ヶ月そこに留まらせていたようです.

(ハウス in 世界史板)


 【質問】
 第1バルカン戦争(1912.10〜1913.5)が起こった原因ってなに?

 【回答】
 それぞれ「大…主義」を掲げていたセルビア,ギリシャ,ブルガリアが,トリポリ戦争をきっかけに共同歩調をとって,瀕死の病人オスマン帝国からバルカンの領土を奪おうとして勃発.
 今度はトルコから奪い取ったマケドニア地方の領有をめぐって,第二次バルカン戦争勃発.
 ここで肥大化した「大…主義」が,第一次世界大戦のきっかけの一つになる.

世界史板


 【質問】
 なぜ上原勇作陸軍相は第2次西園寺公望(さいおんじ・きんもち)内閣を倒すことができたのか?

 【回答】
 軍部の特権を利用したため.

 当時,西園寺内閣は,陸軍の2個師団増設要求を,財政難を理由に拒否した.
 そこで1912年12月,上原陸相は帷幄(いあく)上奏をして単独辞職.
 陸相や参謀総長などは,軍事問題に関し,総理大臣の承認を得なくても天皇に上奏できる帷幄上奏権を有していたが,上原はその特権を利用して上奏(辞表提出)を行ったのである.
 これによって内閣は総辞職.
 結果,ここに軍部が大臣辞職によって内閣を倒すという先例を作ってしまったのである.

 詳しくは,山田朗著「軍備拡張の近代史」(吉川弘文館,1997/6/1),p.50-51を参照されたし.


 【質問】
 シーメンス事件後の,日本海軍の犯罪再発防止策は,どんなものだったの?

 【回答】
 話に依れば,海軍では金剛作った某社との賄賂事件以来,盆暮れの贈答から全部禁止.
 曰く「贈賄は盆暮れの贈答から始まる」として,一切を自分持ちにしていたと.

 確か某主計少尉が,手弁当持ちで某納入会社に行ったら,いろいろ昼飯やら何やら勧められたので,
「陸軍はそうかも知れない,
 だが,今回の納入の件は海軍である.
 海軍ではそう言うことは一切しないし,受け取らない.
 どうしてもと言うのなら,後で飯なら飯代を返還する」
とかいったそうな.
 それでも贈り物が来たようで,モノがモノ(ナマモノだった)だっただけに,
「この商品の値段を調べろ!」
と言う訳で,その辺調べ上げて,同額の金額を返しに言った後,
「今後は一切しなくてよろしいです」
と念を押したそうだ.

かなかなかな in 軍事板,2009/06/06(土)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 キジルペニン合意とは?

 【回答】
 1918/3/25に,ブハラ側とソヴィエト・トルキスタンの間で調印された合意.
 ロシア人兵士とブハラ人の間で衝突が起き,3月には大きな衝突事件が起きたため,それを受けてのもの.
 この合意により,アミールの権力は弱体化した.

 以下引用.

 1917年10月の革命と激動の時期には,状況は一層悪化し,流刑者を含む「ロシア人住民」の状況も悪化,権力は「過激派」あるいは「脱階級分子」の手に移った.
 ロシア居留民守備隊の兵士は略奪を行い,住民から食糧,馬草をカネを支払わずに奪った.
 ロシア兵とブハラ人の間で衝突が起き,ブハラ人の間で損害が拡大したが,緊張状態は1918年春まで続いた.
 状況の緊迫化の中で,1918年3月に両者の間の大きな衝突事件が起きた.
 それを受けて3月25日に,ブハラ側とソヴィエト・トルキスタンの間でキジルペニン合意が調印された.
 アミールの権力基盤は弱体化したが,1万2000人の軍を保持することは認められた.

柴田和重 from 「ハンドブック現代アフガニスタン」(明石書店,2005.6.25),p.112-113


 【質問】
 フィトラトとは?

 【回答】
 1886年生まれ.
 アフ【ガ】ーニスタンと連携し,ブハラ王国の宮廷クーデターを画策する.
 1918年のコレソフ蜂起に失敗.
 1919年に共産党入党.
 1938年,粛清により死去.
 現在のウズベキスタンでは彼は高く評価されて入るという.

 以下引用.

 1917年2月のロシア革命によるツァー体制打倒は,トルキスタンおよびブハラ・ヒヴァ両国に大きな衝撃を与えた.
 ロシア臨時革命政府は合意文書によってブハラの独立を認めた.
 ブハラ政府もアフガニスタンなどと連携を深め,ロシアの次の動きに備えた.
 〔略〕
 当時のブハラ国内の政治勢力としては,改革を指向するジャディーディストと民主派のブロックが片方にあり,もう一方のブロックである保守派がそれに対抗していた.
 アミールは保守派に与して現体制を維持しようとしたため,改革派は次第に後退を余儀なくされた.
 改革派の青年ブハラ党は,新ブハラ(カザン),チャルジュイ,ケルキ,テルメズに活動の拠点を移して抵抗していた.
 代表的ジャディーディストの一人であるフィトラト(1886-1938年)のグループは,アフガニスタンの有力者であるグラーブ・ナビーハーンと連携をとり,宮廷クーデターによってアミールを廃する計画を持っていた.計画が成功した暁には,ブハラはアフガニスタンの保護下に入ることも想定されていた(小松 1996: 114)※.
 中央アジアの改革がアフガニスタンと一体になって考えられていたことは,コーカンド,ブハラ,ヒヴァとアフガニスタンが多面的に接触していたことによく示されている.
 1918年のコレソフ蜂起に失敗したフィトラトは一時期,タシュケントのアフガニスタン領事館で働いていたこともある.
 フィトラトは1919年にブハラ共産党に入党している.「ブハラの宮廷にはソヴィエト・ロシアへの接近を支持する有力な一派が形成され,ルーブル相場も著しく高まっていた」のである.
 なお,フィトラトは現在のウズベキスタンでは高く評価されている.
 ウズベキスタンの歴史教科書第10巻の表紙には,フィトラトの言葉として,
「歴史,それは過去の民族の高揚から崩壊までを学ぶことである」が掲載されている(Alinova).

 〔略〕

 なお,フィトラトなどジャディーディストや民族主義者はその後,1938年の粛正で殆ど処刑されるという悲劇を迎えることになる.

柴田和重 from 「ハンドブック現代アフガニスタン」(明石書店,2005.6.25),p.111-113


 【質問】
 第一次大戦後の戦間期の頃,ドイツと国民党の間には武器の販売,ライセンス生産,軍事顧問団の派遣etc… と非常に深い繋がりがありますが,これはどういった経緯で出来上がったのでしょうか?

 【回答】
 第一次世界大戦前から清国とドイツ帝国との関係は非常に良好でした.
 海軍の鎮遠とか….
 陸軍も精鋭軍の装備にはドイツの装備を導入していました(モーゼル小銃なんかもライセンス生産してたり).

 英国,フランス,ロシア,日本は領土的野心を剥き出しにしたのに対して,ドイツは比較的そう言った点ではマシでしたし,ドイツは清国と同じく皇帝を頭に戴く帝政でしたので,関係をすんなり築きやすかったところもありました.

 清帝国が倒れてからは,中華民国となった訳ですが,その軍は従来の軍閥を吸収した格好になっていましたので,ドイツとの繋がりが切れた訳ではありません.
 また,第一次大戦後のドイツは市場を欲していました.
 オスマントルコが倒れた後,一番市場的に進出しやすいのは中国ですし,Versailles体制の監視の目も届きにくいことから,中国との関係が強化されていった訳です.

 【参考サイト】
ドイツの対支政策と日独関係

ハプロ条約

眠い人 ◆gQikaJHtf2他 in 軍事板

鎮遠


 【質問】
 大正期日本の反軍思想は,どれほどのものだったか?

 【回答】
 編集責任・山崎正男,協力・偕行社で昭和44年に発行された「陸軍士官学校」の中に,大正期について,
「陸軍中央幼年学校本科以来,連続,遊泳演習に行っていた鎌倉の宿舎が断ってきて,やむを得ず館山へ変更したり(第36期生のとき),電車の中で鶏の蹴爪(拍車のこと)が邪魔になると言われたのも,この時代の反軍思想の現われであった」
と記されている.


 【質問】
 関東大震災の直後に東京に全速で直行した長門を,英巡洋艦が追尾した一件について教えてください.


 【回答】
 最高速度を確認するための追尾.
 26ノット出るの確認.
「アンタとこの戦艦公表スペックより早く走ってたじゃん?」
と言われた日本海軍が,
「いやー,アレは緊急事態なので,釜が壊れるの覚悟で無茶させたんですよ.
 いやねぇ,やれば出来るもんだ.
 でも機関痛んだから,直すの大変ですわ」
と誤魔化した?のは,けっこう有名な話.

 なお,改装後の公表スペックだと25ktしか出せないことになっていて,秘密でやったテストでも26.5ktしか出せなかった筈だが,レイテ作戦の際には27kt出して走って,特に機関がおかしくなってたりもしてないので,この辺内部資料もいじってたかも.

軍事板,2009/08/27(木)
青文字:加筆改修部分

▼ 阿川弘之著『米内光政』に,詳しいエピソードが載っています.
 兵学校卒業生を乗せた練習艦隊が,遠洋航海に出ようとした時のエピソードです.
 以下引用.

---------------------
 旅順を出港した練習艦隊は,
(中略)
九月一日早朝青島を抜錨し,佐世保へ回航中,関東大震災の第一報が届いた.
 近海巡航が終わればいよいよ待望の遠洋航海,オーストラリア,ニュージーランドへ向う予定であったが,それは当分お預けとなり,斎藤七五郎中将の率いる磐手,八雲,浅間の三艦も,佐世保で炭水医療品食料満載の上,急遽救援にかけつけることになった.

(中略)

 九月三日の午後九時十五分佐世保を出,古い機関の廻転をせい一杯に上げて,翌四日夕刻土佐沖にかかるころ,一隻の戦艦が練習艦隊に追い迫って来た.
 志布志湾で救援物資を搭載し,単艦で東京湾へ急行中の聯合艦隊旗艦長門であった.
 最大戦闘速力近くまで出しているらしく,見る見る,浅間,八雲,磐手と抜いて行く.

 口惜しがった斎藤七五郎司令官は,
「貴艦速力何ノットナリヤ?」
と,いやがらせのような信号を長門に送った.
 何故それがいやがらせかとうと,当時長門陸奥の最大戦速二十六・五ノットは,戦艦のスピードとして世界最高であった代り,重大な機密事項に指定されていて,公海上でみだりにそんな速力を出してはいけないはずだったからである.

 しかし,練習艦隊を軽く抜いて姿を消して行った長門も,次の日伊豆半島沖で後方に英国東洋艦隊の重巡「ホーキンス」(推定)が,白波蹴立てて追いすがって来るのを認めると,スピード・ダウンをした.
 公表以上の速力を出しているのを,外国の軍艦に見られるのは具合が悪かったし,いずれにしても巡洋艦の俊足にはかなわない.
 明治三十五年以来の日英同盟は,昨大正十一年を以って廃棄になったが,イギリスとの密月関係の名残りが未だ続いており,「ホーキンス」は震災見舞いに横浜さして急いでいるところであった.
 発行信号で,
「Who is your Flag-officer?」
と,こちらの指揮官名を問い合わせて来た.
 長門坐乗の聯合艦隊司令長官は,広瀬武夫と同期の竹下勇大将であった.
 艦橋の航海士が,
「Admiral Takeshita.」
と信号を返そうとした時,竹下司令長官が,
「そのあとにKCBをつけるといい.きっとびっくりするよ」
と言った.
 KCBは「The most honorable Order of the Bath」の「Knight Commander」勲章の略称である.
 竹下大将は英国バース勲章二等の佩用で,「ナイト」の称号を持っていた.
 英艦よりすぐ,
「Shall we salute?」(礼砲行イタキモヨロシキヤ)
 長門より,
「With pleasure.」(喜ンデオ受ケス)
 十七発の礼砲と答砲を交換し終ったとき,双方の距離はもう近かった.
 竹下長官が,かさねて,
「気にしているといかんから,アプレ・ブ・プリーズ(お先にどうぞ)と打ってやんなさい」
と言った.
 英語の応答なら分る航海士たちも,外交用語のフランス語は綴りが分らない.
 まごまごしていると,竹下が,
「Apres vous, please.」
と,紙に書いて渡した.
 英艦は,
「Thank you, sir.」
と打ち返し,たちまち長門を追い抜いて行った.

------------新潮社 阿川弘之著『米内光政』上巻 23-26p

Fabius (KT) in 「軍事板常見問題 mixi支隊」,2009年09月07日 01:52


 【質問】
 関東大震災の際,軍が朝鮮人虐殺に加わったというのは,それなりの根拠があるのでしょうか?

 【回答】
 軍が朝鮮人を組織的に殺害していたという事実は,無いようです.
 むしろ震災から数日経過した後には,朝鮮人を演習場へかくまうなど,保護にあたっています.

 しかし,間接的な責任ならば,あったといわざるを得ません.
 朝鮮人殺害を行ったのは,各地の「自警団」ですが,震災直後の社会不安の中で,治安維持のため,軍は自警団に武器を貸し与えています.
 この武器が結果的に朝鮮人殺害に使われたことは,事実です.
 また,軍が一旦は保護した朝鮮人を,自警団に引き渡したという例もいくつかあったようです.
 自警団のメンバーには,多数の在郷軍人が含まれていたのも事実です.

 甘粕事件や亀戸事件のように,軍による社会主義者・無政府主義者の殺害があったこともまた事実です.

 なお,殺害6000人というのは,当時の「プロ市民」の調査によるもので,政府の正式発表は死者233人です.
 2つの数字のどちらがより真実に近いのかは,私には判りません.

◇   ◇   ◇

 この件の,一次資料としては,3つ.
 まずは「現代史資料6 『関東大震災と朝鮮人』」,次に警視庁編『大正大震火災誌』,そして東京市発行『東京震災録』.

 後は聞き書きとして,1943年に編纂された,吉河光貞検事の『関東大震災の治安回顧』があり,関東大震災五十周年朝鮮人犠牲者・追悼事業実行委員会編『かくされていた歴史−関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件』がある.

 これらを元に,関東大震災六十周年朝鮮人犠牲者・追悼事業実行委員会編『かくされていた歴史−関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件(増補版)』が編まれている.

 さて,殺害された人の数であるが,内務省警保局のまとめでは,

朝鮮人:231名  中国人: 3名  日本人:59名

であるが,これは実数ではなく,刑事訴追を前提にした人数である.
 内,裁判で認定された殺害人数は,以下の通り.

 東京地裁管轄:39名,横浜地裁管轄:2名,千葉地裁管轄:74名,
 前橋地裁管轄:18名,宇都宮地裁管轄:6名,浦和地裁管轄:94名.

 計,233名.

 しかしながら,実数としては以下の2つの調査結果の数字が挙げられている.
 大正期の学者である吉野作造の調査,金承学が中心となった,独立新聞の調査.

前者,吉野作造調査(「遺稿・朝鮮人虐殺事件」)では,合計2,711名.
 内訳は,東京:724名,神奈川:1,327名,埼玉:551名,千葉:141名,栃木:4名,茨城:44名,群馬:18名,長野:2名.
後者,独立新聞調査では,合計6,415名.
 内訳は,東京:1,347名,神奈川:4,106名,埼玉:588名,千葉:324名,栃木:8名,茨城:5名,群馬:37名.

 なお,中国人に対しては,後に日本政府が中国大使館に対して正式に遺憾の意を表明し,20万円の賠償金を支払っているので,「虐殺が無かった」と言う根拠は崩壊している.

 ちなみに,埼玉県熊谷市での虐殺に関しては,

東京日日新聞1923年10月21日付報道で43名,大阪毎日同年10月20日
付号外で42名
東京朝日新聞同年10月17日付報道で58名

となっており,吉野作造調査の61名と大体一致するが,死体を焼却した火葬雇いが,記者に対しで48名の焼却を行った旨証言している.

 このほか,土葬した者が20〜30名となっており,総数は80名近くに上る.

 熊谷以北では,

神保原で42名,
本庄で100名以上(警察署内で85名が殺害),寄居で1名(飴売り),
児玉で1名(警察が後に墓を建立),
深谷で1名(轢死したことになっている)

と言う数字があり,埼玉だけでその総数を超える.

 つまり,233名というのは一種のフェイクに過ぎないと言える.

 最後に,対外的には日本政府は,1923年9月3日に次のように声明していることを指摘しておく.(日本政府震災朝鮮人関係文書より)
"Those found guilty will be strictly punished.
Information Bureau Foreign Office Sep.3rd.1923"

(眠い人 ◆gQikaJHtf2)

 余談ながら,2005年7月には次のような資料が発見されている.
 以下引用.

関東大震災後:警察署長の朝鮮人保護を記した回顧録発見

 関東大震災(1923年9月1日)の直後,デマをきっかけに各地で多数の在日朝鮮人が虐殺される中,横浜市鶴見区の鶴見署に300人の朝鮮人を保護した大川常吉署長(当時46歳)と,神奈川県外への放逐を迫る町議員団との,緊迫したやり取りを詳細に記した回顧録が見つかった.
 同署長が朝鮮人を保護した逸話は地元では知られているが,当事者の記録が明らかになるのは初めてという.専門家も「歴史的に貴重な資料」と評価している.

 回顧録は,鶴見町(当時)の町議で医師だった渡辺歌郎氏(当時55歳)が第2次世界大戦前に書いた「感要漫録」全6巻.
 やりとりは,うち1冊に16ページにわたって登場する.
 渡辺氏の孫(74)が,横浜市の自宅を整理中に発見した.

 「朝鮮人団が略奪を繰り返し,少しでも抵抗すれば虐殺される」との話が飛び交う様子や,右の下腿(かたい)を骨折した朝鮮人に,大勢の若者が暴行を加える現場の目撃談などを記した上で,渡辺氏ら町議団と大川署長の交渉が始まる.
「率先して朝鮮人を取り締まり,不安を一掃すべき警察が,300人以上を保護するのは,爆弾を懐に入れるようなものだ.朝鮮人が決起したら30人の署員で鎮圧できるのか」
などと詰め寄る議員団.
 大川署長は
「その話は根も葉もないデマ」と断言.「保護した朝鮮人の所持品検査をしたが,小刀一つなかった.収容後も従順で,握り飯に感謝し涙を流している.
 一度警察の手を離れたら,たちまち全部虐殺されてしまう.収容人員が増えても方針は変わらない」
と譲らなかった.
 さらに「百聞は一見にしかず」と来署,確認を勧めた.これに応じた渡辺氏はデマと確信した.
「誰が発したか分からない流言が,何の関係もない朝鮮人の命を危険に追い込み,こちらも一時的に恐怖に陥ったことは,実におろかだと恥じるべきだ」
と結んでいる.

 大川署長の死後の53年,在日朝鮮人の団体が,鶴見区内にある署長の墓のそばに顕彰碑を建て,感謝した.

 震災当時の朝鮮人虐殺に詳しい横浜市立大の今井清一名誉教授(近代政治史)は
「身体検査の様子や議員との交渉過程が,非常に具体的で信ぴょう性がある」
と評価している.

(安高晋 from 毎日新聞,2005/7/3)

▼ まあ,以下の記述を見るに,当時の被災者にとっては相当な衝撃だったようだから,流言蜚語が飛び交うこと自体は無理からぬことだろうが.

[quote]

 いゃァ,〔関東大震災の〕凄えの凄くねえのって,こないだの戦争の,あの空襲のときと,ドッコイドッコイてえとこでしょう.
 空襲に丁と張る人がありゃァ,あたしゃァね,震災のほうに半と張りますよ.
 あたしは,家にいて,あの地震にぶつかった.

[/quote]
---------『びんぼう自慢』(古今亭志ん生著/小島貞二編,立風書房,1981/2/10),p.107

 【関連リンク】
「愛・蔵太の少し調べて書く日記」:関東大震災における虐殺された朝鮮人は何人?(まとめ)
「愛・蔵太のもう少し調べて書きたい日記」■(2010/03/13)[ネタ]関東大震災での朝鮮人虐殺,吉野作造の主張は何人?
「愛・蔵太のもう少し調べて書きたい日記」■(2010/03/14)[ネタ]朝鮮人虐殺のモトになったデマを流した右翼・山口正憲について
「愛・蔵太のもう少し調べて書きたい日記」■(2010-03-20)[ネタ]吉野作造「朝鮮人虐殺に就いて」を引用してみる



 【質問】
>東京:724名,神奈川:1,327名,埼玉:551名,千葉:141名,栃木:4名,茨城:44名,群馬:18名,長野:2名
 これ,全部足すと「2811名」で「2711名」にはならないんですが….
 あと,「遺稿・朝鮮人虐殺事件」は,吉野作造のどの著作集に収録されているか教えていただけるとありがたいです.

愛・蔵太 in FAQ BBS,2010/3/13(土) 1:30
青文字:加筆改修部分

 【回答】
 くだんの件ですが,余りお役には立てませんね.
 確かにトータルすると2,811名ですが,この数字には若干の重複があるとされています.
 もしかしたら,活字ではなく,原本が原史料のままの写真製本であったものを転記する際に間違えた可能性があるかも知れません.

 その元となる調査報告書に関しては,震災当時朝鮮基督教青年会総務だった崔承万が,韓国に於いて『新東亜』1970年2月及び3月号に執筆した「関東大震災と韓国人」で紹介されています.
 その発表では虐殺者数は2,613名ですが,後に崔は5,000名と訂正しています.

 吉野作造が書いたのは,『大正大震火災誌』(改造社1924年)に論説「朝鮮人虐殺事件」を寄稿しましたが,内務省から発禁処分を受けました.
(その論説文は,姜徳相『現代史資料6・関東大震災と朝鮮人』に収録して,初めて日の目を見ましたが,原文は,東大法学部所属の明治新聞雑誌文庫に所蔵されているそうです)

眠い人 ◆gQikaJHtf2 by mail,2010年03月21日 22時58分

 後,2,613名の内訳も分ったので書いておきますね.
(『大正の朝鮮人虐殺事件(北沢文武著:鳩の森書房刊1980年 P.75〜76)

吉野作造の論文「圧迫と虐殺」の中の資料より
横浜方面:1,129名
(主な殺害場所及び人数・20名未満の場所は省略,以下同じ)
 神奈川鉄橋500余名
 子安町より神奈川駅に至る159名
 土方橋より八幡橋に至る103名
 神奈川警察署内101名
 船所前広場48名
 御殿町付近40余名
 浅間町及び浅間山40名
 根岸町35名
 保土ヶ谷町31名
 井土ヶ谷町30余名
 久保町30名
 戸部30名
 戸山鴨山30名

東京付近:724名
 大島8丁目150名
 亀戸署内87名
 王子81名
 吾妻橋80名
 押上50名
 小松町46名
 向島35名
 月島33名
 大島3丁目26名
 州崎飛行場付近26名
 寺島請地22名
埼玉県方面:551名
 赤羽荒川300名
 本庄86名
 熊谷61名
 川口33名
 神保原村24名
千葉県:141名
 法典村64名
 船橋38名
茨城県:44名
 筑波本町43名
群馬県:18名
栃木県:4名
長野県(軽井沢付近):2名

眠い人 ◆gQikaJHtf2 by mail,2010年03月24日 23時00分


 【質問】
 1927年の英軍の,上海出兵について教えられたし.

 【回答】
 さて,1927年1月3〜4日にかけて揚子江中流域にある漢口の英国租界,1月6日には九口の英国租界が相次いで国民党軍により,事実上「接収」されます.
 これに対し,英国側は次の様に主張します.

――――――
1. 北伐軍に刺激され,漢口の英国租界に侵入した「暴徒」達は,ロシア政治顧問に指導された国民党左派の影響下にある.
2. 彼らは軍事力を背景にして意図的に,列強の条約上の権利である租界を回収しようと企んでいる.
3. 「暴徒」は外国人の資産を略奪・破壊した為,居留する英国臣民は軍艦で撤退・離脱を余儀なくされた.
4. 揚子江流域各地の租界から,多くの避難民が上海に集まっている.
5. 上海に於て同じような略奪・暴行は許されないし,上海の共同租界などからの外国人撤退・避難は不可能であるので増援軍の派兵が必要である.
――――――

 中国国民党急進派の挑発に対し,特に駐中国大使ランプソンを初めとする現地の政策当局は反発し,北伐軍の上海への接近が伝えられる中で,上海防衛軍の派兵が慌ただしく決定されました.

 因みに,英国は1926年12月26日,所謂「クリスマス・メモランダム」と言う構想を発表していました.
 これは,関税自主権を巡る漸進的な条約改正交渉に応じる意思のある事,中国のナショナリズム勢力,特に南部で実行支配地域を拡大し,「国民革命」を目指して北伐を進めつつあった国民党政権に今後協力していく石を持つ事を容認した事です.
 但し,租界の接収の様な過激な行為は,本国政府の受容れる処とはならず,漢口事件の再発を恐れた予防措置として,上海防衛軍の派兵が決定されます.

 元々,中国に於ける英国の陸軍力としては,香港防衛の為に本国がその経費を全額負担するインド軍1個歩兵大隊と本国陸軍1個歩兵大隊が,華北の租界,天津には義和団事件以降,北京との交通路確保の為に本国陸軍1個歩兵大隊が駐留していました.
 また,海軍力としては,東アジア水域に巡洋艦5隻,河川砲艦15隻,掃海艇2隻,小型砲艦4隻を持つChina Squadronが存在しています.

 上海防衛の為の増援軍第1陣は,1926年12月15日の本国閣議で決定したジブラルタル駐屯の本国陸軍第2差フォーク連隊を香港に移動させる事に始まります.
 同連隊は12月31日に出航し,香港に1927年2月3日に到着しました.
 しかし,事態は急を告げており,1927年1月12日には上海の英国総領事が,上海の治安悪化に備えて香港駐屯のインド軍1個歩兵大隊の上海への移動を正式に要請します.
 また,1月初めには共同租界の行政当局が,中国の敗残兵と「暴徒」の侵入に備えて有刺鉄線のバリケード構築に着手し,2月末には共同租界を囲むフェンスが完成しました.

 1月17日の2度の本国閣議では,この情勢緊迫を受け,インドから直ぐに1混成歩兵旅団を派兵する事と,本国と地中海のマルタ島から本国軍2個旅団の派兵を準備する事が決定されますが,この決定は他の列強各国,特に日本政府の対応を確かめる為に,2日間決定は保留されています.
 混成歩兵旅団派兵指示を受けたインド政庁は直ぐ準備に着手し,1月21日に最終的に上海防衛軍の派兵が閣議決定されて,1月27日に4個歩兵大隊で構成された第20インド混成歩兵旅団がボンベイとカルカッタを出航し,上海に向かいました.
 また,香港から急派されたインド軍1個歩兵大隊は,緊急展開部隊として1月27日に真っ先に上海に到着し,事態の沈静化に貢献しました.
 1月28〜29日には,本国陸軍の各4個歩兵大隊で構成された第13及び第14歩兵旅団がサザンプトンを出航,2月12日に第20インド混成歩兵旅団が上海に到着,2月26日になると,本国と地中海からの派遣部隊である第12海兵大隊と,第14歩兵旅団が上海に到着しました.

 インドでは,1月24日に総督のアーウィンがインド立法参事会でインド軍の派兵意志を明らかにしました.
 これはこの頃,微妙な状勢であったインド立法参事会で批判を巻き起こす事になります.

 次いで,1月31日付で本国政府は中国側に上海防衛軍派兵の通告を行いました.
 その際に,上海に派兵される英国軍は,上海での英国権益の保護・防衛の為に必要とされる純粋に防衛目的の軍事力であり,中国の政治問題に関わるつもりは無く,全般的な事態が解決されれば直ぐに撤兵する宗が強調されています.
 この通告に対し,中国政府は主権の侵害に当たると即刻抗議しました.

 2月8日,議会開会日での国王演説でも,政府の施政方針が述べられ,ボールドウィン首相はその演説の中で,現在の中国は内戦状態にあり,義和団事件直前を思い起こさせる事態に直面している事,上海からの居留民引揚げは問題外であり,我々が極東に送ったのは遠征軍では無く,共同租界の帝国臣民を守る為の軍であり,それ以外の何者でも無いと述べています.
 そうは言いつつ,「人道的理由」と言うのは,「砲艦外交」と同義だったりするのですが.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/07/31 21:52
青文字:加筆改修部分

 さて,1927年3月21日,上海では共同租界の行政当局により,非常事態が発せられます.
 これにより,上海地域の安全保障は,独り英国だけで無く,列強諸国に共通の国際的な責任問題と化しました.
 3月26日には,国民党の蒋介石が上海に到着し,問題の沈静化に当たります.
 その間,敗残兵との小規模な小競り合いはあったものの,上海防衛軍と中国国民党軍との衝突が回避される事になりました.

 しかし,3月27日になると,南京で英米日3カ国の領事館が襲撃される南京事件が発生しました.
 蒋介石は4月12日に上海で反共クーデターを敢行して,党内の左派勢力の一掃を図りますが,その間,4月1日の英本国閣議では,陸軍参謀会議の助言に基づいて,南京事件に対応して増援の為に4個歩兵大隊で構成された本国第15歩兵旅団の派兵が決定されました.
 この旅団は4月12日と14日に本国を出航し,5月15日に香港に到着します.

 この他,3月中旬になると米国は海兵隊1個大隊1,200名,フランスはフランス租界の守備兵増強の為に,仏領印度支那から本国人で構成される1個歩兵大隊とヴェトナム人で構成される2個歩兵中隊を上海に送りました.
 他の諸国は海軍力の増強に留まりましたが,3月の時点で列強の上海に於ける軍事力は合計22,000名に達しました.

 4月6日,英国本国議会では,オースティン・チェンバレン外相が,以下の様に演説しています.

――――――
 我々は,中国国民と平和で友好的に暮らす以外の利害関係を中国では持っていない.
 しかし,外国人を保護する能力と意思のない政府に向かい合った時,我々は,合法的な職業に従事する我が国民を保護する為に,可能な予防措置を執らねばならない.
 我々の政策は変わっていない.
 私は,古い条約が時代後れであり,新たな体型を目指して我々は前進せねばならぬ事を認める.
 我々は可能な限り,宥和政策を遂行するであろうし,古い条約上の立場を(中国の)新たな待望と状況に適合させる政策を追究するであろう.
 しかし,我々は中国から追い立てられたり,内陸部だけで無く上海から総ての我が国民を撤退させるつもりは無い.
 我々には,まるで条約上の権利を持たないかの様に,或いは,恰も我が国民の生命側が英国政府にとって重要で無い様に扱われる筋合いは無いのだ.
――――――

 しかし,英国外務省内ではもっと突っ込んだ分析が為されていました.
 まず,英国政府が中国で採用した政策は,臣民の生命と財産の保護を越える遙かに大きな諸問題を含んでいるとし,それは英中間の通称の発展,公正さと寛大さを巡る名声,国際政治での英国の影響力の3つに収斂されるとしています.
 即ち,信頼関係の再構築と,将来の安全が保障される条件の下での英国貿易の復興が重要であり,その為には中国国民の好意,契約の履行を保証する安定した権威,生命・財産に対する適切な予防措置の,3条件が不可欠であると分析しています.

 この目的を実現する為の選択肢として,3つのオプションが考えられました.
 1点目は,武力干渉と制裁の実施ですが,このオプションは,他の列強の反発と英国の外交的孤立,過大な財政負担,世論の反発,従来の懐柔政策から逸脱する為,実現困難として退けられました.
 2点目は,現状維持ですが,これは事態の一層の悪化を招く消極的政策であるとして退けられました.
 3点目は,中国政府との交渉継続で,これには中国との条約関係を完全に見直して,一方的に有利な特権を放棄する事を目指し,漸進的に粘り強く交渉して,中国側の信頼と賛同を得るべく努力する必要があると言うものです.
 但しこれにも,中国側の政治的不安定,政争や英国の通商利害関係者の既得権との抵触,国際協定や租界の退廃を招くと言う問題点がある訳ですが,それ以上に最も深刻な危険は,中国海関が外国人の管轄を離れる事に依り,中国側の債務不履行が起きる事です.

 当時,英国は中国に対して相当額の投資を行っていましたから,それが回収出来ないとなると,英国国内にも波及する可能性がある訳です.

 ところで,実際の軍事力の動員と展開は,非常事態宣言以降急速に進展しました.
 4月13日のチェンバレン外相の答弁では,以下の様に列強の海軍艦船が中国に展開していました.
英国が,巡洋艦13隻,空母2隻,駆逐艦20隻,河用砲艦17隻,潜水艦12隻,掃海艇2隻,潜水艦母艦2隻,小型砲艦4隻,病院船1隻,武装ランチ3隻,蒸気船1隻.
米国は,巡洋艦4隻,駆逐艦12隻,小型砲艦11隻,武装ヨット1隻.
日本は,巡洋艦11隻,駆逐艦22隻,掃海艇1隻,小型砲艦9隻.
フランスは小型砲艦8隻,輸送艦3隻,掃海艇1隻,
イタリアが巡洋艦1隻,小型砲艦2隻,駆逐艦1隻,
オランダが巡洋艦1隻,
ポルトガルが巡洋艦1隻,砲艦2隻,小型砲艦1隻,
スペインも巡洋艦1隻
が派遣されています.

 陸軍兵力は,既述の様に,英国は3個歩兵旅団と1個サフォーク連隊で構成された13個歩兵大隊,1個海兵大隊とその支援部隊が展開し,英本国からの分遣隊将兵だけで9,506名,インドからの分遣隊は,英国人将兵2,252名,インド人将兵4,157名,合計6,409名,英国とインドの兵士併せて,15,915名と1個師団規模の兵力を数えていました.
 更に増援部隊として,4個歩兵大隊が移動中でした.
 また,日本も上海に部隊を派遣しており,その兵力は英国に次ぐ第2位を占めていましたが,英国の16,000余名と比べると,桁が1つ少ない状態になっています.
 最盛期の6月には,上海に駐留する兵員は23,700名で,そのうち16,000名が英国軍でした.

 時に上海と言う都市は,東アジア随一の商業都市です.
 その中には,不平等条約で認められた共同租界とフランス租界とがあり,外国人の人口は両方で約3.6万名で,その内英国籍を持つ人々は,約9,000名いました.
 共同租界地域は,上海参事会(工部局)の12名の参事で運営されており,1927年当時の構成は,英国人5名,米国人2名,日本人2名,中国人3名でした.
 租界の防衛は,将校80名と兵員の定数1,400名で構成される上海義勇軍と,列強諸国の海兵隊約1,200名に委ねられていましたが,有事の際の租界防衛には,少なくとも1万人規模の増援軍が必要とされており,雑穢印軍を必要とする場合は,フランスを含め共同租界に利害関係を持つ列強諸国の協調行動と相互の協力,特に日米両国の協力が求められた訳です.

 上海防衛に際して,英国が最も期待を寄せたのが,中国に非常に近く,危機に対する即応能力のある日本でした.
 1月11日の英国の帝国防衛委員会では,国際共同軍の派兵が望ましいとされ,日本が主導的な役割を発揮する事を期待していました.
 1月17日の危機の収拾段階で,英国政府は日本に4,000名の派兵を求めると共に,その回答を得るまでの48時間の間,上海防衛軍派兵の正式決定を保留していました.

 しかし,日本政府は1月21日に英国との共同出兵を断ります.
 英国は,直ちに上海防衛軍の派遣を正式決定すると共に,日本政府に対して遺憾の意を伝え,併せて,日本の協力拒否により,英国は単独出兵を決断せざるを得ない状況に置かれた点を強調しています.

 日本が何故動かなかったのか.

 当時の英国の駐日大使ティリーは,この問題に関し,屡々弊原喜重郎外相と会見して日本政府の出方を窺い,それを本国に報告しています.
 その分析によると,先ず,日本は現在の上海状勢をそれほど危険とは考えておらず,上海と漢口の問題は別々に切り離して考えるのが妥当であると判断していました.
 最悪の場合が出来しても,日本は本国から即座に上海を防衛するのに十分な軍隊を派兵できることから,早急な決断は必要ないし,その派兵決定は時期尚早としています.
 また,日本の派兵が決定されると,現在よりも状勢はより混乱を来す事になると見做していました.
 派兵により,中国人民衆が日本人に反抗して立ち上がり,日中両国間で危険な争乱が生じかねないと考えていました.
 即ち,日本側は英国が恐れている危険が起こらないと考え,逆に派兵によって争乱を掻き立てるのは賢明では無いとしているのです.

 更に分析を進めていくと,日英両国の中国に対する政策の相違に行き着きます.
 中国は日本にとって外国貿易の60%を占める相手であり,その市場を守り,保全する事が先ず重要な政策でした.
 それに対し,英国と中国との間の貿易は,僅か5%でしかありません.
 失うものが,日本の方が大きかった訳です.
 因みに,それを突き詰めていくと,日本が満洲で求めているものも,自国の経済活動にとっての安全保障だったりします.

 当時,チェンバレン外相や北京の駐英大使ランプソン等は,日英同盟復活を模索したのですが,ティリーは日本政府の対中国に占める輸出経済利害の重要性を的確に指摘し,安易な復活に警鐘を鳴らしました.
 結局,この動きは日本の消極姿勢によって頓挫しますが,皮肉にも4月20日に,日本では若槻礼次郎憲政会内閣から田中義一立憲政友会内閣に変わった事で,一転して積極姿勢に転じる事になります.
 しかし,その転換タイミングが遅すぎて,満洲への進出の際に英国の支持を得られなかったりした訳ですが.

 日本に袖にされた英国政府は,もう1つの列強である米国にも派兵を持ちかけます.
 しかし,米国も海兵隊を待機させたものの,一貫して消極姿勢をとり続けました.
 1月末の時点で,ケロッグ国務長官が米国の対中政策の基本方針を発表していますが,それは,1点目に米国政府は最恵国待遇,門戸開放,米国市民の生命・財産の保護が与えられる事を前提に,関税自主権と治外法権の撤廃に応じる用意がある事であり,2点目に,米国は中国に対し,自由主義の精神で臨み,注意深く厳格中立の姿勢を取り,中国の国民的確性を経巻を持って見守ってきた,3点目として,米国は中国に租界を持たず,帝国主義的態度を示した事も無い.
 よって,米国政府はその市民が中国に居住し,合法的職務を遂行する上で,特権・独占・特定の勢力圏が無い状況で,他の列強の市民と対等の機会を与えられる事を望む,と言うものでした.

 この声明自体は,従来から米国が主張していた,門戸開放・機会均等・中国の領土保全を原則とする米国伝統の対中外交政策を繰返したものですが,最初に列強の中で不平等条約の是正を表明した点で意義があります.

 とは言え,米国は独自の判断で,海兵隊1,200名を上陸させました.
 あくまでもその存在は,米国市民の声明・財産の保護であり,その指揮系統は多国籍軍ではなく,米国政府の指揮下にある事を強調しています.
 更に,この措置により,米国製品に対する如何なるボイコットも回避したいと言う米国政府の願望がありました.
 3月の南京事件以後,増援部隊として2,300名の海兵隊をサン・ディエゴから上海に派兵しますが,あくまでもこれは英国とは一線を画して,米国独自の考えの下で派遣されたものという姿勢を崩しませんでした.

 こうして,英国は日本の消極姿勢と米国の独自外交の狭間で,事実上単独の上海防衛軍の派兵を強いられたのです.
 そして,特にインド軍に依存する事になります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/08/01 23:26

 さて,意気込んでやってきた上海防衛軍でしたが,日本や米国からはその参加を袖にされ,結局,英国が表に立つ形での構成となってしまいました.
 その上海防衛軍の約4割の兵力は,インドからの派遣部隊である第20混成歩兵旅団を中心に構成されていました.
 この混成旅団は,グロスター連隊,ダラム軽歩兵隊と言う2つのインド駐留英本国陸軍歩兵大隊と,第1パンジャブ連隊,第14パンジャブ連隊と言う2つのインド軍歩兵大隊,それに支援の砲兵,工兵,輸送隊から編成されていました.
 こうした本国陸軍部隊と,従来からこの地域に派兵されてきたインド軍が組み合わされ,セットになって派遣されたのは極めて珍しい事で,緊急展開部隊としてインド軍の価値が平時に於て発揮された事例は,この上海防衛軍が最後になりました.

 インドからの派兵に対しては,本来インドで,各大隊の不在期間中の代替措置を講じる必要があります.
 しかし今回は,事態の緊急性と英本国及びインド双方の財政難から,他の部隊によるインド駐屯の代替措置は執られませんでした.
 この為,インド防衛に大きな穴を開けない様に,派兵期間は出来るだけ短縮する事が一つの大きな要件となりました.
 幸い,蒋介石が行った反共クーデターが上手くいった為,中国状勢が落ち着きを取り戻します.
 この為,英国政府はインド混成旅団の早期撤退を模索し始めます.
 そして,7月6日の閣議に於て,議論の末にインド軍を含む混成旅団の撤退を決定し,7月末までに2個大隊が撤退し,残りの2個大隊も10月末までに撤退を完了しました.
 結局,早い部隊では6ヶ月間,遅い部隊でも8ヶ月と言う短期間の海外派兵となりました.

 本国議会では,この上海派兵が何度か遡上に上りました.
 その関心は,派兵期間と経費負担問題に向けられていましたが,インド混成旅団が上海に向けて航行していた2月初旬に早くも,インド省は陸軍省に対して,1900年のウェルビー委員会報告を根拠として,インド側による費用分担の拒否を通告しています.
 インド省はその論拠として,ウェルビー委員会報告に加え,1900年に義和団事件の為インド軍を派兵した際の経費は,本国政府が全額負担した事を前例に挙げ,また,1925年3月で中国の年間12,500ポンドに達する領事館経費の,インド側による負担が停止された事を挙げています.

 経費問題はこれで終わりでは無く,インド軍の上海駐留が始まった3月下旬に,インド省と陸軍省・大蔵省との間で展開されました.
 大蔵大臣は,インド相に対して,公平性の原則から,英国本国陸軍2個大隊を除いた,残りのインド軍2個大隊に関する通常経費の負担を求めます.
 しかし,インド相バーケンヘッドは,憲政上の制約と公平性の原則,中国に於けるインド利害の小ささを理由に難色を示し,インド総督アーウィンに対して意見を求めました.

 それに対し,アーウィンは以下の理由を挙げて難色を示します.
 先ず,インドの立法参事会での議論は,インド軍派遣費用の全額本国負担を想定してきたのに,それが覆されるのは信義に反する行為であり,インドはこの派兵によって自己の安全を犠牲にし,不可欠な防衛体系の一部をカットしており,英国の納税者を犠牲にしてインドが余剰の軍隊を預けている訳では無いと述べています.
 更に,上海に在住する英系インド人は,警官も含めて約1,400名しかおらず,しかもその資産は全部で約10万ポンドと非常に低い金額であり,通常経費をインド負担にした所で,本国財政にとっての節約効果は月15万ルピーに過ぎないとし,いずれにしてもインドにとってその影響は非常に有害であり,軍事政策全般を冷静に議論する機会だけで無く,インドに対して徐々に大英帝国の責務と負担の比重を増やす様に促すチャンスも失われるだろうと伝えてきました.

 これを受けて,バーケンヘッドは覚書を提出しました.
 それによると,インドの経費負担による節約額は2個インド歩兵大隊の通常経費で月26,000ポンド,英本国軍の経費を加えても月46,000ポンドに過ぎず,実現には本国の議会両院の議決が必要である事,それだけの金額の節約の為に,大きな政治的に不都合な犠牲を払うのは賢明で無い事を述べ,結局,3月23日の閣議で,英国政府はインド財政にインド軍上海派兵経費の負担を要求しないとの決定を行いました.
 因みに,この決定が行われたのは,インド立法参事会の会期終了直前であり,インド総督の現地情勢に対する懸念を繁栄した政治的決断の結果とも言えます.

 一方,上海防衛軍の撤兵には,北京の英国大使ランプソンの強硬な反対がありました.
 ランプソンとしては,政治的観点から,インド軍の撤兵に反対したのです.
 ランプソンは,南京政府との交渉が続いている時に極東から軍隊を引揚げるのは,英国の弱さのサインと受け取られかねず,中国側と政治的駆け引きをしている場合には軍事力が不可欠であると主張していました.

 更に,この軍事的行動は,列強が自己の利害を守る用意がある事を実際に示した証拠であるが,英国人の生命と財産は上海だけで無く,他の地域でも危険に曝されているとして,北京や天津の権益を守る為に,上海に配備した軍の中から1個旅団規模の軍事力を天津方面に展開すべきだと急送公文書に認めて本国に送りました.

 これに対し,本国政府は軍事力の政治的利用に明らかに反対する姿勢を示しました.
 英国政府としては,こうした軍事力の行使は,緊急の必要性がある場合,または決定的な利益が得られる場合に限定すべきであり,他の列強諸国,特に日米の支持や協力が得られないのであれば,中国に於て軍事力の威嚇或いは行使を含むそうした政策は,英国の条約上の諸権利と既得権益を守る実行可能で有効な手段としては,放棄すべきであると主張しています.

 これは外務事務次官補ウェレズレーの覚書でも繰返されます.
 彼は,英国人の声明では無く財産の保護は非常に複雑な問題であり,軍事介入や衝突の危険性・政治的反響・排外的な扇動を招く可能性がある事,上海には英国権益の50%が集中していると言う事情も重要ではあったが,上海派兵の決定的要因は,不幸な結果を招く危険を殆ど冒さずに防衛可能であると言う上海特有の地位にあった事,最初から英国外務省は,要求されている目的に対して上海防衛軍の数は課題であると感じてきたし,現在ではそれが広く認知されてきた事,撤退計画は,暴徒や敗残兵に対する上海の防衛を危険に晒す事無く実施可能である事を上海派兵の要因として挙げ,あくまでも上海派兵は例外的措置である事を強調しています.

 撤兵に際して,再び経費問題が鎌首を擡げましたが,陸相エヴァンスは,3月末までに補正予算として95万ポンドを計上し,兵員輸送費・資本支出として約100万ポンド,更に上海防衛軍の維持経費として毎月約25万ポンドの経費支出が見込まれる事を議会に報告していました.

 結局,この上海派兵は短期間で終わった訳ですが,もし,ランプソンの主張通り,天津にインド軍を抽出して派兵していたらどうなっていたか….
 もしかしたら,英国が中国との泥沼の戦争に陥っていたかも知れませんし,日本が中国と戦争する事は無かったかも知れませんね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/08/02 23:10


 【質問】
 ボリビア対パラグアイのチャコ戦争について教えてください.

 【回答】
 1932〜1933年にかけて行われた戦争.
 当初は両軍とも5,000名ずつの兵力で,動員によって拡大しました.
 パラグアイは,ボリビアの侵攻により,一旦3,000名まで兵力を減らされますが,国民皆兵として,根こそぎ動員を掛け,60,000名に増員します.
 勿論,ろくな訓練もしていない兵士が大半だったのですが.
 しかし本土防衛戦なので,地の利はパラグアイ側にありました.

 分水嶺となったのは,1933年7月のアヤラ村の攻防で,ボリビアは左右両翼を,歩兵3個大隊(兵力450名,機関銃20丁)に加え,騎兵1個連隊が火炎放射器と山砲2門を持って支援,更に英国製戦車3両と機関銃搭載車2両を支援に加え,突破しようとした訳です.
 加えて,予備兵力は歩兵3個連隊が右翼,1個連隊が中央,2個連隊が左翼に配置され,砲兵が15分に渡って,加濃砲25門,榴弾砲12門による準備砲撃が行われました.

 しかしながら,パラグアイの機銃座を攻撃するのに,徹甲弾を用いたため,殆ど被害無く,砲兵も撃ち返さなかったので,暴露することが無かった.
 でもって,パラグアイは根こそぎ動員の兵力を左翼に集中させ,ボリビアの戦車1両は,直撃弾で破壊され,豆戦車は行動不能となり,残りは壕に落ちて転覆.
 右翼の戦車も故障を起こし,もう一両も小破して修理になり,更に乗員が負傷したので戦闘に参加できなくなった.

 で,戦車の支援を得られなくなったボリビアに対し,パラグアイは機関銃座から存分に機関銃を発射して,ボリビア軍の足を止め,大兵力で反撃して,元の場所に押し返した.

 戦車は数があったのに,兵力は逐次投入となり,機動力の発揮できない場所に投入したこと,準備砲撃が不十分だったことに加え,敵を甘く見過ぎていたことが敗因となりました.
 なお,パラグアイはボリビアの司令部を占領したりして,結局,勝利しています.
 ちなみに,この戦争でのボリビアの戦死は25,000名,負傷50,000名.
 一方のパラグアイは,12,000名戦死,26,000名負傷となっています.

(世界史板)


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 【質問】
 第2次世界大戦後の紛争などについて面白いものはありますか?
 バルカン半島周辺やアフリカ,マラヤ動乱などがいいですね.

 【回答】
 ぴったりのがある.
『謀略と紛争の世紀 特殊部隊・特務機関(エージェント)の全活動』

 アメリカが,日本の沖縄に本部を置いて,チベット支援をしていたとか.

 アンディ・マグナブのSASノンフィクションも,楽しいし参考になるぞ.
 マラヤでの訓練が結構出てくる.

 あと並木書房「現代の特殊部隊」かな.
 南米・アジア・アフリカには特に詳しい.
 ソマリアとシエラレオネの話が豊富.

 アフリカ関連なら片山正人「アフリカ傭兵作戦」は,入門書として最適.
 著者がアフリカ現代史専門家なので,細かいとこまで記述が正確だし,他であまり触れられない作戦にも,ページを割いている.
 オーソドックスなノンフィクションだけど,ローゼン伯のビアフラ傭兵作戦は素で泣ける.

 他にも片山氏はアフリカの軍事関連で専門書を出しているので,ステップアップしたいのなら読んでみるべし.

軍事板,2009/08/02(日)
青文字:加筆改修部分


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