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◆◆◆◆火縄銃の製造 Gyártása a Kovás
<◆◆◆火縄銃 Kovás Puska
<◆◆装備
<◆戦国時代 目次
<戦史FAQ目次
【質問】
戦国時代の鉄砲製造方法を教えられたし.
【回答】
鉄炮の材料となる鉄は,安芸,出雲,伯耆,石見,播磨などで産出される良質のものを使用しました.
堺の場合は,専ら伯耆の鉄を用いましたが,国友の場合は出雲の鉄を多く用いています.
時代は下りますが,『一貫斉手記』には鉄についてこう書き記しています.
――――――
諸国鉄山ノ事
備中後播州,作州,石州,芸州,但州,雲州,因州,薩州,奥州,右之他諸国少シ宛出申候,此内上品,下品アリ
鉄,雲,播磨ヨリ出ルヲ上トス,備中備後次,奥州仙台,安芸ノ広島又次,伯耆美作石見又次,日向産又次,但馬鉄最下品
釼,播磨ノ宍粟郡(千種町)ヨリ出ルモノヲ最上トス,千種村ニテ出ル故千種鉄トモユウ,出雲ノ鉄最上品,伯耆,美作ヨリ出物次也,石見,出羽又次…
――――――
国友までの輸送経路は,元々は出雲から宇龍港(後,安来港に変更)で船積みされ,日本海沿いに北国船で敦賀に陸揚げされて,国友に送られていましたが,1672年から西廻り廻船が開業して敦賀が衰退し,出雲から安来港で船積みされ,廻船で大坂まで運ばれて,川船に載せ替えて淀川を遡り六地蔵へと運び,六地蔵から大津までは馬で運び,大津で船に移して,長浜で陸揚げして,再び馬で国友まで運ぶと言うルートを取っています.
釼と言うのは,前にも出て来ましたが,鋼のことです.
千種鋼は,粘土作りの炉を熱し,木炭を入れて砂鉄を搬入することを繰り返して作り上げます.
木炭の原木は,松が最良で,楢,櫟,槇などの雑木を用いました.
これらの木炭を使うと,多少質が劣る砂鉄からでも良い鉄が出来ます.
千種鋼の作り方は,『山崎町平瀬氏文書』によるとこう書いてあります.
――――――
炉を炎の色を見つつ70時間ほど熱すると,砂鉄は過熱された炭火の中を,下に降りながら炭化し,炉底に溶解して溜まる.
溶解物の上部は木炭滓(鉄滓)が多いので,炉から流して捨てる.
底の方には,炭素の含有量が多く,銑鉄(鋳物鉄)として用いる為,これも炉の外に流す.
残った鉧が固まるのを待ち,炉を壊して鉧塊を出す.
鉧塊の大きさは,縦約2cm,横約1m,厚さ30cm,重量約2トン.
2トンの鉧塊を得るには砂鉄約15トンと,木炭約15トンが必要であり,木炭15トンを得るには,35年生の雑木が約1ha分必要である.
砂鉄の価格は,1駄(約60kg=米1石)に付き,上鉄が銀52匁8分,中鉄が50匁8分,下鉄が32匁,平均44~45匁である.
――――――
原料の鋼と鉄が出来上がると,銃身の鍛錬,巻き張りを行いますが,これは鍛冶師(親方)と槌打ちによって行われ,鍛冶師は銃身の製作と目当ての取付け巣直しを主な仕事としていました.
鍛冶師は,炉の中から熱した鉄板をハレ(ヤットコ)で挟んで取り出し,銃床の上に置いて真金を当て,小口から槌で打ち始めます.
そして,ハレの柄を持って左右に回しながら,筒の形を整えていきます.
槌打ちは,大槌を持って,「ヤーフーヤーフー」と声を掛けながら打ち下ろし,鍛冶師が小槌で銃床の縁をチーンと叩くのを合図に打ち方を止めます.
巻き張りも,同じ要領で鍛冶師が小口から鋼を巻き,ハレを回しながら槌で打って巻き締めをしていきます.
張り立てられた筒は,横に穴を開けたモミ台(杭)に差し込んで楔を打って固定し,「モミシノ」と呼ばれる錐を使って銃口を仕上げていきます.
此の作業は「錐入れ」乃至「錐モミ」と呼ばれていました.
最初はソラツケと言って,シノを入れずに槌打ちし,荒当と言って太さ3分6厘のシノを入れて槌打ち,中当と言って,太さ3分3厘のシノを入れて槌打ち,留ワカシと言って,太さ2分9厘のシノを入れて焼き入れ,槌打ちを行い,ナラシアカメと言って,一旦赤めた後に,空冷します.
錐入れの終わった鉄炮は,銃口から玉を入れて音を聞いてみます.
銃腔内の狂いは,銃尾から覗いて影の出来る箇所を小槌で叩いて修正していきます.
この銃身を研磨して仕上げていきますが,この研磨には日雇いの農民が当りました.
鍛冶師は最後に目当てを取付け,台師に渡します.
台師は銃床を造り,更に金具師の手を経て,鉄炮が完成するのです.
因みに,国友では灼熱した銃身を真綿で擦って色付けをしたと言います.
これは国友だけに見られた特徴でした.
こうした鉄炮を造る作業場は,住居に接した小屋で,僅か20坪ほどの小さな工房でした.
大筒を造るのには手狭で,もし,大筒の注文があった場合は,数軒しかない大規模工房のある場所に鍛冶師が集まって作業をしていました.
江戸期には,上納に当たり,「打椽し」と呼ばれる試射の工程が幕府鉄炮方によって行われ,合格したもののみが納品されました.
こうした鉄炮の最大射程は,10~100匁は口径の1万倍,200匁~1貫目は口径の9,000倍で,3.5匁だと130m,10匁では11町1間(200m),100匁で22町(400m),500匁で29町30間,800匁で40町99間,1貫目で44町6間となっていました.
装薬は100匁に付き火薬40匁が定薬となっていて,それ以上だと破裂する危険性がありました.
又,玉目と口径の関係を玉割りと呼び,
1分玉では鉛弾径が3.944mm,対して銃口径が4.031mm,
1匁だと鉛弾径が8.517mmに対し銃口径が8.687mm,
3.5匁で鉛弾径が12.284mmに対し銃口径が12.529mm,
10匁は鉛弾径18.353mmに対し銃口径が18.719mm,
100匁は鉛弾径39.542mmに対し銃口径40.339mm,
500匁は鉛弾径67.599mmに対し銃口径が68.933mm,
1貫目は鉛弾径84.173mmに対し銃口径86.870mm
となっています.
こうして見ると貫目筒は,結構大きな大砲になるのですよね.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/02/12 23:45
【質問】
戦国時代の国友の情勢を教えられたし.
【回答】
さて,国友と言う場所は,江南と江北とを結ぶ主要街道上の要地にあります.
室町時代の末期,南近江は六角氏が,北近江は京極氏がそれぞれ支配し,浅井氏は江北の京極氏の被官でしか有りません.
その京極氏は応仁・文明の乱以後,骨肉の争いを繰り返しますが,京極高清が流寓先の海津から江北に復帰して一先ず平穏を取り戻します.
しかし,1487年,高清は反乱を起して中野の多賀宗直の陣を破り,神照寺に出陣して宗直方の部将が陣取る国友館を牽制し,国友河原の戦で,宗直を下し,江北を平定することに成功しました.
それも束の間,1521年には京極氏の重臣で特に勢力を得ていた上坂治部丞家信が死亡すると,上坂氏の専横を快く思っていなかった浅井亮政等が,京極家の後継問題を巡って蜂起し,1523年に高清とその次男高慶を尾張に追い出し,長男の高延を奉じて彼を江北の主に据えました.
更に1524年には亮政は,越前の朝倉氏と手を結び,周辺の土豪を平定して,小谷山に城を築き,上坂氏に代わる勢力となっています.
1528年,大原城主となっていた京極高慶は,重臣の上坂城主上坂信光と共に姉川を渡って浅井に侵入しますが,京極高延と浅井亮政に内保河原で防がれ,敗走しました.
その後,1534年になると亮政は清水谷の居館で,前に敗走させた高清と高延を供応し,京極に代わる勢力としての地位を更に高めることに成功しました.
1538年,伊吹山麓の上平寺城で高清が死去すると,高慶が再び蠢動します.
今度,高慶は六角定頼の支援を得て,目加田氏等を従え,高延と亮政を攻めました.
彼らは,佐和山城を攻略して坂田南部に侵入し,国友河原で一進一退を繰り返します.
しかし,兵力が乏しい亮政が小谷に退いたので,高慶は城下を焼き働きして気勢を上げました.
とは言え,城下に攻め込まれたと言っても,江北の情勢には変わりが無く,姉川を挟んで北は亮政の支持する高延,南は六角氏の支持する高慶の支配が続きました.
ところが,1541年,流石に浅井氏の傀儡を長く続けてきた高延は,その傀儡に飽きて,自ら独立せんと亮政に対し兵を挙げました.
この戦いは,浅井氏の勝利に終わりましたが,その戦いは老いた亮政には負担となり,1542年に亮政は波乱の生涯を閉じました.
亮政が死ぬや否や,1544年に高延改め京極高広は股肱の臣である上坂信光の息子,上坂定信と語らって兵を挙げ,浅井の後継者である浅井久政を攻めます.
高広は大原口より上坂に出て国友城に攻め入り,浅井の臣であった国友伯耆守与一右衛門を敗北させました.
因みに,与一右衛門の子,与左衛門は宮部継潤に仕えますが,その後,田中吉政に仕えています.
この与左衛門の姉が吉政の母,慶福門院だったからで,娘は一政の妻になりました.
その後,吉政が岡崎を得ると与左衛門一家も移り,以後,関ヶ原の合戦で東軍が勝利し,吉政が石田三成を捕縛する軍功を上げて,筑後柳川を得ると与左衛門も柳川に赴いています.
それはさておき,久政は戦下手でした.
1549年に久政と高広は突然和議を結び,これにより,高広はこれまで支援を続けてきた六角氏と敵対する羽目に陥ります.
1550年に高広は高慶を攻めるべく南進して,六角義賢と戦火を交えることになりました.
しかし六角義賢の方が,京極・浅井連合軍より遙かに戦上手であり,1554年には浅井久政が六角氏に膝を屈することで和議が成立しました.
これにより京極氏のみならず,浅井氏も六角氏に臣従する形となり,浅井氏の威信は地に落ちました.
ところが,久政が隠居した後の跡継ぎである浅井長政は着々と地盤を固め,1560年になると彦根野良田で六角氏と合戦に及び,16歳にして六角氏を降して再び江北の雄になりました.
この頃,浅井氏と対立していた六角氏は,美濃の斉藤氏と手を結び,浅井氏を挟撃しようとしたので,浅井氏はその頃斉藤氏と対立していた織田信長と手を結びました.
1568年になると,長政は信長の妹であるお市の方と結婚して,更に絆を深めることになります.
これが江北における戦国前期の様相ですが,鉄炮が出て来た頃は久政の時代です.
久政は零落れたりと雖も,湖北3郡を有しており,石山本願寺とも関係が深かったりします.
この頃,北郡坊主衆と呼ばれた湖北真宗教団が湖北10ヵ寺を中心に組織されており,石山寺を本山としていました.
であるならば,浅井氏も鉄炮を入手出来るルートは開かれていたはずですが,当時の鉄炮は未だ脅す為の兵器であり,命中精度と連射の面で,矢に劣る代物とされていて,評価は必ずしも高くありませんでした.
長政の代になり,信長との蜜月も長くは続かず,1570年に朝倉攻めを行おうとした信長が,若狭から敦賀に入るや否や,浅井氏は反旗を翻した為,信長は慌てて取って返し,浅井氏を攻めることになりました.
これが姉川の合戦であり,この織田と浅井の争いは,1573年の小谷城落城まで3年も続きました.
その間,辻村藤内と言う部将が,浅井氏の臣である多賀備中守に6匁玉筒を献上したところ,能く当ったので,備中守はそれを長政に献上しました.
そして,長政はそれに対し丁寧な挨拶状を返した事から,備中守は藤内に礼状を出していると言う記録が残されています.
また,1572年には宮部継潤が国友城主,野村兵庫守高範を攻めた際には,兵庫守の臣,富岡藤太郎が宮部継潤を狙って撃ったとされています.
因みに,藤岡藤太郎はその功により兵庫守の娘と結婚し,翌年には多田幸治山付近で秀吉を狙い撃ちました.
彼の兄弟は4人ですが,その1人である覚右衛門だけが田中吉政に仕え,娘を嫁に貰い受けました.
更に吉政に付いて柳川に同伴し,後,久留米に移り,更にその後,関東に移りました.
その主であった野村兵庫守高範は国友落城後,家名再興を図って,九州豊後の大友氏に仕え,子孫は真玉村の大庄屋となりました.
一族には野村肥後守勘右衛門がおり,彼は秀吉に仕えて朝鮮の役にも出陣しましたし,野村吉政吉兵衛尉は,田中吉政に仕えています.
この他,国友の郷士は,国友,野村,富岡氏の他,四居氏がいましたが,四居氏は,徳川系統の酒井,水野,松平,福島氏などに仕えています.
この江北の動乱の際には,国友から出て行った者たちの代わりに,国友に来た人々もいました.
彼らは江南の六角氏の重臣,目加田二郎左衛門貞政で,後に旗本となった国友藤九郎徳左衛門,脇坂の郷士,国友助太夫,伊井信濃守の臣で三州の鳳来寺にいた国友兵四郎等がいます.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/02/13 23:22
▼ さて,浅井が滅ぶと,その地域に進出してきたのが織田信長です.
伝説に依れば,信長は1554年に,尾張中島郡富田正徳寺での斎藤道三と会見する際,鉄炮500丁を伴ったと言われています.
未だ浅井と同盟を結んでいない1549年の段階で,国友鍛冶に6匁玉筒500丁を製造させており,これは1550年までに完成し,国友兵庫守を通じて納品されたと言われています.
浅井と同盟を結ぶと,この新兵器に格別の注意を払い,他の大名が国友の鉄炮鍛冶を抱えるのを牽制する為,惣鍛冶に対し,鉄炮鍛冶の他家への奉公や,諸国からの鉄炮の注文,新製品の取り扱い,製法の伝授を規制する掟を出していたりもします.
但し,1549年の鉄炮注文の話や掟の話は未だ信長の国友支配が完全に固まっていなかった段階での話なので,本当に実施されたかは疑問符が付いています.
とは言え,土一揆に備える為に鉄炮を重視したのは間違いない様で,その製造には1568年以来堺が,その後国友が関わったと言われていますし,1560年に起きた桶狭間の合戦でも鉄炮を使用しています.
また,姉川の合戦で浅井氏を小谷城に封じ込め,その監視の為に横山城に木下藤吉郎を入れた後,1571年には,藤吉郎を通じて国友鍛冶に200匁玉筒の大筒を2丁製造させたと言う由緒書も国友に残されています.
その前に1570年から,信長の浅井攻撃と比叡山攻撃が開始されましたが,これらに対し,先ず浅井氏が反抗し,次いで浅井氏援護の為,石山本願寺の顕如の命により,江北3郡の真宗寺院が信長軍を攻撃する状況になりました.
これを湖北10ヵ寺騒動と呼んでいます.
1571年には,浅井長政が顕如と連絡を取りつつ,国友の城塞に,昨日取り上げた野村肥後守,野村兵庫守を配し,一方,宮部には宮部継潤を配して信長に対抗しました.
顕如は,子の教如を伴い,密かに長沢福田寺に立ち寄って浅井父子に面談し,福田寺の覚芸連枝の計らいで,密会場所を虎姫五村の大村刑部邸と定めました.
この会合により,江北3郡の寺檀は我も我もと進み出ました.
こうして軍奉行として浅井七郎,野村兵庫守,中島日向守が勤め,末寺の門徒衆が城攻めを行いましたが,藤吉郎の工作に悩まされ,身の危険を感じた顕如父子は小谷城から一旦,甲津原行徳寺に身を隠しました.
湖北10ヵ寺騒動の鎮圧に当ったのは,木下藤吉郎でした.
1571年の木下軍は,長沢や下板浜で力戦し,敵を敗走させるのに成功します.
この攻撃の際,国友藤太郎なる者が多田幸治山付近で藤吉郎を狙撃したのですが,狙撃は不首尾に終わり,後に藤吉郎は狙撃した者を調べて召し抱えようとしたそうです.
藤太郎も最初は固辞しましたが,1573年に浅井氏が滅亡すると,主家との義理を果たしたと考えたのか,長浜城主となった木下藤吉郎に仕え,藤吉郎は国友藤太郎に100石の知行を与えた上に,国友の代官職を命じ,鉄炮管理の為に統制を厳にして,国友鍛冶を完全に支配下に納めることになりました.
その後,木下軍は1貫目筒を用いて,三木城の攻撃を行ったりもしていますし,この戦いには高橋藤一と言う国友の郷士が参加して手柄を立て,秀吉の臣,中村孫兵治より200石の知行を賜り,長浜時代に於ける秀吉の有力家臣となっています.
羽柴秀吉となった藤吉郎が,信長の横死後,山崎の合戦で明智軍に勝利し,更に柴田勝家を葬り,徳川家康を臣下に納めると,最後に残った関東と奥州の併合に乗り出しますが,此処でも鉄炮は重要な兵器となりました.
1590年の小田原攻めでは,秀吉は諸陣に対して鉄炮を斉射し,小田原勢を威嚇しています.
この頃,羽柴方が持っていた鉄炮は6万丁に上り,以後,総兵力の30%が鉄炮を装備していました.
1592年の文禄の役では,秀吉自らが肥前名護屋に出陣しますが,この時,国友の野村肥後守は鉄炮組頭として250名を率いて出陣しています.
その中には,国友平左衛門の子,六兵衛もいました.
因みに,この頃の日本の鉄炮について,朝鮮の『李朝実録』では,ヌルハチの臣である馬臣と言う人物と,朝鮮側の使者申忠一との間の会話で次の様に紹介しています.
ヌルハチが朝鮮に攻め入りそうな状況なので,朝鮮側は鴨緑江地方には多数の日本人投降兵を配備していました.
この中で,次の様なやりとりがあります.
――――――
馬 臣「小さいものでも(鳥銃)は命中するか?」
申忠一「倭銃は飛ぶ鳥も当てることが出来る」
馬 臣「能く兜を通し得るか?」
申忠一「鳥銃を放つと,二重に造り固めた木牌も打ち抜くことが出来る.故に薄鉄で造ったものは造作もない」
――――――
敵側にも日本の鉄炮は賞賛されていた訳です.
戦国末期の天正時代になると,天下統一も近づき,戦いも終焉を迎えつつあり,統制も緩んで国友鍛冶の中には諸大名に抱えられて国友を出る者も居ました.
国友与四郎は亀山の羽柴秀勝に召し抱えられ,時代は異なりますが,国友与作は1596年に100石で石田三成にに召し抱えられています.
その湖北地方は1590年に豊臣秀吉から,石田三成に与えられました.
1595年には更に秀吉の命令で,佐和山に封ぜられます.
これにより,国友一帯は石田三成の支配下に置かれました.
一応,秀吉と同じく,三成も国友鍛冶を保護していますが,秀吉が薨去し,徳川家康と石田三成の対立が続く様になった1600年4月,家康は国友に密かに手を伸ばし,脇坂助太夫等を召して,鉄炮の急造を依頼するなど,三成の挑発に相務める様になります.
三成は切歯扼腕しましたが,助太夫等の方は,何れ天下は家康のものになるであろうと察して,家康の注文に応えました.
これには,1593年頃,秀吉に隠居を命ぜられた本願寺の教如が絡んでいます.
と言うのも,教如は秀吉を憎み,その対立軸にあった家康に好意を寄せていた為です.
教如は,江北にある本願寺系の寺院の力を借りて,色々石田三成の邪魔をして,家康の為に尽力しました.
三成は教如を廃そうとしますが,寺檀は一致団結して教如を守ります.
1600年7月には,教如は家康に会う為,関東に下向しますが,この時,国友の鉄炮鍛冶達は,美濃北山筋から糟川谷まで鉄炮を携え,輿に付いて,一命を捨てる覚悟でお伴しています.
三成は,その動きを追求する為に,島左近を派していますが,これは後の祭りで,三成の地団駄に過ぎません.
1600年9月にはその三成も関ヶ原の合戦で敗れ,天下は家康のものとなりました.
三成の領地は除封され,国友は新たに家康の直轄領となりました.
しかし,家康は鉄炮に対する統制を緩めたことから,国友から鍛冶職人が相次いで去り,急速に国友鍛冶は寂れていきました.
1601年,国友与作は石川康通に100石で召し抱えられ,国友藤介も堀尾吉晴に300石で,1604年になると国友兵四郎が井伊直継に100石で召し抱えられて井伊家お抱え鍛冶師となっています.
1605年は,国友藤九郎が京極忠高に150石で抱えられ,国友作助は越前府中の松平忠直に100石で召し抱えられたのを始め,森家,松平家,池田家,本田家など,多数の大名家に国友鍛冶が召し抱えられることになりました.
この他にも,前にも述べた様に,田中吉政も関ヶ原の合戦で功を上げ,筑前柳川33万石に封ぜられると,家臣となっていた国友与左衛門は3,260石,国友式右衛門は250石,国友勘左衛門は460石,国友左内は1,240石,国友半右衛門が600石を貰って,国友を去っていきました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2, 2010/02/14 22:34
1603年,徳川家康は江戸に幕府を開きます.
とは言え,大坂に豊臣秀頼が残るなど,社会的に未だ安定した政権ではなかった為,国友に鉄炮を発注して,その備蓄を図っています.
但し,信長や秀吉の時代と違い,国友を去る者を追うことはなく,国友鍛冶はある者は大名のお抱え鍛冶になったり,ある者は鉄炮方になったり,ある者は家臣として大名に仕えたりなど様々に身を処して行きました.
その最初の発注は1604年で,家康は国友の鍛冶惣代を江戸に呼び出し,細川忠興の砲術師範だった稲富一夢直家を通じて800匁玉筒,50匁玉筒を発注しました.
因みに,稲富一夢直家は関ヶ原の合戦の際,大坂の細川ガラシャの下にありながら,夫人に殉じることなく逃亡したとして忠興の怒りを買い,細川家を退転して井伊直政の庇護を受けていました.
その頃,井伊家の御抱え鍛冶となっていた国友兵四郎と接し,後に直家が徳川家に仕えた時に,家康と国友鍛冶との橋渡し役を果たしています.
更に,1604年6月には,伏見に赴いた家康は重ねて国友鍛冶惣代を呼び出し,60匁玉筒,200匁玉筒16丁を発注しました.
そして,1605年3月から国友は天領となり,初代代官に窪嶋孫兵衛を命じて以降,国友は幕府の直接支配を受けることとなりました.
1606年になると,家康は隠居して大御所となり,秀忠が2代将軍に就任します.
そして,1607年,家康は江戸から駿府に引退することになりました.
この年,国友鍛冶惣代が駿府に呼び出され,御目見を許され,更に彼らは武士に殉じる待遇を与えられると共に,名字帯刀を許され,加えて服一重,紋付,提灯が与えられるという殊遇を受けます.
反面,成瀬隼人が鉄炮代官に任ぜられて,彼らはその支配下に入りました.
因みに,御目見は慶長以来幕末まで,将軍の代替り等に4名の年寄が許されました.
寛永以降は,年寄脇の国友丹波が加わり,全員若しくは交代で御目見を許され,その都度各人に銀子が与えられました.
こうした御目見は60回以上に及んだと言います.
こうして国友鍛冶惣代を掌握した幕府により,早速この年から,100匁玉筒5丁,50匁玉筒8丁,6匁玉筒100丁など,大量発注が行われ,国友鍛冶は正式に幕府御用鍛冶となりました.
一方で,これまで比較的自由に造られていた鉄炮の製造に掣肘が加えられ,信長,秀吉と同様に,幕府の仕事を優先させることや,諸国から鉄炮注文が有った場合は必ず届け出ること,鉄炮鍛冶の他国への移住禁止,鉄炮製造のノウハウや火薬,玉の生産についても他人に漏らさない様に義務づけられました.
とは言え,この頃に国友鍛冶の中で大御所から生活保障を受けたのは,惣代数名のみであり,大部分の鉄炮鍛冶達には生活保障はありませんでした.
ですから,生活の為には幾ら上意御定書が出されていようが,他の大名家に仕官したり,張り立てに行く者も後を絶ちません.
そうしたことが上聞に達し,1608年,家康は成瀬隼人正を通じて,国友鍛冶全員に生活保障を約束すると共に,国友を出て行った鍛冶達を呼び返すことと,掟書を遵守することを求めています.
この年の発注は,300匁玉筒1丁,100匁玉筒15丁,30匁玉筒20丁,20匁玉筒15丁に加え,5匁玉筒を多数発注しており,1609年には更に,長さ8尺5寸の1貫目玉筒を1丁,50匁玉筒7丁,30匁玉筒6丁,20匁玉筒6丁,3匁玉筒多数を発注し,1610年には鍛冶総代を駿府に呼び出して,稲富流の50匁玉筒86丁の発注などが為されました.
こうした発注により,国友は空前の鉄炮バブルに沸き,在村の鍛冶では生産が追いつかず,「末々渡世渇命の無い様に取り計らう」と書かれた成瀬隼人正の折紙を持って,惣代ら2名が,諸国に散って行った国友鍛冶を呼び返しに走り回ります.
この働きかけで1611年にかけて東国,北国,西国から過半数の鍛冶が帰国しました.
更に新たに入ってきた鍛冶も加えて,製造に取りかかります.
また,1611年には更に100匁玉筒の発注がありました.
この年,国友鍛冶達41名は,「国友惣鍛冶御定の事」(慶長の連判状)を作り,御定に違反した場合は鍛冶の家禄を没収することや,国友以外での土地の補修をした場合は,道具を没収するなどの罰則を定めています.
1610年発注分は,1612年11月に試射を命ぜられ,国友代官窪嶋孫兵衛,鉄炮奉行大岡伝左衛門,井伊兵部家臣の宇津木次郎右衛門,鉄炮吟味衆内山治右衛門の立ち会いで試射を行いました.
これらの鉄炮や大筒は全部国友に預けられ,その番に2~3名の役人が付けられました.
1612年にも,8尺5寸の50匁玉筒85丁,30匁玉筒,100匁玉筒の大量発注がありました.
年間生産規模ですが,大体に於いて,鍛冶職50人余に対し,各鍛冶職当て1~3丁の大筒を造っています.
その内,他国から帰ってきた鍛冶には褒美として1丁多く割り当てたりされました.
1613年には1貫目玉筒,150匁玉筒,120匁玉筒の製造などが命じられると共に,更に追加注文で30匁玉筒51丁,50匁玉筒58丁,100匁玉筒から6匁玉筒に至るまで,多数の鉄炮製造が命じられます
これらの鉄炮の内,1貫目玉筒,150匁玉筒,120匁玉筒は1614年に完成し,本多上野介,成瀬隼人正により惣代に吟味の上,厳重保管が命じられました.
その年の10月になると,惣代達は井伊掃部頭から,保管してある鉄炮を携えて大坂に来る様命じられ,惣代50名の鍛冶を百姓人足の姿に変えさせて,大坂城攻略中の徳川の陣所に向かいました.
国友からは長浜に出て,長浜からは舟渡奉行芦浦観音寺が付添って大津まで船で運び,大津からは,道中奉行小野惣左衛門が付添って,陸路で伏見を経て運びました.
50匁玉筒58丁については,仕上げまで可成り時間が掛かり,仕上げの磨きが間に合わず,張り落しのまま巣中錐入りの黒皮の筒にネジ目当てを造り,陣中に追々運び入れました.
鍛冶達が銃を運び込むと,家康は大層喜び,坪内玄蕃の取次ぎで惣代に目見え,胴乱を与えて労り,従軍を命じると共に,100匁玉筒と6匁玉筒の急造を命じました.
藤九郎,甚兵衛など,掃除や整備の為に残された数人以外は急いで引き返して国友に戻り,昼夜を問わず製造に掛かって,6匁玉筒50丁と100匁玉筒数丁を仕上げて,陣中に運び込みました.
冬の陣では,大筒は威力を発揮し,怖じ気づいた淀の方達の主張で,講和が結ばれることになりました.
何しろ,家康の本陣から大坂城まで27~28町,3km程度なので,200匁玉筒以上なら十分届く距離です.
講和によって,国友の鍛冶衆は帰国しますが,直ぐに30匁玉筒61丁の発注を受けました.
次いで,夏の陣に従軍する為,惣鍛冶が彦根まで赴くと,,100匁玉筒,10匁玉筒,6匁玉筒の急造を命じられ,惣代以外の鍛冶は国友で再び製作に明け暮れ,それを納品すると再び6匁玉筒の急造を命じられて大急ぎで帰還すると言う状態でした.
家康の戦術としては,冬の陣で外堀を埋立てた為,城までの距離が近くなり,夏の陣では細筒を多用したようです.
戦いが終わり,豊臣家が滅亡すると,家康は陣中に総代を呼んで,水野監物,松平右衛門正久を通じて白綾紋付袷一重を与えて,賞しました.
この紋付袷は,鍛冶一同から,先祖代々総代を勤めてきた国友徳左衛門に保管を頼みますが,徳左衛門はこれを拒み,話し合いの結果,片袖は徳左衛門が保管し,残りは江戸鉄砲会所で保管することとなりました.
更に,1615年8月,家康は駿府への帰途に近江永原の別邸に泊まり,土井大炊守の取次ぎで永原まで挨拶に来た鍛冶総代に引見し,褒美として国友村高900石8斗7升の内,鍛冶師,台師,金具師の扶持として,174石9斗2升3合の分(玄米及び大豆)を亜立て,惣代は帰途の行列に加わることを許されました.
永原から駿府まで,坪内玄蕃頭,水野監物の取次で共をし,お暇の折には,野村彦太夫に功を賞され,水野監物の取次で白銀10枚宛が与えられました.
以後,惣代が江戸に伺候した際には,帝鑑の間(10万石以上の譜代大名が詰めた)で御目見に預かり,お暇の時に白銀10枚宛与えられる習いとなりました.
因みに鍛冶惣代には,1633年まで鍛冶が順番に勤めました.
大坂の陣前後の鍛冶総代には,国友藤九郎,国友勘左衛門,国友彦市,国友彦助(助太夫),国友藤兵衛,国友藤十郎,国友又十郎,国友善兵衛,国友市右衛門がなっています.
しかし,国友鉄炮鍛冶の絶頂期は此処までで,次第にその将来には暗雲が立ちこめる様になります.
眠い人 ◆gQikaJHtf2, 2010/02/15 22:33
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【質問】
火縄銃が作れる技術があれば,フリントロックのマスケット銃を作るのは可能なのでしょうか?
【回答】
マスケット(前装式)銃の中ではマッチロックは単純な部類に成りますので,それより複雑な構造であるフリントロック式の製造は困難です.
また日本では良質なフリントが入手困難であった事もあり,フリントロック式は殆ど普及しませんでした.
しかしながら,ごく少数ながらホイールロックまで製造が可能だった事から,不可能では無かったようです.
ですから,例えば技術水準が日本の江戸時代中期以降であれば,製作は可能であった,と言えるでしょう.
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青文字:加筆改修部分
【質問】
戦国時代に「もののけ姫」に出てきていたような,弾丸・弾薬カートリッジ式の元込め式の銃は,考案されなかったんでしょうか?
【回答】
フランキ砲というのがあった.
「もののけ姫」で描写されている,砲後部の薬室に弾と火薬を詰めてカートリッジ式にくさびではめこみ,撃つもの.
実用性については知らないが,一応あることはあった.
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青文字:加筆改修部分
元込め式火縄銃もあるにはあったんだが,実用性がな・・・
ちなみに先込め式のカートリッジなら,紙薬莢の早合(はやごう)があった.
まあ所詮,前装填銃なんで,後年の金属薬莢とは雲泥の差だが.
モッティ ◆uSDglizB3o in 軍事板
青文字:加筆改修部分
後装銃自体は1500年頃に欧州ですでに作られているが,実用性が低すぎたため普及はしなかった.
実現不可能と言うよりは実用性のあるものが作れなかった.
後装式のシャスポーは戊辰戦争でも使われたし,エンフィールドを元込に改造した銃もあった.
南北戦争でも後装銃は少数ながら使われている.
ただ,塹壕では前装銃の装填が面倒という理由だけで,全体的な性能では当時の後装銃はまだ前装銃に劣っていた.
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【質問】
現在ライフルを作るさい,銃身の穴を開けるにはガンドリルを使うそうですが,昔の火縄銃はどうやって銃身になっすぐな穴を開けていたのでしょうか?
【回答】
火縄銃であれば,銃身は元は鉄板.
真っ直ぐな鉄の棒に赤熱した細い鉄板を巻き付け,鍛造した.
その後は鋳造法(形に鉄を流し込んで成形の後,過熱して焼入れする)が発明されて大量生産ができるようになった.
大砲は逆に最初は鋳造法で作られ,その後鋳造中刳法(鋳造した無垢の砲身にドリルで穴をあける)から鍛造法へと移り変わっている.
http://www.geocities.jp/nosuka02/SUNPOU_L.html
http://lets.kumanichi.com/kumamoto_rena/simen/02_040526/
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