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「朝目新聞」(2013/06/28)●足利尊氏て酷いよね 代々鎌倉幕府に媚び売る→後醍醐天皇に寝返って鎌倉倒幕→裏切って室町幕府開く
『敗者の日本史 7 鎌倉幕府滅亡と北条氏一族』(関 幸彦著,吉川弘文館,2013/04/15)
【質問】
後醍醐天皇はなぜ鎌倉幕府を倒そうと考えるようになったのか?
【回答】
天皇の座に就きたかった,彼の野心による.
***
悠仁さまのご誕生で,ひさびさに男子の皇族が誕生し,新たな皇位継承者が出現したので,女系天皇の論議もひとまずは先延ばしにされた観がある.
しかし,このような問題は,今後も毎世代続くことになるであろう.
具体的には,仮に悠仁さまが数十年後,成人後に天皇にご即位されても,親王がお生まれにならなければ,また女系天皇の議論が復活することになる.
皇室の問題は,なかなか難しいのである.
しかし現代は,男子の皇位継承資格者が少なすぎることが大問題となっているが,あまりに多すぎるのもゆゆしき問題である.
特に,皇室典範で皇位継承順位が明確に定められていなかった前近代においては,皇位をめぐる争いは,戦乱の要因になるほどの深刻な問題であった.
古くは大海人皇子と大友皇子の叔父と甥の争いが壬申の乱を引き起こしたこともあったし,平安初期には平城上皇と嵯峨天皇の兄弟の確執が,京都と奈良に「二所朝廷」と呼ばれる二重権力状態を生み出し,薬子の変と呼ばれる政変を起こしたこともある.
今日は,その中でも南北朝の内乱について,主に北朝の天皇を中心に紹介したいと思う.
南北朝内乱の原因は,鎌倉後期に遡る.
皇統が,88代後嵯峨天皇の皇子89代後深草天皇の系統と,その弟90代亀山天皇の系統に分裂したことが,そもそもの発端である.
亀山天皇の皇太子に,父後嵯峨上皇の意志が強く働いて,後深草上皇の皇子熈仁親王を差し置いて,亀山天皇の皇子世仁親王が指名されたことが,後深草・亀山兄弟の確執を深めたのである.
後嵯峨が,亀山系統に肩入れした理由はよくわからない.
彼が凡庸な兄・後深草よりも,利発な弟亀山を深く愛したからだとどこかで聞いたことがあるが.
後深草の子孫の系統は,後世持明院統と呼ばれ,北朝となった.
亀山の系統は大覚寺統となり,南朝となった.
後深草・亀山ともに,退位後も健在で院政を敷いたこともあり,両系統の政治力はまったくの互角であり,しばらくは両系統から交互に天皇を輩出することとなる.
亀山の後は,予定どおり世仁が即位し,91代後宇多天皇となる.
後宇多の後は,熈仁が即位し,92代伏見天皇となった.
このように,鎌倉後期は,持明院統・大覚寺統から,まるで二大政党のように交互に天皇が即位する状況が続き,後世「両統迭立」と呼ばれることになった.
これだけでもすでにむちゃくちゃややこしいのに,さらに難しい問題が起こった.
両系統ともに,世代を経るにつれ,兄弟が多数生まれて皇位継承資格者が増え,それぞれの皇統で内紛が始まったのである.
大覚寺統では,後宇多天皇の皇子94代後二条天皇と,その弟96代後醍醐天皇の系統に分裂した.
そもそも後醍醐天皇は,大覚寺統の嫡流である後二条の皇子・邦良親王が幼少であったことから,言わばリリーフ,中継ぎの傍流の天皇として即位したものであり,彼の子孫が皇位を継承することは,全然想定されていなかった.
しかし野心に燃える後醍醐は,それが我慢ならない.
なんとか両統迭立をやめ,自分の子孫に天皇位を独占させるために,あれこれ考えた末に得た結論が,鎌倉幕府の打倒であった.
当時,皇位継承には鎌倉幕府の意向が強い影響力を持っていたので,幕府さえ打倒すれば,自分の子孫が皇位を継承できると考えたのである.
しかしこれは,敵の持明院統だけでなく,同じ大覚寺統の後二条系にすら警戒され,疎まれることとなった.
後醍醐天皇の二度目の討幕計画が発覚し,失敗に終わると(元弘の変),鎌倉幕府は後醍醐を廃位し,持明院統から量仁親王(光厳天皇)を即位させ,皇太子に大覚寺統から大覚寺統・後二条系の邦良親王の子・康仁親王を採用する.
しかし,その後全国各地で武士が挙兵し,ついに鎌倉幕府が滅亡すると,後醍醐は光厳を廃位し,再び皇位につくが,皇太子康仁も廃する.
後二条系はこの措置に激怒した.
後に足利尊氏が挙兵し,後醍醐の建武の親政が崩壊すると,康仁親王たち(木寺宮)は持明院統(北朝)・室町幕府について,京都にとどまる.
南朝系がすべて足利政権に敵対したわけではないのである.
本題の北朝の天皇については,また改めてエントリーを立てて論じたい.
【質問】
その後,戦乱の世が長く続き,自らも血を分けた弟とすら争う羽目になるのですから,幕府を開いた時点で尊氏は後醍醐を討っておくべきだったのでは?
【回答】
これは尊氏でなくとも,なかなか天皇は討てなかったと思いますよ.
歴史上,殺害されたのが明らかなのは,後にも先にも大化前代の崇峻天皇(by蘇我馬子)だけですし・・・.
平氏政権だって,後白河法皇を幽閉しただけで,殺害はしてませんし,鎌倉幕府も承久の乱では後鳥羽上皇たちを流罪にしただけです.
幕末の元弘の変でも,幕府は後醍醐を隠岐に流罪にしていますが殺害はしていません.
もっとも,後醍醐皇子の護良親王や恒良親王は暗殺されていますが,少なくとも即位した天皇や上皇を殺害した人は,馬子以外に誰もいないはずです.
だから,必ずしもこれは尊氏個人の落ち度とは言えないと私は思います.
では,なぜ日本では君主を処刑できないのか?という,より根本的で大きな問題が出てくるわけですが,このような天皇制の根幹に関わる大問題に,私が解答を用意できるわけがありません・・・.
また,後醍醐個人を討ったところで,果たして南北朝内乱が速やかに終息したかどうかも疑問です.
後醍醐にはたくさんの皇子がいましたから,必ず誰かがこの皇子たちをかついで反乱を続けた可能性が高いと考えています.
そもそも,13世紀末から14世紀にかけての日本は,蒙古襲来に始まる内外の社会・経済の大変動期でして,これと無関係に個人の意志だけで政治が動いたわけでもないですし・・・.
「はむはむの煩悩」,2008年3月 7日 (金) 14:36
青文字:加筆改修部分
【質問】
天竜寺とは?
【回答】
天竜寺は,足利尊氏が後醍醐天皇の霊を弔うために建てた寺である.
当初,当時の年号であった「暦応」の名を冠して「暦応寺」と名づけられる予定だったのだが(仁和寺など,年号を付される寺は最高の格式を誇る),臨済宗の勢力台頭を警戒した比叡山が猛反対して,天竜寺と名づけられた.
「天竜」とは,後醍醐天皇を指しているのである.
尊氏は,この寺を建てるために,自分の所領を多数天竜寺に寄進した.
それでも費用が足りずに,「天竜寺船」という船を元に派遣して,貿易によって得た収益を建設費用に充てた.
自分が打倒した政敵の霊を弔うために,神社や寺を建てるのは日本人の伝統であるが,尊氏ほど徹底的に巨大な寺院を建設したのは,ほかに例がないのではないだろうか?
もちろん政治的なパフォーマンスはあったであろうが,それを差し引いても,彼が後醍醐天皇を慕うと同時に,深い信仰心があったことは疑いない.
天竜寺は何度も火災に遭い,現代は往事の規模よりかなり縮小しているが,それでも広大な敷地に多数の堂舎や庭を抱える大寺院である.
尊氏が,いかにすごい寺を建てたのかがうかがえるであろう.
〔略〕
ここは庭が有名で,紅葉が美しいそうなのであるが,おれが行ったときはまだ色がついていなかった.
尊氏が創出した宗教空間が,今では日本有数の観光地となり,世界中から大勢の人々が訪れ,いやしの場となっている.
尊氏や後醍醐も,これはうれしいのではないだろうか?
「はむはむの煩悩」,2007年11月 4日 (日)
青文字:加筆改修部分
【質問】
「鎌倉時代の北条氏は最盛期に滅んだ」
と何かの本に書いてあったのを覚えているのですが,最盛期に滅ぶというのはありえるのでしょうか?
普通は衰退して滅ぶのでは?
【回答】
ありうる.
相手が危機感を感じ,潰しに掛かり,彼らのほうが強ければ,これから伸びるはずの集団も潰れる.
組織が天寿を全うする,というのは実際は稀なことだ.
ローマ帝国は天寿を全うしたかもしれない.
しかし,カルタゴは天寿を全うしたか?
北条氏の場合,最盛期に滅んだというよりは,むしろ目に見える衰退期がないということなのだと思う.
のちの室町幕府や江戸幕府には,明確に衰退期といえる時期がある.
室町幕府の場合は最後の70〜80年くらい時間をかけて,徐々に衰退していって,最終的に滅ぶというイメージだし,江戸幕府に関しても室町幕府ほどでないにせよ,約15年の幕末動乱期を経て滅亡している.
それに対して,鎌倉幕府は最末期まで政権としての幕府の権力は割としっかりしていたものが,いきなり情勢が180度ひっくり返って潰れたという感じがあるからね.
もちろん,表面的には絶対的な権力に見えても内部がガタガタだったということもいえなくはないが,徐々に幕府の権力が弱くなって最後にトドメを刺されるって感じの滅び方じゃないから,目に見える衰退期というのが見出しにくい.
また,守護などとして一門が領域に君臨していた国の総数は,末期が一番多い.
▼元寇の時,九州に下向した鎌倉御家人が多かったのは,関東では北条氏の圧迫で生存の危機にあったからだ.▲
足利氏も後醍醐天皇の挙兵に応じるまでは.北条氏の下で逼塞していた.
北条氏はそれゆえに,他の全ての人々にとって許せない存在と化していたのだ.
日本史板
青文字:加筆改修部分
▼ 結論から言えば,少なくとも「最盛期に滅んだ」ということはまずないと思いますね.
まず,古典的な理解ですが,蒙古襲来を撃退したとは言え,新たな恩賞地を獲得したわけではないですから,合戦に参加した武士に満足の行く恩賞が与えられたわけではなく,多くの武士の不満が増大したというのは確実にあったと思います.
北条一門がほとんどの国の守護を占めたりして,足利氏等の外様御家人の不満が増大していたことも事実ですしね.
また,蒙古襲来後,社会情勢が変化して,特に寺社本所領に悪党が跋扈して,そのため公家政権に依頼されて鎌倉幕府は従来よりも権限や管轄地域を拡大し,寺社本所領にも大いに関与できるようになり,一見権力が強大化したように見えますが,現実には悪党の蜂起をうまく鎮圧することができず,公家や寺社勢力の不満が蓄積したということもあります.
内部を見ても,平頼綱・長崎高資といった御内人(得宗(北条氏嫡流)の家来)の専権が目立ち,霜月騒動などの内紛を繰り返しています.
組織や人事も硬直化し,北条氏や御家人の昇進ルートががっちり定まり,そのこと自体はいいのですが幼少な人物が要職に就くことが多くなり,政治組織としての体をなしていかなくなります.末期には,国内が乱れているにもかかわらず幕府追加法をまったく出せなくなるほど機能不全に陥りますし.
というわけで,末期の鎌倉幕府も,他の政権と同様,確実に衰退傾向にあったのは事実であったと考えます.
鎌倉幕府の全盛期と言うのは,やはり古典的な理解ですが,後世長く理想の執権政治と称えられ,足利直義も目指した執権義時・泰時期なんでしょうね.
ただ,後期鎌倉幕府が行った改革の数々は,必ずしも間違った政策ではなく,その方向性自体は妥当で(ただし中途半端),次代の建武政権・室町幕府に発展的に継承されたものも多いですし,衰退したと言っても完全に駄目になったわけではなく,通常ならばまだまだ継続していたはずの政権だったと思います.
その点では,上記【回答】は間違っていないでしょう.
やはり,後醍醐天皇というよくも悪くも強烈な君主が討幕を決意し,実行したのが滅亡の最大の要因であると思いますね.▲
▼ 〔略〕
最初に「ありうる」と書いているから不自然に見えますが,それを除けばまあ筋は通っていると思いますね.
▲
▼ なお,鎌倉幕府の滅亡は,当時の人間にとっても本来はありえない,非常に驚くべき奇跡的な事件であったようです.
『太平記』にも,
「北条氏の守護や家来が全国に充満しており,160年以上の長期間にわたって統治を続けている.
朝廷勢力が強い六波羅探題は簡単に攻め落とせたとしても,幕府の勢力圏である関東や九州の幕府勢力を滅ぼすのは10〜20年かけても難しいと思われていたのに,日本全国同時に討幕軍が挙兵して,たったの43日であっけなく滅亡してしまったのは実に不思議なことである」
と記されています.
一応ご参考までに,紹介させていただきます.
こんな感じですので,現代の鎌倉幕府研究も,幕府滅亡の原因を究明するのは非常に困難なのですが,まあ当初結論づけたとおり,子細に検討してみると,衰退の兆候はだいたい出そろっていて,下り坂であったことは間違いないと思いますので,少なくとも最盛期に滅亡したとは言えないと思います.
詳細は古澤直人『鎌倉幕府と中世国家』(校倉書房,1991年)92〜93ページを参照されたし.▲
【質問】
千早城の戦いって何?
【回答】
1332年,後醍醐天皇の笠置山での挙兵(1331年)に呼応した河内の楠木正成と,鎌倉幕府軍との間で起こった戦闘です.
幕府軍は上下赤坂城を落とした後,楠木正成軍1000人が篭城する千早城を大軍で包囲しましたが,楠木正成は知略の限りを尽くして幕府軍を翻弄し,また,この情勢を見た地元の土豪などが正成軍に味方したため,この小城で100日間も持ち堪えました.
この間に関東でも倒幕の動きが広がり,鎌倉幕府滅亡につながりました.
【参考ページ】
http://shiro39.hp.infoseek.co.jp/kinki/chihaya/chihaya.html
http://www.geocities.jp/rekishi_chips/kyuchi4.htm
http://tokyo.cool.ne.jp/rekiken/data/2002/020426c.html
http://jimoren.my.coocan.jp/kyu/ura/nanboku/setu-06.html
【質問】
船上山の戦いとは?
【回答】
1333/2/29から,後醍醐天皇方の名和長年と鎌倉幕府方の佐々木清高との間で行われた戦い.
3000余の鎌倉勢に対し,船上山に立て篭もった名和軍は僅かに150余.
しかし逆木を打って守りを固め、白布五百反の旗に近国の武士の紋を描いて隙間なく立て、大軍がいるように見せかけ,遊撃戦的な遠距離弓射攻撃に徹していたところ,幕府軍指揮官の一人,佐々木昌綱が流れ矢に当たり戦死し,昌綱が手勢500は「もうだめぽ」状態に.
それを見た別の指揮官、佐々木定宗は800騎はなぜか突然降伏.
さらに,そんなおり,日暮れに激しい暴風雨がやってまいります.
車軸のごとく太い雨足が地面を真っ向から激打し,ドーン!ドドーン!と,雷鳴の轟きは山を崩さんばかり.
たまらず鎌倉勢は木陰に身を避ける.
これぞ天佑.
好機だと見た名和長年,弓の名手を率いて一転,打って出て,幕府軍が大慌てとなったところをバッサバッサと斬り立てる.
鎌倉勢は進退窮まり,1000騎余りが谷底に落ちて死傷者数知れず.
佐々木清高は落ち延びたもの,近江の国の辻堂で切腹して果てたのでありました.
さらにさらに,名和軍は余勢をかって,佐々木清高の館と伯耆守護の糟尾氏の館を攻めて彼らを追い出し、幕府に通じる小鴨氏を討ったのでありました.
【参考ページ】
http://www5d.biglobe.ne.jp/~katakori/taiheiki/e01/e07s06.html
http://tikugo.cool.ne.jp/nawa/story/story4.html
http://cmsweb1.torikyo.ed.jp/nawa-e/modules/menu/main.php?page_id=1&op=change_page(肖像画も)
http://www.town.kotoura.tottori.jp/cms/index936.html
http://www.eonet.ne.jp/~chushingura/p_nihonsi/episodo/051_100/epi077_01.htm
【ぐんじさんぎょう】,2008/11/29 21:00
に加筆
【質問】
楠木の千早城や 播磨の赤松円心入道 船上山の名和一族などは,援軍が来る見込みをもっていたのでしょうか?
【回答】
私は,幕府の組織や制度の歴史を主に研究しているので,軍事史はあまり詳しくないのであまり自信はないのですが,まず赤松が,尊氏が盛り返してくることを期待していたことは確実だと思います.
楠木と名和については微妙なところですが,長期戦に持ち込むことで,全国の武士が鎌倉幕府に離反して挙兵することを期待していたことは確実ですので,具体的にどの武士の援軍に期待していたということはないと思いますが,大局的に援軍を当てにしていたとは言えるのではないでしょうか?
それでなくとも後醍醐天皇や護良親王が,決起を促す綸旨や令旨を全国の武士にばらまいていましたので,少なくとも完全な孤立無援ということはなかったと思います.
はむはむ by mail,2008年12月18日 01時07分
【質問】
名越時兼の蜂起とは?
【回答】
建武政権期の越中国の歴史で特筆される出来事としては,やはり建武2(1335)年夏頃の名越時兼の蜂起が挙げられるであろう.
名越時兼というのは,鎌倉末期の北条一門で越中守護で,元弘の戦乱において滅ぼされた名越時有の遺児である.
これがあの有名な鎌倉幕府最後の得宗北条高時の遺児時行が信濃国で蜂起した反乱(中先代の乱)に呼応して越中・能登・加賀で挙兵して建武政権に挑戦したのである.
時行は信濃から関東地方に進出し,当時鎌倉を守っていた足利直義軍を撃破して鎌倉を占領する.
しかし,京都から足利尊氏が弟を救うために東海道を下ってきて,時行軍は撃破される.
ところが,この尊氏も建武政権に離反してやがて挙兵し,建武3(1336)年の室町幕府の樹立へと歴史はめまぐるしく転変するのであるが,この間越中国では,井上俊清という武士が足利方について挙兵し,後醍醐天皇が任命した国司,中院定清を攻撃する.
定清は能登に撤退して抵抗するが,俊清はさらに進撃を続け,ついに定清を敗死させる.
これを足利氏の立場から見れば,越中に関してはまずは上々の滑り出しといったところであろう.
「はむはむの煩悩」,2008年1月10日 (木)
青文字:加筆改修部分
【質問】
北陸における新田義貞の戦いについて教えられたし.
【回答】
建武2(1335)年10月,建武政権を打倒するため足利尊氏が挙兵する.
翌年2月,尊氏は一時,奥州から追撃してきた北畠顕家軍に敗れて九州へ落ちるが,筑前多々良浜で菊地武敏軍に勝利し,4月再び東上を開始.
5月,摂津湊川で楠木正成軍を撃破.
6月,京都を再占領して,比叡山に逃れた後醍醐天皇軍を攻囲するに至った.
長期間にわたる包囲に耐えきれず,後醍醐天皇はついに尊氏と和睦し,尊氏は室町幕府を開くが,12月に後醍醐は吉野に脱出して南朝を開き,ここに60年におよぶ南北朝時代が始まったのであった.
だが,これに先立つ10月に,すでに新田義貞が恒良親王・尊良親王という後醍醐天皇の2皇子を奉じ,後醍醐方の再起のために越前国に没落していたのである.
越前では,足利一門で最高の家格を誇る斯波高経が既に守護となって新田軍を待ちかまえ,迎撃したのであったが,新田義貞はかつてあの鎌倉幕府を滅ぼした猛将である.
何だかんだ言ってもむちゃくちゃ強くて,高経単独では到底倒せない相手であった.
そこで幕府は,近隣諸国の幕府軍も動員して高経に協力させて義貞を攻めたのであるが,当然越中からも多くの武士が幕府軍として従軍して越前に遠征した.
このように,北陸地方は南北朝時代開幕早々に南北両朝の主力が激突する最前線地帯となり,越中国もそれに巻き込まれる形となったわけである.
建武5(1338)年7月には,新田氏の根拠地である越後から義貞救援のために南朝方の大軍が到来し,当時越中守護であった井上俊清の防衛線を突破して越前になだれ込んだ.
しかし義貞は武運つたなく,閏7月に流れ矢にあたって戦死してしまった.
このとき義貞の首級を取ったのが,越中の武士中務丞重国ということである.
「はむはむの煩悩」,2008年1月15日 (火)
青文字:加筆改修部分
【質問】
足利尊氏と言えば,清水寺に納めた願文が有名ですが,あの願文を捧げた時も出家引退するつもりだったんでしょうか?
【回答】
尊氏が清水寺に願文を納めたとき(1335年)は,私が知っている限りでは慰留の動きは起きていないですね.
従来の研究では,あの願文は引退宣言と言うより,
「できれば引退して出家したい」
という尊氏の願望と解釈されているのではないでしょうか?
まあ,尊氏はあの願文を捧げた後,本当にそのとおり,政務をほとんどを直義に譲ってしまうわけですが.
もっとも,尊氏が恩賞充行と守護職補任の権限だけ自分に残したことは,著名な事実です.
「はむはむの煩悩」,2007年11月10日 (土) 17:53
青文字:加筆改修部分
【質問】
白旗城合戦って何?
【回答】
九州に逃れてきた足利尊氏に味方する赤松則村(円心入道)が,1336年,新田義貞軍6万を播磨国赤松の白旗城で迎え撃った戦いです.
篭城側兵力は2千でしたが,久下時重らによる新田軍補給路の妨害や,白旗城が険峻な地形だったこと,播磨・美作で名の知れた弓の達人が800人以上も立て籠っていたこと,という強みをもって,狭隘な山岳を最大限に利用した
赤松軍 の野伏り戦法(ゲリラ戦)を用いて善戦し,さらには休戦を装って時間を稼ぐなどして,新田軍を50日以上釘付けにしました.
その間に尊氏が多々良浜の戦いで菊池武敏を破って九州を制圧し,東上を開始すると,新田軍は撤退を開始しましたが,寝返りや足利軍への投降者が続出した上に,赤松軍の追撃も受け,総崩れとなって兵庫まで逃げ延びました.
【参考ページ】
「Wikipedia」:赤松則村
http://www.eonet.ne.jp/~yorisan/newpage115.htm
http://orange.zero.jp/ken-you_mark2.sky/syashin-shiro_hyougo1.htm
http://www.aurora.dti.ne.jp/~atorasu/p05/essey206.html
http://www.ashikagatakauji.jp/nitta/nitta_13.html
【質問】
中先代の乱を起こした北条時行は,後に後醍醐天皇側について,足利尊氏に対して隠居地の伊豆で反乱を起こしますが、なぜ彼は後醍醐天皇側についたんでしょうか?
幕府は滅亡し、信濃に逃れて建武親政に不満を持って天皇に対して反乱まで起こしたのに…
【回答】
時の政権に対抗するために南朝に走った者は少なくない.
細川定禅しかり足利義尊しかり.
中央の政争に破れた者たちが政権に対抗するための,いわば駆け込み寺の側面を南朝が有していたわけ.
中先代もその意味で南朝を利用し、南朝自体も節操なくそういった人間を迎えていたわけよ.
余談だが,嘉吉でぶっ潰された赤松遺臣が,何の疑いもなく南朝にすんなり受け入れられたのは,南朝側の「来るもの拒まず」の姿勢によるもの.
赤松遺臣はその後南朝の「玉」小倉宮の裔をぶっ殺して神璽を奪還、幕府への帰参とお家再興が叶ったと応仁記にあるけど,互いに必死だったんだわな.