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◆◆◆赤松氏
<◆◆人物
<◆室町時代
<戦史FAQ目次
『赤松一族の盛衰』(播磨学研究所編,神戸新聞出版センター,2001/01)
『赤松氏五代: 弓矢取って無双の勇士あり』(渡邊大門著,ミネルヴァ書房,2012/10/10)
【質問】
室町時代の赤松氏について教えられたし.
【回答】
赤松氏は,室町幕府の守護家で,播磨・備前・美作,そして摂津の一部を領有し,京都の市政を担当する侍所の長官を時折担当する将軍の重臣であった.
血統的には村上源氏で,足利氏からすれば外様であるが,外様の身分でこれだけ幕政の中心で要職を長期間にわたって務めた家はほかにない.
佐々木導誉は確かに重要な役割を果たしたが,導誉の死後,京極氏はパッとしなくなるし,京極の惣領家である六角氏は後に台頭はするものの,それは戦国期になってからである.
新田系の山名氏も栄えるが,彼らは反尊氏党として台頭したのであり,その後も室町幕府の中では,どちらかと言えば非主流派であったように思われる.
重要度と活躍した期間において,赤松氏におよぶ外様はおそらくいないのである.
これから,この赤松氏の歴史を簡単に紹介したい.
村上天皇の第7皇子具平親王の子・六条右大臣源顕房の孫季房が,赤松氏の直系の祖先である.
源季房は,丹波守や加賀守を歴任した公家であったが,何らかの罪を犯し,天永2(1111)年,播磨国佐用郡に流された.
この播磨国佐用郡(荘)が,戦国時代に至るまで,赤松氏の本拠地となり,同氏が活躍した舞台である.
季房は,佐用郡の有力豪族の娘との間に子どもを作り,その子季則が,名門貴族の血を引く武将として地元に勢力を広げることとなった.
源季則の孫・山田則景が,鎌倉幕府から佐用荘地頭職に任命され,北条義時の娘を妻としたことが,多くの赤松系図に記されている.
山田則景は,鎌倉幕府の初代播磨守護・梶原景時と密接な関係を有していたらしい.
則景の「景」の字も,景時から拝領したと推測されている.
梶原景時は,2代将軍源頼家の時代に失脚・滅亡するが,則景は北条義時と姻戚関係にあったことから波及をまぬがれて,彼の子孫は佐用荘に広く繁殖する.
佐用荘は,北条義時から,親幕派の公卿であり,4代将軍九条頼経の父である九条道家に寄進され,九条家領となった.
山田氏・宇野氏等則景の一族は,九条家の荘官となって,幕末まで同荘の経営にあたったのである.
山田則景の子・家範が,初めて赤松氏を称した.
佐用荘の中に赤松村という村があり,その村の名を名字にしたのであるが,
赤松村は,佐用荘の中でも最南端の一村に過ぎないという.
つまり赤松氏は,一応は天皇の血をひく名門であるが,庶流もいいところで,地方の身分の低いごくありふれた武士に過ぎなかったのである.
ともかく鎌倉時代の赤松氏は,佐用荘のほんの一部を領有する下級荘官として,平和に生活していたらしい.
この赤松家範の曾孫が,南北朝時代に勃興し,大活躍する赤松則村(円心)なのである.続きはまた次回に・・・.
後醍醐天皇が討幕運動を始めたとき,赤松則村(円心)はすでに50歳となっていたが,相当初期から天皇方に加わって,反幕活動を続けていたらしい.
鎌倉時代の播磨守護は,下野国の大豪族である小山氏が代々務めていたが,播磨国は元寇を契機として執権北条時宗の分国となり,その後は六波羅探題が守護を兼任する北条一門の国となっていた.
円心は,そうした北条氏の支配にずっと反感を抱いていたのかもしれない.
また,前回も述べたように,赤松円心の本拠地である播磨国佐用荘は,九条家領荘園であった.その関係で,円心は,摂関家の警備などの仕事でよく上洛していたらしい.
そのときに,公家や有力寺社との間に独自のパイプができていたようなのである.
彼が討幕に踏み切ったのは,京都で最先端の情報を常に入手できていたことも大きかったのではないかと考えている.
後年,結果的に足利尊氏の天下獲りを助けたのも,赤松が持つ情報と人脈だったのである.
すでに紹介したように,後醍醐天皇の皇子護良親王は,比叡山のトップである天台座主を務めていたが,父帝の倒幕に備えて,ひたすら武芸の稽古に励んでいた.
その相手を務めたのが,赤松円心の三男則祐と,一族で,後に播磨守護代も務めた小寺頼季であった.
また,嘉暦1(1326)年頃には,長男範資と次男貞範を,摂津国尼崎に派遣していた節が窺える.
尼崎は,現在もそうであるが,交通の要衝であり,経済的にも発展した地域であり,軍事的にもきわめて重要な地点である.
円心は,尼崎に勢力を伸ばすことによって,来る倒幕に備えていたらしいのである.
元弘1(1331)年,遂に元弘の乱が起こり,護良親王は比叡山を出て,奈良に没落したが,赤松則祐と小寺頼季は,このとき護良を守って幕府の大軍を相手に奮戦した.
護良は,やがて楠木正成が籠城する千早城に入城し,則祐と頼季は,護良の令旨を持って播磨へ赴き,国内の武士に決起を呼びかけた.
元弘3(1333)年,赤松円心は,佐用荘の苔縄に城を築いて,護良の令旨を掲げて義勇軍を募り,遂に挙兵した.
六波羅探題は,備前守護加地貞季に円心の追討を命じた.
備前守護の命令によって,伊東宣祐が円心を討つために播磨に侵攻してきたが,円心はこれを国境の船坂峠で迎撃し,見事に打ち破った.
円心は,捕らえた宣祐を厚遇したので,伊東氏は円心の味方となった.
後方を固めた円心は,京都に向かって東上を開始した.
六波羅は,北条時知と佐々木時信を大将として,5千騎の大軍を派遣してきた.
両軍は,摂津国摩耶城で決戦し,赤松軍が圧勝した.
赤松軍は,さらに京都に近づいたが,阿波国から幕府方の守護小笠原軍が尼崎に上陸し,油断している赤松軍を側面から攻撃したので,一時赤松軍は総崩れとなった.
しかし,その夜,戦勝に酔いしれている鎌倉幕府軍に夜襲をかけ,これを散々に撃破した.
赤松円心は,逃げる六波羅軍を追撃し,山城国に入って桂川まで進出した.
六波羅では,遂に北方探題北条仲時が出陣し,桂川の対岸で赤松勢を待ち受けた.
赤松軍は,桂川の激流に馬を乗り入れて,不可能と思われていた渡河を成功させたので,六波羅軍は戦わず京都に撤退した.
赤松軍は,こうして快進撃を続け,3月,遂に京都市内に突入したが,京都市内では,追い詰められた六波羅軍はさすがに強く,赤松軍は大敗を喫した.
この後,およそ半月あまり,円心は京都への物資の流入を止めて,六波羅を兵糧攻めにした.
赤松軍と六波羅軍は一進一退の攻防を繰り返したが,続きはまた次回に・・・.
▼ 先述のように,赤松円心は,播磨国の一弱小土豪に過ぎなかった.
対して鎌倉幕府の北条氏は,一門で執権・連署,六波羅探題,評定衆,引付衆など幕府の要職を独占し,日本全国の半数の守護分国を保有し,御内人と呼ばれる家来も数えきれないくらい有し,直轄所領も膨大に領有している大勢力を誇る武士団であった.
しかし,円心軍と六波羅探題軍の合戦の経過を見ていると,ほぼ互角,と言うより,むしろ円心軍の方が優勢である.
これはいったなぜなのであろうか?
1つには,もちろん赤松円心の武将としての卓越した力量である.
また,足軽・野伏といった当時としては最新の戦術を駆使したことも大きいであろう.
赤松軍の強さは,後に新田義貞軍を播磨に迎え撃ったときにも,いかんなく発揮されることとなる.
しかし,最大の理由はやはり,北条氏の政治が人々の支持を失っていたことだったのではないだろうか?
政治権力が人々の支持を集め,政権基盤を固めて定着するには,大別して2つの方法があると私は考えている.
1つは,味方してくれた外様の支持者に莫大な恩賞を与えること.
もう1つは,自己の直轄領や直轄勢力を増やすことである.
しかし,外様の支持者にあまりにも権益を与え過ぎると,その外様が強大化しすぎて,政権にとってまた新たな脅威になりかねない.
かと言って,直轄領や直接支配下に置く家来を増やしすぎると,政権の中枢から排除された外様の反感を招きやすい.
室町幕府もそうであるが,基本的にどの権力も,常にこのバランスに細心の注意をはらって政権を運営・維持しているんだと思う.
で,どの政権も,基本的には外様への恩賞→自己の直轄領の増加とシフトしていくのであるが,北条氏の場合は,あまりにも自己の勢力を増やし過ぎたらしい.
それで排除された有力外様御家人や地方武士たちの,北条氏に対する反感が積もりに積もって,楠木や赤松に対する予想以上の苦戦となったのではないだろうか?
室町幕府においても,足利一門が畿内を中心に守護分国をたくさん保有するが,北条一門に比べれば六角・京極・山名・富樫,そして赤松など,外様の有力守護もそれなりにいて,一族の守護集積はそれほどひどくない.
また,平頼綱・長崎円喜といった,鎌倉幕府では専横を極めた御内人が暴れまくったという話もそれほど聞かない.
室町幕府でもっとも台頭して強大な勢力を誇った御内人が,ほかならぬ高師直なのであるが,高一族も比較的初期に打撃を受け,衰退している.
これは,鎌倉幕府の失敗を,それなりに踏まえた結果なのではないかと想像している.
話が脱線しすぎた.
元に戻ろう.
楠木正成や赤松円心の予想外の奮戦にてこずった鎌倉幕府は,遂に関東から名越高家と足利高氏の大軍を派遣して対処することにした.
名越氏は,鎌倉幕府では北条得宗家に継ぐ格式と規模を誇る勢力であった.
足利氏については,もはや説明の必要はないであろう.
幕府は,遂に本気を出して,ラスボス一歩手前の大物を繰り出してきたのである.
名越高家軍は,大軍を率いて久我に進出してきたが,赤松円心の一族・佐用範家が,高家を弓で射殺した.
これを見た足利高氏は,後醍醐天皇方に寝返ることを決意した.
高氏も,清和源氏の嫡流である割には冷遇されていると,内心幕府に対して反感を抱いていた.
幕府が不利になったのを見て,変心を決めたのであろう.
こうして高氏の寝返りによって,六波羅探題は陥落して,滅亡した.
同時に関東でも,新田義貞軍が鎌倉を攻め落として,遂に鎌倉幕府は滅亡したのである.
結果的に戦争の帰趨を決定したのは,足利の寝返りであるが,それを誘発したのは,それまでの赤松軍の奮戦であり,これがなければおそらく寝返らなかったのではないかと考えられることは見落としてはならない.
続きはまた今度に・・・.
六波羅探題が陥落したので,鎌倉幕府によって隠岐に流されていた後醍醐天皇は,京都に帰った.
天皇は,その途中,播磨国を通過し,元弘3(1333)年5月30日,兵庫の福厳寺に入った.
赤松円心は,ここで初めて後醍醐天皇に拝謁したのである.
後醍醐はもちろん円心の忠節を褒めたたえ,円心も心底から感激したに違いない.
翌6月1日には楠木正成がやってきて,同時に新田義貞の使者が到着し,鎌倉の陥落を報告した.
きっと,WBCで優勝した侍ジャパンのように,盛大に盛り上がったことであろう.
やがて新たに発足した建武政権において,赤松円心は恩賞として播磨守護に任命された.
建武政権の場合,地方行政は,ほぼ守護に一元化していた室町幕府とは異なって,国司と守護を併置する体制であった.
なので,円心の播磨守護を低く評価する見解もあるようだが,前にも言ったように,鎌倉時代の円心が,赤松村という小さな村を支配する一弱小土豪に過ぎなかった事実を想起すれば,これは十分に破格の恩賞と言えると思う.
建武政権の恩賞は,武士にとって不公平であった.
それが,新政が短期間で崩壊した最大の要因である.と思われがちである.
しかし,実際に調べてみると,後醍醐天皇は,全国の多くの武士に対して,莫大な恩賞を与えているのである.
ペースだけなら,将軍足利尊氏の恩賞充行をも上回るほどである.
恩賞地も,北条一門から没収した地頭職が大半で,経済的価値も軍事的重要度も大きいと考えられる上質の土地が多い.
むしろ,二度も裏切ったために,所領の領有関係が錯綜し,複雑になってしまった室町幕府の方が,恩賞の配分には苦労し,恩賞充行が遅れたり,不公平になったり,重複してしまうなどの問題に苦しんでいるように見受けられる.
建武政権は,武士に対する恩賞充行にきわめて積極的な政権であったと私は考えている.
尊氏の離反など,不運も重なって短命に終わったものの,その政策の多くは室町幕府に継承されており,方向性としては決して間違っていなかったと思っている.
また話が脱線した.
ともかく,赤松円心は,倒幕の合戦の勲功を正当に評価され,破格の恩賞にあずかって,播磨守護に大抜擢されたのである.
しかし,以前紹介したように,建武政権では,後醍醐の皇子護良親王と足利尊氏の対立が激化し,結局護良は失脚して,追放された.
それに伴って,護良派であった円心は,せっかく獲得した播磨守護職を解任されてしまったのである.
後任の播磨守護は,播磨国司であった新田義貞が兼任した.
代わりに円心には,故郷佐用荘地頭職が与えられた.
鎌倉期の円心は,この佐用荘の一荘官に過ぎなかったわけであるから,それに比べれば立場は上である.
しかし,播磨守護に比べると,待遇は著しく劣ると言わざるを得ない.
要するに,円心は左遷されたのである.
円心は,この待遇に不満を抱いて,京都を去り,佐用荘に帰ってしまったらしい.
後醍醐天皇の寵臣であった万里小路藤房は,円心の左遷について,天皇を激しく非難したという.
こうして,新政の中枢から排除された赤松円心は,足利尊氏に接近していったのである.
続きはまた今度・・・.
建武2(1335)年8月,足利尊氏は,中先代の乱を起こして鎌倉を占拠した前代鎌倉幕府の得宗北条高時の遺児時行を討つために,後醍醐天皇に無断で京都から出陣した.
このとき尊氏は,当時播磨国佐用荘に引きこもっていた赤松円心に使者を派遣して,子息を出陣させるように依頼した.
円心は,それに答えて次男貞範を派遣し,尊氏軍に従軍させた.
尊氏軍は,北条時行軍を撃破して,鎌倉から追い払ったが,やがて尊氏自身が建武政権に対する反乱軍の頭目となった.
建武政権は,新田義貞を尊氏討伐のために遣わしたが,赤松貞範は,箱根竹の下で,斯波高経・土岐頼遠等とともに新田軍を迎え撃ち,尊良親王・脇屋義助等を撃破した.
尊氏は,貞範の手柄を称え,丹波国春日部荘を恩賞として彼に与えた.
やがて尊氏は,新田義貞を追って京都に攻め上った.
京都に迫った尊氏は,石清水八幡宮に陣を置いたが,このとき円心は,長男の赤松範資を派遣した.
その後,山崎で合戦が始まったが,このとき,元弘の戦乱で赤松軍が先陣となって六波羅探題軍を打ち破った先例に倣って,ふたたび赤松軍が先陣を務めた.
赤松の部下の浦上一族300騎が特に働いて,建武政権軍を破った.
しかし翌建武3(1336)年1月,奥州から北畠顕家軍がはるばる遠征し,尊氏軍を攻撃したので,足利軍は破れ,丹波国に撤退した.
さらに不利になった尊氏は,赤松氏の勢力圏の播磨に退いた.
このとき赤松円心は,尊氏に今後の日本の歴史を決定づけるきわめて重大な提案をしたのである.
すなわち,1つは尊氏はいったん西国に移り,十分に準備を整えてから再起をはかるべきであることと,もう1つは,持明院統の上皇から院宣を獲得して,朝敵の汚名から逃れるべきであるということである.
何ら正統性を持たないまま後醍醐天皇に敵対し,朝敵であり続ける限り,尊氏に勝機はないと円心は見たのである.
尊氏は円心の提言を受け入れ,自身はいったん九州に撤退することにし,同時に持明院統の院宣を獲得することにした.
尊氏軍が備後国の鞆に到着したとき,醍醐寺の三宝院賢俊が,薬王丸とともに到着し,持明院統の光厳上皇の院宣を尊氏に手渡した.
ところで三宝院賢俊というのは,光厳上皇の近臣である日野資名の弟であり,薬王丸というのも日野氏に縁のある人物であった.
また,日野資名・賢俊兄弟の弟である浄俊律師という人物は,護良親王の部下であり,護良の謀反に関与した罪で先に処刑されていた.
つまり,赤松円心は,護良親王の縁で日野氏と独自のパイプを有し,そこからさらに持明院統とつながりがあって,その縁で院宣獲得を尊氏に進言し,かつ成功させることができたのである.
激しい戦乱の時期に,院宣が無事尊氏の許に届けられたのも,播磨を勢力圏とし,山陽道を抑える円心の力のおかげであったと考えられている.
軍事力で尊氏を支え,勝利に導いた武将はいくらでもたくさんいる.
しかし,軍事面だけではなく,イデオロギー面においても公家・寺社勢力との独自のパイプを駆使して尊氏に貢献した,
しかも外様の武将という点で,赤松氏の存在はきわめてユニークであると言えるのである.
そしてもちろん赤松円心は,権威や正統性の面だけではなく,軍事的にも尊氏を大いに助けたが,それについてはまた今度紹介したい.
※参考文献
本郷和人「『満済准后日記』から」(『遥かなる中世』8,1987年)
赤松円心の進言を聞き入れて足利尊氏が一時九州に去った後,円心は,早速尊氏を追って進軍してくるであろう後醍醐天皇軍を迎撃する準備を始めた.
円心は,それまでに居城としていた苔縄の赤松城では小さすぎると判断し,赤松城の北方にある山に新しい城を築き始めた.
一世一代の大舞台に,円心は,赤松氏の本拠地である,赤松村の中心を選んだのである.
室町期には,円心がこの城を築き始めたときに,一流の白旗が山の頂上に降りてきたので,源氏の旗である白旗が舞い降りた縁起のよさにちなんで,白旗城と名づけたという伝承があったという.
やがて,予想どおり新田義貞軍が播磨に侵攻してきて,この白旗城を包囲した.
時に建武3(1336)年3月,赤松円心はこのとき57歳となっており,当時としてはもはや老将と呼べる年齢に達していたが,心は青年のように意気揚揚としていたのである.
新田義貞は,赤松円心に降伏を勧告した.
これに対し円心は,以前の播磨守護に戻してくれれば,天皇の味方になろうと答えた.
そこで義貞は,10日以上かけて,円心を播磨守護に任命する内容の後醍醐天皇綸旨を獲得したが,円心は,播磨国司・守護はすでに将軍足利尊氏から任命されているので,その綸旨は受けられないとつき返した.
これに激怒した義貞は,白旗城を真っ正面から力攻めにした.
しかし,そういう展開は,円心がもっとも望むところであった.
いくら攻めても堅固な白旗城はびくともせず,ただいたずらに新田軍の損害は増すばかりであった.
新田義貞が,後醍醐天皇からもらった匂当内侍という美女にうつつを抜かして尊氏追討をさぼったなんてのは,『太平記』が脚色した取るに足らない所伝にすぎないが,それを差し引いても,義貞というのは,やっぱりあまり頭のよい武将ではなかったようである.
戦況が一向に進展しないので,新田軍はようやく隣の備前国を守っていた足利一門の石橋和義を攻撃し,備中国福山城を陥落させるなどした.
しかし,時はすでに遅かった.
この辺もこのブログでは何度も紹介したところであるが,九州の筑前国多々良浜の戦いで菊地軍を撃破した尊氏が,いよいよ東上を開始したのである.
義貞が赤松攻略に手間取った50日間に,尊氏は九州・四国・山陽を制圧し,もはや手のつけられない大勢力になった.
これはもちろん,尊氏自身のがんばりがもっとも大きいが,赤松が新田軍を引きつけて,進軍を大幅に遅らせた戦略上の功績も大いに寄与していることは言うまでもない.
この続きはまた今度に・・・.
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▼ 反撃の準備を整えた足利尊氏は,建武3(1336)年4月26日,九州を出発した.
途中,備後国鞆津で弟の直義軍を上陸させ,自らは海路を進んだ.
直義軍は,新田義貞軍のほとんど唯一の戦果と言える備中国福山城を奪回したので,5月18日,義貞軍は全軍退却した.
同日,尊氏は播磨国室津に入港した.翌日,赤松円心が白旗城から尊氏の許にかけつけてきた.
このとき円心は,白旗城を包囲していた新田軍が置き去った旗印100流あまりを持ってきて,尊氏の前に並べた.
これらの旗印はみな,かつて尊氏に味方していたが,戦況の悪化によって尊氏を裏切って建武政権軍に寝返った者どもの所有物だったのである.
円心は,尊氏にこれらの不届き者の処遇を尋ねたわけであるが,尊氏は,彼らを寛容に許す態度を示したので,一同さすがは人の上に立つ将軍と尊氏に感心したと言う.
5月25日には,あの有名な湊川の戦いがあって,楠木正成が敗死し,新田義貞が敗走した.
尊氏軍はそのまま京都に進軍し,8月15日,光明天皇を擁立した.
まだ京都内外で合戦は続いていたが,尊氏はこの頃,配下の武士たちに恩賞や感謝状を与えた.
赤松関係では,安積守氏と赤松範資に与えた感謝状が残されている.
周知のように,その後室町幕府が正式に発足し,南北朝時代が始まるが,尊氏は,赤松円心を播磨守護に,円心の長男赤松範資を摂津守護に任命した.
建武政権のときは,播磨守護のみで,しかも当時は国司と守護の併置体制であったから,守護分国が2ヵ国に増えたのは大躍進と言えよう.
いや,円心のこれまでの貢献を考えると,これでもまだむしろ恩賞は少ない方と言えるかもしれない.
しかし,播磨本国では,新田義貞の一族金谷経氏が残って,付近の寺社勢力を味方にして抵抗を続けていた.
赤松円心たちは,当然これら播磨の南朝方の鎮圧を開始した.
この戦いは,暦応3(1340)年頃まで断続的に続いた.
この合戦を通じて,赤松氏は播磨国内の武士を徐々に味方につけ,勢力を強めていったのである.
言い遅れたが,赤松氏シリーズは,高坂好『人物叢書 新装版 赤松円心・満祐』(吉川弘文館,1988年,初出1970年)を参考に書いている.
この本は,40年近く前に出された本であるので,現代的観点で見れば,歴史観が古いところもあり,おそらく事実関係にも誤りが含まれていると思われるが,赤松氏のまとまった伝記としては今なお参考にするべき優れた部分が多々あると思う.
南北朝初期の暦応・康永・貞和年間は,室町幕府にとっては小康状態の安定期であった.
天竜寺や安国寺といった寺社の造営事業が進められ,戦争で荒廃した国土の復興を試みる政策が数多く行われた.
政治体制的には,将軍足利尊氏の弟足利直義が幕府を主導して政治を取り仕切り,前代鎌倉幕府の北条義時・泰時の執権政治を理想に掲げ,所領裁判を中心に多くの政策を遂行した.
私事で恐縮であるが,私は卒業論文で直義の裁判を取り上げた.
いちばん最初に研究した時代であるので,この時代の室町幕府の政治には非常に愛着を持っている.
しかし,貞和も終わりに近づくと,ふたたび戦乱の時代がせまってきた.
このブログでは何度も取り上げたが,楠木正行が成人し,河内・和泉方面で挙兵したのである.
正行は摂津にも進出してきたので,摂津守護赤松範資も出撃し,楠木軍と戦ったが,阿倍野の合戦で大敗を喫した.
結局,尊氏の執事高師直が大軍を率いて出陣し,正行を敗死させた.
だが,このことによって幕府内部における師直の権勢が増大したことによって,師直と直義の対立が激化した.
赤松氏は,この対立に際しては,尊氏―師直ラインについた.
赤松氏のような性格の武家が,武断派の尊氏に味方することは当然の成り行きであったと私は考える.
貞和5(1349)年8月,直義は師直のクーデタによって失脚した.
赤松円心は播磨に下向し,直義派で,当時備前国鞆に滞在していた足利直冬が,養父を救援するために京都に攻め上ってこないように,美作国の船坂峠を固めて阻止した.
足利直冬シリーズで述べたように,直冬は九州に没落したので,円心は京都に戻ったが,これが円心の尊氏に対する最後の奉公となった.
翌貞和6(1350)年1月11日,円心は京都七条の自宅で急死した.
71歳であった.
乱世の武将にふさわしい波乱に富んだ人生であったが,幕府の基礎も固まりきっていないどころか,内紛で揺らいでいる時期に死去するのは,円心としてははなはだ不本意だったのではないだろうか?
尊氏も,重臣であった円心の死に力を落としたに違いない.
71歳と言えば,特に当時はいつ死去してもおかしくない年齢であったはずであるが,赤松円心は譲状を書いていなかったらしい.
まあ,ついこないだまで元気に出陣していたくらいだし,円心のような人物は,自分が死ぬことなど一切考慮に入れない人種のような気がする.
そこで遺族が集まって,遺領の配分が行われた.
赤松惣領家は,長男の赤松範資が継ぎ,彼が播磨・摂津守護を兼任した.
さて,赤松範資が円心の後を継いだ直後,将軍足利尊氏と弟直義が戦う観応の擾乱が勃発した.
この戦乱では,赤松氏が守護を務める摂津・播磨も主戦場となり,赤松氏は当然尊氏軍に従軍して戦った.
観応1(1350)年10月,将軍尊氏は,九州の足利直冬を討つために執事高師直等を率いて出陣した.
この隙を突いて,京都で失脚していた直義が大和に逃れて挙兵したことも,今まで何度も紹介したところである.
しかし,尊氏はこれを無視して播磨から備前国福岡城に入城した.
赤松則祐(円心の三男で範資の弟)は,尊氏軍に従って備中まで進出し,笠岡城を攻めている.
しかし,直義が南朝に降伏して男山に布陣して摂津・河内まで進出してくると,尊氏は引き返して,観応2(1351)年1月に,赤松範資とともに摂津国大渡で直義軍と交戦した.
その後尊氏は,京都で直義に敗北し,丹波から播磨に入り,直義派の石塔頼房が守る光明寺城を包囲したが,これに赤松則祐も参戦した.
だが,直義派の細川顕氏が書写山坂本城を攻撃し,また,美作から直義派の軍勢が佐用荘まで進んできたので,尊氏はこれらの敵と戦った.
すると,湊川城の赤松範資から,直義軍が摂津に進出してきたとの連絡があったので,尊氏はまた引き返して2月27日,打出浜で直義軍と決戦したが,大敗を喫してしまった.
ここに観応の擾乱第1ラウンドの勝負は決したのである.
尊氏は,仕方なく直義と講和した.
赤松氏も,このときばかりは尊氏を助けることができなかった.
しかも講和後の4月8日には,今度は赤松範資まで急死してしまった.
円心に続いて範資まで亡くなってしまい,赤松氏にとっては打撃であったろう.
赤松範資には7人の子がいたが,長男の赤松光範には摂津守護職が与えられただけで,赤松氏の惣領と本国播磨守護職は,赤松則祐が継承した.
赤松則祐は,これまでも合戦の手柄が多く,優れた力量を持つ武将として周囲に認められていた.
佐々木導誉の娘を妻としていた.
赤松円心の三男で,貞範という兄がいたが,赤松貞範は直義や公家衆に非常に評判が悪かったので,後を継ぐことはできなかったらしい.
赤松光範は,京都七条の邸宅を譲り受けたので,彼の子孫を「赤松七条流」と言った.
また,光範の弟たちもそれぞれ所領を譲与され,その地を名字として,「赤松一家衆」と称された.
一方,嫡流となった赤松則祐は,京都二条西洞院に住んだ.
ここが後年,嘉吉の乱で将軍足利義教が暗殺された舞台となったのである.
以前書いたことと重複する部分も多いが,観応の擾乱において,将軍尊氏と直義が一時的に講和した束の間の平和の時期,赤松氏は,実にユニークな動向を示す.
この頃,護良親王の子で,陸良親王と考えられる人物が,兵部卿親王と呼ばれて,紀伊国の熊野新宮の衆徒と水軍を率いて幕府と戦っていた.
赤松則祐は,尊氏と直義が講和した直後の観応2(1351)年3月,京都に上洛していた兵部卿親王と面会し,彼を奉じることとなった.
そのため,兵部卿親王が「赤松宮」と呼ばれることになったことは以前も紹介した.
赤松氏が,護良親王と密接な関係にあったことはすでに述べた.
その護良系とのコネクションが,観応の擾乱段階においてふたたび表面化してきたのである.
7月になると則祐は,分国播磨に下って,この赤松宮をかついで兵を集め始めた.
尊氏はこれを赤松が南朝に寝返って謀反を起こそうとしているとして,赤松を討つために播磨へ出陣した.
同じころ,佐々木導誉も近江で寝返ったので,こちらは尊氏の嫡子義詮が討伐に向かった.
直義は,兄と甥の武運を祈って,これを見送った.
しかし,これは実は京都の直義を包囲してせん滅するための尊氏の謀略であった.
それに気づいた直義は自派の部将を率いてあわてて北陸へ没落した.
このあたりも,このブログでは何度も述べたことである.
ところで,高坂氏は,こうした赤松則祐の一連の動向を,則祐なりに南北両朝の和睦を願って行ったことと解釈している.
しかし,これは少々則祐に好意的すぎるような気がしてならない.
私は,この時期の則祐はけっこう本気で南朝方になろうとしていたのではないかと考えている.
私たちは,観応の擾乱が将軍尊氏の勝利で終わったという結果を知っているから,その結果に引きつけて物事を解釈しがちである.
しかし,当時,観応2年7月の段階では,本当に先行きが不透明で,尊氏が敗死する可能性だって大いにあったのである.
則祐は,あらゆる可能性を想定し,状況がどう転んでも自分が生き残れることができるように,以前から縁のあった赤松宮とのコネを生かして,彼を担ぎ出した,そう思えてならない.
事実,則祐の弟赤松氏範は,この頃南朝方となって,実際に吉野に行って南朝に仕えているのである.
これは兄則祐と不和になったからと言われているが,そうではなくて,氏範は兄に南朝に仕えるように命じられたのではないだろうか?
一方,かつて建武政権で罪人扱いされて失脚した護良親王の子である赤松宮は,南朝の中でも主流派とは離れた存在であったらしい.
この際,赤松氏の軍事力を利用して南朝の天皇となり,あわよくば北朝も打倒して朝廷を統一して日本の支配者になることをもくろんだとしてもおかしくない.
則祐にそんなことを吹き込まれてその気になったというのは,いかにもありそうなことである.
そして,将軍尊氏は尊氏で,則祐や導誉の狡猾な意図など百も承知で,敢えてそれに乗った節がある.
赤松氏が持つ南朝との独自のパイプを逆利用して南朝を味方につけ,その権威を利用して宿敵直義を打倒しようとしたのではないだろうか?
尊氏は,かつて執事高師直がクーデタを起こし尊氏邸を大軍で包囲したときも,その絶望的な状況を見事に逆手に取って,直義の失脚に成功したことがある.
逆境をこれほどまでに自分の強みに変えることができる武将を私はほかに知らない.
尊氏は,確かに偉大な将軍なのである.
とにかく,赤松氏・赤松宮・尊氏と三者三様の思惑で状況は複雑に推移し,真相はよくわからないのであるが,結局現実は尊氏のねらいどおりに進展した.
尊氏の南朝降伏が正式に受理され,ここに「正平の一統」が実現した.
そして尊氏は,弟直義を討つために東国に出陣するが,赤松氏は西国に残留した.
正平の一統もすぐに破たんするが,赤松氏は,播磨・摂津・河内等で南朝方と連戦し,これを破った.
なお,赤松氏範は,正平一統が破れた後,則祐の許に戻っている.
赤松宮も,吉野に帰っていった.
観応の擾乱を過ぎたあたりから,赤松氏には,政治史的に見て,地政学上の新たな役割が加わるようになった.
それはすなわち,山陰地方で大勢力となり,直義派→直冬派→南朝方と転じて,幕府に敵対するようになった山名氏を軍事的に牽制し,その京都進出を抑える使命である.
山名氏が幕府に帰参した後も,赤松氏のこの役割は継続され,応仁の乱のあたりまで,赤松氏と山名氏は幕閣においても一貫して敵対関係となり続けたのである.
そして,文和1(1352)年頃から,赤松則祐は,城山城(きのやまじょう)という城を築き始めた.
これは,かつて則祐の父赤松円心が新田義貞軍を迎え撃つために急造した白旗城とは違って,白壁塗りの守護館を構え,貞治2(1363)年まで10年以上を費やして造営された本格的な城郭であった.
則祐は,城山城を播磨国の守護支配の根拠地とするとともに,山陰の山名氏と対峙するための前進基地としたのである.
城山城の築城に際しては,播磨国の荘園に人夫や費用,木材などが徴発された.
東寺領播磨国矢野荘もその1つで,現代に残る世界遺産東寺百合文書の学衆方引付という記録を読むと,その具体的な徴発の内容を詳しく知ることができる.
人夫の数も費用の額も膨大であったらしく,東寺にとっては大きな負担であった.
しかし,矢野荘は武士の恒常的な侵略に悩まされており,しかも侵略者は守護に属する武士であることが多かった.
訴訟で勝訴し,守護にその判決を執行してもらうためには,守護の命令に従い,積極的に協力する必要が不可欠であった.
赤松氏に限ったことではないが,室町幕府の守護は,こうした形で分国への支配を強化していったのである.
なお,後年将軍足利義教を暗殺し,播磨に下った赤松満祐が,幕府の大軍を迎え撃って最期を迎えた城が,ほかならぬこの城山城なのである.
この一事を見ても,城山城が赤松氏にとっていかに重要な存在であったかがよくわかるであろう.
話を元に戻すと,城山城築城の間にも,赤松氏の合戦は続いた.
南朝が京都を占領すると,将軍や義詮に従って京都近辺で戦った.山名氏が播磨に侵攻してくると,現地に下向して防戦に努めた.
文和2(1353)年5月,山名時氏・楠木正儀たちが京都を攻め,義詮は美濃に逃れた.
赤松則祐は,備前守護松田盛朝らとともに上洛し,将軍尊氏も鎌倉から戻ってきたので,時氏は本国伯耆へ撤退した.
12月には,山名時氏はふたたび伯耆から出陣し,美作から播磨へ向かった.
このときは,赤松貞範が時氏方の前線基地であった英多城を陥落させ,山名軍の播磨侵入を防いだ.
翌文和3(1354)年2月にも,但馬方面から山名方の軍勢が攻めてきたので,赤松則祐は後藤基景等を率いて南条で迎え撃ち,3月にも安田荘や蔭山荘で交戦した.
文和4(1355)年にはついに,直冬本人が,山名時氏等を率いて京都に侵入してきた.
則祐は播磨に逃れた義詮を迎え,彼に従って播磨を出陣し,摂津神南山に布陣して京都奪回をはかった.
2月,山名軍がこれに猛攻撃を加えたので,則祐は親族や配下の武将全員を率いて必死に防戦し,中国・四国の軍勢も従ったので,山名軍は遂に敗れて山崎に撤退した.
このように,文和年間は,毎年山名軍の侵攻があって,赤松氏はその都度これを撃退して,足利将軍家を支えに支えたのである.
さて,播磨の隣国美作の守護は,室町幕府発足以来,鎌倉時代の出雲守護佐々木氏の一族である富田秀貞であった.
しかし,富田秀貞は山名時氏の侵攻によって,山名側に寝返って南朝方となってしまった.
そのため,延文1(1356)年ころから,赤松貞範が美作守護を務めるようになった.
ここに赤松氏は,播磨(則祐)・摂津(光範)・美作(貞範)の3ヵ国守護となったのである.
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▼ 延文3(1358)年4月,将軍尊氏が死去し,嫡子義詮が後を継いで室町幕府2代将軍となった.
このブログでは何度も取り上げてきたことだが,翌延文4(1359)年12月,義詮のもとで新たに執事となった細川清氏が,南朝に総攻撃をかけて一気に決着をつけようとした.
赤松氏も当然この幕府の大軍に従軍した.
このとき,義詮の計略によって護良親王の子の赤松宮が赤松氏範にかつがれて南朝で謀反を起こしたことは,以前紹介したことがある.
将軍義詮も出陣し,摂津国尼崎城に滞在した.この義詮を,摂津守護赤松光範が接待したが,光範はこのとき何かへまをやらかして義詮を激怒させてしまったらしい.
激怒した義詮によって,光範は摂津守護職を解任されてしまった.
光範の後任には,佐々木導誉が就任した.
この光範解任騒動の背景には,単に光範が接待で不始末をしでかしたということだけではなく,執事細川清氏と佐々木導誉の幕府内部での対立など,いろいろ複雑な政治情勢がからんでいたらしい.
仁木義長の失脚など,幕府で激しい内紛が勃発したために,この南朝総攻撃は失敗に終わるが,その責任を取らされる形で光範が摂津守護を罷免されたという背景もあったようである.
赤松光範は,言わばこうした幕府の派閥対立に巻き込まれたわけであるが,特に観応の擾乱以降は,そういう幕府内の対立によって守護職の移動が頻繁に行われる時代が訪れたのである.
康安1(1361)年7月には,南朝方の山名時氏が,赤松貞範が守護を務める美作に侵攻してきた.
時氏は,貞範不在の隙を突いて,美作の諸城をことごとく攻め落とした.
赤松則祐・貞範をはじめとする赤松氏が一族を挙げて美作に進軍したときには,わずかに倉懸城のみが持ちこたえて残っていた.
この倉懸城も遂に陥落したが,赤松軍との激しい交戦によって大損害を受けた山名軍は,本国伯耆に撤退した.
同年12月に,楠木正儀や南朝に寝返った細川清氏が京都に攻め込んで占領した.
義詮は,後光厳天皇を奉じて近江国に逃亡した.将軍邸は南朝軍によって放火され,焼失した.
このとき,義詮の嫡子春王(後の義満)はわずか3歳の幼児で,伊勢貞継の邸宅で養育されていたが,貞継は,建仁寺大龍庵の蘭洲良芳に幼い義満を預け,無事逃走させるように依頼した.
蘭洲は,法衣の下に義満を隠して逃れ,赤松氏の家来で播磨国の武士である北野行綱に義満を託した.
行綱は,商人に変装して,播磨国の白旗城まで無事に義満を送り届けたのである.
須磨の海岸の景色に感動した義満が,「この風景を京都に持って行け」と命じ,大将軍の片鱗を見せて赤松氏の家来たちを驚かせたのは,このときのことである.
義満は,このときの行綱に大変感謝の念を抱いており,後に成長して将軍になったとき,自分の偏諱を行綱に与えて,「義綱」と改名させた.
義満が家臣に名前を与えるときは,普通は「満」の字を与え,「義」を与えるのは,斯波氏・吉良氏など,足利一門でも将軍家に匹敵するほど高い家柄を誇る武士か,将軍が特に恩義を感じている武士に限られる.
義満がいかに彼に恩義を感じていたかがよくわかるであろう.
北野義綱は,赤松氏でも出世して,白旗城軍師となった.
田舎の白旗城で退屈していた義満をなぐさめ,楽しませるために,赤松の家来たちが田舎風流を演じた.
義満はこのときの楽しい思い出を忘れられず,大人になって将軍になってからも,ときどき赤松の屋敷を訪問し,この風流を演じさせた.
やがてこの風流は,「赤松ばやし」と呼ばれるようになり,正月13日の赤松円心の命日に行われる将軍家の公式行事となった.
このように,将軍義満にとっても,赤松氏は特別の存在だったのである.
続きはまた今度に・・・.
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▼ 貞治1(1362)年にも,山名師義の侵攻があり,山名軍が美作から備前に侵入してきた.
備前守護松田信重は,これを防ぎきれず敗北した.
しかし,赤松則祐と貞範が美作で山名軍と交戦し,またもや山名軍を破って撃退した.
そのころ中央政界では,執事斯波義将の父親で,彼の後見として事実上幕政を掌握していた斯波高経と,尊氏以来の元老佐々木導誉の対立が激化していた.
佐々木導誉は,娘婿の斯波氏頼(高経3男)を執事にするために,斯波高経と連携して前執事細川清氏を失脚させた.
しかし,導誉の影響力の増大を恐れた高経が,義将(高経4男)を後任の執事に据えたために,今度は導誉と高経の対立が始まったのである.
貞治1年8月,南朝軍が摂津国に侵攻し,摂津守護代箕浦次郎左衛門尉が敗北して退却したため,斯波高経はこの責任を追及して導誉から摂津守護職を取り上げ,赤松則祐,次いで光範に交代させた.
赤松氏は,斯波高経と佐々木導誉の幕府内部の抗争を利用して,先年失ったばかりの摂津守護を早速奪回したのである.
しかし,翌貞治2(1363)年,山名時氏が幕府に降伏して復帰すると,山名氏は,本国伯耆・因幡のほかに丹波・丹後・美作の守護を認められた.
つまり,山名氏の復帰に伴って,赤松貞範の美作守護職が解任されたのである.
だが,その代わりとして,貞治4(1365)年頃から,赤松則祐の備前守護在任が確認できる.
備前守護は,室町幕府発足以来,松田氏が務めていたが,松田氏は弱小の守護で,同氏の力量ではたびたび山名氏の侵攻を防ぎきれなかったらしい.
赤松氏の備前獲得は,幕府に復帰したとは言え,依然脅威であった山名氏を牽制する目的と,山名氏のために美作守護を失った赤松氏に対する補償の2つの意味があったと考えられる.
守護同士の勢力均衡の上に将軍権力を維持する全盛期室町幕府の政治方針が確立しつつあったのである.
以上まとめると,将軍義詮期,赤松氏は,本国の播磨に加え,摂津・備前3国の守護となったのである.
次の義満の時代,応安3(1370)年,赤松則祐は,佐々木導誉の後任として,幕府の禅律方の頭人に任命された.
禅律方とは,禅宗・律宗系の仏教寺院を統括し,禅律系寺院の所領に関する訴訟などを担当する機関である.
本ブログでは割愛したが,則祐の父赤松円心も,そして則祐自身も禅僧であり,京都の著名な高僧たちと密接な関係を有していた優れた宗教家でもあった.
僧侶でもある則祐が寺院を統括する部署の長に任命されたのは妥当な人事と言えよう.
翌応安4(1371)年には,則祐の後継者赤松義則が,石清水八幡宮を造営する奉行に任命された.
石清水八幡宮は,言うまでもなく清和源氏である足利将軍家が崇敬する重要な神社である.
将軍義満の実母は,ここの神主の娘であった.
赤松氏惣領の後継者がこの神社の造営責任者に任命されるのは,同氏がいかに将軍家に重用されていたのかをよく物語るであろう.
しかし,赤松義則は,このときまだ13歳の少年であったので,父の則祐が実際の工事を指揮したらしい.
その心労がたたったのか,赤松則祐は同年11月29日に急死した.
60歳であった.
父円心に従い,幕府草創期から将軍尊氏や義詮を支え,彼らの創業を助けた武将であった.
続きはまた次回に・・・.
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▼ 話は前後するが,応安2(1369)年,赤松氏範がふたたび南朝方に寝返って摂津国中島郡で挙兵し,敗死した.
赤松氏範は赤松則祐の弟で,氏範の「氏」はおそらく将軍尊氏から拝領したのだと思うが,南朝方と特に密接な関係があったらしく,観応の擾乱頃から幕府と南朝の間を頻繁に行ったり来たりしていた.
赤松宮を担いで後村上天皇に対して謀反を起こさせ,吉野の行宮を占拠したこともあることは,今までも2回ほど紹介したことがある.
この氏範が遂に戦死したのであるが,この人も謎が多いよくわからない武将である.
応安4(1371)年,赤松則祐が死去した後,嫡子の義則が13歳で後を継いだ.
赤松義則は,蔵人左近将監に任命され,父の後を継いで播磨・摂津・備前3ヵ国の守護となった.
しかし摂津守護は,応安7(1374)年頃から,管領細川頼之の弟頼元に交代する.
これは赤松義則が幼少であったことと,管領細川氏の勢力伸長によるものであろう.
摂津守護は,頼之が失脚した康暦の政変(1379)の後,一時的に細川氏の政敵斯波派の渋川満頼に交代するが,すぐに細川氏が奪回し,管領細川氏の分国として定着し,戦国時代に至る.
ただし,細川氏は摂津全域を支配したわけではなく,
有馬郡は赤松氏に残され,やがて同氏の庶流が代々継承するようになる.
摂津など重要な国は,複数の大名が分割して支配することがあり,これを「分郡守護」とか「分国守護」という.
赤松氏は,摂津国有馬郡の分郡守護となったのである.
赤松義則は,嘉慶2(1388)年に侍所頭人となっている.
侍所は,源頼朝が鎌倉幕府を開いて以来存続してきた幕府の機関であり,当初はその名のとおり全国の武士を統括したが,この時代は,京都の市政機関となっていた.
赤松氏が侍所の長官となったのはこのときが初めてで,この頃から,侍所頭人は,赤松・山名・一色・京極の4氏が交代で務める慣例となり,後世この4氏を「四職」と称するようになった.
明徳2(1391)年,将軍義満は,一族で11ヵ国の守護を占め,「六分一衆」などと呼ばれていた山名氏の勢力を削減することを決意し,山名軍と京都で大決戦を行った.明徳の乱である.
このとき,ふたたび侍所頭人となっていた赤松義則は,もちろん一族を率いて将軍に従って出陣し,山名軍と激闘を演じた.
赤松軍は,義則の弟満則をはじめとして,57人の部将が討死する莫大な犠牲を出した.
赤松氏がここまで本気で戦ったのは,無論侍所であったことも大きいだろうが,山名氏との長年にわたる地政学上の対抗関係も影響しているのであろう.
いや,義満は,これを見越して,わざわざ山名氏と仲の悪い赤松氏を侍所に任命したのだと思う.
赤松義則は,この合戦の恩賞として,山名氏から没収した美作守護と摂津国中島郡を拝領した.
ここに,播磨・備前・美作・摂津有馬郡等を領有する安定期室町幕府の赤松氏の勢力がほぼ確定したのである.
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▼ 播磨・美作・備前3ヵ国の守護および侍所を務める室町幕府の有力重臣の家として赤松氏が確立すると,惣領の守護家だけではなく,庶流の赤松氏も台頭し,将軍に重用されるようになった.
今回は,そうした赤松庶流家について紹介したい.
まずは,赤松大河内家である.
赤松大河内家は,惣領赤松義則の弟で,明徳の乱で戦死した赤松満則の子孫である.
播磨国大河内荘を所領としていたので,こう呼ばれたそうである.
赤松満則には満政という子どもがいたが,惣領義則は,幼くして父をなくしたこの甥を不憫に思って実の子のように愛して養い育てたという.
赤松満政は,幼いころから聡明で,和歌や書にたくみで,伯父の義則だけではなく,義満等の将軍たちにも非常に愛された.
将軍義教の時代には,義教の近習として大活躍したことが知られる.
惣領義則には,ほかに義祐という弟もいて,この家系は赤松有馬氏と称した.
摂津国有馬郡の分郡守護を務めたので,こう呼ばれる.
有馬氏は戦国時代にも大名として生き残り,有馬則頼のときに8万石の大名となり,その子有馬豊氏は福知山6万石を合わせ,さらに江戸時代になって九州久留米藩21万石を領した.
ある意味でもっとも得をし,勝ち組となったのが,この有馬氏である.
さらに,赤松円心の次男貞範を祖とする赤松春日部家がある.
丹波国春日部荘を領有したのでこう呼ばれる.
前回の記事で,室町殿義持の寵愛を受け,義持が播磨守護を与えようとした赤松持貞は,この家系の出身である.
義持の持貞への寵愛ぶりはとてもすさまじく,持貞は常に義持のそばに仕え,諸大名や諸社寺は彼を通さないと,義持に要望を伝えることができなかったそうである.
そのため諸勢力はこぞって持貞に莫大な贈り物を贈って,彼のご機嫌をとり続けていなければならなかったほどである.
前回も紹介したとおり,結局持貞は義持の側室と密通した罪で処刑されるが,将軍義教の時代になってもこの春日部家からは赤松貞村という人物が出て,娘が義教の側室となって男児を産むなど密接な関係を結ぶのである.
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▼ 応永35(1428)年1月,室町殿義持が急死した.後を継いだのはもちろん,くじ引きで将軍に選ばれた足利義教である.
赤松満祐にとっても将軍義教にとっても,おたがいきわめて運命的な出会いだったのであるが,このときは両者ともまだその事実はもちろん全然知らないわけである.
この年は,4月に正長と改元されたが,5月7日の夜,義教は山城国のミゾロ池から虹が立って自分の口に入る夢を見た.
不思議な夢だったので,勘解由小路在方に占わせたところ,義教の短命と,100日以内に兵乱が起こる予兆であるとの答申が返ってきた.
兵乱とは,鎌倉公方足利持氏の幕府に対する反抗や,8月の伊勢国司北畠満雅の反乱,9月の土一揆など,短命は,13年後,赤松満祐が義教を暗殺したことを指す.この予言は,見事に的中したのである.
この年,今述べたとおり,9月にきわめて大規模な土一揆が京都近郊で発生した.
この一揆は,「正長の土一揆」と言われ,「日本が始まって以来,民衆が蜂起したのは初めてのことである」と当時の人に称されたように,歴史的に画期的な出来事であった.
中学や高校の日本史でも大きく扱われるので,ご存じの方も多いであろう.
新将軍義教は,すでに8月,赤松満祐を侍所頭人に任命していたので,満祐は,侍所頭人の職務を果たすため,この一揆の鎮圧に専念した.
ところが,この年の末頃から,一揆は満祐の本国である播磨国まで波及し始めた.
播磨の土一揆は,「この国に侍は必要ない」と叫び,守護赤松氏の軍勢を殺害したり,国外に追い出したりした.きわめて激しい民衆の蜂起があったようである.
そのため満祐は,急遽本国播磨に帰還し,一揆の鎮圧にあたったが,これだけ猛威をふるった播磨の一揆は,その後ぴたりとやんだらしく,どの記録にも見えないそうである.
高坂好氏は,前年に前室町殿義持の赤松討伐に備え,満祐が播磨国内の諸城に備蓄した兵糧米を民衆に与えて懐柔したのではないかと推定しているが,おそらく正しいであろう.
また,同年6月19日には,白旗城に白旗が降りてきたため,朝廷の使者が播磨に赴いている.
これは,かつて赤松氏の事実上の祖である円心が建武のころ,新田義貞の大軍を迎え撃つためにこの城を築いたときに出現したと言われる伝説である.
これも初代将軍尊氏と赤松円心の威光をもって赤松氏の信用を回復させ,民衆の動揺を鎮めるための演出と見られている.
ともかく,赤松満祐は見事に事態を収拾させ,一揆を鎮静化した.
満祐は外見が醜く性格も最悪で嫌われ者だったかもしれないが,武将・政治家としてはかなり有能な人物であったようである.
やがて,将軍義教を暗殺することになる赤松満祐であるが,少なくとも父義則の死に乗じて理由がないのに強引に播磨守護職を没収しようとした先代の義持に比べると,両者の関係はむしろきわめて良好であったと言える.
義教が将軍に就任して早々,早速満祐を侍所頭人に任命し,満祐も正長の土一揆の鎮静化に尽力したことについては,すでに前回紹介したとおりである.
満祐は永享4(1432)年侍所を解任され,一色義貫に交代するが,何度か紹介したとおり,この時期の侍所は赤松・一色・京極・山名の4氏が数年おきに交代で務める慣例となっており,これは満祐が左遷や冷遇されたというわけではない.
それどころかこのときの交代は,大和国で発生した争乱を満祐に鎮圧させるためであったので,むしろ義教に期待され,重用されていたと言えるのである.
赤松氏はこのときの奈良遠征で,60名が戦死する犠牲を出し,満祐の弟赤松義雅も負傷した.
ちなみに,満祐は永享8(1436)年から11(1439)年にかけても,ふたたび侍所頭人を務めている.
こうして見ると,赤松満祐は将軍義教に排除されるどころか,むしろその有能さを買われて重用されていたのではないだろうか?
また,こうした政治面だけではなく,文化面や儀礼面においても,この時期赤松氏と将軍家の密接な関係が見て取れる.
かつて播磨国に没落した幼少の義満をなぐさめるために,赤松の家臣たちが演じた田舎風流が「赤松ばやし」と呼ばれ,幕府の公式行事になったことは以前も紹介したが,これは義満が成長すると廃止され,代わって猿楽が上演されるようになり,京都近郊の寺社の供奉人が務めるようになった.
これを「松法師」と呼んだが,正長2(1429)年,赤松満祐はふたたび赤松氏が行うことを将軍に申し入れ,実現させた.
この後,赤松ばやしは義教が暗殺されるまで室町邸の毎年の恒例行事となったが,ここには将軍家との密接な関係を回復させることで赤松氏の高揚をはかった,満祐の意図が読み取れるであろう.
こういう満祐からは,将軍を殺そうなどという企みは微塵も窺えないのである.
義教は義教で,赤松邸を頻繁に訪問した.
将軍が家臣の自宅を訪問するのは,単に遊びに行くだけではなく,将軍と家臣の主従関係を再確認する重要な儀式でもあった.
もちろん満祐に将軍の権威を見せつける意味もあったのであるが,赤松氏にとっても将軍が訪問するほど重要な家柄であることをアピールできるメリットがあった.
これは赤松氏も積極的に希望したことでもあるし,義教の満祐に対する信頼感がなければここまで頻繁に訪問するわけはないのである.
義教が暗殺されたのも,赤松邸を訪問したときであった.
要するに,将軍と赤松の関係は相当良好であり,満祐が義教を暗殺するに至った原因はよくわからないのである.
明智光秀が本能寺の変を起こして,織田信長を殺害した理由もまるで不明で,現代においてもさまざまな説が出されているが,その状況とよく似ているのである.
よく言われているのが,庶流の赤松満政が近習として義教に重んぜられていたことである.
しかし,庶流が将軍に重用されることは,宗家の権威の向上にもつながり,宗家にとっても決して悪いことばかりではなかったはずである.
同じ庶流の赤松貞村と義教の男色関係も,よく指摘されることであるが,貞村は先代義持の時代に出家しているほどで,年齢的に男色関係は想定しがたい.
貞村の娘が義教の側室となって,男児を産んだのは事実であるが,義教は,舅が将軍との血縁を利用して不当に権力を握ることをきわめて嫌った将軍である.
舅のために満祐を抑圧しようなどと考えるわけがないのである.
『看聞日記』には正親町三条実雅の邸宅で,些細なことで激怒した義教が,赤松から播磨・美作を取り上げると宣言した話も記されているが,所詮は伝聞にすぎず,どこまで真実かはわからない.
侍女として室町邸に仕えていた満祐の娘が義教の企てを知り,父に知らせようと手紙を書いたのを見つけられたので自害したという話もあるが,いかにも作り話くさい.
永享12(1440)年,満祐の弟赤松義雅の所領がすべて没収され,満祐と貞村と細川持賢の3人に分与された.
このとき,細川持賢には摂津国昆陽野荘が与えられたが,これは赤松義則が明徳の乱の恩賞として拝領したものであるから,他家に渡すのは忍びないので宗家に与えるように満祐は義教に懇願したが,聞き入れられなかった.
これもよく暗殺の一因として指摘される.
確かに満祐にとっては不満の残る裁定であったろうが,たかだか一所領のことが将軍殺しを考えるほどのこととは思えない.
こんなことでいちいち将軍を暗殺していたら,歴代将軍は全員暗殺されていなければならないだろう.
そもそも,このときは満祐の所領自体は増えているのである.
永享10(1438)年,赤松の重臣4人が湯起請にかけられ,このうち3人が切腹した.
将軍暗殺の原因として唯一ありそうなのは,この事件くらいのものであるが,将軍との密接な関係を考えると,これも暗殺に踏み切るほどのことかとも思う.
このように,従来嘉吉の乱の原因として指摘されている事件は,どれもみな根拠として弱いのではないかと私は考える.
そこで注目されるのは,赤松氏と山名氏の対抗関係に着目する本郷和人氏の見解である.
次回は,この説を簡単に紹介したい.
結論を先に言えば,赤松満祐が将軍義教を暗殺した背景には,幕府内部における山名時煕―三宝院満済と細川持之―赤松満祐の対立があったらしいのである.
それは例えば,伊賀守護をめぐる人事に現われている.
伊賀守護は,それまで仁木氏が務めていた.
仁木氏は,尊氏の時代に仁木頼章が執事となり,大いに栄えたが,尊氏死後は失脚してわずかに伊賀1国の守護に転落していた.
しかも,伊賀の隣国伊勢には,北畠氏が伊勢国司として強大な勢力を保っていた.
北畠氏は南北朝期にはもちろん,南朝方として幕府に抵抗を続けた家で,室町期には一応幕府に服属していたが,潜在的な反幕勢力として存在し続け,隙さえあれば頻繁に反乱を起こしていた.
伊賀守護仁木氏は,隣国伊勢の情勢もあって,伊賀さえも満足に統治できなかったらしい.
正長2(1429)年には,伊賀守護仁木某が幕府の命令で大和国宇陀郡に出陣したが,敗死してしまった.
この仁木某は,実名さえも伝わっていないのである.
そのため将軍義教は,永享5(1433)年,三宝院満済と相談して,山名時煕を伊賀守護に任命することにした.
その人事を遂行するにあたって義教は,管領細川持之・元老畠山満家,そして赤松満祐に事前に諮問して同意を得ているのである.
管領細川持之に諮問したのは,持之が管領の立場にあったから当然のことである.
また,畠山満家も先代義持時代に管領を務めた人物で,応永33(1426)年から正長1(1428)年まで伊勢北部の守護を務めており,守護を辞任した後も伊勢の武士に一定の影響力を及ぼしていたらしい.
満家の同意を得ることももちろん必要不可欠であった.
では,どうして赤松満祐の同意を得なければならなかったのだろうか?
ここで想起されるのは,南北朝期以来の赤松氏と北畠氏の関係である.
6代将軍義教の時代に至ってなお,両氏の密接な関係は続いていた.
北畠氏が幕府に交渉するとき,裏ルートの窓口になっていたのが赤松氏だったのである.
赤松氏は潜在的に反幕体質を持っていた北畠氏のために,いろいろと便宜をはかっていたのである.
それならむしろ,伊賀守護には伊勢・伊賀と関係があって影響力をおよぼせる畠山氏や赤松氏の方が適任だったように思える.
山名氏は,この時代まで伊賀とはまったく何の関係もなかった.
にもかかわらず,山名氏が伊賀守護になったのは,室町将軍家代々の政治的伝統である,対立する諸勢力にアメとムチを使い分け,突出した勢力を作らないようにする政策のためである.
畠山や赤松を伊賀守護にすると,南北朝期以来の「尊氏系」の勢力が強くなりすぎてバランスが崩れる.
だから,「直義系」の継承勢力である山名氏にここは権益を与えて均衡を保とうとしたのではないだろうか?
しかし,強引にその人事を遂行すると当然細川・畠山・赤松の反発が予想される.
だから義教は,事前に根回しして彼らの同意を取りつけたのだと考える.
この人事に窺えるように,細川―赤松ラインと山名氏はこの時代においても潜在的に対立していたのである.
先代義持の時代,管領細川満元と赤松満祐はきわめて親しい間柄であった.
彼らは従兄弟同士で血縁関係があったし,摂津国西成郡は細川氏と赤松氏が交互に守護を務めていた.
満元が主催する和歌の会に,満祐は必ず参加していた.
公私ともに頻繁な交流があった.
この細川満元は,義持とは必ずしも良好な関係にはなかったらしい.
そう言えば,上杉禅秀の乱のときも,満元は禅秀との関連を疑われていた.
赤松満祐が義持に非常に嫌われて失脚しかけたのも,背景にはこういう事情があったらしいのである.
この細川・赤松の協調関係は,義教の時代になっても続いた.
永享5年,義教は比叡山を攻撃するが,これを最も積極的に支持して熱心だったのは山名氏で,消極的で嫌がっていたのが細川持之と赤松満祐であった.
山名氏が比叡山討伐に積極的だったのは,本国但馬から京都への流通ルートを抑える目的があったらしいが,細川―赤松と山名は,とにかく事あるごとに権益が対立し,争っており,将軍は双方を優遇したり,逆に牽制したりすることで権力の保全をはかっていた事情があったのである.
将軍義教が暗殺された後,細川持之が黒幕ではないかと噂されたそうだし,その後の嘉吉の乱で赤松討伐に最も熱心だったのは山名氏で,赤松を倒した後に最も権益を獲得したのも同氏である.
将軍暗殺の背景に両勢力の地政学上の対抗関係があったのは確かであろう.
とは言え,赤松・山名の対抗関係を考慮に入れても,やはり違和感は残る.
義教は,山名持煕を強引に失脚させ,当主を弟の持豊に代えている.
山名氏と言えども将軍に依怙贔屓ばかりされていたわけではなく,一定のダメージを受けている.
また,義教前期において将軍の諮問を受けていたのは畠山満家と山名時煕であるが,永享5年頃から細川持之が管領に就任し,持之と赤松満祐が諮問を受ける体制となる.
前回紹介したように満祐は侍所頭人に再度任命されているし,義教治世後半になるほど政治力を伸ばしたのは,むしろ赤松の方であった.
長々と書いてきたが,結局満祐は,赤松が討伐されるという当時の世間の噂をベテラン政治家らしくなく,軽率にも信じたとしか言いようがない.
四職を務める山名・京極・一色氏がすべて義教の討伐を受けたので,次は残る赤松の番だという噂が出るのも当然であるが,それが事実かどうかはまた別問題である.
義教は案外,満祐の弟義雅の所領を没収した時点で赤松に対する牽制は済ませたつもりだったかもしれない.
結局,将軍暗殺の原因は謎のままであるが,しかし満祐が義教を殺したのは厳然たる事実である.
次回は,将軍暗殺と嘉吉の乱について簡単に紹介したい.
※参考文献
本郷和人「『満済准后日記』から」(『遥かなる中世』8,1987年)
以前詳しく紹介したことがあるが,永享10(1438)年には永享の乱が起こり,翌11(1439)年将軍義教は,鎌倉公方足利持氏を敗死させ,鎌倉府を滅ぼした.
その翌12(1440)年には,下野の結城氏朝が持氏の遺児を奉じて幕府に反乱を起こしたが(結城合戦),これも翌嘉吉1(1441)年あっさりと鎮圧された.
京都は,このような相次ぐ戦勝にわきかえった.
将軍に戦勝のお祝いを述べるために花の御所を訪問する人々が相次いだ.
また,臣下も将軍を招待し,祝宴を開いて訪れた将軍を接待した.
5月23日には,義教の夫人の実家である正親町三条実雅の招待を受け,26日には管領細川持之邸を訪問した.
その後,結城合戦の戦勝を祈祷した諸寺社を廻り,そして6月24日,運命の赤松邸の訪問を迎えたのである.
この日赤松邸を訪問したのは,将軍義教,正親町三条実雅以下,管領細川持之・侍所山名持豊,守護は畠山持永・細川持常・京極高数・大内持世・細川持春,近習は山名煕貴・赤松貞村・一色五郎その他,要するに,室町幕府の中枢メンバーで,当時の日本の実質的な最高権力者たちである.
ところで,この訪問を接待する赤松邸には,当主の満祐はいなかった.
〔略〕,このとき満祐は,「狂乱」によって謹慎し,家臣の富田性有の家に蟄居していた.
なので義教たちを接待したのは,当時19歳の満祐嫡男赤松教康であり,それを凶暴で有名な叔父の則繁が補佐する体制であった.
だから具体的な理由や状況は不明であるものの,将軍と満祐の関係が悪化していたことは確実であるが,大和出陣中に暗殺された若狭守護一色義貫などと比較すると,赤松氏は嫡子に家の相続が認められていた分まだはるかに優遇されている印象があり,将軍暗殺という暴挙を犯すのはやはり違和感が残るのである.
ともかく,祝宴が始まった.
開始後2時間ほどしてお酒も進み,舞台の猿楽も3番目の鵜飼が上演されている最中,突然邸内で物音がした.
物音に敏感な義教は「何事ぞ?」と周りの者に尋ねたが,隣に座っていた三条実雅は,「雷鳴でしょう」とのんびりと答えた.
ここ数日の天気は雷雨だったのである.
そのとき突然,武装した数人の武士が部屋の中に押し入り,将軍の首を後ろから刎ね飛ばした.
将軍の首を刎ねたのは,安積行秀という武士であった.
驚いた正親町三条実雅は,あわてて赤松家から将軍家への献上品として床の間に飾られていた太刀を取って応戦しようとしたが,小耳のあたりを打ちつけられて気絶した.
管領以下諸大名は,将軍の遺体を残したまま,やっとのことで赤松邸を逃れ,それぞれの自宅に帰った.
その模様を後で伝え聞いた後花園天皇の父貞成親王は,自身の日記『看聞日記』で諸大名のふがいない態度を,情けないと非難している.
しかしこの将軍暗殺計画は,事前に入念な準備が練られていたものである.
邸内は武装した赤松家の武士たちがひしめいていたことであろう.
こういう状況下で無理に応戦したとしても,全員枕を並べて討ち死にという事態になりかねない.
そうなれば,政権の中枢メンバーが死んでしまった室町幕府は,壊滅的打撃を受けるのである.
管領持之たちがいったん自宅に引き揚げて,身の安全を確保したのは,それなりに現実的な判断というものであって,貞成の批判は大して正鵠を射ていないと私は考えている.
それに,すべての武士が逃げたわけではなかった.
近習の細川持春と山名煕貴,そして周防の大大名大内持世は,護衛たちとともにただちに抜刀して,赤松の武士たちに立ち向かった.
持春と煕貴は戦死し,持世は重傷を負った.
彼らは,義教に特に抜擢され,多大な恩を受けていた武士であった.
大内持世は,周防・長門・豊前・筑前4ヵ国を領有する大大名で,数日前に上洛したばかりであった.
この後,7月28日にこのときの傷がもとで死去するが,赤松征伐を固く遺言したそうである.
事件の後,赤松教康と則繁は,家臣の富田邸に使者を派遣して父満祐を赤松邸に迎え入れた.
そして,在京諸大名の来襲に備えて防備を固めた.
しかし,将軍暗殺など前代未聞の事件である.
前代鎌倉幕府で,3代将軍源実朝が暗殺されて以来,絶えてなかったことであった.
さすがの諸大名も,自宅には引き上げたものの,事件直後はどうしてよいかわからずにフリーズした状態だったらしい.
夕方,赤松満祐は本国播磨に引き上げることにした.
将軍の首を刎ねた安積行秀が,将軍の首を剣先に貫いて高く捧げ,赤松勢総勢700騎が播磨へ没落していった.
出発するとき,満祐は赤松邸に火をかけさせた.弟義雅や則繁の屋敷からも火があがり,ほかの赤松一族や家来の家も続々と炎上した.
相国寺の鹿苑院から,生前の義教と最も親しかった蔭凉軒主季けい真蘂が赤松邸にやってきて,猛火が鎮まってから,義教の遺体を焼け跡から拾い出し,鹿苑院に収容して,翌日足利将軍家の菩提寺である等持院に収めた.
真蘂は,赤松一族の上月氏の出身で,禅宗界の中心で活躍した僧侶である.
一方,管領細川持之は,直ちに朝廷に参上し,後花園天皇に今回の事件を報告した.
その後,将軍の子息が住んでいた伊勢貞経の邸宅に詰めて,情報収集に努めた.
翌朝,伊勢邸にいる管領の許へ,赤松氏の使者が訪れた.
使者は,将軍の首が摂津国中嶋郡にあることを報告した.
満祐は,ここで将軍の葬式を行って,その上で首を幕府に返そうと思っていたのであるが,管領持之は使者を斬ってしまった.
それを知った満祐は,将軍の首を本国に持って行った.
この日,持之は,義教の子千也茶丸を伊勢邸から室町御所に移した.
この千也茶丸が,7代将軍足利義勝である.
以降,室町幕府はしばらく,幼少の将軍を管領が奉じて,将軍権限を代行する体制となったのである.
前将軍義教の葬儀が行われたのは,7月6日のことであった.
情勢が不安であったため,武家で出席したのは管領持之だけだったという.
一方,赤松満祐も,播磨国加東郡の安国寺で義教の葬儀を盛大に行った.
その後,満祐は義教の首を相国寺長老の瑞渓周鳳に返却した.
満祐は,義教の首をきわめて丁重に扱ったようである.
ここに満祐の将軍に対する憎悪一辺倒ではない複雑な感情を私などは感じる.
なお,蔭凉軒主季けい真蘂は赤松氏の一族であったため,責任を取って蔭凉軒主を辞任した.
一方,幕府方も赤松方も,当然来るべき決戦の準備を開始したが,それについては次回紹介したい.
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▼ 幕府も赤松氏も,前将軍義教の葬儀を盛大に行う一方で,当然のごとく来るべき決戦に備えて準備を開始した.
今回は,赤松側が開戦にあたってどのような戦略を採ったのかを簡単に紹介したい.
赤松氏に味方したのは,赤松氏の縁者や本国播磨の武士たち,俗に「赤松一族八八騎」と呼ばれる88家2900騎の軍勢であった.
南北朝初期以来およそ1世紀にわたって,ずっと播磨国を統治してきたため,赤松氏はここまで播磨にしっかりと根をおろした強大な勢力に成長していたのである.
そしてまず,幕府軍の主力が侵攻してくると思われる須磨・明石方面には,満祐の嫡男赤松教康を大将として配置し,明石に本陣を置いてもっとも強力な防御陣地をかまえた.丹波方面には,宇野国祐500騎を配置した.
搦手の但馬口からは,宿敵山名氏が攻め寄せてくることが予想されたので,満祐の弟赤松義雅に守らせた.
因幡方面には甥の赤松則尚,備前方面は小寺職治,そして美作方面は,弟赤松則繁を派遣した.
総大将の赤松満祐本人は,現在姫路城の北にある書写山坂本城にあって指揮を執る体制であった.
そして満祐は,軍勢をこのように配置する一方で,京都の管領細川持之に挑戦状を送ったという話が残っている.
その内容は,現代語にすると,だいたいこんな感じである.
「長年望みがかなえられなかったので,上様の御首を頂戴いたしました.
私の本望は,最大限に達成されました.
しかしながら,天罰を被って両目が地に落ちて五体も老いてしまったので,私の余命ももう長いことはありません.
早く討手を派遣してくだされば,潔く切腹いたします.
急ぎこちらに攻め寄せて,上様の御本意を達成してください.
恐こう謹言」
この挑戦状は,『赤松盛衰記』にしか伝えられていないので,真偽のほどは定かではないが,これが事実だったとすれば,挑戦状と言うよりは,早く私を殺してくれと頼んでいるようにしか読み取れない.
これは案外,満祐の本心をよく表しているのではないかなと考えている.
赤松満祐は,最初から将軍を暗殺できれば後はもうどうでもよく,最初から死ぬつもりだったような気が私にはしてならない.
それはそうとして,また,以前も紹介したことがあるが,初代将軍足利尊氏の庶子で,尊氏に敵対して西国で尊氏をさんざん苦しめた足利直冬の孫で,備中国で平和に暮らしていた義尊という人物を満祐は名目上の大将として担ぎ上げた.
こういうところを見ても,赤松満祐のクーデタは,室町幕府体制の根本的な否定ではなかったのであり,この時点で戦いの帰趨はすでに決していたと言ってもいいであろう.
足利義尊は,赤松則繁に迎え入れられ,坂本城に入った.
そして,義尊の名で諸国の大名に軍勢動員令を発したが,これに呼応して赤松氏に味方した大名は誰もいなかった.
管領細川持之が義尊の軍勢催促状を入手し,義尊を花押の写を多数作成し,諸国の関所に配布して拡散を阻止した迅速な対処も大きかったであろうが,「万人恐怖の世」と恐れられ,数多くの勢力が前将軍義教に打倒されたのに,赤松に応じて報復しようという武将はほとんど皆無だったこと.
この事実は,嘉吉の乱の本質をよく表していると考える.
それでは次回は,幕府方の対策を見てみよう.
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▼ いざ始まってみれば,嘉吉の乱はあまりにもあっけなく赤松軍の惨敗となったわけであるが,その理由は何であろうか?
赤松氏の家来の武士たちと一般百姓の間に対立があったことや,赤松氏内部で惣領家と庶流家の対立が深刻となり,一族的な団結が失われ,庶流の貞村・満政・持家たちが幕府の追討軍に加わったことなどがよく指摘されるが,それは当時どこの守護大名でも多かれ少なかれ抱えていた問題であった.
私は,そういうのは本質的な理由ではないと考えている.
赤松軍の敗北の最大の原因は,結局,満祐の将軍殺しにまったく正義がなかったからだと私は考える.
将軍義教の治世が非常に専制的であり,人々に「万人恐怖の世」と恐れられ,窮屈な生きにくい時代であったことは事実である.
しかし,同じ専制であっても,その内実が,将軍のまったくの私利私欲に基づく恣意的で不公平な専制であるか,公平と正義に基づいた客観的に正しい専制であるかで意味は大きく違ってくる.
将軍義教が将軍に就任して早々まず行ったのは,先代義持以来停滞気味であった訴訟制度の改革であった.
これによって弛緩した幕府の綱紀は大いに引き締まり,おおむね公平な裁判が迅速に進行するようになった.
また,妻の父が,ただそれだけの理由で不当な権力を握ることを非常に嫌い,彼に近づく者をすべて厳しく罰したりした.
そして南朝の残党をたたきのめして,九州探題の勢力を削減し,織田信長に先駆けて比叡山延暦寺を討ち,鎌倉府を滅ぼしたが,これらは義教にとってはすべて日本国,朝廷や幕府のためであり,決して私利私欲にまみれて行ったわけではなかった.
そして,これだけ顕著な業績を挙げた将軍もめずらしいのである.
義教は確かに厳しい将軍ではあったが,その厳しさは概ね客観的に公平で,朝廷や幕府にとって公共の利益となることばかりであった.
だから多くの人々が彼を支持し,義教の政治は成功して,中興の英雄となることができたのである.
その証拠に,例えば長門・周防等の大守護であった大内持世は,幕府の出仕する義務を怠った罪で義教に安芸国内の所領を没収されたことがある.
しかし,それでも赤松が義教を暗殺したときには,勇敢にも逆賊どもに立ち向かい,重傷を負って死亡している.
要するに,赤松の将軍殺しには,何の正義も道理もなかった.
そんな赤松を支持する大名が出るわけはなかったのである.
かつて,将軍義持が満祐の討伐を命じたときは,将軍の方に何ら道理がなかったため,山名以外の大名はほとんど全員サボタージュした.
そのときと今回の動きを比較すれば,そのことは一層よくわかるであろう.
話を戻すと,生き残った赤松軍の将兵たちは,みな城山城に逃げ込んだ.
これは,かつて南北朝時代に,赤松則祐が山名氏に対する備えとして築城した城である.
こんな形で城が機能する日が来るとは,則祐も夢にも思わなかったであろう.
その城山城を,山名軍が十重二十重に厳重に包囲した.
戦争の大勢は決していたが,管領細川持之が,赤松満祐を討ち取った者に播磨守護職を与える方針であるとの噂が流れていたので,山名持豊としては,絶対に山名軍の手で満祐を討つ必要があったのである.
9月9日,遂に山名軍の総攻撃が始まった.
名将赤松則祐が10年以上の歳月をかけて築いた城だけに,しばらくの間は持ちこたえていたが,満祐の弟義雅と甥則尚がひそかに脱出したので,赤松軍の戦意が大いに低下した.
翌10日も山名軍の猛攻が続いた.
赤松満祐は,嫡子教康と弟則繁を呼び,城を脱出するように命じた.
2人はその命令になかなか従おうとはしなかったが,再起をはかるようにとの満祐の厳命にようやく従って,同族の満政が攻めてきた西南の方角を目指して脱出した.
その後満祐は,将軍を討った安積行秀に介錯を命じ,一族69人とともに潔く切腹した.
行秀は全員の自害を見届けた後,城に火を放って,自らも自殺した.
ここに赤松円心以来の名門赤松氏は,いったん滅亡したのである.
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▼ 赤松満祐以下赤松一族が自害した後,山名教之の部下である出石景則が,炎上している城山城に入り,猛火の中から満祐と安積行秀の首を取った.
一方,前回も述べたように,満祐の弟である赤松義雅は,庶流の赤松満政の陣に投降した.
義雅は播磨に在国していたので,将軍暗殺には一切関与していなかったが,満祐の弟でしかも兄といっしょに戦ったので,許されるはずもなかった.
赤松義雅は,満政の陣で潔く切腹した.
しかし,このとき義雅は子息,千代丸も伴っていた.
赤松満政は,千代丸の命はこっそり助けたのである.
この千代丸の子,すなわち義雅の孫が,後に赤松氏を再興することになる赤松政則なのであるが,それはまだずっと先のことである.
9月18日,赤松満祐と安積行秀の首が山名持豊から,赤松義雅の首が赤松満政から京都に届けられた.
彼ら3人の首は,まず伊勢貞国邸に送られて,義教の子どもたちに見せられた.
21日に,満祐と行秀の首は四条河原に移され,侍所の京極氏と検非違使の姉小路氏および河原者1000人が奉じて二条西洞院の赤松邸まで運ばれた.
そして,赤松邸の焼け跡に植えられた木の枝にかけられたという.
閏9月21日,幕府で論功行賞が行われ,赤松氏の守護分国は,次のように諸将に分配された.
山名持豊:播磨国
山名教之:備前国
山名教清:美作国
細川持春:摂津国中島郡
赤松満政:播磨国東三郡
このように,山名氏が最大の利益を得たことは一目瞭然であろう.
山名氏は,もともと但馬・因幡・伯耆・石見・備後・伊賀を領有していたので,これに播磨・備前・美作を合わせて9ヵ国の大守護に成長した.
赤松氏の旧領に所領を持っていた公家や寺社は,山名が新しい守護となったことを非常に嘆いた.
鎌倉以来,だいたいどの武士も寺社や公家の荘園を恒常的に侵略していたが,この山名氏は特にその程度が激しく,猛悪の限りを尽くすというのでとりわけ恐れられていたのである.
ただし山名持豊は,播磨全域を獲得したわけではない.
播磨国の東部は,赤松庶流の満政が分郡守護となった.
これも諸勢力の均衡をはかることで,権力の維持を目指す室町幕府伝統の政策である.
しかし山名持豊は,これに満足せず,播磨全域の支配を狙っていた.
ちょうど嘉吉1(1441)年の暮れ,京都で土一揆が起こったので,持豊はこれを鎮圧し,その恩賞として播磨全域を強硬に要求した.
当時,幼少の将軍に代わって幕府の最高権力者を務めていた管領細川持之は,当然この要求に応じたくはなかったのであるが,この頃,若狭では前将軍義教に暗殺された守護一色義貫の残党が蜂起し,加賀でも前守護富樫教家の残党が暴れるなど不穏な情勢が続いていたので,持之は仕方なく播磨東三郡も持豊に与えた.
こうして赤松氏の旧分国は,摂津国有馬郡以外はほとんど山名氏の分国となり,これから赤松氏の復権のための戦いが始まるのであるが,それについてはまた次回に紹介したい.
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▼ 落城寸前の城山城を脱出した赤松満祐嫡子教康は,伊勢国司北畠教顕の許へ向かった.
何度か述べたことがあるが,伊勢国司北畠氏は,南朝の重鎮であった北畠親房の子孫である.
南北朝が合一した後,一応幕府に従っていたのであるが,潜在的に反幕勢力であり,隙さえあれば謀反を起こしていた.
これも以前述べたとおり,赤松氏は,この北畠氏と南北朝以来独自の関係があった.
室町期に至っても,赤松氏は北畠氏が幕府と交渉するときの窓口となっていたのである.
それだけではなく,北畠教顕は,赤松教康の父満祐に特別な恩があった.
正長1(1428)年,義持→義教の代替わりの隙を狙って,教顕の兄北畠満雅が南朝後亀山天皇の皇子小倉宮をかついで謀反を起こし,敗北して戦死した.
このとき幕府で侍所を務めていた赤松満祐は,教顕を助命するようにいろいろと尽力したのである.
その縁もあって,教顕の娘は教康の妻となった.
赤松教康は,このように赤松に恩がある北畠なら,きっと自分を助けてくれるに違いないと思って,これを頼ったのである.
しかし,北畠教顕は,自分を頼ってきた赤松教康を冷たく無視した.
将軍殺しの罪人の味方をして,自分も幕府軍の追討を受けて犬死にすることを嫌ったのである.
9月28日,赤松教康は伊勢で自害し,10月1日,その首は京都に届けられ,父と同様赤松邸で晒された.
翌嘉吉2(1442)年3月,畠山持国邸を赤松満祐にかつがれた足利直冬の孫義尊が,僧侶の姿となって訪れた.
畠山持国は,前将軍義教の時代,義教の怒りにふれて失脚していた武将である.
それが義教が赤松に暗殺されたために復権することができたのであり,同じ義教に恨みを抱いている持国ならば,せめて命だけでも助けてくれるだろうと義尊は思ったのであろう.
しかし持国は平然と,家臣に命じて義尊を殺害させた.
北畠教顕と言い,畠山持国と言い,冷酷非情であるが,きわめて現実的な措置であることも確かであり,「それはそれ,これはこれ」という判断ができる武将だったのであろう.
ちなみにこの年の6月,畠山持国は細川持之に代わって管領となり,幼少の将軍に代わって幕府の最高権力者となった.
赤松教康は将軍殺しという,言い逃れのできない大罪を犯したのであり,足利義尊もそれにかつがれて幕府に敵対したわけであるから,こうなるのも致し方ないところであるが,庶流の赤松満政は何も悪いことをしていないのに,悲劇的な最期を遂げた気の毒な武将である.
それについてはまた次回紹介したい.
赤松満政については以前も紹介したことがあるが,赤松氏の有力な庶流で,幼い頃から非常に聡明で,義満・義持・義教の歴代将軍に愛された人物である.
特に義教には近習として非常に重用され,寺社・公家諸勢力と幕府との交渉の窓口として大活躍した.
嘉吉の乱に際しても赤松宗家には味方せず,幕府側となって奮戦した.
このように,長年将軍家に多大な忠節と貢献を果たしてきたので,乱後,宗家の遺領をすべて拝領してもまったく不思議ではなかったのであるが,恩賞として与えられたのはわずかに播磨国の東部のみであった.
しかも,それさえも半年もしないうちに,何の罪も犯していないのに取り上げられ,赤松の宿敵山名に与えられたのである.
赤松満政が,これをおもしろく思うはずがない.
満政は,行方不明であった赤松満祐の甥則尚とひそかに連絡をとり,播磨の奪回を企て始めた.
そして遂に文安1(1444)年10月,赤松満政は嫡子満直・則尚らの一族を率いて播磨へ下向し,謀反を起こした.
山名持豊は,本国但馬へ帰って合戦の準備を始めた.
幕府は,さすがに長年重臣であった満政の不満に理解があったようで,奉行人の飯尾為数と斎藤煕基を使者として派遣し,謀反を思いとどまるよう満政を説得したが,満政はこれに従わなかった.
東播磨地方で赤松軍と山名軍の激しい合戦があり,赤松軍は敗北した.
満政は,隣の摂津国有馬郡に逃れ,同族で従兄弟の有馬持家を頼った.
有馬持家は赤松満政のために挙兵したが,北隣の丹波守護細川勝元が摂津に攻め寄せてきた.
やがて応仁の乱で,東西両軍の事実上の大将として激突することになる細川勝元と山名持豊であるが,この時期は婚姻関係があったこともあり,両者の関係は良好だったのである.
文安2(1445)年3月,有馬郡で細川軍と有馬軍の合戦があり,有馬軍は大敗した.
有馬持家は自ら助かるため,満政を討った.
4月4日,満政父子以下124人の首が,高辻河原に晒された.
南北朝期や室町期の幕府政治史は不条理の連続であるが,赤松満政の悲劇はその中でもトップクラスであり,私は非常に気の毒に思う.
さて,赤松満祐の弟則繁や甥則尚はその後どうなったのであろうか?
次回はそれについて紹介したい.
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▼ 赤松満祐の弟で,ものすごい乱暴者として有名で,赤松邸での将軍暗殺を事実上直接指揮した赤松則繁は,城山城落城後,非常にユニークな行動をとる.
満祐嫡男の赤松教康が東の伊勢へ落ちたのとは対照的に,則繁は西国へ逃れ,筑前守護少弐教頼を頼った.その後朝鮮国へ渡り,倭寇の大将となってその1州で大暴れしたという.
この情報は,嘉吉3(1443)年,前将軍義教の死を弔うために日本にやってきた朝鮮の使者が報告したそうである.
一方,少弐教頼は,長門・周防守護大内政弘と戦って敗北し,対馬に逃れた.
その後,文安5(1448)年,赤松則繁とともに肥前に上陸して再び大内氏と戦ったが,またしても敗れた.
則繁は河内国に逃亡したが,それを知った幕府は細川持常を派遣した.
同年8月,則繁は潜伏先の当麻寺を包囲され,自害した.
則繁の首も満祐たちと同様,京都で晒された.
ところで,将軍義教の跡は子息義勝が継いだが,義勝は夭折し,弟の義政が将軍となった.
義政ももちろん幼少だったので,初期は管領が将軍権限を代行して政治を行ったが,義政が成長するとともに,ふたたび赤松氏再興の機運が出てきた.
赤松庶流の有馬持家の子に元家という人物がおり,妹が義政の側室となった縁で義政の側近となっていた.
この有馬元家が,義政側近という立場を利用して,逃亡していた赤松満祐の甥則尚の罪を赦すように義政に働きかけたのである.
義政はいったんこれに同意して則尚を赦したが,これに山名持豊が憤慨して義政を非難した.
これに激怒した義政は,享徳3(1454)年,持豊を討とうとして軍勢を招集した.
このとき,赤松則尚と元家弟有馬小次郎も将軍の許に参じた.
しかし,時の管領細川勝元は義政の命令に従わなかった.
前回も述べたように,応仁の乱が起こるまでは,細川勝元と山名持豊の関係は良好だったのである.
このため義政は,山名討伐を中止せざるを得なくなった.
赤松則繁たちは,西播磨地方へ下って,赤松浪人たちを集めて勢力を拡大した.
この時期,赤松の遺臣たちは諸国の寺社や公家の所領荘園に逃げ込み,その荘園が持っていた守護不入の特権を利用して生き延びて,社会の不安定要因となっていたのである.
翌享徳4(1455)年4月,山名持豊の子教豊が,これを討つために出陣した.
則繁たちは,山名の大軍にはかなわず,備前に逃れてそこで自害した.
彼らの首は,赤松円心が建立した法雲寺というお寺で晒された.
こうして,嘉吉の乱後に起こった赤松氏再興運動はことごとく失敗に終わったが,この後赤松遺臣たちは,彼ららしい独特の方法で主家の復活に成功するのである.
それについてはまた次回に・・・.
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【質問】
赤松氏再興の経緯について教えられたし.
【回答】
周知のように,明徳3(1392)年,南北朝が合一して,それまで2人同時に存在して対立していた天皇が1人に統一された.
しかし,南朝勢力はその後もしぶとく生き残り,室町幕府が隙を見せるたびにたびたび武力蜂起等を起こしてきた.
そうした室町時代の南朝の残党を,「後南朝」という.
話は少し戻るが,嘉吉3(1443)年9月にも,将軍義教の死去に乗じて,後南朝は,南朝最後の天皇・後亀山天皇の皇子・小倉宮の2人の王子・尊秀王と尊雅王を奉じて京都の天皇の御所に忍び込み,三種の神器のうち,神璽と草薙の剣を強奪した.
剣は比叡山の僧侶によって取り返されたが,神璽は吉野に持ち去られてしまった.
康正1(1455)年,三条実量に仕えていた赤松浪人の石見太郎左衛門が,吉野の神璽を取り戻すので,赤松氏の再興をお許しいただきたいと幕府に申し出,幕府はこれを許可した.
翌年,赤松浪人10人が吉野に潜入して,後南朝の2人の王子に偽って仕え,翌長禄1(1457)年,尊秀・尊雅を殺害して,神璽を奪回した.
そこで幕府は約束どおり,赤松氏の再興を許し,赤松法師丸を加賀半国の守護に任命した.
赤松氏は,南北朝期以来の南朝との独自のルートを生かし,他の守護家には不可能な方法で大功を立て,見事に復活を果たしたのである.
赤松法師丸は,嘉吉の乱の最後に自害した赤松満祐の弟義雅の孫である.
赤松義雅が同族満政に投降したとき,幼子千代丸を連れていたが,満政はこれをひそかに建仁寺大昌院の宝洲に渡した.
千代丸はその後あちこちを転々としたが,最終的に三条家の所領近江国浅井郡丁野村の成願寺へ送られて,そこで出家した.
赤松義雅の妻が三条家出身だったこともあり,赤松氏と三条氏は深い関係があり,赤松遺臣も数多く三条家に登用されたそうである.
赤松千代丸は,後に還俗して時勝と名乗ったが,康正1(1455)年,20代前半の若さで夭折した.
しかし,時勝が死去した年に男児が生まれた.
これが法師丸,後の赤松政則である.
赤松氏は再興したが,加賀半国は,それまで同氏に縁もゆかりもない地方であった.
また,播磨・備前・美作3ヵ国を領有していたかつての勢力に比べても,その領域の広さははるかに劣る.
だから赤松遺臣団は当然まだ不本意であったであろう.
そこで彼らは,これらの本国を奪還するように活動し続けるが,それについてはまた次回紹介したい.
【質問】
松田元成の謀反〜赤松氏の滅亡について教えられたし.
【回答】
文明15(1483)年,備前国の松田元成が赤松政則に背いた.
政則は,浦上則宗の子則国に松田討伐を命じた.
ところが松田元成は,山名俊豊と通じ,その援助を受けて反撃し,浦上則国等の赤松勢を福岡城に包囲した.
そのため政則は12月,本国播磨へ下って,小塩城に入った.
しかし備前へ救援にはいかず,この際長年の宿敵である山名氏の本国但馬へ攻め入って,長年の禍根を一気に断とうとしたのである.
しかし,12月25日,政則は雪の中,真弓峠を進んで但馬へ向かったが,そこで山名軍に惨敗して,播磨へ逃げ帰った.
それを聞いた政則の家臣・浦上則宗は,翌年正月播磨へ下って政則を廃そうと企てた.
身の危険を感じた政則は,海路をとって堺へ亡命した.
則宗は,赤松一族の有馬澄則を擁立することを9代将軍足利義尚に要求し,認めさせた.
こうして赤松政則は,せっかく復権したのに家臣の下克上によって失脚する危機に瀕したのである.
しかも,赤松氏内部のこの混乱によって,備前・美作もふたたび山名軍に占領されてしまった.
政則がいかにしてこの危機を脱したかについては,次回紹介したい.
失脚した赤松政則は上洛して,当時大御所となっていた前将軍足利義政に復権を訴えた.
そのため,文明16(1484)年9月,赤松政則と浦上則宗の和解が成立し,政則はふたたび播磨・備前・美作3ヵ国の守護として幕府に出仕するようになった.
翌文明17(1485)年,播磨で山名氏に対する赤松氏の反撃が開始された.
当時播磨では,山名政豊が書写坂本城に本陣を構えて,国内各地で政則軍や浦上則宗軍と交戦し,戦況は一進一退でなかなか決着がつかなかった.
しかし,長享2(1488)年,山名氏の本国但馬で内乱が起こったので,山名政豊は坂本城を撤退したため,赤松政則は領国をすべて回復した.
赤松政則は,その後も室町幕府の重臣として活躍し続けた.
延徳3(1491)年,10代将軍足利義材が近江守護六角氏を討伐するために出陣したが,政則はこれに軍奉行としてこれに従軍し,戦功を挙げた.
明応2(1493)年には,細川政元が将軍義材を追放するクーデタを断行したが(明応の政変),政則は政元に味方した.
明応5(1496)年には,赤松政則は朝廷から従三位に叙せられた.
守護クラスの武将が従三位に任じられるのは,破格の厚遇である.
政則は同年に死去したが,「威勢無双,富貴比肩の輩なし」と評された.
赤松政則の一生は,前回も述べたように一時家臣の浦上に謀反を起こされて失脚しかけたものの,全体的に見れば赤松氏中興の英雄として大成功を収め,赤松氏の最後の黄金時代を築いたと言えよう.
赤松氏はこの後急速に衰退する.
永禄7(1564)年,庶流の赤松政秀が浦上氏を滅ぼしたのが,最後の栄光と言えるだろうか?
主家の赤松則房は織田信長に従い,豊臣秀吉によって阿波国住吉1万石に移封された.
しかし,則房は,関ヶ原の戦いにおいて宇喜多秀家に従って西軍となったので改易され,庶流の有馬氏が筑後国久留米21万石の国持大名となったのを除いて,赤松氏は滅亡したのである.