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「新はむはむの煩悩」◆(2010/07/18)尊氏・直義・師直
「新はむはむの煩悩」◆(2010/10/04)阿部猛編『中世政治史の研究』(日本史史料研究会,2010年)
『足軽の誕生 室町時代の光と影』(早島大祐著,朝日選書,2012/10/10)
『喧嘩両成敗の誕生』(清水 克行著,講談社選書メチエ,2006/2/11)
【質問】
東寺百合文書とは?
【回答】
東寺百合文書とは,東寺に伝来した文書群の一種である.
江戸時代,文化事業に尽力した加賀藩の第4代藩主前田綱紀が,東寺に100個の箱を寄贈し,その中に東寺伝来の文書を入れて保存した.
(厳密には,前田綱紀が寄贈した箱の数は93函であり,その後に1函が何者かによって追加されて,現在は94函となっている.)
そのため「東寺百合文書」と呼ばれ,その総数は2万通近かったはずである.
国宝であり,近年,世界遺産に指定された.
現在は京都府立総合資料館が所有・保管しており,そのため年に1度,その中から数十通選ばれて展示されているのである.
東寺は足利尊氏が上洛したときに尊氏軍の本陣とされ,また,当時の東寺のリーダーであった三宝院賢俊という僧侶が光厳上皇の院宣を尊氏に届けるなど,最も尊氏に忠実な尊氏党で,「将軍門跡」と呼ばれたこともあり,伝統的に親室町幕府であり,そのため幕府が発給した文書が多数残存している.
古文書の種類や数は膨大であるが,個人的には,やはり将軍足利尊氏の袖判下文と,弟直義の裁許下知状が最も美しく,風格があると感じる.
尊氏の袖判下文は,そのほとんどが合戦で勲功を挙げた武士に対する恩賞充行であり,征夷大将軍としての威厳に満ち溢れている.
花押が美しく,格調高いのもポイントである.
個人的には,2代将軍義詮の花押は父をも凌ぐと思っているが.
直義の裁判判決文も,彼がいかに真摯に誠実に政治を行ったかが,非常によく感じられて好きである.
〔略〕
【質問】
「仁」がついていない天皇の家系は,謀反を起こし易いと聞きましたが?
【回答】
偶然なのか,鎌倉以降,後鳥羽系・後醍醐系といった家系が,なぜか反逆者を輩出している.
***
悠仁さまのご誕生で,親王の名前は56代清和天皇(惟仁)以来,必ず「仁」の字がつく慣習になっていると報道されたので,ご存知の方も多いと思われるが,実はこれ,例外も多い.
天皇に即位した親王に限っても,清和以降,こんなに例外があるのである.
●平安時代
57代陽成:貞明
58代光考:時康
59代宇多:定省
▼※宇多天皇は,元は源定省と言って,唯一皇族ではなく一般人から即位した天皇である.▲
60代醍醐:維城
※醍醐天皇は,後に「敦仁」と改名した.
61代朱雀:寛明
62代村上:成明
63代冷泉:憲平
64代円融:守平
65代花山:師貞
67代三条:居貞
68代後一条:敦成
69代後朱雀:敦良
●鎌倉時代
82代後鳥羽:尊成
84代順徳:守成
85代仲恭:懐成
94代後二条:邦治
96代後醍醐:尊治
●南北朝時代
97代後村上:義良
98代長慶:寛成
99代後亀山:熙成(よしなり)
とこのように,南北朝時代までは例外も多く,その後は「仁」が必ずつくようになる.
こうして見ると,「仁」がつくのは,清和以降ではなくて,70代後冷泉天皇(親仁)以来の慣習と言った方が適切なのではないだろうか?
また,醍醐天皇の後の名前の「敦仁」は,「あつぎみ」と呼んでいたらしいので,「仁」の読み自体も初期は一定していなかったのかもしれない.
さらに言えば,これは天皇に即位した親王に限って見ただけで,例えば室町時代の102代後花園天皇の父である貞成親王は,「仁」字がついていない.
まあ,これらの事実に基づいて特に主張したい何かがあるわけではなく,単に薀蓄をここで披露しただけなのであるが,鎌倉以降,後鳥羽系・後醍醐系と,「仁」がついていない家系がなぜか謀反を起こす反逆者の天皇を輩出した偶然も,不思議である.
【質問】
謀反を起こす反逆者の天皇,という表現ですが,確かに実情は,天皇側が反逆の謀反なんだけど, 戦前は,北条義時や足利尊氏の方が逆賊扱いでしたよね?
その辺引きずっている人は,まだ多いのかな,と思ったのですが,そういう表現で大丈夫なのかしら?
【回答】
後醍醐天皇の討幕計画は,当時から「主上御謀反」と称されていたので,「反逆者の天皇」という表現は間違いではないと思います.
また,尊氏はともかくとして,南朝方の実質的リーダーであった北畠親房が,南朝の正統性を主張した『神皇正統記』においてさえ,承久の乱に関しては後鳥羽側が非難され,北条義時が後鳥羽上皇と戦ったことは歴史的流れとして正しかったことや,義時の善政について賞賛されていますから,義時を逆賊扱いすることは戦前においてもそんなになかったと思います.
なお,拙ブログにおいて私は何度も尊氏を高く評価し,南朝批判を繰り返していますが,今まで右翼の方から抗議が来たことは1回もありませんし(笑),大丈夫だと思います.
はむはむ by massage,2008年05月25日 14時58分
【質問】
宇多天皇は一般人から即位した天皇?
【回答】
宇多天皇は生まれは皇族ですし,光考天皇の死の直前に皇族復帰親王宣下(字が間違っておりましたらすいません),皇太子に立太子しているとされていると記憶しております.
確認したところ,宇多天皇は即位以前,元慶8(884)年4月13日,臣籍に降って源朝臣を賜り,源定省となっています.
その後,仁和3(887)年8月25日,親王宣下を受け皇族に戻り,翌日光孝天皇皇太子となります.
ですので,定省親王が臣籍に降っていたのはわずか3年あまりのことで,しかも即位直前にまた皇族に戻っておりますので,「一般人から即位した」というのは不正確な表現で,ご指摘のとおり「臣籍にあったことのある」という表現が適切ですので,〔略〕訂正させていただきます.
また,仁和1(885)年1月,源維城(これざね)が源定省の子として誕生し,後に醍醐天皇となっておりますので,臣籍にいたことがある天皇は,実は宇多天皇だけではなく,宇多と醍醐の2人存在します.
この点も併せて訂正させていただきます.
【質問】
室町幕府と,それ以外の日本の諸政権を分かつ,最大の違いは何か?
【回答】
私はそれは,「ほかの政権は全部新しい都市を建設しているのに,室町幕府だけがまったく建設していない」ことだと思う.
あまり気づかれていない事実であるが,ちょっと想像力を働かせると,中学程度の歴史の知識で簡単にわかることである.
超古代の天皇たちは,即位するたびに遷都していた.
はるか昔のことは措いておいても,天智天皇以降に限って見ても,
天智天皇:大津京(大津)
天武天皇:飛鳥
持統天皇:藤原京
元明天皇;平城京(奈良)
桓武天皇:平安京(京都)
平清盛:福原(神戸)
源頼朝:鎌倉
織田信長:安土
豊臣秀吉:大坂(大阪)
徳川家康:江戸(東京)
明治政府:札幌
とまあ,足利氏だけが京都・鎌倉といった既存の都市を継承しただけで,首都だけではなく地方都市も含めて,新しい都市をまったく建設していないのである.
また,既存の都市を継承する場合でも,ほかの政権は,例えば豊臣秀吉の京都,近代政府の東京など,大改造を施して事実上,まったく新しい都市を建設している場合があるが,室町幕府は,だいぶ前に紹介したように,せいぜい六波羅を捨てて下京や上京に移住している程度である.
まあかろうじて,尊氏の天竜寺や義満の北山殿(金閣寺)等の創建が,室町幕府の部分的都市改造として見られるくらいか.
よく考えたら,これは非常に大きいことであるような気がする.
室町幕府は研究対象なので思い入れがあるから,あまり悪く言いたくはないが,都市に関してはまったく威張れる政権でないのは,残念ながら厳然たる事実であるようだ.
都市を造る発想のない政権は,やっぱりどこかに致命的な欠陥を持っているような気がしてならない.
「はむはむの煩悩」,2008年8月 1日 (金)
青文字:加筆改修部分
いちばんの問題と言うかほかの政権との相違点は,明確な政策志向性がなかったことなのではないかと個人的 には考えています.
確かに京都に幕府ができたことで,それなりに変化もしたんですけど,それはよく言えば自然な変化,悪く言えばなしくずし的なものであって,幕府の要人に「新しい都市を建設している」とか,「既存の都市に大改造を施している」という意識は,ほとんどなかったと思います.
よく言えば現実的で柔軟で合理的,悪く言えば無定見で場当たり次第で理念がない,それがよくも悪くもこの政権の体質ですが,都市政策に特に顕著に現われていると思いますね.
「はむはむの煩悩」,2008年8月 2日 (土) 00:57
青文字:加筆改修部分
※平安京の外側にあたる一条大路以北を,武家の空間と位置づけるという構想が,義満にあったのではないか,という細川武稔論文があるとの指摘あり.
【質問】
足利将軍の暴君性も,本人達の資質というよりも時代が彼らをしてそうさせたという面が大きいと思えるのですが・・・.
【回答】
確かに,現代と異なって,管領や侍所頭人といった一部の例外は別として,権力を失うことが即生命と財産の侵害に直結した時代ですからね.
敵はできる限り根絶やしにしてしまわないと,今度は自分がやられてしまいますから.
ただ,そういう時代状況だったからこそ,上杉憲実のような,やむを得なかったとは言え,主君を殺した自分の所業を悔やみ,幕府の再三にわたる慰留にもかかわらず,地位と財産をすべて捨てて諸国放浪の旅に出た人物がますますきわだって見えますよね.
「はむはむの煩悩」,2007年4月25日 (水) 16:04
青文字:加筆改修部分
【質問】
中世の京都の街の様子は?
【回答】
周知のように,794年に桓武天皇が平安京に遷都してから,首都としての京都の歴史は始まったのであるが,平安京のすべてが当初の計画のとおりに市街地化したわけではない.
平安京の西部,すなわち右京は低湿地で人が住むには不適であったため,近代に至るまで市街地化はしなかったのである.
従って平安京は,東部=左京のみが市街地化した.
さらに中世には,左京の市街地は北部の上京と南部の下京に分かれた.
上京と下京は二条大路で区切られ,両京は室町通りほか数本の街路で結ばれているだけであった.
上京は天皇や貴族が住む上流階級の街,下京は商業地で主に商人が住んでいた.
左京のさらに東には,賀茂川の東に六波羅と呼ばれる地域があり,ここは鎌倉時代六波羅探題の政庁が置かれた場所で,多数の武士が住んでいた.
六波羅は元々平氏政権の本拠があった地域で,これを滅ぼした鎌倉幕府が六波羅の敷地をそのまま継承して,幕府の出先機関を設置したのである.
以上をまとめると,鎌倉末期までの京都は,上京(公家の街)・下京(商業地)・六波羅(武士の街)と大別して3つの地域に分かれていたのである.
これを覚えていただくと,以下の説明を理解することが容易になると思う.
【質問】
室町幕府の将軍は,どこに住んでいたのか?
【回答】
鎌倉幕府の将軍が「鎌倉殿」と呼ばれていたことは,よく知られている事実であろう.
これに対して,室町幕府の将軍は「花の御所」とも呼ばれていた室町御所に住んでいたので,「室町殿」と呼ばれていた.これも比較的知られていると思う.
しかし子細に見ると,厳密には足利将軍が室町殿に住んでいた時期は意外に短い.また,「室町殿」の称号も,3代将軍義満以降につけられたものである.
〔略〕
元弘3(1333)年,六波羅探題を滅ぼした足利尊氏は,下京の押小路高倉邸に住んだ.
尊氏は,なぜか平安以来の武士の街である六波羅には一切目もくれず,従来あまり関係のなかった洛中に住むのである.
戦乱で六波羅の建物が焼失していたであろうこともあり,現実的に住むことができないという事情が大きかったのかもしれないが,これ以降も足利氏が六波羅に関心を払うことはまったくなかった.
尊氏はその後建武政権も滅ぼし,建武5(1338)年には征夷大将軍に就任し,康永3(1344)年に上京の土御門東洞院殿に移住する.
土御門東洞院殿は,天皇が住んでいた内裏(現在の京都御所)の南に位置する.
つまり尊氏は,空間的にも将軍として天皇を南朝の攻撃から守る役割を果たしていたのである.
ところが,貞和5(1349)年3月,この屋敷が焼失してしまう.
尊氏は,執事高師直の一条今出川の屋敷に移住する.
同年8月には土御門東洞院殿が再建され,尊氏は元の邸宅に戻るが,その後観応の擾乱が勃発し,尊氏が各地を転戦しているうちに,この家は観応2(1351)年再び焼失してしまう.
観応の擾乱以降は,たびたび京都を南朝方に奪われて没落したこともあって,1カ所に邸宅を構えることができなかったようである.
戦争に明け暮れた尊氏の一生を実によく反映していると思う.
延文3(1358)年死去したときは,下京の二条万里小路に住んでいた.
一方,尊氏の弟である足利直義は,三条高倉邸(下京)に住み,「高倉殿」とか「三条殿」と呼ばれていた.
この時代は,尊氏と直義で幕府の権限を分割して統治していたが,幕政の主導権を握っていたのは直義の方であった.だから当時の人々は,幕府は高倉殿にあると認識していたのである.
貞和5年8月,直義は師直のクーデタによって失脚する.
同年10月には鎌倉から尊氏の嫡男義詮が上洛し,直義がそれまで有していた権限を継承する.
それに伴って高倉殿には義詮が住み,直義は追い払われるように直義派の武将であった細川顕氏の屋敷のあった錦小路堀川邸に移住する.
これ以降,直義は死ぬまで「錦小路殿」あるいは「錦小路禅門」(出家したため)と呼ばれている.
義詮は,今述べたように三条高倉殿に住んでいた.
しかしこの屋敷も観応3(1352)年に焼失し,それ以降は父尊氏と同様にしばらく京都の各所をを転々とした.
だが,延文3年,死去した尊氏の後を継いで2代将軍となり,貞治4(1365)年,三条坊門殿を新造し,移住する.
三条坊門殿は,かつて直義が住んでいて,幕府の所在地とされていた三条高倉殿の東隣に位置する.義詮は,少なくとも空間的には直義を継承したのではないだろうか?
この三条坊門殿は,室町殿に引っ越す前の若い頃の義満も住んでいた場所である.「上御所」と呼ばれた上京の室町殿に対して,「下御所」と呼ばれていたそうである.
尊氏・義詮・義満の初期の足利将軍は,前代の武家の聖地・六波羅を捨て,だいたいは下京に住んだ(尊氏の土御門東洞院殿・一条今出川殿は例外).まとめると,こう結論づけることができるであろう.
彼らは室町殿には住んでいなかったのだから(そもそも,初期は室町殿そのものが存在しなかった),当然「室町殿」とは呼ばれていない.では何と呼ばれていたのか?
尊氏・義詮は「鎌倉大納言」,若い頃の義満は「鎌倉宰相中将」と呼ばれていたのである.
将軍となった彼らは,ほとんど鎌倉に住んだことはないが(若い頃の義詮,観応の擾乱直後の尊氏は例外),にもかかわらず「鎌倉」を冠する称号を持っていたのである.
室町幕府は鎌倉幕府を継承した政権であるが,首長である足利将軍も前代の将軍である鎌倉殿を意識の上で継承していることが,この事実からも伺える.
室町殿に引っ越した義満以降については,次回に紹介したい.
前回も述べたとおり,3代将軍義満も,将軍に就任した当初は父義詮が住んでいた下京の三条坊門殿に住み,「鎌倉宰相中将」と呼ばれていたが,永和4(1378)年に上京の北小路室町に新しい屋敷を建ててそこに引っ越してからは,『室町殿』と呼ばれるようになる.
ここはもともと義詮の別荘であり,義満が住む前には崇光上皇が住んでいたこともある.
室町御所は,庭にたくさんの樹木が植えられていて,1年中花が絶えることがなかったという.
そのため,別名「花の御所」とも呼ばれる.
だが崇光上皇が住んでいた頃から「花亭」と呼ばれていたそうで,もともと庭に花がたくさんあったのかもしれない.
とにもかくにも足利氏の幕府を「室町幕府」と呼ぶのは,この家の所在地に由来するのであるが,初めて室町殿が出現するのは,足利氏の幕府が発足して実に40年以上経過して後のことであったのである.
義満は,こうしてしばらくは室町殿と呼ばれ,実権をふるい続けたが,応永元(1394)年に将軍職と室町御所を子・義持に譲って,自分は出家し,京都西郊に北山御殿を造営して隠居する.
現代の金閣寺である.
とは言っても,政治上の実権は依然義満が握り続ける.
義満は,かつてそれぞれ白河・鳥羽に住んで院政を行って権勢をふるった平安時代の白河法皇・鳥羽法皇を模倣して,自らも京都郊外の北山に住んだと言われている.
史料を見ても,政治活動と言い,文書発給と言い,すべて義満が行っており,義持は何もしていない.
この時期の義持は,せいぜい年に数回,お寺に参拝したり,天皇が北山殿に行幸したときに警備を担当している程度である.
この時期,義満は北山にいたので,「北山殿」と呼ばれていた.
義持は,どうやら室町殿ではなく,「新御所」と呼ばれていたらしい.
室町殿に住んでいる征夷大将軍なのに,室町殿ではないのである.
天皇をはるかに凌ぐ権勢をふるった義満も,応永15(1408)年に死去し,義持はようやく名実ともに実質的な権力を掌握する.
義持は室町殿を出て,祖父義詮が住んでおり,若い頃の義満も住んでいた三条坊門殿に引っ越す.
ところが,義持は室町殿に住んでいないのに,室町殿と呼ばれるのである.
このときから,「室町殿」とは,足利氏の家督の名称となり,実際の所在地とは無関係につけられる称号となる.
義持は,応永30(1423)年に将軍職を子・義量に譲り,出家する.
しかし,政治の実権は依然握り続ける.
義持は,父義満に非常に嫌われ,彼も父に非常に反発していたという.
その彼が,父にされたのとまったく同じ仕打ちを自分の息子にするのも非常に興味深いが,この時期,義持は相変わらず室町殿と呼ばれ続け,義量は「将軍」と言われている.
義量は,将軍に就任してわずか2年後に,わずか18歳の若さで死んでしまう.
その後は,義持が将軍に復帰せず,法体のまま,応永35(1428)年に死去するまで政治を続けるが,北山殿義満もそうであったように,必ずしも征夷大将軍でなくとも,幕府の最高権力者となることができるのである.
義持の死後,籤引きで弟の義教が将軍に選ばれるが,彼は僧侶であった.
しかし,父義満も兄義持も,僧侶で将軍でないのに権力を握っていたにもかかわらず,彼はわざわざ還俗して,髪の毛が伸びきって髷を結って烏帽子をかぶれるようになるのを待ってから(これも「元服」と言うのである),征夷大将軍に就任し,権力の行使を開始する.
義教は,最初は三条坊門殿に住んでいたが,やがて室町殿に移住した.
その際,また改めて建物を新築した.
花の御所は,大別して義満・義教・義政の3期に分けられるが,義教の時期の室町殿がもっとも史料が豊富で内部の構造を知ることができるとのことである.
前回も触れたが,室町前期には,上京の室町殿が「上御所」と呼ばれ,下京の三条坊門殿は「下御所」と呼ばれていた.
そして,将軍の代替わりごとに上御所と下御所を交互に移住し,それに伴って管領・守護以下の武士も一斉に引っ越すのである.
これが全盛期の室町幕府のあり方であった.
大半の時期を下京に住んでいた南北朝期の将軍たちに比べると,室町前期の将軍は,上京への進出が本格化している.
室町幕府は単なる武家政権ではなく,朝廷の権限も掌握した公武合体政権であるという評価がなされるが,それが視覚的にもうかがえるのが,非常に興味深い.
また,下御所に住んでいるときでも,将軍は室町殿と呼ばれる.
逆に,室町殿に住んでいて将軍であっても,実権を握っていなければ室町殿とは言われない.
要するに幕府で実権を握っている最高権力者が室町殿であるのだが,義満・義持の例でわかるように,室町殿は必ずしも将軍で室町御所に住んでいる必要はないのである
(ただし,義教の例でわかるとおり,室町殿になるためには,一度は将軍に就任しなければならない).
このように,将軍の称号と住居の問題を見ても,いろいろと興味深い事実が見えてくるのである.
▼ 6代将軍足利義教は,嘉吉1(1441)年,播磨守護赤松満祐に暗殺される(嘉吉の乱).
義教の跡は子義勝がわずか7歳で継いで7代将軍となるが,この義勝も就任してたったの8ヶ月で死亡し,義勝の弟の義政が8代将軍となる.
義政は,将軍就任当初,上京の烏丸殿(烏丸資任の屋敷)に住んでいた.
前回も述べたとおり,室町幕府体制が確立してからの足利将軍は,代替わりごとに上京の室町殿(上御所)と下京の三条坊門殿(下御所)を交互に移住するのが慣例化していた.
義教は上御所に住んでいたので,この先例に従えば,義政は一度上御所に引っ越し,その後下御所に移住するのが筋であり,実際にそうする予定であったらしい.
ところが,室町殿に妖怪が出現し,義政の母が烏丸殿に帰る事件が発生したこともあり,結局この引っ越しは中止となり,義政は烏丸殿に住み続けるのである.
将軍の上京から下京,あるいは下京から上京への移住は,将軍だけではなく,管領・守護以下の諸大名や奉公衆等の一斉の移動も必要とした.
それだけでも経費と手間のかかる大移動であるが,さらに御所の大規模な増改築・新造等の工事も伴った.
その費用は守護が負担するのであるが,守護は分担の経費を支払うために,自分の任国に課税する.
だから代替わり当初の将軍の移動は実は国家規模の大行事であり,守護はこれを忌避する傾向があったようである.
既に義教の室町殿移住のときにも反対意見があり,室町殿以外の場所への移住が義教に進言されたのであるが,当時は将軍の力がまだ強く,義教の室町殿への強い意向に押し切られて引っ越しが実現したのである.
義政は幼少で足利家を継いだので,そのような強い権力を持たなかったので,室町殿に移住することができなかったのであろう.
今述べたように,義政は幼少で足利家家督を継いだので,当初は管領畠山持国や細川勝元が将軍権力を代行した.
しかし長ずると将軍親裁を開始し,長禄2(1458)年に室町殿の造営・移住を宣言し,翌年実現させる.
このとき,烏丸殿の建物や庭園の造営も進行していたので,当時の人々も驚いたそうだが,それだけ足利将軍の室町殿への強い思いを窺うことができよう.
こうして義政も室町殿に実際に住む,名実ともに室町殿になったわけだが,文正2(1467)年,有名な応仁・文明の大乱が始まる.
文明5(1473)年に義政は,将軍職を子義尚に譲るが,義満や義持と同様に,依然政治の実権は握り続ける.
内乱当時,室町殿には義政・義尚父子と日野富子,そして難を逃れて移住していた後土御門天皇も住んでいたが,文明8(1476)年,室町殿が全焼してしまう.
その後,室町殿父子は住居を転々とする.それをすべて紹介するのは煩雑になるので避けるが,結論だけ述べると,義尚は細川勝元の別邸であった小川殿,そして義政はあの有名な東山殿(銀閣のある慈照寺)に最終的に移住するのである.
義政は,文明15(1483)年に東山殿に移住し,権限を義尚に譲って,自分を東山殿,義尚を室町殿と呼ぶように諸臣に命じる.
そして戦乱によって荒廃した俗世から逃避して,趣味の世界に没頭する隠居生活を始めるのであるが,厳密に言えばすべての権限を義尚に譲ったわけではなく,禅院行政や外交などは依然掌握していたそうである.
それはともかく,この続きはまた今度書きたい.
前回,室町殿に妖怪が出現した話をちょっと書いたが,余談ながら,この時代の上流階級の人の家には,どういうわけかよく妖怪が出現したようである.
称光天皇も,トイレで巨大な亀に襲われて食べられそうになったらしい.
それはそうとして,本題に戻ろう.
10代義稙以降の将軍は,何度も京都を追われたこともあり,京都にいるときも諸所を転々としており,ほとんど一定の場所には住んでいない.
しかしそれでも,メインと思われる住居を列挙してみると,以下のとおりである.
10代義稙:一条御所=細川讃州邸
11代義澄:細川政元の屋敷
9代義尚の住んでいた小川殿も細川勝元の屋敷であったし,戦国初期の将軍は,細川氏の家に住んでいることが多い.
この時期の将軍は,細川氏の傀儡に過ぎなかったのであるが,それがビジュアル的にもよく現れていると言えよう.
特に11代義澄は,自身の御所を営むことができず,細川政元の屋敷の敷地の一部に住むという,まさに居候状態であった.
室町殿が管領以下多数の諸大名や奉公衆を引き連れ盛大に上京と下京を移動し,諸国に課税して御所を新築する,かつての全盛期の将軍の姿は,そこには微塵もない.
足利義澄は,明応2(1493)年,細川政元が将軍義稙を追放したクーデタ(明応の政変)で擁立された将軍であった.
しかし義稙は,永正5(1508)年,大内義興に擁されてふたたび入京し,将軍に復職する.
その後永正10(1513)年,義稙が下京に造営したのが「三条御所」である.
三条御所の正確な位置については諸説あるそうであるが,最新の研究では,かつての三条坊門殿=下御所の1町南にあったとされている.
12代義晴は,上京の地に御所を営んだが,正確な所在地や名称さえ,今日には伝わっていない.
義晴の御所がかつての花の御所であるとする説が以前は有力であったようであるが,これも最新の研究では否定され,13代義輝が当初住んだ御所の名にちなんで,「今出川御所」と名付けられている.
13代義輝は,上京の勘解由小路室町にあった武衛御所である.
この御所は,後に大規模に改造されて本格的な城となった.
義晴・義輝の時代は,今日の研究では,衰退過程にあるとは言え,わずかながら将軍の権力・権威が復活した時代とされている.それが住居にも反映されていると言えるのではないだろうか?
15代義昭は,兄義輝と同じ武衛城に住んだ.
この城は,織田信長によってさらに拡張されて,複数の郭と三層の天守閣を持つ城に変貌した.
現代ではこの城を「旧二条城」と呼ぶ
(徳川家康が築城した現代の二条城とは異なるので,こうして区別して呼ぶ).
以上,戦国期の室町将軍の住居を概観したが,結論として,戦国時代の将軍は,遂に室町殿に住むことはなかったのである.
一応室町殿への執着はあったようで,特に義政は相当室町殿の修理にこだわっていたようであるが,すでにそのころから室町殿跡地には毎夜盗賊が集い,土一揆の拠点にもなれば,博打や喧嘩や宴会も日常茶飯事で,人殺しが死体を捨てていくなど,とても将軍の御所にできる状況ではなかった.
結局,室町殿がその名のとおり室町殿に住んでいたのは,室町幕府240年の歴史の中でたかだか100年にも満たないのである.
また,戦国期の将軍が,後期の義稙を除いて,ほとんど上京に住んでいるのも注目するべき事実である.
大まかにわけて,
六波羅探題→六波羅
南北朝期の将軍御所→下京
室町期の将軍御所→上京と下京を交互に移住
戦国期の将軍御所→上京
という図式が見えてくる.
武家政権は,六波羅を捨てて下京に移動し,それから徐々に公家の街上京に定着していったのである.
織田信長は足利義昭を威嚇するために上京を焼き討ちしたが,そういう視点で見れば,上京は戦国末期には将軍の街となっていたと言えよう.
また戦国の時代を反映して,御所の防備が徐々に固められていっている事実も注目に値する.
すでに義政の室町殿も末期には堀を備えていたそうであるが,時を下るごとに御所の防衛機能は強化されていき,義昭の旧二条城に至っては,天守閣まで有している.
このように,将軍の住居ひとつをとって見ても,時代の流れや権力構造等,さまざまな事実がうかがえるのである.
参考文献
小沢朝江「室町将軍の公私の空間」(小沢朝江・水沼淑子『日本住居史』吉川弘文館,2006年)
高橋康夫「描かれた京都―上杉本洛中洛外図屏風の室町殿をめぐって―」(同編『中世都市研究12 中世のなかの『京都』」新人物往来社,2006年)
田坂泰之「室町期京都の都市空間と幕府」(『日本史研究』436,1998年)
野田泰三「東山殿足利義政の政治的位置付けをめぐって」(『日本史研究』399,1995年)
※14代義栄は,京都に住むことがなかった.
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【質問】
室町幕府が強い力を持っていたのは,三代義満から六代義教までと考えてよろしいでしょうか?
【回答】
そうですね.
義教など,笑った顔が気にくわないというだけの理由で貴族の所領を全部没収したこともありますしね(笑)
ただ,近年は8代義政の初期や,細川政元が10代義材を追放したクーデタである明応の政変までは,将軍も曲がりなりにも実質的な権力を持っていたとする見解が有力であるようです.
「はむはむの煩悩」,2007年3月18日 (日) 07:14
【質問】
東寺と足利氏との関係は?
【回答】
〔略〕
足利尊氏および尊氏以降の歴代足利将軍と東寺の関係は,きわめて密接で深いものがある.
この関係のそもそものきっかけは,建武2(1335)年2月,醍醐寺の僧侶であった三宝院賢俊が,備後国鞆に滞在していた敗走中の尊氏に,光厳上皇の院宣を届けたことに始まる.
光厳上皇の命令を獲得したおかげで尊氏は,賊軍の汚名を晴らして自らの軍事行動の正当性を主張できたわけで,賢俊の働きはまさしく,室町幕府の樹立にきわめて大きな貢献を果たしたと評価するべきである.
賢俊はそのまま尊氏軍に従い九州に向かい,各地を転戦する足利軍に従事した.
やがて尊氏が京都を奪回して幕府を樹立すると,彼は醍醐寺座主と東寺長者に任命された.
もちろん彼の果たした多大な功績が報われたのである.
ほかにも仏教界の多数の要職を務め,尊氏から莫大な荘園を寄進された.
賢俊はその後も死ぬまでずっと,尊氏派の真言僧として尊氏に忠実に仕え続け,「将軍門跡」とも称されたという.
後醍醐天皇の護持僧として有名な文観によく対比され,彼の好敵手ともされる.
その彼が東寺のトップを務めたこともあって,東寺もまた室町幕府と非常に深い関係がある寺院となり,将軍家から莫大な荘園を寄進され,幕府の裁判もたくさん受けたので,世界遺産東寺百合文書等の東寺文書には,非常にたくさんの将軍以下室町幕府が発給した文書が現存している.
室町幕府の研究がこれだけ進展したのも,東寺が存在するおかげなのである.
また,平安京の南の玄関口に位置する東寺は交通の要衝であるので,戦時にはたびたび将軍の本陣となるなど,軍事的・宗教的にも将軍の厚い信頼を受けていた.
〔略〕
「はむはむの煩悩」,2008年3月27日 (木)
青文字:加筆改修部分