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◆◆総記 Általános Kategória
<◆戦国時代 目次
<戦史FAQ目次
(朝目新聞より引用)
【質問】
戦国時代後期の日本が世界最強国だったのは本当ですか?
論拠はマッチロック式銃の保有数と世界有数の動員兵力なんですが.
【回答】
ふぉ.この手の質問は何度も出るようじゃから,少し背景を説明しておこうかの.
戦国末期の日本が世界でも有数の大量の鉄砲保有国で,かつ戦場における鉄砲の集中利用の戦術面でも突出しておったという事実を,一般人向けの書籍で実証的に指摘したのはノエル・ペリンじゃったな.20年ほど前に,改めて指摘された日本人のほうが驚いたものじゃった.
この話は,日本の自虐的な歴史教育を見直そうという連中にもてはやされたもので,かなり一般に誇張して伝わった面があるようじゃの.
じゃがな,ペリンが驚愕すべき事実であり,今日の世界が学ぶべき歴史であると世界に紹介したのは,日本が短期間に世界一の鉄砲保有国となったことではなく,その後に一転して軍縮を徹底して行い,事実上,当時の最新兵器であった鉄砲を放棄したことのほうなのじゃよ.
16世紀末に世界最大の鉄砲保有国,おそらくは世界有数の軍事力を持っていたことを名誉と考えるか,知られている限りでは世界の歴史で唯一,自主的に最新兵器を廃棄し,徹底的な軍縮に成功した国が日本じゃったということをのほうを誇りとすべきなのかは,ま,自分で判断することじゃな.
さて,そのペリンの本じゃが,かなり事実誤認の多い代物らしい.
銃砲史研究者の宇田川武久は著書『鉄炮伝来』(中公新書,1990年2月)のあとがきで,いくつかの問題点を指摘している.
それにじゃな,軍事的に見れば,装備のレベルと動員兵力の大小が,戦闘の勝敗を決めるわけではないのじゃよ.
兵士たちの士気,指揮体系の確かさ,訓練・実践の経験の多さ,資金と食料の調達.
そういうバックグランドがあってこそ,強いかどうか判断されるべきものじゃよ.
数比べで「最強」を判断するのは,いささか短絡的じゃな.
また,海軍が弱いので外征に向いてはおらんしの.
防衛戦力としては世界でも当時トップ・レベルじゃが,外征軍隊としては三流というところじゃろうの.
【質問】
大河ドラマ等でよく「戦に勝って京に上る」という言葉を耳にしますが,何をするため,戦国大名は上洛を目指してたのですか?
信長が室町幕府を滅ぼした時,全国に衝撃が走ったことから考えるに,倒幕を目指していたわけではなさそうですね.
【回答】
京に上ることを目指し実際に京に上った大名達は,幕府の政治を左右して自らの権力を安定させ,同時に全国的な混乱を自分の意志で収拾しようとしました.
これは室町幕府時代からの守護大名上がりの武将達に見られた行動です.
実際に大内氏は,上洛して将軍家を補佐していますし,今川氏や武田氏が京を目指したのは御存知の通りです.
大内義興は,京を追われて各地を彷徨っていた前将軍義稙(義視の子)を奉じて上洛し,管領代・山城国守護となって幕政を担いました.
(今川義元については,実は上洛を目指して終わりに出兵したのではないという話もあります)
これらは室町時代から有力な守護大名でした.
しかしながら,元々が集権的幕府ではありませんでしたから,何れも単独で全国に威令を行き届かせることは出来ず,最後の方には上洛すらも実現できなくなっています.
細川氏も幕府で実力をもってきた当初から,謀略的に幕府の威令を行き届かせる事に精一杯で,応仁の乱以後は,自らの領地でさえ下剋上が際限無く進行してしまい,終には将軍家に付き従うだけの存在になってしまいました.
つまり,本来ならば武力でもって政治を壟断して,国の混乱に終止符を打つべき役割を果せていなかったのですから,このころの足利家には将軍職の資格は無かったのです.
従って室町幕府が倒れても,実際には全国的な影響は余り無く,むしろ権力の空白は,新しい政権の価値観を受入れやすくしました.
織豊徳川政権が容易に全国的な支配を確立できたのも,室町幕府が最後まで残り,日本の一体化を意識させつつ,次の政権にバトンが渡されたという,足利家の怪我の功名が有ります.
しかし徳川家が将軍職を継いだことは,将軍職に伴う武威の責務も果さなければならなくなり,負けないためには最初から戦争をしない,つまり鎖国に日本を方向つけました.
明が救援を求めた時に,幕臣が将軍をいさめたのは有名な話ですが,戦えば負ける可能性もあり,負ける可能性がある以上は,戦うわけにはいかなかったでしょう.
逆に言えば,日本が不当な圧力を受け,斥け攻撃されれば,否応無く幕府は敵を負かさねばなりません.
鎖国は結局250年の平和を約束しましたが,同時期の西欧諸列強の進出からは,日本が大幅に出遅れることになりました.
そして最終的には,徳川家が外からの圧力と攻撃に対して,役割である武威を果す事ができないことが自明となるに及んで,幕府も長い歴史に幕を下ろしたのでした.
日本史板,2003/10/04
青文字:加筆改修部分
【質問】
「家来に報いてやる」って,どうしてやれば良いんだろうな?
【回答】
それはやっぱり感状知行恩賞でしょ.
清正の重臣だったかが晩年になって,
「俺,一生主計頭に騙されっぱなしだったんだよね.
初めての戦で仲間が大勢死んでさ,危ねえ,死にたくねえ,もう武士はこれでやめにしよう,と思ったんだよ.
でも帰陣するや否や,主計頭が『よく働いた! 感動した!』って刀をくれたんだ.
それ以降,戦に出るたびに後悔するんだけど,やっぱり主計頭がすかさず陣羽織やら感状やらをくれて,周りのみんながそれを羨ましがったりするもんだから,なんだかんだでずっと戦い続けるはめになっちゃったんだ」
って回想してるから,主からの「御恩」はどんなものでも相当嬉しかったものと思われ.
一方,信長は,もともとの出身地の尾張と,結婚で譲られた美濃を,織田家宗家の根拠地として確保.
5~20万石くらいの部隊長クラスを近畿にばらまいて,50万石クラスの軍団長は最前線,という方針.
No.2の秀長が死んでしまったというのはあるが,早く戦国を終わらせるため,地方に割拠した外様大名はそのまま.
宗家の歳入地は検地でひねり出し,それでも戦争続けたい人たちには朝鮮に行ってもらうという方針が秀吉.
小牧長久手以降,戦争で強いことを諦めて譜代でも武官にできるだけ領地を与えず,小大名の団体にして,外様を日本の端っこにおいやったのが家康.
510 :名無しんぼ@お腹いっぱい@転載は禁止:2014/12/21(日) 11:20:38.48 ID:OCvWDY7C0
本気で褒賞関係を細かく設定しなきゃいけない「信長の野望」作ったら,面白そうだけど絶対無理ゲになるな.
働きが凄かったから多めに褒美を渡したら,周りの忠誠減って爆弾が爆発したり,要らないと思って首切ったら,周りの忠誠減って爆弾が爆発したり.
「ときメモかよ」
って話や.
513 :名無しんぼ@お腹いっぱい@転載は禁止:2014/12/21(日) 11:41:19.79 ID:+AHGOJJz0
コマンドに時間制限つけて,選択肢に時間切れもつけよう.
大概悪くなる方向で
島左近が三成に言ったのが,
「殿はよく考えると正しい答えに行き着くんだが,その頃には遅すぎて勝機を逸してる」
だったっけ.
漫画板,2014/12/21(日)
青文字:加筆改修部分
【質問】
日本の戦国時代で裏切りが多いのはどうしてなんでしょうか?
【回答】
戦国時代だろうと譜代の家臣が裏切れば,汚名や非難は避けられないし,寝返り先でも信用されない.
譜代で主君を裏切った人間の多くは裏切り返されるか,信用できないということで後々誅殺されたり,用済みになったら殺されたりしている.
裏切るのが常というか生き残る手段として使うのは,特定の主君に昔から仕えているわけでもない,情勢に合わせてあっちこっちの有力大名とくっつく弱小勢力の家や豪族であって,そいつらにとっては頼りにならない親分についていくメリットなんかないから,情勢が不利になると離反する.
信長と家康のは,「譜代の家臣でもないのにお互い裏切らなかった同盟」だからこそ伝えられてる.
それでも,嫌気がさして離反してもおかしくない事も何回かやったのに,家康はよく信長についていったよ,というくらいの同盟だった.
ヨーロッパでも譜代の家臣クラスはそうそう裏切らないが,そうでない奴とか割と裏切ってる.
むしろ,譜代の家臣で裏切る割合というのは,ややヨーロッパの方が多い.
フメルニツキイの乱(1648~1686年,ウクライナ)など見ると,敵も味方も裏切りまくり.
日本のは「日本国内だから」いろんな資料・事例が集まりやすく,裏切りの総数が多いように錯覚してるだけ.
同クラスの中小規模勢力が離反したりする件数では,ヨーロッパもさほど変わりが無い.
ちなみに主君に譜代の臣として仕え,先代の死後は家臣の仲で一番の有力者で後継者にも信頼されてたのに,率先して裏切った挙句,裏切り先でも微妙な立場でそのうち見捨てられるんじゃないかとビクビクしてて,寝返り先の主君が死んで,急いで本拠に帰るというときに,「ついでに処分」されることを恐れて独自行動を取ったら,追っ手に囲まれて逃げられず殺されてしまったのが,かの穴山梅雪(武田家臣)…
自業自得というか,裏切り者にふさわしい末路というか,天罰が下ったというか…
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
戦国時代では裏切りが当たり前なのに,たまに
「それは不忠だ,許さん」
とか
「卑怯者!」
とかいわれるケースがあります.
どういう場合が良くて,どういう場合が駄目なのか基準があるんでしょうか?
【回答】
基本,寝返ってくれた側に利益があれば何でも許される.
どうでもいいタイミングで自発的に,保身の為に裏切るようなのは歓迎されない.
どうまた裏切るのは目に見えてるから.
武田攻めの時の小山田信茂と穴山信君を比較すれば分かりやすいかね.
前者は戦いの帰趨が決まった後の裏切り,後者は戦いの帰趨を決めた裏切り.
しかし,譜代の家臣や一門衆が裏切るのは,世間体的にあまり宜しくない.
前に挙げた二名は武田の一門衆で,本来は裏切りは許されず,戦い切って降伏するか,天目山で勝頼と共に果てるべき立場.
だから小山田信茂は不忠を咎められて切腹,後者は生き延びたは良いが,徳川の中では物凄く微妙な立場だった.
小早川秀秋の低評価もそれと同等.
なお,子供の頃に虐められたからと言う理由で,降伏を許されなかったケースもある.
虐められっ子は虐められたことを忘れないので注意しよう(笑)
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
戦国時代の戦死率って高かったの?
【回答】
よほどの大敗でもない限り,戦死者が10%を超えることはない,らしい
ただ,遠征先で壊滅した場合は,バラバラになって敗走する途中で,捕らえられて売り払われることもあれば,主君を見限って逃げ出すヤツも出てくるので(特に主君を渡り歩くタイプの特殊な?雑兵など),生還しなかった=戦死,というわけではない.
そういった,戦死以外で帰らない数を差し引くと,敗戦でも大多数は戦死率10%未満,って意味だろう.
まあ,個別の戦闘でみると,異常な戦死率の事例もある.
桶狭間の戦いの前哨戦で,鳴海城を攻めた別働隊は,総勢300人ほどのうち50人ほど戦死だとか聞いた.
(この攻城戦は,たぶん,ヤンマが連載中のセンゴクでも先月ぐらいに描かれてると思うんだが,数字は出てたかなあ?)
日本史板,2010/09/19(日)
青文字:加筆改修部分
▼ 場合によってまったく違うので,一概には言えません.
外征か 一揆か 謀反か
野戦か 攻城戦か
隣国相手カでも当然違いますし,攻められる相手が後のない死兵,たとえば大阪の陣の豊臣方のような場合でも違うでしょう.
秀吉の小田原征伐のような大規模戦の場合は,緒戦の攻城戦のさい,敵の指揮を挫くため,籠城側を皆殺しにするのがデフォでした.
また,一方が総崩れのときは,落ち武者狩りや,道に迷っての餓死などで,本拠にたどり着けない例も多かったようです.
(例:長篠合戦)
双方の指揮や政治的・地理的状況などを考えて,個別に判断すべきだと思いますね.
閻魔さくや in FAQ BBS,2011/6/23(木) 8:51
青文字:加筆改修部分
▲
【質問】
戦国時代の戦闘描写が史実に忠実な映画って,何かありますか?
【回答】
「クレヨンしんちゃん・嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦」
騙されたと思って見て見ろ,戦闘描写ならあれほど史実に即した物は他に無い.
少なくとも「なんちゃって戦国」物の大河なんぞよりはよほど優れている.
あの頃はまだ剣術も普及して無かったし,武将クラスは太刀を佩用,腰に差す打刀は雑兵の武器.
劇中でも又兵衛や太郎左衛門らは太刀,それ以下の雑兵らは打刀だったよ.
ここらへんも時代考証がしっかりしてると言われてる所以だと思われる.
また,篭城戦で,鉄砲隊の第一射撃の後の弾込めで
「防ぎ矢!」
奇襲戦では,遭遇→槍合わせ→相手が背を向けた機を逃さず
「馬上,前へ!」
そのほか,「早駆け!」→鳴り物が,ドンドンドン!! とか,めちゃ燃えたよ(笑).
戦場でも腰の刀を誰も抜いていない,というのも凄い.
井尻のおっさんも,槍が使えなくなるまで刀は抜いていない.
そこらへんのドラマや映画だとすぐに刀を抜いて突撃かましてたからなぁ~
音響効果.
鍔迫り合いも,すばらしく良い.
鎬を削って,ガチャガチャ言わせてる辺りほれぼれする.
刃と刃で切り結ぶ様な馬鹿なチャンバラをやってる全ての人間に見習って欲しい.
矢を放ったときの「カン!」という弦音(つるね)も,リアルでなかなかよい.
だだし,又兵衛が矢を放ったときのみ,「ポン」という気の抜けた弦音になっていたのは少々残念(by
弓道部OB)
【質問】
戦国時代の編成について.なぐり書き程度でいいので教えてください.
【回答】
所謂「武士」ってのが戦う人.
士(侍)ね.
数十石の徒歩侍(お徒歩組とも)ってのも居たが,100石以上は騎乗が義務付けられていた.
おおむね50石以上が馬に乗って出陣していったと思われる.
で,サムライってのは一人だけで合戦しに行くわけではない.
それでは足軽と一緒になる^^;
中間/小者とか,従者と呼ばれる非戦闘員を数名くらい引き連れて行ってた.
100石~くらいの一番小さい単位の騎馬の場合,騎馬武者(自分)以外に,馬の口取り(馬子),槍持ち,はさみ箱持ち(荷物持ち)を引き連れる.
つまり,サムライ1 従者3の計4人になる.
これ,基本形.
で,もうちょい財政的に余裕があれば,徒歩の戦闘員を数名付け足す.
200石くらいになると,小荷駄(馬載の荷物)1セット(つまり馬+口取り)も連れて行く.
つまり,騎馬侍(自分)+徒歩戦闘員数名+従者3名+小荷駄1セットの計10人近く.これも1つの基本形.
さて,さらに石高が増えるとどうなるか.
人数を増やす方向は2つある.
1つは若党とかサンピン(給金が3両1分)と呼ばれる,2人目以降の騎馬武者を増やす方向.
騎馬武者(若党)+槍持ち+口取り+荷物持ちの,基本形4人が増える.
以後,基本形2セット目,3セット目・・・と増えて行く.
余裕があれば,徒歩戦闘者も1名くらいつけてやることもある.
2つ目の方向は,ヨロイ持ち(替え鎧)とか弁当持ちとか下足番とか雨具持ちとか・・・装備充実の非戦闘員.
小荷駄も2セット目 3セット目...と増えて行く.
と,俺は理解してます.
違ってたら訂正ヨロ^^;
軍事板,2008/09/24(水)
青文字:加筆改修部分
【質問】
戦国時代,輜重兵はどのくらいいたの?
【回答】
こと幕末以前の日本において,輜重兵はあまりいないと思われ.
何故なら,道がすぐに泥濘化するため,重量物を車輪運搬するに向かず,
(そのため大砲すらもそりやコロを使って運搬してた.これが大砲が普及しなかった原因?)
一方,麦に比べて高蛋白なコメを兵糧としたため,肉等の多種の兵糧を必要とせず,兵站の負担が同時期の他国の軍隊に比べて軽かったため.
(これが,兵站がろくに発達してなかったのに,朝鮮の役で長大な戦線を維持できた理由の一つとか)
戦国時代が始まる前,15世紀中頃に関東公方足利に呼応して,扇谷上杉氏に反旗を翻した長尾氏は,圧倒的に劣る兵力をカバーするため,上杉氏の大軍の補給線を寸断して退却させている.
当時,兵糧などというものは,「金だけ用意して商人に持ってこさせればいい」ものだったらしい.
言い換えれば,数万の軍隊を維持できるほど貨幣経済が発達し,物流が民間資本で行われていた.
ところが長尾氏は,せいぜい盗賊避けの用心棒しかつけないような商人たちを,分散した小部隊でゲリラ的に襲撃したんで,補給が途絶してしまったわけ.
そこで戦国時代になると,大軍を動かす大名は危険な地域の物流を,小荷駄隊という自前の補給部隊で回すようになった.
村から農民を動員しても,大概は前線での戦争の危険を嫌って,小荷駄隊の,しかも荷物運びばかりやってることが多かったそうだ.
(その上,農民兵は掠り傷程度でも
「はい,怪我した! やめやめ!」
って離脱したとか.
昔はロクな消毒も抗生物質も無いのだから,掠り傷も侮れないとは思うが)
漫画板,2014/11/04(火)
青文字:加筆改修部分
【質問】
旗奉行とは?
【回答】
戦国時代,総大将の周りには旗が立ち並んでいました.
例えば,上杉謙信の有名な「毘」の一文字,武田信玄の孫子の旗,徳川家康の「厭離穢土,欣求浄土」,石田三成の「大一大万大吉」の旗などが有名です.
元々は馬上に旗指がいたのですが,旗が大型化してくると徒になり,彼らを統御する幟大将,旗大将,旗奉行,幟奉行などと言う職名が室町幕府以降に出て来ます.
この旗奉行と言う職は,侍大将に次ぐ重職でした.
出陣の際には,城中大広間に床飾りをします.
その飾り自体は軍師が行いますが,出陣時に旗を掛けて飾るのは旗奉行の仕事です.
そして,出陣の儀式では全員に主君から杯が下されますが,返盃するのは旗奉行だけです.
これは,「速やかに敵を討って旗を返す」と言う謂われから来ています.
その旗1面に対し,旗指が1名と助手が2名付きます.
この助手の内1名は,床几持ちでもあり,合戦場に至ると,旗を立て連ねた後側で旗指の為に床几を置き,旗指を座らせます.
旗指は,手縄の先に付けた手留りを取って旗杖に持ち絡め,前掛りになって旗杖を突っ張ります.
助手2名はその後で,蝉本から付けた手縄を引っ張り,風のある場合は風上に回って手縄を引っ張り,旗を巻かない様にしていきます.
万一,戦に利あらず,味方敗走と言う局面に至れば,旗奉行は味方大敗を見切ると,下知して,旗を受筒より抜き,旗絹を棹へ挙げ,横手に結び付けて棹を横に伏せて担がせ,旗指達を引き退かせます.
大体10丁ほど引くと,敵の鋭鋒は鈍り,味方の士気も戻ってくるので,その辺りの要害の地に留まって,旗を再び立てて敗兵を集め,再び軍勢を立て直す重要な役目を果たしています.
更に我に利が無く,落城の憂き目を見た場合は,最後の敗戦の時に旗持等を落とすのも重要な仕事.
逆にここぞという時は,旗奉行自ら手に旗を取って,敵城に迫っていきます.
こうした旗奉行の最盛期は,大坂夏の陣までであり,天下泰平の世の中が訪れると,五節句や月並みなどに出仕する以外特に用もない閑職となっていきました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/07/25 21:37
【質問】
旗指物の作り方を教えられたし.
【回答】
旗に使われる生地には錦,絹,布(植物繊維で織った布のことで絹の反対語)等が用いられます.
大きさは,使う武将の趣味になりますが,大体1丈2尺ほどの生地を2枚準備し,これを縫い合わせます.
但し,裾部分の3分の1は縫いません.
縫い付けた所は,綻びが生じない様に,黒革を貼っておきます.
こうして作り上げた旗には神が宿り,その旗色から勝敗が分かれると言われました.
吉相だけでなく,凶相も出て来ます.
例えば,「籠城の旗ならば落城の前兆」とか,「百日の間,軍あるべからず」などなど.
他にも,旗が急に風に吹き上げられても,その旗が敵に靡けば凶の中に吉があるとか,逆に味方に靡けば凶中の凶と言うものや,「敵の旗に矢を射立てるのは不吉」とか.
中には,忍者による噂の類もあるでしょうが….
因みに,敵の旗に矢を射立てた場合,急いで甲を脱ぎ弓弦を外して,弓を袋に収めなければ成りません.
ところが,敵からの矢が自分の旗に当った場合は,進んで合戦すべき大吉と言います.
これは旗に神が宿っているからと言う考えによるものです.
この為,旗を立てる場合は,それ相応の過程が要りました.
先ず,旗を仕立てるのは正月,五月,九月の何れかの月が仕立月とされていました.
尤も,合戦なんかで急場に間に合わない場合もあります.
その場合は仕立月でなくても構いませんが,戌巳,庚申の日は絶対に避けました.
反対に亥の日は良いとされていました.
旗を仕立てる際には,裁断する役人は滝水や清流を被って精進し,21日間または7日を過ごします.
そして,生地を裁つのは,日の出に妻戸の間,東に向かって行います.
但し,東方に悪神ある場合は,旺相,玉女とかの方に向かいます.
気をつけねばならないのは方角で,場合によっては,「千人出でて一人も帰らざる」とされた最悪神のいる方角もあるので,方角には非常に注意を払いました.
裁断をする役人の正面には,床に敷いた布地の上に生地と物差しを置き,生地の右に蓬の矢を2本,物差しの左に葦の矢を2本置きます.
役人の右に胎蔵剣,左に金剛剣を置き,更に矢と剣の外側に桑の弓をそれぞれ弦を内側にして1張ずつ置きます.
この他に,当然,糸や針が必要ですし,御幣や神饌も必要です.
裁断をする役人は,生地を裁ちながら,心中に心経七巻他色々な呪文を唱え,勧請祈念の神は,伊勢大神宮,八幡大菩薩,他に旗主の氏神とします.
その役人は,烏帽子に直垂を着用し,相方1名も同様です.
そして跪き,裁刀を取り,金剛剣を内に握り,刃を外方にして使います.
裁ち終えた後には三肴,三献あるいは一献の祝儀が入ります.
この間,旗主たる大将は梨打烏帽子,鎧直垂を着て見守ります.
裁った布は,新しい莚の上で,旗と成る上から下に縫っていきますが,縁起が悪いので返し針は使いません.
縫い上がると旗銘を入れ,これを7日,短い場合でも3日の間,加持祈祷した後,家紋を加えて加持します.
但し,銘の文句や紋の有無は大将の考えによります.
最後に十分祓をして仕上げます.
この時の祓文は
「一二三四五六七八九十申(そろえてならべていつわりさらにたねちらさずいわいめでこころしずめてもうす)」
であり,これを10遍繰り返すことで,旗に神が宿ると言う訳です.
旗紋は元々,生豆汁を墨に和して書いたものですが,時代が下ると,視覚に訴えるようになります.
旗に文字を書く場合は,竿に向く様に書き,裏は左字となります.
染めは,
黒が榛の実・楸葉(鉄媒染),
紺が橡・藍,青が藍,
赤が茜・蘇芳(明礬媒染),
緋が茜・紅花,
赤橙が朱・梔子・鬱金・黄蘗に紅染加工,
黄が鬱金・刈安・黄檗,
褐色が胡桃(鉄媒染)・柴・桑
と言ったもので行います.
染めた旗は,外に捲り,上の乳(旗の縁に付けた小さな輪)1箇所に2つずつ,乳の数は28とします.
これを旗竿にかける訳ですが,旗竿には霊所の竹を用い,その太さや細さを見極め,末も枯れていない上,竹の虫もささず,節間伸びた丈を立てながら7日,あるいは3日加持して使用します.
この時の加持は,摩利支天九字の文を唱え,印を結びます.
因みに,霊所というのは,名高い神社仏堂の地の事です.
取出す際には生門の方に取出します.
生門の方とは,子の日は子の方角,丑の日は丑の方角となりますが,但し,子の日は子より7つ目,午の方,丑の日は丑より7つ目,未の方は死所であり,使用してはいけません.
取り出し方法としては,根掘りか立勝で行います.
根掘りとは,竹の根を掘り出して根を切らず,髭を取り去るだけにするもの,立勝は,根を切り削ることです.
立勝の場合は,左刃に付けた鉈である左刀で行わねば成らず,節数は丁にせず,半にしないといけません.
掘る際にも,竹の根に神酒を三度祭り,南無八幡自在菩薩と3回唱え,竹を順に3回巡り,掘ってその穴に竹の枝葉を納め,脇から小竹を掘り寄せて,その跡に植えておきます.
これは,跡を絶やさずに祝う意味を持ちます.
神酒は本式の場合は,醴(米と麹と酒で一夜で醸造する酒のこと)を用いますが,略式は普通の酒でも構いません.
竹は2本ほど見立てて掘り取り,1本を保険にして,良い方を旗竿にします.
2本掘る場合も,手順は同じです.
旗竿の寸法は,1丈2尺,或いは1丈5尺,もしくは1丈8尺とし,節数の半分の所で切ります.
そして,竿竹には根の部分を用います.
竿の上端にある蝉口,天子用なら竜頭,将軍や公方家は鳩居と言いますが,この部分は塗りをして,革を丸く結び,上端を蜻蛉の形にして付けるとしています.
まぁ,旗一つでもこれだけ大騒ぎをする訳です.
まして,軍旗を無くしたり倒したりするとエラいことになります.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/07/27 23:37
【質問】
旗指物を使った戦術について教えられたし.
【回答】
さて,昨日も述べた様に旗は非常に神聖なものだったりするのですが,神聖なものだからこそ,逆に思い込みが激しいと,いざ違った時には,慌てふためくことになります.
古くは木曾義仲が使った手で,信濃源氏の井上光基と言う武将率いる星名党300余騎に,平氏の赤旗を作らせ,それを源氏の白旗の上に付けて,平氏方の城資永の陣に向かい,味方と信じ込ませて中に紛れ込み,河渡りの最中で平家の赤旗をかなぐり捨てて,源氏の白旗を立て,木曾軍と共に攻め立て城軍を壊滅に持っていくと言う話があったりします.
時代は下って戦国時代.
贋旗を良く用いたのが,ご存じ真田昌幸とか幸村(当時は与三郎).
例えば対北条戦では,無紋の旗に北条家の重臣である松田氏の紋所である永楽通宝の銭形を書き,部下達にその旗を挿させて,夜討を決行します.
夜討なので,旗の形はしかとは判らず,右往左往している内に,その旗を見た兵達がどうやら重臣の松田憲秀が謀反を起こしたと思い込み,同士討ちを始め,大混乱している間に,夜討軍はさっさと上田に引揚げたと言う話があります.
また,武田信玄が未だ存命の頃,対上杉,対北条二正面作戦を展開していた際に,箕輪で三ツ鱗の旗を物見が見て驚き,信玄も対北条戦の先鋒として派遣した真田昌幸勢が壊滅したかと慌てたのですが,実は,その軍勢こそ昌幸の軍勢で,北条の軍勢を散々破って凱旋する最中だったりします.
信玄は,昌幸に
「なんで敵の旗を掲げていたのか?」
と聞くと,昌幸は,若しこの地で上杉の軍勢と遭遇した場合は,「味方で御座い」と言って逃れるつもりだったといけしゃあしゃあと弁明したそうです.
こうした贋旗は例え紙製の旗でも,百姓や町人を動員して旗を掲げさせれば結構効果がありました.
例えば,韮崎合戦では,信玄の留守中に公布に攻め入った信濃連合軍に対し,甲府の留守を預かった原虎胤は,国内各地から駆集めた百姓や町人凡そ5,000名に紙旗を持たせて軍勢に擬しました.
これを見た信濃連合軍は士気が低下し,事なきを得たと言います.
今川の軍勢を迎え撃つ織田の軍勢も,節句幟や木綿切れを民家から駆り出しての大騒ぎで,大軍勢を用意した様に見せかけようと努力していました.
尤も,これは桶狭間で今川義元が敗死して事なきを得ましたが.
先述の真田の場合,予め無地の白旗を幾流も用意しておき,必要に応じて敵の定紋を付けて欺く事を良くしていました.
また,逆に六文銭の旗だけ立てておいて,敵方が突っ込んだら実はもぬけの殻という事もあったりします.
この様な失態を防ぐ為,物見に出る者は,常に落ち着きが肝心でした.
例え,敵の旗を森林に立っている事が分っても,その脇に鳥獣がいて,静かに見えていれば,空陣である事が判るので,注意せよ,とか,旗を多く立てる敵の場合は実際には兵が少ない事が多い等と,軍中斥候書と言う書物には,物見の要諦を書き残しています.
尤も,相手が真田さんだったら,裏の裏をかかれるかも知れないので,おいそれと信じがたいのかも知れませんが.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/07/28 23:14
【質問】
「むかで衆」って何?
【回答】
武田信玄の使番衆の呼び名で,武田武士のなかでも豪の者だけが選ばれたという.
彼らは敵の動きを見張るなど,主に伝令部隊として動いた.
戦の最前線で伝令としての役目をして,味方が間に合わない場合は戦った.
その呼称は,彼らが百足の旗指物を用いたことに由来するが,これは百足の素早い動きとその猛々しさを表現した,信玄好みのものであった.
ムカデは攻撃性も強く,決して後退しないことから,毘沙門天の使いとされてきた.
【参考ページ】
http://www2.harimaya.com/takeda/html/tk_hata.html
http://id17.fm-p.jp/112/ashigarutai/index.php?module=viewdc&action=plist&hpid=ashigarutai&stid=11&idx=33
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/1292/iti.html
むかで衆の旗指物
(http://www2.harimaya.com/takeda/html/tk_hata.htmlより引用)
【ぐんじさんぎょう】,2011/08/16 20:00
を加筆改修
【質問】
今週の 『へうげもの』 で, 濃緑のお茶を出され,
鳥居元忠が驚く,と云うシーンがあったのですが……
濃緑になる前のお茶の色ってどんな色だったのですか?
【回答】
今に生きる我々は 『抹茶』 と云うと 『濃緑』 と云うイメージがあるのですが,安土桃山時代以前に飲まれていた 『抹茶』 と云うのは,上のコマでもあるように 『茶黄色』 をしていたそうです.
さて 『茶黄色』 と云われる当時の 『抹茶』 の色なのですが,実際にどんな色だったかと云うと……
当時のお茶は,茶葉を蒸して自然冷却した後に粉末にしたモノで,自然冷却される過程で,茶葉の葉緑素が色素が破壊されるので,
∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
(・(・・)・) < 赤味がかった白乳色
/JベタJ \__________
と云う話があります.
利休が黒茶碗を使い始める以前は,朝鮮から渡来した,枇杷色だったり白味がかった茶碗が使われていたのですが……
実際,どんな風かと云うと~ 枇杷色の茶碗がないので,ちょいと色が濃いけど,備前の茶碗で代用すると, こんな感じ~
白茶碗だと, こんな感じ
で,茶と茶碗の色が溶け合って,ぼんやりとした印象を持つようになります.
そこで,このお茶を黒い茶碗に入れると,茶碗の黒と,茶の白が互いに引き立ち,すっきりとした印象を与えるようになります.
そこに,
∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
(・(・・)・) < 利休が黒茶碗を発明した必然性!
/JベタJ \__________
があるワケです.
まぁ 『へうげもの』 で出てきた濃緑の抹茶というのも,現在の抹茶よりも黒味がかったモノで,江戸時代に入ると 「色が悪い」 と云う事で,廃れてしまうのですが…… (w`;
ベタ藤原 in mixi,2011年10月06日22:58
青文字:加筆改修部分
【質問】
戦国時代の戦術について勉強してみようと思うんだけど,何から始めるといいだろうか?
特に釣り野伏せについて興味があるんですが…
【回答】
戦国時代の戦術に関してなら,『歴史群像アーカイブ 戦国合戦入門』はコストパフォーマンスが高いんでお勧め.
いろいろな時代・地域が入り混じってるが,『図解雑学 名称に学ぶ世界の戦術』も戦術を知るのにはいいかも.
全体の動きがわかりやすい.
戦術は載ってないが,『絵解き 戦国武士の合戦心得』『絵解き 雑兵足軽たちの戦い』もイラスト付きで武器の使い方とか書いてあるんでお勧め.
さっきチラ見した『戦略戦術兵器事典②【日本戦国編】』では,二重に伏兵を用意するとか,味方に自分達が囮であると教えないとかして,釣り野伏せを成功させたとか書いてた.
すまん,俺がわかるのはこのくらい.
戦国板か日本史板で聞いた方がいいかもね.
【反論】
『絵解き 雑兵足軽たちの戦い』って東郷隆の?
あれ,「資料が太平記」とか堂々と書いてあって,相当にとんでもだぞ(笑)
いや,太平記だって文献としての価値は当然あるが,南北朝当時の下級兵士や戦争の様相の解説には使えんだろ.
太平記の成立期のものが反映されていると観るのが当然で,それによる補正とかを入れながら解明していくとか,成立期の足軽を解説するとかなら好感が持てるんだが.
軍事板,2010/11/18(木)
青文字:加筆改修部分
【質問】
「鶴翼の陣」って,唯の横に並べてみただけでできているのですか?
【回答】
「鶴翼の陣」は,両翼の部隊を中央の部隊より前方に配置した防戦重視の陣形.
敵が我が陣の本営目指して中央突破を図れば,両翼の部隊を中央に向かって前進させ,包囲攻撃または側面攻撃を図る.
ただし,この陣形に適した地形(谷や盆地の辺縁部など)でないと,側面を迂回されて,両翼の部隊が各個撃破されかねないのと,彼我の兵力差が我に有利か,またはある程度の範囲内の劣勢でないと,包囲や側面攻撃をしても,我が中央部への敵の攻撃力を削ぐことができず,かえって兵力分散の愚を犯して我が主力をいち早く,撃破される危険がある.
軍事板
【質問】
付城戦術とは?
【回答】
敵城の周囲に陣城,柵を築いて敵の兵糧切れや戦意喪失を待つ物で,長期戦にはなるが,
・確実な勝利が保証される
・敵は完全に捕捉されて逃げられない
・寄手の主力を他の戦線に転用可能
といった利点がある.
『歴史群像アーカイブVol.6 戦国合戦入門』内,桐野作人「秀吉流「水」戦略」(歴史群像1998年冬春号初出)によれば,秀吉も播磨三木城や因幡鳥取城で,付城戦術を採用して成功している.
グンジ in mixi,2010年08月15日12:08
青文字:加筆改修部分
【質問】
日本初の水攻めは?
【回答】
『歴史群像アーカイブVol.6 戦国合戦入門』にて,桐野作人「秀吉流「水」戦略」(歴史群像1998年冬春号初出)が,これについて考察している.
曰く,「近江愛智郡志」などによると,永禄3(1560)年に六角義賢が,浅井氏と通じた高野瀬秀澄の肥田城を攻めた際,城の周囲に長さ五八町(約6.3km),幅一三間(約23m)の土塁を築き,宇曽川,愛智川の水を引き入れたが,土塁が決壊して失敗に終わったとの記述があり,
「おそらく,この事例が文献に表れる水攻めの初出だと思われる」
としている.
なお,「勢州軍記」に,天文年中(1532-54)に義賢が,不仲となった息子の義弼が籠もる肥田城を水攻めにしたとの記述があるが,これについては義弼の年齢(天文最後の年(23年)でも10歳)から,事実ではないとしている.
グンジ in mixi,2010年08月15日12:08
青文字:加筆改修部分
【質問】
傷の治療で思い浮かぶのですが,よく日本の時代劇とかで,傷口に焼酎を吹きかけるシーンを見ますよね.
細菌の観念が無い時代でも,日本ではアルコールの消毒作用を知っていたのでしょうか?
【回答】
現在使用している消毒用アルコールは濃度70%のモノです.
焼酎での消毒効果は,多分ないよりまし,くらいだと思います.
しかし防腐作用があることは知られていましたから,消毒に使用するのは自然な発想でしょう.
ただ焼酎は蒸溜と言う工程を経ていますから,細菌が混じっている可能性はごく低い.
滅菌水なんて気の効いたものがなかった時代ですから,それの代わりとして考えれば,むしろ焼酎で洗い流し,洗浄する様に使ったと考えた方が良いかも知れません.
16世記半ばにイエズス会士のルイス・ド・アルメイダが日本初の西洋式外科病院を建てて化膿創の治療にあたったのだが,その処置の1つに焼酎に浸した布で創を洗うというのがあります.
それ以後広まったのでしょう.
ある知識が学問として体系付られる遥か前から,体験的に知られていたというのはよくある話.
尚,現在の傷の手当ての基本は,傷口はきれいな水(可能なら滅菌水)で洗い流せ,です.
消毒液は傷の治りを悪くする場合があるから,なるべく使わない様になっています.
また手術等で皮膚を消毒する場合,アルコールは殺菌力がイマイチですので,
もっと強力な消毒液を使います.
幕末の頃日本に来た欧米の医師達は,日本の医師達が直ぐ傷を縫合して閉鎖してしまう,と書き残しています.
これは何を意味しているかと言うと,特に汚染された傷を閉鎖されてしまい空気に触れなくなると,
破傷風やガス壊疽等の嫌気性菌が増殖し易くなり,その結果死亡率が高くなります.
これが元で亡くなった人も大分いたもよう.
現在でも汚染されていると考えられる傷は縫合して閉鎖してはならず,解放状態を維持し,細菌感染がない事を確認してから縫合する様にされています.
抗生物質のなかった時代は,細菌感染を起こすと命取りでしたし,戦場なんて不潔極まりない環境ですので,
どこから細菌が入り込むかわかりません.