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◆◆◆上杉氏 Ueszugi klán
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<◆戦国時代 目次 Hadakozó fejedelemségek kora (Japán) Tárgymutató
戦史FAQ目次


(山科けいすけ『SENGOKU』より引用)


 【link】

D.B.E. 三二型」:「直江状」 最古の写し公開 長浜城歴史博

朝目新聞」●上杉謙信女性説ってのがあるけどさ・・・.  (of イフカルト)

『謙信は立川に新城を造らせた』(牟田茂著,宮帯出版社,2012/10/15)

『守りの名将・上杉景勝の戦歴』(三池純正著,洋泉社新書y,(2009/5/2)


 【質問】
 上杉謙信は生涯不犯ということだが,生涯不犯というのは偉いことなのだろうか?
 それ聞いて尊敬してしまうようなものなんでしょうか?

 【回答】
 もんのすごぉ~く極論すれば,宗教の本質は『狂信』です.
 不犯と言うのは欲望を滅却すると言うより,欲望を抑えてる自分にエクスタシーを覚えている可能性も否定できない.
 食欲や性欲と言った,人間の根源に根ざす欲望を抑圧するってのは,実は別の,より大きな欲望によって小さな欲望を抑えている,または小さな欲望を抑える自分の姿に,ナルシスティックな愉悦を得てるのかもしれない.

 たとえば鼠を使った実験で,レバーを押せば脳が快感を得る物質を出す装置を作ってやると,マウスは食事を取る事を最小限に抑えてでも,快感の方を選択するそうな.
 これは,猿にオナニーを教えるのとはちょっと違う.
 オナニーは肉体の刺激による性的快感だが,ネズミの実験のものは脳に直接働きかける快感であるから.
 噛み砕いて言うと,オナニーと言う手段を使わなくても,脳が快感を受ければそれでいいのであって,麻薬と言うのは代表的な代替快感だと言える.
 脳内麻薬という言葉が一人歩きしてしまったが,ヘロインの数倍から数十倍もの快感を与える物質を,人間は自前で作れる.

 不犯の修行ってのも,実はより巨大な快感を得るための,手段と言えない事もない.

 上杉謙信のそれは,性的不能説やホモセクシャル説も言われているが,どうも彼は飯綱法という,神通力を得るための修法として女断ちをしていたらしい.
 神通力と言うとあれだが,飯綱は徹底的な現世利益を求める密教的色彩の強いもので,クダギツネと呼ばれる使い魔によって相手を呪ったりする邪法で,基本的には表沙汰にできない類いの宗教.

 狐憑きの家系と言うのは,現世利益の邪法を使って富を得た家にその反動として,狐に精神を乗っ取られた人間が出たと考えられていた.
 現世利益の狐信仰の原型となったのが,茶吉尼天の信仰なのだが,飯綱もそこから派生した.
 京都の古い神社仏閣は,実は現世利益の稲荷信仰を内包している場合が多い.
 だから,純粋な宗教的情熱とかだけで不犯と言うのは,括りきれないと個人的には思う.
 また,生涯女を近づけないけど,お稚児さんを金で買って性欲処理するのはいいのか?って問題にもなってくる.
 それは日本史板で論議するような事でもないでしょう.

日本史板,2004/02/23
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 上杉謙信は,なぜ「敵に塩を送」ったのですか?
「上杉謙信は,塩の軍事的価値を分かっておらず,所詮,戦術家であり,戦略的思考が全くできていなかったいい証拠
」という,ネットの昔の書き込みも思いだして,疑問を覚えました.
 よろしくお願いします.

 【回答】
 謙信が塩を送った時期は,信玄が北進から南進に転換した時期で,塩は越後の主要な輸出品の一つ.
 信玄はその時期に,今川からの塩は止められてる.
 利害が当たらなくなった敵に,関係改善の意思を示す上に,塩で儲けられるならwin-winじゃね?

軍事板,2011/08/14(日)
青文字:加筆改修部分

 同盟結んでるからといって,本当に心から手を結んでいて,運命共同体であるとは限らない.
 外交というのは,その時々の情勢に合わせて,付き合い方を変えるだけの話だから,上杉が本心では今川と手を結んでいる状態=今川が利益を得たり,敵が少なくなったり,力を付ける状態を望んでいるとは限らない.

 本心では武田と今川両方が戦いあい,あるいは睨みあっている状態の方が望ましく,その間に自分の利益や目的を果たしたいという目論見があるので,武田が潰れてしまうと,今川や北条に力を付けさせ,自分がのし上がる事ができなくなるので困るっていうのがあるかもしれない.
 つまるところ,表の顔では今川や北条とニコニコして握手しつつ,裏の顔では「手前らを出し抜いてやる.せいぜい味方だと思って油断してろ」と思ってても不思議ではない.

 …と,自分はそのあたりの当時の各勢力の背景や関係は詳しく無いが,だいたい上記の様な側面もあったと耳にした覚えがあるな.

 他の説としては,
「敵に塩を送るという逸話は,塩を援助したというのではなく,購入販売ルートを禁止しなかっただけで,その理由は単純な軍費調達のため」
という,もっと生々しい視点からの推測もある.

 謙信の義理堅い人物としての説を押すなら,
「戦争は戦場で決着付けるならともかく,山国に塩を断たせるとか戦場以前の問題.
 そんな卑怯なやり方には賛成できん!」
として塩を送ったっていう説がある

 当時は戦略レベルでいかに有効でも,経済制裁レベルでの兵糧攻めは,卑劣とか堂々としてないとか考える向きもあった,というか戦略と戦術の区別が曖昧だったからね.
 戦術的に誉められないやり方(ルール無視や紳士協定無視,陸戦条約違反等に相当)で,勝利を得るのと同じくらい,批難される行為であった,とする説だ,つまり.

 …この場合は謙信が義の人物であるという以前に,今川・北条のやり方が外道って考え方にもなりうる .

 今だって北朝鮮と国交は無くても,北朝鮮産の物は日本に入ってきてる.
 それと同じで,政治と商業が分離してただけって説もあるな.
 後,塩が停められている=塩の買い手,だから塩を売りつけただけって説.

軍事板,2011/08/15(月)
青文字:加筆改修部分

 【反論】
 上杉と北条が同盟していた時期は,あの故事の時期より後.
 あの故事の時期は,三国同盟が破棄されてから駿府陥落までの短い時期だけだし,そもそも謙信の優先順位は
1.兄弟は他人の始まり,越後守護代を狙う親戚が多すぎる越後の安堵
2.関東管領の職務(これは越後を安堵する権威付けのためで,別に関東を支配したいわけじゃない)
で,信玄と戦ってる理由なんて,越後安堵の緩衝地帯が欲しいだけ.
 中国にとっての北朝鮮程度の価値しかない.
 ウザイ信玄が南に向いて,なおかつ1/2の確率(徳川家康と同盟を結ぶからほぼ確実に)北条に矛先が向くと考えたら,こんなにおいしい話はないよな.

軍事板,2011/08/15(月)~08/17(水)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 上杉謙信家臣団は,「義」の戦にはちゃんとついてきたのでしょうか?

 【回答】
 微妙だな,北条高広とか大熊朝秀とか本庄繁長とか.

 家臣が義で戦ってたかというとやはりそうでもなく,実利じゃないかな.
 なんだかんだ言って,戦に勝てば金とか褒美であげてたし,下級兵士にとっては戦は略奪の場だし.強い大将についていけば「うほほー!」だったんだよね.

 義戦とはいっても,領土も増えているし.

 また,冬季に兵士を連れて関東に出陣することが,雪で閉ざされた越後の人減らしになっていたという説もある.

日本史板

▼ そもそも,上杉謙信義将だとされているのは,どんな根拠からかいなあ?とふと思う.
 多分に“野心家で自分のために戦う信玄(や信長)”と対比させるための,小説的虚像ではないかと思ったりします.
(無神論者の信長と同じように)

 大抵の場合,彼を義の人とする理由は,
・朝廷の権威や将軍家への忠誠を誓った,
・戦に破れて頼ってきた旧領主を助けてやった
などの理由であるように思います.

 ただ,足利義輝と面会したり朝廷に献納したりして自分を権威付けるのは,信長でも信玄でも,目端の利く大名なら当時誰でもやっているわけですし,敵領に侵攻するときに,地元から追っ払われた旧勢力を旗印にするもの常套手段ですよね.
 家康も駿河を巡って武田・北条とにらみ合う中で,今川氏真を保護したり,信長は毛利との戦の中で山中鹿介(=尼子)を援助したりしてます.

 まあ,上杉謙信はちょこっと欲が薄く,立ち回りの不器用な人だったかもしれませんが,別段普通の戦国大名だったんじゃないかと,最近思うわけです.
 小説的虚像としての,無視無欲な戦の天才・上杉謙信は好きですけどねー.

黒木竜 in 「軍事板常見問題 mixi支隊」
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 上杉謙信の「辞任カード」とは?

 【回答】
 小沢一郎民主党代表が,辞意を示し,それに対して民主党議員が必死で慰留に努め,結局代表の座にとどまり続けることとなった.

 この騒動に対する評価はいろいろあろうが,それはさておいて,何らかの地位に就いている有力政治家が,どこまで計算しているかは別として,辞意を漏らして周囲が説得して引き留め,結果的に求心力を強化することは,日本の政治史では比較的普遍的に見られる現象である.

 例えば,室町幕府の細川・斯波・畠山といった三管領は,しばしば辞意を表明して,そのたびに将軍が慰留したものである.
 特に6代将軍足利義教期の管領斯波義淳は,領国に下向までしようとした.

 そもそも,初代将軍足利尊氏からして,朝敵認定を受けて新田義貞の大軍が尊氏が滞在する鎌倉までひしひしと迫っている状況下で,突然出家引退を表明して寺に籠もってしまい,弟直義や高師直を大いにあわてさせている.

 おそらく尊氏は,計算などまるでしておらず,本当に引退するつもりであったのだろうが,ともかく尊氏が説得に応じてようやく出陣したときは,足利軍の士気が大いに上がり,この勢いが結局室町幕府創設へとつながったのも事実である.

 このような所謂『辞任カード』は,日本においては権力者がしばしば用いる政治戦術であり,求心力の維持や回復に一定の効果があるようである.

 しかし,今回の民主党の騒動に見るように,それは反面権力が不安定で脆弱なことも暗示しており,「諸刃の剣」のような危険性も併せ持っていることもまた事実である.

 室町幕府の管領が『辞任カード』を使用する頻度も,幕府権力の衰えとともに頻繁になっていき,遂には管領という役職自体が,応仁・文明の乱を契機として消滅してしまうのである.

 こういう話をmixiの日記でしていたら,『辞任カード』が結果的に最も有効に機能したのは,上杉謙信ではないかという話になった.

 謙信は,越後を統一していよいよこれからというときに,突然引退を宣言したのである.

 以前も述べたことがあるが,越後は国人の自立性が非常に高く,内部抗争が激しく,謙信に対してもしばしば反乱を起こしている.謙信はそれに嫌気がさして引退したくなったのである.

 何だか,個々の議員の政策の相違が大きく,旧各党派の寄り合い所帯と言われる民主党に似ていないか?

 しかし,謙信以外に越後の国政をまかせられる武将はほかにいないので,家臣たちは必死で彼を慰留し続け,ようやく2ヶ月後に謙信は辞意を撤回する.

 このとき,家臣たちは謙信に起請文を提出し,人質も差し出したそうである.

 結果的に謙信の政治力は大いに強化され,戦国時代を代表する戦国大名が誕生したのである.

 ほかの面でも,謙信と小沢氏はけっこう似ているなあという気がしてきた.

 謙信は,足利将軍家や関東管領といった,当時落ち目になっていた権威を非常に尊重し,現実的には必ずしも必要でない軍事行動を繰り返し,関東や北陸に何度も出陣している.

 この点,国連という現時点では必ずしも絶対的ではない組織の理想を尊重し,しばしば国連至上主義と言われる理念優先の政策を主張する小沢氏と,私の目には何だか重なって見える.

 『辞任カード』の使用によって求心力を強化したとは言え,謙信はその後もしばしば北越後の国人の反乱に悩まされ,死後は相続をめぐって国内を二分する内乱を起こし(御館の乱),結局上杉氏の勢力は大きく衰退する.こういうところも何だか民主党っぽい.

 それはともかく,小沢民主党は今後,混乱の痛手を回復して,上杉謙信のように強大な勢力になれるのであろうか?それともなれないのか?今後の展開をこれからも注視していきたい.

「はむはむの煩悩」,2007年11月 9日 (金)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 直江兼続の兜の「愛」の意味は?

 【回答】
 直江兼続と言えば,多分オープニングに出て来るであろうと想像出来るのが,「愛」の1字を前立に掲げた兜でしょうか.
 この「愛」と言う言葉,元々は恋愛の方ではなくて,「親兄弟のいつくしみ合う心.広く,人間や生物への思いやり.」の方を指しています.
 現代人は恋愛を指していると考え,「兼続萌え~」になっているのかも知れませんが….

 米沢城三の丸の東南,堀の直ぐ外側には皇大神宮と並んで「金剛愛染明王」の社があります.
 これは米沢城建設の過程で造られたものとされており,兼続が愛染明王を信仰したから兜の前立にも「愛」の1文字を取ったと言うのが定説です.

 愛染明王と言うのは俗には,男女の恋愛を成就させる仏様ですが,本来は大日如来の教えを伝える仏様であり,その導きは,大きな愛と至極の上を以て人々の息災(健康で元気である事)を叶え,敬愛・得徳を導くと言うものです.
 即ちこれを信仰する事は,御加護と開運を願う戦国武将の守護に相応しい仏である訳で,従って,「愛」の前立を用いるのは,兼続の愛染明王信仰を裏付けるものとなります.

 しかし,実は上杉家の存亡に関わる最上との長谷堂城の合戦に於て,「愛」の前立を用いた兜を着用していません.
 元々,兼続の意としては,西で石田三成が挙兵すると,徳川家康はそれを迎撃する為に踵を返すであろうから,その機に乗じて,反転攻勢を掛けるつもりでした.

 ところが,これをしてしまえば,なるほど勝利は得られはしますが,上杉家としては謙信が打ち立て,景勝が継承する事で保たれていた「義」による家臣の結束が解けてしまう虞がありました.
 其処で,景勝はその反転攻勢を容認することは無かった訳です.

 余談ですが,上杉謙信の「義」は,儒学の中心的概念が外面的な「礼」から,仏教の影響を受けて内面的なものに移り,これが「仁義」として形成されていった頃のものであり,この「仁義」と言う思想は,戦国武将の精神にも多大な影響を与えています.
 これにより,戦国初期の「血気の勇」から「仁義の勇」を理想とする風潮が生まれました.
 特に,戦国時代,下克上の風潮で何時寝首を掻かれるかも知れない武将達にとって,「君臣の義」を重視することは,当時各地に割拠する国人達を家臣として統制していくのに有利な教義だった訳で,越後でも国人の力が強く,謙信もその勢力削減に腐心したのですから,この考えに謙信が共鳴したのも頷けます.

 脱線序でに,上杉謙信が毘沙門天を掲げているのはよく知られていますが,毘沙門天と言うのは,仏教世界を守護する四天王の1人で,北方を守る多聞天の事であり,その姿は甲冑で全身を包み,憤怒の形相をして,右手に宝叉,左手に宝塔を持って立って居ます.
 そして,此の世に仏国土を築く,即ち,この宇宙を司る仏法に則った,宇宙に存在する生命体としての真のあるべき姿,生き方を自覚した全ての生き物が,今世の生きる目的に向かって自らの魂を磨いていく,絶対平和・絶対幸福の実現を目指しています.

 元々,戦国の武将達は,戦場から生きて還る為,神仏に武運を祈り御加護を願うのが一般的で,神仏の名を出す事で自らに箔を付け,美化する気持ちがあったのですが,謙信にはそんな考えではなく,自らを毘沙門天に同化する気持ちがあったと言われています.
 謙信にとっての武神というのは,寧ろ,狐神を駆使する神,武運を齎す守り神である,飯綱権現であろうと言われています.
 これは,飯綱権現を前立にした兜が残されている事でも明らかです.
 良く小説などで,戦場で謙信の本陣に「毘」の旗が立てられる描写がありますが,これは毘沙門天の加護を祈っているのではなく,毘沙門天として生きる謙信が其処に居ることを指しています.

 因みに,毘沙門天の持つ武器である宝叉は,上端に3本の尖端(三叉)があり,下端に2本の尖端(二叉)がある武器です.
 これを以て毘沙門天が仏国土を乱す仏敵と戦うのならば,三叉を相手に向けて突く訳ですが,突くには一旦武器を引かねば成らず,その際,二叉は自分自身を突く事になります.
 つまり,第一の仏敵は己の内に在り,それを克服して初めて相手の内なる仏敵を導くことが出来る訳です.

 それは扨措き,景勝に西遷を拒否された兼続は,結局,最初に攻撃を仕掛けてきた最上家に向けて進撃します.
 此処で長谷堂城を攻撃していた所で,関ヶ原の敗報を聞き,反転して本国に帰還する所で,嵩に掛かって攻撃を行い始めた最上家を散々に撃ちのめしたのですが,この攻撃は最上義光打倒が目的ではなく,上杉家の人々や領民の安寧を願う為の自衛戦としての性格を持っていました.
 この時に彼が用いた甲冑の兜の前立は,お馴染みの「愛」ではなく,梵字の「種子」と呼ばれる単語です.

 その表わす仏は「普賢菩薩」.

 普賢菩薩は禅定を司る仏で,智恵を司る文殊菩薩を兄に持ち,共に釈迦の側に奉仕したと言われています.
 そして,釈迦が入滅する3ヶ月前に自らの死を預言した折,人々の守護を普賢菩薩に任せました.
 普賢菩薩の「普賢」の意味は,インドのサンスクリット語で,「遍く賢を広める」と言う名の直訳で,その御利益とは,増益と延命であり,人々は「普賢延命」の真言を唱えれば,災いを避け,福徳を得て,延命の御利益が授けられるとされています.

 以後の兼続の生き方からすれば,謙信が自らを毘沙門天に投影した様に,兼続もまた,この時に自らを普賢菩薩に擬えようとしたのではないかとされています.
 そう考えると,家康に膝を屈した後の兼続の景勝を支えての八面六臂の活躍は説明出来るのではないか,と思います.

 例え,ホームドラマでも,この辺の部分はしっかり描写して欲しいと思いますけどね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/01/01 15:01


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