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◆◆◆足利ま~もち Asikaga klán
<◆◆人物 Emberek
<◆室町時代(日本)
<戦史FAQ目次
アシカが幕府
(こちらより引用)
【質問】
足利満兼について教えられたし.
【回答】
これからしばらく,第3代鎌倉公方足利満兼の生涯について簡単に紹介したい.
足利満兼は,第2代鎌倉公方足利氏満の長男である.
応永5(1398)年に父氏満が死去したとき,満兼はすでに20歳の青年で,そのまま何の問題もなく公方を継承した.
鎌倉公方の中で,唯一幼少時に家を継がなかった公方であり,その意味では混乱や不安定な部分はなかった.
関東管領は,前代に続いて犬懸上杉氏の朝宗が務めた.
公方に就任した満兼がまず最初に行ったのは,弟満直と満貞を陸奥国に派遣したことである.
足利氏満シリーズで紹介したように,前代氏満の時代は発展期であり,鎌倉府の実質的な勢力範囲は着々と拡大していた.
明徳2(1391)年には,陸奥・出羽の2国もその管轄下に置いており,満直・満貞の派遣が,前代から引き続いて東北地方の支配を盤石のものとする目的であったことはあきらかであろう.
1人ではなく,2人派遣されたのは,奥州が南北朝初期以来,常に探題が2人設置された地方であったためだと考えられる.
満直が陸奥国の篠川,満貞が稲村に駐屯したので,満直を篠川御所,満貞を稲村御所と称するが,篠川は現在の福島県郡山市,稲村は同県須賀川市と,いずれも陸奥国南部の福島県内にあり,しかも両者は非常に近い距離にあった.
この事実だけを見ても,鎌倉府の勢力が南陸奥にしか及んでいなかったことがわかるが,さらに北方に鎌倉府の北上を快く思わなかった勢力が存在した.それが伊達政宗である.
伊達氏は,南北朝期には南朝方に属して活躍した.
その後,室町幕府に帰順したが,京都の管領斯波氏の分家である最上氏と姻戚関係を結び,しかも伊達政宗の夫人は将軍義満の母紀良子の姉妹であるなど,京都の幕府と密接な関係を有し,東北地方に広大な所領を有して強大な勢力を誇っていた.
その伊達政宗が応永7(1400)年,篠川御所と稲村御所が陸奥に派遣されてわずか1年で鎌倉府に対して反乱を起こしたのである.
その直接の原因は,鎌倉府が政宗に領土を献上するように要求したことだとされている.
政宗の反乱に対して,稲村御所満貞は,白河結城満朝等奥州の諸氏に軍勢催促を行って出兵を命じ,また鎌倉の兄満兼にも通報した.
満兼は,上野国の新田氏の継承勢力である岩松満純に出陣を命じた.
岩松満純と白河結城満朝は,伊達氏の本拠地である伊達郡赤館に侵攻したが,敗北してしまった.
満兼は本格的な奥州平定を目指し,応永9(1402)年,関東管領上杉朝宗の子氏憲に大軍を率いさせて陸奥に遠征させた.
大激戦の末,一応氏憲軍が勝利して政宗は降伏したが,これは形式的なものであり,実態は和睦に等しかったらしい.
事実,伊達政宗は以降もその勢力を維持した.
また,持氏の代になると,篠川御所満直と公方持氏の関係も悪化し,満直が京都の幕府と結びつくなど,鎌倉府の奥州統治は結局失敗に終わった.
この政宗は,伊達家では中興の祖と称えられ,後世あの著名な戦国大名である独眼竜伊達政宗は,この祖先政宗を慕って「政宗」と名乗ったほどである.
だが,満兼を苦しめたのは伊達氏だけではなかった.
京都の幕府との関係もまた大きな問題となってくるのであるが,それについてはまた今度紹介したい.
「はむはむの煩悩」,2008年8月 9日 (土)
青文字:加筆改修部分
陸奥の伊達政宗が満兼に反乱を起こす少し前の応永6(1399)年,西国で周防・長門・石見・豊前・和泉・紀伊6ヵ国の守護を兼任し,強大な勢力を誇っていた外様守護大内義弘が,室町殿義満の挑発によって謀反を起こし,和泉国堺に籠城し,管領畠山基国を中心に編成された幕府軍と武力衝突した.
応永の乱である.
この応永の乱に対して,なんと満兼は,大内と手を結んで中山道を攻め上って義満を挟撃しようとして,武蔵国府中に出陣した.
しかし,義弘の反乱はわずか20日あまりで決着がつき,義弘が戦死したこともあって,満兼は西国へ軍勢を進めることができなくなった.
だが,満兼は府中に在陣を続けた.
これを諌め,鎌倉に帰ることを説得し続けたのが,山内上杉憲定である.
このときの関東管領は犬懸上杉朝宗であって,憲定は正式にはまだ管領でなかったのであるが,山内上杉氏は京都の室町殿と関係が深く,憲定は義満の命令を直接受けて満兼の説得にあたったのである.
このときは結局,足利氏の本領である下野国足利荘を,京都幕府が鎌倉府に割譲することで両者の妥協が成立し,翌応永7(1400)年3月,満兼は鎌倉に帰った.
足利荘は,このようにしばしば京都と鎌倉の政治的かけひきの道具にされていたようである.
前代氏満も京都の政変(康暦の政変)に乗じて反乱を起こそうと企んで,関東管領山内上杉憲春が自殺することでようやく謀反を抑えることができた前例があったが,満兼も父と同様に反乱を企て,これまた同様山内上杉氏が公方の暴走を止めたのである.
関東管領上杉氏というのは,本当に損な役回りである.
ところで東国の満兼と西国の大内義弘は,一見まったく無関係で接点がないが,この両者を結びつけて義満への謀反を煽ったのが,遠江の今川了俊であったとされている.
今川了俊〔略〕はこのとき失脚して,長年務めていた九州探題を解任されていた.
了俊はそれを恨みに思って義満への報復を狙ったと疑われたのであるが,以前も紹介したとおり,了俊は少弐冬資を謀殺して九州をふたたび混乱に陥れるなど,相当謀略の好きな武将なので,この容疑もかなりの確率で事実だったのではないかと考えられる.
了俊は義満にかけられた容疑を必死で否認して,一応許されるが,これを機会に政界から完全に引退して,余生を文筆活動に捧げることとなる.
同年6月,満兼は伊豆国三嶋社に願文を捧げる.
この願文は現在も残っているが,誤って京都に謀反を起こそうとしたが,補佐憲定の諫言によって思いとどまった,京都には二度と刃向いません,ごめんなさいと謝罪している,要するに反省文である.
また,2年後の応永9(1402)年には,満兼は花押を改変して,祖父基氏型に変更している.
父の氏満も康暦の政変後に花押を同様に変えており,これは鎌倉公方の将軍への恭順の意志を示したものと考えられている.
しかしどうやら,満兼の恭順は本心から出たものではなくて,内心では忸怩たる思いが相当強かったらしい.
花押を改変した翌月,京都に満兼狂気の噂が流れた.
狂気が真実かどうかはわからないが,この頃から満兼の活動は停滞し始め,鎌倉府の訴訟等の政務も滞り始める.
前回紹介したとおり,伊達氏の征伐も不調に終わり,満兼の政治に対する意欲はあきらかに衰えている.
この後,満兼時代の大きな事件と言えば,応永14(1407)年,鎌倉の御所が全焼したことくらいである.
ちなみに余談ながら江戸時代には,鎌倉の人々はいつの日か足利氏が御所に帰ってくることを信じており,御所の跡地は畑にも宅地化もされず,芝野にされていたそうである.
鎌倉公方足利氏は,やはり伝説の武将であった.
応永16(1409)年,満兼は31歳で死去する.
満兼時代は,鎌倉府政権の勢力があきらかに下り坂となった時代である.
しかし,子の持氏に比べれば,何とか自然死できただけ,満兼はまだしあわせだったのかもしれない.
激動の持氏時代については,また今度紹介したい.
「はむはむの煩悩」,2008年8月12日 (火)
青文字:加筆改修部分
【質問】
足利持氏について教えられたし.
【回答】
これから数回に分けて,鎌倉府の第4代公方足利持氏の波乱に満ちた生涯について簡単に紹介していきたい.
足利持氏が鎌倉公方に就任したのは,応永16(1409)年9月のことであった.
この年の7月に,父の3代公方満兼が死去したことによるものであり,このときはまだ元服前の11歳の少年であった.
関東管領は,当初は応永12(1405)年に就任していた山内上杉憲定が引き続き務めていたが,応永17(1410)年に犬懸上杉禅秀に交代した.
上杉禅秀は,満兼時代に奥州の伊達政宗と戦った上杉氏憲の出家した姿である.
祖父氏満・父満兼時代に関東管領を務めた上杉朝宗の子で,年齢は不詳であるが,このとき相当の年輩であったらしい.
持氏は幼名を幸王丸と言ったが,応永17年に元服し,京都の4代将軍義持から「持」の字を拝領して,持氏と名乗った.
応永19(1412)年には判始の儀式を行い,正式に文書を発給し始めるが,このときの持氏の花押は,管領禅秀のものと似ている.
偏諱は主君から家臣へと下されるものであり,逆はないが,花押は年輩の臣下のものを幼少の主君が真似ることもあったらしい.
ほかには,2代将軍足利義詮の初期の花押が執事高師直のものに酷似している事実なども指摘されているが,持氏が禅秀の強い影響下に置かれていた事実が窺えるであろう.
応永20(1413)年には,奥州の伊達持宗が反乱を起こした.
持氏は,畠山国詮を大将として軍勢を派遣し,白河結城氏にも出兵を命じた.
この戦いは,一応鎌倉府軍の勝利で終わったが,白河結城氏は結局参戦しなかった.
また,篠川・稲村の両御所も鎌倉府に協力した形跡は見られない.
満兼の頃から兆しのあった鎌倉府の衰退が,一層進行している様子が窺われるが,これはまだほんのプロローグに過ぎなかった.
「はむはむの煩悩」,2008年9月 1日 (月)
青文字:加筆改修部分
応永22(1415)年,関東管領上杉禅秀が辞任した.
辞任の原因は,禅秀の家人であった常陸国の住人越幡六郎の所領を持氏が没収し,追放したことであるとされている.
京都幕府にしても鎌倉府にしても,中世の武家政権は,所領の配分をいかに適正に行うかが最大の政策課題であった.
政権基盤を強化するには,できる限り所領を没収して,直轄領を増やしたり,より自分に忠実な部下に恩賞として与えなければならない.
しかし,あまり激しくそれをやりすぎると,没収された側の不満が増大して戦乱の原因となる.
このときの持氏は,そのバランスを間違えてしまったらしい.
そう言えば,前代満兼の時代に奥州の伊達政宗が反乱を起こした直接の原因も,鎌倉府が伊達氏に領土の献上を要求したことであった.
直接の契機はこれであったが,持氏と禅秀はこれよりずいぶん前からたびたび衝突し,対立していたようである.
また,犬懸上杉氏の禅秀と山内上杉氏との間にも対立関係が存在していたらしい.
禅秀の後任の関東管領には,山内上杉憲基が就任した.
憲基は,このときまだ20代前半で,当時17歳の公方持氏とともに,若い政権となった.
しかし失脚した禅秀は,あきらめずにクーデタを企てた.
禅秀は,持氏の叔父満隆をけしかけて謀反を決意させ,持氏の異母兄弟で満隆の猶子であった持仲も,仲間に引き込んだ.
さらに,下総の千葉兼胤,上野の岩松満純,下野の那須資之,甲斐の武田信満に呼びかけ,さらにまた,常陸の佐竹与義・小田治朝・大掾満幹,下野の宇都宮持綱,相模の曽我・中村・土肥・土屋氏,伊豆の狩野,陸奥の篠川御所満直・白河結城満朝など,多数の有力武士が禅秀方に参加した.
このように,禅秀のクーデタ計画は着々と準備が進んでいった.
発覚しないように.武器は米俵に入れて鎌倉に運び込んだという.
応永23(1416)年,禅秀たちは鎌倉で挙兵し,鎌倉公方御所を急襲した.
不意を突かれた公方持氏と関東管領憲基は応戦したが敗北し,憲基は越後国,持氏は駿河国へ没落し,それぞれ守護上杉氏と今川氏にかくまわれた.
こうして禅秀の反乱は成功したが,この後の展開についてはまた今度に・・・.
「はむはむの煩悩」,2008年9月 4日 (木)
青文字:加筆改修部分
上杉禅秀の乱の第一報が京都に届けられたとき,将軍足利義持は因幡堂に籠っていた.
そこで諸大名は,そこに集まって今後の対応を協議したのである.
余談ながら,義持は神仏を深く敬った将軍である.
知識も非常に深く,玄人レベルであった.
治世の後半になるほど,仏神事を催すことが多くなり,年の3分の2はどこかの寺や神社に籠っていることもあったそうである.
現在の室町幕府研究は,この義持時代の研究が非常に進んでおり,彼もまた再評価されつつある足利将軍の1人なのである.
本題に戻すと,禅秀の乱の経過が続々と京都にもたらされ,持氏不利の状況があきらかになっていったにもかかわらず(一時,持氏切腹の虚報も流れたほどである),幕府は20日近くも対策を怠っていた.
幕府はようやく一応,持氏支持の方針を打ち出したが,その反応は緩慢で消極的で,京都に被害がなければ別にどうでもいいやという感じであったらしい.
九州もそうであるが,義持時代の幕府の遠国政策は,基本的に現地の自主性に任せる方針であった.
ところが義持の弟・義嗣が,突然京都市内から脱出して高尾に遁世する事件が起き,京都は大騒動となった.
義嗣家出の原因は当初わからなかったが,やがて,義嗣が禅秀たちと共謀して将軍義持の打倒をはかり,さらに前年の伊勢の北畠満雅の反乱にも関与していた事実があきらかとなってきた.
義嗣は,父義満に非常に愛されていた.
義満が義嗣を天皇として,自分は上皇となって皇統を簒奪しようと企てていたとする説も存在するほどである.
しかし義満が死去し,義満に嫌われ,遠ざけられていた兄・義持が,名実ともに将軍として実権を握ると当然,義嗣は幕政の中枢から排除されていた.
その不満が義嗣にこのような行動をとらせたのであろう.
義嗣と彼の近臣は,逮捕されて義持の近臣・富樫満成の許に預けられて尋問を受け,結局義嗣は義持の命令を受けた満成によって処刑される.
しかし尋問の過程で,管領細川満元をはじめとする有力大名が義嗣の陰謀に加わっていた,と証言する者が現われ,幕府への出仕停止や所領没収の処分を受ける大名が続出した.
上杉禅秀の乱は,もはや東国の一反乱にとどまらず,京都政界の暗部をあかるみにし,天下を大混乱に陥れかねない一大疑惑事件に発展してきた.
しかもそのすぐ後,義嗣たちを取り調べた富樫満成自身が突然失脚して没落するなど,もう何が何だかわからない泥試合の様相を呈していった.
結局,陰謀の真相はうやむやとされ,現代でも謎のままであるが,話を関東に戻そう.
上杉禅秀が義嗣に通じているのが判明した以上,幕府としては当然,持氏を援護するしかない.
幕府は急遽,駿河守護・今川範政と越後守護・上杉房方に禅秀討伐を命じて幕府軍を編成させ,今川範政は関東の禅秀方武士に寝返りを勧める書状を出した.
こうして幕府軍は持氏を擁して相模国に進軍し,禅秀方武士の大半が持氏方に寝返り,禅秀と満隆・持仲たちは自害した.
持氏は禅秀の乱を何とか鎮圧したが,この反乱は鎌倉府と京都幕府に深い傷跡を残し,やがて両者が対立を激化させ,全面衝突に至るきっかけとなるのである.
続きはまた今度.
「はむはむの煩悩」,2008年9月 6日 (土)
青文字:加筆改修部分
上杉禅秀の乱で,禅秀に味方した武士に対する幕府の処置は,きわめて寛大であった.
ほとんどの武士は許された.
また,禅秀の遺児である憲顕(憲秋とも書く.公方基氏時代の関東管領上杉憲顕とはもちろん別人)・教朝たちは,京都に引き取られて将軍に仕えた.
これはもちろん,鎌倉公方持氏の力が強くなりすぎないように,反持氏勢力を温存させて,勢力均衡をはかったものである.
事実,後に鎌倉府と京都幕府が対立したときに,関東で京都側についた武士たちは,元は禅秀方であった例が多い.
常に諸勢力を競合させて疲弊させ,漁夫の利を得る形で将軍の力を伸ばす室町幕府の政策は,まことに首尾一貫しているのである.
しかし京都はそれでよくても,公方持氏の立場からすればたまったものではない.
不意を突かれたとは言え,多くの武士が禅秀に味方し,駿河国を没落し,幕府の支援によってようやく勝てた事実は,持氏に衝撃を与えたに違いない.
敵に鎌倉を占領されたのは,将軍尊氏以来1度もなかったことである.
鎌倉府の政権基盤は,いつの間にか著しく弱体化していたのである.
当然,持氏の今後の政治目標は,鎌倉府の立て直しとなった.
鎌倉を回復した持氏がまず着手したことは,もちろん禅秀方残党の掃討戦である.
鎌倉府はまず,禅秀の娘婿であった岩松満純を,彼の本国上野で逮捕して処刑した.
甲斐国にも進攻し,守護武田信満を討った.
下総守護千葉兼胤は降伏した.
常陸国では,守護佐竹義憲の庶流である山入与義が禅秀方となったが,彼も降伏させた.
禅秀が守護を務めていた上総国では,上総本一揆と呼ばれる武士連合が禅秀に味方しており,持氏に降伏したが,持氏はこれを許さず,近臣一色左近将監を派遣して,一揆軍を徹底的に攻撃した.
そして,上総守護代を務めた家柄で,一揆のリーダーである埴谷重氏を逮捕して,鎌倉に連行して処刑した.
こうして持氏は,禅秀の乱を鎮圧した応永24(1417)年からよく25年にかけて,ひとまずは戦後処理を終えた.
なお,乱が終結した応永24年に持氏は,禅秀のものを模していた花押を改めており,この点でも禅秀の影響から脱却しているのである.
続きはまた今度・・・.
「はむはむの煩悩」,2008年9月12日 (金)
青文字:加筆改修部分
応永20年代後半から,鎌倉府と京都幕府の関係は徐々に悪化していった.
それはまず,東国の守護人事に現われてきた.
まず,以前も紹介したとおり,鎌倉公方の膝下である相模国の守護は,初代公方基氏以来三浦氏が世襲していたが,応永28(1421)年頃,三浦高明から小山田上杉定頼に交代した.
小山田上杉氏は,公方持氏の近臣であり,上杉氏の中では公方に近い関係に位置する武士である.
相模守護は,さらに応永33(1426)年頃には一色持家が在職している.
一色持家も持氏の近臣で,しかも持氏の母は一色氏出身であり,持氏の親族と言える武士であった.
このように持氏は,本拠地鎌倉を擁する相模国の守護を,外様から側近に代えたのである.
自分に近い家臣に所領やポストを与え,忠誠度を上げる政策は,方向性としては決して間違ってはいない.
しかし三浦氏は,上杉禅秀の乱に際しては持氏方となって戦った勢力であり,相模守護解任には大して正当な理由がなかった.
しかも同氏は,以前も紹介したとおり,前代鎌倉幕府のときには大勢力を有して幕府の要職を歴任し,東国の武士の中で最高の家格を自負する,プライドの高い一族であった.
このときの持氏の措置が,三浦氏に深い恨みを残したであろうことは容易に想像できる.
事実,持氏はこの10年あまり後に,三浦氏に手痛い報復を受けるのである.
相模守護については,直接京都との関係悪化にはつながらなかったようであるが,甲斐守護の人事は揉めに揉めた.
甲斐国では,守護武田信満が上杉禅秀に与したために鎌倉府に討たれたことは以前も述べた.
その後任の守護として,持氏は逸見有直を推薦したが,京都はこれを認めず,信満の弟である武田信元を任命した.
しかし,これに対して逸見・穴山等の武士が頑強に抵抗したため,信元の甲斐統治はうまくいかず,応永28年頃に死去してしまった.
信元の子・武田伊豆千代丸はまだ幼少であったため,京都は信満の子・武田信重を新守護に任命するが,信重はずっと在京せざるを得ず,事実上甲斐守護の不在状態が続いた.
上杉禅秀が守護を務めていた上総国では,後任守護に宇都宮持綱が任命された.
宇都宮持綱は,かつて上野・越後守護を務めた生粋の尊氏党・宇都宮氏綱の子孫である.
宇都宮氏は,その後もずっと京都の将軍との関係が深く,京都のごり押しで,西国の武士や寺社の所領の多い上総守護に任命されたらしい.
しかし,宇都宮氏はもともと下野国を地盤とする武士であったため,それまで縁がほとんどなかった上総国に対して,守護としての任務を遂行することは事実上不可能で,君津郡の周辺にしか勢力を及ぼすことができなかったようである.
上総国のそれ以外の地域には,先ほど出てきた持氏の側近・小山田上杉定頼が事実上守護としての権限を行使した.
こうして関東の各地で,京都と鎌倉の権益が衝突し,「冷戦」のような状態となっていたが,この冷たい戦争は,常陸国と下野国で遂に熱い火ぶたを切ることとなった.
それについてはまた今度・・・.
常陸国では,守護佐竹義憲は公方持氏方であったが,その一族山入佐竹与義が上杉禅秀方となって持氏に対立した.
禅秀の乱が終結した後,与義は持氏に降伏したことは以前も述べたが,その後も義憲と与義の対立は続いた.
鎌倉府は当然義憲を支持したので,与義は京都幕府を頼った.
京都は佐竹与義を常陸守護に任命したが,持氏はこの決定を公然と無視した.
与義の常陸守護を承認するように,将軍義持が公方持氏に送った御内書が残っている.
遂に応永29(1422)年,持氏は上杉憲直等を常陸に派遣し,与義以下の山入一族を滅ぼしてしまったのである.
持氏のこの暴挙に対して,常陸・下野といった北関東の武士たちが激怒した.
そのメンバーは,常陸では,佐竹一族の小栗満重等,下野では上総守護宇都宮持綱・桃井宣義・佐々木基清等であった.
彼ら北関東や南陸奥の国人たちは,もともと潜在的に反鎌倉府で京都幕府との結びつきが強かったのであったが,この頃,こうした政治情勢をうけて京都との関係をますます強化し,京都では「京都扶持衆」と呼ばれていた.
翌応永30(1423)年,持氏は自ら軍を率いて常陸に侵攻し,小栗満重と宇都宮持綱を討った.
さらに下野に進軍し,桃井宣義・佐々木基清を倒した.
京都扶持衆を倒された京都幕府は無論激怒し,鎌倉府に強硬な姿勢であたることを決意した.
京都と鎌倉の全面対決の様相を呈してきたのである.
将軍義持は,まず鎌倉府との境界に位置する駿河守護今川範政・信濃国の小笠原氏に,京都扶持衆の支援を命じ,鎌倉府管轄下の武蔵・上野の国人たちも味方につけて持氏を牽制した.
さらに,南陸奥の篠川公方足利満直に持氏討伐を命じた.
南北朝末期以来,陸奥国が鎌倉府の管轄下に入り,前代の公方満兼が弟たちを南陸奥に派遣して抑えとしたことは以前も述べた.
しかし,篠川公方は次第に反鎌倉府の姿勢を鮮明にしていき,京都との結びつきを強め,京都扶持衆化した.
もう一方の稲村公方満貞は,鎌倉府側の立場を維持して篠川公方と対立したが,もともと反鎌倉府であった陸奥国の武士たちが,ほとんど篠川公方を支持したために劣勢となり,応永末期には鎌倉に帰ってしまったのである.
京都幕府はこの篠川公方にも注目して,持氏の対抗馬としたのである.
こうして京都―鎌倉は一触即発となり,日本は天下の大乱の危機を迎えたわけであるが,この続きはまた今度に・・・.
応永31(1424)年2月,鎌倉府の使者が京都にやってきた.京都と講和するためである.
もともと鎌倉府の管轄地域は,関東・東北と甲斐・伊豆と前代鎌倉幕府と比較してもかなりせまい.
しかも,甲斐は事実上統治していない状態だったし,東北・北関東は京都扶持衆と呼ばれる京都方の武士が優勢であった.
おまけに公方の本拠地と言える武蔵・相模においてすら,京都幕府の勧誘によってかなりの武士が反鎌倉府となっていた.
京都幕府とまともに戦えば,領土も兵力もはるかに劣る鎌倉府は,万に一つも勝ち目はなかったのである.
また,伝統的に両府間の協調と友好に努力する関東管領の上杉憲実が,公方持氏を必死で諌めたであろうことも,持氏に講和を決断させる大きな原因となったに違いない.
室町殿義持も,この和睦を受け入れることにした.
義持は,足利将軍の中では温厚でハト派の君主であった.
戦争を回避して,平和に問題が解決するのであれば,無論異存はなかったのであろう.
とは言っても,講和を実現するには,今対立の原因となっている問題を話し合いで解決しなければならない.
この話し合いは,やはりかなり揉めたようである.
懸案となっている問題は,大別して3点存在した.
まずは常陸守護の人事である.
持氏が山入佐竹与義を討った後,京都幕府は与義の子・祐義を新守護に任命し,本家の佐竹義憲との対立が続いていた.
この問題については,常陸国を分割して,義憲と祐義をそれぞれ半国守護とすることで解決した.
甲斐守護については,京都幕府が武田信重を任命したものの,信重が甲斐に入国することができず,ずっと京都に滞在していたことはすでに述べた.
これについて持氏は,
「甲斐国が鎌倉府管轄国であるにもかかわらず,信重が京都で奉公し続けているのは,分国を1個没収されたに等しいから,今すぐ甲斐に入国してほしい」
と主張する.
常陸と甲斐については全体的に見て,持氏の京都に対する譲歩が目立つようである.
やはり情勢は鎌倉府に不利で,持氏は妥協せざるを得なかったようである.
しかし甲斐入国については,甲斐国人の逸見や穴山の反乱を恐れた当の武田信重本人が,断固として拒否した.
結局,信重は甲斐に入国せずに,同国の無政府状態は以降も続くのである.
最後に持氏が主張したのは,上杉禅秀の子どもたちの処遇についてである.
禅秀の遺児である憲秋・教朝が,京都で将軍に仕えていたことは以前も述べた.
この憲秋・教朝が応永29(1422)年頃,関東に下って,伊豆や相模で持氏の部下を殺害して京都に帰るという事件があったらしい.
持氏はこれに憤慨して,彼らの処罰を要求したのである.
結局,この問題については憲秋兄弟を京都から追放することが決定した.
この一事を見ても,上杉禅秀の乱が鎌倉府に残した傷跡がいかに大きかったかが窺える.
こうして,京都と鎌倉は和睦したのであるが,この講和は表面的なものにすぎなかった.
京都から鎌倉府に,西国の住人が関東に保有している所領の裁判などを依頼するときには,管領が関東管領に奉書を出して頼んでいた.
(訴人の身分が高い場合などには,将軍が公方に宛てて依頼する).
逆に鎌倉府が管轄下の武士の訴訟などを京都に依頼するときには,公方が管領宛に挙状を出す.
このような京都と鎌倉が交渉・連絡している文書は多数残っているのであるが,これが応永30(1423)年を境にして完全に消滅してしまうのである.
もちろん,文書の残存の問題はあるし,日記史料などからこれ以降も政治的問題などについて両府が使者を派遣し合っていることは確認できる.
しかし,少なくとも残存文書の上で両府の関係が断絶するのは,やはり看過できない重要な事実だと考える.
今回の和睦は,問題の先送りに過ぎず,鎌倉府と京都幕府の関係は極端に悪化したまま,遂に戻ることはなかったのである.
続きはまた今度に・・・.
▼ 話が少し戻るが,京都幕府の方では,応永30(1423)年,足利義持の子・義量が征夷大将軍に就任した.
とは言え,義量に政治的実権はなく,実質的には父義持が依然として室町幕府の最高権力者として統治を続けた.
この点,義持は,反発していた父義満とまったく同じことをしている.
しかしそのわずか2年後,5代将軍義量は,18歳の若さで死去してしまう.
義持にはほかに後を継げる男子の実子がいなかったため,その後は出家していた義持が,無位無官のまま室町殿として君臨し続けた.
こうした京都の情勢を見て,鎌倉公方持氏は幕府に使者を派遣し,義持の猶子となって京都で奉公したいと申し出た.
要するに,義持の後を継いで将軍になりたいということである.
この申し出に対して,義持自身はまんざらでもなかったらしいが,管領畠山満家が猛反対したため,使者は義持に対面することもできずに鎌倉に帰ったという.
満家がなぜ反対したのかはよくわからないが,先祖の畠山国清が公方基氏によって失脚させられた恨みが残っていたのかもしれない,と個人的には想像している.
持氏は京都の将軍とまったく対等であるとの意識を持っており,鎌倉府の年中行事の作法などもその対等意識によって定められていたし,その意識に従って京都に軍事的に対抗してきたことも今まで見てきたとおりである.
しかし,将軍家が断絶しそうになると,あれだけ敵対してきた義持の養子になって京都でご奉公したいとあっさり言いだす.
ここに私は,持氏の京都に対する歪んだコンプレックスと言うか,ねじ曲がった劣等感を感じるのである.
応永33(1426)年,持氏はふたたび花押の形を変える.
今度の改変では,京都の将軍の花押の型を取り入れた.
持氏は,将軍の地位をあきらめてはいなかったのである.
さて,甲斐国では,武田信重が守護に任命されたものの,信重は入国できなかったことはすでに述べた.
ここに応永33年,信重の弟である武田信長が甲斐国に侵入し,甲斐国を事実上牛耳っていた逸見氏等を多数討った.
持氏は近臣一色持家を大将として甲斐に派兵したが,持家は信長に敗退した.
そこで今度は持氏自らが軍を率いて甲斐に遠征し,信長を降伏させ,鎌倉に連れ帰った.
武田信長は,この後しばらく持氏の部下となって活動したようである.
鎌倉府がひさびさに勝利らしい勝利をしたと言えるであろう.
応永年間の最後の5年間は,こういう出来事もあって,比較的平穏無事に小康状態を保ったらしい.
しかし応永35(1428)年,室町殿義持が死去すると,鎌倉府と京都幕府はふたたび敵対関係となり,激動の時代を迎えるのである.
応永35(1428)年1月,室町殿足利義持が死去した.
義持は後継の将軍を指名せずに死去したので,幕府は義持の弟たちから籤引きで将軍を選ぶことに決め,籤引きは石清水八幡宮で実行された.
その結果,将軍に選ばれたのが青蓮院准后義円,すなわち6代将軍足利義教で,このエピソードはご存じの方も多いであろう.
この措置に激怒したのが,鎌倉公方持氏である.
持氏は義持の後継者に選ばれなかったばかりか,籤に名を連ねることすらできなかったのである.
とは言え,管領畠山満家以下の幕府の有力者たちが誰1人持氏を推す者がいなかったのも,考えてみれば当然である.
持氏がいかに足利将軍家の一門とは言え,初代尊氏から数えてすでに4世代を経ており,赤の他人も同然である.
しかも,事あるごとに京都幕府に敵対してきた前科もある.
そんな人物を主君に頂きたくないのは当然のことであろう.
だが,持氏がこの道理を理解できるわけがない.
持氏は,大軍を率いて京都に攻めのぼって,実力で将軍の地位をつかみ取ろうとした.
これを諌めたのが関東管領・上杉憲実である.
持氏を諌めるだけでは効果がなかったので,憲実は,上野国から新田氏が攻めのぼってくると嘘をついて,持氏の出陣を中止させた.
まさに,「嘘も方便」であるが,この時代においても新田氏が反足利と考えられていたことをも物語っていると言えよう.※
京都側も持氏の上洛に備えて,陸奥国の篠川御所満直や伊達・芦名・白河結城氏等反鎌倉府の諸氏に御内書を与えたり,信濃守護小笠原政康や駿河守護今川範政を分国に下向させて,防衛線を構築させるなどの対策を施した.
鎌倉府の方も,南奥の鎌倉府方の武士である石川・相馬・懸田氏等を支援して,白河結城氏等京都扶持衆と磐城宇多荘で戦わせた.
翌正長2(1429)年,義教の将軍宣下があったが,鎌倉府は先例となっているお祝いの使者を派遣しなかった.
半年後にようやく使者が上洛したが,義教に対面することはできず,使者はむなしく鎌倉に帰っていった.
この賀使は公方持氏ではなく,関東管領・憲実によるものであると考えられている.
同年9月には改元が行われ,元号は永享となった.
これは,前年に後花園天皇が即位したことによる改元であるが,事実上義教の将軍代始の改元でもあった.
なので持氏は,この改元を公然と無視して,正長年号を使い続ける.
室町幕府に敵対する武家勢力が改元を無視したのは,ほかにも例えば観応改元を無視して貞和年号を使い続けた足利直冬の例もある.
改元を無視しただけではなく,持氏はかつて上杉禅秀党であった大掾満幹を鎌倉で殺害して滅ぼしたりした.
こうして,京都と鎌倉はまたまた一触即発の危機を迎えるわけであるが,続きはまた今度に・・・.
※この新田氏云々の話は,京都の貴族万里小路時房の日記『建内記』に記載されていますので,一応は一次史料に載っているエピソードです.
しかし,よく考えてみれば,そもそも新田本宗家は滅亡しています.
新田氏の遺領は,その大部分を庶流の岩松氏が継承しています.
いくら持氏が愚かな武将であっても,さすがにこのうそにはだまされなかったのではないでしょうか?
先日,御座さんとこの話をしたのですが,おそらく,上杉禅秀の残党が放棄する可能性を説いて持氏を諌めたのが,東国の事情に疎い京都の公家の耳に入る頃には,新田氏云々に変わった可能性が高いと思います.
というわけで,この件に関しては,この日記を書いたときとは,私の考えもこのように変わっています.
追伸.
もしくは,新田氏の庶流である岩松満純も,上杉禅秀の乱では禅秀方について敗死していますので,上杉憲実は,岩松氏残党の蜂起の可能性を主張したのかもしれませんね.
まあ,私の考えも推測ですので,今後さらに新見解が提示される可能性もありますが,そのときはまた紹介したいと思います.
「はむはむの煩悩」,2008年10月 7日 (火) 11:17~20:43
永享3(1431,鎌倉府では正長4)年3月,鎌倉府の使者二階堂盛秀が上洛した.
この使者上洛は,京都幕府に今までの罪を謝罪するためであったが,使者を派遣したのは鎌倉公方持氏ではなく,関東管領上杉憲実であった.
しかし,将軍義教は,奥州の篠川御所満直を支持していたので,盛秀と対面しようとはしなかった.
盛秀は管領・斯波義淳に依頼して,何としてでも将軍と対面しようとした.
その甲斐あって,4ヵ月後の7月19日,ようやく義教に面会することができた.
これは,管領義淳や,義持時代の管領で,幕府の元老となっていた畠山満家以下の諸大名が必死になって義教をいさめたからである.
鎌倉府において,持氏を憲実がいさめていたのと同様の状況が,京都においても存在したのである.
京都も鎌倉も,おたがいタカ派の主君を上に戴いて,家臣はとても大変だったようである.
ともあれ,鎌倉府と京都幕府は,今回も何とか和解できた.
後花園天皇の父・伏見宮貞成親王は,この和睦を非常に喜んで,これで天下も無事であろうとその日記『看聞日記』に記している.
鎌倉府は,8月18日から永享年号を使用し始めた.
また,翌永享4(1432)年,憲実は,鎌倉府が占領していた幕府方の所領の返還を申し出ている.
このような憲実を見て,京都幕府は京都と鎌倉の関係をいちばん大事にする人物であると評価したが,これはもちろんまったく正しい見方である.
しかし,両府の関係は,現実的にはもはや修復不能の段階に至っていたのである.
永享4年,義教は富士山を見たいと言い出し,富士遊覧を計画し始めた.
もちろんこれは,実質的に軍事演習を行い,持氏を牽制する目的である.
これを知った憲実は,来年への延期を幕府に要請したが,義教は結局富士遊覧を強行した.
これは幸い,万一の事態は起こらず無事に終わったが,翌永享5(1433)年には,元老畠山満家が死去し,何かと義教の政策に反対して衝突していた管領・斯波義淳も管領を辞任した.
後を継いだ管領・細川持之は,基本的にイエスマンで,義教の言いなりであった.
こうして将軍職にも慣れてきた義教が,目の上のたんこぶなしで思いどおりに政治を行える環境が整った.
同時に鎌倉府との関係もますます悪化していったのであるが,続きはまた今度・・・.
甲斐国では,前も述べたとおり武田伊豆千代丸が守護を務めていたが,守護代の跡部氏が,伊豆千代丸の命令を聞かずに専横をきわめていた.
このため甲斐国の武士たちも守護方と守護代方に分裂して争い,国内は大いに乱れていた.
先に持氏に敗れて鎌倉に連行され,持氏の近臣となっていた武田信長は,永享5(1433)年,持氏に無断で突然鎌倉を出奔して甲斐へ向かった.
しかし,信長は甲斐国を治めることができずに,京都幕府の分国であった駿河に亡命した.
持氏は,京都幕府に信長の処刑を要求したが,幕府はこれを認めずに,駿河からの追放にとどめた.
それどころか,義教は遠江国の所領を信長に与えた.
もちろんこれは,反持氏勢力を温存して,鎌倉府を牽制するためである.
前年の富士遊覧に続いて,義教はポイントを稼いだのである.
なお,守護代跡部氏は,永享7(1435)年,持氏に無断で紀伊国の熊野神社に参詣し,その途上京都に上洛して,当時名目上の守護であった武田信重(信長の弟)と面会して和解し,義教も跡部に刀を賜った.
ここに甲斐国は,名実ともに鎌倉府の管轄を離れ,京都幕府所管となったのである.
信長が亡命した駿河国では,ちょうどそのころ守護今川家で跡目相続をめぐってお家騒動が起こっていた.
その騒動も複雑な経過をたどるが,要点だけ記せば,将軍義教は今川範政の嫡子彦五郎を支持し,公方持氏は扇谷上杉氏定の娘を母とする弟千代秋丸を支持して対立したが,結局彦五郎に軍配が上がって,彦五郎は駿河守護今川範忠となった.
持氏は,またしても義教に敗北したのである.
永享6(1434)年,持氏は鶴岡八幡宮に願文を提出した.
これは現存しているが,現在でも鮮やかな赤い字で書かれており,持氏が自身の血を墨に混ぜて書いた血書の願文である.
この願文には,武運長久や子孫繁栄などの願いに加えて,「殊に呪詛の怨敵を未兆に擾」うことが記されている.
「呪詛の怨敵」とは,もちろん将軍義教にほかならない.
ここにおいて持氏は,義教打倒を公然と祈願したのである.
鎌倉府と対立を深める一方で,将軍足利義教は,比叡山延暦寺とも対立していた.
もともと比叡山は,鎌倉以来たびたび幕府と対立を繰り返してきたのであるが,義教以前の歴代将軍たちは,仏教の権威を恐れて比叡山に強硬手段を採れなかった.
しかし義教は,将軍になる以前は天台座主・義円といって,比叡山のトップの僧侶であったので,比叡山の弱点を知りつくしており,比叡山に対して何らおそれもコンプレックスも持たなかった.
永享7(1435)年,幕府は延暦寺僧弁澄を殺害し,幕府軍は比叡山を包囲した.
僧侶たちは寺を焼いて自殺した.
義教は織田信長に先駆けて,史上初めて実質的に比叡山を焼き討ちした将軍となった.
当然のごとく,この比叡山と鎌倉公方持氏が連携しているという噂が京都に流れた.
延暦寺は義教を呪詛し,持氏に上洛を促したという.
もちろんこの噂はほぼ事実であろう.
同じころ,持氏は京都幕府管轄の駿河国や三河国の武士たちを味方にするために勧誘している.
京都幕府が北関東や南陸奥の武士たちを味方に引き入れて,「京都扶持衆」にしたのと同じことを持氏も試みたのである.
しかし,この陰謀は京都にばれて失敗に終わった.
また,持氏は岩松持国に命じて,常陸国長倉城の長倉義成を攻撃させた.
長倉義成の父義景は,上杉禅秀の乱に際して山入佐竹与義とともに禅秀方となって,持氏と戦った武士である.
乱後も長沼氏は持氏や佐竹宗家に対抗していた.
この段階に至っても,持氏は禅秀の乱を引きずっていたのである.
京都幕府との対立が激化していくにともなって,公方持氏と関東管領・上杉憲実の仲も不和となっていった.
関東管領は,伝統的に京都―鎌倉間の平和維持に努力しており,公方の暴走を抑える役割を担っていた.
持氏が暴走すればするほど,憲実との関係が円滑にいかなくなるのも当然である.
公方と管領の関係が悪化するにともなって,応永から正長・永享に年号が変わる頃から,鎌倉府の政務はふたたび停滞していった.
特に関東管領の発給文書の残存数が激減している.
鎌倉府は血書の願文を書くなど,表面的には京都幕府と派手に対立していたが,内実は一層衰退が進行し,ぼろぼろになって政権として機能不全に陥り,権力としての体をなしていなかった,と私は考えている.
そして遂に持氏にフィナーレが訪れたのであるが,それについてはまた次回に・・・.
信濃国では,守護小笠原政康と村上頼清が領土をめぐって対立していた.
永享8(1436)年,村上頼清は,鎌倉公方持氏に援軍派遣の要請をした.
公方派の頼清が勝てば,公方の勢力拡大につながるので,持氏はもちろん援軍を派遣することにしたが,これに反対したのが関東管領・上杉憲実である.
憲実は,
「信濃国は京都幕府の御分国です.
守護・小笠原氏は京都幕府の守護であり,将軍義教様の御家人であります.
彼を討つことは,京都への不義でありましょう」
と言って反対したが,まったくそのとおりである.
しかし持氏は,憲実のいさめを無視して,援軍を出発させた.
憲実は,やむを得ず上杉軍を出動させて,持氏軍の信濃侵入を阻止した.
鎌倉から信濃国に行くには,武蔵国・上野国を経由しなければならないが,両国はいずれも山内上杉氏の守護分国である.
路次で公方軍の進軍を妨害するのは容易なことであった.
だが翌永享9(1437)年,持氏はふたたび信濃へ軍を派遣しようとした.
ところが,これは持氏が憲実を討つためであるとの噂が出て,上杉派の武士が諸国から集まって,鎌倉は大騒動となった.
持氏は6月7日,自ら憲実邸を訪問して話し合ったが,和解は成立しなかった.
7月25日,憲実は7歳の嫡子をひそかに分国上野へ落とした.
8月13日,持氏はふたたび憲実邸を訪問し,ようやく管領職に復帰することを憲実に了承させたが,両者の不和は続いた.
関東管領は鎌倉府にとって,言わば扇の要である.
いかに公方権力を抑制して,公方にとって不快で邪魔であっても,絶対に存在してもらわなくてはならない立場なのである.
持氏の一連の行動は,それをよく示していると言えよう.
しかし,そうこうしているうちに,信濃国の紛争は,守護小笠原氏の勝利で決着し,持氏はまたも失敗した.
永享10(1438)年,鎌倉の鶴岡八幡宮で,持氏の嫡子賢王丸の元服が行われた.
鎌倉の足利氏の子弟は,代々京都の将軍の名前から1字拝領するのが通例であり,今回もこの先例に従うことを憲実は持氏に進言したが,持氏はこれを無視して,息子に「義久」と名乗らせた.
足利持氏というのは,つくづく「面従腹背」ということができない武将である.
8月,ふたたび持氏が憲実を討つ風聞が出た.
憲実は嘆いて自害しようとしたが,家臣に制止され未遂に終わった.
憲実は無実を主張するため,分国上野へ没落していった.
これを知った持氏は,噂ではなく本当に憲実を討とうとした.
ついに永享の乱が勃発したのである.
▲
永享10(1438)年8月15日,関東管領上杉憲実の鎌倉脱出を知った鎌倉公方持氏は,憲実追討のために近臣一色氏を上野国に出陣させた.
そして翌日,自身も武蔵国府まで出陣した.
関東のこのような情勢を見て,ついに動き出したのが京都の将軍義教である.
京都幕府は,今まで何だかんだ言って防衛線を構築したり東国を扇動する程度で,自ら直接動くことはなかったのであるが,ここに来てついに直接鎌倉府を攻撃する作戦をとったのである.
義教はすでに7月30日に,各武将に対して憲実を支援するように命じていた.
8月22日には,上杉教朝を大将として持氏討伐軍を派遣した.
上杉教朝は,かつて持氏に叛旗を翻して討たれた上杉禅秀の遺児である.
最後の最後まで,持氏と禅秀の対立の構図が残っていたのである.
さらに念の入ったことに,義教は持氏追討の綸旨を後花園天皇から拝領し,持氏を朝敵と認定する大義名分も得た.
朝廷から下された錦の御旗は,奥州の篠川公方満直が賜ったそうである.
そして義教自身も出陣しようとしたが,これはさすがに管領細川持之たちが必死で制止したので取りやめた.
こうして,上野国で一色軍と上杉軍,相模国で持氏軍と幕府軍の交戦が行われたが,幕府が憲実に味方し,しかも綸旨まで拝領したとなると,持氏軍を裏切って幕府方に寝返る武士が続出し始めた.
不利を悟った一色は,わずかな手勢とともに脱出して,相模の持氏に合流した.
ここに10月3日,持氏の留守を預かり鎌倉を防衛していた三浦時高が,寝返って鎌倉を脱出して本拠の三浦に撤退し,11月初めふたたび鎌倉に入って放火した.
以前も紹介したことがあるが,三浦氏は,何の罪もないのに相模守護を持氏に取り上げられた武士である.
公方が出陣するときは,三浦氏が鎌倉を警備するのが先例であったので,今回も持氏はそれを時高に命じていた.
時高は,近年領地が少なく,三浦氏の軍事力も弱小なので,それが不可能であることを言明したが受け入れられず,無理やり警備をまかされていたのである.
戦争が鎌倉府に不利な状況となった上に,こういう経緯もあったので,三浦氏が寝返ったのも当然と言えよう.
こうして持氏は本拠地鎌倉を失い,戦いの帰趨が決した.
同じころ,鎌倉府政所執事・二階堂盛秀も持氏を見限って去り,持氏はごく一部の近臣を残して完全に孤立した.
10月19日,関東管領上杉憲実は,武蔵国分倍河原まで進出したがそこで動かず,家臣の長尾忠政を鎌倉に派遣した.
忠政は途中,持氏一行と会い,持氏に臣下の礼をとってともに鎌倉入りした.
11月4日,持氏は武蔵国の称名寺で出家して,道継と名乗った.
称名寺で持氏近臣が多数切腹させられ,11日,持氏は鎌倉の永安寺に入った.
持氏は事実上,公方としての力を完全に失ったのである.
こうしていざふたを開けてみると,永享の乱は持氏にまったくいいところのない惨敗に終わってしまった.
惨敗
(画像掲示板より引用)
永享10(1438)年11月27日,鎌倉の永安寺に幽閉されていた持氏は,常陸国の鹿島実幹父子に宛てて感謝状を発給している.
ここで持氏は,彼らが今までに尽くした忠節を褒め,今後ますます奉公を積むことを命じている.
持氏は,まだ現世の権力に未練を持っていたのである.
彼はまた,今回の戦争は,上杉憲実が謀反を起こしたため,思いがけず京都と鎌倉が戦うこととなり,多くの臣下の武士が離反する結果となったことは無念であるとも,この感状で述べている.
どうも事前に将軍義教と打ち合わせていた節があるので,憲実の謀反は事実かもしれないが,将軍義教の気性や持氏が今まで行ってきた,京都幕府に対する数多の挑発を踏まえて見ると,あまりにもあますぎる状況判断であると言わざるを得ない.
そういうこともあるうちに,持氏が永安寺に幽閉されて1ヵ月が経った.
憲実は鎌倉に入っていたが,幕府から持氏を処刑するように催促されていた.
しかし憲実は,持氏を殺す意志はまったく持っていなかったのである.
確かに事の成り行き上,持氏と対立し,戦争することとなってしまった.
しかし憲実にとって,持氏はやはりかけがえのない大切な主君であった.
まだ幼少のときに関東管領となった憲実にとっては,持氏は政治家として武将としてたくさんのことを教えてくれた恩師でもあったろう.
そこで憲実は,京都幕府に持氏を許してくれるように願い出たのである.
しかし京都では,将軍以下諸大名が会議を開いて,持氏を赦免しては後日の憂いとなるであろうとの理由で処刑を決定していたので,憲実の請願は却下された.
これはこれで妥当な判断であるので,致し方のないところである.
しかし憲実は,それでも持氏処刑に踏み切れなかった.
翌永享11(1439)年閏1月24日,幕府は信濃守護小笠原政康に,憲実の行動に疑いがあるので使者を派遣したことを伝え,使者と相談して持氏がいる永安寺を攻撃するように命じた.
このままでは憲実の命さえ危ない状況になってきたのである.
ついに2月10日,持氏が幽閉されて4ヵ月も経ってから,ようやく憲実は永安寺を攻めた.
持氏は,自分の子弟7人を自らの手で殺害してから,寺に火を放って自殺したと伝えられる.
享年40歳.持氏とともにいた叔父,稲村御所満貞等の近臣20人あまりも同時に自殺した.
満貞は,かつて篠川御所満直とともに南陸奥に派遣されたが,後に鎌倉公方派として京都幕府派の満直と対立し,応永末年に満直に敗北して鎌倉に撤退して以来,持氏に仕えていたのである.
28日には報国寺に幽閉されていた嫡子の義久も自害した.
義久の享年は諸説あるが,いずれも10代前半とする点では一致している.
義久の弟たちの一部は鎌倉脱出に成功し,関東足利氏の滅亡はまぬがれて,後の歴史を形作るのであるが,それについてはまた今度に・・・.
ともあれ,ここで鎌倉府はいったん滅亡したのである.
以上,16回にわたって,第4代鎌倉公方足利持氏と,彼の時代の鎌倉府の歴史を簡単に見てきた.
ここまで〔略〕読まれたらおわかりのように,京都幕府と鎌倉府は,結局決裂して大乱を起こし,悲劇的な最期を迎えたわけである.
将軍義教と公方持氏,両者どちらにも戦争責任があるのは自明であるが,持氏シリーズを読まれたみなさんは,どちらがより悪かったと考えられるであろうか?
私は,持氏が圧倒的に悪かったと考えている.
以前紹介したとおり,京都幕府に比較的従順であった九州探題でさえ,義教の時代には大幅に権限を削減されている.
義教はあちこちの守護の家の内紛に介入して,守護の勢力を削ごうとしたし,比叡山とも対立し,焼き打ちしたりしている.
九州探題や並みの守護よりもはるかに強大な権限と広大な支配領域を持ち,血統的にも優れ,おまけに義満の時代から何かと反抗的であった鎌倉府の勢力をも削減しようとしていたことは,ほぼ確実であろう.
しかし,だからと言って,それに対する持氏の対応は,あまりにも拙劣でまったくの逆効果であったと言わざるを得ない.
思えば,2代公方氏満の時期から,鎌倉と京都の対立は,少なくとも直接的には,ほとんど鎌倉府側から仕掛けている.
持氏の時代になると,その傾向はさらに顕著となった.
義教の将軍就任にお祝いの使者を出さなかったこと,永享改元を無視して正長年号をつかい続けたこと,血書の願文を作成して義教を呪詛したこと,自分の息子の元服で将軍の名前の1字を使用しなかったこと・・・.
これらはすべて,無駄で無意味な挑発であり,わざわざ行う必要のまったくないことである.
前にも言ったが,持氏というのは,とことんまで「面従腹背」のできない武将だったのである.
これだけ挑発を続ければ,ただでさえ鎌倉府を倒そうと思っている義教を,ますますその気にさせるであろうことは,火を見るよりあきらかであろう.
しかも当時の鎌倉府は,政務が滞り,政権基盤が日に日に弱体化していた.
何より,鎌倉府の支配の要である関東管領・上杉憲実と不和となり,彼を敵に回したことが致命的なミスとなった.
領土も軍事力もただでさえ京都にはるかに及ばないのに,ますます衰退が進行していたのである.
こんな状況でおかしな挑発を続ければ,さらに不利になることもあきらかである.
事実,現実に永享の乱が勃発したとき,幕府が大軍をちょっと動かしただけで,持氏軍はいいところなく勝手に自壊して惨敗したのである.
持氏には本気で京都幕府を倒す気はなかった節が窺えるが,それならそれで持氏の一連の行動は,なお一層する必要のないものであった.
持氏は,義教につけ入る隙を与えないように慎重に行動しながら,じっくりと衰退していた鎌倉府の体制を立て直す努力をするべきであったと考える.
後世,持氏と同様に関東の支配者となった徳川家康が,豊臣秀吉に最後まで隙を見せず,遂には天下を獲った事実も想起すると,なおさらそれを強く感じるのである.
これに対して義教は,実は相当慎重に細心の注意を払って行動している.
富士での軍事演習や,守護家の内紛の介入も,常にそれなりの大義名分があり,正当性に基づいての行動である.
甲斐守護代の跡部氏と和解して味方につけたときも,持氏を不要に刺激しないように,直接面会するのを避けているほどである.
最後には後花園天皇綸旨を獲得して,持氏を朝敵認定するほどの念の入れ方である.
義教と持氏は,よくキャラの似た専制的な暴君として並び称されることがあるが,政治家としての力量は天と地ほどの差があり,同列に並べることはできない.
上杉禅秀の乱後の応永年間後半,直轄軍を拡大して支配体制を確立しようとした持氏の政策は,それなりに評価できるが,それ以外の面ではきわめて軽率な武将であると評価せざるを得ないと考えている.
歴史が人を動かすのか,人が歴史を動かすのかという,古くて新しい問題がある.
私は基本的に前者の考えなのであるが,持氏に関しては,後者の事例に該当すると思えてならない.
確かに鎌倉府は,下り坂の政権であった.
しかし無理をしなければ,もっと長続きする丈夫な権力ではあったと考えている.
それは,鎌倉府と同様の支配体制を採っていた京都幕府が,さらに長続きしたことを見てもあきらかであろう.
鎌倉府の権力機構は簡素で,その歴史もまた構図がはっきりしていて非常にわかりやすい.
だからこそ鎌倉府は,「歴史から学ぶ」素材としては最高級で,現代の政治を考える上でも参考になる部分が多いと私は思っている.
ひとまず,これを結論として,鎌倉府シリーズを終えたい.
▲
【質問】
義嗣事件がなかった場合,禅秀の乱に幕府はどう対応するつもりだったのでしょうか?
【回答】
これはifの話になってしまうので何とも言えませんが,幕府としては事件の有無にかかわらず一応,持氏を支援する方針だったようです.
持氏が義持の烏帽子子だから,烏帽子子を助けるべきという理由で.
ですが,乱が禅秀方の完全勝利となり,持氏戦死という事態にでもなれば,公方満隆―管領禅秀の既成事実を認めた可能性が高いと思います.
ただし,その場合でも実際の史実と同様,鎌倉と京都の対立関係は続いたと思います.
「はむはむの煩悩」,2008年9月 8日 (月) 14:09
青文字:加筆改修部分