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「D.B.E. 三二型」(2011/02/16)◆信玄軍が使った?戦国の弓初出土…小田原城跡
【質問】
武田信玄(たけだしんげん)って誰?
【回答】
武田信玄(1521~1573)は,甲斐源氏嫡流,武田家の戦国武将.
父親の信虎を駿河に追放し,自らが国主となった後,甲州法度制定,金山開発,治水,税制改革など,民政に力を注ぐ一方,諏訪,村上,小笠原等の豪族勢力を駆遂して信濃を制圧.
越後の長尾影虎(上杉謙信)と対峙して,5度にわたって川中島の戦いを繰り返すなどする傍ら,義元亡き後の今川を滅ぼして駿河に進出.
さらに三方ヶ原の戦いで徳川家康を破るが,病を得て倒れ,甲斐に帰国の途中,信州下伊奈の駒場にて死去した(享年53),
【質問】
これまで武田信玄とされてきた,長谷川等伯筆の肖像画は,実は信玄のものではないというのは本当か?
【回答】
河合敦によれば,賛否あって決着を見ていないという.
例えば藤本正行は,
・この肖像画が信玄を描いたものだという確かな史料はないこと
・太刀の目釘や笄(こうがい)の家紋が「二つ引両(ひきりょう)」であること
・長谷川等伯は戦国時代には能登で活躍していたこと
から,能登畠山一族のものではないかとしている.
しかし,信玄説を唱える人々も少なくないという.
詳しくは,河合敦著『なぜ偉人たちは教科書から消えたのか』(光文社,2006/6/30),p.60-62を参照されたし.
【質問】
武田信虎追放は信玄主導だったのか?
【回答】
河合敦によれば,板垣信方・飯富虎昌ら武田家重臣主導の反乱だったという見方が強くなっているという.
甲斐は国人(重臣)層の自立性が非常に強く,信虎が集権化を推進すると共に,周辺諸国との大きな合戦を繰り返したため,国人層の反発を受けたのだという.
事実,後を継いだ信玄は,投書奨励によって家中の不満を和らげようとすると共に,多数の間諜を領内に放ち,重臣反乱を察知できるようにしていた.
詳しくは,河合敦著『なぜ偉人たちは教科書から消えたのか』(光文社,2006/6/30),p.63-65を参照されたし.
【質問】
武田信玄は『人は石垣,人は城』の言葉通り,城塞を活用しなかったのか?
【回答】
「武田信玄は城なんてものには頼らなかった.『人は石垣,人は城』と言って,有能で忠実な家臣団に守られた偉大な武将であった.
偉大な父と比べて,新府城なんてものを造った勝頼はアフォである」
という俗説がある.
この俗説が生まれたのにはいくつかの理由があるであろうが,一つには,信玄が城に居住せず,甲府の躑躅ヶ崎館という普通の邸宅に住んでいた事実が挙げられよう.
しかし躑躅ヶ崎館は,京都の室町御所を模した守護の館であるが,近年の発掘調査によれば,武田流の当時としては最新の築城技術が存分に使われていたそうである.
複数の郭に分割され,深い堀に囲まれた堅固な要塞であった.
そもそも京都の将軍御所だって,以前述べたように,戦国期には城塞化していたのである.
しかも後背には要害山を控え,いざと言うときにはこの要害に籠城することが可能であった.
これは,朝倉氏の越前一乗谷など,初期の戦国大名には比較的一般的に見られる防御形態である.
躑躅ヶ崎館以外にも,甲斐には城や砦が無数に設置され,網の目のように張り巡らされた狼煙台ネットワークによって情報が迅速に伝達されていた.
言わば,甲斐国自体が巨大な要塞のようであった.
領国拡張のための侵攻の際にも,海津城など,信玄は城を存分に活用した.
駿河を占領したときは,清水に江尻城を築城するなど,占領地の支配&さらなる侵攻の前進基地として,城は有効に活用された.
はるか後年,武田氏が滅亡し,徳川氏が天下を獲った後,大坂の陣に際して,真田幸村は大坂城のいちばん防御の弱い地点に「真田丸」と呼ばれる武田流の出丸を築き,徳川軍を大いに苦しめたという.
実際は,武田信玄もまた城をほかの戦国大名並みに活用した.
否,もっとも城を有効に利用した部類に入る武将と言っても過言ではない.
ほかにも,
「武田軍は自軍の誇る騎馬隊に絶対の自信を持っていたので,鉄砲の有効性を軽視し,そのため長篠の戦いで織田・徳川連合軍に敗北した」
という俗説もあるが,実際には,武田の鉄砲隊は北条や上杉と比較してもかなり多くて充実していたし,そもそも騎馬隊などというものは存在しなかったのである.
武田は,結局は敗北して滅んでしまった歴史の敗者なので,いろいろ俗説が生まれやすいのであろうが,できる限り偏見を排して事実を探求して行くべきだと思う.
はむはむ
武田旧臣が徳川家に取り込まれたのが,「武田神話」成立の一因と言われていますね.
小幡景憲の『甲陽軍鑑』もその1つなわけで……
(もっとも近年は,黒田日出男氏が『甲陽軍鑑』の史料的性格の再検討を進めていますが)
武田旧臣(武川衆)である柳沢氏から出た柳沢吉保も,自分が甲府藩主になったこともあって,信玄の神格化を推し進めたようです.
武田勝頼が築城した新府城についても,近年,発掘調査の成果等に基づき,学界において再評価が進んでいます(山梨県韮崎市教育委員会編『新府城と武田勝頼』新人物往来社).
御座候 | 2007年10月 8日 (月) 18:48
甲府城跡
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「はむはむの煩悩」,2007年10月 8日 (月)
青文字:加筆改修部分
【質問】
高坂昌信とは?
【回答】
武田信玄,武田勝頼の2代に仕えた戦国武将で,武田四名臣の一人に数えられます.
小岩岳城攻略戦では一番乗りの功績を挙げ,第4次川中島の戦いでは,妻女山攻撃の別働隊として戦功を挙げ,他にも三方ヶ原の戦いなど武田氏の主だった戦いに参戦していますが,長篠の戦の折には海津城の城代として,越後方面の守備に当たっていました.
ちなみに信玄が昌信に送ったラブレター(というか,浮気の弁明状)が現存していることでも知られています.
▼「ごめんなさい.
ほんの出来心だったんです.
だって向こうが誘惑してくるんだもん.
でも本気じゃないです.
たしかに浮気はしたけど,本気じゃないです.
浮気したのは体だけ,体だけだから.
僕の心は貴方だけのものです.
本当にごめんなさい.
許してください.
愛してる」
以上,信玄さんの詫び状意訳.
登場人物は全員男ってのが,なんともアレ.
漫画板,2009/07/05(日)
青文字:加筆改修部分
▲
【質問】
山本勘助は実在した人物なの?
【回答】
昭和44年に発見された市川文書によって,山本勘助(山本管助)の実在は確認された,と考える人は多い。
・信玄の名代として出向いてるので,それなりの地位にいた武将だったという説,
・後世の甲陽軍鑑によって過大に喧伝されただけで,並みの武将だったという説,
・いや,諜報謀略が主任務だったので,表立っての記録が残されにくい立場だったという説,
・いやいや,当時の武田家は譜代の合議制だったので,余所者の山本勘助には発言権はなかったという説,
・いやいやいや,当時の軍師は吉凶を占う陰陽師的な側面があり,アドバイザー的な立場で影響力があったという説,
いろいろあるようだが。
架空人物説を説く奥野高広を除けば,管見では,「市河文書」の「山本管助」=「山本勘助」にはっきりと疑義をはさんでいるのは,笹本正治だけ。
あとは殆どが,「市河文書」で山本勘助実在!と大して検証もせずに決めつけてしまっている。
たぶん,「市河文書」に出てくる山本管助は軍師山本勘助のモデルだろう。それはいい。
甲斐武田家臣に山本一族がいたこともほぼ確実だ。
だが現在のところ,実在が確認されているのは山本管助であって,山本勘助ではない。※
ここははっきりすべきであろう。
当の山本管助は,弘治年間と推定される「市河文書」の中に登場したきり,その消息は知れない。
日本史板,2004/11/07
青文字:加筆改修部分
実在したと言われる勘助は軍師ではなく,足軽大将だったんだと考えられている.
「勘助=名軍師」という俗説ができたのは江戸期.
家康は,武田遺臣を召抱えたり信玄の真似をしたりと信玄贔屓だったからそういう武田マンセー土壌が出来ていたんだな.
が,明治になったら「甲州流兵法はウソっぱち」となり勘助は否定され,そのあおりで勘助の存在自体も否定視されるようになった.
【参考サイト】
http://www.asahi-net.or.jp/~jt7t-imfk/taiandir/x105.html
※
ただ,当時は通称は当て字が当たり前だったため,大方の研究者は「管助」「勘助」の文字の違いには問題を感じていません.
現代の日本では発音が同一でも文字が異なれば別人と考えてよいのですが,明治以前にはそうではありませんでした.
ことに字(あざな)=通称の場合発音さえあっていれば,あとはどの字を当ててもオーケーでした.(諱(いみな)の場合はどの文字を使うか重視されますが)
おそらく私が長々と書くより「武士の名前」でgoogle検索してみていただくのが早いと思います)
それを承知した上で市川文書の「山本管助」との記述に疑念を呈しているのが本項目の
「だが現在のところ,実在が確認されているのは山本管助であって,山本勘助ではない」
との記載のあるリンク先であり,それに対して大方の研究者は,それはおかしいことでも何でもないと考えています.
【質問】
武田軍の標準的な編成は?
【回答】
武田軍陣立図屏風というものがあります.
それを見ると,まず左右に鉄砲隊(ただし戦国後期と違い弓矢をもつ足軽との混成部隊),続いて中央に三間(約6メートル)の長槍,二間の短い槍ときて,最後に徒歩武者,騎馬武者と他の戦国大名と同じような部隊の編成です.
更にまた鉄砲,長槍,槍,徒歩組,騎馬武者ときて総大将武田信玄,その後ろに馬周り集や近衆などの側近という編成です.
また武田軍は,印地打ちという石を投げる足軽が活躍しました.
ちなみに騎馬武者は大変手間がかかる.
馬に食べさせる食料や水の確保.馬の世話ががりが必要で,代わりの馬も必要なのです.
90式改 in FAQ BBS,2009年9月27日(日) 18時46分
青文字:加筆改修部分
【質問】
武田騎馬軍団は史実では存在しなかったって本当?
【回答】
当時の戦国大名の兵力動員の形態から考えて,なかったか,あったとしても小規模と考えたほうが自然だという.
以下引用.
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戦国時代のテレビや映画では,無敵の武田騎馬軍団等と言っているのがあります.
しかし本当は戦国の武田家には,騎馬軍団がいませんでした.
「戦国合戦本当はこうだった」(藤本正行著 洋泉社)では,戦国大名の兵士は家臣がその知行地から,騎馬武者1人,長柄鑓持ち,持ち鑓5人,弓何人,鉄砲1人,旗持ち・手明何人などと各村から農民を集めて兵士にします.
この場合騎馬武者は,多くは指揮者などの上級兵士が多かった.
当然騎馬武者だけを集めて,集団生活や訓練などは出来ません.
訓練などは知行地ごとの,いわば各村ごとにしか出来ないはずです.
当然のことながら,騎馬軍団を造れなかったわけです.
おおよそ騎馬武者一人に付き,7人~10人の歩兵が一つの基本単位となって,行動しています.
その騎馬武者の割合も,上杉家等他家と比較しても,武田家が特別高い割合でもなかったことを考えると,やはり武田騎馬軍団は存在していなかったことになります.
http://homepage3.nifty.com/k-haruaki/koborehanasi.htm
------------
▼ そして,まずは戦国時代の基本戦術単位である備が小規模な諸兵科連合であり,軍勢は十数~数十個の備によって編成されていた事を考える必要があります.
備の騎馬隊(数十騎ほど)は,それぞれの備で個々に運用されていたのです.
トビ in FAQ BBS,2009年9月16日(水) 21時7分
青文字:加筆改修部分
▲
したがって武田騎馬軍団というものは,あったとしてもそれほどたいした規模ではなかったと考えられる.
騎馬を大量に養うには,非常にコストがかかるし.
特に戦国日本式の騎馬養成は大変.
軍事板
青文字:加筆改修部分
▼ ただし,騎馬の集中運用というのが完全に無かったかと言うとそうでもない.
しかし,それはフィクションのような数百~数千の騎兵が突撃するようなものより,ずっと規模の小さい,数十騎くらい集めれば精一杯といったものだったそうだ.
100騎もいたら,凄い大規模な騎馬部隊という感覚.
でもって,そうした騎馬部隊というのは常設の物というのは少なく,戦場で臨時に余剰騎兵を集めて突撃させるような物が大抵で,その他に本陣控えの旗本,伝令役たちの十~数十騎ぐらいしか無い.
武田騎馬軍団については,今の山梨県が馬の産地ってことで,移動や輸送に馬がふんだんに使えたこと,つまり馬や騎兵に余裕があった事から言われたもの.
軍事板,2008/09/24(水)
青文字:加筆改修部分
▲
▼ 要するに,騎乗した兵士だけで常設部隊が組めるほど馬が居なかった.
と言うより,下っ端は合戦に使えるような馬なんて持ってなかった.
ヨーロッパでも騎兵というのは,ハンガリーあたりの騎馬民族が傭兵としてやっていた例がほとんど.
北東アジアから東欧あたりの騎馬民族以外には,騎兵という兵種そのものがほとんど存在しない.
中世ヨーロッパには多少居たが,騎馬突撃みたいなのは結局あまり流行らず,損害の補充が難しいと言うのもあり,結局廃れる.
ナポレオンが騎兵の栄光を復活させるが,以降は下り坂.
日本史板
青文字:加筆改修部分
▲
「武田騎馬軍団」は宣伝戦の威力もありだよ.
んで,騎馬の突撃衝力というのは,多分にイメージに支えられるところが大きい.
「あんな大きな動物が大挙してこっちに突撃してくる!」という威圧力だね.
武田家では,宣伝戦で敵方に培われた「騎馬軍団」のイメージを有効に活かすため,突撃の際には馬から下りる,ということまでやっている.
【質問】
信玄死後,武田が滅亡してしまったのは何故か?
【回答】
河合敦によれば,勝頼の領国経営の失敗だという.
甲斐は国人(重臣)層の自立性が非常に強いにも関わらず,勝頼は集権化を推進して重臣の離反を招いた.
▼また,勝頼は強引な力攻めを好み,そのために長篠の戦いで大敗を喫した.(2008.11.3削除)▲
▼さらに,武田家中の情報収集も怠ったため,重臣反乱も察知できなかったのだという.▲
詳しくは,河合敦著『なぜ偉人たちは教科書から消えたのか』(光文社,2006/6/30),p.67-68を参照されたし.
▼ ただし別項目からも垣間見えるように,勝頼愚将説は一面的なモノの見方に過ぎず,例えば
「武田軍は自軍の誇る騎馬隊に絶対の自信を持っていたので,鉄砲の有効性を軽視し,そのため長篠の戦いで織田・徳川連合軍に敗北した」
というのも俗説に過ぎない.
実際には,武田の鉄砲隊は北条や上杉と比較してもかなり多くて充実していたし,そもそも騎馬隊などというものは存在しなかった.
まあ愚将でなくとも,時代に合わない戦略をとればコケるわけで.
(名門企業がコケるときは,たいていこのパターン)
なお,河合敦については,「最新の研究成果を踏まえていない」という問題点の指摘があるので留意されたし.▲
▼ 戦国時代は結局,「この人は戦が上手くて,領土を拡大して俺たちに分け前をくれるから,この人を主君に仰ごう」というのが殆どなんですよね.
だから,いったん落ち目になってしまうと,あっという間にみんな裏切って,あっけなく滅んでしまう.
特に勝頼の場合,本来は諏訪家の人間であり,武田家の後継者とみなされていなかったのに,義信事件の結果,信玄の跡継ぎに取り立てられたという特殊事情があり,家臣から家督としての正当性を疑われていたというハンデ(彼の名はもともとは「諏訪四郎勝頼」であり,武田家に入った後も武田家の通字である「信」を名乗っていない.勝頼は嫡子信勝の家督継承までの中継ぎという位置づけ)がありました.
実際,信長の甲斐遠征の折に勝頼を裏切り,武田家滅亡を決定づけた武田一族の穴山信君(梅雪)は後に,武田勝頼が側近偏重で親族を斥けたことを批判し,自らが勝頼に代わって武田家を再興すると宣言しています.
穴山信君は,勝頼と心中する義理は自分にはなく,むしろ勝頼を裏切り勝ち馬である信長に乗ってこそ,武田家の家名を残せると判断したのであり,こうした一族のドライな割り切りが勝頼を窮地に追いやったわけです.
なお,この側近政治について河合敦氏は,
「甲斐は国人(重臣)層の自立性が非常に強いにも関わらず,勝頼は集権化を推進して重臣の離反を招いた」
と批判するわけですが,勝頼の側近であった跡部勝資と長坂釣閑斎については,信玄時代からの重臣であることが指摘されています
(平山優「武田勝頼の再評価」『新府城と武田勝頼』).
そもそも戦国最大の勝ち組である織田信長は,集権化を達成することで勢力を拡大したのであり,これに対抗するには勝頼も,集権化を進めるほかありませんでした.
「勝頼は強引な力攻めを好み,そのために長篠の戦いで大敗を喫した」
と河合氏は非難しますが,日に日に勢力を拡大する織田家と戦う時期としては,勝頼が兵を動かした天正2年はむしろ,「遅すぎる」というのが現実でした(平山優「武田勝頼の再評価」).
家臣団の反対意見に足を引っ張られて,勝頼は侵攻の時期を逸したのであり,どちらかというと集権化になかなか踏み切れなかったことが,勝頼の敗因になったと言えます.
また,長篠の戦いで大敗してから(長篠合戦での勝頼の指揮が,それほど的外れなものではなかった点は,藤本正行『信長の戦争』に指摘があります),7年も武田家が保ったことは,私の目から見れば奇跡的に思えます.
長篠合戦後,勝頼は織田・徳川の侵攻を食い止めることに成功しています.
そのこと一つとっても勝頼を凡将とは見なせないと思います.
長篠合戦以後,領土の拡大を望めなくなった勝頼は,領国内の支配に意を払い,統治の安定化を図っています.
また信玄の重農主義から,商人や職人に役を賦課する重商主義に転換し,ある程度成果を得ています(笹本正治『戦国大名の日常生活』).
信長も,遠江の要衝である高天神城を陥とした勝頼のことを,
「勝頼は信玄の軍法を守り,表裏をわきわめた武将だ.恐るべき敵である」と評価しており(「上杉家文書」),武田攻めの際にも非常な決意で臨んだ甲斐遠征が,たったの1ヶ月で完了したことに驚いています.
それから,北条氏政との同盟を破棄して上杉景勝と結んだことを問題視する声もありますが,仮に御館の乱で(北条氏から養子入りした)上杉景虎を支援し,彼が家督についた場合,北条氏の勢力が越後にまで伸びることになり,情勢が変化して北条・上杉氏が織田・徳川氏と結びついた時には,四方を敵に囲まれる事態になります(平山優「武田勝頼の再評価」).
上杉景勝と同盟を結び,労せずして上野と信濃の上杉領を景勝から譲渡されることは,勝頼がとることのできる選択肢の中では最善のものだったと思います.
勝頼は北条氏との戦いは優勢に進めており,北条氏と断交したことで勝頼が一気に苦境に立たされたわけではありません.
武田家滅亡の半年ほど前には,北条氏政に従っていた駿河の松田氏が武田方に転じており,この時点において勝頼はなお「頼りになる」存在でした(鴨川達夫『武田信玄と勝頼』).
問題はあくまで対織田・徳川だったのです.
あくまで織田信長との対決に拘り,武田家を滅亡に追いやったと批判されることも多い勝頼ですが,近年の研究では,天正7年の末以降,勝頼が信長との和睦を模索していたことが指摘されています(鴨川達夫『武田信玄と勝頼』).
信長がこの和睦要請を断固として拒絶した理由は,信玄が自分を裏切って信長包囲網に加わった恨みからと推定され,勝頼が信玄から「負の遺産」をも継承していたわけです.
信長が和睦や降伏を許さない以上,勝頼に残された道は織田氏との決戦しかないわけですが,長篠合戦の時点ですら織田氏と武田氏との戦力差は隔絶しており,合戦後はその差が更に開いていきました.
どんな名将でも,この差をひっくり返すことは無理だったと思います.
上杉氏や毛利氏にしても信長の横死に救われただけで,信長がそのまま生きていたら,滅ぼされていた公算が大でしょう.
以上の内容を要約すると,
①家督継承後,武田勝頼は内政・外交・軍事などにおいて失策らしい失策は殆どしていない.
基本的には,その時点で取り得る最善の選択をしている.
②唯一失策と言える点は,織田信長の勢力が巨大化する前に決戦を挑まなかったことだが,これもイレギュラーな形で家督を継承した勝頼が,家臣団の反対を押し切って兵を動かすことが難しかったためであり,「家臣の諫めを聞かずに暴走した」という勝頼愚将論は成り立たない.
③つまり「相手が強すぎた」だけであり,勝頼以外の人物が家督だったとしても,武田家の劣勢を覆すことは不可能であったと思われる.
更に付け加えますと,河合敦氏は,「投書奨励によって家中の不満を和らげようとすると共に,多数の間諜を領内に放ち,重臣反乱を察知できるようにしていた」賢い信玄と,「武田家中の情報収集も怠ったため,重臣反乱も察知できなかった」愚かな勝頼とを対比しているようですが,これも表面的な見方です.
信玄の「重臣反乱の事前察知」というのは,義信派のクーデターを事前に察知し,断固粛清したことを指すと思われますが,勝頼の場合はこの種の大々的なクーデター計画は存在しません.
勝頼に対する重臣の反乱というのは,要するに織田・徳川方の調略に応じて連鎖的に無血開城したということであり,これを事前に察知することは難しいですし(なお重臣の離反は勝頼の専制への反発というよりは,天正9年3月の高天神城落城による勝頼への失望が主因),仮に薄々「怪しい」と疑っていたとしても,勝頼には不満分子を鎮圧するだけの余力がありませんでした
(たとえば,長篠合戦で勝手に戦線離脱した穴山信君を処分していない).
御座候 by mail,2008年11月16日 23時29分
~2008年11月17日 12時07分
▲
【質問】
花魁淵って何?
【回答】
今の山梨県塩山にあった黒川金山に伝わる伝説.
同地には鉱山夫の他,彼らを相手にしていた遊女も住んでいたが,武田勝頼の長篠の戦での敗北の後,織田・徳川方に同金山が利用されないよう,同金山を閉山.
秘密を守るため,花魁達を川の上に吊した踊り舞台の上で舞わせ,その最中に,舞台を支えていた綱を切って皆殺しにした.
遊女55人の遺体は,下流で次々と発見されたという.
ちなみに現代では同地は,有名な心霊スポット.
【参考ページ】
http://hp.vector.co.jp/authors/VA011532/Oiran.html
http://homepage2.nifty.com/FUJIYAMA/KUROKAWA/oiran.html
http://www.bannaguro.net/oiran-buchi/oiran-buchi.html
http://soltman2.web.fc2.com/kigi2/kigi/kigi2_8/Abyss_1.html
【ぐんじさんぎょう】,2010/10/02 20:30
を加筆改修
ただしマジレスしておくと,おいらん淵での悲劇は実はなかったなんて説もあります.
実際,黒川金山の発掘調査でも,遊郭の存在は確認されとりませんがな.
http://yomi.mobi/wgate/%e3%81%8a%e3%81%84%e3%82%89%e3%82%93%e6%b7%b5/a
バルセロニスタの一人 in 「軍事板常見問題
mixi別館」,2010年04月01日 06:36
青文字:加筆改修部分
さらに追加しておきますと,花魁という言葉も江戸時代に派生したもので,戦国時代には無かった言葉です.
こう呼ばれたのは明治時代の役人が,この付近の紅葉を見て,花魁のように綺麗だという事から名づけられた,なんて説もあります.
バルセロニスタの一人 in mixi,2010年09月21日 22:53