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◆◆国力 Nemzeti Teljesítmény
<◆戦国時代 目次
<戦史FAQ目次
【質問】
戦国時代に金銀はどのような使われ方をしていたのか?
【回答】
日本の産金は結構外部に流出しています.
ただ,それが一般的に用いられるようになったのは,776年に送られた遣唐使に対する賜金として利用されたのが最初です.
平安から鎌倉期に掛けては,どちらかと言えば貨幣経済より自給自足的な経済の下にあった為か,砂金を通貨として用いたのではなく,専ら上層階級の中で,紙に包んでの賞賜,布施,引出物的な利用を行っていました.
その他には,遣唐使や唐に留学に出かける僧侶に対する賜金としての利用,経文の購入用資金として用いられています.
遣唐使の総人数は,初期で240~250名,中期は530~540名,末期は500名前後ですが,遣唐使正使には200両,副使には100~150両内外の砂金が下賜されました.
砂金は,携帯に便利でしたし,秤量貨幣として用いることも出来ましたので,その流失は莫大な額に及んでいます.
菅原道真の奏請で遣唐使が廃止された後も,公卿や朝臣による外来品の購入決済には府庫に蓄えた砂金を以て支払われています.
平安末期に平家が実権を握ると,公家だけでなく上層武家の中にも砂金は一層盛んに用いられるようになりました.
1177年2月,平重盛は砂金1,000両を祈祷料に奉納したり,1178年には安徳天皇の誕生を祝って,平清盛が砂金1,000両を法皇に送ったりしたりしています.
平家を追討して政権を握った源頼朝もまた,全国に守護地頭を置いて警察権と徴税権を確保すると共に,陸奥の金山を勢力下に置き,経済の実権をも又握っています.
室町になると貨幣経済が発達します.
それと共に,金銀は軍資金・政略資金としての性格を有するものになっていきます.
1533年に灰吹法が明や朝鮮から入ってきたことから,金銀鉱の精錬が容易になり,16世紀半ばからは日本の金銀山が最盛期になり,砂金から金錠,板金が登場する様に成っていきました.
1567年には武田信玄が富士と安部の両鉱山を手に入れたのを機に,初めて量目を表示した金貨を造りました.
これが有名な甲州金で,両目の単位は,両・分(4分の1両),朱(4分の1分),糸目(4分の1朱)と言う四進法が採用され,両は4匁(15g)になります.
この重量単位は,徳川家康の治世になると貨幣単位として採用される様になっていきました.
武田信玄は,この甲州金を合戦の際,目覚ましい働きをした部将に,その手柄に応じて分け与えました.
同様に金銀を利用したのが,豊臣秀吉です.
1587年から秀吉も多種多様な金銀銭を造りましたが,これも論功行賞用として用いています.
例えば,『多聞院日記』には秀吉が九州征討に出かけた際の光景が描かれていますが,これには「金銀唐和財宝事尽タルコト中不及言語」と書かれており,また「黄金十駄」と伝えられています.
一方,1593年に肥前名護屋から帰陣した時にも,「金子一万枚銀子三万枚」とあり,秀吉はふんだんにこうした金銀を部将に散蒔いたことが伺えます.
また,部将への論功行賞だけでなく,金銀は戦時の賠償用としても利用されました.
例えば,1571年,信長が叡山を焼略せんとして堅田に陣を進めた時,叡山は判金300枚,堅田は200枚を信長に贈って,焼略を免れようとしました.
また,1582年には勝頼の被官である穴山氏は,黄金2,000枚を積んで信長に降伏したと言う記録が残っています.
更に,叙位任官を行う為に要路へ金銀を贈献する事も盛んに行われました.
例えば,伊達家は1555年3月と9月の補任の際,砂金30両を将軍に贈っていますし,大友家もまた,1539年に将軍義輝に対して黄金30両,1557年に黄金100両を贈っており,上杉氏もまた同じ様に献納を行っています.
1588年の毛利輝元上洛の際にも,金銀銭を50余艘の船で運び,関白秀吉に銀子3,000枚,北政所に銀子200枚,小早川隆景から関白秀吉に銀子500枚などが散蒔かれていますし,1590年にも輝元は秀吉に銀子1,000枚を贈っています.
因みに,秀吉の経常収入は,1598年の時点で鉱山から黄金3,397枚余,銀子79,415枚余,雑税で黄金1,000枚,銀子13,950枚になっています.
家康が,秀頼に対し一生懸命それを吐き出させようとしたのは宜なるかなですね.
こうした贈答用としての品でもあった金銀ですが,段々と貨幣的使用となっていきます.
最初は砂金だったのが,それを鋳造して金塊とし,それを打ち伸ばして板状の「板金」となって,これを切断して秤量貨幣となる「切金」となり,一定の量目を持つ板金となっていきます.
この金板はやがて楕円形となり,江戸期には大判として贈答用に流通し,これらを小型化して流通しやすくした小判,一分金が出回るようになった訳です.
因みに,上杉家は天正年間には既に高根,佐渡の鉱山から金を産出し,金貨幣を鋳造していました.
上杉景勝の代になると,豊臣秀吉に黄金2,020枚を上納していましたが,その形状は明らかではありませんが,恐らく楕円形の切遣い金であったと考えられています.
また,武田家は先の甲州金を鋳造していましたが,当初褒賞金的なものだったのが,次第に秤量貨幣として用いられていくようになり,両(金4匁~4匁2分),分(1両の4分の1),朱(1分の4分の1),朱中(1朱の2分の1),糸目(1朱中の2分の1),小糸目(1糸目の2分の1),小糸目中(1小糸目の2分の1)の貨幣単位が用いられており,この武田氏の貨幣単位は,甲州だけでなく駿河の一部や越後の上杉氏にも採用されていたと考えられています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/04/16 23:56
【質問】
佐渡金銀山の歴史的経緯は?
【回答】
太平洋戦争中,日本は鉱産資源がないと言うので,貧鉱鉱山でも積極的に再開発を行っていました.
ある大工がふと線路を見て閃いた.
鉄がない鉄がないと言っていながら,線路脇には電車の鉄輪が線路を削り取った金屑が一杯あるじゃないか!
冗談のような話ですが,貧すれば鈍す.
真面目に当時の国鉄は,この線路脇の砂利から酸化鉄を取出して,還元し,鉄材を取ろうと研究したことがありました.
時代は下って現在.
日本に埋蔵されている金は,全世界の約16%,銀は約22%と言われています.
これは鉱山の中に眠っているものではなく,都市に埋もれているもの.
携帯電話やパソコンに使われているレアメタルを全部回収して,其所から金と銀を取出すとこれくらいの埋蔵量にはなるそうです.
そんな世界有数の金銀「生産国」の日本ですが,近世には,小さなものも含めると,日本の鉱山は実に750箇所にも達していました.
謂わば,日本の至る所で,鉱石が採掘されていた訳です.
日本の金鉱山で最も有名なのが佐渡金山です.
この金鉱山が発見されたのは,平安末期の頃.
『今昔物語』や,『宇治拾遺物語』なんかに登場する話には,こんな話が載っています.
能登国に鉄堀人60人ばかりが採掘に従事していましたが,この頃,「佐渡にこそ黄金の花咲きたる所有りしか」と人に言っている男を呼んで,「佐渡国に本当に金があるなら採りに行こう」と誘いますが,男はそれを断り,「小船1艘と食物を貰ったら採ってこよう」と言うので,それを与えたところ,男は佐渡に渡っていきました.
そして,忘れた頃に男は帰り,船と食糧を与えた男にそっと黒い裂卑に包んだ重いものを渡して去っていきました.
渡された男がその包みを開けてみると,金が8,000両ばかりあったが,堀った男に在処を聞こうとしたが,その行方は誰一人として知らずに終わった.
当時,1両は4匁2分ですから,4匁としても8,000両は32貫,つまり120kgに達します.
とすると,「そ~んなわけないやろ」と思ってみる訳ですが….
佐渡の歴史を編んだ『相川志』には,こうあります.
――――――
「凡そ金山の起り此国にしては西三川より先なるはなし,西三川は長禄四年始まる.其の後中絶七十九年を過ぎて文禄二年再び取り立つるとなり」
砂金発見の端緒は,『佐渡風土記』によると,こうありました.
「西三川郷内の百姓が港へ野菜を商いに来ていた時に,その野菜を購入した船の水主が根を洗った所,土に交じっていた砂金を発見,水主は百姓に場所を訪ね,野菜と土を畠主から買い取った.
其の後も再々来ては土を買っていくのを不審に思い,後を付けた所,土を川へ運び洗って砂金を取っていることを知った.
それより,他国者には渡さず,地元の者が我も我もと砂金を取った」
――――――
この砂金が出たと言う噂は瞬く間に近隣諸国に知れ渡り,彼方此方から西三川に人々が押し寄せましたが,景勝が佐渡を占領した際には,家臣である大井監物富永備中を砂金奉行として,砂金は秀吉に献上することになっていました.
しかし,秀吉の頃には鶴子金山が発見されて,砂金堀の連中も稼ぎの良い金山に移動し,西三川のゴールドラッシュは終わりを告げることになります.
真野湾沢根にあって,佐渡金銀山よりも発見が早かったのが鶴子銀山です.
『佐渡年代記』『佐渡風土記』にはこうあります.
越後の承認茂右衛門という者は佐渡を数年に及び往復していたが,天文11年の或夜,沢根沖を航行中,沢根の方の山から炎のような光彩が見えたので,怪しんで船を着け,沢根の山奥を探査して,鉱山を発見します.
そして,土地のものと相談して,稼行を願い出て採掘を始め,1ヶ月で銀100枚の運上を納めるくらい盛んになりました.
後に,謙信に銀を進上した所,魚沼郡山田村の金穿人夫数百名を佐渡に渡らせて,天文末から弘治頃には銀と銅の産出が盛んになりました.
1595年5月,石見の忠左衛,忠次郎,中兵衛の3名が渡って本口間歩(坑道堀)を行う頃に仮小屋が建ち並び,食品店,蕎麦屋,料理屋などが続々と店を開いて,一大村落が出現,隆盛を極めて鶴子千軒とその繁盛ぶりを謳われました.
1598年,秀吉は上杉家を会津120万石に封じますが,佐渡は暫く上杉が支配することを許し,上杉家では家臣の川村彦左衛門が豊臣家の代官として外山に陣屋を設け,此処を支配し,産出した金銀を豊臣家に運上していました.
その近くにあるのが佐渡金銀山です.
この鉱山は,鶴子銀山の山師三浦次兵衛,渡辺儀兵衛,渡辺弥次右衛門の3名が鶴子の北方に見える山の形,樹木の茂りよう,岩石の重なりようが金銀のある山のように考え,遂に1600年夏に,探査行を決行しました.
彼等は,山を越えて羽田村に出て浜伝いに鮎川(今の濁川)河口に辿り着きます.
そして,川沿いに登って目指す山を探しましたが,樹木が鬱蒼と茂って登れないので,左の大きな沢伝いに登り詰めると断崖に辿り着きました.
その断崖に茶褐色の露頭らしきものが見えたので,岩を攀じ上って確かめると,これが立派な金銀鉱であり,それに力を得た3人は,更に探査を進め,第2,第3の露頭を発見して,1601年7月15日に,佐渡金銀山は発見されました.
発見の功により,次兵衛は六拾枚間歩を,儀兵衛は道遊を,弥次右衛門は割間歩を稼ぐ事になりました.
そして,佐渡は上杉の手から豊臣を経て徳川に支配されることになります.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/04/13 22:59
【珍説】
戦国時代の合戦の理由は,食料の略奪が大きな比重を占めていました!
説明.
「今の日本は飽食の時代と言われて久しいが,現在と違い戦国時代はとても貧しい時代だった.
天災による被害で飢饉もあちらこちらで見られた.当然,合戦(乱取り)による飢餓と餓死,それによる疫病も蔓延していた.
そのため領主が領主でいるためには,自国領内の庶民をある程度満足(満腹といってもいいかも)させる必要があったのである.
それが出来ないと一揆がおきたり,または隣国の比較的条件のいい領主に鞍替えをされてしまうからである.
それを防ぐ手立ての一つが”戦”だったのである.戦に勝てる強い領主は庶民の信頼得ることができたのだ.
戦に勝ち続ければ,その領国内は潤っていく.
あの武田信玄が存命中,当主になってからほとんどの合戦に勝っているが,武田の領国内は活気に満ち溢れ,
イケイケドンドンの状態で領民達は裕福になったと『甲陽軍艦』にも記載されている.」
下記,合戦の目的~庶民にはとっとは食うためり戦いを参照ください.
ttp://www.adult-movie-japan.com/battle/mokuteki.html
【事実】
それだと,戦国時代でも戦がない地域があったり,兵役につかなった人間が存在した事は説明出来ないんだが.
古来,軍隊の兵站維持に略奪が大きなウェイトを占めてたのは事実だが,藩運営の上で略奪が必要なシステムだった,って解釈は無理がありすぎる.
海に面して塩が取れるとか,金山があるとか,貿易経済の流通路であり拠点とか,食料よりも金,経済の面で領土の奪い合いやってたり,そもそも上洛して天皇に拝謁し幕府を開く許可を得るため,途中通行する事になる
領地を支配している敵対勢力の排除,また京都周辺で牽制しあってるライバルの排除のためなんかに戦争してるのが大きな理由だが?
それに甲陽軍鑑って,江戸時代に書かれた,いわば仮想戦記と同じものといわれてるんだが.
基本的に評価はかなり低い.
甲陽軍鑑は資料的価値があるのか,って事自体が論文のテーマにされるくらいだし.
大学の日本史でも論文に出典として入れると,呼び出されぞ.
「こんなもの入れるな」と.
ていうか江戸時代の時点で既に,実際の合戦の様子と食い違う記述が多すぎるってんで,戦国時代当時の執筆ではない事が指摘されてんだよな(湯浅常山『常山紀談』).
wikiによれば,江戸時代から「妄想ばかりだ」と言われて,明治以降には歴史学者から,「資料的価値は低いから論文に引用してはならない」って言われるようになったらしいな.
最近,再評価しようって人達もいるみたいだが,再評価を主張してる人ですらこう言ってる.
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200704040177.html
軍事板,2010/11/29(月)
青文字:加筆改修部分
▼ なお,霞ヶ浦の住人氏は,甲斐の武田信玄の例をあげて,甲斐は元々貧しくて,戦で略奪して豊かになったかのように書いていますが,大きな間違い.
甲斐には金山があり,たいへん豊かでした.
なぜなら以下のように,帰雲城主内ヶ島氏が潤っていたのなら,武田信玄もそうとう潤っていたのでは?と考える次第.
------------
内ヶ島氏が治めていた所はご存じの「白川郷」(現・白川村と荘川村)なんですが,この一帯は農産物(米など)は殆ど収穫できず,普通に考えれば,財政的に窮していたはずです.
(略)
かえって,潤っていた様子が見えてきます.
つまり,他においしい財源があったんじゃないか?と想像できるわけです.それが「金」(砂金)で,内ヶ島氏は数カ所で砂金を採っていたと言われています.
事実,飛騨地方には金がかなり産出されていたようです.
http://www5.ocn.ne.jp/~tenpoint/start01.htm
------------
もちろん当時,日本全国に流通していた貨幣は銅銭で,碁石金は武田領内にしか流通しないローカル金貨です.
しかし,物々交換や朝廷への献上,南蛮貿易などに金は使われていたはず.
また,食料も平地が少なく,米があまり取れない代わりに,畑で大麦や小麦,ひえなどの穀物を作り,それらを主食にしました.
それが甲斐,今の山梨県の伝統料理の『ほうとう』であり,信濃,今の長野県の『そば』です.
> 信玄の本拠地である甲斐の国は山ばかりで,水田面積が少なく,米の生産力が他国に比べて極端に低かった.
> そこで山地を切り開いて畑地にして大麦や小麦,あわ,そばなどの穀物類を作り,豊かな粉食文化が発達した.
(永山久夫『武士のメシ』,宝島社,2012/2/9,p.39より引用)
とあり,その後に当時甲斐で食べられていた『ほうとう』のレシピが.
アマゾンの武士のメシの紹介ページ)
つまり,合戦して食料を奪わなくても,甲斐の人々は十分生活できた.
90式改 in FAQ BBS,2012/5/18(金) & 2012/5/23(水)
青文字:加筆改修部分
▲
【珍説】
355 :霞ヶ浦の住人 ◆1qAMMeUK0I :2010/11/29(月) 22:23:58 ID:pRh9RB6o
>350
>348
>それだと,戦国時代でも戦がない地域があったり,兵役につかなった人間が存在した事は
>説明出来ないんだが.
>古来,軍隊の兵站維持に略奪が大きなウェイトを占めてたのは事実だが,藩運営の上で
>略奪が必要なシステムだったって解釈は無理がありすぎる.
霞ヶ浦の住人の回答.
「合戦の多くが領民を飢餓から救うために行われたと読み取ることが出来ます」
説明.
「百姓から見た戦国大名 ちくま新書
この本を読むと,戦国当時の百姓達のイメージが変わるかも知れません.
百姓達は決して殿様に頭を下げてばかりいて,弱弱しく生きていたのではないことが分かり,
また当時の
合戦の多くが領民を飢餓から救うために行われたと読み取ることが出来ます.
当時,多くの一般庶民は餓えていたんですねぇ・・・.かなり参考になります.」
「乱取りをするために 戦国期は,完全な兵農分離は行われておらず,
TV,映画で『わぁ~』と掛け声とももに突進する兵隊のほとんどは徴兵によって農民だった.
これら農民は徴兵制によって駆り出され,半強制である.
彼等は嫌々という気持ちも当然あったろうが,敵国の領土から略奪で食料や日用品を調達したいと言う気持ちもあったはずで,
戦に行って食い物を分捕らないと生きていけなかったと言っても過言ではないだろう.
そして戦のときは食料も軍から支給されて,平常時よりもおいしいものが食べられた.まさしく雑兵にとっては食うための戦いだったのだ.
また,百姓達が兵士として敵地へ戦いに出れば,領国内の食糧事情も良くなる.
雑兵による略奪行為を”乱取り”という.略奪,婦女暴行,連れ去りを敵領土でやりたい放題だった.この”乱取り”をしたいがために頑張って戦ったのだ.」
下記,合戦の目的~庶民にはとっとは食うためり戦いを参照ください.
ttp://www.adult-movie-japan.com/battle/mokuteki.html
【事実】
だから,それは略奪による兵站論であって,戦国時代の藩の運営論ではないよね.
>TV,映画で『わぁ~』と掛け声とももに突進する兵隊のほとんどは徴兵によって農民だった.
これ,完全に間違い.
というか,何故か民間に誤解して流布されているデマ.
もし日本史板で,未だにこんな事主張したら,思いっきり馬鹿にされるぞ.
実際の足軽は,俸禄だけでは食っていけない最底辺階級の武士なので,平時は農民と同じように畑を耕して生活を補っていた.
(ことから,徴兵された農民だと誤解されている原因だとは思うが)
まあ,足軽身分は戦の無い時は,主君から給料が出なくて農業に従事.
戦のある時だけ給料が出るので,召集に応じるって形態だからな.
そりゃあ,農民と誤解もされるわ.
どこの武将だったか,初陣の時に「若殿が初陣なら俺も参加する」って,例年にない召集に応じるというか志願してくる侍衆が多くて,「そんなに給料払いきれないぞ,困る」っていう事態が発生した事もあったとか.
そもそも当時の合戦記録にも出陣記録にも,参加兵士の名簿にも論功行賞にすらも,「武士身分でない農民」が戦闘に参加したり,恩賞を貰った例が無い.
かろうじて戦国時代末期ごろに,傭兵的存在として武士以外の階級が,兵士として雇われるようになっていく が,功績立てると,こいつら傭兵も武士身分に取り立てられたわけで…
織田信長が農閑期以外にも動員できる常備軍として編成し成立させたのがこの制度…
といっても完成したのは信長が死ぬ数年前で,ちゃんとした完成は徳川家康とかが見習って採用,引き継がれてからだけどな.
戦国時代末期に尾張の兵が弱兵といわれてたのは,貨幣経済が発達していた尾張では,傭兵市場が成立してたわけで,金のために働いてる兵隊は,負けそうになるとさっさと逃げるからといわれたな.
ついでに言うと,他の地域は貨幣経済制度が根付いておらず,物々交換や米が貨幣の代わりだったりする,旧来習慣が強くて,動員が容易になるような軍制の改革には,相当苦労したらしい.
楽市楽座とかは市場の認識を定着させ,貨幣経済を根付かせ,移行させる狙いで導入されたものだし,諸国勢力も次第にそれに習い始めたのが,信長の政権から豊臣の政権に移っていった時期の流れでもある…ってのはスレ違いの余談.
そもそも兵農分離って農民と武士,その他の階級全部が武装を有する事を,合法というか放置していたのを,武士以外は武装禁止って定めたものであって,農民は武士の戦争に戦闘員として参加していた,というようなもんじゃない.
(いったいこの誤解は,どこから発生したものなんだろうな?
日本史の教科書でも,農民の武装を禁止した,としか書いてないはずなんだが…)
軍事板,2010/11/29(月)
青文字:加筆改修部分
【質問】
戦国時代の塩の生産と流通について教えられたし.
【回答】
戦国時代,籠城に必要な物資は,武器,弾薬の他に,食糧(米),水,そして塩があります.
米が尽きても,代替植物による栄養補給はある程度まで可能ですし,水は水源が城内にあれば良いですし,無くても季節や場所によっては,天水を利用する事で補給が出来ますが,塩は城が海に面していない限り,どうしても何処かから補給しなければなりません.
余談ながら,籠城戦で敵が水源を抑えたりして,城方の水が尽きた時の戦術としては,時たまこんな方法が採られます.
先ず,馬と米と桶を用意します.
そして,馬の背に桶で米を何度もかけます.
敵が遠くに布陣していた場合,又,天候が余り良くなかったりして視界が良くなかった場合,時にはこの光景が馬の背に水を掛けている様に見えます.
こうした光景に敵方は騙され,未だ城内に水源があるものと勘違いし,特に兵農分離が無い時期で農繁期が近付いてくる時期の城攻めだと,これ以上の攻撃は無理と判断して撤退することが時たまですがありました.
勿論,こうした僥倖は万に一つもありませんでしたが…寧ろ,その米に鳥が群がって,水の手が完全に切れたことを知らしめただけと言うケースもある訳で.
話を戻すと,当時,塩を作るには,広大な塩浜を作り,土留めして,海水を撒き散らし,天日で乾燥させた砂を集め,上から海水を注いで鹹水を集め,その鹹水を土や貝灰,粘土などで作った鍋でグツグツと煮て採取すると言う作業が必要でした.
これだけでは苦汁も含んでしまうので,更にまともな塩にするには,その粗塩を鉄鍋などで煎って,焼塩にする必要があります.
何れにしても,その生産には膨大な燃料が必要であり,石炭や石油の無かった時代には,焼畑農業の様に,山から木を切り出し,その山が禿山になると木を植えて,別の場所に移動しそこが禿山になると又別の場所に移動する,と言った形での生産地移動が必要となり,生産地点も複数用意しなければなりません.
この為,自分達の城に塩の生産設備を持つのは不可能に近いものがあります.
先述の武田家に対する,今川家と後北条家による塩留は,上杉家の「敵に塩を送る」と言う行為以外は,1567年頃に実際に行われましたし,上杉家も1581年に出陣する際,越中方面に於ける塩合物の流通を厳しく停止し,それで戦略的効果を上げたりしています.
また,後北条家も1580年に,関東平野を北上する際,武蔵国の栗崎,五十子,仁手,今井,宮古島,金窪など神流川を境とする地域に塩留を実施しています.
他の大名家では,1582年頃,島津義弘がその北進に抵抗する肥後の隈部氏や阿蘇氏と断交し,それへの攻撃を行う一方,内陸諸大名に対する塩留,魚留を実施していました.
当然これに対抗する為に,戦国武将達は塩の備蓄を積極的に行い,洞ヶ峠で有名な筒井順慶は,1582年の本能寺の変後,郡山城に俄に米や塩を運び込んでいますし,1589年,筒井順慶に代わって郡山城に入った羽柴秀長は,塩の価格が暴落した際に,奈良中の家々に家別1石宛の塩を木津から奈良まで輸送させる賦役を命じた記録があります.
備蓄が不足していたらどうするか.
戦国初期の1516年,近江の浅井家は主家である京極家に反旗を翻しますが,京極家の一門である六角家の攻撃を受け,小谷城に籠城する羽目になります.
小谷城には武具や米の備蓄は充分でしたが,あろうことか,塩が不足していました.
其処で急遽,家臣を派遣して,長浜の商人を大津に遣り,200~300俵の塩を調達させました.
商人は危険を感じて塩を箱詰めして呉服櫃を偽装し,湖上を小船5~6艘で輸送し,中浜でこれを川舟20艘程に積み替えて川を引上げていましたが,枝村の笠原杢なる部将に怪しまれ,その家来が検査の為に開いた荷が,偶々小谷籠城の侍達の注文衣類だった為に難を逃れ,遂に必要な塩を入手することが出来ました.
以後,籠城を凌いだ浅井家は今浜商人に営業上の特権を与えることになった訳です.
もし,この時に塩が入手出来ていなければ,お市の方が此処に嫁ぐことはなかっただろうし,豊臣家の悲劇的な最後もなかったかも知れません.
塩は戦略物資であると共に,経済活動にも欠かせないものでした.
1569年,京を抑えた織田信長は,畿内から三好家を追放した後,その家臣十川民部大夫が知行していた塩,塩合物関係諸座の座役銭徴収権を,堺の豪商今井宗久に与えました.
これにより,織田信長は今井宗久を通じて淀魚市塩座以下,京都近辺或いは堺周辺の塩座を掌握支配することになり,京都の経済中枢の一部を抑える事が出来ました.
こうした動きは京都だけではなく,地方でも同じで,例えば1577年,会津若松を根拠地とした蘆名家は商人頭の簗田家に対して,塩荷,塩合物荷物について一定の駄賃徴収を命じる一方,簗田家は勿論,会津に入る京衆,伊勢衆,関東衆そのほか諸他国衆商人に対し,船賃・関銭の減免,御免船積載の荷物には干渉しない旨の「証状」を下しており,時代は下って,1595年には浅野長吉が掟書を下付し,会津若松に於ては,塩役,塩宿役,蝋役,駒役と言った諸営業税を貢納している商人以外は,座の特権を認めないと定めています.
この狙いは,商人にとっては座を維持しなければ特権を維持出来ないと言う事になり,座衆の排他力は非常に強固になること,そして,その維持の為にはどうしても大名権力に取り入らなければならず,結果的に大名の掌握・統制を受容れることになり,その代償として,大名権力への諸役貢納を必然とする構造を構築することにありました.
織田信長が始めた此の政策の効果は,当初こそ畿内の支配が不安定だった為に,余り受容れられませんでした.
この為,1577年頃まで奈良に於ける塩の価格は塩1斗に付き,米6~7升と言う時期が続きます.
その後,三好家の没落,本願寺勢力との和解,荒木村重や松永久秀の叛乱の鎮圧に成功するなどの要因で,次第に落ち着きを取り戻すと,織田信長の息の掛かった商人達の権威は増し,従来から塩取引を握っていた寺社勢力が瓦解し,関所・関銭の廃止などとも相まって,1581年には塩1斗に付き米4升代に降下しています.
更に,豊臣秀吉の台頭に伴い,大坂の経済的地位がいや増し,其処から入ってくる物資が多くなってきた為,1584年以後,羽柴秀長の大和入国により,中世的権力の打破が更に続き,1585年2月には米5斗で2石の塩を購うことが出来る様になります.
1587年には,大坂に人を遣って塩を買い,奈良に運び込んだ方が,奈良で買うよりも安くなると言う状況にもなってきます.
勿論,この背景には技術的進展に伴う塩の生産量増大と言うのもありますが….
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/11/09 20:57
内陸部の塩の話をする前に,ちょっと秀吉の話なんぞ.
豊臣秀吉は朝鮮出兵の頃,前線への補給を考え,瀬戸内一帯から水夫を多数徴発しました.
当然,自由な民である海の民は,徴発を嫌って逃散するケースが跡を絶たなかった訳ですが,赤穂中村と言う場所に,老婆を抱えて逃散も出来ず,かと言って,其の儘朝鮮に連れて行かれるのも嫌だと考えた漁師が居ました.
彼は一計を案じて秀吉軍に携帯食として魚を献上して,許して貰おうと考えます.
元々,赤穂の塩田では,浜男が浜溝で雑魚を捕って,これを取り上げた熱い(約110度)塩の中に入れ,魚の塩蒸しを食べていました.
塩漬けの魚ならば,日保ちがしてかつ塩分の補給も出来る一石二鳥の保存食となります.
彼は,自分が獲ってきた魚から,臓物を抜いて,塩田に運んで塩蒸しにして貰い,秀吉が宿舎にしていた那波大島山万福寺(現在の相生にあるお寺)に持って行き,其処にいる部将に献上しました.
この塩蒸しの魚が部将達にも喜ばれ,彼は秀吉の為に鯛のそれを作る様に命じられたばかりか,徴発を免ぜられ,更に西下する軍の携帯食を納入することにもなり,結果的に俄分限になったそうです.
これが鯛の塩蒸し(浜蒸し)の始まりと言われていますが,西下軍が各地の塩田でもそれを作らせたので,瀬戸内の名物として伝播していきました.
因みに,この名物,明治になると塩の専売制が施行され,こうした行為は厳しく禁じられることとなり,塩田での塩蒸しは消えてしまいました.
全く,明治の小役人のすることは(以下略.
閑話休題.
さて,瀬戸内を中心として,各地で海に面してそれなり広さの砂浜があり,後背地に適度な燃料(薪)を得ることが出来る地であれば,粗塩くらいは簡単に出来ます.
が,内陸部にはそんな塩水を得る事が出来ず,塩は沿岸地域から買う物でした.
信濃は越後糸魚川の商人や太平洋岸の駿河や伊豆などで生産された塩を馬背で運んでいましたし,京都の場合は,瀬戸内の塩は舟運で,畿内に運ばれ,淀川を遡って山崎津,後に淀の津で陸揚げされ,馬借,車借や塩座商人によって西国街道や大坂街道を京都に搬入され,日本海岸の塩は敦賀から勝野津に運ばれていましたが,その後,湖上輸送の進展から,今津に運ばれるようになり,更に戦国期には塩津,海津へと運ばれ,戦乱が激しくなると小浜から高島へ,九里半街道で湖東沿岸の商人によって運ばれ,更に伊勢の塩が八風,千草,鈴鹿の峠を越えて運搬されました.
日本海,伊勢の塩は近江にも入りましたし,瀬戸内の塩は,堺を通じて,或いは淀の津から木津川を遡って奈良に送られています.
この様に大体は,海岸部で作られた塩を内陸部では金銭もしくは代替商品を以て購った訳ですが,内陸部で塩が採れないかと言えば,そんなことは無く,日本でも内陸部で塩を作っていた所がありました.
尤も,死海やらアラル海と言った塩水湖が有る訳でもなく,大々的な生産は出来ませんでした.
その手段と言うのは,「温泉」です.
温泉と言えば,様々な成分から成っていますが,硫黄泉からは硫黄が採取出来ますし,炭酸泉を使って,ウィルキンソン炭酸やら三ツ矢サイダーなんかが生産されています.
同様に,ナトリウムを主成分とする温泉の水を汲み,煮て,塩とする事で,塩を採取していました.
特に猪苗代湖一帯では,塩泉を煎熬する製塩が行われており,例年,会津松平家から公方様への献上品として珍重されていたそうです.
この一帯には塩の付く地名が多くあり,大塩村,塩川,塩沢村と言った場所の塩泉からの塩作りについての記録が多数残されています.
塩泉から塩を作るのは明治末期まで続いたようで,1903年の大蔵省主税局の調査報告に,この地での生産高18石と言う記録があるそうです.
尤も,瀬戸内で1480年代に生産された11万石(約110万人分の必要量)に比べれば雲泥の差ですが….
日光山の北方にも塩泉があり,此処では涌泉其の儘を用いたようで,随筆『甲子夜話』にも「焼き塩の様だ」と言う表現が出て来る位有名な物だったようです.
米沢では小野川温泉から採塩しましたが,この地では塩泉を塩田法で濃縮しています.
この小野川の一帯は,何処を掘っても温泉が湧出するので,平地に砂を敷いておいて,差潮を待って,塩が充分砂に浸透した時点で,砂を掻き集めて焼いて塩にすると言う製法を採っていて,これは仙台伊達家の入浜式塩田の方式を導入した様です.
また,上杉鷹山の改革の際には,小野川だけでなく西置賜郡の小玉川でも同じく製塩を実施していました.
この地方の製塩では,汲み上げた塩泉を直煮するものと,砂による濃縮→煎熬する方法の2つの方法がありました.
直煮方式は直径3尺,深さ7寸の銅釜或いは鉄釜・唐金釜を用い,薪を燃料としており,釜1基の生産量は,1865年の記録では,塩泉2石4斗5升を煮詰め,食塩1升9合(歩留まり0.7%)を得たとあります.
燃料費を適当に拾ってきた薪を用いて無償とするならば,1升110文となり,これを町場では124文で売れたので,1升当り14文の儲けとなります.
但し,燃料となる薪を購入した場合は,1升301文となって,124文で売ると大赤字になりました.
濃縮→煎熬方式では,浸出する塩泉を砂が含み,日光と風が水分を蒸発させ,乾燥した砂に付着した塩分を塩泉で溶出し,濃度を高めた塩泉を煎熬したと考えられています.
こちらは大規模な分,生産費は掛かったでしょうが,生産量もそれなりだった筈であり,充分ペイ出来たのではないかと推定されています.
この他,塩泉では明治末期に長野県大鹿村で年間1石の生産を報告している様です.
まぁ,いざと言う時の非常用か珍品扱いだったのでしょうね.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/11/10 21:54
【質問】
戦国時代末期以降の捕鯨産業について教えられたし.
【回答】
江戸時代,捕鯨が盛んだったのは,主に西日本地域で,その中でも太地を中心とした紀州,北浦を擁する長州,室戸と足摺岬近辺を漁場とする土佐,西海漁場を擁する肥前と壱岐,対馬です.
関東では,伊豆地方で海豚漁が盛んであり,黒潮に乗って回遊する鯨を仕留める浦賀水道近辺の房州辺りまでとされています.
その中で技術開発が最も進んでいたのが紀州で,紀州の鯨取りは,その技術を用いて効率よく鯨を仕留め,それを見た地元漁民が彼らの教えを請い,その技術を紀州の人々は惜しげもなく与えたことから,西日本全域に彼らの技術が伝播していきました.
さて,土佐はよさこい節でも歌われている様に,鯨が多く見られる地方でした.
『土佐物語』には1591年正月に,浦戸湾内に入り込んだ9尋(約14m)の「小鯨」を漁民が銛で突き取り,これを喜んだ長宗我部元親が,大坂に運んで秀吉に献上した話が書かれています.
丸のままの鯨を献上された秀吉は大層喜んで,元親に朱印状を与え,漁民には褒美として米800石を与えたと言います.
実際に組織的な捕鯨が開始されたのは,山内一豊が土佐に入って以降の事.
一豊の弟である山内康豊は,安芸郡津呂浦の庄屋である多田五郎右衛門に命じて,沿海の海防の任に当らせました.
その軍夫を扶持する為に,1624年頃から「突鯨」を始めたのが最初です.
「突鯨」とは文字通り銛による突き取り捕鯨法で,五郎右衛門の捕鯨は1628年には200人を扶持するほど隆盛を極めましたが,やがて不漁が続き,遂には1641年に中止されました.
1651年には土佐山内家の財政基盤を強固にする目的で,家老の野中兼山が尾張から尾池四郎右衛門を招き,四郎右衛門は尾池組を率いて,安芸郡浮津と幡多郡佐賀(現在の黒潮町)で突取捕鯨を行いました.
1651年のシーズンは,佐賀の沖合で13頭もの鯨を仕留め,その後も好漁が続いて,山内家は船と人を浮津に派遣して,尾池組を加勢する「殿組」を作りましたが,これも間もなく鯨の来遊が少なくなり,1657年には四郎右衛門は尾張に引揚げてしまいました.
以降,浦は寂れる一方で逃散が相次ぎました.
この為,1660年には津呂の多田氏と浮津の有力者が,山内家の援助を受けて捕鯨を再開し,浦の衰退を打開しようとしました.
津呂では,多田五郎右衛門の子である多田吉左衛門が1664年に鯨方の肝煎を命じられ,浮津は浦の有力者の共同経営としてそれぞれ津呂組と浮津組の2つの鯨組が誕生しました.
津呂組の吉左衛門は1683年,紀州太地から網掛突取法と言う画期的な技術を移植します.
これは1677年に和田覚右衛門(頼治)が創始した捕鯨法であり,吉左衛門は太地に渡って覚右衛門に伝授を願いました.
覚右衛門はこれに応えて,羽刺10名と漁夫60名を津呂に派遣して,実地訓練を行いました.
1685年には浮津組も技術を伝授されて,その方式による捕鯨を開始しました.
以後,津呂組では1693~1712年の間に412頭の鯨を仕留めます.
これは年平均約20頭に相当します.
また,1874~1896年の間でも384頭と年平均約16頭が仕留められました.
浮津組も1800~1837年の間に1,000頭を捕獲したと伝えられており,年平均27頭の水揚げがありました.
網掛突取法は,画期的な方法でしたが,莫大な資本を必要としました.
まず漁場近くの山見が鯨を見つけると,合図に従って鯨船が漕ぎ出しました.
それは3種類に分かれています.
鯨を背後から追いかけて網代に追い込み,網に掛かったら銛を投げる勢子船,これは機敏かつスピードが必要なので,細長く軽い船体を有しているものです.
次いで,勢子船が追い立てた鯨を網を以て行く手を遮る網船,これは鯨を捕まえる網を搭載する為に積載量が多く,かつ頑丈な作りをした船でした.
最後が,捕獲した鯨を浜に輸送する持双船で,仕留めた鯨を持双柱に縛り付けて運ぶ為の船でした.
津呂組が当初保有していたのは,勢子船が12艘,網船4艘,持双船2艘に,市船と言う上方などに販売用鯨肉を搭載して帰りに必要な物品を持ち帰る輸送船が2艘で,それぞれの乗員は勢子船が12名,網船8名,持双船6名など総勢300名に及びました.
船の数だけでも相当な数になりますし,雇用者の数も多い為,これが倒れると相当な山内家でも相当な痛手になります.
この為,山内家から彼らは様々な庇護を受けていました.
例えば,網代独占特権に始まり,漁期中には必要な漁飯米を山内家が延売掛(つまり後払い)で融通し,更に網の購入資金を融資するなど,資本の貸付も行われましたし,船材は御留山から払下げを受けることが出来ました.
また,漁期始めや不漁続きの時期には浦方や御仕置方と言った役所から,魚神である恵比須の祭料が下賜される慣わしがありました.
更に,捕鯨場繁栄の為の祈祷を,役所で直接実施したりもしています.
当然,鯨が捕れた場合,山内家には4尋以上の鯨1本に付,銀15匁などの口銀を徴収する他,折々の際に御用銀を課す場合もありました.
鯨が捕れれば捕れるほど,山内家にも実入りが良く入ることになるので,彼らも支援を惜しまなかった訳です.
こうしてそれなりに繁栄をしていった両組でしたが,1779年,津呂組は多田氏から高知城下の商人,辰巳屋勘之丞の手に経営権が移り,1787年に一旦多田氏に経営権が戻りますが,1792年には元村(現在の安芸市)庄屋,奥宮氏の手に移りました.
浮津組は,1683年に浮津庄屋職の宮地武右衛門が当本(経営者)となり,当初の共同経営者だった地下人68名は捕鯨高の20%の割り当てとその鯨肉を売る鯨商人の鑑札を与えられて,経営から外されることになりました.
その宮地氏は1844年に8代目当主が仁淀川以西に追放され,後継者は幼少で鯨組差配が出来ないことを理由に1847年に山内家に没収されました.
また,津呂組も1866年には藩直営となり,2つの鯨組は藩の勧業貨殖と技術教育の統括機関で,後藤象二郎が創設した「開成館」の捕鯨局に改組されました.
藩営となった鯨組は,「御手先組」と呼ばれ,殖産興業の切り札として期待されましたが,余り成果を上げることなく廃藩置県を迎えています.
県営となった鯨組でしたが,県ではこれを民間に移すことを奨励して,地元を始め県内外の商人等に広く経営を委託しました.
しかし,これは何れも長続きせず,結局,県では地元資本による結社を勧奨して資本の貸与を申し出ました.
これを受けて,津呂では地元資産家13名が1874年に津呂捕鯨社,浮津も浮津捕鯨社を設立させて県から経営を引き継ぎました.
とは言え,前途は多難で,地元資本による前近代式漁法を中心とした経営は長く続かず,ノルウェー式捕鯨法の波にのまれることになりました.
因みに,土佐では中央部の山間部や平野部であっても,大晦日や正月に大きなものを食べると縁起がよいとされ,鯨を食べる風習がありました.
大晦日や正月の料理では,蒟蒻と大蒜の葉を使い,併せて人参や豆腐なども入れ,砂糖醤油で味を付けたすき焼きや煮染めとして食していました.
例えば佐川盆地では,蒟蒻と大蒜の葉を入れた鯨の炒り煮を食べていました.
沖で捕れた鯨は,大正末から昭和初期までは「こちどれ」と呼ばれて味がよいとされ,安い肉は南氷洋捕鯨で捕られたものでした.
その安い肉の使い道は,煮物のだしとして用いられていたそうです.
香長平野では,「こちどれ」が魚屋に出ると蒟蒻と豆腐を入れて汁に炊き,醤油で味付け後,大蒜の葉を入れて鯨の煮付けを作ったそうです.
捕鯨が盛んだった室戸市や土佐清水市窪津では,鯨の皮の塩漬けを貯蔵し,煮物やおじやの出汁として用いていましたし,子供がお菓子代わりに鯨の髭の付け根の肉を噛んでいたり,捕れたての鯨の刺身が売られていました.
津呂では,大きな鯨の切り身を安く買い,何十にも切って四斗樽に塩漬けして保存食とし,鯨油を採った粕も煮粕と言って食べ,「小豆身」と呼ばれる脂身のある鯨肉を篦焼きで食べていたと言います.
現在でもスーパーの鮮魚コーナーには鍋や汁物,すき焼き用として鯨肉が並びますし,大晦日の鯨肉を食べる習慣が販売促進に利用されていたり,道の駅で鯨料理を出すような店があるなど,沿岸捕鯨が廃れても,高知では鯨を食べる習慣が根強く残っています.
また,食用以外の鯨の利用としては,先ず,鯨油があります.
鯨油は行灯の油として用いられ,土佐山内家では鯨組から鯨油を安く買い上げ,家中侍の灯火に用い,また,稲の害虫駆除(水を張った田に油を流し,そこに落ちた昆虫の気道を塞いで殺すもの)にも役立てられました.
この他,野蛆の防除として,鯨油と馬酔木の煮出し汁を混ぜ,水鉄炮で掛ける方法も考案されています.
鯨油を搾り取った後の骨粕は肥料になりましたし,鯨の髭は茶運び人形の発条や,阿波木偶人形の目や口を動かす仕掛け用としても用いられました.
変わったところでは,室戸においては鯨の筋で祝儀の「熨斗」を形作り,大阪方面に出荷していたこともあったそうです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/01/06 22:10
【質問】
戦国時代の堺の町の様子は?
【回答】
さて,戦国時代を生き延びた環濠城塞都市として有名なのが,堺の町です.
一旦危機が迫ると,壕を深くし,櫓を上げ,出入口には菱を播いて自営の姿勢を示したそうです.
そんな堺ですが,1615年の大坂夏の陣の前哨戦で灰燼に帰し,その後,徳川幕府の手によって新しく町割が為されました.
この為,往事の町並みを復旧する事は不可能とされていましたが,1970年代半ばより堺市の各地で埋蔵文化財調査が為され,地下3mの所に中世堺の遺構が残っている事が確認されました.
それによると,堺の町は海岸に沿って南北に細長く連なった砂堆上に位置し,東方はこれに沿って後背湿地が拡がっていました.
この砂堆上,海抜6mの稜線をやや蛇行しながら,後に大道と呼ばれた幹線道路が走り,その両側に集落が発展していった事が判明しています.
一方,東から真っ直ぐ延びてきた長尾街道は,堺に入ると大小路と名を変えて中央で大道と接します.
この大小路は古来,摂津と和泉の国境とされ,堺の名称の起源となった道で,大小路以北は摂津国堺北荘,以南は和泉国堺南荘とされていました.
特に南荘は15世紀末には田畠ではなく,屋敷地として税が課され,応仁・文明の大乱以前に比べて家の数は2倍に増え,都市を形成していた事が伺えます.
16世紀後半の堺は,海抜3mの範囲に生活面が拡がっており,後背湿地を利用して堺の環濠が形成されていました.
また,それと共に社寺や町家を囲む内堀が,各所に点在していました.
例えば,1594年の九間町検地帳には,「御坊之内分」と「御坊之内堀跡」に大きく二分され,かつてはこの御坊の周囲に堀が巡らされていた事が判ります.
その面積は前者が3,650坪,その内1,438坪は御堂分,残りは御坊の扶持人や一般商手工業者の宅地,そして堀跡は1,781坪となっていました.
これが方形で四周に堀があるとすれば,凡そ60間四方(方一町)の寺内町の廻りに,幅7間弱の堀が巡らされていた訳です.
これは環濠とは関係が無く,総堀に対する内堀の様な関係で,謂わば二重の環濠城塞都市となっていました.
因みに,こうした環濠や内堀は1586年に,秀吉の命令で埋められてしまいました.
当時の宅地規模は,資料がないので完全に復元は不可能ですが,1525年,堺北荘の鎮守である天神常楽寺の風呂屋敷跡が再開発された時,5戸に分割された記録があります.
何れもその屋敷地は,間口1間半から2間ほどの狭いものでした.
また,先述の「九間町検地帳」では,御坊の寺内を形成していた町の1戸あたりの平均面積は22坪半,平均間口の推定値は凡そ1間半で,奥行は14間半となっていました.
つまり,当時の堺に於ける一般的な階層の宅地規模というのは,間口が深く奥行が深い「鰻の寝床」型だったことが判ります.
これは当時の京や奈良でも,同じ事が言えました.
よく考えると,我があばら屋よりも狭いのですねぇ.
昔から日本の庶民は兎小屋だった訳で.
なお,堺の都市面積は16世紀後半期で凡そ1.5平方キロメートル,人口4~5万人と推定されており,人口密度は,1平方キロメートル当り3万人にも達します.
中世の堺の町名としては,材木町,今市町,市小路,大小路町,舳松町,甲斐町,大道町,宿屋町,神明町,湯屋町,市町,柳町,戎小路,中小路,矢倉下町など20以上の町名が判明しています.
これらの町々の位置関係は,大道と大小路に沿って分布しています.
この大道と大小路の交差点は堺の臍になる部分ですが,この部分には南に市町,北に湯屋町が向かい合っています.
普通,城下町ならお城,寺内町ならお寺の本堂が聳え立っているものですが,堺の場合は商業都市らしく,市場であり,湯屋を備えた歓楽街であった訳です.
因みに,堺の「潮湯浴」と言うのは王朝時代から有名なもので,保養地として知られていました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/06/23 23:14
うさぎ小屋の住人
(うそ)
(画像掲示板より引用)
さて,昨日から堺の話をつらつら書いてみてる訳ですが,1713年の『商人職人懐日記』と言う浮世草子の中に,
「京は著て果,大坂は喰て果,堺は家で果る」
と言う諺がありました.
今は,京都の着倒れ,大阪の食い倒れと言われるのですが,むかしはこれに堺が加わって,衣・食・住で対になっていた訳です.
ただ,昔の栄華は今何処,「堺普請」と呼ばれていた建築の一様式は,既に元禄期には時代遅れのものとなっており,「むかし座敷」と呼ばれる様になっていました.
堺普請と言うのは,京普請の様に,繊細な千本格子を持つ様な洗練されたものではなく,檜造りの台格子に二重座の砲釘を打ち,27~28間くらいの鰻の寝床の様な細長い住居だった様です.
内部は意外に広く,舶来の材木や金銀をふんだんに使い,材木は切り組みにして贅をこらしてみたり,欄間を拵えてみたり,竹揃えの濡れ縁を作ったり,と結構贅をこらしたものだったそうです.
この造形には,数寄屋風の意匠が採り入れられていましたが,その数寄の意匠は,堺普請では成金趣味に傾き,侘び寂びの世界の洗練された調子とは異なるものでした.
また,造作は大体2階建てですが,中2階の形式でした.
その窓から見える風景は,淡路島や海を借景とするなど東西南北が一望に見渡せるもので,風通しも良く,庭には蔵が幾つも建ち,築山には神殿仏殿を祀り,庭には唐木の木々や五色の玉砂利を敷いて,鶏を放ち,池には金魚が遊んでいると言う豪壮なものです.
因みに,蔵は2階建てではなく,3階建ての蔵が威容を誇っていました.
こうした堺普請は,15世紀に堺随一の豪商で,堺発の第1回遣明船を筆頭で請負い,「希代の徳人」と呼ばれた湯川宣阿の屋敷から目立ち始めたと言われています.
1486年には,聚遠亭と称した数寄を凝らした客亭が,宣阿の屋敷を訪れた客人達の感嘆を誘っています.
16世紀後半には,更に呂宋貿易などで財を築いた商人達が,同じ様に数寄を凝らした普請を行っていますが,茶の湯の浸透で,茶の湯の空間に関する資料が頻繁に出て来るのもこの頃です.
茶の湯は当初,町家の中で行われていました.
主に2階の一部を,茶の湯の空間にしていたりしましたが,それは自分の家だけでなく,町が共同所有していた借家の2階で開かれる場合もありました.
堺の町は敷地が狭小であった事から,2階建てが普及していたのですが,最初の頃の茶の湯は2階の一部を仕切って行っていました.
例えば,1587年2月11日に神屋宗湛が招かれた,今井宗薫の子である納屋与太郞の会も,2階座敷に設けられた「二畳半,床なし」の茶室で行われています.
因みに,こうした2階建は豪華すぎると言う訳で,屡々禁制が出されていたりします.
しかし戦国末期になると,豪商はその大きな敷地を利用して,敷地の奥に離れ座敷を設け,茶席とする様になります.
日比屋ディオゴ了珪は,堺の中心部,櫛屋町に邸宅を構えていました.
この主家は瓦葺3階建てと言う,当時としては豪勢なものでしたが,築30年が経過しても,伏見城や方広寺大仏殿を倒壊させた慶長の大地震の際には,少しの損害も出さなかったほど頑丈な造りだったそうです.
1564年に日比屋邸を訪れたフロイスとアルメイダは,主家の奥に続いている離れ座敷に案内されています.
その位置は,廊下を通って奥に抜け,一番奥にある2つ目の中庭に設けられており,部屋の中には付書院があり,その直ぐ側には真っ黒の年度で出来た炉があり,その上には形の良い鉄釜が五徳の上に静かに鎮座していたと言うものです.
天王寺屋の津田一族は,北大小路町に住んでいた豪商ですが,その本家当主の津田宗達は,1548年以降,自らが亭主を務めた茶会の内容を『宗達自会記』として,書き留めています.
当初,宗達は大座敷,小座敷を会場に使用していました.
うち,大座敷は精進や酒の席にも利用される多目的な場でした.
一方の小座敷は,茶の湯専用の座敷として用いられていた様です.
これとは別に,1553年6月からは「茶屋」が登場します.
1556年4月14日昼には畠山式部少輔維広を招きましたが,これは竃土構えを持っている茶屋で,座敷茶よりは自由で,かつ民衆的な趣を持っている場所でした.
宗達の子,津田宗及は,会合衆の1人であり,千利休,今井宗久と並んで秀吉の茶頭を務めた人物ですが,1576年12月5日,「新座敷」が完成し,一族の天王寺屋宗閑,了雲,会合衆の塩屋宗悦を招いて茶会を催しました.
この新座敷は「左勝手」で,広さは4畳半となっていたようです.
その新座敷の完成と相前後して,大座敷の代わりに「書院」が登場し,茶会の前後に行われる振舞いに用いられる様になります.
更に1584年には新しい茶屋が完成し,6月20日夜に銭屋宗訥等を迎えて初めての茶の湯が開催され,翌日の昼には春屋宗園等を招いて,「茶屋の開」が行われました.
1587年3月9日にここを訪れた神屋宗湛は,この茶室の造りを,平三畳に床,竹縁を持った小間の席であった事を書き記しています.
正にこれら豪商達は,「堺は家で果てる」を地で行っていた訳です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/06/24 23:41
何か巷の噂に依れば,日本がW杯予選でデンマークに勝って,決勝リーグに進出した様ですね.
昨日は,流石に寝不足の為に2時前に死んでいて,それから一切起きることなく,目が覚めたら7時半と言う健康的な生活をしていた上に,昼休みを終わって会議を開始すると言うのを,上司が呆けて昼休みに会議すると言う風に勘違いをしたので,ニュースサイトすら見てません.
しかも,1日,来週日曜のシステムメンテナンスの準備に費やしていたので,結局,帰ったらニュースは既に終わっている訳で,本日の世の中の動きが全然判っていなかったりします.
そんな浮世を離れた生活をしているので,今日は茶室の話に(ぉ.
『山上宗二記』には,堺の茶室の例として,有名な紹?四畳半の記述が出て来ます.
それに依れば,「紹?四畳半」は,四畳半の座敷で,檜の柱を用い,壁は張付壁と言う端正な仕上げで,それまでの書院と変わるところはないのですが,出入口の上の小壁が少し長くて鴨居内法が普通のものより低い様になっており,現在の茶室にあるにじり口の先駆的形態となっていました.
もう1つ,座敷の北側には簀子の縁側が張出しており,その縁先には坪庭があって,庭を囲む土塀を挟んで枝振りの良い見越しの松が見え,西側には脇の坪之内,つまり,内露地があって,手水鉢が置かれていた様です.
茶会の客は,内露地から入ってきて潜りから縁先に上がり,座敷に入った訳です.
紹鴎と言うのは,武野紹?の事を指します.
この家は,皮屋と号する富商で,堺の舳先松町に居住していました.
屋敷地の規模や形態は史料を欠いているので,紹?四畳半と主家との位置関係は不明ですが,恐らくは主家の裏手にあったのではないか,と考えられます.
この紹?四畳半は,今井宗久,千利休,武野宗瓦,津田宗及,山上宗二など,堺を代表する茶人が悉く写し,更に唐物持の京や堺の町衆の間にも拡がった様です.
実際,紹鴎が没して数年後の1559年に堺を訪れた南都の松屋久政は,天王寺屋津田一族,千利休,北向道陳等の著名な茶人と交わっていますが,この時の茶室の規模は悉く4畳半でした.
1567年に南都の大仏殿が,松永久秀によって炎上した際に,松屋久政も難を避けて堺に逗留していますが,この年から翌年に掛けて開かれた茶会も,悉く四畳半での開催でした.
久政も,堺の四畳半を採り入れ,南都に帰った後,一族の今小路町久栄の所から自邸の椿井町に四畳半を移しています.
この移設の指図書によれば,北向きの四畳半に一間の床が付き,壁は張付け,北側に竹簀子縁を張出して表坪之内を設け,縁の突き当たりに杉戸の出入口を設けたものです.
なお,久政の椿井町宅では,表の大道に面して「入口引戸」があり,奥へ2~3間進んだ所で一旦折れ曲がって,茶席の出入口に達する様に配置されており,敷地の裏側に設置された事が分っています.
この「四畳半」と言う大きさについてですが,中世の堺に於ける宅地規模は,間口の狭い,そして,奥行の深い「うなぎの寝床」状の敷地でした.
仮に間口2間の敷地を想定して,其処に町屋を建てようとする場合,町家の平面は居室と土間(通り庭)に折半されるので,居室部分の間口は精々1間半が限界です.
すると,1間半四方,これが即ち4畳半であり,この大きさが当時の部屋の標準的な広さであると考えられる訳です.
実際に,出土した遺構でも,1間半を1つの単位とした住居跡が多く出土しています.
紹?四畳半が一種の流行を見た後,茶の湯の主流に躍り出たのが千利休でした.
千利休は紹?の弟子であり,初め,紹?四畳半と殆ど変わらない茶室を造っていました.
1559年4月23日に,千利休の茶席に松屋久政と蜂屋紹佐が招かれますが,この時の久政の記録,『松屋会記』では,「左構えの四畳半」と書いています.
細川三齋は,その仕様について,「松の角柱にも色つけず,上り口一間半四枚の障子,勝手二枚障子,道幸ノ上葭ヘイ也,床一間ハ鳥の子紙の白張,黒縁を打候」と記録しています.
紹?四畳半と比べると,壁仕上げは床のみ張付け壁で残りは土壁としてやや略式化されている点が異なるくらいで,草庵茶室ではありませんでした.
千利休が独自の草庵茶室を考え出すのが,秀吉の茶頭を務めた1580年代のことであると思われます.
座敷は縮小されて小間の茶室が発展し,畳及び,その意匠は「麁相」即ち,粗末な草庵風のものへと工夫されていったのですが,小間の茶室自体は,利休のオリジナルではなく,紹?の時代にもありました.
例えば,紹?の弟子で堺衆の1人だったとされている山本助五郎なる人物は,二畳半の茶室を持っていました.
当時,小間は唐物を所持出来ない階層が略式の茶室として工夫したものです.
利休は佗茶の大成過程で,茶の湯は唐物持だけでなく,より広い階層も含んで発展しようとしていたので,狭小な宅地でも茶の湯を楽しめる様に,小間の茶室が爆発的に流行したとされています.
実際,1586年頃に記録されている茶室は全部で36例,その内,四畳半は9例であるのに対し,四畳が1例,三畳台目が2例,三畳が18例,二畳半が6例となっています.
その中で床が付いていないのは,三畳台目が1例,三畳が3例,二畳半が2例でした.
因みに,二畳半と言うのは現在の二畳台目を指します.
この内,四畳半の亭主は,茜屋宗左,今井宗久,津田宗及と何れも堺の会合衆であり,油屋常悦,天王寺屋道叱,納屋宗春は会合衆に連なる一族,つまり唐物持と思われます.
津田宗及は四畳半とは別に三畳の御茶屋を持っていて,茶会によって使い分けをしていますが,今井宗久も四畳半とは別に茶屋を持っており,湯屋町の誉田屋徳琳も四畳半と二畳半の2つの茶室を保有していました.
つまり,上層階級は,従来からの四畳半座敷と共にこの頃流行った小間の茶室も併せ持っていた訳です.
利休が考え出した意匠の草庵化については,1582年建築とされる妙喜庵の茶室待庵が,完成の域に達した最古の作品と考えられています.
この茶室では,二畳座敷の他,柱は全て丸太柱,壁は土壁で,障子と縁を撤去して,土壁と土間庇に置換え,其処に小さな躙り口を設け,更に採光の為に下地窓,連子窓を配したのが特徴です.
紹?四畳半は,堺普請の正当進化形で,数寄としてのデザインを十分に考えたものでしたが,洗練されたものとは言い難く,下手をすれば成金趣味になりかねないものでした.
それに対して,利休の草庵茶室は,一切の虚飾を廃し簡素な美を特徴とした,堺普請とは異なる方向のアプローチを持っていた事から,普請道楽の堺商人のみならず,京や奈良の粋人が挙って真似したものだったりします.
あ,余談ですが,今日のタイトルに思わず,「四畳半襖の下張」を使おうと思ったのですが,流石に,数寄にはならないので止めてしまいました.
ああ,小市民(笑
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/06/25 23:36
【質問】
戦国時代中期以降,ほとんどの地方では多くの地域を平定する大名が出現するか,そうでなくても有力家の下で連合のように一勢力としてまとまっていきましたが,東北地方はいつまでも小勢力が小競り合いを繰り広げてなかなか有力大名が出現せず,地域統合へ進んでいかなかった,進んだとしてもその時期が遅れたように思えるのですが,この原因としてはどういったことが考えられるでしょうか?
【回答】
・一年の三分の一以上は雪に閉ざされる
・その時期農民兵は当然動かせない.雪が解けたら農作業.暇じゃない
・だから大規模な交通や貿易も発達しなかった
というところでは.
冬季(農閑期)に戦闘を行えないので,なかなか長期間城攻めできない,敵を攻めてもなかなか決着がつかないからって説明を聞いたことがある.
北陸や山陰は戦国大名化しているじゃないかと思ったけど.
面積だけみると,戦国大名といっていいレベルを支配していたりするけどね.東北の大名.南部とか.
【質問】
日本が戦国時代の時,シベリア極東地帯は無人だったんですよね?
なんで蛎崎氏などは蝦夷地と一緒に樺太やウラジオストックの上辺りを領地にしなかったんでしょうか?
【回答】
いや,シベリアにも人は住んでたよ.
タタルとかモンゴル部族とか,ヤクート族とか.
また,前近代においては人=生産力だから,人口希薄地域を支配する旨みなんて殆どない.
ましてや生産体系の全く異なった地域を支配しても,殆どの場合徒労に終わる.
それ以前に,蠣崎にそんな体力はなかった.
渡島半島南部のアイヌ相手にさえ連戦連敗.
和平を結ぶといって相手の指導者を誘き寄せて謀殺を繰返し,何とか全滅を免れていた.
最後はアイヌ側に有利な条件で講和条約.
内容は,倭人が蝦夷地で交易をする時は,松前氏(先の蠣崎氏)を通さなければならない,というもの.
一方,アイヌ船は港の前を通るとき,帆を少し下げる(礼を示すということらしい)のみ.
ところが松崎は,この条約を秀吉に,アイヌ全域の独占交易権を示すものとアピールし,
それが認められ,中央のバックアップもあってか,江戸時代に次第に北海道全域に交易場を造って,影響下に収めていく,と.