cc
「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ サイト・マップへ
◆◆◆南北朝以降 A japán császári udvar különválása
<◆◆戦史
<◆室町時代
<戦史FAQ目次
南北朝の対立
(うそ)
(朝目新聞より引用)
『南北朝期公武関係史の研究(増補改訂版)』(森茂暁著,思文閣出版,2008/09)
『南北朝内乱と東国 動乱の東国史4』(櫻井彦著,吉川弘文館,2012/11/20)
『室町期公武関係と南北朝内乱』(松永和浩著,吉川弘文館,2013/1/22)
【質問】
どうすれば南北朝内乱にならずに済んだのか?
【回答】
人が歴史を動かすのか,歴史が人を動かすのかというのは,歴史学上の大問題であり,おれは基本的に後者の考え方である.
「どうすれば○○みたいな事態にならずに済んだのか?」
という議論は,特に太平洋戦争などでよく行われる議論であるが,やってみると意外に将棋で言うところの「必然手順」が多く,選択肢が限られていることに気づく.
どうすれば南北朝内乱にならずに済んだのか?
実は尊氏は後醍醐天皇に刃向かう気など毛頭なかったのであるが,展開上必然的に天皇と戦わざるを得ないハメに陥ってしまった.
天皇方に勝利して幕府を開いた後も,天皇をどうするかがまた大問題である.
まさか殺害するわけにいかないし,島流しにしてもまた鎌倉幕府のときと同様に,諸国の武士を煽って反乱を起こさせ,京都に戻ろうとするであろう.
厳重な警備をして天皇を幽閉したところで,やっぱりたびたび脱出をはかって,遅かれ早かれ実際の史実と同様の展開となっていたであろう.
三種の神器が本物かどうかなんて,尊氏も後醍醐も当時の国民も,本当はそんなことはどうでもよいのである.
直義の処遇も大問題である.
将軍の実弟で,しかも幕府の創設に大功のあった実力者を,まさか政権の中枢から排除できるわけがない.
直義は結局尊氏と敵対して殺し合うことになるわけだが,それはあくまでも結果論であって,当初は尊氏兄弟も含めてそんな未来を予想した人間など1人もいるわけがない.
いるとしたらそいつは人間ではなく,神である.
仮に尊氏がその未来を予想できたとしても,その時点では自分に忠実な人間を排除するのに,周囲の武将たちが誰も納得するわけがない.
そんなことしたら,上様ご乱心ということで,自分が殺されるのがオチであろう.
「たられば」が許されるとすれば,せいぜい,直義を遠く鎌倉に派遣して,そこを分割統治させるくらいであるが,それだってどうせ直義は関東を拠点に勢力を拡大し,永享の乱が数十年早く起こるだけであろう.
むしろ彼を京都に置いて近くで監視していたからこそ,観応の擾乱まで兄弟の決裂は遅れたのかもしれないのである.
とまあこのように,だいたいは歴史が人を動かす例が多いように思うのであるが.
はむはむ in mixi,2008年05月01日18:47
【質問】
どうして南北朝の動乱って,60年も長引いてしまったんですか?
【回答】
詳しく知りたいなら,やはり本を読むべし.
各地の兄・弟や叔父・甥が,土地の相続を主張し,片方が北につくと,もう片方が南につく.
急に逆方についたりする.
多くは主義主張より,土地の安堵を求めて自己利益のために,南朝・北朝を担いだ.
だから,長引いた.
北の天皇が死ぬと,南の天皇が潜在的脅威となり,それを担いで兵を挙げる.
北の天皇に何かあるたび,各地でまた南朝を担いで領土を増やそうという輩が現れる.
だから,長引いた.
意味のない戦いが続いた時代です.
日本史板,2002/11/14
青文字:加筆改修部分
【質問】
南北朝時代,内戦の推移に年号は,どのように左右されたのか?
【回答】
南北朝時代(1336~92)は,吉野(南朝)と京都(北朝)に二人の天皇が同時に並び立った時代である.
この時代には,年号も北朝と南朝で別々に制定されていた.
つまり,常時,2つの年号が同時に存在していた時代なのである.
今日は,この南北朝の年号について,おれの知っていることをつらつらと書いてみたい.
まずは,南朝と北朝の年号をそれぞれ列挙してみよう.
★南朝
建武
延元
興国
正平
建徳
文中
天授
弘和
元中
★北朝
(建武)
暦応
康永
貞和
観応
(正平)
観応
文和
延文
康安
貞治
応安
永和
康暦
永徳
至徳
嘉慶
康応
明徳
まず一見して気づくのは,南朝年号である「建武」と「正平」が,なぜ北朝年号でもあるのかである.
「建武」とは,後醍醐天皇が,元弘4年を改元して制定した年号である.
だから後醍醐天皇の親政を「建武の新政」,この政府を「建武政権」と呼ぶのであるが,実はこの改元には,多くの公家が反対したらしい.
つまり,「武」の字が入っているのは非常に不吉である,これは戦乱を招く年号であるというのが,主たる反対意見だったのである.
そもそも,この建武という年号は,確か後漢の光武帝のときの年号である.
日本の年号というのは,平安時代以降は,漢籍の語句から選ばれるのが普通であり,中国の年号をそのまま採用することは滅多にない.
その意味でも,この改元は,日本の伝統と先例から大きくはずれたものだったのである.
それはともかく,戦乱の予測は現実のものとなり,足利尊氏が建武政権から離反して反乱を起こした.
それで,建武政権は尊氏の反乱を鎮めるために「延元」と改元したのであるが,その効果もなく,結局は北朝と室町幕府の成立を許し,吉野の山奥に逼塞させられることとなった.
南北朝時代の始まりである.
ところが,尊氏は根っからの武人であったので,建武のような勇ましい年号を非常に好んでおり,しばらくそのまま使用し続けることにしたのである.
室町幕府の基本法典も,建武3年に制定されたので,「建武式目」と言うのである.
だから,建武は南朝年号であると同時に,北朝の年号でもあるのである.
ところで,尊氏の弟の直義は,建武のような年号が嫌いだったらしい.
建武を改元するときに,次の年号に,これからは武力に頼らない平和な世の中を作るべきだとして,「文和」を希望したほどである.
直義の人間性が,よく現れているではないか.
文和は,後に北朝年号として実現するが,それはなんと直義が尊氏と不和になって,失脚して死亡した後のことだった.
こういうところにも,なんとなく尊氏という将軍の人間性が垣間見える気もする.
「はむはむの煩悩」,2005.11.23 Wednesday
次は南朝年号である正平が,なぜ北朝年号でもあるのかについて,ご説明したい.
発足当初の室町幕府では,将軍足利尊氏と弟直義が,2人で権限を分割する二頭政治を行っていた.
これは,日本史に興味のある方なら,ご存知の方も多いと思う.
将軍兄弟の二頭政治は,当初は非常に順調に行っていたのであるが,拮抗した権力を持つリーダーが2人もいる組織というのは,古今東西必ず派閥が形成されて権力抗争が発生し,分裂するものである.
おまけに彼らの場合は,将軍の後継者の問題も絡んで,配下の守護大名たちが尊氏派・直義派をそれぞれ形成し,彼らをかついでいがみ合うようになった.
こうして初期室町幕府はついに分裂し,尊氏軍と直義軍が全国の武士を二派に分けて戦闘を開始する事態に陥ったのであるが(観応の擾乱),その詳細な経過はあまりに複雑であるので,ここではすべて省略し,とにかく直義が鎌倉入りして,関東の武士団を直義派にする勢いを示したのである.
そのため尊氏は,鎌倉の直義を討つために,自ら大軍を率いて東国に下向することを決意したのであるが,そのときに問題となったのが,南朝のことである.
尊氏が京都を留守にしている間に,南朝軍が京都を襲って占領したら,大変な事態になる.
京都には,一応息子の義詮を留守に置いておくことにしたが,当時彼はまだ20歳そこそこの若年の武将で,とても安心できない.
そこで尊氏が採った苦肉の策が,幕府の南朝への全面降伏なのである.
とにかく,直義を倒すためにはなりふりかまっていられない.
尊氏は,南朝方に転じたのである.
そして当然,北朝年号である観応の使用も停止することとなった.
ここにおいて観応2年は,正平6年となり,一時的に南北両朝の統一が達成された.
これを,「正平の一統」と言う.
こうして尊氏は,南朝から錦の御旗を得て,関東に下って直義を打倒するのであるが,正平の一統は長く続かなかった.
年が明けて正平7年の閏2月,突如南朝が和議の条件を一方的に破って,京都に攻め込み,留守を預かっていた義詮を蹴散らして,占領してしまったのである.
しかもこのとき南朝方は,北朝の光厳・光明両上皇および崇光天皇と,皇太子直仁親王を拉致して,当時南朝の本拠地であった大和国の賀名生に連れ去ってしまったのである.
おまけに,天皇に即位するときに必要な三種の神器までも没収して持って行ってしまった.
ここに北朝は,いったん完全に滅亡してしまう事態となるのである.
室町幕府の正統性を保障していた北朝の完全消滅という異常事態をどう解決したのかについては,もはや年号の話題から離れてしまうので,その気になったときにご紹介したいが,ともかく,南朝方の違約によって正平の一統は崩壊し,幕府方はふたたび観応年号に戻したのである.
ちなみに,義詮が京都を脱出し,近江で戦死しかけたちょうどその日に,尊氏も関東で南朝軍に攻められ,討ち死に寸前の敗戦に追い込まれていたのであるが,とにかく正平の一統は,たったの3ヶ月で終わったのである.
しかしながら,おれが年号の話を始めたのは,建武と正平について説明するためではない.
もう一度,南朝と北朝の年号を見比べていただきたい.
朝廷の正統性といった政治的イデオロギーを抜きにして,みなさんなら,ぶっちゃけどちらの年号を使いたいであろうか?
おれは,断然北朝の年号である.
特に応安以降の年号は秀作ぞろいである.
正直,南朝の年号って,ださくてかっこ悪くないか?
これは感性の問題であるので,南朝年号を好きな方もいらっしゃるであろうが,好き嫌いはともかくとして,少なくとも南朝と北朝の年号が,まったく異質の存在であることは,多くの方が納得していただけるのではないだろうか?
これはおそらく,南北朝期全般を通じて,北朝=室町幕府の方が軍事的にも政治的にも圧倒的に優勢であったので,北朝の方に年号に関する有能なスタッフがそろっていたことも大きかったであろうし,何よりも日本古来の伝統や慣習を否定し,先例無視の革命的な宋学思想を抱く南朝の政治的イデオロギーが,南朝年号に反映していることが最大の原因なのではないかと考える.
伝統的な,「和」を重んじる北朝の年号が,やわらかでおだやかなものが多いのに対し,南朝年号はどことなくぎすぎすしていて,物騒なのが多くないか?
中国の年号をまんま移入した「建武」にしてからがそうである
(もっとも,建武は南朝で最も優れた年号だとおれは思う).
年号にも,時の政権の理念が反映し,その政府の政権担当能力にそのまま比例することが多い.これが今日のおれの結論である.
にしても,室町幕府ほど年号に悩まされた政権はないのではないかと思われる.
【質問】
観応の擾乱の原因は何ですか?
【回答】
初期の室町幕府は,得宗専制化する前の泰時期の鎌倉幕府を理想としていた.
だから象徴的なトップ=将軍(尊氏)と,実際の政務担当者=執権(直義)が別々に存在して,相互補完の関係になるような政治体制を指向していた.
しかし足利将軍家には,それとは別に,尊氏が将軍になる以前からの家の私的な執事として高師直がいた.
そして最終的に直義と師直が政治的にぶつかってしまったのが,観応の擾乱.
日本史板
青文字:加筆改修部分
【質問】
『正平の一統』とは?
【回答】
足利尊氏が直義を倒すため,事実上北朝を否定して南朝と結んだ和議.
しかし短期間で南朝はこれを違約し,その結果,北朝は更なる混迷に陥ることに.
***
貞和4(1348)年以降の北朝の体制は,光厳上皇の院政の下,光厳の子崇光が天皇に在位し,光厳の従兄弟直仁親王が光厳の養子となり,皇太子を務める体制であった.
前回も述べたとおり,このまま順調に行けば,いずれ直仁が天皇に即位して,皇位を継承するはずであった.
しかし観応元(1350)年に起こった,室町幕府の将軍足利尊氏と弟直義の幕府を,そして天下を二分した内乱である観応の擾乱が発生したことによって,北朝の運命も大きく変わることになったのである.
観応の擾乱の過程は非常に複雑なので,詳論は割愛するが,観応2(1351)年11月,尊氏は直義を倒すために南朝に降伏する.
ここに尊氏は南朝方となり,事実上北朝を否定し,年号も南朝年号である『正平』を使用することとなった.
そして尊氏は,当時関東にいた直義を討つために,京都を留守にするのであるが,この尊氏の降伏を歴史学上『正平の一統』と呼ぶ.
正平の一統は,尊氏が直義に勝つための苦肉の策であったが,これが残した副産物はあまりに深刻であった.
和議では京都は幕府が守備することとなっていたが,南朝はこの条件を破って,尊氏不在の京都に突然侵攻,尊氏の子・義詮を追い払い,光厳上皇・光明上皇・崇光天皇と皇太子直仁親王を捕らえ,北朝の三種の神器まで接収して,南朝の本拠地に連行してしまったのである.
この南朝の違約によって正平の一統は破綻し,尊氏党はたった4ヶ月弱にしてふたたび『観応』年号を使用する.
京都は程なく幕府軍が反撃して回復する.
しかし,北朝が消滅してしまったという大問題が残されてしまった.
幕府というのは,朝廷によって正当性を保障されているものであるから,北朝のない室町幕府など,ただの逆賊で暴力集団に転落してしまうのである.
そこで幕府は急遽,新しい天皇を擁立することとなり,当時出家する予定であった崇光の弟・弥仁親王を即位させるのである.
しかし,この即位は北朝の家長であった光厳の承認のない即位であった.
当然である.彼は南朝に拉致されて不在だったのであるから.
何より,この即位は,新帝に必ず譲渡されることになっている三種の神器のない,きわめて異例の即位であった.
これもまた,南朝に没収されていたからである.
そこでやむを得ず,はるか古代の,群臣に擁立されて即位したとされる継体天皇に先例を求めて即位せざるを得なかったそうである.
こうして即位したのが後光厳天皇であるが,このような逼塞した状況下で即位した事情があったために,後光厳朝の正当性ははなはだ希薄であった.
直義派の武将が相次いで南朝方に転じたために弱体化した幕府の軍事力も影響して,この時期,幕府は何度も敗北し,たびたび京都を没落する.
後世出てきた南朝正統論も,どうやらこの時期の北朝の正当性の弱さに原因があるようである.
しかし,何も悪いことばかりではなかった.
観応の擾乱以降の室町幕府は,北朝の弱体化した権威に頼ることができなくなった分,幕府内部の改革を次々と断行して,強力な実力を保有する政権に生まれ変わる.
それまでは基本的に鎌倉幕府の猿真似に過ぎない政権であったのだが,擾乱を契機として,ようやく室町幕府らしい特色を持った政権へと変貌を遂げるのである.
【質問】
護良親王と赤松氏と北畠氏との関係について教えられたし.
【回答】
後醍醐天皇の皇子である護良親王と,室町幕府の播磨守護を務め,侍所長官もときおり務める「四職」の家の1つとなった赤松氏と,南朝の重臣で,後に伊勢国司となった北畠氏には,特別なつながりがあったらしい.
護良親王は当初僧侶で,比叡山のトップである天台座主を務めていたのだが,お坊さんらしいことはまったくせず,ひたすら武芸の鍛錬に励んでいたらしい.
そのとき護良の稽古の相手を務めていたのが,ほかならぬ赤松則祐たち赤松一族であった.
護良は,父後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕運動に参加し,自ら一軍を率いて幕府軍と戦うが,赤松則祐たちは,もちろん護良に従い,彼を助けて奮戦し,やがて護良の令旨を持って本拠地播磨へ下って,護良の権威で国中の兵を集めて幕府軍と戦ったのである.
護良はやがて,建武新政下で足利尊氏との抗争に敗れ,失脚・暗殺される.このとき,護良派であった赤松円心も,倒幕の恩賞として与えられていた播磨守護職を没収され,故郷の播磨国佐用荘に帰っていった.
赤松氏は,やがて足利尊氏に通じて,室町幕府の有力武将となるが,その後も同氏と護良親王家,そして南朝とのつながりは続いたらしい.
前回も述べたように,観応の擾乱期には,赤松則祐は播磨で護良親王の子「赤松宮」陸良親王を擁立し,一時南朝方に寝返ったりしている.
則祐の弟・赤松氏範は,北朝と南朝の間を何度も行き来して,最後は応安2(1369)年,摂津国中島で南朝方として挙兵し,赤松則祐・光範に討たれて戦死している.
護良親王と北畠氏も,特別な関係があった.
護良の母は,北畠親子と言って,北畠氏の系統の出身であったそうだし,妻も北畠親房の娘であるという.
護良の子興良親王の母も,親房の妹とする説もある.
護良と北畠は,姻戚関係で結ばれた仲であった.
それだけではなく,北畠親房・顕家父子が全精力を傾けて設立・経営した陸奥将軍府も,護良と北畠が後醍醐に主張してできたという説があるし,後に常陸国で反幕活動を行った親房がかついだのも興良親王であった.
北畠親房の政治思想が,後醍醐天皇のそれと実はだいぶ違っていた事実はよく知られるが,親房の政治的位置は,護良に近かったのかもしれない.
赤松氏と北畠氏も,密接な関係を有していた.
室町時代,伊勢の北畠氏が,室町幕府に何か申し入れたいことがあるとき,北畠の意向を受けて将軍に取り次ぐ「申次」を担当していたのが,赤松氏であった.
赤松も北畠も同じ村上源氏であるから,そういう関係になったと説明されるが,それだけではなく,南北朝期以来の両氏の関係の方が大きかったのではないだろうか?
赤松氏と北畠氏は,護良親王を介してつながっており,この三者はトライアングルのような関係だったようなのである.
後に赤松満祐が将軍義教を暗殺して起こした嘉吉の乱により,赤松氏は一度滅亡する.
それが再興を許されたのは,赤松の遺臣が後南朝に奪われた三種の神器の1つである神璽を取り返し,南朝の皇族の子孫を殺害した功績によるものであるが,こういうことが可能であったのも,赤松氏が,南朝との間に特別なパイプを持ち続けて,後南朝の情報を入手しやすかったからなのではないだろうか?
南北朝時代は,なかなかどうして奥が深い.
【質問】
南朝の内紛の歴史について教えられたし.
【回答】
室町幕府に詳しい方やこのブログをよく読まれている方なら,室町幕府というのは何と内輪もめの多い政権であることかと感じておられるであろう.
確かにそれは厳然たる事実なのであるが,ではかと言って,室町幕府と敵対して戦った南朝が全員一致団結して鉄の結束を誇っていたかと言えば,全然そうではない.
史料的にあまりめぐまれず,目立たないというだけで,よく見れば,南朝だって分裂と内紛の歴史なのである.
そこで今回から数回に分けて,南朝の前身である建武政権から南北朝合一まで,この政権に起こった内部分裂について簡単に紹介してみたい.
建武政権は,発足直後からいきなり分裂した.
それは後醍醐天皇と,ほかならぬ後醍醐の皇子である護良親王との確執である.
護良親王は,もともと比叡山延暦寺のトップである天台座主の地位にあった僧侶であるが,後醍醐天皇が鎌倉幕府の倒幕運動を始めると,彼もそれに参加し,各地に令旨を発給して勤王の軍を募ると同時に,自らも一軍を率いて熊野や吉野の山奥でゲリラ戦を続けた.
やがて還俗して護良と名乗ったが,鎌倉幕府が滅亡した後も,奈良の北西に所在する信貴山に籠城して軍事体制を継続していた.
これは,直前になって幕府を裏切り,六波羅探題を滅ぼした足利高氏を警戒して,彼を牽制するためであった.
後醍醐天皇は,勅使を信貴山に派遣して,ただちに京都に戻ってふたたび出家することを命じた.
この時点で天皇が,息子の突出した行動を歓迎していないことがあきらかであるが,護良はこれを無視して,遂に高氏討伐の兵を起こそうとした.
やむを得ず天皇は,護良を征夷大将軍に任命して慰留したため,護良はようやく入京したのである.
帰京後の護良は,兵部卿となって影響力を行使したが,足利尊氏(高氏から改名)以下の足利勢力との確執は日に日に増していった.
護良は,尊氏が幕府を再興して天下を奪おうとする野心があると見て,隙あらば彼を倒そうとしていたのである.
建武政権は,発足直後から,いきなり護良親王派と足利尊氏派に水面下で分裂して,内紛を抱えたのである.
護良の父である後醍醐天皇は,結局護良を捨て,尊氏を選んだ.
その理由として第一に挙げられるのは,護良の出自である.
護良の母は北畠親子であるが,後醍醐は阿野廉子を寵愛し,彼女の生んだ皇子に後を継がせようとしていた.
第二に,後醍醐の政権構想と護良のそれが食い違っていたことである.
後醍醐は,天皇中心の親政を実現しようとしていたが,護良は征夷大将軍として強力な武士団を組織しようとしていた.
つまり,護良の方が幕府的な政策志向を有していたのである.
このため,護良は建武政権の中枢からはずされ,疎外されて日に日にその勢力は衰えていった.
護良はテロで尊氏を暗殺しようとしたが,その気配を察知した尊氏が護衛を強化したため,それも失敗に終わった.
遂に建武1(1334)年10月22日,護良親王は朝廷に参内したところを,謀反人として結城親光・名和長年に逮捕された.
護良は,逮捕されたとき,「尊氏よりも父の天皇が恨めしい」と漏らしたという.
尊氏と護良の対立は,本質的には後醍醐天皇と護良の対立だったのである.
護良は,身柄を足利氏に引き渡され,鎌倉に流されて尊氏の弟直義の監視下に置かれる.
そして,後に起こった中先代の乱の混乱に紛れて,直義によって暗殺されるのである.
建武政権の内紛は,これで終わったわけではなかった.
護良親王の失脚・追放劇があったものの,建武1(1334)年は,建武政権にとっては何とか平穏無事に終わった.
しかし,翌建武2(1335)年に入ると,全国各地で旧北条氏の残党による反乱が相次いだ.
同年6月には,遂に後醍醐天皇のお膝元である,ほかならぬ京都で,しかも天皇に仕える有力貴族が政権転覆の陰謀を企てている事実が発覚した.
権大納言西園寺公宗によるクーデタ計画である.
西園寺公宗は,橋本俊季・日野氏光たちの廷臣と共謀して,持明院統の後伏見法皇を担ぎ出して後醍醐天皇を倒そうとした.
鎌倉幕府最後の得宗北条高時の弟泰家が京都に潜入して公宗にかくわまれて時興と改名し,信濃国に潜伏する高時の遺児と呼応して同時に挙兵する計画であった.
西園寺家は,鎌倉時代には一貫して親幕府派の公卿であった.
承久の乱に際しても,親鎌倉の姿勢は崩さず,先祖西園寺公経が,後鳥羽上皇の倒幕計画をいち早く鎌倉に通報した.
そのため,乱後も北条氏の篤い信頼を得て,京都と鎌倉の連絡・交渉を担当する「関東申次」という要職を代々務め,朝廷に歴然たる影響力を行使し,一時は摂関家をもしのぐ権勢を誇ったのである.
そのような家の公家が,後醍醐天皇の親政を快く思わず,鎌倉幕府の再興を目指したとしてもまったく不思議ではない.
計画発覚後,後醍醐は,ただちに後伏見法皇を持明院殿から京極殿に移し,公宗たちを逮捕して流罪にする決定を下した.
公宗は後に同年8月,処刑された.
この陰謀計画を天皇に密告したのは,公宗の弟公重であった.
西園寺公重は,失脚した兄に代わって西園寺家の家督を相続し,密告の恩賞として,さきに後醍醐が同家から取り上げた知行国伊予を返還してもらった.
こうして京都の陰謀は未遂に終わったが,信濃の計画は決行され,北条高時の遺児時行が挙兵した.
中先代の乱である.
この後の展開については,このブログでは何度も紹介したところであるが,北条時行軍は鎌倉を守る足利直義を撃破した.
しかし,直義の兄尊氏が,京都から大軍を率いて救援に来たため,時行軍は敗北して撤退.
ところが,今度はこの足利尊氏が建武政権を離反して挙兵.鎌倉から京都~九州と,日本列島を横断して各地を転戦し,最終的に勝利を収めて室町幕府の樹立へとつながるのである.
尊氏の挙兵と行軍も,見方を変えれば建武政権の内紛のひとつであった.
しかも,それらの内紛の中でも最大級の反乱で,新政を崩壊に導いたのである.
建武政権に反旗を翻し,鎌倉で挙兵した足利尊氏は,鎌倉~京都~九州,そしてまた京都と全国各地を転戦し,遂に後醍醐天皇を比叡山に籠城させて追い詰めた.
そして,北陸の補給路を越前守護斯波高経,琵琶湖の水運を近江守護佐々木導誉と信濃守護小笠原貞宗に封鎖させて後醍醐軍を兵糧攻めにすることおよそ100日あまり,天皇軍が疲弊した頃を見計らって,尊氏は講和の使者を比叡山に送った.
尊氏が講和を申し入れたとき,困窮し,疲弊狼狽していた後醍醐は,いともあっさりとこの講話を受け入れ,下山しようとした.
ところが,後醍醐がこの講和を,誰にも相談せずに独断で決定したこともあって,今まで天皇に従ってきた武士たちが猛反発したのである.
特に尊氏軍と全国各地で激しい合戦を繰り広げてきた新田義貞の反発は激しかった.
義貞の部将堀口貞満は,後醍醐に直接猛抗議した.
激怒する彼らをなだめるため,建武3(1336)年10月,後醍醐は,皇太子恒良親王に天皇位を譲り,義貞を恒良につけることで,ようやく新田軍を納得させた.
後醍醐は三種の神器を恒良に与え,あわただしく譲位の儀式を執り行った.
新田義貞は,新帝恒良を奉じて,越前国へ没落していった.
その後,後醍醐も比叡山を下山し,翌11月,持明院統の光明天皇に三種の神器を譲り渡して,北朝から上皇の称号を贈られた.
しかし,翌12月,後醍醐天皇は吉野へ脱走し,光明天皇に渡した神器は偽物であり,今自分が持っているものこそ三種の神器であると主張し,延元の年号を復活し,全国の武士に挙兵を呼びかけた.
南朝政権の発足であり,ここに約60年におよぶ南北朝の争乱が始まったのである.
だがしかし,光明天皇に渡した神器が後醍醐の主張するように偽物だとしても,先に彼が恒良親王に渡した神器はどうなのであろうか?
この時期,三種の神器は,後醍醐,光明,そして恒良親王が持つものと,少なくとも3種類存在したことになる.
どれが本物なのであろうか?
そして少なくとも,北陸へ没落した恒良は,自分を天皇と認識し,天皇だけが発給できる文書である綸旨を発給し,各地の武士に蜂起を呼びかけている.足利尊氏という共通の強大な敵と戦ったから顕在化しなかったものの,後醍醐と恒良の認識に,重大なすれ違いがあったことは事実である.
新田義貞が担いだ北陸の恒良勢力は,南朝の内紛とまでは行かないかもしれないが,分派活動であったとは言えるであろう.
その後,第三の天皇恒良と新田義貞は,越前国金ヶ崎城に籠城するが,室町幕府方の越前守護斯波高経に攻撃され,遂に建武4(1337)年4月,同城は陥落する.
新田義貞は脱出したが,後醍醐天皇の皇子尊良親王と義貞の嫡子義顕は自殺し,「天皇」恒良は捕えられて京都へ護送され,毒殺される.
こうして第三の北陸王朝は幻となって消えたが,もし南朝が足利を倒す展開となれば,恒良親王は,「話が違う」ということで,ほぼ確実に後醍醐天皇と揉めたに違いない.
後醍醐天皇が吉野に脱出することで始まった南北朝時代であるが,開始早々北朝=室町幕府の圧倒的優勢のもとに戦局は展開した.
延元3(北朝建武5,1338)年5月には北畠顕家が和泉国堺で戦死,同年閏7月には新田義貞が越前国藤島で戦死と,南朝方は有力武将が次々と敗死し,早くも風前の灯となったのである.
翌延元4(北朝暦応2,1339)年8月には,後醍醐天皇まで死去してしまった.
このような情勢下,南朝は根本的に戦略を練り直す必要性にせまられた.
幼少で後醍醐の後を継いだ新帝後村上に代わって,北畠親房が事実上の南朝の総帥として,この後しばらく戦争を指導するのである.
親房は,各地に後醍醐の皇子や武将を派遣して,まずは地方で南朝の勢力基盤を固める戦略を採用した.
結果的に宗良親王が遠江へ,懐良親王が西国へ向かった.
親房自身も,延元3年9月,海から常陸国へ上陸して,関東地方と東北地方南部を南朝の勢力圏に収めようとした.
これに対して室町幕府は,執事高師直の従兄弟で養子の高師冬を関東執事に任命し,関東の幕府軍の大将として派遣してきた.
北畠親房は,不屈の闘志で後醍醐天皇の忠臣であった白河結城宗広の子親朝や,下野の小山朝郷などに多数の書状を送って勧誘に努力した.
現代,白河結城文書などに,親房の書状が多数伝来しており,一級の研究史料となっている.
そのように親房が必死で努力している最中,南朝で分裂騒ぎが起こった.
いわゆる「藤氏一揆」である.
興国2(北朝暦応4,1341)年頃,南朝方の廷臣であった近衛経忠が京都に戻って,近衛家と同じ藤原氏である関東の小山氏や小田氏に呼びかけて藤原同盟を結成しようとして,南朝の分派行動を企てたのである.
経忠自身が天下をとって,小山朝郷を「坂東管領」にする計画であった.
村上源氏である北畠親房から,藤原氏が東国の支配権を奪おうとする南朝内部のクーデタであった.
興国4(北朝康永2,1343)年になると,小山朝郷は,親房がかついでいた護良親王の子興良を迎え入れ,彼をかついで自ら鎮守府将軍になろうとした.
興良は,親房が別の皇子を擁立しようとしたのに憤ってこのような軽率な行動に出たらしいが,これははっきりと親房から独立する動きであって,第三の王朝を設立する目的であった可能性も指摘されている.
小山朝郷は,もともとは足利方であり,親房の必死の説得工作によってようやく南朝寄りにすることに成功した武将なのであるが,その矢先にこのような分派活動に出たのである.
将軍足利尊氏は,小山に興良の引き渡しを要求するなど,揺さぶりをかけて親房を苦しめた.
なお,このほかに,新田義貞の遺児義興をかついで親房を失脚させる陰謀もあったらしい.
この頃,室町幕府においても,執事師直と尊氏の弟直義の対立が激しくなっていた.
それは関東においては,師直派の関東執事高師冬と直義派の関東執事上杉憲顕の対立となって現われた.
憲顕は,師冬の南朝攻撃にはほとんど協力せず,そのため師冬の軍勢は意外に弱小で,親房討伐に時間がかかっていた.
北畠親房も幕府方の内紛についてはよく承知しており,北関東の諸将を説得する際に,それを持ち出して勧誘を呼びかけたりしている.
確かに幕府の内紛もひどかったが,南朝の内紛はそれ以上に激しく,とてもじゃないが相手を非難できる状況ではなかった.
北関東の武士は,藤原氏が多かったので,近衛経忠の企てた藤氏一揆が彼らに与えた動揺は相当のものであったらしい.
こんな状況では北関東と南陸奥に強大な南朝勢力を築きあげるという親房の戦略が成功するはずもない.
南奥の雄・結城親朝も,親房の熱心な勧誘もむなしく,迷いに迷った挙句,結局幕府に帰順した.
関東執事高師冬が,この隙を見逃すはずはなかった.
興国2年,師冬は北畠親房が籠城する小田城に総攻撃をかけた.城将小田治久はこれに耐えきれずに遂に降伏したため,親房は近隣の関城に移って抗戦を続けたが,関城と大宝城も興国4年に落城し,親房は吉野に帰った.
興良親王も,関東を撤退して駿河国へ滞在しており,この後西国での活動も知られている.
北畠親房が畿内に撤退して以降は,南朝の勢力はますます衰えた.
正平3(北朝貞和4,1348)年には,楠木正行が河内国四条畷の戦いで高師直軍に敗北して戦死した.
師直は,この勢いに乗じて吉野を攻め落としたため,後村上天皇は賀名生に退いた.
こうして南朝の力が弱まってくると,南朝内部は室町幕府と徹底抗戦を主張する派閥と,講和の道を模索する派閥の2党派に分裂したらしい.
徹底抗戦派の急先鋒は,ほかならぬ後村上天皇であった.
後村上は,一時は天皇の位を3歳の息子に譲って,自ら一武将として一軍を率いて幕府と雌雄を決しようとしたこともあったらしい.
確かに,思う存分幕府と戦うには,天皇の位についているのはかえって不自由だったであろう.
ほかには,洞院実世という公家が対北朝強硬派であった.
実世はとにかく幕府と断固闘うことを主張していたらしいが,彼の父は洞院公賢という北朝の公家で,太政大臣を務めていた人物である.
公賢の書いた日記『園太暦』は,南北朝時代の政治史を研究する超一級史料である.
当時は,武士だけではなく,公家も親子兄弟で南北朝に分裂していることが多かったのである.
講和派の筆頭は,楠木正儀である.
正儀は,あの楠木正成の子で,四条畷で戦死した正行の弟であった.
父と兄が戦死したため,楠木氏の総帥となったが,常に幕府との和平の道を模索し,和平交渉を担当していたらしい.
ある意味皮肉なことに,武士である楠木氏が,一刻も早くこの無駄な戦争を終わらせ,平和な日本にすることをいちばん願っていたのである.
これら抗戦派と和平派の中間に位置し,両者をまとめて南朝を統一させていたのが,北畠親房である.
親房の政治思想は,実は後醍醐天皇の構想とはかなり食い違っていた.
親房は,決して幕府を否定していない.彼は天皇の権威を侵す強過ぎる幕府は否定したが,幕府の存在自体は,日本をもっとも効率よく統治するシステムとして認識していたらしい.
この親房が,現実的に幕府に対峙する際に,マキャベリズムを発揮してあるときは融和し,あるときは強く戦ったのである.
南北朝内乱は,幕府内部の分裂と南朝の党派対立が複雑に絡み合って,混乱・錯綜した状況を呈していく.
正平5(北朝観応1,1350)年,室町幕府内部で将軍尊氏との抗争に敗れて失脚した直義が,河内国に脱出し,南朝に降伏してきた.
南朝の強硬派である洞院実世は,長年幕府を主導し,さんざん南朝を苦しめてきた直義を許すことは絶対にできないとして,ただちに彼を殺害することを主張したが,中間派で現実主義者の北畠親房は,いったん直義と和睦して,王朝を統一するべきだと主張した.
結局は親房の意見が通って,直義は南朝に帰順した.
強硬派は威勢がいいが,いつの世でもだいたい非現実的で視野がせまく,結局理想を実現できないことが多いようである.
直義は南朝を味方につけたことによって,尊氏に勝利することができた.
この過程も,このブログでは何度も紹介してきたところである.
耐えきれず尊氏は直義といったん講和し,京都に戻ってふたたび直義とともに政治をとる体制となったが,その後も直義と南朝の講和交渉は続いた.
その内容は,無論王朝が2つに分裂している状況を解決し,日本を平和に導いて政治を安定させるには,どのように改革をするべきかという議論である.
具体的には,後醍醐天皇が理想とした天皇親政を復活させるのか,それとも幕府の存在を認めて,幕府が実権を握るべきかという政策論争であった.
直義と南朝のやりとりは,現在も残っていて,格調高い政治の議論として高く評価されることが多いようである.
しかし,幕府の存在を認めない立場を,南朝はどうしても譲ることができなかった.
まあ,天皇親政を実現させるためにわざわざ苦労して鎌倉幕府を滅ぼしたわけだし,室町幕府の存在を認めたら,元に戻ってしまう.
と言うか,鎌倉よりももっと強力な武家政権を結果的に作ってしまったことになるから,ここで妥協できないのも致し方のないところであった.
結局,5ヵ月におよんだ直義と南朝の交渉は決裂した.
南朝側の使者として両者の連絡役を務めた楠木正儀は,この交渉に非常に熱心で,決裂したことをひどく憤った.
正儀の代官は,幕府に,「こうなったら幕府にはすみやかに南朝討伐軍を編成して派遣していただきたい.
正儀は幕府軍の先鋒として一気に吉野を攻め落としてみせます」と述べたという.
幕府との交渉過程を見ても,南朝方に路線対立があって,実はかなり深刻に揉めていたことが窺えるのである.
正平6(北朝観応2,1351)年5月,5ヵ月にわたって行われた足利直義と南朝の講和交渉は決裂した.
これに南朝側の使者を務めていた和平派の楠木正儀が激怒し,幕府側に寝返って吉野を攻め落とすことを申し出たことは,前回紹介したとおりである.
その後,将軍尊氏と直義もふたたび不和となり,同年8月1日,直義は北陸へ没落した.
これもこのブログではよく触れられる史実である.
8月7日,尊氏は使者を南朝に送って講和を申し出た.
直義が南朝と和平交渉を進めている間,尊氏もこっそりと南朝と交渉を行っていたのである.
目的は,もちろん直義を打倒するためであった.
それが進展して,この日ようやく使者を南朝に送る段階まで到達したのである.
しかし,このとき使者に選ばれたのが,かつて後醍醐天皇の寵愛を受けた円観という僧侶であったのがかえって裏目に出て,このときの交渉は失敗に終わった.
南朝は,円観を裏切り者と罵って,ろくに対話もせず彼を京都に追い返してしまったのである.
しかし尊氏は,その後も粘り強く和平交渉を続け,11月2日,遂に南朝の使者を京都に迎えた.
尊氏は南朝の後村上天皇の綸旨を2通拝領した.
1通は和議の提案を認めるという綸旨,もう1通は直義の討伐を命じる綸旨である.
ここに尊氏は南朝方となり,直義を南朝の朝敵として打倒する大義名分を得た.
「正平の一統」である.
ところで,講和の条件はものすごく簡単で,ただ後村上の命令に従って元弘の頃に回帰する,それだけであった.
直義との講和交渉の際に見られたような,幕府の存在意義や北朝をどうするかといった高度な政策議論は微塵も見られなかった.
このあたり,尊氏と直義の性格の違いが窺えて興味深いが,尊氏からすれば直義を倒すまでの間,南朝には余計なことをしてもらわなければただそれでいいだけの講和であり,まじめに和睦するつもりはほとんどなかったであろうから,このようなあいまいな内容で事足りたのである.
南朝は南朝で,これを機会に京都を占領して北朝を廃するつもりだったから,おたがいのマキャベリズムが非常によく出た和睦であった.
ともかく,これで尊氏は東国に出陣し,直義を討つことに成功する.
南朝は翌正平7(1352)年,和議を破って京都に攻め上り,京都を守備していた義詮を撃破して占領し,北朝の光厳・光明・崇光の3上皇と皇太子を廃された直仁親王を拉致して賀名生に連れ去って,北朝の三種の神器も没収した.
建武政権が滅亡して以来,南朝が初めて京都を占領した快挙であった.
これも長く続かず,義詮は京都を奪回して新天皇後光厳を擁立して正平の一統は崩壊し,ふたたび南北朝の対立に戻るわけである.
この辺も何度も説明してきたところであるが,南朝が京都を占領する快挙を成し遂げている最中,本拠地の賀名生で奇怪な事件が起こった.
それは,南朝の重臣で,正平一統のときに南朝側の使者として入京した中院具忠が,天皇の女御と密通した事件である.
女御の父親である北畠親房が激怒して,事件に関与した賀名生の土民数名を処刑して首をさらすと,ほかの土民たちが怒って蜂起したため,後村上天皇は危険を感じて一時賀名生から離れたという.
京都占領直前の楠木正儀軍を呼び戻して,天皇を護衛させようとしたほどである.
この事件については,北朝の重臣である洞院公賢が噂として日記に書きとどめているだけで,真偽のほどはわからない.
しかし,それまで南朝一筋に忠節を尽くしてきた賀名生周辺の土民に,南朝優勢の時期でさえ,結束が崩れて動揺が走っていることは確実だったようである.
正平9(北朝文和3,1354)年4月,北畠親房が死去すると,南朝の求心力はますます低下した.
南朝は,すでに高師直軍の攻撃に耐えきれずに吉野を放棄し,賀名生に撤退していたが,親房の死によって,さらに西方の金剛寺に移らざるを得なくなった.
正平13(北朝延文3,1358)年に将軍足利尊氏が死去すると,南朝は一大危機を迎える.
尊氏は,なんだかんだ言って南朝にはあまい将軍であったのだが,尊氏の後を継いで将軍となった子の義詮は,当初かなりの対南朝強硬派であった.
義詮は,細川清氏を新執事に任命し,室町幕府の大軍を編成させ,これに東国から遠征してきた関東執事畠山国清の大軍と併せて,南朝に一斉攻撃を仕掛けた.
幕府の大攻勢に,南朝方の拠点は次々と落とされた.
このあたりの経緯も,今まで何度も述べてきたところであるが,このように風前の灯となった南朝方で,さらに大事件が起こった.
護良親王の子である陸良親王が,南朝の後村上天皇に対して謀反を起こしたのである.
陸良親王は,かつて関東で小山朝郷にかつがれて南朝の分派活動を行い,北畠親房をひどく心配させた興良親王と同一人物であるとする説もあるが,本ブログでは一応別人と考えておく.
母親は親房の妹であるとの説もあり,北畠氏と深い縁のある宮様であった.
かつて観応の擾乱のころ,幕府方の播磨守護赤松則祐が,この陸良親王をかついだことがある.
将軍尊氏は,これを則祐が南朝方に寝返ったとして,赤松討伐のために播磨に出陣したが,これは佐々木導誉討伐のために近江へ下った義詮とともに,京都の直義を挟撃するための罠であったとされる.
このため直義は北陸へ没落し,結局滅亡したのであるが,赤松の南朝降伏も,あながちうそではなかったのではないかと私は思う.
よく言えば,赤松則祐は,彼なりに南北両朝の合体を目指して南朝の分派活動に助力したと言えるし,悪く言えば,情勢がどっちに転んでもいいように,南朝の皇子をかついで保険をかけていたと言えるだろう.
事実,直義出京後に尊氏と南朝が行った講和「正平の一統」の成立には,則祐が大いに尽力しているらしいのである.
尊氏も,ある程度は了解した上で,赤松が持つ南朝との独自のパイプを,自分が有利になるようにうまく利用したと言えると思う.
ともかく,こうした経歴を持つので,陸良親王は「赤松宮」と呼ばれていた.
この赤松宮が,幕府軍の大攻勢に乗じて後村上天皇を打倒し,自ら吉野を支配しようとたくらんだのである.
『太平記』によれば,赤松宮陸良親王をそそのかして謀反を煽ったのは,ほかならぬ将軍義詮であったらしい.
赤松宮は,南朝方となっていた則祐の弟赤松氏範を従えて,総勢200騎で挙兵し,賀名生を占領して焼き払った.
驚いた南朝は,二条師基を総大将として大和の軍勢1千騎を差し向けて反撃したため,赤松氏範は陸良を奈良へ没落させて,自らは降伏して故郷の播磨へ帰ったという.
この事件は,南朝方を分裂させて,さらに戦局を有利に運ぼうとした室町幕府の工作だったのだろうが,南朝方内部の対立もまた深刻であったことを窺わせる.
どうも,興良親王の関東第三王朝樹立未遂と言い,赤松宮の謀反と言い,護良親王の系統は,南朝方でも後村上たち主流派とは距離を置いた存在だったようである.
このときの室町幕府の南朝攻めは,これも何度も紹介したように,武将仁木義長と他の武将の対立が深刻化したことによって,結局失敗した.
それどころか,南朝は反転大攻勢し,一時京都を占領したほどであるが,これも長くは続かなかった.
これ以降も南朝の衰退は進行したのである.
▼ 南朝に対する強硬路線が失敗した義詮政権は,一転して融和政策に転じた.
タカ派の執事細川清氏が失脚したのに代えて,旧直義党で比較的温和な斯波一族を新たに登用し,ハト派的政策を推進した.
鎌倉府もこうした動向の影響を受けて,関東執事畠山国清が失脚して,同じく旧直義党の上杉氏が進出したことは,以前紹介したとおりである.
この甲斐あって,山名氏・大内氏といった,旧直義党で南朝方だった有力武将が次々と室町幕府に帰参し,幕府の基盤はますます強固となった.
もっとも,ハト派政策はすべてうまくいったわけではなく,九州では斯波氏の軟弱な姿勢もあって,征西将軍宮懐良親王の勢力が猛威をふるったので,なかなか難しいところであった.
幕府の融和路線は,義詮が死去して将軍が義満に代わり,細川頼之が管領となって幼少の義満に代わって将軍権力を代行した初期にも継続された.
その最大の成果が,長年南朝に尽くしてきた楠木正儀を幕府方に寝返らせることに成功したことである.
楠木正儀は南朝内部において,一貫して和平推進派であった.
その5でも紹介したが,かつて観応の頃,直義が行った和平交渉においても南朝側の窓口となり,交渉が決裂したときは非常に憤って,幕府軍の先鋒として吉野を攻め落とすことを申し出たほどである.
義詮時代も,幕府の融和路線に沿って,何度か幕府との和平交渉の窓口に立ったらしい.
このとき,幕府側の窓口を務めたのが佐々木導誉であり,『太平記』に描かれている正儀と導誉の敵味方を超えた熱い交流は,こうした史実が元になっているのではないかということは,以前も述べたことがある.
それはともかく,正儀は,とにかく南朝でももっとも積極的な講和派であったので,対幕府強硬派と相当深刻に対立していたらしい.
正平23(北朝応安1,1368)年,南朝では後村上天皇が死去して長慶天皇が即位したが,長慶は父以上の対幕府強硬路線派であった.
こうして徹底抗戦派が主流となっていくにつれて,正儀の南朝内部での立場も弱くなり,そこに幕府管領細川頼之の積極的な勧誘があって,幕府方に転じたものらしい.
戦前の皇国史観では,楠木正儀の「変節」は,非常に頭が痛い種であったらしい.
南朝一筋に忠節を尽くし,鮮烈に殉死した父や兄と比べて,正儀は大変な不届き者であるというのである.
しかし,こうした見方が誤っていることは,これまで紹介してきた南朝の内紛を見るだけでも一目瞭然であろう.
そもそも,南朝=絶対正義,幕府=絶対悪とする皇国史観の図式がおかしいのである.
南朝の有力武将,と言うより,当時ほとんど南朝を1人で軍事的に支えていた正儀が幕府に帰参したことによって,幕府と南朝のパワーバランスは大いに幕府に傾いた.
頼之は,正儀に河内・和泉の守護職を与え(と言うより,正儀が南朝時代に実効支配していた権益をそのまま承認),淡路守護細川氏春・摂津守護赤松光範などの援軍をつけて,正儀に当時長慶天皇が住んでいた天野の行宮を攻撃させた.
長慶はこれに耐えきれず,天野を放棄して吉野に戻った.
いよいよ南北朝内乱も終わりを迎えるときがちかづいてきたが,続きはまた次回に・・・.
▲
▼ 室町幕府では,その後康暦の政変と呼ばれるクーデタが起こって,管領細川頼之が失脚して,斯波義将が新たに管領に就任した.
その影響で,楠木正儀の幕府内における立場も危なくなって,結局正儀はふたたび南朝方に転じた.
しかし,それでも南朝は,その勢力を挽回することができなかった.
楠木軍は,幕府の大軍の前に大敗を喫し,再起不能に陥ったのである.
こうした状況の中,弘和3(北朝永徳3,1383)年ころ,南朝では長慶天皇が退位し,弟の後亀山天皇が即位した.
余談ながら,戦前の歴史学界においては,この長慶天皇は,即位したか否かさえもよくわからず,その問題について延々と議論が繰り広げられた天皇であった.
大正15(1926)年に至って,ようやく在位の事実が正式に認定されて,皇統に加えられた.
在位期間も不明で,先学が苦労してつきとめている.
南朝は,この時期になるともうほとんど史料がなく,日本全体の政治・社会において,本当にどうでもいい存在となっていたのである.
それはともかく,長慶と後亀山の兄弟は,南朝の路線をめぐって,深刻に対立していたらしい.
徹底抗戦派の兄長慶に対して,弟後亀山は,和平推進派であった.
長慶が病気など大した故障もないのに,この時期に弟に譲位せざるを得なくなったのは,楠木正儀の惨敗や九州の懐良親王勢力の衰退,北畠顕能の死などによって,南朝の勢力がますます衰退し,そのため内部の講和派の台頭したためであったと推定されている.
ともかく,後亀山天皇は北朝との和平を推進し,遂に元中9(北朝明徳3,1392)年,南北朝は合体し,60年にわたった長い内戦は終結した.
後亀山は京都に移ったが,長慶はこれに同行せず,最後は紀伊で亡くなったらしい.
兄弟の不和は,ずっと続いていたようである.
以上9回にわたって南朝の内紛を見てきたが,結局南朝も聖人君子の集まりなどではなく,幕府や現代の我々とあまり変わらない,
内輪もめもすれば愚かなミスも犯す,普通の人間の集団だったのである.
しかしそれでも,私は南北朝という時代が大好きであるし,そしてこの日本という国を人並みに愛しているつもりである.
過剰に美化して絶対視することも,反対に何から何まで全否定して自虐に陥ることも,どちらも実は同じ穴のムジナであると考える.
ありのままの現実を見て,それを素直に受け入れること,それが本当に健全に国を愛することであると感じる今日この頃であると最後に述べて,このシリーズを終えたい.
▲
【質問】
南朝がここまで内輪もめしていたのに,足利方に潰されなかったのは何故ですか?
【回答】
まあ,幕府は幕府でひどい内輪もめ続きですから.
幕府の内紛で劣勢な方が,南朝の天皇を担ぎあげて反旗を翻す構図が続くわけです.
ある意味,結果的には幕府の都合で南朝は生かされていた側面もあります.
かつて皇国史観は,室町幕府の内紛ばかりことさらに取り上げ,幕府を過度に誹謗中傷したのに,南朝の内紛にはいっさい触れずに楠木正成や北畠顕家を異常なほど賛美した.
この見方は,やはり非常に公平を欠いて問題だったと思います.
「はむはむの煩悩」,2009年2月26日 (木) 10:54
【質問】
細川涼一さんは,律宗に深く帰依していた楠木正儀は,律宗の平和思想を身につけており,平和主義者としての立場から和平の実現を図った,と主張していますが?
【回答】
その見解は疑問ですね.
楠木正儀は,一方では単なる平和主義者ではなく,勇敢に幕府軍と戦って,何度も京都を攻め落としていますからね.
彼の和平路線は,冷徹なリアリストとしての状況判断から生み出されたものだと思います.
「はむはむの煩悩」,2009年3月14日 (土) 01:16
【質問】
南北朝の内,内部分裂していたのは大覚寺統だけなのか?
【回答】
持明院統も分裂していた.
そのため,状況が錯綜することになった.
***
世代を経ることによるさらなる皇統の分裂は,大覚寺統だけの問題ではなかった.
持明院統(北朝)においても皇統が分裂し,これが南北朝内乱と複雑にからみ合って,錯綜した状況を呈することになるのである.
持明院統では,89代後深草の後,彼の子息92代伏見,伏見の子息93代後伏見,後伏見の弟95代花園と皇位を継承してきた.
花園の次に,大覚寺統から96代後醍醐が即位したが,この後醍醐が鎌倉幕府の討幕をはかり,自分の子孫が皇位を独占することを狙ったことは,前回も述べたとおりである.
2度目の討幕の陰謀が発覚した後(元弘の変),幕府によって後醍醐は廃位され,隠岐島に流され,その後は持明院統から後伏見の子息・北朝初代光厳天皇が幕府によって擁立された.
しかし,この後各地で幕府に反対する武士が次々と挙兵し,足利尊氏・新田義貞が最終的に宮方に転じることによって鎌倉幕府が滅亡すると,隠岐から戻った後醍醐天皇は光厳を廃し,ふたたび即位して建武政権を樹立し,天皇親政を開始する.
※後醍醐は,自分が鎌倉幕府によって一度退位させられた事実を否定し,ずっと皇位についていたことを主張していたので,彼の主観では「ふたたび即位(重祚)」ではない.
だが,この建武の新政はわずか2年間しか続かず,尊氏の挙兵および室町幕府の樹立によって,後醍醐は吉野に逃げ,日本に天皇が2人いる異常事態となり,南北朝の内乱が始まるのである.
尊氏が擁立した北朝では,光厳の弟・光明天皇が即位する.
だが,実質的な権限は,兄の光厳上皇が握っており,北朝政府は彼によって運営された.
このように,退位した天皇が実質的な権限を有して政治を行う形態を「院政」と呼び,平安後期以降の中世日本では割と恒常的に見られた政治形態である.
平安時代の白河・鳥羽・後白河の院政は有名だから,ご存知の方も多いだろう.
北朝では以降,この光厳院政の下,光明の後,光厳の子息・崇光が即位する.
ところが,ここで光厳は実に奇妙なことをするのである.
彼は子息崇光の皇太子,つまり崇光の次に天皇として予定される親王に,花園の子息,つまり光厳にとっては叔父の息子にあたる直仁親王を指名するのである.
光厳の子孫が断絶,もしくは断絶の可能性がきわめて高い状況であれば,この措置は理解できる.
しかし当時,崇光の弟・弥仁も健在であったのに,彼はなぜか従兄弟・直仁親王を後継者に任命するのである.
光厳がなぜこうしたのかはよくわからない.
一説には光厳は,実は後伏見ではなく花園の子どもだったとか,いや,直仁が実は光厳の不義の子であったとか言われているようであるが,真偽は定かではない.
推測すれば,持明院統,すなわち北朝内部で,鎌倉後期以来の両統迭立の原則を踏襲したのであろうか?
いずれにせよ,このまま順調に北朝を支える室町幕府の覇権が確立していれば,直仁は確実に天皇に即位するはずであった.
しかし,突然起こった非常事態によって,北朝は運命の女神に翻弄され続けることとなる.
それはまた今度紹介しよう.
前回の続き.
足利直冬というのは,尊氏の庶子である.
だが,どうしたわけか父には本当に嫌われて,冷遇された.
正妻の子ではなかったからだとも言われるが,当時,側室の子であっても,認知されれば普通に我が子として扱われたし,後を継ぐことも可能であった.
だいたい,尊氏だって側室の子である.嫡子が夭折したので,足利家を相続することができたのである.
つーかそもそも,家系を絶やさないために存在しているのが側室制度ではないか?
とにかく,尊氏の直冬の嫌い方は尋常ではなかった.
敵に対しても寛容だと評される尊氏が,自分の子どもに対して異常な憎悪を示す.
私は,個人が歴史の流れを左右するとはあまり考えない方なのであるが,これは個人的な怨恨が歴史の流れを左右した一例なのかもしれない.
幼少の頃から寺に預けられて完全に放置されていたのを見かねた直義が,この子どもを自分の養子とし,元服させて自分の名前から一字与えて,「直冬」と改名させた.
なので,直冬は尊氏の子でありながら,一貫して反尊氏・親直義派として戦うことになるのである.
直冬は直義の提案で,長門探題に就任し,備後国鞆に赴任する.
しかし,その後京都で尊氏の執事高師直と直義の対立が顕在化し,結局直義が失脚してしまう.
直義によって生存を保障されていた直冬の立場も自然危ういものとなり,討伐軍を差し向けられて,九州に没落する.
ここに直冬と九州の関係が発生することとなった.
肥後国河尻に上陸した直冬は,九州地方の中小の国人たちを味方につけ,勢力を拡大し始める.
尊氏にとっては単なる憎悪の対象であっても,九州の武士たちにとっては将軍の血を引く貴種である.喜んで味方になったのも当然であろう.
これを見た尊氏は,自ら九州に出陣して直冬を討つことを決意する.
ここで少弐頼尚が,直冬に味方する.
九州探題一色範氏との潜在的な対立が,直冬の下向と中央の政治情勢の変化によって,ついに顕在化したのである.
この時期,畠山直顕が日向守護となっており,彼も直義派であった.
ここに一色範氏は窮地に立たされた.
これを救うべく,尊氏は出陣し山陽道を西に進んでいたのであるが,畿内で失脚していた直義が挙兵し,京都に進撃したので,尊氏は仕方なく引き返し,直義軍と戦闘を繰り返すが,敗北を重ねる.
そこでやむを得ず降伏し,腹心の師直兄弟は殺害され,一時的に直義が圧倒的優位に立つ.
この中央の動向と連動して,九州における直冬の勢力も強大となる.
関東や東北もそうであるが,このように中央の優劣によって,地方の戦乱の形勢も変わるのである.
一時的に優位に立った直義であるが,やがて尊氏は勢力を回復し,直義を京都から追い出して関東に追いやる.
そして,直義を倒すために一時的に南朝に降伏し,南朝方となり,東海道を下って直義軍を撃破し,直義を死に至らせる.
またしてもこの動きと連動して,一色氏は南朝方と合体し,直冬・少弐氏と戦う.
申し遅れたが,この頃南朝方は,征西将軍宮懐良親王がトップに君臨し,それを肥後の菊池氏たちが支えるという体制であった.
なお,この頃には一色氏も筑前・肥前・肥後・日向の守護となっている.
強力な権限を与えなければ直冬方に対抗できないと見た幕府の判断であろう.
こうして一色氏は直冬を追いつめ,これに耐えかねた直冬はついに九州を脱出する.
後に直冬は,中国地方の南朝方を糾合し,京都に侵入して尊氏と最後の死闘を演じることとなるのである.
奉じていた直冬がいなくなった少弐頼尚は,なおも一色と戦い続ける.
今度は少弐が南朝方の菊池と連合し,一色に反撃したので,一色氏もついに九州を退去する.
続きはまた今度.
【質問】
これは一色氏は自前の根拠地を持たされなかったということになるんでしょうか・・・(^^;
【回答】
ええと,私も今手元に参考文献がありませんもので,うろ覚えで書きますが,九州探題は,確か基本的に軍事指揮権と,わずかに与えられた些少な料所の処分権しかなかったはずです.
で,配下の武士にそのわずかな料所を給付するわけですが,それすら押領として京都の幕府に訴えられ,直義から敗訴の決定をくだされたかわいそうな判決が残っているほどです.
確か,護衛の兵士もろくにいないと嘆いていたはずです.
誇張の可能性を差し引いても,窮乏していたのは事実であるようです.
一色範氏,かわいそす・・・orz
ですので,この状況で約20年も九州にとどまることのできた一色氏は,実は相当有能だったのではないかと私は考えています.
「はむはむの煩悩」,2007年4月26日 (木) 02:22~28日 (土) 00:31
【質問】
南朝が「正統」扱いされるようになったのはいつ頃からですか?
【回答】
南朝を正統としたのは水戸光圀の水戸史学が最初ですね.
それでも明治の終わりまでは,南朝と北朝を対等に扱っており,自由に研究も進められていたのですが,明治末期に南北朝正閏論争というのが起こって,まず学校教育の場で南朝が正統と教えられるようになったわけです.
「南朝」と呼ぶのもけしからん,「吉野朝」と呼べってことにもなってます.
こうなったのは,幸徳秋水による大逆事件の影響が大きいらしいですね.
大逆事件の裁判で,秋水が裁判官に
「今の天皇は南朝に勝って皇位を奪った者ではないか?」
と詰め寄って,裁判官を沈黙させたというエピソードも伝わっております.
しかしそれでも,大正~昭和初期にかけては,大学の研究の場においては自由に,尊氏や北朝を積極的に評価する研究が主流だったのですが,昭和9年,建武中興600周年の年に,尊氏を高評価した大臣が罷免されたりして,いわゆる「皇国史観」が学界においても支配的となり,極端な南朝賛美の風潮が広まったわけです.
一口に戦前と申しても,このように段階差があるわけですが,それはさておき,南北朝どちらが正統かと問われれば,北朝が正統だと考えています.
〔略〕
現代の歴史学においては,南朝と北朝とどちらが正統であるかという議論はほとんど行われていません.
そういう問題は議論する意味がないとされています.
〔略〕
例えば,後光厳天皇が神器なしで即位したことによって北朝の権威が大幅に下がった事実やそのことが政治や社会に与えた影響などについては論じられていますが,ではそもそもどっちの朝廷が正しいのかという問題については考えないという態度ですね.
例えるなら,キリスト教でイエスが復活したという信仰や,それがヨーロッパの政治・社会・文化に与えた大きな影響については論じても,
「ではお前自身は主の復活を信じるのか? あの方を神と信じるのか?」
という問題については,個々人の内面の信仰の問題ですから,学問的にそこに立ち入っても仕方がないのと同じことだと思います.
なので,現代の歴史学は,幕府や朝廷の制度・組織や寺社・在地社会などの実態などの,実証的な分析がメインとなっている状況です.
このような傾向は,明治時代にヨーロッパの近代実証的歴史学が日本に輸入されて以来の,伝統的な考え方でして,大正時代の南北朝時代史の大家,田中義成は,神器の真偽による正閏論は
「学術上に価値なし」
と明快に言い切っています.
「大義名分論は扱わない」,これが近代歴史学の一貫した態度でして,その意味では皇国史観は,戦前の歴史学においてもきわめて異質で傍流的な存在で,一時的なものに過ぎないわけです.
と言うか,戦後の歴史学は,自他ともに極左と認める方々が学界の主導的立場に長い間いらっしゃいましたから,そういう方々にとっては南朝だろうが北朝だろうが天皇はアレだったわけでして,そういう意味でも南北朝の正当性を問う研究が皆無であった側面があると思います.
「はむはむの煩悩」,2008年3月 9日 (日) 00:34~13:18
青文字:加筆改修部分
▼ なお「法制的」には,「南朝正統」が「現行法令下」も肯定されて続けている.
http://law.e-gov.go.jp/cgi-bin/idxsearch.cgi
で「皇統譜令」を検索.その上で
旧皇統譜;現行法令における「従前の例」
http://www.geocities.jp/nakanolib/kou/kt15-6.htm
>第四十一条 光厳天皇光明天皇崇光天皇後光厳天皇及後円融天皇ニ係ル事項ハ勅裁ヲ経テ別ニ簿冊ヲ設ケ大統譜ニ準シテ之ヲ登録スヘシ
いわゆる「(日本)単一民族論」が「アイヌ新法」を一つの根拠として,大臣罷免まで至った事例を考慮するに,「従前の例」とはいえ,「皇統譜令」に記載されていると言う事実は,考慮する価値があるかと思われる.
七師三等兵@徒労の斧 in FAQ BBS,2009年6月23日(火)
20時0分
青文字:加筆改修部分
▲
【質問】
>神器の真偽による正閏論は「学術上に価値なし」
であるなら,なぜ,恒良親王の神器は偽者であっても,歴代天皇に加えるべき,という議論は大きくならないのですか?
【回答】
「神器の真偽による正閏論は「学術上に価値なし」」だからこそ,そういう不毛な議論は大きくならないんじゃないでしょうか?
恒良親王を天皇と主張する勢力など,当時からしても北陸の恒良と新田義貞たちの一派にすぎなかったわけですし.
逆に,「神器の真偽による正閏論」にこだわる立場からすれば,後醍醐天皇が持つ神器こそが正しいわけでして,どっちにしても恒良親王を天皇とする主張は出てこないですね.
はむはむ by mail,2009年06月24日 23時52分
青文字:加筆改修部分
【質問】
南北朝時代の戦争形態の変化について教えられたし.
【回答】
南北朝時代には,「軍忠状」という文書があり,現在でも全国各地の多数の武士の家に残されている.
これは,合戦に従軍し,手柄を立てた武士が,自分の手柄(これを「軍忠」と言う)を具体的に文書に書き記して幕府や守護に提出したものである.
幕府は,軍忠状に基づいて軍忠を審査し,将軍の感謝状(「感状」)を与えたり,武士が希望する官職を朝廷に推薦したり,ご褒美として新しい土地(恩賞)を与えたりしたのである.
従って,この軍忠状には,当時の戦争の様子が具体的に記されているので,軍事史研究のための貴重な一級史料となっている.
軍忠状の研究者によれば,軍忠状を網羅的に収集して,傾向を分析してみると,南北朝時代の戦争のあり方は,観応の擾乱を境として変化しているとのことである.
南北朝前期・後期ともに,弓矢が合戦の主流の武器であるのだが(これは平安時代武士が出現して以来の一貫した傾向),前期は武士が馬に乗って太刀で斬り合うことも多く(太刀打),太刀で叩き殺されることが多く,戦死率が高い.
しかし,後期になると,弓の性能が高くなったこともあって,隠れた遠隔地から騎馬の武士を狙撃することが多くなり,武士も戦うときは馬から下りて弓で撃ち合うようになった(これを「野臥合戦」と言う).
自然に戦死率が減り,軍忠状には代わりに負傷の記述が多くなる.
同時に,負傷の場所も,頭と足の割合が減少し,胴体を負傷する率が高くなる.
ちょうど同時代のヨーロッパにおいても,同様の戦術の変化が起こり,騎馬が役に立たなくなったそうである.
ほかにも当時は集団歩兵が存在せず,歩兵は常に散開していたので,槍による負傷や戦死は極度に低いなど,非常に興味深い事実が多い.
【参考論文】
境伸太朗「南北朝期の九州における合戦の様相」(『七隈史学』7,2006年)
【質問】
南北朝合一までの経緯は?
【回答】
観応の擾乱以降の室町幕府は,北朝の弱体化した権威に頼ることができなくなった分,幕府内部の改革を次々と断行して,強力な実力を保有する政権に生まれ変わる.
それまでは基本的に鎌倉幕府の猿真似に過ぎない政権であったのだが,擾乱を契機として,ようやく室町幕府らしい特色を持った政権へと変貌を遂げるのである.
こうして北朝と幕府は勢力を回復し,後光厳の親政も軌道に乗り始める.
ところが,ここでまた困った問題が発生したのである.
南朝に拉致されていた北朝の3上皇と廃太子直仁が,政治交渉によって京都に戻ってきたのである.
延文2(1357)年2月,光厳・光明・崇光の3上皇と廃太子直仁が,幕府との政治交渉によって,京都に戻ってきた.
ところが,前回も述べたとおり,この時期,北朝ではすでに後光厳天皇が即位しており,親政を開始していた.
本来は,後光厳の兄である崇光が,北朝の嫡流である.
崇光の弟である後光厳は,もともと出家を予定されていた天皇であり,本来は皇位につくべき人物ではないというのが,崇光サイドの認識であった.
そこで当然,崇光サイドは皇位を後光厳から取り戻そうとして運動を始めることとなる.
廃太子直仁は,父花園法皇が住んでいた萩原の御殿に住み,「萩原殿」とか「萩原宮」と呼ばれ,応永5(1398)年まで存命するが,皇位奪回運動に参加した形跡はないようである.
一度廃太子となった親王は,ふたたび皇位を望むことができなかったのであろうか?
いずれにせよ,直仁には子どもがいなかったために,血統としては花園系は断絶してしまう.
崇光サイドではこの後,崇光の子息,栄仁親王を皇位につけようと画策することとなる.
ここにおいて北朝は,嫡流の栄仁親王と後光厳天皇の2系統に分裂する事態となった.
かつて鎌倉後期の大覚寺統が,兄の後二条系(木寺宮)と弟の後醍醐系に分裂したのと,同様の現象が発生したのである.
栄仁親王は伏見の御殿に住み,「伏見殿」と呼ばれ,後世伏見宮初代の親王とされた人物である.
血筋としては崇光上皇の嫡子であるが,理念的には花園法皇-萩原宮直仁親王の流れを継承するものと考えられていたらしく,実際伏見宮家は,萩原宮の遺領を継承することになるのである.
応安4(1371)年,後光厳天皇が譲位することとなった.
崇光系にとっては,皇位を奪回する絶好のチャンスである.
当時,室町幕府は,管領細川頼之が幼少の将軍義満に代わって将軍権力を代行していたが,幕府の下した判断は,栄仁ではなく,後光厳の子息緒仁に皇位を継承させるとするものであった.
そして幕府の判断どおりに,緒仁が即位した.
これが,後円融天皇である.
筋論で言えば,嫡流である栄仁を天皇にするべきであろうが,どうして幕府はこのような判断を下したのであろうか?
一つには,幕府が主体的に擁立し,観応の擾乱以降の苦楽を共にした後光厳系を尊重したという理由もあるだろうが,もっと大きな本質的な理由としては,このとき幕府は,事実上「両統迭立」の原則を放棄したのではないだろうか?
「両統迭立」とは,一言で言えば,「兄弟・従兄弟で皇位を継承していく制度」のことである.
兄弟で天皇位を回すから,皇統が分裂し,双方自分の子孫に相続させようと譲り合わず,混乱になる.
その状況が続けば,世代を経るごとにさらに皇統が分裂し,さらに問題が複雑化し,深刻化する.
ただでさえ困難な状況下で,後醍醐のような天皇が現れて,暴力的手段で皇位の独占を目論めば,日本国を二分する深刻な内乱が発生しかねない.
すべて今まで見てきたとおりである.
両統迭立は,いつかはやめなければ,構造的に天下大乱の基を永遠に再生産することとなってしまうのである.
だから幕府はこの時,皇統を後光厳系に一元化し,親子で相続することを原則化することで,その問題の解消をはかったのではないだろうか?
と考えると,後円融の即位は,日本史上非常に大きな意義を有することとなるのである.
永徳2(1382)年には,後円融の子息幹仁が即位して,後小松天皇となる.
このときも,栄仁は天皇になることができなかった.
この後小松天皇の下で,明徳3(1392)年に南朝の後亀山天皇が退位し,南北朝合一が成立し,ようやく皇室の分裂という異常事態が正常に回復するのである.
応永19(1412)年には,後小松の子息実仁が即位して,称光天皇となる.
このように,南北朝後期から室町前期にかけては,本来は持明院系の傍流であった後光厳系が一貫して皇位を継承したのである.
そしてこの時期,嫡流であったはずの伏見宮の境遇は,悲惨を極めた.
【質問】
南北統一以降,後醍醐天皇の子孫ってどうなったんですか?
【回答】
南朝の遺臣らによって,「後南朝」の天皇に祀り上げられたが,微力のために自然消滅した.
1392年(元中9∥明徳3)の南北両朝合一後,合一の条件〈両統の迭立(てつりつ)〉を,北朝側(持明院統)の後小松天皇と,これを擁する足利義満とが履行しなかったため,これに不満な旧南朝の後亀山上皇が,1410年(応永17)吉野に遷幸.
上皇はやがて帰洛したが,上皇の吉野遷幸を機に南朝の遺臣らは,大覚寺統の皇胤を奉じて南朝の再興をはかった.
これが後南朝で,その主となったのは多くが後村上天皇の皇子説成親王(上野宮)の子孫であった.
しかしその勢力は微弱で,14年(応永21)伊勢の北畠満雅が,後亀山上皇の招きに応じて挙兵したことはあったが,28年(正長1)満雅が再度の挙兵で敗死してからは全く無力となり,その後の後南朝側の動きとしては,43年(嘉吉3)将軍義勝夭逝の隙に乗じて禁裏に夜討ちをかけ神器を奪取した事件,44年(文安1)の説成親王の子円満院宮円胤の,紀州における挙兵などがあった程度.
67年の応仁の乱以後は,大覚寺統の皇胤はあらわれなくなり,後南朝は自然消滅の途をたどった.
日本史板,2003/02/13
青文字:加筆改修部分
なお,元のレスは,コトバンクからの転載である模様.
そのため,著作権が発生しないと考えられる範囲で,元レスから抜粋した.