c
「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ サイト・マップへ
◆◆装備 Fegyverzet
<◆戦国時代 目次
<戦史FAQ目次
(画像掲示板より引用)
「D.B.E. 三二型」(2010/12/10)◆デアゴスティーニ,「週刊 戦国甲冑をつくる」創刊へ・・・伊達政宗の甲冑を2分の1で完全再現
「D.B.E. 三二型」(2012/05/23)◆戦国武将のオモロ系な兜・甲冑 まとめ
「朝目新聞」(2013/03/12)●足軽 vs. 騎馬隊
「リアリズムと防衛を学ぶ」◆(2010/08/07)サムライの武器はどう変わったか? 「騎兵と歩兵の中世史」近藤良和著
『織田信長・豊臣秀吉の刀剣と甲冑』(飯田意天著,宮帯出版社,2013/04/04)
『軍需物資から見た戦国合戦』を読み解く (2013/07/31)◎「国際インテリジェンス機密ファイル」
『図説 戦国の実戦兜』(竹村雅夫編著,学研,2009.3)
【質問】
戦国時代の農民兵は,刀とか槍とかは自分で持って行ったんですか?
もしそうなら,高価な刀とか槍をどうやって調達していたんですか?
【回答】
当時は兵農分離や刀狩りが行われる前ですから,豊農はが武器・防具を備えていました.
戦の為だけでなく,自衛や治安維持のためにも役に立つものです.
アメリカの銃に近いかもしれません.
今だと日本刀は高価な美術品ですが,当時は数打ちと言われるような,質が低い代わりに安価な量産品が供給されてました.
鎧も現代に残ってるような立派な物だけではなく,もっと簡素で実用本位な物が広く使われていました
雑兵用の安物は,胴の前半分しか無いようなものからあります.
もちろん武器も買えないような貧農,小作人が食べ物と略奪目当てに参戦する光景は,ありふれたものです.
竹槍で戦うわけにも行きませんから,その場合,雇い主が武具を支給します(当然安物です).
モッティ ◆uSDglizB3o in 軍事板
青文字:加筆改修部分
戦国大名の類は,お貸刀と呼ばれる,雑兵に貸し出すための刀を武器庫に保管していた.
当然お粗末な刀身に簡素な拵えだがな.
お貸し具足と呼ばれる簡素な甲冑も貸し与えていた.
軍事板
青文字:加筆改修部分
▼ 補足.
戦国時代の軍勢の主力は村々の土豪や名主層で(一領具足などの中農などもいますが),彼らが村の余剰人員を率いて参陣したわけです.
で,後北条氏の例ですが,参陣のときの人員数や武装などは事前に定められていました.
ですから大名が武器などを支給するのではなく,参陣する側の自己負担であったと思われます.
参陣は本領を安堵されている側の義務のひとつですし.
甲斐の武田氏の例ですが,参陣中に兵糧が不足した領主に,高利で兵糧を貸した例もありますので,武装に関してもおそらくシビアであったかと...
ちなみに参陣や城への勤番の義務は,領主らにはかなり負担であったようで,後北条氏の配下で勤番をサボってひどく叱責された挙句,さらに加番を申し付けられたり,配下にヒノキの棒ならぬ(笑)ただの棒を持たせた領主が,「今度は絶対に駄目だぞ!」と注意された例などもあります.
▲
【質問】
戦国時代のお侍さんは,メインウエポンは何だったのですか?
火縄銃や弓矢ですか? やっぱり槍なのでしょうか? それとも日本刀がメインの武器?
【回答】
日本の戦国時代には白兵戦はあまり行われていない.
とにかく突撃というイメージは,どっちかというと旧軍に作られたものだ.
戦闘による死傷の数を見ると弓,石,鉄砲などの飛び道具で7割近くに達する.
で,侍のメインウェポンは大弓.(ちっこい馬に乗ってる)
白兵戦に備えて槍か長巻を家来に持たせておく.
日本刀は主に護身用で,現代の軍であればピストルに相当.
刀がメインウェポンだったのはむしろ,鎧を着なくなった平時の江戸時代だな.
そのあたりも拳銃と似てるかな.
軍事板
我が国における戦闘の歴史では,既に鎌倉時代には,
「刀は使い物にならない」
とされています.
主力武器は専ら「槍」と「弓」でした.槍は雑兵が,弓は高級武士,または専門訓練を積んだ弓兵が用いました.
「刀と首取り―戦国合戦異説」 平凡社新書・鈴木
真哉によると,長距離戦(鉄砲・弓矢)と中距離戦(槍)で,ほとんど勝負が決まり,白兵戦や馬上戦は,平和な江戸時代につくられた作り話だそうです.
▼日本刀は,儀式・宗教・象徴の意味合いで持っているのであり,武器としての認識はほとんどなかったそうです.▲
首を切るときに使ったり,恩賞などに使いました.
安土桃山時代には,これに加えて鉄砲が登場します.
大砲も出てきますが,これは城郭の破壊用が主でした.
▼ しかしながら,実際の戦場では相変わらず多くの兵が刀を携帯していました.▲
これはなぜかというと,「倒した武士の首を切断するため」に必要だったからです.槍や弓で首は切断できません.
そのため,当時の日本刀はほとんど首切断用に使われたのが真相です.
刀を振り回して一対一で決闘するなどという場面は存在しませんでした.
実際,日本刀というものは大変重くて,接近しないと使えない上,きれいに振り切らないと柄から刃が簡単に抜けてしまう代物です.
武器としては絶望的に劣っています.
江戸時代以降は武士の象徴となりました.
日本刀が殺傷の実用武器となったのは幕末ですが,これは,江戸時代はよほどのことがないと槍や弓まして鉄砲を携行して歩くのは不可能(そんなことしたら即しょっぴかれる)だったからです.
ゆえに幕末の志士たちの武器は日本刀となりました.
幕末~西南戦争においても日本刀は威力を発揮し,それが陸軍の日本刀携行につながるのです.
ちなみに軍刀は一発焼入れの量産品ゆえ,美しさの点では劣りますが,実用性は十分ありました.
▼ ちなみに,大阪夏と冬の陣と島原の乱を実体験した宮本武蔵曰く,
「槍は戦場で威力を発揮する武器だが,それ以外(一対一や捕り物)では使いづらい.
薙刀も戦場での武器だが後手に回るため槍に少し劣る.
刀はどこでも相応に使える武器.
小刀は狭い場所や接近戦で頼りになる武器」
軍事板
青文字:加筆改修部分
▲
▼【反論】
鈴木真哉史観による偏見です.
以下,同時代の証言.
>邸館または田野において戦があると市民はそれを見物している.
>戦争では双方まず矢を放ち,更に近づいて槍を用い,最後に刀剣を交えて戦う.
>パードレ・ガスパル・ビレラ 1557年
また,騎乗による戦闘も頻繁に行われていました.
たとえば信長公記にも,馬上の戦闘がかなり記録されています.
当然,突撃や日本刀による白兵戦も盛んであったと思われます.
「家康,滝川陣取りの前に馬防ぎの為め,柵を付けさせられ」
====
「三番に,西上野の小幡一党,赤武者にて,入れ替へ懸かり来たる.関東衆,
馬上の功老にて,是れ又,馬入るべき行にて,推し太鼓を打ちて,懸かり来たる」
*長篠の合戦
====
西は賀鳥口,佐久間右衛門,柴田修理亮,稲葉伊予守,同右京助,蜂屋兵庫頭.松の木の渡り,一揆相支へ候を,どつと川を乗り渡し,馬上より数多切り捨て候なり.
(『信長公記』伊勢長嶋一揆成敗の記述)
====
『信長公記』荒木摂津守逆心を企て並びに伴天連の事
武藤宗右衛門,手の者ども懸け入り,馬上にて組み討ちして,頸四つ
討ち取り,あまへ持参いたし候て,御目に懸くる.
9 日本@名無史さん[sage] 投稿日:2009/11/17(火) 20:39:20
『信長公記』信長太良より御帰陣の事
森三左衛門,千石又一に渡し合ひ,馬上にて切り合ひ,
三左衛門臂の口きられ,引退く.
『信長公記』浮野合戦の事
信長の御小姓衆佐脇藤八走り懸かり,林が頸をうたんとするところを
居ながら大刀を抜き持ち,佐脇藤八が左の肘を小手くはへに打ち落す.
かかり向かって,終に頸を取る.林弥七郎,弓と太刀との働き
比類なき仕立てなり.
====
きりがないので,これくらいに...
>我が国における戦闘の歴史では,既に鎌倉時代には,「刀は使い物にならない」とされています.~~
信長公記は同時代の資料ですから,回答の見解は成り立ちませんね.
また,鈴木史観の遠戦志向についてですが,鈴木史観はあくまで軍忠状に記載された負傷原因を元にしているので,死因とは別です.
緒戦の遠戦では面を確実に制圧できず,どうしても白兵戦で決着をつける必要があります.
ですから近接戦闘/白兵戦は必須なわけで,その場合,騎乗の斬撃や日本刀で切り結ぶ局面も多くなるわけですね.
あと,日本の在来馬は決して小さすぎることはありません.
充分斬撃や槍を使うのに耐えました.
日本在来馬と系統が同じモンゴルのポニーです.
http://www.youtube.com/watch?v=KPXG8pt0lr8&feature=fvw
閻魔さくや in FAQ BBS,2010年1月3日(日) 23時22分
青文字:加筆改修部分
▲
▼>日本刀は,儀式・宗教・象徴の意味合いで持っているのであり,
>武器としての認識はほとんどなかった
戦国時代には戦闘用の野太刀という,刃が大きい刀がありました.
それに武士や足軽でも太刀を所持していました.
(大名とかによっては,足軽は棍棒だけを所持)
戦国時代の戦闘の流れは,
(1)鉄砲や弓矢の撃ち合い
(2)槍合戦
(3)騎馬武者や徒歩武者,足軽の突撃
であり,(3)の段階になって刀を使う武士もいるでしょう.
槍が無い,もしくは槍を失った武士もいるだろうし.
90式改 in FAQ BBS,2010/1/30(土) 23:35
青文字:加筆改修部分
【再反論】
>馬上戦のケース
当時の日本の鎧は,矢に対する防御力が高かったし,遠距離戦だけで決着がつかないこともあるという点は同意です.
騎乗した兵同士の近接戦闘はあったと思います.
ですが,騎乗した兵同士の戦いでも,槍を装備していた方が有利でしょう.
単純に考えてください.
刀だとリーチが短くて,真正面にいる敵兵に切りつけることすら容易ではありません.
自分の右側オンリーしか攻撃できないのでは,不便すぎます.
槍でも馬の頭部が邪魔にはなりますが,刀よりは攻撃範囲が広がるでしょう.
歩兵同士の近接戦闘であっても,リーチの長い武器の方が有利という点はかわりありません.
日本刀が使いにくい兵器であったという点は事実なのでは?
季節労働者@mixi in FAQ BBS,2010/1/30(土)
11:30
青文字:加筆改修部分
▲
▼>季節労働者@mixiさま
基本的に賛成ですが ただ 騎乗での槍の運用は熟練が必要で 戦国時代が終焉するとかなり早い時期にその技術が衰えてしまった.
当時の逸話に,戦国生き残りの老人に若い武士たちが,戦国時代の騎乗の槍使いを見せてくれるように頼み,その巧みさに感嘆したというものがあります
私が読んだのは日本武術神妙記でしたが,つまりその時期にはもう廃れてしまっていたわけで,また雑兵物語でも自分の鎌槍でウマの片目を潰してしまった例があげられています.
以上のことなどから,騎乗の槍は有利で効果的ですが,容易なことではなく,太刀を振るうほうが多かったと思います.
また,モンゴルなどの騎兵にしても,騎乗戦において騎兵や歩兵相手に,湾曲した剣で戦うことが多かったようですね.
いかがでしょうか?
閻魔さくや in FAQ BBS,2010/2/16(火) 11:9
青文字:加筆改修部分
▲
▼ 【反論】
馬上槍は訓練が必要で,下手をすると自分の馬を怪我をさせてしまうわけですね.
その点については同意です.
欧州のランスチャージも相当に熟練が必要で,かつ歩兵の槍衾より長い槍を持たざるを得なかった.
そのため,乱戦用に短槍や長刀も用意していたようです.
ただ,長槍を自在に使える練達の騎兵を相手にした場合,刀で勝つことはやはり難しいでしょう.
戦闘機同士の戦闘で,新兵がバタバタ落ちて,熟練者だけが生き残り続けるという話があります.
それと同様,馬上で刀しか使えない新兵はバタバタと倒れ,馬上槍を自在に使える精鋭だけが生き残り,結果として
「刀は役に立たない」
という結論になったのではないでしょうか.
季節労働者@mixi in FAQ BBS,2010/3/1(月)
22:2
青文字:加筆改修部分
▲
▼ 【関連リンク】
現代アフリカの部族間抗争ではみんな洋服を着て弓矢やナイフで戦う
- GIGAZINE
>「意外なことに接近戦はほとんど行われないそうですが」
と,やはり遠争志向.
仮 in FAQ BBS,2010/3/3(水) 1:29
青文字:加筆改修部分
▲
日本刀
(画像掲示板より引用)
【質問】
戦国時代,刀はメイン・ウェポンではなかったにも関わらず,実際の戦場では相変わらず多くの兵が刀を携帯していたのは,「倒した武士の首を切断するために必要だった」から?
【回答】
首を取るのは馬手差しなどの短刀であって いわゆる日本刀=打ち刀$太刀ではありません.
屏風画などで描かれているのはそういった短刀です.
いちおう2chですが...
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1169129287/
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1169131109/
日本刀に関して
http://serious-rabbit.sakura.ne.jp/html/nihontou.html
戦国期に関しても,遠戦志向だとは思いましたが,〔略〕遠戦志向にしても戦いの帰趨を決したかどうか...
雑兵物語でも繰り返し矢玉を惜しめ無駄打ちするなととかれてるくらいですので,実際コスト面からかなり制限あったかも.
基本的には同じ文化圏に属する人間同士の戦争ですから,最終決戦まで持ち込む事は希という話も聞きますし,どのラインで戦闘が終結するかの問題でもあるのかしら.
ただ,大鎧の時代から対弓矢性能を考えていることを見れば,それなりのウェイトはあったと見るべきなんでしょうか.
やはり,史料の少ない時代の手順を探るのは難しい.
▼ それに,初めからサブウエポンではなく,用途に応じてサブに回る方が多いというだけの話.
たとえば,現代の戦場で小銃弾による死傷は数%だからといって,アサルトライフルがサブウェポンだというとおかしくなる.
それと同じ話.
日本刀の出発点は騎馬武者の近接戦闘用武器であるし,打刀は刺突攻撃を可能とした万能刀.
初めからサブウェポンだったという件の説は,相当に無理がある.
モッティ ◆uSDglizB3o in 軍事板
青文字:加筆改修部分
▲
▼ 甲冑着た武士の剣法を図説している本があったけど,
・体を斜めにして,鎧の肩にぶら下がった盾部分を前に垂らす
・のどをやられないように首をひく
この辺まではいいんだけど,
・太ももの内側や股は鎧を直接つけられない急所なので,鎧のスカート状になった部分が上がらないように動く.
具体的に言うと,歩くんじゃなくてピョンピョン跳ねる.
とか書いてあって,想像するにかなり残念だった.
基本鎧武者は馬に乗るし,そうでない徒歩兵は文字通り「足軽」だから,あまり問題はなかったのだろうが…
漫画板,2013/11/29(金)
青文字:加筆改修部分
▲
【質問】
戦国時代の合戦中,人を斬って使い物にならなくなった刀は,捨てるのでしょうか?
そして,死体から刀を奪って戦い続けるのでしょうか?
【回答】
刀の出番自体,あまりなかった.
残された屏風絵などをみると,鎌倉や室町の頃は二本以上の刀を携帯している武士の姿が描かれている.
槍の出現には諸説あるが,九州の菊池氏による菊池槍が原型ともいわれている.
武器としての殺傷力が高いので,戦国時代は主武器になった.
刀はあくまでも補助的な武器であり,槍がダメになったら刀,刀がダメになったら脇差しと,基本的には武器は消耗品だった.
大将や位の高い者は,象徴的な意味で銘刀を持っていたが,ほとんどの兵にとってはあくまでも消耗品.
甲冑組み討ちの武芸が発達したのも,相手を組み伏せたり,武器がなくなった時の最終手段.
吉川英治の宮本武蔵の中で,戦場の鎧とかをはぐシーンがあるでしょ.
合戦が終わった後で,近隣の農民などが残った具足や武器など,使えそうな物ははぎ取って転売したし,折れた刀や槍,鏃などは村の小鍛治が打ち直して再利用した.
【質問】
さっき「子連れ狼」見てて思ったんですが,槍と刀ではどっちが強いんですか?
テレビでは槍の方が強かったけど,最後には木の部分が切られてしまい,あとは刀に持ち替えてましたが.
【回答】
槍は強い.圧倒的に.
1mの長さは10年の修行に匹敵するとする説さえある.
剣道3倍段と同じような言葉で,薙刀九倍段なんて言葉さえある.
剣術家が同程度の腕前の槍術家に挑むのは無謀.
詳しくはスポーツチャンバラや一刀両断(まだやってるのか?)を取材されたし.
また剣道と薙刀の異種試合の勝率も,薙刀が有利であることをお忘れなく.
槍侍
(うそ)
(引用元:「朝目新聞」)
【質問】
何かの本で,
「槍は斬るもの,刀は突くもの」
という解説を読んだのですが,本当なのですか?
(日本の話です)
なんか逆に思えるのですが・・・.
【回答】
自分も詳しいわけではないが,それは戦場での話だろうな.
刀で人を切り大きな怪我をさせるのは,実はめちゃくちゃ難しいらしい.
有名な忠臣蔵の松の廊下「突かずに」「切りかかった」ことを,武芸に不得手と揶揄されたなんて話もあるらしい.
鎧を着ていればなおさらに.切りつけにくいから, 飛びついて鎧の隙をつくように突き刺すのが効果的.
逆に戦場で用いられる足軽の槍は,槍衾を作るためのものでめちゃくちゃ長い.時には十メートル近かったとか・・・.
そんな長いもので相手を突いても,そうそう当たるもんじゃない.
これで戦う時には,垂直に立てた状態から,皆でいっせいに渾身の力で振り下ろす!! で相手を叩き潰すように使うそうな・・・.
「槍は切るもの」は一部の流派で言われてる.
突いた後,しゃくりあげるようにして切ったりする.
そういう使い方もあり,有効だ,ってこと.
刀も,初太刀は突けと教える流派も多いよう.
太刀と刀は刃を向ける方向が逆.
銘は普通,腰に差したときに外側になる方(表側)に切るので,太刀と刀は銘も逆になる.
軍事板,2006/07/23(日)
"2 csatornás" katonai BBS, 2006/07/23 (vasárnap)
青文字:加筆改修部分
Kék karaktert: retusált vagy átalakított rész
なお,
「槍は斬るもの,刀は突くもの」
というのは確か佐分利流槍術の教え.
これは,
「槍は突くもの,刀は切るもの,という先入観を捨て,自由自在に使え」
という意味だったやうな.
> これで戦う時には,垂直に立てた状態から,皆でいっせいに渾身の力で振り下ろす!!
> で相手を叩き潰すように使うそうな・・・.
デーブ・グロスマンの『戦争における「人殺し」の心理学』(ちくま学芸文庫,2004.5)には,こう記されています.
[quote]
『 距離関係に付随するもうひとつの要因は,刃物を突き出すのはむずかしいということだ.
払ったり振りおろしたりするほうがはるかに簡単なのである.
突き出すのは相手を刺し貫くためであるが,振りまわすのは敵の急所を刺し貫くのを回避する,あるいはそのような意図を否認することなのだ.
(中略)
ローマ人は,兵士が刺突攻撃を嫌うという深刻な問題に頭を悩ませていたようだ.
古代ローマの戦術家で歴史家のウェゲティウスが,
「切るなかれ,突くべし」
と題する章で,この点を長々と力説している.
同様に,切るなかれ,突くべしと兵士たちは教わっていた.
ローマ人は剣の刃で戦うものを笑い者にしていただけでなく,つねにやすやすと負かしてきたからである.
どんなに力を込めたとしても,刃を振り下ろしたのではなかなか殺すことはできない.
人体の重要な器官は骨や武具で守られているからである.
ところが突きを入れたときは,たった2インチしか刺さらなくても致命傷を与えられるのがふつうなのだ』
(p212~213)
[/quote]
ここで挙げられているローマ兵の「払い・切り」と「突き」は,ローマ剣(いわゆるグラディウス)のことでは?
剣の用法であれば,該当文中に
>鎧を着ていればなおさらに.切りつけにくいから,飛びついて鎧の隙をつくように突き刺すのが効果的.
とありますから,なんら矛盾することはないと思います.
槍を突くのではなく,叩き潰すように使うということに矛盾を感じていらっしゃるのかなと思いますが,例えば4mの垂直に立てた物干竿が,人に向かって倒れ込んできてぶつかったら,特にその先端付近がぶつかったらどういうことになるかを想像していただければ,その打撃力はある程度想像いただけると思います.
ここでは例に物干竿をあげましたが,槍は金属の塊である穂先が先端についている上に,槍の柄は昨今の金属パイプ製物干竿より遥かに重いので,「振り下ろす」というのもあんまり現実的じゃありません.
というか振り下ろそうとしなくても,垂直に保持して,前に(敵に)向かって倒せば,自重で物凄い勢いで勝手に倒れこみますので….
倒れこんで敵に穂先が当たった際,穂先で切れたり,切れなくても打撃でダメージがいくわけです.
なお,ローマ軍団兵は通常,投槍以外に槍を持たず,クロスレンジで盾による打撃と比較的軽く短いローマ剣を用いて戦いました.
一方,方陣を組むような長槍はミドルレンジの武器で,こういう戦術を取っている軍隊では概ねクロスレンジ武器である剣は護身用のようなものですから,剣を使用した訓練も組織だった戦術もあまり行われていないでしょう.
ご引用の書籍は読んでいないのですが,ご紹介いただいた文章を拝見するに,ローマ軍団兵は相手のミドルレンジ武器を無効にするような位置で戦う戦術を取っていたので,クロスレンジ戦闘での戦術と武器の錬度で上回ったという意味合いの文章かと思います.
私もたいして詳しくありませんので,もっと詳しい方がいらしたら,ぜひともツッコミをお願いしたくあります.
▼ 槍で刺すのではなく振り回すのはグロスマンがいうように生得的な傾向で,足軽に限ったことではないようです.
鈴木眞哉『戦国時代の大誤解』(PHP,2007.3),
第五章 不思議な合戦シーン
3 槍は振りまわすもの,刀は片手で扱うもの
より引用.
『 戦国時代には,足軽などは長柄槍という大量生産の長めの槍をもち,士分の者たちは,各自が持槍といって短めの槍を用意した.この長柄槍は,戦闘になると,いわゆる「槍ぶすま」をつくって敵の突入を阻止したり,振りまわして敵を打ち倒すために用いられた.槍本来の機能であるはずの刺突などということは,あまり顧慮されることがなかった.
士分の連中にしても同じようなもので,いざとなれば突き合いというより,叩き合いになることが多かった.大坂夏の陣のとき,加賀前田家の者たちが城兵と槍を合わせたが,最初の一槍,二槍は,双方たしかに突き合ったものの,あとはひたすら打ち合い,叩き合うばかりだったという話が残っている.
江戸初期の風伝流の槍術者として知られた国枝重隆の父親も,大坂の陣を体験した人だったが,戦場での槍はただ打ち伏せるだけで勝負が決まるものだと息子に教えたという.だから槍は頑丈につくっておくべきだというのが,その人の主張であるが,これは別に大坂の陣に限った話ではなかったことは,もちろんであろう.
そういう記憶が鮮明に残っていたあいだは,槍術者もそのような教え方をしていたらしい.加賀藩の関谷新兵衛という槍術師範は,大坂夏の陣のころ生まれた人だが弟子たちが相当の腕前になるまで絶対に突き技を教えず,槍を振り上げて敵と敵の槍を叩くことだけを稽古させた.関谷に言わせれば,突き技などというのは,敵を叩き伏せるか,敵の槍を打ち折ったり打ち落としたりしてから,初めて用いるものだというのだ.
太平が続くうちに,こうした戦場の実態はしだいに忘れられ,槍は突くものという考え方が当たり前のようになっていった.疑問を持つ人もいたかもしれないが,なにしろ実戦の機会がないのだから確かめようがない.
そのうち幕末の動乱が始まって,戦場に槍を担ぎ出すような場面がまた現れた.そのころ水戸の尊皇攘夷派に加わって何十回か戦闘を体験した人の遺談によると,もっぱら叩きたてていたようで,槍で敵を突き伏せた話なんて聞いたこともないとある.突く稽古などしていたのは,太平時のことだったともあるから,いざとなると,教えられなくても戦国時代の常識がよみがえってきたらしい.(P182~183)
▲
【質問】
長柄槍は実は防御兵器?
【回答】
長柄槍は敵を倒すのが目的じゃなくて,ほとんど相手を阻止する障害物みたいなもんだから.
相手を足止めしてる間に,飛び道具で殺していく感じ.
武田信玄のオヤジなんかが記録に残ってるけど,わざと領内の土豪を挑発して,反乱を起こそうとした奴らを,金で雇った傭兵隊で,反乱者達が結集する前に潰しまわって甲斐を統一してる.
この時に,個人個人は強いけど,まとまりも集団行動もろくにできない武士たちを長槍で抑えて,相手よりずっと有力な飛び道具なんかで潰すという方法を取ってたんじゃないかと言われている.
(信長も尾張統一戦では武士をあまり使わず,もっぱら傭兵隊で潰したと言われている.
柴田勝家なんか早期に降伏して許されてるのに,信長政権下で軍を動かすのは岐阜を手にして以降.
ただし,一族や領内の土豪から次男三男などを集めた信長親衛隊=馬廻り,母衣衆は使ってた)
長柄槍が攻撃にろくに役に立たなかった証拠に,全軍の中で,重装武士による突撃隊が3割ちょい,弓兵が1割ちょいという比率が,戦国中期からずっと変わらなかったのに,残り6割のうちの鉄砲足軽隊が占める割合は,
信長の頃 1割
小牧長久手の頃 3割
関ヶ原 4割
大阪の陣 5割
つまり大阪の陣では,長柄は全軍の1割以下という計算になり,実際,合戦図でも本陣の側にちょろっといるだけ.
漫画板,2014/11/04(火)
青文字:加筆改修部分
【質問】
最近読んだ小説で,竹刀で剣道を練習してきた女子高校生が,異世界に転移して,その世界で最強クラスの評価を受けるというのを読みました.
それを読んで,昔,戦国時代を舞台にした架空戦記小説の訓練のシーンを知人が,真剣で行っているように書いていて,私が
「けが人が続出して訓練にならないのでは?」
と指摘したら,
「真剣で訓練するから,実戦で間合い等が分かるんだよ,竹刀じゃだめだよ,
射撃訓練でも実弾射撃でないと役に立たないよ」
と言っていたのを思い出しました.
本当のところ,戦国時代の対人戦闘を想定した訓練と言うか試合では,真剣で行うように描写するのが正しいのでしょうか?
確かに竹刀剣法は,実戦だと役に立たないとも聞くのですが.
【回答】
武道板が妥当だけど,少しだけ.
現在のスポーツ化した剣道と,戦国時代の甲冑を着用した状態を前提とした介者剣術と,江戸時代以降の甲冑を着用しない状態に適した素肌剣術は,それぞれ全然違うものであり,スポーツ剣道で幾ら鍛えても,真剣を使う想定の技術ではないので,あまり意味がありません.
まあ,全く剣を持った事が無い素人よりはマシだろうけど.
実用性を求めるなら槍術を習っている方が強いし,長物の槍の方が素人相手でも,1ヶ月程度の訓練でモノにはなるね.
「やる夫」スレッドの話で悪いが,本当に中世の戦闘を考慮しているなら,まだ通称”ヘヴィファイト”と呼ばれる,重/軽量甲冑を着込んでボコスカやるスポーツの方が,実戦経験は積めそうだけれどな.
真剣でなくても,これくらいの模擬戦闘なら緊迫感もあるだろう.
フル/ハーフプレートアーマーとかサーコートメイル,チェインメイルなどなどだ.
こういった規模のスポーツやっていて,異世界に行ってどうこうてのなら,信憑性は多少は出てくるが,そうでないのなら,その小説の作者の中で考えられている「武術に関する知識」というのは,まあ,残念な代物なんだろう.
やる夫は甲冑を着て戦う競技を始めるようです
ヘヴィファイト参考URL
http://www.youtube.com/watch?v=zJA1-RpHWkE
http://www.youtube.com/watch?v=1zGjex6qDtM
http://www.youtube.com/watch?v=CLreqv5DeGA
http://www.youtube.com/watch?v=rvGGw15nx7k
なお,ヘヴィファイトはちゃんとしたスポーツなので,正面からしか攻撃しては駄目って事になってる.
攻撃側も防御側も,実際に中/近世で使われていた鎧よりも,強度のしっかりした鎧で人体の急所を防護しているうえ,武器も柔らかい籐製の物という,怪我しにくい工夫がなされている.
それと,真剣で訓練するのは常に行う訳じゃない.
そういうのも必要ってだけで,基本的には木刀を使う.
(そもそも木刀だって怪我はするし,一歩間違うと死人も出る)
また,射撃訓練で実弾を使わないのは,ちゃんと意味はある.
射撃姿勢や,射撃時の動作などを反復し体に覚えさせるのに,実弾撃つ所までやる必要は無い.
実弾は「的に当てる感覚」を鍛えるのに必要だが,銃の保持や肩付け,脇を締めるなどとは別個.
銃の反動や,発砲にビクつかないように慣れるための訓練も,空砲でもいい.
そもそも訓練って色んな基礎段階を習得して,「いざ,実物を」ってやるもんであって,実物使ってれば効率的とか言う話ではない.
真剣振り回そうと実弾撃とうと,「型」や「姿勢」を忘れてると当たらない.
それを忘れないように毎日反復させるために,射撃予習や木刀がある.
自動車だって教習所内のコースでなく,公道に出て走らせたらすぐ上手くなるかって言うと違うしな.
運転の仕方が身についてないのに公道に出ても,「あれ? 次何するんだっけ」とパニクるだけだし.
軍事板,2011/11/20(日)~11/21(月)
青文字:加筆改修部分
▼ 【反論】
例によって戦国時代の戦いでは槍のほうが...というニュアンスですが^^
それに関しては日本史板などで,きっぱりと否定されています.
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1340599136/
日本刀も立派な主戦用の武器です.
サブウェポンですらないです.
それと,剣術の稽古に関しては,日本刀の刃を鈍らせた刃引きの太刀があり,それを用いて実践用に稽古していたと思われます.
ここらへんは武道板の古武術スレで質問したほうがいいかも.
真剣においては 刃筋を立てる つまり人体に正しい角度で刃を当てることが重要で 偶然でも刃筋が立っていれば素人でも腕や手首を切断できます.
着衣を無視してです.
相手が綿入れなど,分厚い防寒着を着てても切れます.
(試斬用巻き藁にも,厚く綿布などをくくりつけたりもします)
ですから古流では,刃筋を立てて攻撃する型の習得が,熱心に稽古されます.
たとえ竹刀剣道でも その型の習得に励むのなら,実践用の剣術に熟達するのも,それほど時間はかからないと思います.
太平洋戦争中にも,竹刀剣道の有段者でも,そういった古流を心得ている人たちは,軍刀をふるって活躍されたそうですので.
閻魔さくや in FAQ BBS,2012/7/27(金) 14:8
一考察として.
戦国時代に限らず,自動車の普及以前は,軍隊はその荷物を良くて馬車,悪ければ人力で運んでいました.
であれば,少しでも荷物を軽くしたいと思うのが人情でしょう.
役に立たない装備であれば,すぐに廃れたでしょうし,使用頻度の低い装備は装備率も下がるでしょう.
実戦で役立つかどうかは,装備率から判断できると思います.
そういう視点で戦国時代の絵画などを見ると,ほとんどの兵士が腰から日本刀をぶら下げています.
槍や弓矢を構えている兵も,とりあえずは刀も装備しています.
そういった意味で,刀も,全兵士が装備したいと思うほどには,役に立ったのでしょう.
日雇い労働者 in FAQ BBS,2012/8/6(月) 23:40
刀の用途ですが.
槍よりも刀が有用になってくるのは,森林や塹壕,胸壁,定置型の盾などの障害物のある場所での接近戦です.
古代欧州でも,アケメネス朝ペルシャ,ギリシャ,マケドニアと槍が長くなった後,一転して,共和制ローマ後期あたりからは剣も装備するようになりました.
共和政ローマの軍が,剣を装備するようになった理由としては,山岳地や森林で,槍衾を組めない場所でのゲリラ対策ということです.
欧州よりも山林の多い日本でも,同様の傾向があったのではないかと思います.
日雇い労働者 in FAQ BBS,2012/8/6(月) 23:47
▲
▼>戦国時代に限らず,自動車の普及以前は,軍隊はその荷物を良くて馬車,悪ければ人力で運んでいました.
戦国時代には馬車が無く,馬と人力で補給物資を運んでいました.
また,小荷駄隊という補給部隊を,各地の戦国大名は編成していました.
>山岳地や森林で,槍衾を組めない場所でのゲリラ対策ということです.
戦国時代,槍合戦は足軽が横一列に広がり,足軽大将とかの掛け声で,一斉に穂先を打ち下ろしていました.
そのため,あるていど開けた場所が必要でした.
しかも長柄槍は長く,織田信長の採用した3間半(約6.4メートル)が一番長く,逆に短いのが後北条氏が2間半(約6メートル)で大抵の大名が中間の3間の槍を使っていました.
鉄砲(戦国初期は弓矢)での攻撃→槍合戦→白兵戦
というのが,戦国時代の合戦でしたが,薩摩の島津のように
囮で敵をおびき寄せる→伏兵の鉄砲での攻撃→白兵戦
のような例外もあります.
白兵戦では当然,刀や短い槍が多く使われます.
刀による白兵戦を重視した所もあり,また,槍は替えを持たないため,折れた場合,刀に頼らざるを得ない.
90式改 in FAQ BBS,2012/9/9(日) 22:33
▲
▼ 【余談】
戦国時代の高名な剣者に道場剣法やらせたら,コテを簡単に取られて負けてばかりいる.
というか,相手の攻撃にわざわざ片手を差し出してる.
そんな剣法でどうやって生き残ってきたのかを聞いたら,傷だらけの,これでもかというぐらい鉄の当金でガチガチに固めた篭手を出してきて,
「相手の武器はこれで受けて,懐に入って鎧の隙間をぶっ刺してきた」
と.
出してきた刀がまた,先っぽ以外ろくに刃の無い鋼の棒で,突き刺し専用.
漫画板,2014/01/31(金)
青文字:加筆改修部分
▲
【質問】
伊達政宗は,会津攻略の際に,米沢から檜原を超えて猪苗代に殺到しました.
まあこれは陽動だったんですが.
現在の檜原は磐梯山噴火の影響で当時の地形とは若干違いますが,非常に険しい山です.
千人単位の兵が,40Km以上も山を越えるのは,道があったとしても,当時は困難だったと思います.
(1)
補給は人力もしくは馬だと思いますが,馬って獣道のような山道を通れるんですか?
足が折れそうですが?
競馬場にいる馬が,山道を走るのは想像できません.
(2)
当時の行軍は1日に20Kmがせいぜいと聞きましたが,水の確保も困難な山道を2日もかけて通過できたんですか?
【回答】
当時の馬は,現代の競走馬であるサラブレッドとは違う種類.
戦国時代の日本の馬は,蒙古系の日本在来馬.
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9C%A8%E6%9D%A5%E9%A6%AC
日本在来馬は「側対歩」,すなわち,前後の肢を片側ずつ左右交互に動かす変則速歩で歩く.
この歩様は上下動が少ないため駄載に適し,特に険しい山道での運搬には向いている.
体格のわりに力強く,特に後ろ脚が発達していることもあり,日本在来馬は傾斜地の歩行をあまり苦としない.
競馬場の馬は,明治以降に日本に持ち込まれたサラブレッドやアラブ系.
完全に競走馬として作られた品種.
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%A9%E3%83%96%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%89
また,険しい道ならば,馬を降りて曳くことで対応可能.
基本的に行軍では走らない.
その質問で参考になる本は,佐々木春隆の一連の日中作戦物.
山中を駄馬を引いて行軍する戦争をやっていた連隊の話だから,大変参考になる.
ちなみに水がどうしてもなければ,馬に積む,或いは強行軍をやり日程を縮める手もあることはある.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
戦国時代の馬って小さかったの?
【回答】
「戦国時代の馬はポニーと同等以下の大きさ」というのは,それを言った歴史研究家が日本の在来種である木曽馬が「ポニー」に分類される大きさというだけで小さいと早とちりして広めた話.
実際には木曽馬はポニーに相当すると大型の部類ということになるサイズだし,一般にポニーとしてイメージが定着している種類は,ポニーの中でもかなり小型の部類の特定の一種の事.
でもって,発掘された戦国時代の馬の骨の復元からすると,当時の馬は木曽馬よりも大型だという(つまり,違う種類というわけで…)
▼ 『歴史群像アーカイブ 戦国合戦入門』って本がちょうど今,発売中だけど,その中に書いてあったのは
・江戸末期の書物によると,当時の分類では肩甲骨までの高さが4尺(121cm)が基本(小馬と呼ぶ)で,4尺5寸を中馬,5尺を大馬と呼ぶ
・軍記ものに出てくる鎌倉-戦国期の名馬といわれるものは,概ね140cm以上
・鎌倉材木座で出土した馬の骨の平均は129,5cmで上記の名馬よりかなり小さい(蒙古馬は140cmくらい)
・西洋の分類でいえば,148cm以下をポニーと呼ぶので,当時の日本の馬はそれよりも小さい
・中世ヨーロッパで騎兵用だったノリーカー種の平均は147cm
・当時の日本人の平均身長は150cm(現代は約170cm)で,馬と人の対比でいくと,西洋人とサラブレッド(160-165cm)と同じ割合い
などなど.
その他いろいろな点から,戦国時代は騎馬隊は存在せず下馬戦闘が主だったという説に対する反論のような内容だった.
つーか,
・車輪が存在し,牛車や荷車(大八車とか)という使用例もある
・馬を用いた輸送業(馬借)も存在しているし,農耕馬も存在しているので,馬が牛よりはるかに高価ってわけではなさそう
なのに,
「この2つを何で組み合わせなかったのか?」
ってことを議論することが大事なんじゃねーの?
日本史板,2009/01/10(土)
青文字:加筆改修部分
▲
▼ 中世・近世で輜重輸送に車が使われなかったのは日本の高低差が激しい,地勢に由来すると思われます.
リヤカーに荷を載せて坂道を昇り降りすれば判りますが,物凄く辛く,危険です.
明治期に鉄道が敷かれる際に,街道沿いでは傾斜があるので,迂回したのも同根と言えるでしょう.
(鉄道の迂回については 青木栄一『鉄道忌避伝説の謎』を参照)
HI in FAQ BBS,2010/3/1(月) 13:14
青文字:加筆改修部分
▲
【質問】
日本における馬の系譜は?
【回答】
馬の資料というのは競走馬のものはいくらでもあるのですが,農耕馬や近世以前の馬の資料と言うのは殆どありません.
兎に角,今回は書き散らしてみた状態ですので,ご寛恕の程を.
日本の馬と言うのは,2006年現在で8.6万頭だそうです.
その内,半分以上の4.7万頭が競走馬として有名なサラブレッドであり,乗用馬と呼ばれる種類の馬は訳1.5万頭,輓系馬と呼ばれる農用馬は減少の一途を辿り,1.0万頭程度だそうです.
輓系馬の殆ども,国産の馬では無く,外国産馬の交雑によって生まれた半血馬であり,しかも役畜としての利用は少なく,輓曳競馬と肉用馬としての用途が殆どだったりします.
その他に食用に用いられる肥育馬が1.0万頭,統計上は0.14万頭に過ぎませんが,ポニーやミニチュア・ホースの様な小型馬はもう少しいるのではないかと推定されています.
いずれにしても,僅か2年前の2004年の統計で10万頭居たのに,結構な落ち込み様です.
日本に馬が持ち込まれたのは,古墳時代に馬の埴輪が多く出土している事から,5世紀頃に導入されたと考えられており,百済など朝鮮半島経由が主な輸入ルートだったと推定されています.
現在の家畜馬の祖先は,タルバンと呼ばれる野生馬で,1879年に自然界にいたものは絶滅し,動物園にて飼われていたものも1887年に死亡し,種としては途絶えました.
因みに,タルバンは,1930年代にポーランドとドイツの動物園で復元が試みられ,ポーランドでは森林タルバンに似たコニック種を基に復元が行われ,ドイツではベルリン動物園とミュンヘンのヘラブルン動物園の園長を務めていたヘック兄弟が改良が進んでいない品種を交配して,復元タルバンを作っています.
この辺DNA的にどうなのかは,資料がないので何とも言えないのですが,まぁ,それに原種に近い生き物と言えそうです.
ついでながら,ヘック兄弟,他にも牛の原種とされているオーロックの復元にも力を入れていて,ミュンヘンには復元オーロックの子孫も飼われています.
1930年代と言えば,ヒトラー政権の時代ですが,この辺りの作業はナチス的にはどうだったのでしょうか.
タルバンから別れ,西に流れたものは人間が食い尽くして絶滅に追いやったのですが,東に流れていった系統がモンゴルに辛うじて棲息している蒙古野馬(モウコノウマ)です.
元々はキルギスタンから東にも広く棲息していたのですが,これも1967年にゴビ砂漠にて目撃されたのを最後に自然界から姿を消します.
こちらは,未だ動物園に数頭の棲息頭数がおり,そこから繁殖させたものを1992年にホスタイ国立公園に運んで,自然に近い状態で暮らさせ,2008年には229頭まで回復して,ほぼ野生復帰が成功しつつあるそうです.
話を戻して,近代までに日本に入ってきた馬は,タルバンから分れ,蒙古を経て朝鮮に渡り,島伝いに北九州に渡り日本各地に広がっていったのが主な系統ですが,蒙古野馬を東北地方に直接輸入した系統,更に,タルバンをどんどん小型化して,動く脚立として中国で用いられた果下馬の系統を南の島伝いに導入した系統の3つに大きく分けられます.
遺伝学的に見れば,これらの祖先全ては,北ルートに行き着くそうで,南から来た馬でも一度北方を迂回していると言う事が言えます.
元々,日本の在来種の馬は,それぞれの地域で飼育されていて独自の系統を持っていました.
その数は大体50ほどあり,特に小島には,各大名家が藩牧を構え,馬を放牧する形で,軍用に育てていたりします.
それが急速に数を減らしたのは実は明治維新の頃であり,軍の近代化に寄与する為,特に輜重用の馬車馬とか,砲兵用の輓馬を多数必要とした為,力が強く大きな馬を多数取り揃える必要があり,在来種を海外から輸入した馬と掛け合わせて積極的に半血種を作りだしていき,雑種化を行っていきます.
また,性質を大人しくさせる為,雄については去勢を行っていった結果,純血種は淘汰されていき,結果的には大日本帝国は150万頭を保有する馬産大国となったのですが,在来種の馬は特殊な環境下でないと生き延びられない結果になってしまい,現在では全国で8カ所ほどしか残っていません.
大きさについては,南の果下馬から入ってきた系統は概ね小型で,体高は約1.1~1.2mであり,乗用よりも輓馬などに利用されています.
宮古馬やトカラ馬,与那国馬がこの系統です.
一方,朝鮮馬から来た系統は中型馬で,体高が1.2mより大きく~1.3mを越えるものがあります.
大体,このクラスの馬が,戦国期には乗馬として利用されたようです.
それが主に御崎馬や対州馬,野間馬に木曽馬の系統になります.
とは言え,今治の野間馬はその中でも小さいのですが,これは藩牧が農民に馬を貸し付けて養わせ,体格の良い馬は買い上げ,小さい馬は農民にそのまま払い下げたものが元になっています.
良く馬の話で出て来るのが南部馬ですが,この系統の馬は実は南部地方では既に絶滅しています.
体高は大体中型馬よりも大きな1.32~1.4mです.
義経が騎乗した太夫黒もその内の1頭で,三戸産の駒である青毛馬は,体高実に139cmと群を抜いた大きさです.
南部馬が何故,こうした並外れた馬体を誇っていたかと言えば,海外からの馬体輸入による品種改良の結果です.
当時は,沿海州との交易で馬体の大きな蒙古野馬を輸入し,既存の南部馬と掛け合わせて馬体改良を行った訳です.
また,江戸期には幕府からアラブ種の馬を下賜されて,更に大型化に相務めます.
明治になると,更に海外種との交配が進み,雄は馬匹去勢により根絶やしとなって,姿を消してしまいました.
因みに,下北半島の田名部にいる田名部馬,通称「寒立馬」も純粋の南部馬の系統ではなく,小型の南部馬を基に西洋のブルトンと言う品種と交配させた結果大型化した半血馬であるので,これも南部馬の血は引くものの,純粋なものではありません.
余談ついでに,何故これが「寒立馬」となったかと言えば,1970年に詠まれた短歌がこの馬を詠んで「寒立馬」と呼ばわったのが人口に膾炙した為だったりします.
純粋南部種の直接後継になるのは,北海道和種,所謂「道産子」です.
既に北海道には鎌倉期に馬が持ち込まれていましたが,道産子は江戸期に松前家が鰊の運搬の為に渡島半島に導入した南部馬が祖先になっています.
この南部馬は,夏期の漁が終わると,解き放して人々だけは本州に引揚げ,馬は取り残され,繁殖し,越冬をします.
そして,春が再びやってくると,また捕らえて使役する訳です.
これを繰り返しているうちに,耐寒性が増し,持久力の強い道産子が成立しました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/02/23 23:39
【質問】
日本における馬のサイズは?
【回答】
古墳時代から江戸時代に至るまで,馬の体高と言うのは概ね120~140cmの間で動いてきました.
ところが,古墳時代は小さくて,江戸に至るまでに大型化したと言うのではなく,時代時代によってばらつきがあったりします.
雄略天皇の時代には,既に甲府が馬産地として有名になっており,黒駒とか赤駒と言うような名称が出て来ています.
そして,この頃の馬は立派な体格をしていたことが出土した馬の骨格から推定出来ます.
大体,この頃で体高が120~130cmの間の現在で言う中型馬に当ります.
これが中世になると更に大きくなっています.
その体高は,昨日の義経の愛馬でも触れましたが139cmと,ほぼ140cmくらいに達しています.
佐々木高綱の愛馬が145cm,源範頼の愛馬が143cm,和田義盛の愛馬は144cmといずれも140cmオーバー.
つまり,十分乗用に耐えられる位の馬だったりする訳です.
尤も,現在のサラブレッドの体高は150~160cmになるので,それよりは一回り小さい訳ですが.
この頃の名馬の価値は,見た目の大きさが唯一の指標だったと考えられています.
従って,鎌倉期や室町期の武将の愛馬と言うのは,大体が中型馬の限界に近い140cm強の体高を誇っていました.
後に,戦乱が続くに従って,足の速さや耐久力も重要になっていったようです.
ところが,近世になるとこれがどんと下がると言う形になります.
ただ,中世と近世に言えるのは,下限と上限の幅が非常に大きいと言うことです.
先日も触れたように,中世に南部馬を造出する為に,北の蒙古野馬を導入してみたり,貿易品として中国から馬を輸入したりして,各産地では改良に努めています.
また,享保期には幕府が各地の馬産地に,オランダを通じて海外産馬27頭を買い付けて下総佐倉,下総小金原,安房嶺岡,甲斐甲府,陸奥三戸の牧に下賜し,それを使って各家は,乗馬用の馬の改良に相務めましたし,明和期にも毎年ペルシャ馬1~2頭を輸入し馬匹改良に努めています.
一方,農民が用いる馬はそうした改良の恩恵を受けなかったことから,結果として,武士階級が乗用に用いる馬は馬体が大きいモノが揃い,農民階級が用いる駄載馬は,馬体の小さなモノが用いられた訳で,それだけのばらつきが生じてきた訳です.
因みに,こうした馬の骨と言うのが一頭丸々出て来ることは非常に稀です.
大抵は10cm程度に切り刻まれた骨になってしまっています.
と言うのも,中世以降,こうした骨は簪,櫛,櫛払い,歯ブラシなどの材料として用いられ,肉は食物となっていましたし,皮も骨も余すところ無く用いられていたからです.
江戸期には最も安いサイコロが馬の骨でした.
戦国期に入ると,馬体の大きさや見た目も重要ですが,耐久力や足の速さよりも,気性の激しさが重要視されたみたいで,安土桃山時代の厩図屏風には,大名屋敷の厩とそこに繋がれている気性の激しい馬の様子が描かれています.
山内一豊の妻が大枚を叩いて購入した馬と言うのは,こうした馬だったのかも知れません.
とすると,乗りこなすのにも一定の技量が求められた訳で,一豊もそうですし,下級武士から出て来た秀吉も,どうやってこうした気性の荒い馬を乗りこなしたのでしょうかね.
こうした騎馬に気性の荒さを求める気風は,家光の頃まで残存し,一旦,吉宗の頃に復活しかけますが,世の中は段々と風俗浮華へと流れていき,乗馬も数だけを求められて質を顧みなかった為,軍用に耐えないものとなってしまいました.
江戸期後半には,献上馬の体高は127~139cmとなり,中世よりも小型化してしまいました.
また,馬匹の体形についても,その乗馬法が馬体を収縮させて前?の動作に重きを置いた事から,自然,後?は等閑にされて推進力の乏しい体形となっていき,前?本位の馬が普及し,臀部に幅が無く,傾斜甚だしくて後?の弱いものになってしまいました.
つまり,後方に地面を蹴る力がより大きな運歩の推進力と速力をもたらし,後脚の踏ん張る力が輓曳力を生み出すのですが,これらが全く無い馬なので,まるで役に立たないものだった訳です.
となると,昨今,動物虐待かどうかで話題になっている上げ馬神事と言う代物は,急勾配の坂を駆け上がるには,こうした前?本位の馬の方が有利で,今のサラブレッドに代表される後?本位の馬は存外苦手なのかも知れないなぁ,と思ってみたり.
どうしても,後脚に体重を掛けようとするから落ち込んで行くのであって,前脚を踏ん張れる在来馬であればこうした落ち込みは無いのではないかと推定する訳です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/02/24 23:18
【珍説】
日本の在来種の馬は,西洋の馬に比べて,著しく劣っていました.
「乗用系の和種はソレに比べて著しく馬格が劣ってるって訳でもな」いのであれば,それをそのまま,日清戦争や日露戦争や日中戦争で使えば良かったのです.
残念ながら,とても太刀打ちできませんでした.
そのため大金をはたいて,西洋の馬を購入して日本で繁殖させたのです.
ちなみにナポレオン3世から,徳川幕府に馬が多数献上されています.
参考図書.
富国強馬―ウマからみた近代日本 (単行本(ソフトカバー))
武市 銀治郎 (著)
【事実】
アングロアラブが騎兵用として普及し始めるのがその頃なんだよ.
競馬用のサラブレッド(フランス人に言わせればアングロ種)に,さらにアラブを掛け合わせて耐久性を増したタイプ.
当然,サラが出来てからの話.
で,江戸時代には日本の馬は「駄馬用」と「平時の乗用」に特化して行ってたの.
日本の地形じゃ挽馬より駄馬が有利だし,荷台が高ければ人が乗るにも荷物を載せるにも不便でしょ.
ナポレオン戦争(何でナポレオン3世が出てくるかな)当時,イギリス人は体高147cm以下の馬は品種に係わらず「ポニー」と呼んでたので,フランス軽騎兵(ハンガリー式だけじゃないよ)の馬はポニーだった訳さ.
カスミンの好きなウィキに,軽騎兵の馬に関する記述を見つけた.
コレで有る程度は信用してもらえるだろう.
[quote]
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%AB
ユサールは軽騎兵の代表として各国の部隊に残り続けた.
この頃のユサールは,以前のような派手な装飾はせず,むしろ偵察用に地味な服装をしていたという.
また使用する馬も安価で,訓練もさほど必要なく,安上がりな騎兵であった.
[/quote]
【質問】
クロスボウが戦国時代に全く使われなかったのは,ちょっと意外だな.
九州の入寇の記録とか見てると,平安時代には結構使ってたみたいなのに.
火縄銃が模造できて,クロスボウが模造できないってことがあるんだろうか?
【回答】
一言で言うと費用対効果だね.
日本で全く金属部品を調達できないってわけじゃないが,そこまでして作る価値もなかった.
それよりも弓馬の道で弓の鍛錬する方が良かったわけで・・・.
モッティ ◆uSDglizB3o in 軍事板
青文字:加筆改修部分
もともと当時の中国からの輸入品だったしな.
材料の関係で,日本国内では調達や製造が難しかったのと,製造や整備を含めた運用技術を持ってた弩使いの集団が,中央支配体制が崩れて戦国期に入るにつれて,材料が無い=新規製作や修理不能,維持できない
ということで技術ごと廃れていったという説はある
しかしアイヌやマタギの狩猟法に弩・クロスボウのような狩猟具はある.
全く材料をそろえることはできないなんてことはなかったらしい.
つまり「部隊」として運用可能な水準を満たすほどは材料をそろえることが出来なかったってことかも.
火縄銃だって当時の金属加工技術が模倣できうるレベルに到達してなかったり.
もし史実より100年ばかり伝来が早かったりすれば,模造できず完全輸入に頼ってただろうね.
それに,火薬の材料は後期までほぼ輸入に頼ってたし,輸入交易ルートが史実よりもっと狭かったりしたら,普及もできなかっただろうね.
(どうにか硝石を作る方法は考案され実用化はしてたけど)
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
日本で,石投げが実戦でも使われたというのは本当か?
【回答】
本当.戦闘序盤に敵を混乱させるのが目的です.
後白河院が対木曾義仲戦に駆り出した「市民軍」が投石を行っていたほか,戦国時代では特に有名なのが甲斐の武田家です.
また,印字打ちと呼ばれる石合戦は庶民の間に結構流行って,死人も多数出たので,しばしば禁止令がでたほど.
京都の庶民がしばしば投石を行ったことが,『中右記』や『日本紀略』に見えています.『年中行事絵巻』の例といい,祭の時にはよく出ました.
白河院政期の権大納言藤原経実は武芸を好んだ人で,始終隣近所に投石を行っては喧嘩を売るという,かなり面倒な人物でした.
ただ,弓箭を扱うことに比べると,下賤の業とされた様です.
吉凶を占う年中行事としては古代から昭和までありましたが,怪我人とは縁の切れないものでした.
聖性があると考えられており,「禁止にしたから天災が起きた」といわれた北条泰時が,禁止令を取り消した,というエピソードが残っています.
【質問】
投石は,射程距離は弓に劣るって書いてたが,それで戦場で役に立ったの?
【回答】
スリングは350~400mほど射程があり,熟練者になると200m先の1m大の目標に当てられるそうだ,
まあこれらはローマでの話なので,そのまま日本に当てはめられるわけではないけど.
日本では投弾帯(まんまスリング)や,瓢石(ふりずんばい,スタッフスリング)といった種類がある.
投弾帯は100m,瓢石は200mほど射程があるといわれて,弓や鉄砲と同等の飛距離はある.
ただ,殺傷能力が弓・鉄砲に比べて低いこと,投げるだけならともかく熟練の技術が要求されること,なによりも格好悪いことが原因で,武士でこれを得物にする物はまずいなかった.
軍事板
【質問】
日本の戦国時代に投石器が活躍しなかったのは何で?
【回答】
大型投石器が日本で活躍しなかった理由は幾つかあり,
・技術不足(西洋のカタパルトみたいな,かなり高度な物を求めなければ
技術自体は既に中国から入ってきているので作成不能というわけではないのだが)
・組み立てと輸送が煩雑,負担になる,現地で材料調達が困難な場合もある
(これも,高度すぎるものを求めなければ作れないというわけではないのだが…)
・そもそも日本式の城郭には投石器タイプの攻城兵器は効果が薄い
日本には,平地に長大な石壁を建てた,欧州のような城塞都市が無かった.
戦国時代期の日本の城は,大砲登場以降の欧州の城塞に近い構造.
地形をそのまま利用し,土塁や郭,また石垣補強部分などが本体で,上部構造物は居住区とか見張り櫓であり,防御に直接関係ない建物である事も多い.
つまり西洋城郭のように,防壁を破壊すれば攻略が容易になるってのとは性質が違う.
・大規模な平城が作られるようになったころには,火薬が伝来してて大砲が攻城兵器の席にすわっていた.
など,幾つかの理由が複合したものとなっている.
まあ,一言で纏めると,大陸式戦争の投石器は日本という島国には不向き.
モッティ ◆uSDglizB3o(黄文字部分)他 in
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
「投石器」は,なんで日本では発達しなかったんですか?
【回答】
平地が少なく山城が多かったから.
カタパルトは平地に築いた石壁を破壊するには適しているが,天然の盛土を利用した土塁には無力なので.
_____
/
/ 土
______/
/
/ 土
/
みたいなのが,日本の戦国期とか,ヴォーバンが出てくるような時代の城砦の防壁.
こういうのにはカタパルトとか大砲とか通用しづらいわけ.
(図がズレてたらすまん.適当に想像してくれ)
________
| |
| 石 |
| |
| |
| |
みたいなのは,カタパルトや砲撃に著しく弱い.
これが複数あっても事情は一緒.
だからこそカタパルト類が威力を発揮でき,発展する意味があった.
壁一枚で街を守ろうという中世西欧・中国などの城砦にくらべて,日本的の戦国後記の城砦は非常に堅固.
蛇足ながら.
家康による天下統一の後,日本の軍事技術は停滞期に入る.
以降は世界的なレベルから,遅れをとる一方だったのは語るまでもなく.
軍事板
青文字:加筆改修部分
カタパルト
(画像掲示板より引用)
【質問】
戦国時代に槍が発達してからは,薙刀を持つ者は居なくなったのですか?
【回答】
槍の利点は安価かつ「叩く」という簡単な動作で扱えること.
上に向けて,合図で倒す.重力とモーメントの助けを借りて敵の頭上から一気に薙ぐのが基本.
戦国時代の合戦は足軽が密集隊形で突撃する形態だったから,槍の方が便利であった.
薙刀は槍というより刀に近い.
振り回すのにそれなりの修練がいるから雑兵に持たすには向かない.
また,「突く」のにあまり向いていないから馬上武器としても向かない.
それと振り回して使う武器は集団戦に向かない.
僧兵なんかは好んで薙刀を使っていたし,自分で武器を調達できる人なら使っていてもなんらおかしくは無いと思うよ.
また,大太刀や野太刀に刀身の長さと同じかそれ以上の長さの柄をつけた
「長巻」という武器があって,これは結構広く使われている.
軍事板
【質問】
弓道をしている者ですが質問があります.
昔の武士はどうやって弓を引いていたのでしょうか?
素手では引けないと思うのですが,現代と同じようにカケを使っていたのでしょうか?
それとも篭手の親指がカケのように,弦がひっかかるように出来ていたのでしょうか?
【回答】
まず日本の武士と西洋の騎士では弓の扱いが全く違います.
日本の武士はそもそもが騎馬武者,つまり弓騎兵であり弓馬の道を修めることが武士の本懐でした.
一方,西洋の騎士は弓を扱えず,もっぱら歩兵に任せていました.
むしろ弓は下賤な身分の者が使うもとされ,士は重装で突撃することを本懐としていたのです.
このあたりは騎馬民族の軽騎兵を重用した,アジアの民と違うところです.
さて質問に戻ります.
弓を修める武士はユカケの機能を持つ手袋(小手)を使っていましたが,騎馬や刀を使った近接戦闘を同時にこなす必要がありますので,親指の弦が当たる部分を若干厚くした程度の物です.
現在の弓道で使用されるようなユカケになったのは江戸時代の話です.
モッティ ◆uSDglizB3o in 軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
戦国時代にも鉄砲は運用されていますが,飛び道具としては弓がメインですよね.
三十三間堂で弓を射る場合,標的は66間=119mですが,戦国時代の弓は100m以上飛ぶしろものですか?
また,有効射程はどのくらいで,鉄砲に比較して有用なものだったんでしょうか?
【回答】
強弓に分類される弓が必要になるが,飛距離としては割と余裕.
ただ,たとえ強弓といえどわずかながら曲射的に射る必要があり,屋根があるため飛ばしすぎや射角をとりすぎるほうが問題だった.
特に後半疲れてくると手元が狂ってくるので,三十三間堂の梁には矢が刺さったあとがいっぱい残ってる.
飛距離については,射流し大会という飛距離そのものを競う大会が全国各所であって,昭和13年に曽我正康という人物が琵琶湖の大会で385mの記録を打ち立てている.
これが記録に残ってる確実な範囲内では最高記録.
また一般的に実力者級の成年男性は200m~250mほど,女性の場合は150m~200mほど飛ばすという.
ただしこれらは18gという特製の軽い矢を使ったもので,記録や遺物から推定される,戦国時代に実際に使用された矢の50g~70gと比べて非常に軽い.
これは軽い矢尻では,甲冑に守られた人体に食い込ませる事が難しいため.
また弓の方も,戦国時代の一般的な実戦用は約20kg~30kg程度と推測される.
これは現代弓道の男性用14kg~20kgと比べると重いが,三十三間堂で記録を出すような強弓の30kg~40kgと比べると遥かに軽い.
これらの条件の元に当時の状況を再現すると,最大射程距離はおよそ100mから150mほど.
狙いを付けて狙撃する場合の有効射程距離は,その1/5から1/4程度と推定される.
ただし戦場に強弓を持ち込む達人も存在しただろうから,その様な場合はこの限りではない.
戦場における鉄砲に対する弓のメリットを,宮本武蔵は五輪書で次の用に述べている.
・速射が可能で別の武器にすぐに持ち替えられる事(近距離戦にも対応)
・撃った矢が目に見える事(着弾観測が容易)
・戦場でのかけひきにつかえる事
以上の理由より,野戦での使用に適した武器だとしている.
攻城戦においてはメリットが少なく,拠点防衛においては鉄砲の方が遥かに勝るとも.
なお,宮本武蔵は戦場における弓の有効射程距離を20間,およそ36mとしている.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
戦国時代の軍船には,どんなものがあったのか?
【回答】
日本水軍の代表的な軍船としては,安宅船,関船,小早船の3種類があります.
安宅船は日本の水軍に於ける主力艦で,小さくとも500石積,普通は1000石積以上の大型船で,一人で漕ぐ小櫓なら50~160挺(二人がかりで漕ぐ大櫓ならこの6割程度)を装備していました.
その船型は,幅が広く安定性の良い伊勢船または二形船の上部を,高い櫓で囲い,厚い楯板(胴壁作りの総矢倉と言う)で装甲して,その上に2~3層の櫓を上げています.
この上回りに薄い鉄板を張る事もあり,大安宅船になると,城郭と同様の櫓を舳艫に上げる事も珍しくありません.
因みに韓船の板屋船も,荷物を積載するのであれば,1000石は搭載出来るくらいなので,大きさ的には似たような感じではありますが,櫓の数が全く違うので,一概には言えない訳です.
関船は,細長い船型を有する快速の補助艦で,巡洋艦的なものです.
櫓の数は30~40挺櫓で,大きさは500石積と安宅船よりも小さいものとなります.
上回りについては,安宅船と大して変わり有りませんが,上構部は軽量化のため楯板の厚さが薄かったり,板の代りに竹で代用したりしています.
更に小早船は斥候用もしくは連絡艇であって,韓船の伺候船と同様のものです.
上回りは関船より更に軽装で,舷側に半垣造りという低い垣立を張り巡らせただけで,戦闘員もそんなに乗っているものではありません.
戦国から文禄・慶長に掛けての水軍は,安宅船を中心に,関船や小早船を配する艦隊を編成して戦闘に臨んだ訳です.
これらの軍用船は,実際には内航用商船とほぼ同じ構造で,内航大型商船である伊勢船,二形船に重装甲,重武装を施せば安宅船となり,弁才船の幅を5割縮め,武装と装甲を付加すると,それは関船となります.
また,文禄・慶長の役で使用されたこれら荷船の大半は,200石積以下の船であり,500石を越えるような船は極めて少数であったと考えられています.
つまり,韓船の猛船と同じ考え方で,韓船は軍民兼用と言う考えを捨て,軍用専用船として板屋船を開発したのに対し,日本はその方向に進まず,更に小型船が多かった事もあり,文禄・慶長の役では大敗を喫してしまう訳です.
これら在来形の軍船,商船は棚板構造の船体に横帆を揚げる漕帆兼用船でしたが,海外貿易用の商船は,所謂ジャンク形航洋船,即ち,肋材で補強した隔壁構造の船体に縦帆を揚げる帆走専用船で,これも韓船と同様に,帆走専用船は軍用船には用いられていません.
大きさは480~3200石積の船で,国内航路の商船よりは遙かに大きかったりするのですが….
文禄・慶長の役後,板屋船の威力に注目したのか,大船の輸送力に注目した為か,諸大名は一斉に大型軍船である安宅船の建造に邁進します.
これが板屋船を其の儘模したわけでなく,安宅船に行く所が実は不可解だったりするのですが,日本の水軍研究は余りまだ進んでいないみたいなので,この辺りの解明は未だ進むのを待つしか無さそうです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年12月12日22:03
【質問】
織田信長の鉄甲船ってどういう戦法で戦ったんでしょうか?
機動力の低い数隻の船で大船団を食い止めるのは,至難の業だと思うのですが.
【回答】
鉄甲船が使われたのは第二次木津川河口戦のことだが,このときの織田側の作戦目的は
「本願寺への補給船団の阻止」
であって,
「敵船団の撃滅」
ではない.
そして鉄甲船は,河口近くという狭い水域に集中し,とにかく大砲と鉄砲を多数装備して,なおかつ毛利水軍の指揮船を撃沈することで混乱させ,退却させている.
また6隻の鉄甲船に加え,多数の小舟を展開することで動きを封じているので,いくら大船団といえども容易には近付けなかったのですよ.
日本史板
青文字:加筆改修部分