c
「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ サイト・マップへ
◆◆◆家康の将軍職就任以降 Tokugava Iejaszu Sógun Címet Kapott
<◆◆戦国時代戦史
<◆戦国時代 目次
<戦史FAQ目次
『真説 大坂の陣』(吉本健二著,学研M文庫,2005.1)
慶長十九(1614)年冬と翌二十(1615)年夏に起き,戦国時代に終止符を打った大坂の陣.
発端となった方広寺鐘銘事件から大坂城落城の後日談まで,この合戦の全体像を説明した一冊.
以前に図書館で読んで面白かったのと,著者の戦国時代を舞台にした架空戦記「戦国雄覇1」が面白かったので購入.
大坂の陣自体は知ってますが,そのイメージはというと,昔に読んだ真田幸村の伝記漫画やテレビドラマ,後は池波正太郎の「真田太平記」でのイメージしかなく(勿論,主人公である幸村に好意的な描写が多い),そういう意味では読んでいて面白かったです.
(他には森本繁「明石掃部」(学研M文庫)もあるけど,これも主人公である明石全登に偏ってるしなぁ)
〔略〕
大坂の陣について知る事の出来る,面白い一冊です.
――――――グンジ in mixi,in mixi,2008年11月29日00:13
『敗者の日本史13 大坂の陣と豊臣秀頼』(曽根勇二著,吉川弘文館,2013/05/17)
【質問】
徳川幕府開幕までの江戸の歴史について教えられたし.
【回答】
「江戸」と言う地名はそんなに古くなく,古今要覧稿や南向茶話では,その語源について「江戸は江所の義なるべし」などと書かれており,中世に日比谷入江が現在の皇居側に入り込んでいたので,地形的に入「江」の入り口(門「戸」)に当たっていたところであると言う解釈がなされています.
「江戸」の地名初見は,1261年10月に書かれた江戸長重書状では,「豊嶋郡江戸郷之内前嶋村」とあり,少し下って1281年4月の江戸重政譲状に,「江戸郷柴崎村」と書かれていたのが最も古いものだそうです.
その武蔵江戸氏は,桓武平氏秩父氏一族で,重継が江戸に住んで江戸氏を称し,子の重長が源頼朝に仕えました.
畠山氏滅亡後は武蔵国を代表する武士となり,荏原郡を中心に一族を分出,鎌倉末期に足利氏に仕えますが,室町初期に没落します.
庶流は木田見(多摩郡喜多見)に移って木田見氏となり,吉良氏に仕えました.
このほかの庶流としては,承久の乱以後,重持が出雲国安田荘地頭となって以降定住した出雲江戸氏がいます.
も一つ,戦国時代に勃興した常陸江戸氏がいますが,こちらは江戸は江戸でも,常陸国那珂郡江戸郷の出身で,藤原北家秀郷流の流れですから,東京の江戸氏とはちと違う.
それは扨措き,江戸氏が没落した後は,1457年に太田道灌が城を築いて勢を張りますが,1524年に後北条氏の支配地となり,北条氏滅亡後は,徳川家が入ることになります.
江戸の別称としては,「東都」「江都」「江府」「武江」などがありますが,最も有名なのは「大江戸」と言う言葉.
この言葉は,古くからあった訳ではなく,18世紀後半に使われ出しているもので,1789年の山東京伝の洒落本『通気粋語伝』にある
「夫諸白の名に流れたる隅田川の景色は,大江戸の隅におかれず」
と言う記述が比較的早いものとされています.
19世紀に入ると,十返舎一九の『東海道中膝栗毛』やら大田南畝の『江戸買物独案内』やらに頻出し,小林一茶の俳句にも取り上げられていきます.
丁度この頃は,江戸の人口が増して世界的な大都市となったこと,江戸の経済力が増し,上方の経済力と拮抗し始めたこと,更に江戸の町人文化の発達で,従来の文化中心地域だった上方を凌ぎ出した事が挙げられ,江戸住民のアイデンティティが確立した時期と重なるわけです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/05/14 23:46
【質問】
薩摩藩が琉球を制圧・支配した(1609年)とき,明や清がスルーしたのは何故?
【回答】
明がスルーしたのは仕方ない.
万暦三大征や,2度の紫禁城再建や皇族の贅沢等で,財政が悲惨な状態になってたし,しかも万暦帝が後宮に引きこもって一歩も出てこないものだから,国が麻痺状態になってたから.
その後はもう駄目.
清の場合は既成事実ができあがってたのと,水軍なんかあんまり持ってなかったせい.
薩摩の背後には幕府もいるしな.
軍事板,2010/04/18(日)
青文字:加筆改修部分
【質問】
出羽国久保田への減封以降の佐竹家の軍事行動について教えられたし.
【回答】
17世紀,佐竹家は軍勢の出兵を3度に亘って計画しています.
1回目は,1614年の大坂冬の陣で,騎馬隊156騎を中心に総勢1,500名余が出兵しています.
2回目は,1622年の由利領請取りで,この時には騎馬隊207騎を中心に大坂冬の陣よりも多い総数3,103名余が出兵しています.
残りの1回,1669年には松前加勢として騎馬隊29騎を中心とする総数1,322名余が計画され,軍役表も作られたのですが,実際には出兵されていません.
この他,平和時に於いても,佐竹家中でどれくらいの軍役が可能かを試算するシミュレーションが行われています.
1677年には,騎馬隊387騎,総勢3,818名余の動員が可能とはじき出され,1692年には騎馬隊だけでどれくらいの出兵が可能かを試算し,15年前と同じく387騎が動員可能という数字を出しています.
先ず,実際に出兵した1614年の大坂冬の陣には,陣触れが秀忠の名で来てから,9月25日に当主の義宣が国元を出発し,家老渋江内膳政光が扈従していました.
10月11日には,秋田佐竹家の軍役割が決定し,24日に秋田から出兵した軍勢が江戸を進発,11月17日に佐竹軍は大坂に到着し,26日の今福の激戦から大坂方との戦闘に入っています.
因みに,この時の総勢は先に書いたように1,500名であり,兵糧については,幕府から米112石5斗を請けています.
これは,江戸から柏原までの15泊分の兵糧で,一夜に付き7石5斗ずつ,1人に付き5合ずつの算用でした.
更に,足軽扶持の者には大豆を渡しています.
騎馬としては,蘆名平四郎盛泰,多賀谷左兵衛宣家,佐竹将監(東義賢),佐竹左衛門(南義種),佐竹式部義成,伊達三河守盛重,今宮摂津守道義,石塚大膳義辰,戸村十太夫義国,真崎兵庫助宣広,今宮弾正宣貞,今宮源助盛重,岡本蔵人宣綱,塩谷伯耆守,渋江内膳政光,大山治兵衛義則,古内下野守義貞,古内雅楽助義通,武重玄蕃,真壁右衛門重幹,松野丹波守,茂木筑後守治良,向清兵衛,向正九郎,宇留野源太郎,小貫大蔵,小田野刑部宣忠,小瀬長三郎伊秀,和田半四郎,福原彦太夫,小野崎大学,山方内匠,田代隼人,白戸左馬助,玉生八兵衛,八木作介,上曾八右衛門,梅津半右衛門憲忠,人見宮内,川井佐太夫,川井権兵衛,田中豊前,前沢主水,小野崎讃岐,信太伊豆,町田兵部,川井伝吉,桐沢久右衛門,信太主水,医師碩庵,江戸長左衛門,江田七右衛門,大塚黒兵衛資郷,大塚勘十郎,長瀬左近,田代新右衛門,田代助左衛門,小野崎吉内,根田四郎右衛門,森川権右衛門,大縄与七郎,太田内蔵允,中村信濃,大山勘兵衞,片岡四方助,中村左近,伊藤外記,太田三左衛門,大山六左衛門,黒沢正太夫,宮田和泉,同朋衆塩谷兼斉,小野甚左衛門,田中木工,好摩兵部,浅利長兵衛,野内太郎右衛門,小田部五郎右衛門,上遠野隠岐,田崎兵庫,沼井正右衛門,大和田六右衛門,牛丸平八,宍戸四郎兵衛,佐藤雅楽允,芳賀七之允,白土加右衛門,黒沢甚兵衞,坂本監物,青柳三之允,小野崎源左衛門,赤坂兵部,菅谷隼人,石井兵庫,尾上織部,糸井隼人,小貫右馬允,茅根靱負,小野久太郎,高垣兵右衛門,山方采女,白土正蔵,塙治部左衛門,田中主殿,田代伝七,川井大炊助,真宮三右衛門,平野丹波,平野作左衛門,平野主税,横田仁兵衛,福地総兵衛,荻庭十左衛門,岡市右衛門,岡勘右衛門,岡半左衛門,森田弥左衛門,田中兵衛門,森田治右衛門,片岡源七,片岡蔵人,岡作左衛門,小人頭の片岡藤四郎,小栗余三右衛門,会田久左衛門,林喜右衛門,駒木根五郎右衛門,信太第八,信太長十郎,信太喜四郎,信太藤八,藤作喜右衛門,軽部茂助,小室孫兵衛,小野崎権平,滑川新蔵人,匹田市兵衛,鹿子畑玄蕃,芳賀与右衛門,萩庭助左衛門,菊池金右衛門,白土勘太郎,杉山五郎右衛門の合計156騎となります.
この蘆名平四郎盛泰は,以前にも触れましたが,福島会津を支配していた蘆名家の末裔で,摺上原の合戦で敗れた20代目当主義広が兄の義宣を頼って常陸に身を寄せたもので,秋田に同行して,この時期は角館を支配していました.
因みに,後に蘆名家は断絶し,その後,角館に入ったのが佐竹北家です.
次の多賀谷左兵衛は檜山支配,佐竹将監は佐竹東家の一門衆でした.
この合戦では,家老の渋江内膳政光を始め,中村信濃,小田部五郎右衛門,白土加右衛門,小野崎源左衛門,高垣兵右衛門,塙治部左衛門の7名が討ち死にしています.
これに,更に町田小左衛門,宇佐見三十郎の討死の記録がありますので,都合佐竹は9名の騎馬武者の死者を出したことになります.
11月26日の今福合戦で,佐竹の先陣は渋江内膳政光,二番手は伊達三河,三番手が本隊の布陣でした.
渋江は先手として騎馬50騎と槍,鉄炮の3隊を率いて戦います.
合戦は,前半は兵力に勝る佐竹軍に有利に進んでいたのですが,大坂城から後藤又兵衛と木村長門守が率いる3,000名の大兵力が猛烈な反撃を掛けて来ました.
そこで,政光は浮き足だった見方を鼓舞するように最前線で指揮を執っていましたが,大和川に浮かべた軍船から横合いに鉄砲を撃ち込まれ,弾丸は内膳の馬の鞍の前輪を貫通し,彼の胴の処で平たくなって止まったようです.
その衝撃で溜まらず落馬してしまい,木村長門守の兵の槍に掛かって憐れ政光は戦死してしまいました.
この戦闘では渋江内膳政光の家来6名も戦死しています.
戸祭十兵衛は,敵の首1つを取ったところで主人の戦死を知らされ,この首を誰に見せるのだと言って敵陣に駆入り,討死したとあります.
彼は下野国の浪人の出身でした.
来栖修理と鈴木正左衛門,浜野平左衛門は真壁地方の浪人出身,黒川伝左衛門は小野寺浪人の出身,駒野目六兵衛は水戸の浪人出身でした.
ちなみに,浜野平左衛門は,政光の家来であった大森土佐という人物が主人政光の死骸を引き取りに言った時,平左衛門の死骸もあったので,平左衛門の刀を形見として持ち帰り,妻に届けたと言います.
その時,妻は懐妊しており,後に男子が出生して采女と名付けられたそうです.
この他,記録には近藤奥右衛門,荒井勘兵衞も家来として残されており,渋江内膳政光には少なくとも9名の陪臣を引き連れていたことが判ります.
関ヶ原で疑いを掛けられていた佐竹家は,この合戦で汚名を濯ぐとばかりに,積極的に戦闘に参加し,家老までも討死していると言う損害を出しています.
なお,後に見るように,秋田佐竹家の動員可能数は,陪臣騎馬を含めて387騎でした.
とは言え,全兵力を率いるのは,国内治安維持の為にも問題がある為,全部を派遣できなかったと思われます.
この387騎中,陪臣騎馬に当たる下騎馬は100騎で,残り287騎が直臣家臣の騎馬数となり,大坂冬の陣の直臣騎馬は,全直臣騎馬数のうちの半分程度が動員されたと考えられます.
因みに,今福での奮戦は幕府の認めるところとなり,将軍秀忠から家臣5名,即ち,梅津憲忠,戸村十太夫,信太内蔵助,大塚九郎兵衛,黒沢甚兵衞に感状が与えられています.
こうした下級藩士が出世する為には,後世には能吏が重用されるのですが,徳川幕府草創期に於いては,軍場で勲功を立てるのが最大の出世の手段でした.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/12/06 23:58
青文字:加筆改修部分
【質問】
最上改易による,旧最上領での佐竹家の警備行動について教えられたし.
【回答】
さて,1622年9月から10月にかけて山形最上家52万石が改易され,その跡地の一部由利地方に,宇都宮で15万5,000石を領していた譜代の重臣本多正純の移封が為されます.
この時,最上の改易と本多の移封までの期間,由利地方に隣接する佐竹家がこの地方の警備を任命されました.
最上の改易は,1622年8月21日に幕閣で決定しました.
理由は家中騒動によるものです.
それは8月27日に佐竹家に知らされ,同時に由利領請取の為に,佐竹家に出兵命令が下ります.
その検使として,本多正純が山形に到着したのが9月6日,同じく検使の石川八左衛門,水野河内守が11日に由利本荘に到着予定である事を,佐竹家重臣の梅津政景が,小場式部,戸村十太夫,小場小伝治,須田八兵衛の重臣各自に連絡します.
9月11日,由利領請取の為,佐竹軍が由利本荘に到着しますが,この時の兵力は,騎馬207騎を含む2,303名の軍勢でした.
9月13日,重臣梅津政景が,秋田から由利に出発します.
暫く,佐竹軍は由利の治安維持に当たっていたのですが,その途上,10月1日には検使を務めていた本多正純が改易されて,堪忍分として由利5万5,000石余に転封となります.
そして,10月8日,最上が保有し,維持していた本庄と滝沢の2つの城の破却命令が佐竹に下され,また,今回の最上出兵に対する恩賞として,由利領であった百三段村等を秋田領とすることが伝えられました.
この日,山形を起った本多正純が本庄に到着しました.
10月9日朝から,佐竹軍兵により,本庄と滝沢の両城の破却が開始されます.
因みに,一説にはこれに加えて赤宇津の城の破却も行われたと言う記録もあります.
10月14日から15日にかけて,両城の破却が完了し,16日に佐竹軍は秋田領に戻りました.
また,佐竹義宣の弟に当たる岩城貞隆は,長年の岩城家再興運動が叶って信濃川中島にて1万石を賜い,大名に復していました.
その岩城貞隆は,この時期に空き地となった由利郡亀田に2万石で移封されています.
この理由を,佐竹家では,信州は遠く兄の指図も困難であるから,亀田に移したのだと,岩城氏に対する指導性,優位性を主張しています.
当時,52万石と大藩であった山形最上家の改易は当時としては大事件で,政情不安定となる要素が充分にありました.
その為,周辺諸大名家に対し,山形領内諸城請取の為に,動員が課せられました.
佐竹義宣を始め,伊達政宗,上杉景勝,蒲生忠郷,相馬利胤,そして本拠地山形城の請取は,幕閣重臣の本多正純と永井右近太夫ですから,かなりの緊張状態にあった事が伺えます.
先述の様に,出兵は207騎を含む2,303名の軍勢でしたが,城請取の本隊は,梅津半右衛門憲忠が指揮する800名でした.
後詰第1隊が小場式部組46騎525名です.
その46騎の内,下騎馬は13騎であり,それらは総て小場式部の陪臣騎馬であったことが史料から判明しています.
この他の構成としては10騎が大館の士分,13騎が十二所の士分,6騎が檜山の士分で,旗本士分が4騎.
鉄炮足軽65名が信太長十郎配下27名,松野次郎左衛門配下38名の2隊,槍足軽が67名で信太内蔵助配下51名,式部配下が16名の2隊という構成でした.
後詰第2隊は戸村十太夫組67騎682名です.
67騎の内,旗本士分は12騎,湯沢の士分が15騎,東家の下騎馬が19騎,多賀谷からの下騎馬が8騎,横手からは十太夫の下騎馬が僅かに1騎,これに湯沢南家の下騎馬13騎が付きます.
鉄炮足軽は85名で,7名が南修理配下,27名が小野崎太郎左衛門配下,27名が中川宮内配下,24名が根本掃部配下の4隊編成,槍足軽が41名で何れも北家14名,南家16名,11名多賀谷家の配下の3組構成でした.
後詰第3隊は小場小伝治組59騎696名です.
59騎の内,旗本士分は23騎,刈和野の士分が5騎,角館の士分が8騎,角館蘆名からの下騎馬が20騎で,小伝治自身の下騎馬はこれも僅かに1騎のみでした.
この他,鉄炮足軽が110名で,黒沢甚兵衞配下の鉄炮騎馬隊26騎,49名が刈和野足軽,11名が今宮弾正配下,24名が真崎兵庫配下の足軽4隊で,槍足軽が川井房介配下50名となっています.
後詰第4隊は須田八兵衛組35騎で,旗本が2騎,横手の士分が6騎,茂木の士分が13騎,茂木家の下騎馬が4騎,羽黒の士分が4騎,嶋崎の士分が3騎,これに鉄炮足軽が80名で,13名が小瀬民部配下,16名が羽黒足軽,21名が茂木足軽,30名が川井加兵衛配下の4隊,更に茂木家中からの派遣が4名となっています.
若干計算が不明な部分はありますが,騎馬は207騎で,その出身は大館23騎,十二所13騎,檜山14騎,湯沢28騎,東家19騎,角館28騎,横手31騎,刈和野5騎となっています.
これを見ると,佐竹一門の大館西家,湯沢南家,角館蘆名家,そして城扱いであった横手からの騎馬が多いことが判ります.
また,207騎中の3分の1余りは有力家臣の下騎馬で,79騎の下騎馬を主人別に分けると,13騎が小場式部,13騎が南家,19騎が東家,8騎が多賀谷家,20騎が蘆名家,茂木家4騎,小場小伝治,戸村十太夫が各1騎となっています.
第1隊の小場式部組には自配下の下騎馬が13騎入って,主人の式部を強力に補佐,守備できる態勢なのですが,不思議なのは,二手の横手戸村十太夫,三手の小場小伝治及び須田八兵衛の3隊では自らの周辺には下騎馬が全くいないか,いても1騎だけと言う状況でした.
つまり,先鋒は保険の意味も込めて,きちんと対応して置くが,実際には戦闘は起こらないと踏んで,2陣以降には示威行動を示せれば充分であると考えた可能性があります.
また,この地域分布から言えるのは,領内で武士団が駐屯していた場所からは殆どが出兵しているのですが,角間川と最上領の境にある雄勝郡院内からの参加が認められないことです.
つまり,角間川は梅津憲忠の本庄城請取の上下800名の中に組み込まれていた可能性が大きく,院内は最上押さえの最前線であったことから,騎馬隊の同院が見送られた可能性が高いと思われます.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/12/07 23:55
青文字:加筆改修部分
【質問】
豊臣政権五奉行の長束正家は,関ヶ原の戦いで西軍に加担し後自刃したが,財政を担当していた彼の死で,徳川は豊臣の財産力を計れなくなり,結果,豊臣を財政破綻させようとした(寺社の修復などをさせたことです)が
,長年経っても成果が出ず,大阪の陣の武力行使に走らざるを得なくなった,という見方は一般的なのでしょうか?
【回答】
私見ですが,あまり一般的とは思えません.
確かに長束を手中にすれば豊家の蓄財を計れたかもしれませんが,関が原以前の家康の戦略をみるに,豊家の散財に重きを置いていたとは思えないからです.
当時は石高だけならほぼ互角.
単独での単純な動員数はこれで推し量れることです.
もし重きを置いていたのなら,長束はもっと厚遇されていたであろうし,長束とて家康の暗殺に走ることもなく,関が原戦の後,首を晒されることもなかったでしょう.
家康の立場からしても,あの頃は協力者即ち豊家恩顧の切り崩しのほうが重要だと考えるのが自然かと.
また,関が原戦後も,幕府を開き将軍(家)として台頭し,豊家の石高を削り千姫を嫁がせ対面を強要する一方で,築城普請を大々的に行ったなどを鑑みますと,
「最後の手段として武力討伐」
を視野に入れていたのは確実で,散財はあくまでプライオリティの低い一対策だったかと.
それに豊家の石高を削りまくっているのですから,散財させるだけなら長束がいてもいなくても同じ…というよりもむしろ,長束がいないほうがいいだろうと家康は考えたのではないでしょうか.
どのみち,長束が対豊家戦略のキーパーソンとして扱われることはなかったでしょう.
長束を取り込んでおけば豊家滅亡が早まったとも思えません.
日本史板
青文字:加筆改修部分
【質問】
豊臣秀頼家による寺社造営や修築工事は,本当に豊臣家の財産を浪費させるためのものだったのか?
【回答】
『真説 大坂の陣』(吉本健二著,学研M文庫,2005.1),p.13によれば,よく言われる,豊臣家の財産を浪費させる為,というのは徳川方にのみに,それも経済的側面に偏った解説かもしれない,としています.
そして豊臣家側の意図として,大祭(秀吉の七回忌など)や寺社造営を催す事で僧侶や公家衆,町衆等からの支持獲得があったかも知れないが,徳川による築城ラッシュ
(関ヶ原合戦後,全国で築城ブームが起こり(新しい領地の防衛などの為),また豊臣家包囲網として伏見城や二条城,名古屋城等が築城された)
に対して,豊臣方は純粋に宗教的・呪術的な力を信じており,呪術的に解放される事を志したのではないか,としている.
また,江戸幕府成立後は政治的な実権は徳川家に握られており,豊臣家代表を必要とするのは祭礼関係に限定されつつあった,として,豊臣側が幕府と軋轢を起こさずに取れる手段は呪術的反抗しかなかったとしている.
当時は生活全般(戦勝祈願から地震予知まで)に神仏が深く関わっており,その上に家康の政治的意図が加わるので,
「淀殿が占いに凝り,とかく霊の力を信じる質となってもおかしくない」
としている.
(家康も魔術的な事にかけては負けておらず,慶長十七(1612)年の正月には三河大樹寺に詣でて先祖の廟所を巡視.
同年五~十二月にかけて日課のように「南無阿弥陀仏」の名号を書き綴っている)
グンジ in mixi,2008年11月29日00:13
【質問】
大坂冬の陣における豊臣方の防衛方針は?
【回答】
『真説 大坂の陣』(吉本健二著,学研M文庫,2005.1),p.34によれば,豊臣方の事実上の総大将である大野治長は,
「大坂城の西側の海沿いにある川縁の遠隔地(博労淵や福島なと)に砦を築き,西手の水路を確保.治長の領国である泉佐野を要として,大坂城-堺-岸和田-紀州の線を確保し,大和郡山を前線基地にして近江まで延びている徳川勢と対峙する」
という構想を企図していたのではないか,としている.
(この時点では豊臣方は大船を所有していたし,治長は紀州で一揆を起こさせている)
また淀川,大和川の堤を切断して京街道を水浸しにした事から,大和口を通過するしかなく,とすれば大坂と大和・紀州を押さえるのは幕府勢の進行路を前後から脅かす事となり,その上で敵を大坂城に誘い込んで一叩き.その成果を持って豊臣家恩顧の大名を寝返らせてから,有利な条件で講和を結ぼうとしていたのだろうとしている.
グンジ in mixi,2008年11月29日 01:33
【質問】
真田幸村が内応を疑われたのは,信幸が徳川方にいたため?
【回答】
通説では,幸村の兄・信幸が幕府方にいるから,幕府方に内応するかもしれない,と治長など上層部から疑念を持たれていた,としているが,『真説 大坂の陣』(吉本健二著,学研M文庫,2005.1),p.112によれば,兄弟・親族が幕府方にいるのは牢人衆の大半に当てはまっており,なにより治長自身の弟(壱岐守治純)が幕臣として活躍している事から,兄弟が幕府方いるという理由だけで疑う事は,特に治長には出来ない,としている.
確かに大坂方の牢人将である仙石秀範(仙石久秀の長男)や長岡興秋(細川忠興の二男)等もそうだし(それぞれ弟や父が幕府方として参戦),普代の織田有楽(信長の弟)・長頼親子も親族の信雄(信長の二男で出家し,常真と名のる)も徳川家の保護下に居るし.
グンジ in mixi,2008年11月29日 01:47
【質問】
冬の陣の講和時の大坂城内の状況は?
【回答】
『真説 大坂の陣』(吉本健二著,学研M文庫,2005.1),p.139によれば,場内では決定的に物資が不足.
10月1日(この日,片桐且元が一族,将兵を引き連れて大坂城を退去)以降,街道は封鎖され,淀川往来の船舶も止められ,京中の米・豆の商売も禁じていた.
その結果,城内では米一石が百三十匁まで高騰(世間では一石あたり十七,八匁),所謂「うどん一杯,三百万円」がシャレにならない状況だった.
惣構内の町民が飢え,また武士には餅などが支給されていたが,やはり食が細くならざるを得なかった
(町民が暴動を起こすような事態になれば,城内に敵を抱える事になる).
この頃,治長が扇動した一揆が紀州で頻発しており,布石がようやく生きようとしていたが,既に講和を急いでおり,また真田幸村や後藤又兵衛も評定で講和を容認していた.
グンジ in mixi,2008年11月29日 01:47
~2008年11月29日 17:50
【質問】
大坂の陣において,伊達家騎馬鉄炮隊は実在したのか?
【回答】
道明寺の戦いでの「伊達家の騎馬鉄炮」と真田隊との激闘は「武徳編年集成」に描かれており,日本戦国史上名高いが,『真説 大坂の陣』(吉本健二著,学研M文庫,2005.1),p.193によれば,
・「武徳編年集成」は大坂の陣から百年以上後(寛保元(1741)年頃)に完成している
・大坂の陣の当時,西洋では騎馬鉄炮隊は存在しているが,日本に直輸入するのは軍制上不可能
(当時の西欧では騎兵は,重い甲冑を頭から膝下まで覆った胸甲騎兵と,それの突撃を援護射撃する火縄銃騎兵に分類されており,三十年戦争(1618~48)ではカトリック側は騎兵部隊を,ほぼ全面的にこの二種類で編成していた.
故に親交のあった旧教の宣教師が伊達政宗に,火縄銃騎兵の存在を伝える事は可能ではあった.
しかし「援護騎兵」たる火縄銃騎兵は,「攻撃騎兵」たる胸甲騎兵がいなくては意味がなく,ここからも「伊達の騎馬鉄炮衆」は虚構である想像がつく,としている)
・真田隊と交戦した片倉重綱が残した記録には「騎馬鉄炮衆」に関する記載がない
・そもそも馬体が小さい日本の馬で,騎乗から火縄銃を撃つのは困難
(大坂城内で馬上で鉄炮を撃とうという試みがあり,実験してみたら発炮音に馬が驚いて駆け出してしまった)
などの理由から,騎馬鉄炮隊は実在しなかったのではないか,としている.
稲富流炮術に馬上筒の技が伝わっているが,これは特殊な個人芸であり,集団戦闘には使えたものではない,ともしている.
グンジ in mixi,2008年11月29日 17:50
~2008年11月29日 18:21
【質問】
大坂の陣において長宗我部盛親,毛利勝永はどの程度活躍したのか?
【回答】
大坂の陣では 真田幸村が有名だが,『真説 大坂の陣』(吉本健二著,学研M文庫,2005.1)によれば,この両者も奮闘しており,盛親は真田丸の戦いでは真田丸の西半分を受け持っており,また夏の陣の八尾合戦でも藤堂高虎の軍勢に大打撃を与えています.
また勝永は天王寺決戦で真田幸村と同等以上に戦っており,真田隊崩壊後の状況下での撤退を成し遂げています.
またこれ以外にも,同書ではキリシタン武将である明石全登の活躍についても言及されています.
なのに知名度の点でも,現在プレイ中の『信長の野望DS1』での能力値も,圧倒的に幸村の方が上…
グンジ in mixi,2008年11月29日 18:21
【質問】
関ヶ原に比べて大阪の陣で,大阪方についた人間に対する処罰が厳しいのはなぜですか?
関ヶ原の時の島津・上杉・毛利,石田三成や小西行長なんかの妻子らも助命されてますよね.
それに対して大阪の陣のときはお菊が処刑されたほか,毛利勝永の戦いに参加していない息子も処刑されているのですが,どうしてこれだけ対応に差があるのですか?
大名と浪人の差でしょうか?
【回答】
単純な理由としては,関ヶ原の時は処分を厳しくしすぎると,
「こんな処分受けるくらいなら,一か八かもう1戦して挽回してやろう」
と思わせることになりかねなかった.
まだ徳川氏の優位は決定的ではなかったので,争いの火種に火をつけるようなことはしたくなかったのだろう.
関ヶ原の戦いに関しては,一日で決着がついたこと自体が想定外だったような側面もあり,下手をすれば決着がつかないまま,全国が東軍支持派と西軍支持派に二分された状態が,長期間に渡って継続した可能性だって否定できない.
まあそうなったところで,最終的には徳川氏の優位に落ち着くとは思うが,結局あの段階での徳川家康は,東軍を支持する大名達の盟主として担がれ,祭り上げられていることによってその地位を保っているという側面も大きく,彼らの支持を失う要因になり得ること(不安感・不信感を抱かせること)は,極力避けなければならなかっただろう.
もしも戦乱が長期間に渡って完全に終結しなければ,初期の室町幕府のような状況に陥ることだってあり得なくはなかったわけだし.
また,関ヶ原段階で,島津・毛利・上杉なんかを完全に武力討伐で滅亡まで持っていくのは,かなり難しいと思うぞ.
それに島津なんかは,情状酌量の余地もある.
あと,関が原は徳川家の功績より,味方になった大名達の功績のほうが大きかった(戦での功績も,裏切りの仲介とかも)ので,そういう連中から口利きされたら,顔を立てないとだめだったということもあるかも.
大坂の陣の時は,(少なくとも表面上は)全国の大名レベルは徳川氏に従ったわけで,徳川氏の圧倒的優位は明らかだった.
だから後のことは気にせず,厳しい処分が出来た.
日本史板,2007/10/03(水)
青文字:加筆改修部分
◆◆鎖国令以降
【質問】
鎖国は国家戦略上,誤りだったの?
【回答】
そうとは言えない.
欧州は自国の発展を海外領土の拡張と貿易によって成そうとした.
対して日本は,鎖国と国内開発によってそれを成そうとした.
戦国の動乱から朝鮮戦役で国内が大分荒れていたから,海外進出より優先するのは理にかなっている.
江戸初期から100年ほどで人口が倍になっているから,そこまでは正しかったと言える.
ただし,人口が飽和状態になった後も鎖国を続けていたのはどうかと思うが.
鎖国ってのは別に日本オリジナルな発想ではないんだけど(朝鮮だって似たようなもの),日本はそれをかなり徹底してしかも実効性が上がったところに特殊性がある(薩摩藩の抜け荷とか穴はあったけど).
ベトナムなんかは,やろうとして失敗してる.
鎖国の一番のポイントは貿易制限ではなくて,日本人の海外渡航禁止による安全保障(キリシタン禁制もこの側面から出てくる).日本人が外に出ていろいろ問題を起こし(巻き込まれる場合も含めて),その責任をとるとかとらないとか,こういう国外でのコントロール不可能なリスクを回避するために日本人を外に出さず,海外での揉め事(ex.オランダ・イギリスとスペイン・ポルトガルの紛争,明・台湾鄭氏と清などの諍い)から距離を置こうとした.
冊封体制に入れば,漢字文化圏内部ではある程度安定を得られるけど,国内対策的にそれは不可能だった.
【質問】
家康は貿易に消極的だったの?
【回答】
家康は貿易にかなり積極的で,鎖国というか,交易を制限してでも,危ないキリスト教や,戦国の夢を忘れられずに海外に出て行った日本人たちを遠ざけて,国内の安定を優先する方向に走ったのは,むしろ秀忠以降.
家康は金なども掘りまくったし――ゴールドラッシュが,戦国を忘れられない不安分子を吸収したところもある――,多少の危険を冒してでも幕府の運営資金を稼ぐ方向性で,よく言われる重農主義者では全然無い.
実際,国内の安定を優先したことで,国内が50年で大きく様変わりしたのは事実だけど,家康が死んだ後は,財政に強い家臣をガンガン首切ったりして,鉱山収入もどんどん目減り.
当然,貿易も儲けにならなくて,国内の交易・商業・流通は大発展したのに,それに税金をかけるシステムも全然構築できず,実は4代将軍のあたりからすでに,幕府全体が赤字経営になってたりする.
それ考えると,家康ってバランスいいよなあ.
漫画板,2013/05/18(土)
青文字:加筆改修部分
【質問】
鎖国に怒ったスペイン,ポルトガルが報復に武力行使とかしなかったの?
【回答】
色々理由があるが,全体的に「それだけの余力がなかったから」に尽きる.
元々,当時のスペインは,艦隊を組めるだけの大兵力を地球の反対側に派遣できる状況にはなかった.
価格革命と新大陸からの放埓な金銀の流入による物価上昇に加え,頼みの新大陸やアジアは商人や貴族の利権が錯綜し,王の威令など守られもしなかった.
その上,当時のスペインはカスティリア,アラゴン,ポルトガル,セビージャらの寄り合い所帯であり,それぞれが独自に目的を持ち,しかもその目的がばらばらだった.
フェリペ2世の時代にポルトガルと同君連合を結んだものの,海外のポルトガル植民地はほとんど従わなかった.
その上,キリスト教の擁護者,及び地中海の交易ルートを守るためにオスマン帝国と戦い,加えてイギリス,フランス,ネーデルラントの独立勢力などとも戦わなければならなかった.
結果,再三にわたりスペインが自己破産してしまったのは有名な話.
要するに,東方の国が自分たちを締め出したからと言って,即座に報復の艦隊を送れるほどの資金も兵力も当時のスペインにはなかった.
スペインが金を使って戦うべき相手は近場に山ほどいたというだけのこと.
その上,アジアとヨーロッパの行き来に数年はかかる当時,忠誠心を持たせたまま大兵力を遠国に貼り付けるのはほとんど無理だった.
艦隊内で内乱が起きかねないし,最悪,反乱を起こされる可能性もあった.
【質問】
オランダは,マラッカやらカリカットやらをどんどん占領してたのに,なぜ平戸は占領せずに商館置いただけだったの?
【回答】
オランダは,苦労して手に入れたマラッカやバタヴィアでの儲けは赤字.
その一方で,日本商館(平戸,後に長崎出島)の儲けは第二位の台湾,第三位のイランの商館の儲けを足した程度という,圧倒的に収益率の良いものだった.
アンボイナ事件で負かした英国は日本から撤退したし,幕府に讒言して,スペインやポルトガルを締め出してもらったし,幕府の鎖国政策で朱印船の海外渡航も中止となれば,中国船を除けば競争相手は皆無.
濡れ手に粟じゃねーか.
【質問】
日本の鎖国体制を国際安全保障上,担保していたものは何か?
【回答】
16世紀前半の日本は,鎖国状態を完成させつつありましたが,これは東アジア地域に於けるオランダの派遣を背景にした,オランダによる日本の海防という背景があって初めて成立し得たものでした.
それは持ちつ持たれつの関係であって,日本もオランダに対し,新たなライバルとなる国の交易受け入れを拒むという互恵関係にありました.
よって,例え他国の船が日本に来港したとしても,それが受容れられる素地は余りなかったかも知れません.
オランダの力が19世紀に入ると衰えてきた為に,諸外国は日本に開国を迫る艦船を派遣した訳で,日本も自主海防をしなければならなかったりすると言うのは穿ちすぎな見方でしょうか.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2008年02月25日22:02
【質問】
大船建造禁止令とは?
【回答】
1635年に林羅山が読み上げた武家諸法度の第十七条には,「五百石以上之船停止之事」と書かれていました.
この条文が,所謂「大船建造禁止令」と呼ばれるものです.
ところが,この条文を巡って,大名家の人々は頭を悩ます事になります.
と言うのも,この条文に限らず,武家諸法度の条文は,簡潔な漢文でさらっと書かれているだけであり,解釈が如何様にも取れてしまいます.
とは言え,勝手な解釈は鳳凰丸一件とか飛龍丸建造の話の様に,一歩間違えば御家の危機に成りかねません.
そこで,大名各家は幕府年寄に解釈を質す事になりました.
今まで大船没収を受けてきた西国大名家でも解釈に迷う条文なのに,まして,それを経験していない大名家では,想像も付かなかったに違いありません.
1638年5月2日,島原の乱鎮圧後に,前田利常,藤堂高次,京極高広など就封の暇を賜った諸大名家当主達に対し,幕府年寄の土井利勝,酒井忠勝,阿部忠秋は,武家諸法度第四条の解釈の変更を説明しました.
第四条は,制定当初,
「領国内にて起きた争乱は,その地を領する各家にて対処する事」
として,他国からの出兵を厳に諫めていたのですが,これを厳格に運用したが故に,島原の乱の初期消火に失敗し,鎮圧に梃摺ってしまいました.
そこで,
「私闘の場合は近隣からの出兵は不要で,国内で処理すべし.
但し,国法に背く事態が出来した場合は,隣国からも速やかに出兵してこれを鎮圧する事を命じる」
と解釈を変更した訳です.
同時に,第十七条の解釈も,「五百石以上之船」から商売船は除くと申し渡しています.
こうした解釈変更は,5月15日に登城した大名にも伝えられ,在国の大名には翌日,土井利勝の屋敷に留守居を呼んで,その旨が伝えられました.
幕府の右筆所日記,所謂『江戸幕府日記』には,五月二日条と十五日条に同じ文言があります.
それによると,
「五百石以上之船停止と此以前被仰出候,
今以其通候,然共商売船は御ゆるし被成候,其段心得可申事」
となっていますが,ここで言う「商売船」とは,従来の年寄連署奉書から読み解けば,「内航商船」と解釈出来ます.
で,何故に第十七条が改訂されたのか,と言えば,これを大名家に申し渡した幕府年寄の説明が御三家を始め,加賀前田家,小浜酒井(忠勝)家,長州毛利家,阿波蜂須賀家,土佐山内家,佐賀鍋島家,肥後細川家に残されています.
その記録には先ず改訂の切っ掛けとして,この条文では軍船のみならず商船が対象になっており,商人の迷惑が上聞に達した事としています.
そして,引き続き建造が禁止される船は,「武者船,あたけ其外之大舟」であると述べました.
この部分の記述は,各大名家の文書で様々に書かれているのですが,
『「武者船」及び「あたけ其外之大舟」』
と言う読み方ではなく,
『「武者船」,即ち「あたけ其外之大舟」』
と解釈するとしっくり行きます.
すなわち,幕府の海上交通用の大型船の定義とは,軍船と内航商船,そして,航用船の三種類に分け,第十七条では,前二者に網を掛ける事になっていた訳です.
これは1609年の西国大名家に対する大船没収と同じ解釈であり,今まで領域的な法として存在していたものを,法的不均衡の是正から法制整備されたものと考えられます.
其の迷惑を被った商人の居た領国とは何処か?と言うと,意外な家が浮かび上がってきたりします.
正に,策士策に溺れると言うか,灯台もと暗しと言うか,事実は小説よりも奇なりと言うか.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年12月20日22:54
1636年7月22日,とある大名が以下の様な書を国許の年寄に使わします.
-------------------------
去年御法度書指遣候処ニ,何とうつけ候や,去八日之次飛脚の状ニ申越候ハ,五百石つミの舟小浜ニも有之間,つるかニもたくさんニ可有之候,其上北国より参り候舟之内二も可有之候由申越候,中々是飛之可申様も無之候,あほう共ニ身たいおはたされ可申候義無念千万成事ニ候
-------------------------
のっけから,国許の人間を「うつけ」,「あほう」と罵倒し,しかも,「あほう共によって身代が果てる」とまで書いていたのは,誰あろう,家光の側近中の側近であった幕府年寄酒井忠勝その人です.
彼は1634年に武州川越から日本海の小浜に転封したのですが,転封間もない1635年11月4日に,彼は諸士法度の公布が近い事を国許に知らせ,武家諸法度が公布されると,その写しを作成して国許に持たせましたが,いざ国許に帰る段になって,自分の足元で,武家諸法度第十七条が徹底されていなかった事を知り,愕然としたのです.
国許の重臣達は,その法度を受け取ったものの,解釈を忠勝に問い質す事もせず,第十七条の適用範囲を軍船だけと思い込んでしまいます.
本来は,この条文は,内航商船にも適用されますから,廻船問屋にもそこの処を徹底させねば成りません.
それをやっていなかった訳ですから,忠勝が驚愕するのも無理はない訳です.
自分が作った法度に自分が抵触する可能性があるとは,正に自分で自分の首を絞める行為….
そもそも,この大船建造禁止令は,波の穏やかな瀬戸内海方面を航行する船舶に対して行われた規制が出発点でした.
日本海はそれとは違い,船舶の建造方法も独自の発達を見せ,伊勢船や二形船とは別系統の面木造りの廻船が主力でした.
日本海の海は瀬戸内海に比べると相当荒く,畿内に商品を運ぶには距離が長いので,運送費が掛かりますから,航洋性を高め,大容量の船艙を持つ大型船の建造は早くから進んで,1592年の段階で既に小浜でも7~800石積の船を建造していましたし,1602年の越前新保では,1000石積以上の北国船120艘,1000石積以下の羽ヶ瀬船72艘を数えていました.
また,こうした大船を擁した豪商の数は極めて多かった訳です.
忠勝の領国である小浜,敦賀,高浜でも,組屋・道川・高島屋・打它と言った豪商が軒を連ねていました.
大船建造禁止,保有禁止となると,これらの豪商にも大打撃になる他,その実入りから運上金を取っている大名家にも悪影響が出てしまう訳です.
兎に角,この事態を何とか切り抜けなければならない.
忠勝は早速,国許の年寄に対し,
「浦改めは大々的にすると目立つから止めろ」,
「敦賀では年寄の一人を検見に出させるが,他国民や領民に極力目立たない様にしろ」,
またこの浦改めで大きさが該当する船については,
「浜に揚げて囲わせ,船を解体して小さく作り替えさせる様に手回ししろ」
と指示しています.
また,他国船についても,敦賀や小浜への来航を禁じ,もし来たら,船を抑留して幕府に献上すると言って追い返せ…つまり,ひたすら目立たない様に取り計らえとした訳で.
1636年8月末,忠勝は江戸を発って領国小浜に向かいます.
彼は,この地に2ヶ月滞在した訳ですが,船を解いて小さく改造する事は,豪商達にも多額の出費を必要とした上,輸送量が少なくなりますから,運賃収入は結構減ってしまいます.
こうして,日本海側の豪商達が,挙って忠勝を始めとする領主達に窮状を訴え,圧力を掛けた事は想像に難くありません.
結果として,3年を経ずして解釈の変更が行われたと言う事になる訳です.
う~ん,こうした朝令暮改な話は,つい最近も何処かの国で聞いた事があるなぁ.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年12月21日23:12
▼ さて,一昨日の続きで,幕府は何故西日本諸大名家の大船没収を行ったか,と言えば,当時の時代情勢ですわな.
この当時は未だ豊臣家は健在でした.
つまり,豊臣家と将軍家の決戦となった際に,もし,加藤清正や福島正則を中心とする西国諸大名家が豊臣家に味方したとしたら,その安宅船,そしてその民間船バージョンである伊勢船を用いて幕府水軍を滅して制海権を手に入れる事が出来ます.
特に文禄・慶長の役以降,諸大名家は安宅船の利用価値に気づき,競って安宅船の大型化に相務め,その大きさは文禄・慶長の役で最大の九鬼水軍が保有していた日本丸を凌駕する程でした.
これら西国大名家の安宅船は,領主の御座船や米回漕船として,領内を母港にしていたわけですが,大抵の場合は,瀬戸内海を航行し,大坂を定置港にしていました.
彼らの間にも競争意識があり,例えば,鍋島勝茂は,黒田長政が建造した大船を目にして,自分の大船が見劣りするのに我慢出来ず,それを凌駕する船を造れ,と国許に命じていますし,加藤清正の新造船は蜂須賀至鎮の持ち船を上回る大船であると言う記録があります.
一方,幕府水軍は,諸大名家に比べると弱体でした.
制海権が有れば,大坂城は相当長期間持ち堪える事が出来ますし,もし,大坂城を退去したとしても,将軍家が中国,四国,九州の各地方を平定するには相当な期間が掛かります.
それを恐れたが故に,西国諸大名家の大型安宅船を接収したのですし,軍用船に転換出来る伊勢船,二形船も領内にあると接収されて軍船に組み込まれかねない為,合わせて没収した訳です.
但し,安宅船が,池田家以外の西国大名家から完全に姿を消した訳ではなく,500石積より小さいのであれば安宅船の建造は可能でした.
1613年に来日した英国人セーリスは,長州の三田尻の船渠で安宅船を確認しています.
因みに彼は,その安宅船を「ノアの方舟」と称していますね.
また,1622年4月,鍋島勝茂の室高源院の江戸出府の際,伊万里から「アタケ丸」に乗船したと言う記録もありますし,1624年の広島浅野家の調査記録に安宅船4隻が見えています.
とは言え,安宅船は以後,記録からは消滅してしまいますが,1624年の段階で,広島浅野家は御座船として,20端帆82挺立の関船が用いられていました.
つまり,時代は大型で鈍重な安宅船よりも,快速に航走出来る関船へと移り変わっていった訳です.
大坂夏の陣で豊臣家が滅亡し,元和偃武により,国内から戦火が絶えると,幕府から西国外様大名家への締め付けは一層強まります.
1619年7月には大坂を領してきた松平忠明を大和郡山に転封し,天領として支配します.
翌年からは,「西国之船かしら」として小浜光隆を大坂船手に任じ,大坂以西の大名家が保有する船舶の監察を命じます.
以後,西国諸大名家は船の事で疑義が生じると,先ずは小浜光隆に相談し,その指示を仰ぐ事になりました.
しかし,1625年に彼は福岡黒田家を告発し,以後,大船建造に関する騒動が頻発するのです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年12月16日21:10
▲
【質問】
鳳凰丸をめぐるすったもんだについて教えられたし.
【回答】
1620年,江戸では九州の諸大名家に対する大船進上の噂が巷を流れます.
小倉細川家の世嗣細川忠利は,国許にその風評を知らせ,自領内にそんな大船が存在しないのか,当主である父忠興に確認しています.
忠興は,今までは500石積以上だったが,今度の規制はどうなるのか,400石積が大将になるのか,それらを含め,しかと確認せよ,と忠利に命じ,忠利は石橋を叩くが如く,幕閣の重要人物たる年寄本多正純へ確認に走って居ます.
事程左様に,幕府の威令と言うか,逆らったら取りつぶされると言う恐怖は大きかった訳です.
1625年,九州の諸大名家を更に震撼させる事件が起きます.
大坂船手の小浜光隆は,福岡黒田家当主の黒田忠之を,大船建造の禁令抵触の疑いで,江戸表に告発しました.
彼の御座船として大坂に回航された60挺櫓の鳳凰丸が嫌疑を受けたのです.
鳳凰丸は1625年に建造された新造の関船ですが,普通500石積以上の関船になると,1人で漕ぐ小櫓なら約80挺立,2人が必要な大櫓なら約50挺立になります.
もし大櫓なら確実に規制を越えるのですが,そうなると小浜光隆が見るまでもなく,沿岸の諸大名家から小浜光隆にご注進が来る事になるでしょうから,恐らく小櫓だったと思われます.
ただ,艫に命名の由来となった鳳凰を彫り込み,非常に華美だった為に目立ちすぎ,これが大坂や江戸表に噂として流布して,黒田家謀反の風聞が強まった為に,小浜光隆もその噂を沈静化させる為にも,江戸への告発をせざるを得なかった….
結局,江戸から検使が派遣され,最終的に鳳凰丸は「不過五百石」として事なきを得ました.
ところが忠之への嫌疑はこれに留まりませんでした.
今度は,領内の荒戸山の下に,鳳凰丸用の舟入を掘らせたのが,「大船一艘を繋ぐ程」と江戸表に聞こえ,再び検察の上使が派遣されたのです.
「大船」と言うのは,当時としては「安宅船」の代名詞ですから事は重大でした.
これも,結局,噂程大きくない事が判明し,黒田忠之の嫌疑は再び晴れました.
こうした一件があった為か,細川忠興が1634年に八代城内の屋敷廻りの防水用石垣普請を計画しますが,石垣普請は工費が掛かる為に土留めで瓦築地様に築く事に変更しました.
この時,忠興は年寄土井利勝に内諾を得て,工事に取りかかりますが,工事は中々捗りません.
その理由として,忠興は忠利に斯う書き送っています.
「舟入近くの土を取ってしまえば,成る程楽に工事が進められるが,そんな事をして黒田の様に舟入を深くして大船を建造する準備だと取られかねない.そんな訳で,遠くから土を運んでいる為,工期が延びている」
因みに,従来は黒田,鍋島両家の関係が良好だったのに,この黒田の舟入騒動を,国許にいた鍋島勝茂が,江戸へ向かった黒田忠之に知らせたのが黒田忠之の江戸到着直前だったと言う事で,両家の関係が冷却したと言う話はあります.
ホントか嘘かは知りませんが.
後に1632年,再び鳳凰丸一件が蒸し返されました.
所謂黒田騒動と言うものがそれで,幕府年寄土井利勝の屋敷にて黒田家家老黒田美作と黒田監物等と対決した筆頭家老栗山大膳が,鳳凰丸が詮議される際に,
「これを商船だと言い張る為に,咄嗟に色んなものを積込んで喫水を深くしたのだ,
鳳凰丸は実は幕府ご禁制の大船だったのだ!
黒田忠之は謀反を企てていたのだ!!」
と喚き立てますが,既に見ている様に,大船は民間商船,軍船を含めた500石積以上の船が対象である訳で,これは与太話であるとあっさり一蹴されて終わってしまいました.
しかし,黒田家がscapegoatになった為に,西国の各大名家はより慎重な対応を迫られる事になり,幕府の狙いは取り敢ず成功した訳です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年12月17日22:08
【質問】
海部騒動とは?
【回答】
鳳凰丸の一件と黒田騒動は,特に西国の外様大名にとっては,傍観すべきものではなく,家を保つ為にも,こうした大型船建造は慎重に進めるべきであると言う事を,改めて肝に銘じた出来事でした.
阿波蜂須賀家も例外ではなく,蜂須賀至鎮の代に建造した御座船(関船)が老朽化した為,1631年3月に在府中の蜂須賀忠英の為に御座船を建造する事になります.
途中,将軍秀忠の病と死によって工事が中断し,完成は1632年11月になりました.
この関船は80挺櫓立で,他国の船よりも全長が長く造られています.
これは大坂往還の海上と鳴門の横潮を渡る為,他国並みに櫓間が長いと難風の際に困り,それより拡げる事が習わしでした.
ところが,完成した船を見て,船頭達が船奉行に,
「最近,湾口に砂が溜まっているので,喫水が深いと操船に支障を来す事が判明しました」
と報告します.
これを修正するとなると,一度建造したこの船を解体して,再度組み直す事になります.
その船を建造していた場所は,往還脇の目に付く所であり,これを解体していたというのであれば,「大船」建造と黒田家の様にあらぬ噂を立てられかねません.
場合によっては,幕府から咎め立てされる可能性があります.
さりとて,此の儘運航させて万一,忠英帰国の際に,湾口で座礁などしたら,船奉行や船頭にどんなお咎めがあるか….
困り果てた船奉行は,出府した当主に代わって,留守を守っていた当主の祖父で,当時隠居していた蜂須賀蓬庵(蜂須賀家政のこと)に報告します.
蓬庵はこの報告に驚きましたが,先ずは繋留状態にして,船の指図(絵図)を作らせ,使者に持たせてその年の12月に大坂の小浜光隆の元に届けさせました.
この指図を見て,小浜光隆は「問題なし」と判断し,使者にそう返答します.
しかし,江戸にその知らせが届いた時,忠英は更に江戸の幕府船手頭の向井将監に理を入れ,「少も不苦」と言う返答を経た上で,1633年7月に小浜光隆に対し,
「一端この船は解体して建造し直したい,
ついてはこの解体と建造が,人々が蜂須賀家は安宅船を建造しているのではあるまいかと言う噂を招きかねないので,家来の内誰か1名を検使として,当家に派遣して頂き,建造中に不審な動きをしていないかを,監視しておいて頂きたい」
とまで申し入れています.
種々検討の結果,8月に小浜光隆は忠英に返書して,
「家来の徳島派遣は,それこそ噂になるであろうから,人目に立たない様にする方が良いし,その辺の事情は当方きちんと理解しているから,安心しなさい」
と諭し,9月から忠英は安心して一端建造した船を解体させ,暮れになってやっと74挺櫓立の御座船飛龍丸が完成しました.
起工から3年以上掛かったのは,将軍の代替わりがあった他,蓬庵の従兄弟だった江戸仕置家老益田豊後が,知行地である海部郡内の百姓に対する苛政などが発覚した為,忠英は幕府年寄を通じて将軍の内意を質し,その言質を取った上で,1633年9月に豊後を罷免,大栗山に幽閉すると言う政変があった為でした.
船の建造よりも,そっちの処理の方が大事だった訳ですな.
さて,月日は流れ1645年6月,阿波の大栗山に幽閉されていた益田豊後は,妻の弟の安彦左馬允を通じて,家老長谷川越前の悪業と自身の身の潔白を訴える書状を京都所司代に提出しました.
これが蜂須賀家の御家騒動の一つで,世に海部騒動と言われているものです.
その訴状を受けた幕府は,豊後と越前を江戸に召還して評定所で取り調べます.
豊後は越前の罪状として,第一に大関船建造,つまり,先述の飛龍丸一件,第二に領内の切支丹である下田一郎左衛門とその舅に対する処置で穿鑿を停止するなどの温情を与えた事,第三に幕府年寄土井利勝に越前自らが誓詞を差出した事が挙げられていました.
そして,幽閉の原因となった苛政は,越前と郡奉行が結託して捏造し,蓬庵が豊後を憎む余りに一方的に断罪した冤罪であると訴えました.
もし,この罪状が事実なら,最初の「大船」建造と次の切支丹禁制の扱いだけで,蜂須賀家はお取りつぶしに成りかねません.
越前は,最初の罪状に関しては,先述の小浜光隆の書状などを証拠として差出し,豊後の告発に悉く反論し,遂に1646年正月に両者が評定所で対決した結果,次々に反証を挙げる越前に豊後は追求の言葉を失い,結局,豊後の措置は,蜂須賀家に任せると言う裁決を下し,事件は終息しました.
時は将軍家光の時代でしたから,もし,こうした公的文書を残していなければ,蜂須賀家が幕末まで阿波で一国を領する事など無かったかも知れません.
紆余曲折がありましたが,1635年には5月28日には,鎖国政策の最初の段階である日本人の海外渡航の禁止,そして6月21日,幕府年寄の井伊直孝,松平忠明,酒井忠清,土井利勝,酒井忠勝列席の下,江戸城大広間で諸侯に向けて,林羅山が武家諸法度を読み上げ,更に大船建造禁止に一歩を踏み込んだのでした.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年12月19日22:37
【質問】
大船禁止令以後,大船建造は皆無だったのか?
【回答】
大船禁止令ですが,最終的に1663年に漸く今までの武家諸法度は文書化されることになりました.
以後,大名による大船の建造は無くなったのかと言えば然に非ず.
1669年には長崎代官末次平蔵が幕命で33人乗組で500石積(とは言え,城米450石,石火矢・大筒,鉄炮400挺,具足100領など優に千石を超える搭載量があった)の唐船を建造していますし,1679年には南部家の領地だった宮古に仙台伊達家が建造した唐船が嵐を避けて入港しています.
この仙台伊達家の唐船は29人乗組と幕府船より若干小さめでしたが,旧来の伝統船とは造りが違うので,この船が就役する際には,近隣諸家に対し,「この度これこれこんな船が就役したので,万一御家に着到の際は驚かない様に」という書状を送っています.
この船が何故建造されたかと言えば,多分太平洋を南下して江戸や大坂に藩米を運ぶのに,操船性の高い唐船様式のものが好まれたのかも知れません.
但し大型化したとは言え,一般的な千石船の場合,乗員は14~20名程度.
その1.5倍の乗員を抱えたこうした大型船は,操船性は良かったものの,稼働率が低ければ経済性は低く,例えば末次平蔵の船は,1675年に小笠原諸島を探検するなどの実績を上げますが,建造後僅か11年で,腐朽を理由に解体され,後継船は建造されませんでした.
17世紀~18世紀に掛けて,欧米各国が勢力拡大に鎬を削っている中で,日本に外国船はHollandと清帝国の船だけなのかと言えばそうではなく,1673年には英国船が貿易を求めて長崎にやって来ていますし,1685年にはポルトガル船が伊勢の漂流民送還の為に長崎に来ていました.
以後,西欧船はHolland以外姿を見せなくなりましたが,北方ではRussiaの船が出没しています.
1739年にはRussiaの探検隊の船が,奥州・安房・伊豆の沖合に出没する所謂「元文の黒船」事件が発生し,1771年にはRussiaと戦闘して捕虜となったマジャール人が流刑地Kamchatkaを脱出して,阿波の日和佐と奄美に漂着し,Russiaの脅威を説いた文書を長崎のHolland商館長宛に送っています.
そして1778年にはRussiaの船が霧多布に寄港して,蝦夷松前家に通商を求め,1789年の国後・目梨のアイヌ蜂起の影にはRussiaの荷担が噂されました.
更に1792年にはAdam Kirilovich Laksmanが根室に渡来して,幕府との通商を求める事態になっています.
当時の田沼意次政権は,蝦夷地直轄・開発政策を推進しますが,後継の松平定信政権は,逆に松前藩委任・非開発政策に転じ,更に1799年には蝦夷地直轄に転ずると,まぁ二転三転する訳で.
でもって,田沼時代の積極策に打って出るには,船が必要になりました.
先述の様に,長崎代官末次平蔵の唐船は1681年に長崎で解体され,和洋折衷の巨艦安宅丸は1682年に江戸で解体された訳で,以後,幕府が洋式船を導入する計画は,1718年に吉宗がHollandに船を発注出来るかどうか打診したのを除けば,全く動きがありませんでした.
田沼意次はこうした沈滞状況に風穴を開け,Russiaに対抗する為にも洋式船の導入を図るべきだと考え,長崎奉行とHolland商館長との間で,造船技師の派遣や技術者の渡航,操船法の伝授,Holland船の端艇の雛形の製作など,種々の方策を練ってきています.
しかし,この動き自体は,若年寄田沼意知が暗殺され,田沼意次の失脚で頓挫しました.
しかし,北国筋と長崎を結ぶ1500石積の俵物廻船三国丸と言う船は,その洋式思想を具現化した最初の船として,1783年頃に建造されました.
当時,北国からの廻船航路は,海象に左右され,時には破船が結構あった為,弁財船に代わるものとして,西洋式の構造を取入れた和船を建造した訳です.
従って,本格的な洋式船やジャンクではなく,あくまでも和船の延長線上にあった訳.
元来,日本の外国貿易の輸出品としては銅が主力産品だったのですが,銅の産出量は年々低下し,幕府はそれに代わる新たな貿易産品を探していました.
其処で目を付けたのが,昆布,鶏冠海苔,鯣,鰹節,干鰯などの諸色海産物,取分け蝦夷地の豊富な海産物である乾鮑,鱶鰭,煎海鼠などを俵に詰めた,所謂俵物です.
但し,この俵物は遠く蝦夷地を始めとする北国筋から運ばれてきます.
俵物の長崎廻漕は年に2回行われ,2度目の二番立ではその年に獲れた新昆布が主になります.
ところが,この新昆布は廻漕中の欠損もありますし,何よりその収穫は旧暦で言う6月土用の頃になり,製品化して出発する時は秋の末から冬の渡海となります.
今でもそうですが,冬の日本海は兎角荒れ,廻船の往来は殆ど不可能となるので,一攫千金を目指すのでない限り,船主は余りやりたがりません.
其処で目を付けたのが異国船の構造で,これにより耐候性に優れた構造を採用し,大型化を図って,大量の産品を運ぶ事を考えたのです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2008年01月05日21:14