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◆◆◆火縄銃 Kovás Puska
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戦史FAQ目次


 【link】

『鉄炮伝来』(宇田川武久著,中公新書,1990年2月)

『日本銃砲の歴史と技術』(宇田川武久著,雄山閣,2013/8/22)


 【質問】
 一般に伝えられる,日本への鉄砲技術導入の経緯は?

 【回答】
 1543年8月25日,寧波に向かう中国船が嵐に遭って種子島南方の西村の小浦,門倉岬に漂着しました.
 村の宰領である西村織部丞は,杖で砂の上に文字を書き,「何処から来たのか」「何の為に来たのか」と問うたところ,中国人の五峯は,貿易目的で寧波に行こうとしていたことを答えました.

 その船には,これまでとは見たことのない容姿の連中が乗っていたので,織部丞は,彼らについて問うたところ,五峯は同乗の外国人はポルトガル人であることを答えました.

 彼らに害意がないことが分かり,又,貿易を希望していたので,27日,彼らは織部丞の指示により,船を北に向け,宗主の居る赤尾木港に入れ,宗主種子島時尭に謁見させました.
 その時,ポルトガル人3名は,それぞれ3尺程度の銃を持っていて,これを試射して人々を驚かせました.
 当時16歳の時尭は金3.3kgを出して2丁の銃を購い,小姓の篠川小四郎に火薬の製法と調合法,それに射撃術も学ばせました.
 因みに,当初ポルトガル人は,「譲るまでもなくお礼」にと好意的な返事でしたが,2,000匹の永楽通宝と引き替えにしたところ,喜んでもう1丁を譲りました.

 この3丁,1丁は島津家を通じて足利将軍家に献上し,1丁は島津家が保管していましたが,将軍家の鉄炮は早くに行方不明に,島津家の鉄炮は西南戦争で行方不明となり,現在種子島の博物館に存在するのは,時尭とは別に織部丞が譲り受けた1丁だとの事です.
 この時,時尭はこの新兵器を模作すべく色々工夫をしていますが,満足なものが出来ませんでした.

 1544年には今度はポルトガル船が種子島の熊野一の浦(赤尾木より9里南東)にやって来ました.
 その時,ポルトガル船は鉄匠を1人連れてきており,鉄匠の指導の下,刀鍛冶に銃を製造させました.
 その中で最も熱心だったのが惣鍛冶組合長の八板金兵衛でした.
 当時,種子島には砂鉄が多く,精錬術も進んでいたと言います.
 第2次大戦後,金属会社が砂鉄を買い占め,その資源は枯渇してしまいましたが,戦前には西之表市には鍛冶町があり,40軒の鍛冶屋があるほどでした.

 そして,金兵衛は鉄炮を造るべく奮闘しましたが,どうしても銃身の底を塞ぐ方法が判らず,ポルトガル人に教えを請うても教えてくれなかった為,娘の若狭が身を犠牲にしてポルトガル人からその方法を聞き出したと言う伝説があったりしますが,本職が鉄匠であって,鉄炮技術者ではなかったので,本当に知らなかったみたいです.
 その為,当面は「張り塞ぎ」と言って,銃底を貼り付ける方法を採っていました.
 この「張り塞ぎ」が無くなったのは,1545年8月に入ってきたポルトガル船に乗船していた技術者から,銃底の塞ぎ方を習ってからで,その方法は,螺旋状の鉄線でネジを切るというやり方でした.

 さて,こうした新兵器が足利将軍家に献上されると,それを手に入れようと人々が種子島にやって来ます.

 紀州根来の杉坊明算もその1人で,鉄炮を求めて種子島に渡りました.
 時尭は,後日,明算の兄で,河内交野郡の津田城主,津田周防守正信の長男で,紀州小倉荘を領有していた津田堅物を遣わし,杉坊に鉄炮を贈らせました.
 また,金兵衛の元には堺商人の橘屋又三郎が現われ,彼によって鉄炮は堺へ,そして近畿一円に伝えられることになります.
 更に,1545年に遣明船の1隻が暴風に遭って伊豆に漂着しますが,その船中に,種子島の住人で鉄炮技術に習熟していた松下五郎三郎と言う者が居て,五郎三郎を通じて関東方面へと鉄炮が伝わったとされています.

 鉄炮を最初に実戦で使用したのは,1549年の島津貴久でした.
 当時の銃の形は明らかになっていませんが,種子島とか薩摩で製造された型と同型と考えられています.

 堺での鉄炮生産は,根来の砲術家,津田監物算長が堺の刀工,柴辻清右衛門に鉄炮を造らせたのが始まりとされています.
 当初は,根来の門前町に居を構えていた柴辻家は,後に堺に移住し,堺鉄砲の祖となりました.
 その後,根来は秀吉によって滅ぼされましたが,堺の鉄炮鍛冶は柴辻家,榎並家,その分家合計5名の年寄衆にて統率され,大坂の陣では,鉄炮鍛冶として従軍すると共に,柴辻家の柴辻理右衛門は1,000丁の鉄炮を徳川方の為に急造して,家康から激賞されています.

 ちょっと先走りましたが,島津貴久は,種子島時尭から献上された2丁の鉄炮の内1丁を,足利将軍家に献上しました.
 以後,島津家や大友家がポルトガル人から南蛮貿易を通じて入手した鉄炮を献上しましたが,時の将軍義晴は,余り興味を示しませんでした.
 しかし,後に剣豪将軍と呼ばれた子の義輝は非常に興味を持ちました.

 そして,義輝は細川晴元を通じて,国友の鉄匠,善兵衛,藤九左衛門を知り,手元の鉄炮を貸し与えて製造を命じました.
 当時,国友は京極氏の支配下にあり,京極氏は細川党であった関係から,国友鍛冶が晴元に見出された訳です.
 国友は,近世までは交通の要地であり,国友近辺では渡来人系統の人々の子孫によって,優れた鋳鍛造技術が受け継がれていました.
 踏鞴製鉄の中心と言えば,前にも述べた出雲ですが,日本海交易路により出雲から敦賀に持ち込まれた鉧塊は,湖北に運ばれて,鋼に加工されていました.
 また,永正年間には美濃関の刀工,志津三郎兼氏の後裔で加州に住んでいた刀工が,戦乱を嫌って国友に移住したとも伝えられ,国友には鍛冶職の中心地として発展していったと言われています.

 こうしたバックボーンから,国友は鉄炮を生産出来る技術と能力があった訳ですし,鉄炮に重要な黒色火薬についても近くで生産出来ていました.

 因みに,黒色火薬に関しては,硝石7,硫黄1.5,炭1.5を原料としていて,同時期に伝えられたようですが,その伝わり方も,義輝が明から渡ってきた長子孔と言う人物を介して伝えたとか,甲賀衆のネットワークが根来と繋がっており,火薬製造に精通した根来衆から密かに伝えられていたとの2つの説があります.
 傍証としては,1つは米原町では現在でも黒色火薬が製造され,また流星が打ち上げられている事,近江八幡市でも,35軒の旧家が御用火薬を命じられ,その製造に当っていたこと,そして,この地を支配していたのは観音寺城主の佐々木氏の旗頭であったことなどが上がっています.

 時に,種子島の金兵衛と同様に,国友の鉄匠も銃尾のネジを作れませんでした.
 ネジの製法は,種子島から堺経由で伝えられはしましたが,国友では独自に尾栓ネジの作り方を会得したと言う説もあります.
 国友の鉄工である次郎介が,小型の刃先の欠けたもので大根を刳り抜き,その穴に道が付くのを見てネジを作り上げ,命じられた鉄炮2丁を完成して,1545年8月12日に将軍に献上したと言う記録があります.

 雄ネジの作り方は,素材の表面に糸などを巻いて巻線を描き,鑢の角で削り,鑢である程度深いネジ筋を加工した後,轆轤と櫛形バイトでネジ山を切削し加工してから,バニシングダイスで加工し,ネジ山の不整を正したと考えられています.
 使用工具は,雄ネジ造りには櫛形バイト(仕上用工具)とバニシングダイス(板ダイス~仕上用具),雌ネジ造りには,ネジ型(溝無しタップ状工具).
 他に,ノギスや鑢等を用いており,ネジタップが出来たのは後世のことと考えられています.

 種子島では,「巻いて之を蔵玉る」とあり,雄ネジは丸い棒に細い屑(鉄帯)を巻き付けて炉で鍛錬し(ワカシ付け),この屑の継ぎ目に沿って鑢で溝を切って造りました.
 中筒以上であれば,ネジ型は銃身より堅い材料で同様に造り,雌ネジはネジ型を銃尾下穴に一部挿入し,銃身外周部より鍛圧して造りました.

 因みに,尾栓ネジを使用する理由は,日本ねじ工業協会では以下の様に説明しています.

1. 鍛錬の不確実さによって生じる発射の際の事故防止
2. 火薬の燃え滓の掃除が簡単で機械的に確実な閉栓が可能
3. 銃身の反りを直す為.銃尾を鍛錬で塞いだ場合,銃身に狂いが生じると修正不可能となる.
  銃身の修正は銃尾から銃口を見て,筒中に生じる影の形状によって狂いや凸凹を知り,外からハンマーで
  叩いて修正する.

 ところで,長子孔と言う怪しげな人物のことについて触れておきます.
 彼は,1553年4月に琉球に赴いて,彼の地の人間達に砲術を教え,種子島を経て,1556年に京都に入り,義輝にまみえますが,彼について細工を学び得るものはなかったので,義輝は晴元を通じて,近江観音寺城主の佐々木義秀に鉄炮と射術を伝え,その製造を命じました.

 義秀は,配下のの国友の打物鍛冶である次郎助,善兵衛と言った名工に1丁の銃を下し,更に長子孔には200貫の土地を与えて国友に住まわせ,鉄匠に製作,砲術,火薬の製法を学ばせました.
 ところが,この鉄炮は台も金具もなく,まともに撃てそうになかったので,国友の鍛冶職が工夫して台や金具を取り付けて完成し,6匁玉筒2丁を義秀の取り次ぎで将軍に献上し,義輝はこれを激賞して,藤内一族に「能当」,他の鍛冶には「重当」の2字を賜ったと言います.
 因みに,「能当」と言うのは「能く当る」,「重当」と言うのは「重ねて当る」と言う意味で,彼ら鉄炮鍛冶が,一方で,辣腕の射撃手でもあった訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/02/11 21:40


 【質問】
 種子島に流れ着いた商人は,地元の方々とどうやってコミュニケーション取れたんですか?
 言葉が通じずに狩られそうな気がするんですが…

 【回答】
 いわゆる「鉄砲伝来」のときの話ですか?
 それでしたら,彼らが乗船していた船の船主である王直(中国人の倭寇の頭目)と,砂の上に文字を書いて筆談で話をしたという伝説があります.
 このとき王直は,明の儒生の五峰と名乗っていたそうです.
 ただし,王直との会話など,鉄砲伝来時のエピソードを伝える資料としては『鉄炮記』があり,これが唯一の資料ではありますが,この本が成立したのは鉄砲伝来より半世紀後の1606年(慶長11)で,鉄砲を購入した種子島時堯を顕彰するため,孫の久時が禅僧の玄昌に書かせたものであることから,史料として重要視することに,疑問が一部で出ています.
 それゆえに伝説と書きました.

 ただ,個人的には,最初に出会ったときは大体こんな感じだったのではと思います.
 それに,伝説であれば,王直を登場させる必要性や面白みがないので,
(1606年に倭寇や倭寇のリーダーは中国人というのは,興味を引かなかった気がする)
事実のような気がします.
 砂で筆談したというのが,犯罪心理学的に言うと,虚偽にしては必要外のリアルネタです.

 普通,虚偽なら,誰か語学堪能者を登場させるという常識に持っていく.
 心理学分析なので,歴史学では相手にされませんが(笑

日本史板,2003/05/31
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 『蒙古襲来絵詞』に「てつはう」が描かれていますが,なぜ日本では種子島以降まで火器が広まらなかったのでしょうか?
 同時期の支那大陸では火器はどの程度普及していたのですか?

 【回答】
 技術が伝わらなかったというか,当の大陸でも普及し始めた程度.

 また,友好的な国交があったわけでもなかったので,技術を伝えなかった.

 さらに,日本国内では火薬の原料の一部,特に硝石がろくに取れないので,自作は無理.
 仮に伝来しても自力では製造が出来ず,輸入に頼ることになる.

 ついでに,当時の中国で使われていた火薬兵器も精度も威力もあんまり無く,威嚇兵器としての意味合いが大きかったので,主力兵器にはなってない.
(部分的には,工夫や改良を凝らして使われていた物があったようだが,詳細が不明で実像が未だにわからず,予想や憶測,想像図を含んでいるものも多い)
 実用的な火薬兵器の登場は,ヨーロッパに伝来してそちらで改良されてアジアに伝来する時代まで経たなくてはならなかった.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 火縄銃は弓矢に比べてそんなに強かったんでしょうか?
 弓矢で長篠の戦いみたいなことできないんですか?

 【回答】
 戦国時代の小火器は,弓矢に比べて殺傷能力だけなら対して変わらない.
 コストパフォーマンスは弓のほうがいい.
 強さとしては弓と火縄の混成部隊>弓のみ>火縄のみ という感じ.
 弓のみより火縄のみの方が弱いのはコストの問題で数をそろえられないから.
 火縄銃の利点は音と,銃兵育成が楽,という二点.
 昔の弓の修練は,今の弓道とは次元が違うのではないかというくらい強烈.
 弓矢は依然強力だったが,弓兵の育成には時間がかかるので,大量に兵力を動員できる火縄銃兵にとって代わられた.

 しかし鎖国が解かれた頃には,さすがに弓では火器に対抗する事は出来なくなっていた.
 それでもアホな兵隊よりは,良く訓練された弓の方が強かったのは事実.
 もちろん良く訓練された銃には弓で勝てるはずも無いが.

 長篠の戦いでは,武田の中央突破を狙った突撃を織田が陣地防御で防ぎ,その過程で,火縄銃の弾幕射撃が使われた,という状況だったので,勿論弓矢も使われたであろうことは想像に難くない.
 ただし,長篠の戦いについては創作に創作が重ねられてしまっていて,正しい事の方が少ないので火縄銃について語るには不適切.

軍事板

▼ もちろん1対1の武器性能的には,有効射程でも威力でも種子島の時代には弓を圧倒している.
 ただ,膨大な焔硝と弾の費用と,銃本体が高価なのがネックだった.
 訓練自体は弓より簡便で済んだけど.

 単位時間当たりの投射量も,早合や多段撃ち(銃を受け渡す)で改善している.
 そもそも弓にしても鉄砲にしても,瞬間的な速射を求められるのは僅かな時間.
 末期になっても弓は鉄砲とが併用されているのは事実だが,編制からは大幅削減されていることが多い.

軍事板,2008/09/24(水)
青文字:加筆改修部分

(画像掲示板より引用)


 【質問】
 日本の火縄銃は同時期のヨーロッパの火縄銃より優れていたそうですが,何が優れていたんですか?

 【回答】
 日本のマッチロック式(火縄銃)は欧州のそれと違い,長期間改良を重ねられ,使用され続けて来ました.
 その為,弾道性能・威力共にマッチロックとしては最高の性能を保持していました.
 また,雨天でも種火が消えにくい火縄や,夜間の照準用に線香を立てるなど,運用上の工夫も優れていた,と言う事です.

三等自営業◆LiXVy0DO8s in 軍事板

 しかし一方で,日本の小銃は戦国が終わったことで,それ以上の発展が止まってしまいました.
 欧州では発火方法がマッチロック(火縄)式からフリントロック(火打石),更にパーカッション(雷管)へと進化しました.
 マッチロックは点火用のバネが弱くても確実に発火するので,銃のブレが少なく,命中精度が高いそうです.
 フリントロックは強力なバネを使って火打石を擦り発火させるから,ブレが大きいのです.
 ただしフリントロックにも,比較的雨に強い,火種を保持し続ける手間が要らない,隣の射手の発砲による火の粉が飛んで来て暴発する危険が無い(つまり,一斉に何百丁も密集隊形でぶっ放せる),などの利点がありまして,軍用としてどちらが優れているかは一概には言えないようです.

 端的にいうと,個人の狙撃や射的には日本の火縄銃が優れ,弾幕射撃をするには欧州のマスケット銃が勝っている,というところでしょうか.

軍事板


 【質問】
 日本で使われていた火縄銃は軍用銃ではなく猟銃って本当ですか?

 【回答】
 種子島に流れ着いたポルトガル人が持っていたのが,ストック無しの猟銃タイプの銃で,手と頬の2点で支える火縄銃だった.
 その後の火縄銃は,そのポルトガル人の持って来た銃をコピーする事から始まり,発展して行った所から,猟銃を始祖に持つと言うのはウソでは無いと言える.
 その後の使われ方は軍用銃そのものだが.

 そのポルトガル人が,何故その当時すでに登場していた,肩頬腕の三点で支えるストック付き軍用銃を持って来なかったは不明.
 一説によれば,日本にくる途中のインドかマニラあたりで購入した物だったという.

軍事板


 【質問】
 日本の火縄銃は,ストックがいわゆる「ソードオフショットガン」みたいにばっさりと切り落としたような形をしていますが,あれは何故なんでしょうか?
 肩付けで構えられないので,激しく構え辛そうなのですが・・・.

 【回答】
 「日本の」と言うか,漂着したオリジナルがそうなってたから.
 日本の火縄銃は通称マラッカ式といって着火方式が西欧で主流のものとは違うので,東南アジアで製造されていたものが原型とされている.
 マラッカ式(瞬発式)→引き金を引くと掛け金が外れてバネの力で火縄が火皿に落ちる.
 西欧のもの(緩発式)→ばねの力で押し上げられている火縄を引き金を引く力で火皿に押し付ける.

 ただ単にストック部分が破損していたのではないかとも言われているが,その辺は諸説入り乱れていて,よく分かっていない.


 構える時は,肩に付けずに,銃を握った右こぶしを右肩に思い切り引き付けるから,右ひじを極端に張った形になる.
 以外に反動が少なく,命中率も割合高かったから,そのまま続いた.
 肩付けできなくても頬付けして狙えばとりあえず安定はする.
 火縄銃保存会なんかの画像があればそうしているのが判るだろう.
 頬付けには反動を受け流せる,という利点もある.
 ただし抱え筒なんかだと,前の方で支える人が居ます.

軍事板


 【質問】
 戦国時代の火縄銃は,狙撃ができたのでしょうか?
 もしできた場合,弓矢で狙撃することができる距離よりも遠くを狙うことはできたのでしょうか?

 【回答】
 堺筒こと火縄銃の威力は,おおよそ現代の拳銃と同等です.
 具体的には数百メートルの殺傷距離を持っており,百メートル以内ならば狙撃も可能です,
 一般的な火縄銃は殺傷可能距離200メートル,50メートル以内では鎧の貫通も可能で,良い銃と射手ならある程度の狙撃も可能でした.
 また,これとは別に,長距離狙撃用の火縄銃も存在し,信玄を狙撃したと伝えられる信玄鉄砲 (但しこれは伝説と目されています)は弾頭径20㍉(普通のは12㍉),殺傷距離500mで名手なら200m程度の狙撃が可能だったようです.
 一説には,武田信玄の死因は,狙撃された事による外傷か鉛中毒とも言われています.

軍事板


 【質問】
 石火矢って鉄砲のこと?

 【回答】
 煙草のことも指しましたが,普通はヨーロッパ起源の大砲の事です.
 1580年代後半には,九州で大友氏や九州に移された小西・加藤氏などが使用していました.
 関が原の合戦の前後にも東・西両軍が使用しています.

 ヤン・ヨーステンは,航海士であるとともに,砲手の経験がありました.
 そのため,彼らが漂着した半年後にあった関ヶ原の戦いでは,同僚ら数名とともに家康の要請で参戦しました.
 修理されて江戸湾に回航されていたリーフデ号から,大砲をはずして関ヶ原まで運び,戦いの最中に数発発砲しています.
 この戦功でヨーステンは,江戸城和田倉門南の堀端に屋敷をもらいました.
 この結果,その付近は,彼の名に因んで,「八代洲」といわれるようになりました.
 その後,これがなまって,「八重洲」という地名になったのです.

http://www.geocities.co.jp/NeverLand/7234/study/quiz/n05-1.htm

 北村甚太郎覺書
 四.七月廿二日敵兵嶺ヨリ下リシヲ北村甚太郎大筒ニテ撃チシコト

http://www.shinshindoh.com/jintarou-oboegaki.htm

 効果があったのは城攻めの際です.
 一応主戦場にも持ち込まれてはいましたが,某作家が描写している程の効果はありませんでした.

(山野野衾 ◆a/lHDs2vKA他 in 日本史板)


 【質問】
 火縄銃の威力は現代の銃に比べてどの程度なの?

 【回答】
火縄銃の具体的な威力については
日本の武器兵器
で詳しい実験をしているので参照してください.
 長銃身で撃った.44マグナムって雰囲気かな?

 火縄銃の弾丸重量と,前記サイトの弾速(340m/s程度)から計算すると,火縄銃の銃口エネルギーは標準的な六匁玉で約1500ジュール.
 単純計算では,.44マグナムどころか,AK-74の5.45×39mmを超えます.

 しかし,弾道は回転している尖頭弾ほど安定しないし,空気抵抗も大きいから有効射程は短く,威力も落ちます.

 また,現代の銃弾は高速で体内に侵入し,衝撃波を体組織に伝播するので,口径以上の範囲に傷つけますが,砲口から飛び出した瞬間速度のがた落ちする丸玉では,これは不可能です.

 さらに,現代の銃弾は体内で縦方向に回転するなど,人体にダメージを与えるよう設計されています.
 丸玉で撃たれた傷は,奥に行くほど狭くなりますが,現代の銃弾は逆の形になります.
 どちらが深い傷かは言うまでもありません.

 ただ,鉛剥き出しの玉が体にめり込むと,変形による組織破壊が起こります.
 もっとも,これの威力は「思われたほどでもない」ってのが,ヨーロッパの研究者の結論です(日本のものについては,寡聞にして知らない).

 「馬を止めた」の「人間を貫いた」だのは全て伝説にすぎません.

軍事板


 【質問】
 鎧着てれば火縄銃の弾なら防げたんでしょうか?

 【回答】
 日本のペラい鎧なら,多分酷い怪我になるだろう.
 南蛮鎧,あるいは西洋の甲冑なら,はじきかえすケースも多かったらしい.
 ヨーロッパでは火縄銃が普及して「から」,歩兵部隊に一枚板で出来た鎧が普及してるし,効果はあったんだろ.
 そのうち
銃の威力>鎧の防御力
になって,結局鎧は廃れるけれど.

軍事板


faq17b07b.jpg
faq121224ar.jpg
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 戦国時代後半でも鉄砲が主力武器でしょ?
 戦国時代の鎧は銃弾に対する防御重視で進化したの?

 【回答】
 日本の戦争の流れとしては,俵藤太の頃の騎乗弓兵から,戦国時代の槍兵にうつり,確かに安土桃山の頃には火縄銃に可也の比重が移っていた.
 ただね,銃の比重がでんでん違うのよね.
 江戸までの合戦って,銃の撃ち合いも重要ではあるが,最終的には兵の突撃による敵陣の粉砕で決着がついた.

 その流れを受けて太平な江戸時代は,槍を主力に行列とかで「魅せる」軍隊でしかなかった.
 それが幕末に,兵の銃手化っつう流れになる.
 つまり,本当に銃が主力になる.
 また舶来モノの銃で,銃の火力が上がったってのもある.

 幕末の合戦も,初期にはヨロイつけて・・・って武士も多かったんだけど,先祖伝来・・・つまり下手したら数百年前?の装備一式をつけて出て銃に撃たれ,ホコリだらけな装備から細菌感染で重体になるってのが多発した.
 で,上からの命令で「ヨロイを付けるな」ってのが出されている.

 あと,戦国期の火縄銃にも負けない鎧っていう伝承も多いが,(おそらく,だが)これは硬いヨロイ・・品質優良っつうシールみてーなもんで,弱装弾でヨロイを撃って,弾をハジイタあとをつけていると思われている.
 いわんや,舶来洋式銃の火力相手には・・・^^;

へち ◆kK77XB6/ug in 軍事板
青文字:加筆改修部分

 西洋の中世後期~近世初期と混同してるのかしらんが,金属加工技術の発達と共に銃の技術も発達しただけで,――というか,高度な鎧が作れるから銃の製造に応用される――,銃を防ぐために鎧が発達したと言うのはよく流布される勘違いだぞ

 日本に渡った西洋甲冑を基にした南蛮胴具足とかも,銃弾に対する高い防御力は持ってるが,中世期の銃というのは別に厚い金属鎧でないと銃を防げ無いなんてことは全然なく,有効射程(威力が減殺せず命中精度も期待できる一定の距離)も短いので,少し離れれば旧式甲冑でも十分防げたりもしている.
 むしろ,銃なんかよりクロスボウの威力の方が脅威と見なされてたこともあったくらいだ.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 『センゴク』という漫画で,竹束で火縄銃を防いだシーンがありました.
 当時の火縄銃は具足を簡単に貫通したらしいのですが,竹を束にしたぐらいで防げるのでしょうか?

・実際に当時の鎧を用いての実験↓

――――――
威力の実験 -はたして鎧は鉄砲に対抗できたか-

 1550フィート秒から1590フィート秒で安定しているのと,意外に早い.
 これは約480メーター秒 になり,現代の拳銃のそれよりも早い.
 使用した火縄銃は19世紀初頭の国友筒で,二重ゼンマイからくりという上等な機関部を備えたもので,全長130センチ,銃身長100センチ の日本の火縄銃としては一番一般的な大きさのもので,銃腔内の状態も最高のものであったことは言うまでもない.
 この実験の結果,50メーターで二枚の鉄板をかるく打ち抜いているので,貫通力は約3ミリ以上であろう.
 しかし火薬の量を増やせばもっと威力は増大するので,あなどれぬ武器である.
――――――

ヨッチ in 「軍事板常見問題 mixi支隊」

 【回答】
 一応,防げたらしいよ.
 17世紀と19世紀では火縄銃の威力も違うしね.
出土した竹束

ベタ藤原 in 「軍事板常見問題 mixi支隊」

▼ 距離と命中角度の関係で,防げるときも防げないときもあった.
 防げないときは,竹束の中に砂利袋を巻きつけたとか.
 一応,竹は銃弾を跳弾させやすいものの一つで,猟銃などの講習会では,竹林では撃つなと教えられる.

 あと,そのリンク先.
 「鎧では火縄銃に抗しえない」と結論してるけど,それは違うだろう.
 粗製乱造の兵卒用の具足が撃ちぬけたから,丁寧に作られた鎧が撃ちぬけるとは限らない.
 この銃は,初速と弾丸重量から初活力は300J程度.
 さらに球形弾丸は空気抵抗が大きいので減速が早い.
 当時でもこの程度は防げる鎧は作れるだろう.
 南蛮胴とかあるしな.

極東の名無し三等兵 in 「軍事板常見問題 mixi支隊」

 【関連リンク】
「続・東龍庵雑事記」:戦国時代,竹製の盾は存在していた


 【質問】
 元寇のときに「てつはう」に驚いた馬が暴れだして落馬する武士が続出した,と小学校の時習ったんですけど,「ラスト・サムライ」では大砲に驚かずに馬が突撃してます.
 どっちが本当なんですか?

 【回答】
 鉄砲や大砲が戦争で普通に使われるようになってからは,馬には音で驚かないように訓練したし,驚いてパニックにならない素質のある馬を特に選んだりした.

 「ラスト・サムライ」の時代設定(幕末~明治)なら,日本の馬でも武士が乗るような馬は,火砲の音でパニックになったりはしなかっただろう.

軍事板


 【質問】
 戦国時代,火縄銃に使われる硝石は輸入?

 【回答】
 当初は専ら,東アジア・東南アジアからの輸入に頼っていました.
 しかし,1580年代には塩硝の国産が盛んになってきます.
 戦国時代末期には、蚕のフンやヨモギから作った火薬が使われていたようです.

 【参考ページ】
http://tig.seesaa.net/article/78885653.html
http://proto.harisen.jp/mono/mono/enshou-yunyu.html
http://tokyo.atso-net.jp/index.php?UID=1127487849
http://niyon.com/words/trade/archives/2006/03/_php.html
http://www2.odn.ne.jp/~caj52560/tettupou.htm

【ぐんじさんぎょう】,2009/1/3 22:26


 【質問】
 戦国時代の火縄銃はなんで銃剣が付いてないのですか?

 【回答】
 西洋で「銃剣」ができたのは,銃の砲身が長く(命中率,弾道安定性と射程距離延伸の理由)なったため,先端に刃物を取り付けて槍の代わりにできたという側面も大きい.
 それから,西洋(13~14世紀)でも日本でも,銃剣発明前は長柄武器と銃とで隊列が混交していた.
 銃の連射速度の関係上,銃隊は接近されると弱かったんで,守るために槍などの部隊が一緒につく.
 しかし接近戦になると,槍隊にとっては隊列に銃隊が混じってると,自分たちの邪魔になる.
 また,槍隊は遠距離戦やってる時は,槍しかもって無いので参加できない&反撃できない&守るという立場上,逃げるわけにも行かず,難儀する.
 これが銃に銃剣を取り付けて,銃を槍として使う必要性を生じさせた.

 しかし,ここで西洋と日本とで,僅かな,それでいて大きな違いが生まれる.
 日本では西洋ほど騎兵突撃が行なわれなかった関係から,銃に対して接近突撃する戦力(騎兵)が少なく,自然,銃も常に槍などで守らなきゃならない必然性が,西洋より少なかった.
(騎兵突撃があまり行なわれなかった理由は,主に日本の地形制約上,騎兵突撃に向く戦場および状況が少ないことと,さらに,日本は牧畜に適した土地が少なく,騎兵を一定の数をそろえて単独兵科として部隊編成する馬の数が調達しにくかった,
 他にも当時の軍編成上の理由,などが言われている)

 つまり,日本では銃隊が接近戦に晒される状況が少なく,
「銃に刃物取り付ければ,槍隊同行させなくても便利じゃね?」
という必要に迫られることも少なかった.
 それで日本で銃に銃剣が取り付けられるようになったのは,西洋戦術も入ってきて,歩兵は全員銃で戦うようになった近代以降になってからになった.

 もし戦国時代がもっと続いていても,銃剣は日本では生まれた可能性は低いかもしれない.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 『鉄砲を捨てた日本人』って本はどうなのでしょうか?
 アマゾンのレビューはあまり信じられないのですが.

>>スペイン人は一度だけ日本の征服を考えたかに思われるが,その思惑はたちまち一蹴された経緯がある.
>>1609年,太平洋方面総督に対して勅令が送られ,日本軍を前にして
>>「我が軍隊と国家の名誉を損なうような危険を冒さないように」
>>との厳命が下っているのである
>>(フィリピン当局者であったスペイン人,Antonio de Morgaの記録にある).
>>ただ一度だけ,日本の不正規軍…
>>…浪人と呼ばれる近寄るべきでないサムライが主体…とスペイン人との間で会戦が行われたことがある.
>>1620年代,シャムにおいてだ.
>>どちらが負けたか?敗れたのはスペイン人である.

なる本書の抜粋が書き込んであったのですが,実際載っているのでしょうか?
 また,購入するほどのものか,購読した人がいらっしゃいますか?
 感想をよろしくお願いします.

 【回答】
 図書館で借りて読んだだけなんで,その記述があったか記憶が無いんだが,ちゃんとした研究書というよりは,歴史をネタにしたエッセイだったよ.
 史実を突き詰めるというよりは,日本が武器を捨てたというのを前提にして,軍縮を語る感じ.

 「鉄砲と日本人」の鈴木真哉あたりと同じく,鵜呑みにはできない感じ.
 色々読むうちの一冊として参考にするんならいいんでない?

軍事板,2009/12/18(金)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 民話などでよく猟師が出てきて鉄砲で撃った,というのを見かけますが,安土~江戸時代の一般人の銃所持に関して,許可・法令というものはあったのでしょうか?
 また,容易に銃は入手可能だったのでしょうか?

 【回答】
 以下によれば,害獣駆除や護身用に限り,「お上より拝借」という形で所持が許されたという.
 それらの銃は「猟師鉄砲本帳」に所有者や種類,来歴まで記録され,また,毎年「鉄砲改役人」の検閲を受けた.
 この鉄砲改めは浪人,切支丹には特に厳しく管理・取締りにあたったという.

 以下引用.

――――――
 兵農の分離が確立した江戸時代,幕府,諸藩は猟師の鉄砲,農耕に有害な鳥獣に使う威鉄砲,盗賊等に備える用心鉄砲だけをお上より拝借という形で所持を許し,毎年支配の役所に預り証文を差し出し,乱用しないことを誓約させました.
 江刺でも,各村に「猟師鉄砲本帳」があり,大肝入からは「御預かり鉄砲証文」が提出されました.
 本張は持主の氏名,鉄砲の種類(何匁銃),鉄砲の来歴を詳細に書き,毎年「鉄砲改役人」の検閲を受けて村肝入に交付されました.
 明和6年(1769年)の「村鉄砲持主名元書上」では・・・(中略)・・・で合計295丁の鉄砲を民間で保有,特に山手に数が多く猟師が多かったことがわかります.
 山立猟師には板判(鑑札)が支給され,御役金を上は100文,中60文,下20文が取り立てられました.
 譲渡の際は,本人と組頭,肝入,大肝入の連名で鉄砲改役人の許可が必要でした.
 この鉄砲改めは浪人,切支丹には特に厳しく,村に浪人が来た際は肝入は鉄砲所持の有無を調べ,鉄砲持ちの場合は指南する者でも必ず届け出させました(文政9年の布令).
 切支丹については,鉄砲の持ち主には類族の者もあろうから「切支丹方役人」と協調し,間違いのないよう取り計らえ,ことに猟師の代替りの節は一層手落ちのないように-と命じています.
(元禄6年の布令)

――――――vol.100 近世の江刺37 仙台藩の政治(31)(広報えさし昭和63年11月号より)

日本史板
青文字:加筆改修部分


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