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(画像掲示板より引用)
「VIPPERな俺」◆(2010/07/20)織田信長が天下統一して織田幕府開いてたら日本どうなってたの?
「朝目新聞」●戦国時代最強の城・大阪城内堀外堀.攻略する方法を見つけた奴は天才戦略家. (of アルファルファモザイク)
「朝目新聞」●もしも本能寺の変が起こっていなかったら (of 2ちゃんねるチップス)
「カラパイア」◆(2010/07/16)織田信長暗殺事件の真相
「関ヶ原ブログ」◆(2010/07/04)7月4日は豊臣秀吉による伊達政宗討伐令が出された日
【質問】
明智光秀が本能寺の変を起こした理由として考えられるものは?
【回答】
『信長と消えた家臣たち 失脚・粛清・謀反』(谷口克広著,中公新書,2007.7).
信長の天下布武の過程で失脚や粛清されたり,謀反を起こした家臣や外様を通じて,信長の戦略や素顔に迫る一冊.
読んでて信長に対し,思わず思った事.「あんたはどこのスターリンだよ」(笑).
興味深かったのが明智光秀についての考察.
光秀の本能寺の変を起こした要因として,
・信長の四国政策の変更(光秀の取次ぎで長宗我部家とは同盟関係にあったが,それを破棄.遠征軍を送ろうとし,光秀はハブにされていた)
・光秀の重臣斎藤利三の問題(利三は稲葉一鉄の家臣だったが,光秀の下に転仕.信長は光秀,利三側に厳しい裁定を下した)
に加えて,
・光秀は当時67歳の高齢(通説の55歳は怪しい,としている)で嫡男の光慶はこの時13歳.老い先短く,また信長と政策上の衝突もある中で,信長は光慶に丹波はおろか坂本城を継がせてくれるのだろうか.
それならいっその事….ということではないか,と考察しています.
(ただ個人的な疑問として,光秀には娘婿の秀満がいる訳でして.光慶にすぐに継がせるのは無理でも,秀満が後見人になるとか,光慶が成長するまで秀満にリリーフで跡を継がせる,とか光秀は考えなかったのかな,とか.
まあ,無理だと考えたのかなぁ)
そして終章では,信長の性格(短気で傲慢,強い猜疑心や執念深さ)が一族や家臣団,征服先の国人領主への粛清や外様の謀反に繋がった,としていますが…
そういったのは他の戦国大名でもあったし….
まあ,面白い一冊だと思います.
グンジ in mixi,2008年03月23日13:48
今朝の朝日新聞の『ののちゃん』が「本能寺の変のナゾ」ってネタで,なぜ光秀は謀反を起こしたのかの推論を展開していて面白かった.
『ののちゃん』ではたびたび「漫画内漫画」の手法,つまり登場人物の誰かが描いた漫画って体裁で,普段とは全く違うジャンルの作品(ミステリーとかSF・ナンセンス・時代劇・別作品のキャラ短編とか)を発表するというのがある.
で,今回は【学級新聞 「本能寺の変のなぞ」 3年3組 キクチヒサヒコ】って体裁の漫画内漫画で
(1)
家臣1「光秀さま,後世の人々にとって信長はたいへんな人気者なんです」
光秀「えっ,ウソ!」と驚く
(2)
家臣2「従って本能寺の変は歴史上のチョー大事件なのです」
光秀「マジかよ」と複雑な顔
(3)
光秀は腕組みをしながら
「信長の評価高すぎ・騒ぎすぎ.
だって尾張,美濃,伊勢,近江半国以外は自律性を認めたみなし領国じゃん.
調停者として君臨しようってそれ,足利幕府だし.ろくに検地もやらないでどこが改革者だよ」
(4)
光秀「加害者の動機を特定したいのなら まず被害者の身元をよく調べてみろよ」
…という,『当時の光秀にしてみりゃ暫定天下人 三好長慶の後ガマをついやっちまった程度』説.
漫画板,2016/06/21(火)
青文字:加筆改修部分
▼尾張なリズムで
ギラつく殿は
天下を欲しがる
野望のサイン
ジョーラクめざした
背後のスキが
アセるぐらいに
包囲にはまる
よこしまな明智が
DANCIN' IN THE SUN
この寺で あばれて
止まらない
野蛮な対応(オーノー)
A CHI CHI A CHI
燃えてるんだ廊下
もう A CHI CHI A CHI
キリシタンだろうか?
WOH, UPSIDE INSIDE OUT
市を泣かせても
A CHI CHI A CHI
それは太陽が
させたことだよ
夏の太陽が
▲
【質問】
織田信長の死(本能寺の変)に関して,イエズス会はどの程度関与しているのですか?
諸説あって定まらないのですか?
【回答】
一切関わってない.
ちょっと考えれば分かることだ.
イエズス会が信長殺して,何の得がある?
戦乱の状況では,布教活動も安定して継続できない.
キリスト教布教に寛容な信長が日本を統一してくれた方が,当時のイエズス会には遥かにありがたい.
現に織田政権が倒れたおかげで,その後,秀吉,徳川政権はキリスト教禁令の方向に向かってる.
仮に光秀が天下を取っていたとしても,保守的な彼がキリスト教に寛容な政策をとるとは思えない.
イエズス会陰謀説って立花京子ちゃんでしょ?
あの人,まともな研究者からは,その著書で「文献がちゃんと読めてない」って名指しで言われるような人だぞ(苦笑
だいたい,備中の秀吉すら通信の問題で,本能寺に関わることは不可能だというのに,どうやってヨーロッパのイエズス会が?
まだ「本能寺の黒幕は宇宙人」って言ったほうが納得できるわ(笑
日本史板,2012/07/13
青文字:加筆改修部分
【質問】
では,信長の勢力拡大とイエズス会の関係はどうでしょう?
鉄砲を活用するには,硝石の寡占的入手が必要になりますが,硝石の寡占的入手とイエズス会(および彼らを窓口とした南蛮勢力)との結びつきが有利だったと思いますが.
【回答】
無い.
というか,そもそも信長は南蛮勢力と直接接したことがない.
信長にとって南蛮人とは,九州から和船に乗り換えて,ちょっぴりやってくる珍しお客さんにすぎない.
信長とイエズス会のどっちを過大評価してるのか知らんが,そんなものはSFの世界の話だな.
あと,硝石貿易のメインは南蛮船じゃなくて中国船な.
しかも政治的に全く統制されてないから,わざわざ特定の勢力と結びつく意味が無い.
どのくらいいい加減かといえば,秀吉の唐入りの時,明もマカオのスペイン勢力も,硝石の日本への禁輸措置を行ったが,日本軍は全く問題なく鉄砲を撃ちまくっていたくらい.
国内生産もかなりあったようだが,中国船との闇貿易が,秀吉の唐入りを支えたと考えていい.
日本史板,2012/07/13
青文字:加筆改修部分
【質問】
本能寺って軍事的な意味はあった場所なの?
【回答】
本能寺は種子島氏の菩提寺.
つまり鉄砲の最初の伝来地であり,鉄砲大量生産のライセンスと硝石の輸入大窓口だった種子島氏の,本土首都である京都の販売窓口代理店であった訳.
硝石は堺で輸入販売されていたが,織田は種子島氏を重用し,硝石貿易の独占を図っていた.
ちなみに,これに対して武田あたりは自前で鉄砲火薬製造を図っていた.
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硝石を得にくい位置に本拠地をおいていた信玄や謙信だが,信長の鉄砲隊が強化されていくのを指をくわえて見ていたわけではない
彼らはまもなく「塩硝」と呼ばれる硝酸カリウムを用いるようになった.
上杉家の古文書の中には,謙信の時代に塩硝を使った火薬の製法にかかわる永禄二年(1559)の文章が見える.
後北条氏に関係する天正17年(1589)の文章には,下野国の知内町(栃木市)から四貫八二九文(約50万円分)の塩硝が年貢として納められた事を示す記述がある.
信長の死後,中国人やポルトガル人は「硝石の輸出をやめれば日本の鉄砲は役にたたない」とあなどっていた.しかし,塩硝が量産されるようになった事により,鉄砲を多用する日本の・・
《 海外貿易から読む戦国時代 》武光 誠
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その火薬の性能・品質については「???」だけどね.
本能寺上空を哨戒する魔女
(天狗下駄着用)
(野上武志 in mixi,2009.7.8)
【質問】
本能寺の変のとき兵士たちは,自分らが攻撃している相手が信長だと知っていたの?
【回答】
光秀の部下の回顧録では,本能寺が何処なのかも誰を討ちに行くのかも,まるで解らないまま進軍してたらしい.
家康を討ちに行くのだろう,と皆,憶測していたようだ.
もし本当の事がわかっていたら,俺だったらこっそり軍を抜け出し,重い鎧を脱ぎ捨てて本能寺に向かって全力疾走.
本能寺についたら信長にご注進,難を逃れた信長から後日たっぷり褒章をもらうだろうからね.
しかも史実では,明智軍は本能寺へ進撃中に,であった人間を片っ端から切り捨てたらしい.出くわした人間にとっては,全くの災難だが.
だから,明智が
「敵は本能寺にあり!」
などと叫ぶはずもない.
これは頼山陽か誰かの創作.
日本史板
【質問】
本能寺の変のとき,秀吉以外の信長配下の将は何をしてたの?
【回答】
柴田は上杉と対峙していて動けなかった.
滝川は動いたところを北条に攻撃されて壊滅した.
丹羽・信孝は兵が逃散してしまい,秀吉軍に合流した.
日本史板
【質問】
濃姫,どうなった?
【回答】
『信長公記』によると,本能寺の変後,蒲生賢秀が安土城から信長の妻子を避難させたという.
この妻子のなかに「安土殿」という女性がいて,これが濃姫ではないか,とする説.
安土殿という名は織田信雄の分限帳に出てくる.
この女性は信雄が面倒を見て慶長十七年に亡くなったという.さらに,大徳寺総見院から濃姫のものとされる墓も見つかった.法名は養華院殿要津妙玄大姉.
ま,濃姫については,結婚したが即離婚したという説から,早死に説まであるけど,決定的な史料はまだ見つかっていないようだ.
日本史板
【質問 kérdés】
中国大返しでの秀吉軍の進軍スピードはおかしくない?
【回答 válasz】
信長の軍勢を引き受ける為にロジティクス拠点が残されていたので,逆行して要所要所で補給や交換を受けられたから,身軽に動けたってだけなんだよな.
だから,当時のプロである各軍団長揃っての会議でも問題になってない.
秀吉は行軍の事前準備や野戦築城,それらの手配と輸送に優れていたという.
なので,移動ルートを確かにした上で休憩場所と食事,果てはお貸し具足もしくは予備具足をあちこちに手配してあって,要所で整えていたのではないか?とも言われる.
前者は信長と光秀の部隊を中国へ迎え入れる為の準備逆用,後者は出来る限り早めに信孝を打ち破り取って返す為の下準備.
幸い,川が氾濫していたので途中で留まっていた.
引き返しても川がこれならすぐには背後の心配はなく,更に敵は挟み撃ちが出来ると思い込み,兵力が減ったと勘違いして平地戦に出ている.
最新の長良川情報と綿密な移動計画を手にした秀吉が,大返しを行う前に勝ったと叫んだと言われるのは,よほどその準備と実践に自信があったのだろう.
また,高速な騎兵及び頑健な隊で最短時間を喧伝しながら,準備にかこつけて合流時間を広くとった事を察知させないとかの情報戦術もあったのかも.
騎馬に旗を多目に運ばせたり,先行隊に事前に多目の松明などの準備をさせて人数を錯覚させる位は,秀吉ならばやりそうだ.
想定より早すぎる秀吉隊に驚いて撤退する間,それほど激しい追撃ではなかったとも言うし,一杯食わされたのかもね.
敵本陣付近で大軍で押し寄せた時間帯でもめっちゃ速いんだけどね.
更に言えば抵抗や足止め妨害が懸念される地域はしっかりと避けてたし,そもそも光秀は情報通を取り逃がして通抜けになったのが大きい.
敵前で残された挙げ句,下手すると四国勢に囲まれる居残り組は肝を冷やしただろうけど.
漫画板,2017/09/02(土)
"2 Csatorna" Képregény BBS, 2017/09/02(szombat)
青文字:加筆改修部分
【質問】
戸次川(へつぎがわ)の戦いについて教えてください.
【回答】
肥前の竜造寺,豊後の大友,薩摩の島津の三大勢力による九州の覇権争いは,まず竜造寺家が脱落.
その後は大友家と島津家の二大勢力の争いとなって行ったのですが,その両軍が雌雄を決すべく最後に戦った場所が,この戸次界隈.
1586年(天正14年)秋,豊後の国を目指し北上する島津軍に対抗するため,豊臣秀吉に援軍を乞うた大友軍(大将は大友宗麟の子,大友義統).
土佐から長宗我部元親,信親.讃岐からは十河存保,仙石久秀等の援軍が到着し,島津家久率いる約2万の軍勢を迎え撃つことになったのですが,急ごしらえの豊後四国連合軍の連携の悪さか,島津軍が得意とする「釣野伏」の戦術により,長宗我部信親を始めとする多くの武将が討ち死にし,結果的に大友軍の大敗に終わってしまったという結末...
これにて九州の覇は島津家のものになった...かと思いきや,その後の豊臣秀吉による九州侵攻により,さしもの島津家も恭順の意を表することとなったのですが,その舞台のことは機会があればまた後日に.
国道10号線脇にあります標柱
これが無ければ,この場所が古戦場跡だとは気付かないんですよ~.
かつての合戦が行なわれていた場所.
画像の手前が島津軍,そして奥には大友,長宗我部軍が陣取っていたようです.
橋を渡り,川向こうから見る景色.
のどかな風景が広がっていますが,400年程前に壮絶な戦いが行われていたとは,想像できませんよね.
カブリモノスキー in mixi,2009年07月21日21:36
青文字:加筆改修部分
【質問】
「美濃返し」って何?
【回答】
1583年の賤ケ岳の戦いでは秀吉軍は,敵の来襲を誘うために,いったん大垣の織田信孝軍に向かい,これを制圧した.
それから大岩山砦などの陣所の落城を知って,越前に取って返した.
これが「美濃返し」.
その時の行軍速度が丸一日で50kmといったところ.
徒歩主体の軍の行軍速度としては,当時としては異常だったそうです.
軍事板
加筆修正部分:青文字
【質問】
372 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2013/12/05(木)
15:09:06.39 ID:i9hCWBlK0
「センゴク」の光秀の最期は,ちょっとカッコ良くし過ぎてて,くどさが鼻についたな.
もうちょっと淡々と描くべきだったのでは?
【回答】
374 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2013/12/05(木)
15:41:54.12 ID:ZVwmxssW0
>>372
蒼天航路からこっち,歴史物でくどいキャラ描写や仰々しいセリフ回しが増えた気がする.
蒼天はソレが鮒寿司的な魅力だったけど.
375 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2013/12/05(木)
16:18:37.24 ID:2tDeaW+JO
山科けいすけ「SENGOKU」の光秀の最期は,信長に一生ついて行こうと考えてたら,宴会で信長のちんちんをくわえさせられたんで,謀叛を起こしたんだよな.
376 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2013/12/05(木)
16:22:08.47 ID:ncZxrrik0
信長は,上から落ちてきた柱に潰されて死ぬしな.
378 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2013/12/05(木)
16:50:25.02 ID:ZVwmxssW0
>>376
なにその銀河帝国の旗艦.
380 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2013/12/05(木)
17:00:19.17 ID:b9RiQWHO0
まあ,漫画・ドラマだからというのは大きいにしても,最近の本能寺周り解釈がやたらと,
「超優秀な光秀のおセンチ・信念を,マイ解釈したらこうなった!」
に偏りがちなのは,ちょいウンザリ気味.
そこへいくと,修羅の刻の信長編(これももう結構前だけど)の後書きで,
「やれそうだからやった,だと思う」
だったのには,逆に感銘しましたわ(笑
ドリフに光秀出すなら,是非そっちサイドでノブノブと泥喧嘩を(笑
381 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2013/12/05(木)
17:15:38.09 ID:5YPKsuF40
戦国バサラの光秀は,どう解釈したらいいのか?
382 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2013/12/05(木)
17:50:43.01 ID:5xT0qPjE0
あれ,ただの変態だから.
再評価といえば,最近は三成ageがやたらに増えてきたな.
383 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2013/12/05(木)
18:02:06.01 ID:N+KDnfEN0
三成はその人望の無さが元で,「俺不器用ですから」キャラで,優秀さとは違う面も描写されて美味しい.
384 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2013/12/05(木)
18:36:41.63 ID:fhU+l7zI0
人望ないってのも,戦後に徳川方が流したネガキャンで,そう広まっただけっぽいけどな.
落ち延びた次男や娘は,三成に恩義のある大名が保護してたし.
385 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2013/12/05(木)
18:37:09.19 ID:c69QEEMJ0
三成は花の慶次での,秀才だけど天才には負けるっていう小物感がいい.
戦国無双で初めて島津を知った.
花の慶次は琉球編あるけど,間の地域をすっとばしてたから.
386 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2013/12/05(木)
18:48:08.65 ID:TkRsSSvR0
三成って,戦国武将に嫌われそうな要素を固めてできあがった人造人間みたいだよね.
387 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2013/12/05(木)
18:58:58.70 ID:V2CYIOTZi
三成は良くも悪くも真面目で実直な人っていうイメージだな.
388 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2013/12/05(木)
19:00:39.38 ID:TkRsSSvR0
自分にきつく当たってくる,秀吉の子飼い武将にはけんか腰で,便宜はかってもらうためにおべっか使ってくる遠国の大大名には,大いに気をよくしちゃう.
海音寺潮五郎は,「こいつ,もしかしたらスゲー小物なんじゃね?」って疑ってたね.
389 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2013/12/05(木)
19:13:29.75 ID:XKALe7uT0
とりあえず身近に居たら,凄く面倒臭いタイプだと思う.
よっぽど器がでかい人なら,
「融通利かないけど,良いところもあるよ?」
と仲良くなれるんだろうけれども.
390 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2013/12/05(木)
19:16:44.04 ID:b9RiQWHO0
まあ,三成にも,大谷義継との茶会エピソードとか,関ヶ原後に居城に入ったら質素な身の回りだったとか,ごく普通に好印象なお話もあるしね.
昭和だけ考えても,山岡荘八の家康とかで悪役イメージ付いたのはしょうがない.
再評価も時代の視点・流行りのひとつやね.
391 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2013/12/05(木)
19:42:42.41 ID:0GaUvo9M0
>>387
三成くんは寺社でいろいろ,他の英傑武将といっしょに書き物を見たが,皆と同じ用件にも,かちっとした字に,いちいちどくどしい書き様.
秀吉の「俺偉いんだけど,ちいと我慢して付き合ってくれ」みたいなフレンドリィでもなく,信長の神経質な文字にも,ちょっと気回した一文とか全然出てこない.
エライんだけど,秀吉の傍付き小姓みたいな時代が長かったせいか,中間管理職のクセが抜けず,口うるさい課長みたいなんだよね.
なんというかTOP気質ではなく,ただ口うるさく,細かい奴は・・・ありゃ好かれん.
秀吉は三成に愛嬌ある文通とか,笑顔の練習でもさせとけばよかったのに.
392 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2013/12/05(木)
19:53:13.89 ID:pP5GkYo10
家康の方が,鬼畜エピソード豊富なんだけどなぁ.
あの老獪さは,悪役のほうが嵌る.
漫画板,2013/12/05(木)
青文字:加筆改修部分
【質問】
竹ヶ鼻城水攻めについて教えられたし.
【回答】
秀吉が徳川・織田連合軍と戦った,小牧・長久手の合戦の際に行われた戦い.
天正12(1584)年5月10日,織田信雄方の竹ヶ鼻城を包囲.竹ヶ鼻城は木曽川と長良川の乱流域の中にあり,東側には木曽川支流の足近川が流れていたので,桑原輪中の堅固な堤防が築かれていた.
秀吉は水攻めを決断し,翌11日から工事を開始して短期間で完成させると足近川から注水.
また,ちょうど梅雨時期にあった事もあり(「家忠日記」では5月だけで最低8日降雨があった),二ノ丸まで冠水する.
水攻めの最中,攻囲軍の筒井勢の堤が切れて水位が低下するハプニングが発生したが,直ちに修築して再度注水.城方は6月7日に和議申し入れ,10日には開城している.
この間,徳川・織田連合軍も本多忠勝,織田長益,滝川雄利らが後詰に向かったが,木曽川で撃退されている.
『歴史群像アーカイブVol.6 戦国合戦入門』内,桐野作人「秀吉流「水」戦略」(歴史群像1998年冬春号初出)によれば,竹ヶ鼻城攻めは濃尾国境(とりわけ木曽川を境にした)の勢力圏確定の為の限定的な攻勢作戦の一環であり,水攻めが行われたのは
・水攻めに適した地形である
・確実な開城が保証される事で勢力圏確定が容易になる
と判断したからではないか,としている.
(ただし,この竹ヶ鼻城を水攻めについては,そうする事によって徳川・織田軍を誘引し,後詰決戦を狙った物であり,家康らは籠城軍を鼓舞はしたが,援軍には赴かなかったので,目的の達成はならなかった,という話もある(学研「戦国の堅城」P.124))
グンジ in mixi,2010年08月15日12:08
青文字:加筆改修部分
【質問】
太田城水攻めについて教えられたし.
【回答】
小牧・長久手合戦の際,根来衆や雑賀一揆衆(雑賀衆と雑賀三搦(みからみ)衆)が徳川方に付いて,泉州岸和田城に押し寄せ,あわよくば大坂城を衝こうとした事に怒った秀吉の紀州征伐の際に行われた戦い.
和泉国は根来寺による「泉州知行」と言われるぐらい,根来寺や雑賀一揆衆に支配されていた.
紀州国も紀州の守護であった畠山氏の権威は,凋落の一途をたどっており,国内を統一する戦国大名も出現せず,小領主連合(=一揆)の勢力が強かった.
雑賀三搦衆に属する太田党も,「宮郷十二ヶ村並太田郷ハ地頭ナク我持ノ所也」(「太田水責記」)と呼号していたとしている.
天正13(1585)年3月下旬,泉州南部の根来衆,雑賀一揆衆の城砦をは次々と落とされ,根来寺も焼失.太田党は遠征軍の来襲を受け,一族郎党や妻子を挙げて太田城に籠城.
大田城は「東西ハ二町半,南北ハ二町」(1町=109.09m)とさして広くない平城だが周囲に大堀を廻らし,四方に櫓を立てた,なかなか堅固な城だった.
秀吉軍6000余人の攻撃は,太田党の銃撃により,主だった者51人,雑兵数百人の死者を出して失敗.
これに激怒した秀吉は水攻めを命じ,3月26日から始まった大堤の普請は人海戦術(動員された人夫は47万とも17万ともいわれる)により短期間で完成.
4月1日から注水が始まり,3日には満水となった.
城側も堤を築いて対抗したが,長期にわたる水攻めで地面から水が浸透して浸水.
9日には宇喜多勢の堤が決壊して多数の溺死者を出し,復旧に数日要する事態が発生したが,城方の窮状は限界に達し,22日には開城を申し入れる.
秀吉はその代償として,先日の合戦で討ち死にした51人分の首級を要求.
城方は太田左近をはじめ,大将分36人を含めた51人分の首級を差し出し,24日に城兵が退去.
雑賀五荘ではこの他,中津,吹上,小雑賀などで雑賀衆が籠城し,落城・開城しているが,太田城だけ水攻めにしたのは,『歴史群像アーカイブVol.6 戦国合戦入門』内,桐野作人「秀吉流「水」戦略」(歴史群像1998年冬春号初出)によれば,
「あえて圧倒的な大軍と物量を誇示することで,中央政権の支配を拒む紀州惣国一揆は今後断じて許さないという,天下人としての強い意思表示ではなかったか」
としている.
グンジ in mixi,2010年08月15日12:08
青文字:加筆改修部分
【質問】
秀吉の越中出陣について教えられたし.
【回答】
これについては,大学院の後輩が発表した論文
萩原大輔「関白秀吉越中出陣に関する基礎的考察」(『富山史壇』162,2010年)
がおもしろかったので,これを紹介したい.
内容はタイトルのとおりなのであるが,もう少し詳しく説明しよう.
着々と全国統一を進めていた羽柴秀吉は,天正13年(1585)7月11日,関白に就任する.
翌7月,秀吉は越中国の佐々成政を討伐するため,同国に出陣した.
これは,秀吉の関白としての初めての軍事行動であった.
しかし従来,秀吉の越中出陣について,実証的に丹念に復元した研究はないそうである.
この論文は,その基礎的な事実について検討したものである.
この論文ではまず,このときの秀吉軍の総兵力について,約7万人と推定している.
この数字は,秀吉朱印状等の古文書,当時の僧侶の日記,宣教師ルイス・フロイスの報告といった一次史料に基づいて算出しており,説得力があると思う.
従来は,江戸時代の軍記物等から10万人とされていたようで,この点まず新しい実証的成果があったと考える.
そして,秀吉軍の先遣隊の出陣から,秀吉の京都帰還までの日程や経過を,一次史料に基づいて丹念に復元しており,堅実な実証を行っていると言える.
また,この出陣は,佐々成政の討伐以外にも,複数の目的があったそうである.
まず,織田信雄を名目上の総大将とすることにより,秀吉と信雄が名実ともに主従関係となったことを,天下に視覚的に明示する目的が挙げられる.
また,秀吉が関白に就任する直前の同年7月5日,100年に一度と言われるほどの大地震が近畿から東海地方にかけて発生していたそうで,発足間もない秀吉政権の不吉な前兆と,世の人々に思われていた.
この出陣は佐々成政を圧倒することで,その不安を払拭する目的も兼ねていたと著者は論じる.
結果的に実現しなかったものの,佐々成政の居城であった富山城で,越後国の上杉景勝と会見する構想もあったそうである.
文章も簡潔平易で,私のような門外漢にもわかりやすかったのも,この論文の長所である.
個人的には,この遠征中,秀吉が眼病を患い,本来は花押を記すべき文書でそれを行えず,やむを得ず朱印で代用したことを詫びている事実の指摘が興味深かった.
「新はむはむの煩悩」,2010年9 月 4日 (土)
青文字:加筆改修部分