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◆◆◆足利もと~ Asikaga klán
<◆◆人物 Emberek
<◆室町時代(日本)
<戦史FAQ目次
『関東足利氏の歴史 第1巻 足利基氏とその時代』(黒田 基樹著,戎光祥出版,2013.4)
【質問】
足利基氏とは?
【回答】
南北朝から室町前期にかけて,東国には「鎌倉府」と呼ばれる室町幕府の地方統治機関があった.
鎌倉府の首長は,足利尊氏の子基氏の子孫が代々務め,「鎌倉殿」とか「鎌倉公方」「関東公方」などと呼ばれた.
官途は左馬頭→左兵衛督であった.現代では,鎌倉公方とか関東公方と言うことが一般的である.
この鎌倉府の初代公方である足利基氏は,なかなか優れた武将・政治家であったらしい.
そこで数回に分けて,基氏の生涯を簡単に紹介したい.
基氏が公方として本格的な活動を始めるのは,観応の擾乱の後である.
本題の基氏伝に入る前に,まずは室町幕府ができてから擾乱に至るまでの東国の歴史を簡単に振り返ってみよう.
周知のように尊氏は京都に幕府を開いたが,東国には子の義詮(基氏の兄)を置いて東国の抑えとした.だから厳密には義詮が初代の鎌倉公方ということになるが,学界では義詮は公方にカウントせず,基氏を初代とするのが普通である.
それはさておき,当時義詮はわずか7歳の少年であったので,実質的に東国を統治することは不可能である.
そこで,義詮の補佐として任命され,実質的に東国統治を行ったのが,斯波家長である.
斯波家長は,斯波高経の長男である.関東地方だけではなく,広大な東北地方も管轄した.
当時東北には,南朝方の北畠顕家がいて,強大な勢力を誇っていた.
家長がこの地の支配を任されたのは,足利将軍家に匹敵する高い家格と,陸奥国斯波郡が斯波氏の本領で,同氏が東北地方と深い関わりを持っていたからと考えられているが,新田義貞対策として越前守護を任された父の高経と言い,尊氏の斯波氏に対する大きな期待が窺えるであろう.
しかし家長は武運つたなく,建武4(1337)年,奥州から上洛を目指して進軍した北畠顕家軍を迎撃したものの,戦死してしまった.
顕家は畿内まで侵攻したものの,京都を占領することができずに高師直軍に和泉国堺で敗北して戦死したことは,今までも何度か触れてきたところである.
言うまでもなく東国は,前代鎌倉幕府の首都鎌倉を擁し,武家にとっては聖地でもあり,きわめて重要な地域であった.
将棋もそうであるが,味方にとって重要な地点は,敵にとってもまったく同じく重要地点である.
顕家戦死後,南朝は大幹部北畠親房を関東に派遣し,常陸国で反幕活動を開始した.
これに対し幕府は,上杉憲顕と高師冬の2人を新たに関東執事に任命し対抗した.
ちなみに東北地方には,石塔義房が派遣された.
少し前に取り上げたように,師冬は5年かけて苦戦しながらも,親房を破って吉野に追い払った.
その後,師直の弟である高重茂が師冬と交替して,新たに関東執事として東国に赴任してきた.
高重茂は,血縁的には師冬の従兄弟であるが,師冬が師直の養子となっているので,義理の叔父にあたる人物である.
この人はかなりおもしろい人物で,武闘派そろいの高一族の中にあって,合戦にまつわるエピソードのまったくない人である.
重茂の活動として現代に伝わるのは,引付頭人とか戦乱が鎮まった東国の執事とか,行政や戦後処理に関するものばかりである.
ロールプレイングゲームに例えれば,攻撃力と防御力がゼロで,ひたすらほかのパーティを治療する僧侶といった役割であるが,室町幕府には本当にいろんなタイプの武将が存在したものである.
貞和5(1349)年8月,京都で師直がクーデタを起こし,直義を失脚させた.
失脚した直義の後任に当時19歳になっていた義詮が就任することとなり,義詮は鎌倉を発って上洛した.
その義詮と入れ替わるように新たな関東の主として京都から東国に下向したのが基氏なのであるが,続きはまた今度・・・.
「はむはむの煩悩」,2008年4月12日 (土)
青文字:加筆改修部分
足利基氏は,暦応3(1340)年に生まれた.母親は赤橋登子,尊氏の正妻の子で,義詮とは10歳年下の同母弟である.
幼名は光王(または亀若)といった.
基氏は直義の猶子となり,幼少時には直義邸で養育された.
基氏の生涯変わることのなかった直義に対する深い敬愛の念は,このときに形成されたものであろう.
直義は,尊氏の庶子直冬も養子としており,ほかに尊氏の娘も養女として自宅に引き取って育てていたようである.
尊氏は,政治の世界で直義に権限の大半を譲ったばかりではなく,自分の子どもまで彼に与えていたのである.
これはどういうことなのか,私にはよくわからない.
ちなみに直義は実子にめぐまれなかった.
尊氏が自分の子どもたちを直義の養子にしたのも,実の子がいない直義に対する尊氏の思いやりであったのかもしれない.
貞和3(1347)年にようやく男子が産まれたが,このとき直義夫妻は40歳を越えており,高齢出産であった.
この子息は如意丸と名づけられ,直義は溺愛したが,観応2(1351)年,擾乱の真っ最中,如意丸は直義の陣中でわずか4歳で病死してしまった.
このときの直義の落胆と悲哀は尋常ではなかったらしく,敵の尊氏も直義をいたわったほどである.
このように直義は,家庭的にはめぐまれなかった人である.
前回述べたように,貞和5(1349)年,失脚した直義の後任として鎌倉から上洛した義詮に代わって関東の主となった基氏は,鎌倉に下向した.
このとき基氏はわずか9歳,100騎に満たない小勢での鎌倉行きであった.
この時期は,尊氏と直義の対立がいよいよ表面化し,全国を二分,三分する大動乱の兆しが出てきたときである.
幼い基氏も,この動乱の渦に巻き込まれる運命にあった.
ここで述べたように,観応1(1350)年,直義派の関東執事上杉憲顕に対抗するために,尊氏派の高師冬がふたたび両執事の一方に任命されて東国に赴任する.
しかし師冬は翌年1月,上杉軍に敗北して戦死してしまう.
ここに鎌倉府は,直義派が圧倒的に優勢となり,東国は直義の勢力圏となって彼が絶大に信頼する憲顕が牛耳るところとなった.
さらにこの年の暮れには,直義自らが北陸を経由して鎌倉に到来する.
子どもであった基氏に,これらの動向に主体的に関与する力があるはずはなく,直義や憲顕の言いなりになっていたに過ぎない.
この後,尊氏が京都から軍勢を率いて直義を倒すために東海道を下り,各地で直義軍を撃破して鎌倉に入る.
基氏にとっては,おそらく初めて実父尊氏とまともに接することになったわけであるが,この続きはまた今度に・・・.
「はむはむの煩悩」,2008年4月15日 (火)
青文字:加筆改修部分
東海道をめぐる実父尊氏と養父直義の戦いが,幼い基氏の人間形成に大きな影響を与えたことは間違いないであろう.
この間基氏が,父と叔父の争いを嘆いて安房国に没落したとするエピソードも残っている.
このブログでは何度か述べてきたように,尊氏は東海道各地で直義軍を撃破し,直義を捕らえて,正平6(1351)年12月鎌倉に入った.
直義は翌年2月死去するが,当時の関東地方は上杉憲顕ら旧直義党の勢力が強力に残存し,新田義興・義宗等の南朝勢力も健在で,これらの勢力が手を結んで尊氏に対抗する構えを見せていた.
幼い基氏では,到底この難局に対処できないことは明白であった.
そこで尊氏は,西国の統治を義詮にまかせ,しばらく自ら東国支配に専念することとしたのである.
尊氏がまず行ったことは,旧直義党で占められていた東国の守護の一斉更迭である.
上野・越後は上杉憲顕に替えて宇都宮氏綱,武蔵国も上杉氏から尊氏の執事仁木頼章,伊豆は以前も紹介したように石塔義房から畠山国清へ,そして東国の首都鎌倉を擁する相模には守護を設置せず,尊氏が自ら統治するという布陣に改めた(なお,上総守護は佐々木導誉の子息秀綱から千葉氏胤に交替).
このときの守護配置は,専門家の間では,尊氏軍が直義軍に決定的な勝利をおさめた駿河国薩捶山の戦いにちなんで,「薩捶山体制」と呼ばれている.
そして尊氏は,武蔵国平一揆という地方武士の兵力を直属の部隊として,南朝・旧直義派連合軍と武蔵・相模で激闘を繰り広げた(武蔵野合戦).ここで紹介した竹沢氏・江戸氏も平一揆の構成員である.
尊氏の東国滞在は,わずか2年にも満たないが,このときの支配は相当成功をおさめた模様である.
『源威集』という軍記物には,この時期の尊氏が,東国武士たちとの交流を通じて彼らの信望を集めていくエピソードが描かれているそうである.
尊氏は,武士たちの家系や先祖の功績や伝来の故実などを実に詳細に記憶しており,陣中でお目見えした彼らにそれらを暗誦して賞賛することによって,彼らの忠誠心や信頼を勝ち取っていったのである.
基本的に尊氏という人は,他人に任せてできることは全部他人にやらせる「何もしない人」なのであるが,この時期の尊氏は,前後の時期とはまるで別人のように,政治に軍事に行政に裁判を実に精力的に主導し,すばらしいリーダーシップを発揮している.
まさに征夷大将軍の名に恥じない活躍ぶりで,私はこの時期の尊氏はとても大好きなのである.
基氏が,こうした政治家・武将としての尊氏を間近で見て,大きな影響を受けたことは言うまでもないだろう.
尊氏は基氏に,ある種の「帝王学」を授けたようである.
そして看過してはならないのは,尊氏が基氏に,政治・軍事だけではなく芸術の素養もたたき込んだことである.
以前,尊氏が笙という楽器をたしなんだことを紹介したことがあったが,尊氏はこの笙を基氏に教えたのである.
後に独り立ちした基氏は,合戦の前夜に笙を演奏することを習慣としたそうであるが,これは尊氏の薫陶の賜物である.
こうして,わずかな期間であったが,尊氏は基氏に多くの遺産を与えて,文和2(1353)年京都に帰った.
ついに基氏が,名実ともに東国の王としてひとりで戦うときがきたのであるが,続きはまた今度・・・.
「はむはむの煩悩」,2008年4月18日 (金)
青文字:加筆改修部分
書き忘れたが,基氏が元服したのは,観応3(1352)年2月25日である.
この翌朝,直義は死去した.
直義が死んだ日は,高師直一族が暗殺された日と同じで,ちょうど1年後である.
ちなみに直義の実子如意丸が死去した日は,師直たちが殺された日の前日である.
単なる偶然なのであろうが,こうして見るといろいろな因縁を感じさせられる.
文和2(1353)年7月29日,尊氏は上洛するために鎌倉を発った.
南朝軍が京都を占領したので,義詮を支援するためである.
ここに基氏は,名実ともに独り立ちすることになった.
これまた申し遅れたが,鎌倉府の管轄区域は,基本的に関八州(相模・武蔵・下総・上総・安房・上野・下野・常陸)に伊豆・甲斐を併せた10ヶ国である.
それに明徳末頃,陸奥・出羽の東北地方が京都から鎌倉の管轄に移され,最終的に領域が確定したのである.
なお,越後・信濃の2国と駿河国佐野郷は,京都と鎌倉の管轄を行ったり来たりして,最終的に京都幕府の管轄となったらしい.
だが,独立したとは言っても,基氏はまだ13歳の少年である.
また,関東の南朝方の勢力も完全には逼塞しておらず,東国を基氏1人に任せるにはまだまだ不安があった.
そこで尊氏は,鎌倉出発前に基氏のためにさまざまな対策を施しておいた.
まず,以前も紹介したように,畠山国清を新たに関東執事に任命して基氏の補佐につけた.
尊氏の執事仁木頼章も尊氏に従軍して上洛することになり,頼章が兼任していた武蔵守護が空席となったので,国清に武蔵守護を兼任させた.
この後,武蔵守護は基本的に関東執事(管領)が兼任する職となる.
ちなみに,基氏の妻は,国清の妹である.
また,尊氏が直轄していた相模には,河越直重を守護に任命した.
河越直重は,武州平一揆のリーダーで忠実な尊氏党であり,尊氏が非常に信頼する武士の一人であった.
次に尊氏は,二階堂成藤を鎌倉に残した.
成藤は,京都の幕府では引付頭人に相当する権限を行使し,当時の人々にとって非常に重要であった土地に関する訴訟を司った(なお,延文2(1357)年以降は基氏自らがこの権限を行使).
そして看過してはならない重大な事実として挙げられるのは,将軍の最も中核的な権限と言える,合戦で手柄を立てた武士に恩賞の土地を与える権限を,基氏に与えたことである.
擾乱以前の鎌倉府には,恩賞充行の権限は認められていなかった.
正式な恩賞充行よりは一段格下の預置という措置を,関東執事が義詮の命令を奉じるという建前で行使することが認められていたに過ぎなかったのである.
基氏が行賞を認められたことは,鎌倉府にとっては画期的なことで,これによって鎌倉府が東国の武士との結びつきを強化し,基盤の確立に大いに寄与したと考えられている.
もっとも,東国の武士に対する所領安堵の方は依然京都幕府が管轄しており,鎌倉公方は京都に推挙するにとどまっていた(鎌倉公方が武士への安堵を行い始めるのは,はるか後年の持氏後期).
訴訟もこの時期は必ずしも京都への提訴は否定されておらず,京都から訴訟の進行や命令の執行が鎌倉府に要請(と言うか事実上の命令)されることもしばしばであった.
その意味では,権限が強化されたとは言っても,鎌倉府はやはり室町幕府の地方統治機関であった.
しかしそれでも,鎌倉公方が恩賞を与えることができるようになった意義は大きいと思う.
最後に尊氏は,基氏に武蔵国入間川に出陣することを命じた.
武蔵国には,南朝のゲリラが多数潜伏しており,隙あらば蜂起を狙っていた.
鎌倉にいては関東の南朝勢力は鎮圧できないと尊氏は判断したのである.
7月28日,尊氏出発の1日前,基氏は入間川に向けて出発した.
基氏の入間川在陣は,康安2(1362)年まで,実に9年間に及び,この間基氏は,「入間川殿」と呼ばれた.
こうして尊氏が東国を去った後も,基氏は国清の補佐のもと,関東の南朝方鎮圧のために戦い続けた.
以前紹介した,新田義興を謀殺したのもこの時期のことである.
基氏と国清の活躍によって,東国の南朝勢力はほぼ消滅した.
尊氏が基氏のために講じた対策は,おおむね成功をおさめたと言えよう.
こうして尊氏が死去するまでは,基氏は基本的に尊氏の敷いた路線を継承したのであるが,この続きはまた今度紹介したい.
「はむはむの煩悩」,2008年4月21日 (月)
青文字:加筆改修部分
鎌倉公方基氏―関東執事畠山国清のコンビで東国を着々と抑えていた鎌倉府であるが,尊氏の死後,状況は大きく変わる.
それは以前も述べたが,要約して繰り返すと,新将軍義詮のもとで新たに執事に就任した細川清氏が南朝を軍事的に殲滅する作戦を立てたのに呼応して,延文4(1359)年10月,国清が大軍を率いて畿内に攻め上ったのであるが,結果的に失敗して関東に戻り,康安1(1361)11月,基氏が国清を入間川陣から追放したのである.
この政変の理由は,同年9月に京都の方で忠実な尊氏の家臣であった執事清氏が失脚し,旧直義派の斯波氏が政権を掌握した情勢に対応して,東国でも旧直義党の勢力が復活して旧尊氏党であった国清を失脚に追い込んだというのが真相であるようである.
国清は鎌倉,ついで自らの領国であった伊豆に撤退して抗戦する構えを見せた.
これに対して基氏は,安保氏・岩松氏・波多野氏・白旗一揆等の武士に軍勢催促を行って畠山討伐軍を編成して伊豆に出陣させ,寺社にも勝利の祈祷を行わせた.
そして康安2(1362)年8月には,基氏自らが伊豆に出陣して,国清と交戦した.
翌9月に国清は基氏に降参した.
畠山国清の失脚・滅亡によって,鎌倉府の陣容は一変した.
まず,越後・上野は旧尊氏党の宇都宮氏綱が観応の擾乱以来守護を務めていたが,擾乱以降南朝方となって越後で幕府に抵抗を続けていた,
直義が最も信頼した武将のひとりで,旧直義党の重鎮であった上杉憲顕が,貞治1(1362)年に義詮に許されて幕府に復帰し,越後守護に再び任命され,次いで貞治2(1363)年3月には基氏に鎌倉帰参を命じられ,上野守護も回復した.
上総は旧尊氏派の千葉氏胤に替わって新田系の世良田義政が守護となり,相模も旧尊氏系の河越直重から旧直義系の三浦高通に交替した.
同国は,鎌倉前期に三浦氏が守護を世襲していたのであるが(後期は侍所・政所が相模守護を兼務),ひさびさに三浦氏が相模守護に復帰し,応永末期までしばらく世襲することとなる.
関東執事畠山国清が兼任していた武蔵国は,基氏自らが直轄支配することとなった.
かつて基氏の父尊氏は相模を直轄統治していたが,子の基氏は武蔵を同様に支配したのである.
武蔵は,2代氏満以降関東管領上杉氏が守護を兼任するが,一方で公方料国という意識も残存したらしく,武蔵の支配体制はやや特殊なものとなった.
このように旧尊氏派が守護を務めていた国は,ほぼすべて旧直義系の武将に交替したのであるが,武蔵と同様に国清が守護を務めていた伊豆だけは,尊氏の忠実な家来で平一揆の構成員であった高坂氏重が守護となっているのである.
これは旧直義党の勢力が伸張した情勢においても,旧尊氏党に一定の権益を与えることで両派の勢力均衡をはかった基氏の政策であろうが,さらに基氏と氏重は,これまた尊氏の忠臣であった今川氏を介して,笙や和歌といった芸能を通じて密接な関係があったらしいことも,この人事には大きく影響していると考えられている.
なお,氏重は基氏が死去するまで伊豆守護を維持するが,基氏死後伊豆は山内上杉氏の世襲分国となる.
そして国清の後任の関東執事には,旧直義派の高師秋の子息である高師有が就任する.
しかし師有は病気を理由として短期間で執事を辞任し,その後前述したように上杉憲顕が基氏に招かれて鎌倉に復帰するのであるが,続きは次回に・・・.
「はむはむの煩悩」,2008年5月15日 (木)
青文字:加筆改修部分
上杉憲顕の鎌倉府復帰は,長らく基氏による尊氏路線の否定であり,京都の義詮に対する東国の独自の姿勢であったとされてきた.
確かに基氏が憲顕に復帰を熱心に要請した書状も残っており,基氏が積極的に憲顕登用をはかったことは事実である.
基氏にとって憲顕は,彼が鎌倉に下向して初めて仕えてくれた老臣であり,年長者として基氏に政治についていろいろ指導してくれただろうし,非常に親近感を持っていたのは確かであろう.
しかし,憲顕の復帰は,義詮も同意していたことであり,と言うより義詮の主導のもとに,基氏の利害とも一致してこの復帰が実現した,というのが真相であるようである.
事実,前回も述べたように,憲顕はまず越後守護に復帰するが,越後国は京都幕府の管轄下にある国であった.
つまり,憲顕は基氏よりも先に義詮から赦免されたのである.
また,何度か述べたとおり,当時京都では旧直義党であった斯波高経が幕政を主導する体制であり,このため全国的に旧直義党の勢力が増大する傾向でもあった.
憲顕の鎌倉帰参も,こうした全国的な旧直義勢力の復権を反映していると考えられるのである.
そもそも,関東執事(管領)と東国の守護は,京都の将軍が直接任命する仕組みであった.
実態はともかくとして,建前は持氏期に至るまでそうであった.
尊氏は,鎌倉府に大きな権限を与えたが,鎌倉府が無制限に勝手な行動をしないように制約を加えておいたのである.
こういうところにも,尊氏の優れた政治感覚が表れていると思う.
後に持氏期にこの制約が大きな問題となって,持氏の行動を束縛するのであるが,それはずっと後の話である.
ともかく,こうして憲顕の鎌倉府復帰が決定したわけであるが,これに大きな反発を示した勢力が存在した.これまで越後と上野の守護を務めていた宇都宮氏綱である.
氏綱は,観応の擾乱以来一貫して尊氏派に属して,ずっと尊氏―基氏に忠節を尽くし,憲顕と戦ってきた.
何の咎もないのに,突然両国の守護を召し上げられて宿敵に与えられる.
これでは彼が憤慨するのも当然である.
そこで宇都宮氏綱は,憲顕の鎌倉行きを阻止するために挙兵した.
氏綱の伯父の芳賀高貞たちもこれに加勢した.
これに対して基氏は,貞治2(1363)年8月,氏綱を討つために出陣した.
両軍は武蔵国岩殿山で合戦し,基氏軍が勝利した.
この勝利の後,陣中にいた基氏と,越後から参上した憲顕が対面したという.
個人的には宇都宮氏がとてもかわいそうで気の毒だと思うが,その後の鎌倉府の歴史を見ると,ここで上杉氏を復帰させたのはやはり正解で,致し方のないところもあったんだろうなあと思う.
宇都宮氏がこれで滅亡したわけではなく,以降も関東の有力な豪族として生き残ることができたのが,せめてもの救いである.
鎌倉復帰後の憲顕は,畠山国清・高師有といった前任の関東執事たちとは若干違う立場で基氏を補佐したらしい.
どうも憲顕は,あまり文書を発給することはせず,基氏が主催する会議に出席して口頭で意見を述べることで,権勢を維持したらしいのである.
言わば『元老』に近い立場なのであろうか?
従来の関東執事の権限は,基氏が直接行使した.
ただし,貞治3(1364)年10月から12月までの3ヶ月間は,上杉左近将監なる人物が関東執事として活動している.
この上杉左近将監は,おそらくは憲顕の子息で,上杉憲春に比定する見解もあるが確証はない.
こうして上杉憲顕の尽力によって,鎌倉府の基礎はさらに固まった.
続きは次回に・・・.
「はむはむの煩悩」,2008年5月22日 (木)
青文字:加筆改修部分
上杉憲顕を迎えて新体制となった鎌倉府であるが,それから間もない貞治3(1364)年7月から8月にかけて,世良田義政事件という事件が発生する.
これは,上総守護世良田義政とその兄弟および梶原景安が基氏の怒りに触れて鎌倉で誅殺された事件である.
前述したように,世良田義政は旧直義党の武将と推定され,憲顕復帰とともに旧尊氏党の千葉氏胤に替わって上総守護となったのであるが(なお,千葉氏は鎌倉以来相伝の守護を務めていた下総の守護職は以降も死守),それから1年ほどしか経っていない時期に基氏自身の手で討たれたのである.
世良田氏は,新田義重の4男義季を始祖とする武家である.
義季が義重から上野国江田郷を譲られ,代々相伝してきた.
新田氏の有力な庶流で,一族からは江田行義など著名な南朝方の武士が輩出したが,義政自身は足利方として戦った.
観応の擾乱の際には直義方となり,ずっと雌伏を余儀なくされていたと考えられている.
この世良田義政は,岩松家から養子として世良田家に入った人物である.
岩松氏については以前紹介したことがあるが,同氏もまた新田氏の有力な庶流で,足利方となって南朝と戦った武家である.
岩松経家が中先代の乱で北条高時の遺児・時行軍に敗北して戦死して以降は,兄弟の岩松直国が一族を率いた.
岩松直国と世良田義政は,実の兄弟だったのである.
観応の擾乱に際しては,岩松直国も直義方となって尊氏と戦ったために失脚したが,基氏が宇都宮氏綱と戦った武蔵国岩殿山合戦に際して,直国は基氏近臣として大活躍して復権を果たした.
世良田義政が誅殺された理由はよくわからない.
推測として,義政が南朝方と通じていた可能性(同族に南朝方の武士が多い)や,あるいは実の兄弟である岩松直国との,新田一門の棟梁をめぐっての主導権争いであった可能性が指摘されている.
岩松直国は上杉憲顕の女婿であり,当時鎌倉府で権勢を誇っていた憲顕により近い関係にあったのである.
義政死後,上総守護には直国の同族の岩松直明が就任する.
しかし直明も年内,わずか数ヶ月で退任し,後任には上杉朝房(犬懸家)が任命される.
上総守護は,以降しばらくは犬懸上杉氏の世襲分国となる.
岩松氏は守護分国は失ったものの,上野国新田荘など,新田宗家の旧領をほとんどすべて獲得し,室町時代の関東において新田氏の継承勢力として一定の地歩を占める.
謎の多い事件であるが,結果として基氏と上杉氏,岩松氏の勢力基盤を強化し,東国の安定に寄与した点では,一定の歴史的意義があったと評価できるであろう.
【参考文献】
小国浩寿「上総守護と世良田義政事件―「円覚寺蔵大般若経刊記」をめぐって―」(同『鎌倉府体制と東国』吉川弘文館,2001年,初出1995年)
「はむはむの煩悩」,2008年5月25日 (日)
青文字:加筆改修部分
足利基氏を論じるときにまず抜きにできないのは,義堂周信という禅僧との公使にわたる交流であろう.
義堂周信は,南北朝時代の臨済宗の高僧である.
土佐国の出身で,後醍醐天皇や尊氏・直義兄弟に深い帰依を得た夢窓疎石に17歳のときから学び,その法を継承した.
後に足利義満の深い帰依を得て,建仁寺や等持寺,南禅寺の住職を歴任した.
このように義堂は公武の信仰を一身に集めた名僧であったが,この義堂が延文4(1359)年基氏の招きを受けて東国に下り,康暦2(1380)年義満の招きによって京都に戻るまで鎌倉にいて基氏・氏満父子や上杉朝房・能憲などの深い崇敬を受けたのである.
基氏の禅宗に対する深い信仰は,父尊氏・叔父直義譲りであるが,義堂の指導の賜物でもある.
なお,義堂の日記のダイジェストである『空華日用工夫略集』は,仏教史料としても重要であるばかりでなく,室町幕府・鎌倉府の一級史料としても貴重な存在である.
貞治3(1364)年基氏は,「行宣政院(あんせんしんいん)」なる機関を鎌倉府に設置し,関東分国10ヵ国の禅宗寺院の規則を定めた.
行宣政院は,室町幕府の禅律方に相当する機関で,禅宗や密教関係の寺院の荘園に関する訴訟を扱った組織でもある.
基氏がいかに仏教界に心を配ったかが,この一事だけでも窺い知ることができよう.
このように政治・軍事・文化のあらゆる側面において,鎌倉府の基礎を着々と固めつつあった基氏であるが,貞治6(1367)年,突然病に侵され,同年4月26日急死した.
まだ27歳の若さで,当時流行していたはしかによるとされている.
以上,簡単ながら足利基氏の生涯を紹介してきたが,基氏という武将は,一言で言えば,父尊氏と叔父直義の長所を併せ持った政治家であったと言えると思う.
志半ばで早世したとは言え,父と叔父に授かった力を奮い,東国の安定に貢献した業績は高く評価できるであろう.
※参考文献
田辺久子『関東公方足利氏四代―基氏・氏満・満兼・持氏―』吉川弘文館,2002年)
「はむはむの煩悩」,2008年5月28日 (水)
青文字:加筆改修部分
【質問】
足利義満の兄たちについて教えられたし.
【回答】
御座さんの歴史関係記事から.
~~~引用開始~~~
一般にはあまり知られていないが,足利義満には兄がいた.
まず足利義詮と正室・渋川幸子との間に生まれた,嫡男千寿王.
義詮自身も幼い頃は「千寿王」と呼ばれていたことも考慮するに,彼こそが将軍後継候補者だったことは疑いない.
しかし彼は僅か6歳で亡くなってしまう.
祖父・尊氏,父・義詮の落胆はいかばかりであったろうか
(ちなみに,この時点ではまだ義満は生まれていない).
千寿王の夭折により,石清水八幡宮社僧・善法寺通清の娘である紀良子という,身分の低い母親を持つ義満が将軍職を嗣ぐことができたのである.
義満は自らの卑しい出自にコンプレックスを抱いていたようで,実母良子を冷遇し続け,良子が義満を恨んで遁世を企てるという事件も起きている
(一方,義満と折り合いの悪かった義満息の義持は,祖母にあたる紀良子を大事にしたようである).
他に,義満には庶兄(同母兄という説も)がいたが,彼は出家して柏庭清祖という禅僧になった.
出家の理由は病弱だったからなどと推測されているが,そこそこ長生きしているので,本当かどうかは良く分からない.
政治的野心はあまりない人だったのだろう.
義満将軍時代,柏庭清祖は禅僧として順調に昇進を重ねており,義満との交流も見られる.
また義満の子供(友山清師)を弟子として引き取っている.
義満との関係は良好だったものと思われる.
おそらく義満同母弟の満詮同様,温厚な人だったんだろう.
~~~引用終了~~~
1点,私から補足すると,足利義満が皇位簒奪を狙ってたとする説の根拠の1つに,義満が母方から順徳天皇5世の孫である事実があるのであるが,現実には義満は,御座さんがご指摘されているように,天皇の血をひく実母を冷遇し続けている.
それもあって,現在の学界では,この説を否定的に見る見解が主流である.
「はむはむの煩悩」,2008年7月26日 (土)
青文字:加筆改修部分
【質問】
足利義満(1358-1408)は源氏,つまり,元を辿れば皇族出なのに,なぜ皇位簒奪を狙ったとされるんですか?
つまり足利義満が天皇になっても,万世一系は維持可能では?
【回答】
義満が皇胤であることは間違いないのだけど,彼の家系は源氏となってすでに幾代も重ねており,臣下の家として固定していたので,皇統を継ぐ資格はないとされていた.
日本史板
▼ 厳密には義満は「天皇の父」になろうとしたんだ.
正室の日野康子を天皇妃か内親王に限られていた女院にして北山院とし,子の足利義嗣を親王に準じて後小松天皇の御前で元服させた.
このとき後小松天皇は皇太子を立てておらず
(後小松天皇には生来病弱な,のちの称光天皇一人しか男子がなく,皇太子とはしていなかった),
義嗣を天皇にするつもりだったという説がある.
ただしこの説でも,これまでの天皇の権威を,足利家が正式に相続して天皇と名乗ってのっかろうとしただけで
海外の王家のように前の王家を完全に滅ぼして,新たな王家を打ち立てる,といった風にはなっていない.
日本史板,2010/06/27(日)
青文字:加筆改修部分
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▼ この,足利義満が皇位簒奪を狙ってたとする説の根拠の1つに,義満が母方から順徳天皇5世の孫である事実があるのであるが,現実には義満は,御座さんがご指摘されているように,天皇の血をひく実母を冷遇し続けている.
それもあって,現在の学界では,この説を否定的に見る見解が主流である.
「はむはむの煩悩」,2008年7月26日 (土)
青文字:加筆改修部分
「天皇の血をひく」と「卑しい出自」は必ずしも矛盾しません.
皇族の血統とは言っても,所詮母系ですし,4~5世代も経れば当然卑しい出自になります.
義満の実母紀良子は,あくまでも天皇の子孫ではなく,「石清水の神主の娘」と見なされていたんですね.
〔略〕
もちろん,義満の皇位簒奪が否定的に見られている根拠は,当然これだけではありません.
「はむはむの煩悩」,2008年7月27日 (日) 12:54
青文字:加筆改修部分
▲
【質問】
御賀丸とは?
【回答】
今日も,御座さんがお書きになられた文章を,ご本人のご承諾を得てここに転載させていただくことにいたします.
~~~引用開始~~~
そのまんま東こと東国原英夫氏が宮崎県知事に選ばれ,全国で驚きの声があがったのは記憶に新しいところですが,室町時代には「ジャニーズJrが知事に就任」並みの大事件が起こっています.
足利義満の命により「御児」御賀丸(音賀,恩賀,御賀麿とも)が和泉守護に就任したのです.
御賀丸は足利義満晩年の寵童(義満の侍童は十人いたが,その筆頭)で,『兼宣公記』など廷臣の日記に散見されます.
たとえば義満は毎年十一月一日には御賀亭に湯治へ訪れています(『教言卿記』応永十三年・十四年).
また稚児ながら,興福寺大乗院方国民の十市氏討伐のため大和国に発向したこともあります(「東寺王代記」応永十三年二月十三日).
和泉国は堺という巨大貿易港を抱える屈指の大国であり,ここの守護は非常に実入りが良いのです.
大大名であった山名氏清・大内義弘とも,和泉守護所の堺を本拠としています.
いかに御賀丸が義満の寵愛を受けていたがうかがえます.
稚児が守護になったのは後にも先にもこの1例のみ.
きっと御賀丸はタッキーや神木君ばりの美少年だったのでしょう.
美童・御賀丸は義満の威を借りた横暴な振る舞いが多かったようで,諸権門との衝突が絶えませんでした.
応永十一年には御賀丸が東寺領大和河原城庄を百五十貫文で売るよう強要します.
河原城庄は,飛鳥川原寺の周辺の地で,東寺にとってみれば,空海が東寺と高野山とを往復する宿泊所として勅給された川原寺と一体の領地であり,東寺長者が渡領として代々厳重に管理してきた宗祖ゆかりの地でした.
東寺は三宝院満済に助けを求めたものの,御賀丸が義満に訴えたため,泣く泣く同庄を手放しています(東寺百合文書).
また応永十二年には御賀丸の代官が興福寺領である「大和国宇陀郡以下所々庄園等」を押領したため(『荒暦』応永十二年六月二日条),興福寺別当・大乗院門跡の孝円が上洛して幕府に訴えています(『教言卿記』応永十二年六月二十一日条)
ところが応永十五年五月六日に義満が没すると(『教言卿記』同日条),状況は一変します.
義満の後を嗣いで政権を掌握した義持は,自分を疎んじ弟の義嗣を寵愛した父・義満を快く思っていませんでした.
義満亡き今,義持の怒りは義満の寵童であった御賀丸に向かいます.
この年の八月までには御賀丸は和泉守護職を解任され,細川頼長(上守護家)・細川基之(下守護家)の両名が和泉守護に就任しました(今谷明「和泉半国守護考」).
これを見た東寺も同年九月,すかさず河原城庄還付の訴えを起こし,十月には室町殿足利義持から安堵を獲得しました.
すなわち義持は御賀丸の非法な「責取」を糾弾し,河原城庄の東寺への返付を命じたのでした(廿一口方評定引付).
義満死後,御賀丸は出家したらしく,帥法印(帥坊)と呼ばれました.
彼は京都の近衛西洞院でひっそりと余生を過ごしたようです.
【参考】
富田正弘「御賀丸の非法な『責取』を叱る」(上島有・大山喬平・黒川直則編『東寺百合文書を読む』)
~~~引用終了~~~
「はむはむの煩悩」,2007年8月 8日 (水)
青文字:加筆改修部分
【質問 kérdés】
梶井義承 Gishou って誰?
3行以上で教えて!
【回答 válasz】
第6代将軍・足利義教の異母弟で,将軍選びでは「外れ籤」を引いた一人.
応永13(1406)年生まれで,三千院に入り,応永19年(1412年)3月,梶井門跡に入室得度した.
梶井門跡というのは三千院の当時の呼び名の一つ.
三千院は8世紀,最澄の時代に比叡山に建立された円融房が起源で,のちに比叡山東麓の坂本(現・大津市)に移されている.
そのため,「円融院(円融房)」「円徳院」「梨本門跡」「梶井宮」「梶井門跡」と呼ばれることになった.
ちなみに明治になってから現在の左京区大原に移され,三千院と呼ばれるようになったのも明治に入ってから.
永享7(1435)年,将軍・義教は延暦寺と対立し,和議と称して延暦寺の高僧を都に招いた上で殺害.
すると延暦寺山徒はこれに抗議して,根本中堂に自ら火を放って焼身自殺した.
時の天台座主,良什僧正はこれの責任をとる形で辞任.
義教は後任に義承を送り込んだ.
嘉吉元年(1441年)6月,嘉吉の乱で義教が死去したため,幕府から赤松満祐や他の野心家などに擁立される事を恐れ,尊満ら他の兄弟と共に鹿苑院に身柄を移された.
応仁元年(1467年),応仁の乱が起こると戦乱を避けるために大原の来迎院に移り,同地で10月18日死去.
【参考ページ Referencia Oldal】
https://kotobank.jp/word/義承
http://papathana.cocolog-nifty.com/papaneta/2016/02/post-3614.html
https://www.eonet.ne.jp/~shujakunisiki/m-20a.html
http://www.sanzenin.or.jp/
【ぐんじさんぎょう】,2017/7/16 20:00
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【質問 kérdés】
相国寺虎山永隆って誰?
3行以上で教えて!
【回答 válasz】
相国寺虎山永隆 Shoukokuji Kozan Eiryu は応永10(1403)年生まれの,足利義教の異母弟で,将軍選びの籤引きに外れた一人.
京都の臨済宗相国寺に入り,嘉吉元年(1441年),鹿苑院主となる.
のちに相国寺常徳院内に聯輝軒 Renkiken を開いたので,聯輝軒永隆とも呼ばれる.
嘉吉2(1442)年2月18日,40歳で病没した.
【参考ページ Referencia Oldal】
https://kotobank.jp/word/虎山永隆
https://textream.yahoo.co.jp/message/1835208/nrbbkbeebfmjaaa1a1a4da4ja4aca4ja47a4ja4ha4j/1/8547
http://mokuou.blogspot.jp/2016/09/3514281718443-8.html
【ぐんじさんぎょう】,2017/7/17 20:00
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【質問 kérdés】
大覚寺義昭 Gishou って誰?
3行以上で教えて!
【回答 válasz】
第6代将軍・足利義教の異母弟であり,真言宗大覚寺門跡.
(家系図)
将軍選びの籤引きではハズレを引いた一人.
大和の越智維道 Ocsi Koremicsi の乱を機に,永享9年,義教に対抗して吉野で挙兵したという情報が流され,九州に逃れる.
島津氏に匿われたが,義教の厳命により,嘉吉元年3月13日,日向で島津忠国によって殺害された.
【参考ページ Referencia Oldal】
https://kotobank.jp/word/足利義昭
http://www.yoshibo51.com/rekishi003.html ※略系図引用元
http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%A4%A7%E8%A6%9A%E5%AF%BA
google検索では大覚寺義昭の肖像画が発見できないので,想像図
(こちらより引用)
【ぐんじさんぎょう】,2017/7/15 20:00
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【質問】
桃井氏について3行以上で教えてください.
【回答】
「モモイじゃねえ,モモノイだ.モモイって呼んだらシバくぞコラ」
のキャッチフレーズで有名(うそ)な桃井氏は,足利氏の一族.
足利義兼の子義胤が上野国桃井郡を領し,桃井と号したことに始る.
孫の代で2流に分かれ,南北朝期に至って活躍.
胤氏の孫・尚義は1333年,新田義貞に属して鎌倉を陥落させた.
その後,桃井兵部大輔(ひょうぶのたいふ)(尚義の子・盛義か)は足利尊氏に属して一時,能登守護となり,その子孫とみられる一族は幕府の御供衆,番頭などを勤めた.
一方,頼直の流から出た直常 (ただつね) は足利尊氏に従い,1336年頃に下野・常陸で北畠顕家と合戦.
1338年には青野原の戦いにも参加.
同年,若狭守護となり,興国元年/暦応3年(1340年)頃に伊賀守護,ついで興国5年/康永3年(1344年)に越中守護に補任された.
そして,越中に庄ノ城,千代ヶ様城,布市城を築き,越中支配の拠点とし,越中桃井氏の基礎を築いた.
観応の擾乱 (1350~52) には終始,足利直義党の最右翼として活躍.
直義死後はその養子直冬にくみして尊氏と戦うが,1367年の斯波高経・義将父子の失脚(貞治の変)に伴い,幕府に帰順.
しかし翌年,義将の幕政復帰により再び反旗を翻し,1371年,幕府方の能登守護・吉見氏頼と五位荘(現在の富山県高岡市)で合戦を行ったが敗北.
同年8月に飛騨へ撤兵,消息不明となった.
その弟・直信も,兄と行動を共にし,幕府帰順後は義将の領国だった越中守護に任命さる.
その後,義将の幕政復帰により,越中守護を解任されるも,兄とは別行動をとる.
没年不詳.
直信の子・詮信(あきのぶ)は,尊氏の子・足利義詮から偏諱(「詮」の字)を与えられてその名を称し,将軍直臣として義詮とその子・義満の二代に仕え,子孫は室町幕府奉公衆のうち二番衆の番頭となった.
なお,伝承では,直常の子・義綱が輪島に逃れ,「桃」を「温」の字を以って唱えたのが温井氏の始まりとされるが,温井氏の起源については異説もあり,真偽不明.
【参考ページ】
https://kotobank.jp/word/桃井氏-142769
http://www2s.biglobe.ne.jp/~tetuya/REKISI/taiheiki/jiten/mo.html
http://www.yoshimi-rekishi.or.tv/noto11.htm
http://www.asahi-net.or.jp/~qb2t-nkns/momonoi.htm
http://www.geocities.jp/yuujirou8/siro/Gallery-3-2-3.html
【ぐんじさんぎょう】,2016/09/05 20:00
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