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(画像掲示板より引用)
「D.B.E. 三二型」(2010/11/12)◆ゆでたまご先生が描く織田信長が期待を裏切らない出来になっている件
「D.B.E. 三二型」(2011/06/13)◆信長の巧みな人心掌握術,石垣に痕跡 愛知・小牧山城
「Togetter」◆(2012/10/09) 「戦国の軍隊」の読後感想から始まる,信長人気の分析
「 アルファルファモザイク」◆(2010/05/15)ついにコーエーがトチ狂った 新作「戦国アンジェリーク」発表 主人公は織田・アンジェリーク・信長
「戦国ちょっといい話・悪い話まとめ」(2012/02/26)◆ 雑談・オダノミクスがどんなものか教えて下さい
「哲学ニュースnwk」◆(2013/04/04) 織田信長って凄すぎだろ,弱小国から自分の力で天下統一目前とか・・・秀吉や家康は信長のおかげだし
「メシウマ速報m9(^Д^) 」:なぜ信長が戦国大名で一番人気なのか?
「もみあげチャ~シュ~」◆(2010/09/05)【速報】 織田信長 死去
『織田信長(人物叢書)』(池上裕子著,吉川弘文館,2012/12/10)
『織田信長・合戦全録』を読み解く (2013/01/30)◆「国際インテリジェンス機密ファイル」
『織田信長,最後の茶会』を読み解く (2012/12/11)◆「国際インテリジェンス機密ファイル」
『織田信長 天下布武の足跡 (別冊太陽)』(小和田哲男・小和田泰経著,平凡社,2012/11/26)
『織田信長の尾張時代』(横山住雄著,戎光祥出版,2012/6/8)
『蒲生氏郷 おもひきや人の行方ぞ定めなき』(藤田達生著,ミネルヴァ書房,2012/12/10)
『信長の戦争 『信長公記』に見る戦国軍事学』(藤本正行著,講談社学術文庫,2003.1)
「戦争の日本史」の中で,最新の研究動向を分かりやすく(研究者名や出典は,あえて本文中では紹介しない)つたえて,シリーズ全体への読者の導入を図る位置づけにある本.
従来,戦国ファンや時代小説が好きな人の間で広まっている通説について,最新の研究成果ではこのように見られているというのを教えてくれ,かつ,著者がこれまでいろいろな本で説いてきた,信長家中の家臣団の編成,あるいは戦争の事績などについても,通史という体裁をとりつつみせてくれる,大変お得な本に仕上がっている.
学者の書いた本だと,どうしてこれらの史料から,このように判断するに至ったのか,踏まえている前提の知識を読者が共有していないために,不明確で曖昧模糊とした記述が続いたりするのだが,この著者ならば読者を迷わせることがない.
シリーズ構成としては,戦国時代を描いた,他の巻と重複する内容は多いはずなのだが,そこはうまく秀吉を扱った巻をはじめ,あちらこちらとうまく分担しているところも評価すべきだろう.
憶測や著者の史観などが随所に盛り込まれ,筆先が走ることも多い時代小説から離れて,今はだいたいこのようなことを専門家は追っている,こういうふうに見ているという感覚を伝えてくれる好著といえる.
ぜひ,手にとって,このシリーズに親しんで欲しいという願いが伝わってくる.
――――――軍事板,2011/08/17(水)
青文字:加筆改修部分
【質問】
織田家って尾張の守護=源氏ではなかったのですか?
ルーツを教えてけろ.
【回答】
守護は織田氏じゃないと思う.
たしか織田は守護代.
守護は斯波(三管領の一家)だったはず.
で,織田氏は平家の末裔って言ってたはず.
平氏系の津田氏か,近江佐々木氏系の津田氏の流れと言われている.
------------
姓ははじめ藤原で,のち平姓を称するようになった.
古く越前国丹羽郡織田荘に拠り,織田を称するようになったと考えられる.
越前守護斯波氏に仕え,斯波義重が尾張守護を兼ねると,織田常昌が尾張守護代となる.
斯波氏の分裂抗争とともに,織田氏も春日井郡清須城に拠り下四郡を領する一家と,丹羽郡岩倉城において上四郡を領する一家とに分裂し,互いに争う.
------------コトバンク
信長の代になっても,越前の織田剣神社を氏神として祭っていたとも言われ,やはり織田荘出身なのは確実と思われる.
ここの織田氏の出自と言えば,伊部(忌部・斎部)という神人の氏族の流れとされ,尾張織田氏もこの流れとされる.
説の中には,越前織田氏の出自を大中臣とするものもあり,これを後に信長が藤氏を名乗った理由とも言われている.
まあ神官と言っても,荘園の豪族と同じようなものだけどね.
系図がここにあります.
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/oda_keiz.html
日本史板,2003/03/18
青文字:加筆改修部分
【質問】
信長の宗教観,宗教政策って,どういうものだったのでしょうか?
イメージだと,信長は神の存在を信じなかったとか,反仏教とか,キリスト教の日本での布教を認めたとか,そんな感じがしますが.
【回答】
無神論者としたのはルイス・フロイスぐらいでしょう.
信長は,起請文に八幡しか書かなかったりと個性も感じられますが,基本的には一人の信者であったようです.
自己の神格化は他の戦国大名も行っており,特別な事ではありません.
そもそも,自分を神として崇めさせたとか,第六天魔王と称したというのも,
宣教師側の記録にしか無かった様ですが.
寺社勢力と戦ってはいますが,それはあくまでも敵対する勢力の一つとしてであり,先祖縁の織田剣神社を保護している他,八幡宮なども修復させています.
無神論者云々は,小説のイメージが強い気がしますね.
「無神論者」を持ち上げて神格化しているのですから,傍から見ると滑稽な気もします.
山野野衾 ◆a/lHDs2vKA in 日本史板,2005/01/13
青文字:加筆改修部分
のぶのぶ
faq17b05.jpg
faq17b05.gif
【質問】
「信長は甘党だった」って本当?
【回答】
甘党であるだろうことを示唆する伝説は,フロイス他によって幾つも伝えられている.
・干し柿携帯は当たり前.
通常で五個.
多いときは二十.
・家臣の子供が挨拶に来たので干し柿をやる.
一つ2つではなく一抱え分で.
・宣教師からこんぺいとうを恐喝;
「これは貴重なものです」
と献上された金平糖一山を,やめられないとまらない状態で全部一人で食べちゃって,
のぶ「で,嫁や子どもの分はどこ?」
宣教師「それだけしかねーよ! 貴重やゆーたろーが!」
加えて下戸でもあったから,甘党であろう説の信憑性は,ますます高まるわけで…
漫画板,2015/01/07(水)
青文字:加筆改修部分
【質問】
初期の信長家臣団の内実は?
【回答】
初期信長の家臣には,それなりの領地と動員兵力を持った尾張の名族が殆どいなかった.
これは信長が,父親・信秀の老臣を,その本拠・末森城もろともに弟の信行に譲ったため.[1]
例えば柴田かっちゃんは,信秀の代に大抜擢されて家老まで行った,織田家では新参に近い人みたいで,父親がどのくらいの身分だったのかも分からない,生まれた年すら分からないレベル.
勝家の直接血縁,姻戚関係以外では,柴田を名乗る武将が殆どいないくらい.
そんな柴田が,尾張では貴重な自分の手勢をそれなりに持っている武将になるぐらいだったことから推して知るべし.
あと,尾張でぶっちぎりで勢力持って,自分で相当な手勢持ってたのが佐久間一族.
その総帥が信盛.
(桶狭間の前哨戦で総帥と総帥候補がバタバタ死んじゃったからだけど)
その佐久間ですら,美濃統一直後では美濃三人衆で一番小身の稲葉より兵力が少なかったらしい.
だから信長は,弱小土豪を馬廻から部隊長に格上げして,美濃侵攻戦でレベル上げした.
【参考ページ】
[1] http://www2.harimaya.com/sengoku/html/oda_k.html
漫画板,2015/06/25(木)
青文字:加筆改修部分
【質問】
織田が勢力を伸ばしているとき,なんで毛利や長宗我部は上京して,織田を早めに潰そうと思わなかったんですか?
【回答】
*時間的な問題
*経済的な問題
があったから.
まず時間的な事だが,毛利や長宗我部はあの当時は,自分の足元がやっと固まりそうな段階であって,信長へはとても手出しできなかったし,あそこらへんの兵隊は農民兵や中小豪族がメインなので,彼らが暇な農閑期でないと兵隊が動員できなかった.
つまり,春になるとまた帰らないいけないのよ.
武田信玄が上洛しようとしたのが冬なのも,刈り入れが終わって一息ついたときね.
京都に行けても長期駐留なんて無理.
だから本願寺と信長が対決してるときでさえ,毛利は本願寺に兵糧入れるだけで,あとは秀吉相手に短期的に少し兵隊を出した程度.
あと経済的な問題で言うと,毛利も長宗我部もあくまで農業主体で,経済力が格段と違ってた.
今も昔も戦争にはカネがかかり,大軍の動員となると結構な負担になる.
織田みたいにカネで兵隊・装備を集めてるところはいいが,普通の戦国大名は兵農分離がまだ出来て無いので,中小の豪族に人的・物的な依存をするしかなく,豪族さんたちの意向がモノを言った.
豪族さんたちからすれば,略奪なりで「出稼ぎ」出来る周辺国の合戦と違い,京都に上洛したところで収入が増えるわけでもない.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
信長はなんで比叡山と対立したの?
【回答】
比叡山は何より,神人(寺の配下だが,出家せず俗事≒商売などに関わる人)が増えすぎたのよ.
鴨川沿いの,よく氾濫するから恒久的な建物が建てられない低地に開かれた市場が,比叡山の管轄になってしまってから,そこと連絡する水運業者(特に琵琶湖)やら酒造やら工人やら芸術家やらが,全部神人になってしまった.
信長と当初対立したのも寺の僧たちじゃなく,神人たちだったと言われ.
信長は当初,比叡山に
「お前んとこの配下の商人が,俺の敵にばっかり武器兵糧売ってるんだけど,あれ止めてくんない?
こっちに付けとはいわんけど,せめて中立希望」
って書状を送ってる.
六角や朝倉などは神人たちにとっては長年のお得意様なんで,信長と対立するのは当然なんだけど.
神人と寺の上層は,よく戦争行為に及んでたぐらい中では対立してたが,外からお家の中のことに口出されるのは何とやらで,秒速で信長の使者を追い返した.
中世をカオスたらしてめてた発想に,子分の窮地を助けてやれないような親分は,親分のある資格が無いってものがあって.
例えば比叡山なら神人の座が,一向宗なら一向宗の看板かけた名主や土豪が,武士階層なら領地の村が,勝手にどこかと始めた戦争で,「助けてください」と言われたら助けないと,配下ことごとくに離反される.
おかげで村の水利権を巡る争いが,数万国を所有する大豪族の殴り合いになったりすることもまま.
漫画板,2014/11/01(土)
青文字:加筆改修部分
【質問】
伊勢長嶋や比叡山の連中は自業自得じゃね?
あの時代の比叡山は,対立する他の寺院をいくつも焼いたり,何度も騒乱を起こしたり,上納金を納めないカタギの工房を破壊したりと,暴力集団もいいとこだったんだし.
【回答】
寺社が好き勝手できたのは鎌倉時代まで.
室町時代は幕府が相当神経使って,寺社の権威と力を削ってた.
戦国時代には,寺社の勢力も権威も大幅に落ちてた.
比叡山の坊主が騒いでも,当時の天皇に
「もう時代が変わったんだから諦めろよ」
なんて言われてる.
戦国時代に信長と対立した寺社勢力は,その寺社勢力を背景にしてる商人や小領主,村などが信長と対立して,立場上,上層部が下部のやってることを追認,信長と対立…って流れ.
・比叡山の傘下の琵琶湖水運業者が,付き合いの古い朝倉や六角にばかり商品を売る;「一見さん(信長)お断り」
↓
・信長さんから比叡山へお手紙;「お前の所の傘下の商人に,味方になれとは言わんから,中立でこっちにも商品売って」
↓
・比叡山の坊主;「俺らの身内のやることに口を挟まないでもらおうか」(ギャングの親分のノリ)
↓
・信長「分かった,お前らを殴るしか無いようだ」
なお,世俗領主化しすぎてた比叡山には,下っ端を簡単に見捨てるという選択肢は初めから無いのです.
要するにギャングとかマフィアとかヤクザなので,舐められたら終わりだし,「この勢力,俺達を守ってくれねー」と思われたら下っ端が集団で他所の保護を受けに逃げ出しますので.
一向宗と信長の殴り合いも,寺の保護を受けた小勢力が,勝手に信長と喧嘩始めて,みんなで巻き込まれていく流れ.
このように,小さいイザコザが,大名同士領主同士の戦に発展するのが日常茶飯事なのが戦国時代.
なので戦国大名は,私闘の禁止と大名による仲裁を徹底させる事に苦心したんだな.
その最大規模のものが,秀吉の刀狩りと総撫事令.
一度修羅の国に落ちると,それを法治国家に戻すのは大変というお話.
漫画板,2015/07/29(水)
青文字:加筆改修部分
【質問】
鎌倉後期以降は,寺社や貴族に代わって,商業とそれに携わる人間の勢力が台頭したが,その割には彼らが権力中枢に食い込むのが戦国末期まで掛かってるのは何でかね?
【回答】
商業とそれに関わる人が,戦国時代に至るまでずっと寺社の内部の人だったから.
要は寺社の内部で商業とそれに関わる人が,上の言うことを全然聞かなくなって,むしろ上がケツふきに奔走するようなことになったのが戦国時代.
また,戦国時代になると寺社と関係なく,むしろ地域の武家をパトロンにして商工業をする人たちも増えた.
延暦寺配下の商人たちが信長に反感もったのも,信長は信長で配下に商工業者を持っていて,その人達と延暦寺の配下の商工業者がライバル関係にあったっていうのがある.
後,瀬戸内を基点として,日本各地に広がっていった海運業の勃興も,結構関係ありそうな気もするね.
平家が始めて,源氏に粉砕された後も,海運業自体はどんどん伸びてたわけだし,基本的に陸の理屈が通じない場所で銭儲けの機会がどんどん増えれば,おのずから政治勢力としては新興勢力が台頭するわけで.
漫画板,2015/07/29(水)
青文字:加筆改修部分
【質問】
織田信長は伊勢・長島や越前では降伏を許さず,一向宗の信徒を皆殺しにしましたが,一向宗の本拠地である石山本願寺は降伏を許しました.
この違いは何故でしょうか?
【回答】
まず,一向宗=殲滅されるべき対象,という構図にこだわるべきでない,という神田千里氏の指摘は重要と思います.
伊勢長島や越前の一揆は,信長の統治に武力で反抗した者たちで,彼らの掃討には他の宗徒への見せしめの意味も強かったと思います.
一方で石山本願寺・顕如光佐に関しては,武力による掃討よりも,交渉による決着を信長が選択した,という政治的な意味合いが強いように思います.
全一向宗を掃討するのは絶大な困難が伴いますので,教団を利用した統制を狙ったのではないでしょうか.
後,本拠地である要害石山に籠もっていられてこそ,各地で信徒を煽れたわけで,石山を失う以上,下手な動きは出来なくなります.
そうすると,殲滅する必要も無くなります.
顕如光佐にしても,秀吉には服従を貫いて宗教統制に協力しています.
また,広大な寺内町も付随していたので,石山本願寺を丸ごと接収することも狙ったものと思われます.
日本史板
青文字:加筆改修部分
【質問】
織田信長はなぜ平氏を名乗ったのか?
征夷大将軍になるのを諦めたということか?
【回答】
織田信長が平氏を名乗ったのは,当時「源平交代説」があったので,
それを踏まえての事.
清盛政権(平氏)
↓
鎌倉幕府将軍家(源氏)
↓
鎌倉幕府執権北条氏(平氏)
↓
室町幕府将軍足利氏(源氏)
・・・と政権交代してきたので,それを踏まえての事.
織田信長が征夷大将軍の宣下を受ける可能性は,十分にあった.
【質問】
織田信成って誰?
【回答】
織田信成(のぶなり)(生年不詳~1574/10/13)は,織田信長の従兄弟で,織田信光の長男.
妻は織田信秀の七女・小幡殿.
1555年に父・信光が殺害された後は信長に従い、小幡城主となる。
1571年の第一次長島攻めや1573年の槙島攻め、浅井・朝倉攻めに従軍。
1574年9月29日、第二次長島攻めの終盤、追い詰められた一揆側の捨て身の攻撃を受け、戦死した。
【参考ページ】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E6%88%90_(%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%AD%A6%E5%B0%86)
【ぐんじさんぎょう】, 2014/03/04 20:00
を加筆改修
【質問】
織田信長は,嫡男への扱いはどうだったの?
【回答】
信長の信忠への扱いは過保護過干渉.
もう基本,親バカの域.
「無理するなー木っ端武者みたいに功名焦って無茶するなー」な命令が幾つも残ってるし,
(自分は40代になっても,本願寺との戦闘で囲まれた光秀の救援に,1/4ぐらいの兵力で先頭切って突っ込んで,かなりの怪我してたりするのに)
こう育って欲しいってことで,本当に細かすぎることまで注文が多い.
でも信忠は自分の軍団が揃ってくるにつれ,
「俺には俺のやり方があるんだ」
と反抗するようにもなっていた.
それが決定的になったのが甲斐侵攻戦で,信長は先陣の信忠に,軍を増やすため,というより信忠を止めるために滝川一益までつけて,
「(信長)本隊来るまで焦るな,無茶するな」
を徹底させようとしたのに,信忠は
「もう攻略準備は終わってる,ガンガン行こうぜ」
と命令ぶっちぎって攻めまくり,1ヶ月で勝頼自刃.
信長がまだ美濃も出てない頃に「戦争終わりました」.
これに信長は怒るどころか,
「信忠がやってくれた! これで織田家も安心じゃ!」
と狂喜乱舞して,信忠と信忠に協力して力攻めに参加した武将を大幅加増した後,
「天下の儀も御与奪なさるべき旨仰せらる」
と,本格的な政権移譲のための準備に入った.
そこで本能寺.
城介が別心か=信忠の反乱か,という証言自体があまり信用性がないというが,本心なら,
「あれ?信忠に下手に領地与え過ぎちゃったかな? ここで攻められると俺隠居するっきゃねえや」
ぐらいじゃないかと.
すでに信忠軍団は織田家家臣の軍団長,例えば秀吉と光秀が手を結んでフル戦力で殴りかかってきても,全然兵数が違うぐらい圧倒的な量になっていた.
漫画板,2014/11/01(土)
青文字:加筆改修部分
【質問】
織田信忠は,なぜ自決したの?
【回答】
信忠が死んだのは,
「明智ほどのものが反逆したのなら,自分(信忠)を逃がすようなポカをしてるはずがない.
逃げる途中で捕まって落ち武者のように死ぬなら,城を枕に死にたい」
という理由.
実際に光秀は信長と信忠のほぼ同時攻撃を意図していたから,信忠の逃げる暇など無いどころか一緒に囲まれていたはずだった.
ところが,この時代の軍ではよくある話で,明智の別働隊が道に迷ってしまって…という塩梅.
信忠の城からは何人か逃げ出したわけだけど,それすら信忠自身が贄にならなかったら逃げ切れたかどうか?という部分もある.
後知恵で最善手は,信忠が「明智の別働隊が遅れる可能性にかけて」,身代わりを城に立てて,あまり多くない兵でひたすら逃げることだろうが,それは流石に…
漫画板,2014/11/01(土)
青文字:加筆改修部分
【質問】
織田信雄の子孫はどうなったのか?
【回答】
上州甘楽郡小幡は,家康の関東入城に際して,奥平信昌が三万石で封ぜられ,信昌の美濃加納転封後,水野忠清が一万石で入封します.
水野家は大阪の陣後,三河刈谷に転封し,永井直勝が一万七千石で入封し,直ぐに常陸笠間に転封.
代わって,織田信長の次男信雄の所領となり,その四男信良が,信雄の領地のうち,上野甘楽,多胡,碓氷の三郡,二万石を分与されて入封します.
信雄は家康と同じように,尾張清洲から奥州への転封を拒み,除封されてしまいます.
その後,関ヶ原では西軍に加わりますが,西軍の情報を家康に知らせた功を以て,大和と上野などに五万石で国主格を家康から与えられることになった訳.
国主格ならば,官位は四位まで上がることが出来ますし,席次は大広間詰めで島津,細川,浅野並み.
この時,信良は陸奥福島に仮陣屋を置きますが,直ぐに卒去.
その子信昌は1歳で封土を継ぎ,この地に陣屋を移し,叔父高長を後見に藩政の基礎を築きます.
しかし四年後に信雄が没して,その五男高長が信雄のもう一つの領地である大和宇陀郡松山三万石を領すことになって,話はややこしくなります.
長幼の序を守るならば,信雄の本家は四男信良の系統,つまり,上野の方になります.
ところが,既に信良は此の世に亡く,ならば,と言う訳で,五男高長の方が,信雄の本家と言い立てたのです.
何か,本能寺の変での親父の行動そっくりと言うか,血は争えないと言うか….
結局,一年の争いの末,幕府の裁定によって高長の方に凱歌が上がり,織田信雄流本家は大和松山の方になりました.
その後,若くして信昌が死去し,跡目は「本家」高長の四男信久が養子となって,彼によって藩政改革と農業生産方法の改善が進みます.
信久の後は四男信就が継ぎ,彼は館林城番などを行い,上野織田家の最盛期を築き,四男信右が18歳で跡目を継いだのですが,彼の代は病弱だったので,信就の子供が信富として跡を襲います.
しかし,それも束の間,信富は直ぐに死去したため,高家の織田信栄(高長の系統で,高長の次男で大和松山二代長頼から三千石を分与された長政に端を発する)の四男信邦が襲封します.
ところがこの頃,収入の二倍の支出と言う財政難状態で,藩政改革のため,山県大弐門下の吉田玄蕃を登用しますが,この山県大弐が,当時の反政府思想である尊皇攘夷を吹聴したので,吉田玄蕃の立場が家中で危うくなり,玄蕃は山県大弐との高誼を絶ちますが,讒訴する者がいて,信邦は吉田玄蕃に処分を申し渡します.
しかし,この処分が重大事件にも関わらず,幕府への届け出を行っていなかったとして問題となり,遂には信邦に蟄居の沙汰が下り,急遽,信栄の五男信浮が跡を継ぎますが,幕府の怒りは解けず,結局,出羽高畠に転封を命じられ,出羽屋代郷の一部四千六百石,村山郡に一万二千石,陸奥信夫郡内に三千四百石と領地は飛び飛び,しかも,家格も国持大名格から諸大夫格への格下げとなってしまい,実家である高家の織田氏も普通の旗本に格下げされてしまいました.
その跡を継いだのがその子供の信美ですが,彼は飛び飛びになっている領地を交換で一纏めにし,陸奥信夫郡の領地を村山郡内一万五千石とすることに成功します.
また,陣屋も交通至便な出羽村山郡天童に置いて代官支配としますが,後に居所も天童に移すことを願い出て認められ,以後,織田家は天童に陣屋を設けて,明治を迎えます.
此の間,その子信学の代には出羽置賜郡内に有していた領地を上知され,二万石を天童周辺に集約することになりますが,財政難は益々深刻化し,紅花の専売制や将棋の駒の製造などを行ったりしています.
その他に効果があったのが,豪商からの献金ですが,これの引き替えに渡されたのが,狂歌の著名な作者だった家老吉田専左衛門の交際相手で,浮世絵で有名な安藤広重に描いて貰った肉筆画だったそうです.
献金をした相手に対し,安藤広重に依頼して額に応じた肉筆画を渡したと言うものですが,安藤広重と言えば浮世絵版画の大家ですから,その肉筆画と言うことで,当時でも大変珍重され,30年に渡って天童織田家の屋台骨を結構支えてくれたそうな.
明治維新の際には,信学は病気で隠居し,息子信敏の時代ですが,戊申の役では奥州鎮撫使先導となり,官軍方として出羽庄内酒井家を攻めたものの,反撃を受けて敢えなく陥落.
その後,庄内酒井家に与して奥羽列藩同盟に加入して,官軍と戦うも再び敗北し,藩主蟄居と二千石の減封と言う処分が下りました.
結局,先祖の功で子爵にはなりましたけどね.
その後,信敏の跡には相馬事件で有名な奥州相馬家から養子を迎え,斎藤実内閣の時には農林政務次官を勤めたり,NHKの理事にもなったりしています.
てことで,四男の方はこんな感じですが,五男の高長の系統も波乱の生涯を迎えることになります.
やっぱり,血ですかねぇ.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年04月07日22:41
一方,信雄の五男の系譜ですが,四男系統の信昌と争って織田信雄本家となった高長が,継いだのが大和宇陀郡松山三万石.
此処は元々福島正則の弟,高晴が伊勢長島から入封したのが最初でしたが,横暴な振る舞いも多く,度々家臣から訴えが出ていました.
幕府はそれを或程度放置していましたが,1615年に駿府に於てその地の奉行に断り無く,こうした訴人を捕えたことを咎められ,本人は伊勢山田に蟄居,領地没収となりました.
その後に入ったのが,織田信雄です.
彼には大和と上野に五万石が与えられましたが,本人は京都に住んでおり,この領地には重臣の生駒範親が入りました.
その後,上野小幡二万石は四男に与えられることになりますが,分家,本家争いをしたのは上述のとおり.
さて,この高長と言う人.
信雄が所領を没収された後は,加賀前田家に寄宿し,大坂冬の陣では利常の陣で活躍します.
そして,この時期に抱えたのが加賀衆でした.
高長が没すると次男の長頼が跡を継ぎますが,弟長政に三千石を分与したため,所領は二万七千石となりました.
ちなみに長政は幕府旗本となり,高家に列せられますが,明和事件で小幡織田家の迸りを受けて,落っことされたのは既述の通り.
長頼が没すると,その子信武が跡を継ぎます.
ところがこの頃になると,信雄の家臣として代々地位を保ってきた譜代重臣の生駒,田中家と,高長に従ってきた加賀衆との対立が表面化します.
信武はその収拾に苦しんだ挙げ句,遂に1694年,彼は重臣の生駒三左衞門,田中五郎兵衛等,家老2名とその一門を成敗して,自らも自刃すると言う凄惨な死を遂げます.
これが「宇陀崩れ」と呼ばれた事件で,翌年,家督を継いだ息子の信休には,幕閣から沙汰が下り,信休の領地は大和から遠く丹波氷上の柏原に移され,所領も二万石に減封されてしまいました.
柏原は,元々織田信長の弟で四男の信包が伊勢安濃津から秀吉によって三万六千石を拝領し,幕府に安堵された土地でしたが,三代で嫡嗣無く,収公されていた土地でした.
入封の後,信休は直ぐに藩校を設けて文教政策に力を入れ,人の育成に力を注ぎます.
信休が没すると,その子信朝が二代となります.
この頃から柏原織田家は窮乏し始め,藩札を濫発することで,一息入れる様になります.
若くして信朝が卒去すると,今度は信休の三男信旧が兄の養子となって跡を継ぎます.
彼は,吉宗の倹約政策を真似したり,町火消などの整備に力を入れました.
そして,跡を継いだのが,高家の織田家から養子に入った信憑です.
経済は困窮し,しかし,改革は上手く行かず,遂には農民暴動が頻発する様になります.
そんな時,跡を継いだのが信憑の息子,信守です.
先々代の信旧は,信憑を養子にしますが,その後に実子の信応が生まれます.
当然,跡目は信応の方にすべきだったのですが,直前で信応が卒去したので,彼に跡目の座が転がり込んで来た訳です.
彼は,政治に見向きもせず,公費を濫用したり,愛妾を政務に就かせるなと遣りたい放題.
また,信応の子信古がいるにも関わらず,その信古を廃嫡して自分の子を跡目にしようと画策するなど,暗君と言われる典型の様な人で,結果的に家臣が幕閣に訴え,強制的な隠居となりました.
そんなこんなで,跡を継いだ信古ですが,隠居した信守は,隠居で気楽だから江戸で生活したいと言い出します.
しかし,彼を江戸で生活させたりしたら,家の費えが幾らあっても足りない,此処は側室の保野を江戸から呼び寄せるから,それで我慢してくれ,と言う話になって,一端纏まり掛けました.
ところが保野の下女がこれを誤解し,信守と保野が柏原に幽閉されようとしている,と,幕閣に訴え出たからさあ大変.
誤解を解こうと,あちこち走り回り,最終的に誤解は解けた訳ですが,幕閣の裁決は,信守に遠慮,信古は逼塞を命じ,結局,信古も巻き添えを食って隠居となりました.
その跡目は,信守の思惑通り?彼の長男信貞が養子となって跡を継ぎますが,子宝に恵まれず,肥後宇土細川家から養子を迎え,信敬としますが,彼は藩校を作っただけで,若くして卒去し,今度は筑前秋月黒田家から養子を迎えて,信民としますが,彼も教育制度を整えただけで,これまた卒去してしまいます.
最後の藩主は,備中成羽山崎家から次男を養子に迎えた信親で,彼は維新の激動の時代,藩論を勤皇に統一し,官軍に出兵,鳥羽伏見の戦では,官軍方として参戦し,戦死者120名を出しました.
二万石の家としては,結構な損害.
戦後は子爵となり,宮内庁に出仕しています.
ちなみに彼が死んだのは,1927年で78歳まで生きました.
こっちも結構,激動の系譜ですねぇ.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年04月08日21:35
▼ ちなみに,スケーター・織田信成も信長の子孫を自称しているが,先祖4代くらい途中が分からないため,本当にそうなのかは不明.
織田信長
- 2代織田信高(七男)
- 3代織田高重
- 4代織田一之
- 5代織田信門
- 6代織田信倉(養子)
- 7代織田信直(養子)←←← 大和宇陀松山藩主織田高長の孫(信雄の系統)
- 8代織田長孺
- 9代織田長裕
- 10代織田信真(1842~?) ←←←明治維新後,写真師になって,その後消息不明
- (11代から14代は不明)←←← 親戚に迷惑をかけるから,16代信義氏が製作配布した家系図では4代不明となる(週刊新潮の記事より)
- 15代織田重治(1917~1995?)
- 16代織田信義
- 17代信成(次男)
また,こういうネタもある.
>●織田母がTV番組出演時に語ったエピソード
>「嫁に来て間もない頃に桔梗の花を飾ったところ姑に叱られた.」
>「桔梗は明智の家紋だから,織田家では桔梗をいけるのはご法度ご法度なのです」
>⇒旧丹波柏原藩織田家(元大名家)の当主である
>織田孝一氏(本名は織田信孝,フリージャーナリスト)によるコメント抜粋.
>「家には(桔梗ご法度の)習慣はないです」 「彼は誰なのでしょうね」
他にもいろいろあるらしいんだ.
スケート板に専用スレッドあるから,そこで聞いてくれ.
上記もそこからコピペしてきた.
漫画板,2010/12/24(金)
青文字:加筆改修部分
▲
【質問】
「コレトー」って何?
【回答】
明智光秀が賜った姓(かばね).
天正三年(1575年)六月,当時の天皇が,正四位弾正忠だった信長に,
「ふさわしい官位に任官してくれ」
と頼んだが信長が辞退.
その代わりに家臣少なくとも8名が,任官または名族の氏を貰っている.
松井友閑 宮内卿法印(正四位下)
武井夕庵 二位法印
明智光秀 惟任日向守(賜姓・叙任)
梁田広正 別喜右近
丹羽長秀 惟住(賜姓)
村井貞勝 長門守(叙任)
塙直政 原田備中守(賜姓・叙任)
羽柴秀吉 筑前守
また,これと前後して滝川一益が一時伊予守を名乗っているので,同時に叙任した9人目だとする説がある.
その後も朝廷からの叙任依頼は続き, 同年11月に信長自身が権大納言(正三位)兼右近衛大将(従三位).
なお,当時の織田軍団でトップ2の戦力持ちだった柴田・佐久間が入ってないのは,両名ともすでに任官済みだったから.
漫画板,2015/09/03(木)
青文字:加筆改修部分
【質問】
「信長公記」執筆者,太田牛一はどのような人物だったのか?
【回答】
ものすごいメモ魔だったそうです.
で,そのメモをカードのように保存して,それを元に『信長公記』を書いたそうなんですね.
この記録の詳しい制作過程は,藤本氏の著書『信長の戦争―『信長公記』に見る戦国軍事学―』(講談社学術文庫,2003.1)で論じられていますが,そういうわけでして,桶狭間の信憑性が疑われる要素は特にないそうです.
もともと,貴族が日記をまめに書いておりまして,それがその家のかけがえのない財産になったりして,朝廷や幕府に罰せられるときに,所領や官職とともに,日記も没収されている例もございます.
それがこの時代くらいから,武士もまめに日記や記録を残し始めるんですね.
牛一以外では,徳川家康の家臣松平家忠が書いた『家忠日記』というのもあります(最古の将棋の指図が記されている日記).
なお,太田牛一は,特に信長を美化していません.
信長の判断ミスや,伊勢長島一向一揆の鎮圧に際して,一揆製をだまし,裏切って皆殺しにしたこともすべて正直に記しています.
牛一は後に秀吉の家臣となったので,特に信長におもねる必要がなかったからだと思いますが,そういう公平性の意味でも『信長公記』が第1級の史料とされています.
「はむはむの煩悩」,2007年6月22日 (金) 21:48~21:58
青文字:加筆改修部分
▼>伊勢長島一向一揆の鎮圧に際して,一揆製をだまし
一揆が何か作ったみたいになってます.
部外者 in FAQ BBS
青文字:加筆改修部分
「さて,本日のジャパネットたかたが自信をもってお勧めするのが,この商品!
一揆製ですから,大変お求め易くなっております」▲
【質問】
前田玄以(げんい)について教えてください.
【回答】
1539-1602.
安土桃山の武将.
民部卿法印・徳善院・半夢斎とも称す.
比叡山の僧から織田信長の臣になったと言われる.
1582年,本能寺の変で信忠が二条城に囲まれた時,信忠の子三宝師を連れ清洲に逃れる.
織田信雄から京都政治を任され,賤ヶ岳の戦いの後は秀吉に重用され,京都奉行.
1585年,丹波亀山の城主で5万石.
1598年,五奉行となる.
関が原では西軍の属しながらも,東軍に通じ,戦後も所領を安堵された.
日本史板,2002/12/07
青文字:加筆改修部分