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戦史FAQ目次

汝やしる 都は野辺の 夕雲雀
あがるを見ても 落るなみだは

                                    飯尾彦六左衛門尉常房


 【link】


 【質問】
 上杉禅秀の乱が起こった当時の関東管領人事について教えられたし.

 【回答】
 上杉禅秀の乱が起こったときの関東管領は,上杉憲基(山内)であった.
 彼が禅秀の乱に際して,公方持氏とともに禅秀軍と交戦して敗退し,越後国に没落したことはすでに述べた.

 乱の終結後の応永24(1417)年4月,憲基は管領を辞職して分国伊豆へ下向したが,6月にはふたたび管領に就任している.
 どういうわけか,関東管領は,このように一時的に短期間辞任してまた復帰する例が多い.

 しかし憲基は,翌応永25(1418)年1月,まだ20代の若さで急死してしまった.
 憲基には後を継げる男子の実子がいなかった.
 そこで越後守護家から養子をとって,その人物を後任の関東管領に据えた.
 それが,上杉憲実である.

 上杉憲実は,応永17(1410)年の生まれである.
 越後守護上杉房方の3男で,現在の新潟県上越市で生まれた.
 幼名を,孔雀丸といった.

 越後守護上杉氏は,上杉憲顕の子・憲栄の系統の家である.
 とは言っても,憲栄にも後継の実子がいなかったようで,兄である関東管領山内上杉憲方の子・房方を養子に迎えて後を継がせた.
 その子憲実が,山内上杉氏が断絶したために,ふたたび養子となって関東管領となったのである.

 越後国は,鎌倉府の管轄外の,京都幕府の行政区域に属する国であった.
 そのため,全体的に京都の将軍と密接な関係を有する上杉一族の中でも,特に幕府と親しい距離にあったようである.
 そうした家から関東管領に就任した憲実の主君が,京都の将軍と最も激しく敵対した公方持氏であったことは,歴史の皮肉と言えるかもしれない.

 上杉憲実が関東管領に就任したとき,彼はまだ8歳の少年であった.
 そのため当然,管領としての職務を遂行することは不可能である.

 憲実は鎌倉に来た翌応永26(1419)年には元服するが,成長し,判始を行うまでは,関東管領の権限は公方足利持氏が代行した.
 京都でも鎌倉でも,幼少の将軍や公方の権限を管領が代行することはたびたびあったが,その逆はこの例だけである.
(ただし,憲実は文書を発給することはできなくても,上野・武蔵・伊豆守護の立場で,「上杉四郎殿」名義で受給することはできた.
 また,大将として合戦に出陣することもできた)

 鎌倉府の政務は,満兼中期以降停滞していたが,禅秀の乱後,持氏の公方・管領代行として発給する命令の数が激増する.
 そのほとんどが,配下の武士に対する恩賞充行や寺社に対する寄進,もしくは裁判の判決である.
 弱体化した政権基盤を立て直そうとする持氏の意欲が窺える.
 この時期の持氏の政治は,一定の効果があったようで,公方直轄軍である奉公衆の整備・充実が見られるのである.

 応永31(1424)年,憲実は判始を行い,名実ともに関東管領としての活動を始める.
 一方で,持氏は禅秀残党の征伐を引き続き続行し,そのため京都との関係が徐々に悪化していくが,それについてはまた今度紹介したい.

「はむはむの煩悩」,2008年9月17日 (水)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 今,手許に有る古い「日本史辞典」(角川書店 昭和41年発行)の付録である年表を読んでいたら,1418年の欄に
「この頃,武蔵の一揆勢,鎌倉幕府方として活躍」
との文言が載っています.
 おそらく鎌倉公方の誤植だとはおもうんですが,なにせ中世の歴史に疎いもので,
「ひょっとして,このころまで東国で北条家周辺の旧鎌倉幕府勢力が余喘を保っていたのかも・・・」
という疑問が湧いてきました.
 もし,この1418年頃(応永年間)の武蔵での一揆について御存じであれば,どんな一揆だったのか,ご教示願えませんでしょうか?

 【回答】
 この時期の一揆というのは反乱のことではなく,『集団』程度の意味.
 この頃,上野,武蔵の小中武士団が団結して『白旗一揆』という軍団を形成していました.

 埼玉県史通史編などを見てみましたが,1417年ころから武州南一揆が鎌倉公方側で参加していたようです.
 武州南一揆とは,平姓秩父氏を中心とする氏族の連合『平一揆』が,多摩川周辺の武士団の連合という地縁的な連合に変化したものです.
 鎌倉幕府は鎌倉府(鎌倉公方)の誤植で間違いないと思います.
 ただし武蔵の一揆勢がみな鎌倉府側だったわけではなく,武州北白旗一揆などは禅秀側だったようです.

日本史板
青文字:加筆改修部分

▼ 一揆が目立つようになってくるのは,師直敗死後,尊氏が鎌倉に下向してからだと思います.

 尊氏が東国で,相模国を直轄支配し,武蔵国も執事仁木頼章に守護を兼任させるものの,この頼章は前任者の師直に比べますとやはり力の弱い武将でして,武蔵も実質的にほとんど尊氏の直轄下にあったわけです.

 尊氏はそこで,武蔵・相模の平一揆を配下に組織して,関東南軍との戦いに勝利するわけです.

 この時期の将軍のこのような軍制が基本となって,やがて奉公衆に発展していくのでしょうね(平一揆が奉公衆に直接つながるわけではありませんが).▲

「はむはむの煩悩」,2008年6月 9日 (月) 21:58
青文字:加筆改修部分


 【質問 kérdés】
 もしも将軍選びの籤引きに当たったのが青蓮院門跡義圓(後の足利義教)以外の誰かだったら,恐怖政治にはならなかったの?

 【回答 válasz】
 それは誰にも分からない.

 たとえば,ハズレの一人,大覚寺義昭は
「御慈悲も深く御心ばせ情ありて勇になだらかに」(『今川記』)
と称賛されていたそうだが,政治手腕のほうは全くの未知数.
 なまじ慈悲心など出したおかげで政治が大混乱した例など,古今東西の歴史にゴマンとある.
 ついこないだの日本でも,友愛の政治とかいうものが大コケしたばかりだ.
 だいたい義教からして,僧籍にあった頃は「天台開闢以来の逸材」などと賞賛されていたことを忘れてはならない.

 梶井義承は「アニキはちょっと危ないから逆らわんでおこう」という処世術をもって生き延びたような印象がある(※編者の個人的な見解です)から,案外,将軍になっても巧みな政界遊泳術を見せたかもしれないが,単なる「有力守護大名に逆らえない将軍」となって終わったかもしれない.

 相国寺虎山永隆については,そもそも情報が少なくて,何とも言えない.

 ドラフト外だったが,将軍になる気満々だった足利持氏(第4代鎌倉公方)も,上杉禅秀の乱など一連の問題を見ると,義教よりもアレだったかもしれない.

 結論としては,
「死ぬまで権力にしがみ付き,次期将軍候補達に政治手腕を試させることもしなかった足利義持が全部悪い」
ということで.

mixi, 2017.7.15


 【質問】
 称光天皇が病気で倒れた時,なぜ僧侶たちは平癒のための祈祷を断ったのか?

 【回答】
 今日も御座さんの文章を転載させていただく.

~~~引用開始~~~

 石原比伊呂「足利義教の初政」(『日本歴史』724号,2008年)で取り上げられていたエピソードが面白かったので,紹介します.

 正長元(1428)年5月に称光天皇が病気で倒れた時,後小松院の依頼を受けた足利義教は,称光天皇平癒のための祈祷を行う阿闍梨を探しました.
 義教は三宝院満済・宝池院義賢・如意寺満意・聖護院道意・随心院祐厳・実相院増詮・浄土寺持弁らに祈祷を命じますが,病気や觸穢を利用に悉く断られています.

 この時期,病気が大流行していたという徴証はないので,全員が同時に病気にかかっているというのは如何にも怪しい.
 仮病であることは明らかでしょう.
 浄土寺持弁に至っては「神かけて本当に下痢です」と弁解しているぐらいですから(笑),義教の側も仮病を疑っていたことが分かります.

 では何故,彼らは断ったのか?
 祈祷を行えば,当然ご褒美がもらえるわけで,普通に考えればそう悪い話ではありません.

 これは称光天皇の病状がひどいことを彼らが知っていて,「もう助からない」と思っていたからでしょう.
 実際,同年7月には称光天皇は亡くなっています.祈祷したのに,そのかいなく亡くなってしまった,ということになれば祈祷した僧侶の面目が立ちませんし,下手をすると叱責されかねません.
 助かりそうな時は祈祷するが,そうでない時は祈祷しない.
 その見事なリスク回避の感覚は現代人に通じます.
 迷信深いように見えて,中世人は割かし現実的・合理的な判断力を持っていた,ということです.

~~~引用終了~~~

「はむはむの煩悩」,2008年10月14日 (火)


 【質問】
 永亨の乱(1439年)の原因は?

 【回答】
 足利持氏は滅びる必然性はなかったのに,自爆して滅亡してしまったように思えてならない.

 持氏期の鎌倉府は,特に永享以降は政務が停滞して武士や寺社の利益になる政策がほとんど出せない状態であった.

 統治機構が機能不全に陥っているにもかかわらず,彼が行ったことは,無駄に京都幕府との敵対を煽ることであった.
 将軍義教の将軍就任にお祝いの使者を出さず,鎌倉公方は自分の子どもの元服に将軍から1字もらうのが通例であるにもかかわらず,「義久」と名乗らせるetc.

 これらはすべて,持氏の個人的な判断で回避できたことである.
 むしろ関東管領上杉憲実以下,皆反対していた行為であるから,彼が重臣たちの進言を聞き入れていれば,確実に簡単に回避できた.

 政権基盤が衰退しているのに,自分からわざわざ家来たちが反対している仮想敵を挑発する行為を行ったら,家来の支持も失い,敵にも攻め込まれて惨敗するに決まっているし,実際史実もそういう展開になった.

 私は,鎌倉府の一部の研究者が高く評価するような持氏の自立政策を,とても評価する気になれない.
 持氏がするべきことは,隠忍自重の精神でじっと京都と協調を続け,京都からの多少の無理難題は甘受しながら,内政の改革を進めて鎌倉府の組織・制度を立て直すことであった.
 自立したければしたいほど,チャンスが到来するまで逆に無意味に刃向かってはならないのであった.

 そう,まさに徳川家康が豊臣秀吉にやったように.

 持氏は滅ぼされたが,家康は天下を取って300年の長期安定政権を樹立した.
 今,現代日本人の我々は,やはり家康の精神に学ぶべきであろう.

はむはむ in mixi,2008年05月01日18:47



 【質問】
 「鎌倉府滅亡の原因は将軍義教」説があるが?

 【回答】
 渡辺世祐著『関東中心足利時代之研究』(新人物往来社,1995.11)という大著がある.
 これは大正時代に刊行された古い本であるが,足利持氏期までの鎌倉府の政治史を丹念に叙述した大作で,鎌倉府研究をする人々にとっては,いまだにバイブル的扱いになっている書物である.

 渡辺博士によれば,鎌倉府滅亡の原因は,すべて将軍義教のせいなんだそうである.
 もちろん博士は,鎌倉府の組織に欠陥があったことや,持氏に軽率なところがあったことも指摘しているのであるが,結論としては義教が将軍就任以降持氏を滅ぼす気満々で,ありとあらゆる機会に持氏を挑発し煽りまくったことが永享の乱の原因であるとしている.

 九州探題や守護,その他比叡山等の有力勢力に対する政策を見る限り,義教が鎌倉府の力も弱体化させる方針を持っていたことは,まず動かない事実であろう.

 しかし,その事実から直ちに義教が当初から持氏討伐の意欲を抱いていたとするのは論理の飛躍があると思う.

 以前も述べたとおり,鎌倉府では関東管領上杉憲実以下,持氏の方針にはみんな反対していたが,京都においても「元老」畠山満家・管領斯波義淳以下,主立った重臣は皆鎌倉府との戦争には一貫して反対しており,義教を諫めていた.
 義教としても,持氏が京都に従順な姿勢を示せば,特に事を荒立てるつもりはなかったのではないかと考える.
 鎌倉府との全面決戦は,やはり大乱になる可能性が高かったし,京都幕府にとっても鎌倉府に絶対勝てる自信はなかったであろうから.

 実際には,どちらかと言えば,義教→持氏ではなく,逆に持氏が義教を挑発した事実が目立つ.

 将軍義教の将軍就任にお祝いの使者を出さなかったり,鎌倉公方は自分の子どもの元服に将軍から1字もらうのが通例であるにもかかわらず,「義久」と名乗らせたりしたことは前にも紹介したが,その他にも関東地方の幕府や京方の所領を押領したり,「京都扶持衆」と呼ばれる幕府方の武士を攻撃したり,永享に改元したのに従わずそのまま正長の年号を使い続けたり,幕府の方針に逆らって信濃出兵をはかったり駿河の守護家の内紛に介入したり,義教を呪詛したり・・・.

 ここまで煽ったら,義教に鎌倉府討伐の大義名分を与えるのも当然だし,反対していた幕府の重臣たちも従わざるを得ないのではないか?

 大博士の見解に異議を唱えて申し訳ないが,私はやはり永享の乱は,持氏の方に圧倒的に非があったと考えざるを得ないのである.
 持氏は軽率な政治家で,無駄に鎌倉府の滅亡を早めた.こんな人を持ち上げたり,ましてや美化することなどおれには絶対にできない.

 にしても,この時代の鎌倉と京都の関係って,どことなく大戦前の日米関係に似ている気がする・・・.

はむはむ in mixi,2008年05月13日13:07


 【質問】
 下馬論争とは?

 【回答】
 室町時代の人間は,上は天皇・将軍から下は河原者に至るまで,些細なことですぐにキレ,抜刀して相手に斬りかかり,殺し合いにまで発展することが非常に多かった.

 立ち小便を笑われただけで刀を抜いて相手を斬り殺した僧侶もいる.

 細川勝元が囲碁の相手に助言したのが不愉快と言うだけで,主君勝元に斬りかかった部下もいる.

 勝元はその2年後にも,ホモの相手の部下に痴情のもつれで寝所を襲われている.

 単にその場の刃傷沙汰では終わらずに,当事者の所属する武家や公家,寺社といった権門同士の戦争にまで発展するわけであるから,本当に性質が悪い.

 前述の立ち小便から発生した殺人事件も,金閣寺と北野天満宮の抗争に発展し,遂には室町殿足利義教が調停に乗り出さねばならなかったほどである.

 例えその場でキレなくても,何年も憎悪・私怨の感情を持ち続け,機会があれば復讐を果たす,そんな執念深いのが室町人であった.

 喧嘩の具体例は枚挙にいとまがないが,今回は特に興味深い事件を紹介してみたい.

 永享11(1439)年6月,尾張国の於保籐左衛門尉貞久という武士が同国の甚目寺というお寺に観音詣に出かけたときのこと.

 彼はその道中,ちょっとした用事があって下馬をした.

 そこへたまたま同国の溝口某という武士がやって来て,下馬をしている於保に気づいて,下馬をしている相手には自分も下馬をして礼を表すという当時のマナーに従って,自分も下馬をした.

 ところが,これが於保の気に障ったのである.
 彼は突然キレて,
「おれは別の用事があって下馬をしただけで,お前に用があったわけではない.
 それなのに下馬をするとはどういことだ?
 何か野心でもあるのか?」
と溝口に詰め寄った.

 溝口はあわてて,
「あなたが誰かなんて私は知らないですよ.
 ただあなたが下馬されたので,礼儀に従って下馬しただけのことです.
 野心だなんて持っていません」
と弁明する.

 どうも於保は,軽輩の武士が先に下馬するべきであるのに,どう見ても年下である溝口が後から下馬したのが気にくわなかったらしい.

 とは言え,溝口の立場からすれば,見知らぬ於保が別の用事で下馬したなんて知るよしもないし,相手の下馬を無視したら無視したで大変なことにならないとも限らない.
 誰だか知らないけど,とりあえず下馬しておこうと思って行動しただけのことである.
 これでこんな言いがかりをつけられるのだから,たまったものではない.

 結局,於保は溝口の弁明を一切聞かずに,ついに刀を抜いて溝口に斬りかかる.
 仕方がないので溝口も抜刀して応戦し,遂に両者刺し違えて死んでしまったのである.

 下馬の礼を守らずに喧嘩に発展した例はたくさんあるが,守ったら守ったでタイミングがたまたま悪くて殺されてしまう場合もあるのだから,本当にたまらない.

 おれは室町時代の研究者であるが,この時代には絶対に生きたくない.

 【参考文献】
清水克行『喧嘩両成敗の誕生』(講談社選書メチエ,2006年)

「はむはむの煩悩」,2007年8月31日 (金)
青文字:加筆改修部分



 【質問】
 金閣寺の僧侶も武装していたのですか?

 【回答】
 中世の人間は,武士だけではなく,公家や農民,僧侶・神官に至るまで,みんな武装していました.

 武士のみが帯刀しているなんてのは,秀吉の刀狩り以来のことです.

 なので,武士に限らず,殺人事件に巻き込まれる可能性は常に非常に高かったです.

「はむはむの煩悩」,2007年9月 3日 (月) 13:56
青文字:加筆改修部分

喧嘩両成敗ノ図
(うそ)
(画像掲示板より引用)



 【質問】
 室町時代の喧嘩の様相は?

 【回答】
 今日はひさびさに,御座候さんの書かれた文章を転載させていただく.
 御座さん,転載を許可していただき,どうもありがとうございました.

~~~引用開始~~~

 清水克行『喧嘩両成敗の誕生』は,ちょっとしたことですぐにブチキレて斬りかかるわ,1対1の喧嘩がいつの間にか大合戦に発展するわ,という恐ろしく物騒な室町時代の実相を浮き彫りにした名著であるが,この本で取り上げられなかった大喧嘩(@京都市中)を紹介しておこう.

 応永31年(1424)10月11日,東竹坊という八幡の権別当坊で若党たちが庭の前を伐っていると,ある八幡神人が挨拶せずに通り過ぎた.
 若党たちが神人の無礼を咎めると,八幡神人たちは引き返してきて悪口雑言,あげくの果てには腰の刀を抜いたので,若党たちが神人をボコボコにした.

 半殺しにされた神人は腹に据えかねて,輿に乗って上洛し,仲間の神人と共に室町殿足利義持に若党たちの暴行を訴えることにした.
 上洛した神人たちの数は『看聞日記』によれば100余り,『満済准后日記』によれば200余り,しかも腹巻を着込んで武器も所持していたとのことなので,これは単なる訴えではなく所謂「嗷訴」である.
 すなわち若党たちを処罰するよう,幕府を恫喝しに行ったわけである.

 10月14日,ちょうど義持は因幡堂に参籠していたのだが,神人たちは義持に直訴を試みた.
 義持は「八幡奉行の飯尾為行に訴えよ」と言ったので,神人たちは為行の宿所に行った.
 しかし,義持は彼らの訴えをまともに取り合うつもりはなく,時間稼ぎをしただけであった.
 義持は侍所頭人の京極持光と問注所,八幡奉行の飯尾為行に対し「神人たちを逮捕せよ」と命じたのであった.

 昼には侍所と問注所の軍勢が為行の宿所に押し寄せ,門から攻め入った.
 神人たちは為行の宿所の中に逃げ込もうとしたが,宿所の中から為行の軍勢が飛び出してきて,神人たちは挟み撃ちに遭った.
 合戦となり,神人の死者は37人,捕らえられた者は49人で,神人の大将は切腹した.
 侍所と問注所の軍勢も死者少々,負傷者多数,為行の軍勢も負傷者多数で為行自身も負傷した.
 神人の死骸は車7両に積んで五条河原に捨てたという.

 この事件について満済は
「明徳内野合戦以来,京中において多くの人打ち殺されること,これなきか」
と述べている.
 明徳内野合戦とは,明徳2年(1391)に起こった明徳の乱のことで,足利義満が山名氏清・満幸を討ったという,高校の歴史教科書にも載っている大事件である
(この乱において義満が内野=内裏跡に陣を張ったため,当時は「内野合戦」と呼ばれた).
 京都市内で大勢の人が殺されたのは,それ以来なかったというのだから,当時の人々が幕府vs八幡神人の喧嘩にどれほど衝撃を受けたかは,推して知るべし,といったところであろう.

 これほどの死者を出した大喧嘩の発端は,挨拶をしないで前を横切った,という非常に些細なことである点に,暴力に満ちた室町時代の凄まじさが集約されているのである.
 昨今,日本では「キレる若者」が問題視されているが,室町時代に比べれば実に可愛いものである.
~~~引用終了~~~

「はむはむの煩悩」,2008年2月27日 (水)
青文字:加筆改修部分



 【質問】
 室町時代の人たちは,何でそんなに喧嘩早かったの?

 【回答】
 室町時代人がこんなにも喧嘩早かった原因としては,すべての階層の人間が常時武装していたことのほかにも,いつもお酒を飲んでいたこともあると思います.

 当時の日記を読むと,ほんと朝昼かまわず,酒さえあれば飲んでばかりいる印象があります(笑)

 いつも泥酔状態だったことも争闘の絶えない一因だったでしょうね.

「はむはむの煩悩」,2008年2月28日 (木) 16:09
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 応仁の乱の真相は?

 【回答】
 今日もまた,御座さんの興味深い歴史関係の記事を引用させていただく.

~~~引用開始~~~

 最近,家永遵嗣氏らの研究によって,応仁の乱勃発の真の要因が解き明かされつつある.

 教科書的には,応仁の乱の発端となったのは,将軍家の後継争いと言われている.
 将軍足利義政の正室である日野富子が実子義尚を将軍とすべく,山名宗全を義尚の後見人とし,これに対して義政の実弟で次期将軍に内定していた義視が細川勝元を頼り,山名・細川の対立を基軸として乱が勃発したというのである.

 しかし日野富子と山名宗全の提携というのは,同時代史料には見られず,軍記物『応仁記』の創作であるという.山名宗全は寧ろ足利義視と親しく,乱中に義視が西軍(山名方)に走るのも,乱前からの交流に基づくと推測される.

 また周知のように,細川勝元は山名宗全の娘婿にあたり,両氏の間に根本的な対立関係は存在しなかった.
 「継嗣がいなかった勝元は,宗全の子・山名豊久を養子にしていたが,文正元年に実子細川政元の誕生後,豊久を廃嫡して仏門に入れた」ことが対立の要因となったという説もあるが,政元の母は宗全の娘(養女)であり,政元が細川氏の後継者となることは宗全にとっても歓迎すべき事態であった.
 実際,応仁の乱の勃発により,山名氏の血を引く政元は忌避され,細川野州家から養子として迎えた勝之が後嗣となっている.

 宗全と勝元の関係が決定的に悪化するのは,文正の政変以後であり(文正の政変では2人は協力して伊勢貞親を失脚させている),僅か4ヶ月後には応仁の乱が勃発する.
 細川勝元のライバルは畠山義就と伊勢貞親であり,舅の宗全と事を構える気はなかった.
 御霊合戦など,応仁の乱の初動で遅れをとったのも,そのためである.
 文明6年に山名氏が東軍(細川方)に降伏した後も,乱が継続したことからも,乱の根本要因が山名・細川の対立関係にないことは明らかである.

 嘉吉の乱以降の幕閣の対立構図は,細川・京極・赤松vs斯波・一色・土岐・畠山・大内であった.
 双方と姻戚関係を持つ山名氏は,基本的には中立姿勢であったが(心情的には後者に近いが,義政政権の主流派である前者との対決は好まず),文正の政変で義尚乳父の伊勢貞親が失脚し,義視の将軍職継承が目前に迫ると,新政権での主導権を握るべく,畠山義就への加担・細川勝元との敵対を選択した.
 10年にもわたる応仁の乱の幕開けである.

~~~引用終了~~~

「はむはむの煩悩」,
青文字:加筆改修部分


 【質問 kérdés】
 畠山義就(よしひろ or よしなり)って誰?
 3行で教えて!
Ki az Hatakejama Josihiro ( vagy Josinari) ?
Kérem, mondja meg a három sorban.

 【回答 válasz】
 畠山義就(1437? ~ 1491)は河内・紀伊・山城・越中守護の守護大名.
Hatakejama Josinari (1437? - 1491) a Kavacsi, kii, Jamasiro s Eccúban Sugo-Daimjó (feudális hadúr).
 家督相続を巡って従弟の弥三郎政久・政長一派と対立したが,これに山名宗全(義就方),細川勝元(政長方)がそれぞれ肩入れすることにより,応仁の乱の一つの引き金となった.
 応仁の乱和睦後も,義就は河内・大和を制圧し,これを実効支配した.
和睦を拒む畠山義就 ※イメージ図)

 【参考ページ Referencia Oldal】
https://kotobank.jp/word/畠山義就
http://takatokihojo.hatenablog.com/entry/2017/04/08/170206
http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2011/12/post-d5f5.html
青木雄二『ナニワ金融道』(講談社) ※イメージ図引用元

【ぐんじさんぎょう】,2017/8/17 20:00
を加筆改修

 戦だけはこの時代随一の名将.
 それ以外は基本ポンコツです.

ヤン・ヒューリック in mixi,2017年08月17日


 【質問 kérdés】
 斯波義廉って誰?
Ki az Siba Josikado?

 【回答 válasz】
 斯波義廉は尾張,越前,遠江3国の守護.
Siba Josikado a Owari, Ecsizen és Tótoumi-ben Sugo (kormányzó).

 生没年未詳.
 渋川義鏡の子.
 長禄3 (1459) 年,斯波義敏が重臣・甲斐常治らとの対立により,将軍足利義政の怒りを買って退けられ,周防に出奔.
 そのため,寛正2(1461)年,義廉は斯波氏の家督を継ぎ,尾張,越前,遠江3国の守護に任じられた.
 寛正6(1465)年,義敏の実父・持種や義政の寵臣・伊勢貞親の運動で,義敏が許される.
 文正元(1466) 年,義政は3国の守護職を再び義敏に与えたが,家臣の多くは義廉を支持し,山名宗全 (義廉の妻の父) ,一色義直らも義廉を支持したため,やがて義廉を3国の守護に還補する.
 これを文正の政変と呼ぶ.
 この政変において,将軍側近勢力が没落し,政局が一挙に流動化.
 ここで初めて細川vs山名の構図が鮮明になり,応仁の乱の一因となる.

 その応仁の乱 (1467年)において義廉は,山名宗全らの西軍に参加.
 だが文明3(1471)年,朝倉孝景が東軍に寝返って越前国守護代職を認められたことで苦境に.

 文明7(1475)年,朝倉孝景の越前制圧により,義廉は京都から尾張に下向.
 ここで守護代織田敏広に奉じられ,斯波義敏方の織田敏定と戦う.
 しかし,敏広が死没すると,跡を継いだその子・千代夜叉丸は,西軍に留まることに不安を感じたのか,幕府に帰順し義敏-義良(義寛)に出仕.
 ここに到って義廉は有力被官人を全て失う羽目に.
 その後,一時,西軍の六角氏を支援するため斉藤妙椿とともに近江に出陣したとされるも,以降の消息は不明.
 西軍大名が次々と幕府に帰順するなか,その機会を逸した義廉は,幕府から追討令がでていることもあり,実子・義俊のもとで隠棲生活を送ったと考えられる.
 朝倉孝景の子・氏景の推戴により,義俊は将軍家の連枝にあたる鞍谷公方を継ぐこととなり,名目上の越前の国主となっていた.

 没年も不明だが,遅くとも長享年間には没したものと推定され,鞍谷(斯波)氏の菩提寺霊泉寺は,この時創建されたと考えられる.

 【参考ページ Referencia Oldal】
呉座勇一『応仁の乱』(中公新書,2016), p.74-76, 256
https://kotobank.jp/word/斯波義廉
http://okhome.fc2web.com/siba/jiseki/09sibasi.html
http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/sibayosikado.html
https://ameblo.jp/toushiun/entry-11269713612.html
http://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/jin/ShibaYoshikado.html

【ぐんじさんぎょう】,2017/9/15 20:00
を加筆改修


 【質問 kérdés】
 文正の政変って何?
 3行以上で教えて!
Mi az Bunsóban politikai változás?
Kérem, mondja meg 3 vagy több sorokban!

 【回答 válasz】
 文正(ぶんしょう)の政変は文正元(1466)年9月6日,8代将軍・足利義政の側近・伊勢貞親と季瓊真蘂らが,諸大名の反発で追放された事件.
 反山名や反細川の勢力を糾合して山名・細川に対抗しようとした伊勢貞親は,文正元年(1466年)7月23日,義政に申請して斯波氏の家督を義廉から義敏に交替させ,また,7月30日に大内政弘も赦免させた.
 だが山名・細川は共闘し,「貞親が義政に讒言して,義政の弟・義視を誅殺させようとした」とする彼ら諸大名の抗議によって,伊勢貞親,季瓊真蘂,斯波義敏,ついでに赤松政則らも失脚した.

 この政変の結果,それまで伊勢・山名・細川の3つの政治勢力が鼎立していた状態から,将軍側近勢力が没落し,政局が一挙に流動化.
 ここで初めて細川vs山名の構図が鮮明になり,応仁の乱の一因となったという.

 【参考ページ Referencia Oldal】
呉座勇一『応仁の乱』(中公新書,2017), p.72-76
http://www.gakushuin.ac.jp/univ/let/top/publication/res_pdf_61/001.pdf
http://www.nihonjiten.com/data/34730.html

義政に抗議する守護大名の図(想像図)

【ぐんじさんぎょう】,2017/9/19 20:00
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 【質問 kérdés】
 赤松政則って誰?
 3行以上で教えて!
Ki az Akamacsu Masanori?
Kérem, mondja meg 3 vagy több sorokban!

 【回答 válasz】
 赤松正則(1455-1496)は加賀半国・播磨・美作・備前の守護大名.
Akamacsu Masanori (1455-1496) a Harima, Mimaszaka, Bizen és Kaga felében Sugo-Daimjó (feudális hadúr).
肖像画 - wikipediaより)
 嘉吉の乱以後,主家再興を企てていた赤松氏遺臣らによる神璽奪還の功績により,加賀半国の守護職となる.
 細川氏と近しかったこと,播磨などを巡って山名氏と争っていたことから,応仁の乱では東軍に属し,山名氏と播磨等の争奪戦を行った.

---

 赤松時勝の子で,満祐の弟・義雅の孫.
 嘉吉の乱で播磨城山城が落城したとき父・時勝は9歳であったが,赤松満政に託されて城を脱出,天隠竜沢に匿われて成長した.
 時勝の早世後,赤松氏遺臣たちはその遺児・次郎法師丸(政則)を担いで主家再興を企て,長禄2(1458)年吉野に後南朝の皇胤を襲い,嘉吉3(1443)年に内裏から奪い去られたままになっていた神璽を奪還.
 これにより次郎法師丸には加賀半国守護職と備前新田荘が与えられた.
 この再興劇の裏には,播磨の国人・上月氏の出身で,当時幕政に深く関与していた蔭凉軒主・季瓊真蘂や,赤松氏の旧領を得て強大化した山名氏の勢力を快く思わない細川勝元による,将軍足利義政への口添えがあったという.
 事実,入部をめぐって山名教之と紛争を起こしている.

 以後,赤松氏は一貫して細川氏と親しい関係を保つことになる.
 寛正6(1465)年,次郎法師丸は元服して政則と名乗る.
 しかし文正元(1466)年9月6日,文正(ぶんしょう)の政変により追放.
 応仁元年(1467年)から始まった応仁の乱では,東軍(細川方)に属して戦い,まもなく播磨・備前・美作から山名軍を追って3カ国守護職を回復した.
 文明9(1477)年,侍所頭人に任じられる.
 文明15(1483)年,山名氏の播磨進攻が始まり,同年暮れには播但国境の真弓峠で大敗を喫す.
 このため一時は重臣浦上則宗や小寺則職に廃立を企てられるほどであった.
 蔭凉軒主・亀泉集証(播磨後藤氏の出身)の斡旋で何とか和解がなされたが,山名氏の攻撃はなおも続き,備前福岡,播磨片島などで激戦.
 長享2(1488)年,ようやく山名氏を撃退.
 明応2(1493)年,勝元の娘めし(洞松院)と結婚.
 明応5(1496)年閏2月,赤松氏としては最高の従三位に叙せられたが,同年4月,播磨坂田荘の長円寺で急逝した.

 【参考ページ Referencia Oldal】
https://kotobank.jp/word/赤松政則
http://www5f.biglobe.ne.jp/syake-assi/newpage617.html
http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/akamatumasanori.html

【ぐんじさんぎょう】,2017/9/25 20:00
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 【質問 kérdés】
 伊勢貞親って誰?
 3行以上で教えて!
Ki az Isze Szadacsika?
kérem, mondja meg harom vagy több sorokban!

 【回答 válasz】
 伊勢貞親(1417~1473)は室町中期の政所執事で,将軍・足利義政の側近.
Isze Szadacsika (1417 - 1473) Sógun Aszikaga Joszimasa segédje, Mandokoro Szicsugyi (a kormány vezérigazgatója) Muromachi időszak középső szakaszában.
 将軍足利義政の信任厚く,相国寺蔭涼軒主季瓊 (→季瓊真蘂〈きけいしんずい〉 ) とともに幕府の実権を握ったが,文正1 (1466) 年,斯波氏の家督相続問題に関与して諸将の反感を買い,「足利義視を義政に讒言して殺害しようとした」とされて近江に逃走.
 翌年,義政の召により再び幕府に参与したが,のち文明3 (1471) 年に致仕,出家し,聴松軒と号した.


「いかに気にあわざる者来たりとも対面すべし」
(『伊勢貞親教訓』)


 政所執事・伊勢貞国の子で,母は蜷川親俊の女である.

 8代将軍・足利義政を幼少の頃から養育.
 嘉吉3年(1443年)には管領・畠山持国の仲介で,義政と擬似父子関係を結んだ.

 享徳3年(1454年)に家督を相続.

 同年に発生した土一揆への対処として考案された分一銭制度の確立などを通じ,幕府財政の再建を成功させ,義政の信任を得た.

 まだ政所執事には就任していなかった(文安6年(1449年)から二階堂忠行が在任)頃から,義政から収入と支払の権限を与えられ,幕府財政を担当.
 政所の裁判に携わる官僚の人事権や将軍の申次衆も一族で固めて政所の実権を握り,奉行衆・番衆・奉公衆の指揮権も任された.

 康正元年(1455年)頃から義政の御内書に副状を添えるようにすると共に,一人の奉行人に申請者が殺到して業務が停滞することがないようにした.
 これにより,それまでは管領・細川勝元が発給していた副状に代わって,義政の御内書発給数が上回り,幕府奉行人の管轄が管領から貞親(将軍)へ移動した.
 軍事でも義政の補佐役を務め義政との会談及び方針を決定する重要な役割を任された.
 寛正元年(1460年),享徳の乱で混迷していた関東諸大名の取次ぎも担当.
 同年に二階堂忠行に代わり政所執事に就任し,禅僧の季瓊真蘂らと共に政務の実権を完全に握った.
・貞親を中心とする,義政の側近集団
・山名持豊(宗全)をリーダーとする集団
・細川勝元をリーダーとする集団
の3つの政治勢力が鼎立,せめぎ合いをしているその上に,機会主義の義政が乗っかっているという政治状況ができていたのである.

 寛正4年(1463年),義政の母日野重子が死去したことを口実に,反逆者となっていた斯波義敏・畠山義就を義政を通して赦免ささす.
 寛正6年(1465年),勝元が敵対した大内政弘討伐を要請すると,表向き義政が政弘討伐命令を下す一方で裏から政弘を支援,勝元との対立が激化した.

 寛正6年(1465年),日野富子が男子(のちの足利義尚)を産むと,義尚の乳父となる.

 文正元年(1466年),斯波氏の斯波義敏と斯波義廉の家督争い(武衛騒動)にも介入,貞親らは義政に進言して斯波家家督を義敏に与えさせるが,山名持豊や義敏派であった勝元らが義廉支持に回り,貞親と敵対.
 貞親は「義視を排斥するために義視謀反の噂を流した」という讒訴の罪を問われ近江,次いで伊勢へ逃れた.
 他の側近集団も失脚し(文正の政変),3勢力鼎立が崩れて,山名・細川の2強対立状況となる.
 そして,この対立状況が,応仁の乱の導火線となる.

 応仁元年(1467年),勝元率いる東軍と宗全率いる西軍の間で戦端が開かれ応仁の乱が起こると,義政に呼び戻され6月に伊勢から上洛.
 翌応仁2年(1468年),正式に復帰したが,これに反発した義視が同年11月に出奔して西軍に擁立される事態となる.
 しかも,復帰したとはいえ,かつてのように重要任務を任されることはなく,朝倉孝景の寝返り交渉を担当したこと以外に目立った活動は無かった.

 文明3年(1471年)4月,万里小路春房とともに蜂起を企てたと疑われ,春房とともに近江の朽木貞綱(貞綱室は春房の妹)の元に亡命して出家,そのまま引退した.
 文明5年(1473年),若狭で死去.享年57.

 和歌・連歌・騎射の道に長じ,武家殿中の諸礼式や儀杖・兵杖などの故実にも明るく,殿中総奉行・御厩別当を務め,後世に武家礼式の規範とされた伊勢流故実の形成にも多大な影響を与えた.

 『応仁記』では貞親をネガティヴに描いているが,これは16世紀初頭に幕政を主導した細川高國が,細川家と足利将軍家とが協力関係にあったことを喧伝する目的で,乱の原因を日野富子や伊勢貞親のせいにしたためだという.

 著書に『伊勢貞親教訓』があり,賄賂を是認する室町社会の慣習や教育思想を伝える重要史料とされている.

 【参考ページ Referencia Oldal】
呉座勇一『応仁の乱』(中公新書,2016)
早島大祐『足軽の誕生』(朝日新聞出版,2012),p.160-196
https://kotobank.jp/word/伊勢貞親
http://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/jin/IseSadachika.html
http://nablatcha.michikusa.jp/sengoku/sadachikai.htm

【ぐんじさんぎょう】,2017/9/20 20:00
を加筆改修


 【質問 kérdés】
 季瓊真蘂(きけい・しんずい)って誰?
 3行以上で教えて!
Ki az Kikei Szinzui?
Kérem, mondja meg a három vagy több sorokban!

 【回答 válasz】
 季瓊真蘂(1401~1469)は,室町時代の臨済宗一山派の僧.
Kikei Szinzui (1401 - 1469) a Rinzai iskola Issan ága bhikkhu Muromachi-korban.
 相国寺塔頭鹿苑院内の蔭涼軒主(蔭涼職)だったので,蔭涼軒真蘂とも呼ばれる.
 将軍・足利義政の側近として,幕政に影響力を駆使したが,文正の政変で失脚.

++

♥♥

 赤松氏の支族,上月氏の生まれだが,父母は不明.
 惟肖得巌,西胤俊承らから教えを受ける.
 永享7年(1435年),雲頂院の叔英宗播の法を継いで,蔭涼軒の留守居役となり,将軍に近侍する側近となる.
 蔭涼軒は,相国寺鹿苑院内の将軍の小御所であり,留守居役とはいわば将軍と鹿苑院主(僧録)の連絡役だった.

 嘉吉元年(1441年)の嘉吉の乱において,赤松満祐の居城である播磨坂本城に赴き,義教の首級を受け取る.
 季瓊も赤松氏の一族であったことから,この赤松氏没落により失脚,引退.

 長禄2年(1458年),8代将軍足利義政の引き立てで相国寺に戻って政界復帰.
 また,伊勢貞親らと共に義政の政治顧問となり,京都五山の人事権を握って,幕政に影響力を得た.
 相国寺鹿苑院内蔭涼軒に住し,鹿苑院塔主・僧録司宝山乾珍の職務を補佐.
 披露(ひろ)奉行役などを務めてしだいに勢力を得,同軒主を自称.
 僧録司をしのぐ勢力を持つようになり,季瓊の職掌が慣例化し,これを蔭涼職と称するようになった.

 同年,赤松氏遺臣が長禄の変で功績を挙げると,赤松氏復帰を義政に取り立て,赤松政則を当主として再興させた.
 寛正6年(1465年)に義政夫人の日野富子に子(足利義尚)が誕生した後は,義政が次期将軍と約束していた弟の足利義視を排斥しようと策謀.
 松王丸を稚児として預かっていた関係から,斯波氏の家督問題(武衛騒動)にも介入.

 しかし文正元年(1466年),文正の政変で貞親・斯波義敏・赤松政則らと共に失脚.
 応仁元年(1467年),応仁の乱勃発により,戦乱を避けて近江水口から伊勢へと逃れる.
 応仁2年(1468年),義政の命令で京都へ戻ったが,政治に復帰出来ないまま,文明元年(1469年)に死去.享年69.

 【参考ページ Referencia Oldal】
https://kotobank.jp/word/季瓊真蘂
http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/kikeisinzui.html
http://hyakugo.kyoto.jp/hyakuwa/67
http://www.geocities.jp/kimkaz_labo/ki.htm

【ぐんじさんぎょう】,2017/9/21 20:00
を加筆改修

肖像画を発見できなかったので,NHK大河ドラマ「花の乱」の季瓊真蘂(加藤和夫)のワン・カットより

」「」の書き方
こちらより引用)

(画像が崩れている or 表示されない場合はこちら参照)


 【質問 kérdés】
 山名宗全って誰?
 3行以上で教えれ.
Ki az Jamana Szódzen?
Kérem, mondja meg a három vagy a több sorban.

 【回答 válasz】
 山名宗全(1404~1473)は諱を持豊と言い,但馬・備後・安芸・伊賀・播磨の守護大名.
図1 - wikipediaより)
Jamana Szódzen (1404 - 1473) igazi neve Mocsitojo, Tadzsima, Bingo, Aki, Iga, Harimában Sugo-Daimjó (feudális hadúr).
 室町幕府の侍所頭人(とうにん)を務めたが,1441年,嘉吉の乱において赤松満祐を討ち,その功で播磨・石見などを与えられ,一族の勢威を回復.
 応仁の乱では西軍の大将となったが、陣没.

 呉座勇一『応仁の乱』によれば,
「事態を決定的に悪化させたのは,御霊合戦への山名宗全の介入である.
 畠山義就と政長の一対一の合戦でも義就が勝利したはずで,宗全の援軍派遣は蛇足と言わざるを得ない」
「宗全の支援を受けた義就軍が政長軍を撃破すると,盟友の政長を見捨てた形となった細川勝元は,武士としての面目を失った.
 勝元が東軍を組織して開戦を決断したのは,成身院光宣らの進言もさることながら,戦争に訴えず宗全の横暴を認めては,大名連合の盟主としての声望を失うという危機感に由来する」(p.256-257)
という.

 「赤入道」等と言われていたらしいが,wikipedia掲載の肖像画を見ると,意外と「大阪のオバハン」顔なのは秘密だ!

 【参考ページ Referencia Oldal】
https://kotobank.jp/word/山名持豊
http://www.geocities.jp/syuugoro2/yamana.htm
http://kotatu.jp/hyo/itiran/itiran/yamana.htm
http://www.京都通.jp/Sightseeing/HistorySpotYamanaSouzenTeitakuAto.html
呉座勇一『応仁の乱』(中公新書,2016)

【ぐんじさんぎょう】,2017/8/19 20:00
を加筆改修


 【質問 kérdés】
 御霊合戦って何?
 3行以上で教えて!
Mi az Gorjó csata?
Kérem, mondja meg a három vagy több sorban.

 【回答 válasz】
 御霊合戦は文正2(1467)年1月18日~19日,京都の上御霊神社で畠山義就勢と畠山政長勢が激突し,政長勢が敗れた戦い.
A Gorjó csata Bunsó 2 (1467) január 18 - 19-én zajlott le a Hatakejama Josinari és Hatakejama Masanaga hadai között Kamigorjó Sintó szentélyben Kiotóban, Masanaga vereséggel.

 畠山家の家督争いに起因する戦いで,この戦いに先立つ6日,足利義政は政長を管領職から罷免し,屋敷を義就に引き渡すよう命じた.
 これを不満とする政長は,17日夜に自邸を焼き払い,18日未明,京都郊外の上御霊神社に陣取った.
 この神社は,義就の後ろ盾となっている山名宗全の立て籠もる御所の北東に当たる.
 さらに京極持清は御所の南,細川勝元は御所の西に布陣して,御所を包囲した.
 合戦に巻き込まれることを恐れた足利義政は,勝元・宗全双方に両畠山への軍事介入を禁じた.

 同日夕刻,義就が同神社へ侵攻した.
図1:義就進撃路)
 政長勢2000に対し,義就勢は3000.
 政長勢はよく防戦し,翌日04時頃まで持ちこたえたが,山名宗全の命をうけた山名政豊らが義就に加勢すると,ついに敗退.
 政長は細川勝元邸に逃げ込み,その後,行方をくらました.

 この合戦において政長を見捨てた形となり,武士の面目を失った勝元は,その汚名を濯ぐため,宗全に対するリターン・マッチを決意する.
 応仁の乱の始まりである.

 【参考ページ Referencia Oldal】
呉座勇一『応仁の乱』(中公新書,2016),p.82-87
http://takatokihojo.hatenablog.com/entry/2017/04/08/170206
http://history.kaisetsuvoice.com/Nanboku31.html ※図1引用元
http://sports.geocities.jp/ouninnoran0/7/

【ぐんじさんぎょう】,2017/8/23 20:00
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 【質問】
 応仁の乱の戦闘経過を教えてください.

 【回答】
 以下,「週刊まんが日本史・足利義政編」より抜粋(うそ).

------
 文正2年(1467)1月18日
 京都,上御霊社の森付近.
 畠山義就勢.
「出撃準備はできたか!」
「ヤボール! ヘルコマンダール」

 同,森に布陣する畠山政長勢
「敵襲だ! 始まったぞ!」
「総員配置につけ! 武器を点検しろ!」
「お前たち,ケツを上げろ!」
「来たぞ」
「神様,神様,神様……」
 HA HA HA
「弓隊,ファイア(放て)!」
 HUM! HUM!
 SHU!
 CHUNK!
「!」
「突撃! 走れっ!!」
 URAAAAAAAAA!!
 KPANG!
 KAN!
 BTHUMP!
 BTHUMK!
 SAP!
 BLAN!
 BASH!
「増援がないとはどういうことだオレンジ・アイン(細川勝元).
 見殺しにする気か」
「畜生,脱出しよう」
「走れっ!!」

 応仁の乱の第1ラウンドは,山名宗全・畠山義就の完勝に終わった.
 政長は辛うじて落ち延びた.

 だが,その間にも両派の増援は続々と到着する.
 邸は塀をめぐらし,壕を掘って攻撃を待ち構えた.
 京の都では,田舎出の兵が,追い剥ぎや押し込みをする.
 原因不明の出火もあちこちで起こり,世情は騒然となった.

 5月25日,山名宗全邸.
「東軍(細川勢)は兵力,約16万.烏丸通鞍馬口付近から南へ一条通まで,そこから南へ折れて,大宮通まで布陣.
 対して我がほうは,約11万6千.上立売東町あたりを先端にして,千本通まで陣を張りました.
「赤松政則が挙兵して播磨を制圧.備前・美作にも侵入しつつありしたが,政則上洛のため,現在,戦線は停滞中です」
「斯波義敏が越前で武田義廉勢と交戦中,また,尾張にも侵攻中です」
「若狭でも,武田信賢が一色義直勢との戦闘を始めました.一色勢は伊勢でも世保政康の攻撃を受けています」
「いずれも細川勝元の策謀と思われます」
「連中,かなり気合が入ってますぞ」
「これから何が起こるかわからんぞ」

 5月26日.元誓願寺通.
 FOOM! FOM!
 QWAN! QWAAM!
「東軍の火箭攻撃だ!」
 BUH-FOOOM!
「衛生兵! 畜生,早く来い!」
「ファイア! ファイア!」
 HUM! HUM!
 SH-!
 TOSH-!
「ヒィィィ,お母ヂャン!」
「占領は後続に任せろ! 突撃!」
「敵の抵抗に構うな,突破しろ!」
「カス頭低くしろ お前はここを守れ!」
「俺についてこい! 行くぞ兵隊! 俺が戦争を教えてやる!」
 KAN! KAN!
 ZAP!
 ZAK!
 ZAM!
 CE'ZANNE!

「東軍は圧倒的兵力と新兵器・火箭とで,我が陣中央に攻勢をかけています」
「堀川まで兵を下げる.各自の判断で後退」
「細川勝久の屋敷の守りが手薄だ.ここへ集中攻撃! 勝久の首を取れ!」

 一条大宮,細川勝久邸.
 HUM! HUM!
 SHU!
 BUH-FOOOM!
「うわ!」
 URAAAAAAAAA!!
 KAN!
 KPANG!
 BTHUMP!
 BTHUMK!
「うわあ!」
「こら,逃げるな!」
「赤入道に負けてたまるか! 全速前進!」
「2時の方向に赤松政則勢3百!」
 赤松政則は正親町へ折れて下り,猪熊通りを駆け上げる.
 大宮猪熊は人家の密集する小路で,大部隊を展開できない.
 政則は細川勝久邸に入り,彼を救出した.
「脱出する」
「まだ生きてるぞ」
「うるせえ,もう助からねえよ」
 BO! BO!
「なんてことだ.寺や民家を次々焼き払いながら追撃してくる」
「止まるな! 突っ走れ!」

 5月27日,山名本陣.
「遺憾ながら戦況は悪化しております.
 このまま敵の攻撃が続けば,戦線の崩壊も時間の問題かと」
「ほー,オレ様に意見するのか.偉くなったな」
「じ……自分は,その……」
「タコッ!」
 BLAM!
「くそ! いつか殺してやる」
「前方監視を怠るな」
「誰一人生還できなくなるぞ」
「静かだ」
「2人ずつ交代して休む.4時間眠れる」

 東軍の更なる攻撃はなかった.
 勝元は,まだ無傷の騎兵4~5千を有していたが,花の御所の守りを固めただけだった.
 その後,7月下旬~8月に西軍の援軍が来るまで,大規模な戦闘は起こらなかった.

「なんか疲れた」
「若いの,どこの部隊だ?」
「戦争はこれから長くなるぞ」
「あんたは誰だ?」
「誰でもいい.仕事は注意深く,慎重にやれ.油断するな」
「生き残れよ,若いの」

 そして戦乱は,それから約200年続いた…
------

 【参考ページ】
『日本の歴史を見る4 南北朝と室町政権』(小和田哲男監修,世界文化社,2006.7.1)

※ 応仁の乱も扱っているのに,合戦シーンが一つもないどころか,まるでレディコミみたいな不思議な漫画.

【ぐんじさんぎょう】,2010/02/13 23:00
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 【質問 kérdés】
 骨皮道賢って誰?
 3行以上で教えて!
Ki az Honekawa Douken?
Kérem, mondja meg 3 vagy több sorokban!

 【回答 válasz】
 骨皮道賢(?~1468)は室町時代の足軽大将.
Honekawa Douken (? - 1468) Aszigaru (könnyű gyalogság) parancsnoka Muromacsi-korban.
 姓は骨河とも,名は道源,道元,道見とも書く.
 季瓊真蘂(きけいしんずい),甘露寺親長(かんろじちかなが)と共に室町史3大珍名の一人.

 室町幕府侍所所司代の多賀高忠(たかただ)配下の目付とも,細川勝元(かつもと)の目付ともいわれる.
 彼の「手ノ者共」は「都鄙悪党」と称され,都ばかりでなく「京中・山城脇」にも多く存在したという.
 また,多賀高忠は主家である京極家から軍勢を与えられていなかったらしく,高忠は洛中の浮浪の徒を組織化して事に当たったと推測されていることから,道賢も元はそのような者だったと思われる.

 応仁元年(1467年)の応仁の乱において,東軍の足軽大将となる.
 応仁2(1468)年3月15日,配下の足軽らを伏見稲荷山に集めて山名軍の糧道を断ち,下京に火を放ったのが史料上の初見.
 西軍の食料補給路を寸断すると,その勢いで七条の民家を略奪破壊放火.
 下京に走って五条大宮から高倉までをやっぱり略奪破壊放火,と暴れ回った.
 同月21日,山名宗全,斯波義廉,朝倉孝景,畠山義就,大内政弘らの大軍に稲荷社を包囲されると,女装して包囲網を脱出しようとしたが露顕し,朝倉孝景に討ち取られる.
 その最期を「昨日まで稲荷廻し道賢を今日骨皮と成すぞかはゆき」と歌で皮肉られた.

 この骨皮道賢の悪行があまりに酷かったので,乱の終結後,京の知識層からは足軽廃止論が議論されましたとさ.

 【参考ページ Referencia Oldal】
早島大祐『足軽の誕生』(朝日新聞出版,2012), p.12, 189
https://kotobank.jp/word/骨皮道賢
http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2010/03/post-bb10.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-164.html

【ぐんじさんぎょう】,2017/9/22 20:00
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 【質問 kérdés】
 多賀高忠って誰?
Ki az Taga Takatada?

 【回答 válasz】
 多賀高忠(1425~1486)は,近江京極氏の重臣であり,室町幕府京都侍所所司代.
 室町一早口言葉っぽい名前を持つ男.

 応永32年(1425年),守護大名・京極高数の子として生まれる.
 近江甲良町下之郷を拠点とする多賀家(左衛門尉・豊後守)を継ぐ.
 多賀氏は当時,若宮氏と並んで京極氏屈指の有力被官だった.

 高忠は,従兄である京極持清を主君として,その片腕として活躍.
 寛正3年10月5日(1462年10月27日),京都侍所所司代を任ぜられ,土一揆鎮圧と治安維持で名を挙げる.
 そして,室町期の役人としては珍しく公平無私な政治を行い,名所司代の美名を残した.
 しかし文正元年(1466年)12月,持清が延暦寺と衝突して失脚すると,共に解任.

 応仁元年(1467年),応仁の乱が勃発すると,持清と共に1万の兵を率いて細川勝元ら東軍に属し,西軍の六角高頼らを圧倒して,山城に如意岳城を築く.
 文明元年(1469年),六角氏の本拠である観音寺城を一時制圧し,将軍・足利義政から直々に感状を授けられた.

 文明2年(1470年),京極氏は当主・持清と嫡男・勝秀が相次いで病死し,家督を巡り,勝秀の嫡子・孫童子丸派と勝秀の庶子・乙童子丸派との間で争いが発生(京極騒乱).
 高忠は京極家の家宰として,勝秀の嫡子・孫童子丸を家督とし,後見の持清の3男・京極政経(政高)を庇護.
 しかし同年9月,高忠の専横に不満を抱く多賀出雲・若宮らの京極氏老臣が西軍の六角高頼と通じ,守護孫童子丸,後見京極政高,守護代多賀高忠らを国外に追放しようという行動に出た.
 しかも文明3年(1471年),孫童子丸が夭折し,新たな跡目争いが発生.
 高忠は西軍に反撃し,文明4年(1472年)9月までに,湖東・湖北の実権を掌握.
 しかし9月末になると西軍が優勢となり,美濃守護代斎藤妙椿の援助を得た,六角高頼・京極政光・多賀出雲らの連合軍に敗れ,高忠・京極政高らは越前に敗走した.

 文明7年(1475年)9月,高忠は出雲の国人を糾合し,山門僧徒・小笠原家長らの支援を得て,六角高頼・多賀清直父子らに反撃を試みた.
 一時は勝利をおさめたが,西軍の土岐成頼と斎藤妙椿,斯波義廉らを援軍として派遣したたため,出雲の国人三沢氏以下,有力国衆300人の戦死者を出す大敗を喫した.
 以後,高忠の東軍側は湖東を回復することができなかった.

 文明13年(1483年),幕府の仲介で両者は和睦するが,江北は京極高清と昌宗の孫宗直らが実権を握り,高忠は入国すること能わず,弓馬故実家として京都に流寓した.

 文明17年4月15日(1485年5月28日),室町幕府に召されて2度目の京都侍所所司代を任ぜられ,幕命を受けて山城国内の土一揆を鎮圧.
 京都市中の再建にも尽力したが,文明18年8月17日(1486年9月14日),死去.

 和歌・連歌にすぐれ,また,小笠原持長に弓馬故実を学び,『高忠聞書』を著している.

 【参考ページ Referencia Oldal】
http://meitou.info/index.php/多賀高忠
https://kotobank.jp/word/多賀高忠
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/taga_k.html
http://www.arakawa-yasuaki.com/information/sousenji-takatada-graveyard.html

多賀高忠肖像画
(wikipediaより引用)

【ぐんじさんぎょう】,2017/9/21 20:00
を加筆改修

 娘一人に婿三人という事は以下の事である.
 昔ある富める人には娘がいた.
 その娘があるとき舟遊びに出たのだが,どうしたのであろうか娘は船端を踏み外して水に落ち入ってしまった.

 父母は驚き悲しみ,高札を打ち立てた.
「この娘を救ったらは,必ず婿にしよう.」
とのことであった.

 占いをする者が来て,どの辺りに娘の姿があるかを教えた.

 また水泳の上手な者が一人来て,「私が取り上げよう」と言って,すぐに娘を抱き上げた.
 しかし娘は息が絶えて無かった.

 その時医者が来て薬を与ると,娘は再び蘇った.

 その後卜人が言うに
「私が初めに娘のあり所を言ったればこそ,取り上げられたのだ.私が婿になろう.」
 また,水練の者が言うに
「私が抱き上げなかったら,どうやって蘇生できただろうか.私が婿になろう.」
 また医師が言ったことには
「私が薬を与えなかったら.どうして再び寿を保てただろうか.私が婿になろう.」
と争ってしまった.

 所の地頭に伺っても決着が着かない.
 ついに都に上り,多賀豊後守(高忠)の義を受けると
「その様なことがあったのか.
 欲界に生を受けるものはおよそ三百六十種と云われる中で,人がこの中の長である.
 婚合の法は形を交わることにある.
 この時では水練の者が娘に身を添えて肌に触れた.
 これをもって婿にとるべきだ.」
との掟をだされた.

戦国板,2016/04/06(水)


 【質問】
 応仁の乱はなぜ11年も続いたのか?

 【回答】
 多数の守護大名が利害関係から細川勝元側,山名持豊側にそれぞれ分かれ,小競り合いを散発的に繰り返したため,それらが全て撤退するまでだらだらと続いた.
 河合敦によれば,大規模な力攻めが行われたのは,応仁の乱勃発の最初の年(1466)だけであり,以後は両軍とも拠点に強固な陣地を構築し,大兵をもってしても簡単には落とすことができなくなったため,局地戦の小競り合いばかりが続いた.
 1472年には持豊が勝元に講和を持ちかけたが,細川一族の反対により講和はならなかった.
 1473年には持豊,勝元が相次いで死に,翌年にはそれぞれの子供である細川政元,山名政豊の間で講和が結ばれたが,有力大名がなおも在陣しており,小競り合いは続いた.
 1477年,最有力の大内政弘が撤退したことで,他の大名も撤退,ようやく乱は完全に終結した.

 山田智彦によれば,大内撤退の道筋をつけ,乱の後始末をしたのは実は日野富子だったという.

 詳しくは,
河合敦著『なぜ偉人たちは教科書から消えたのか』(光文社,2006/6/30),p.226-231
を参照されたし.

▼ また,在地被官や中間といった多くの階層が武家と何らかの繋がりを有しているような社会状況があり,ひとたび主君である守護同士が争闘を起こすと,それに連なる多くの階層を巻き込んだ大規模な騒擾につながってしまったという.
 詳しくは,
早島大祐『足軽の誕生』(朝日新聞出版,2012)
を参照されたし.▲


 【質問 kérdés】
 足利義視って誰?
Ki az Asikaga Josimi?

 【回答 válasz】
 足利義視(1439~1491)は将軍・足利義政の弟.
Asikaga Josimi (1439 -1491) a Sógun Asikaga Josimasa öccse.
 10男という出自の低さから嘉吉3(1443)年,浄土寺に入室させられ,義尋と称したが,兄の妻・日野富子に男子が生まれなかったことから,寛正5(1464)年11月,義政の後継に指名された.
 還俗して義視と改名,邸宅の位置から今出川殿と称された.
 だが翌年11月,富子に義尚が生まれため,継嗣争いを誘発.
 文正1(1466)年9月,相国寺塔頭(たつちゆう)鹿苑院蔭涼軒主・季瓊真蘂(きけいしんずい)と政所執事・伊勢貞親は共謀して義視の暗殺を計画し,義視は恐慌をきたして細川勝元邸に逃亡.
 山名持豊,細川勝元は一致して義政に貞親らの排除を迫り,真蘂,貞親は近江に逃亡した.
 これを文正の政変と言う.
(図1 - 逃げる義視:想像図)

 なお,俗説では日野富子が自分の子供を将軍に据えようとして義視の排除を図ったと思われているが,呉座勇一によればこれは誤りだという.
 なぜなら義視の妻は富子の妹であり,両者の関係は必ずしも悪くなく,富子は義尚成長までの中継ぎとしてなら義視の将軍就任を支持する立場だったからである.

 1467年,応仁の乱が勃発する.
 義視は当初,東軍に属した.
 だが,義政が再び貞親を登用すると,義政と義視とが対立.
 結局,義視は伊勢に逃れ,
「俺は東軍をやめるぞ!義政ァ―――!」
とばかりに東軍から西軍に鞍替えして持豊らにより将軍に擬された.
 これを西幕府と呼ぶ.
 だがこれにより,和睦派だった義政の態度が一転,硬化してしまう.

 文明元(1469)年,義視は四国・九州の諸大名を味方につける工作に奔走.

 だが,文明3(1471)年に朝倉孝景が寝返ると,義視は動揺したらしい.
「落ちつくんだ『素数』を数えて落ちつくんだ…『素数』は1と自分の数でしか割ることのできない孤独な数字…わたしに勇気を与えてくれる」
と言ったかどうかは知らないが,西幕府の今後を悲観したらしく和睦に傾き,文明10(1478)年7月10日,正式に義政と和睦.
 しかしその後も帰京せず,斎藤妙椿に頼って美濃茜部に寓居.

 延徳2(1490)年1月,義政の死により,義視の嫡男・義材が継嗣に指定されると,ようやく上洛してこれを後見.
(図2 - 略系図)
(画像が崩れている場合は引用元参照)
 翌年病死した.

 【参考ページ Referencia Oldal】
呉座勇一『応仁の乱』(中公新書,2016),p.73, 103-104, 167
https://kotobank.jp/word/足利義視
http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2012/11/post-bb10.html
http://rekishi-club.com/?p=5120
http://blog.livedoor.jp/rekishi_/archives/4.html ※図2引用元

【ぐんじさんぎょう】,2017/9/9 20:00
を加筆改修


 【質問 kérdés】
 西陣南帝って誰?
Mi az "Nyugati Táborban Déli Császár"?

 【回答 válasz】
 応仁の乱の折,東軍は後土御門天皇・後花園上皇を擁していた.
 そこで西軍が「朝敵」のレッテルを貼られないよう,対抗して担ぎ出したのが,南朝の皇胤とされる「西陣南帝」である.
 尋尊の日記「大乗院寺社雑事記」では伝聞情報として,小倉宮の末裔,岡崎前門主の子息であり,すでに法体かと述べられている.
 文明3年(1471年)8月26日に入洛し,北野松梅院に入ったが,担ぎ出しに一番熱心だった山名持豊が文明5年(1473年)3月18日に死去すると,和平交渉において都合が悪いため,また,西軍の中にも足利義視など擁立反対の者がいたことなどから,放擲されて各地を放浪.
 文明11年(1479年)7月19日に越後から越前に到達したことを最後に,史料から姿を消した.

 詳しいことは
森茂暁『闇の歴史 後南朝 後醍醐流の抵抗と終焉』(角川ソフィア文庫,1997年)
を読め.

 ちなみに「熊沢天皇」は,この「西陣南帝」の子孫だと自称している.

南の帝(想像図)

mixi, 2017.8.26


 【質問 kérdés】
 応仁の乱はどんな影響をもたらしたのか?
 3行で教えて!
Milyen az Ónin-háború következményei voltak?
Kérem, mondja meg a három sorban.

 【回答 válasz】
 守護家に迫る勢力を有する国人が台頭,領主化していった.
 そしてその過程で,各地で戦乱が続いた.
 また,守護在京制の崩壊により,幕府は徐々に畿内政権化した.

 詳しくは呉座勇一『応仁の乱』を読め.

【ぐんじさんぎょう】,2017/8/15 20:00
を加筆改修


 【質問】
 中高の歴史で習った戦国時代のことが,いまいちよく解りません.
 戦国時代の発端とされる応仁の乱って,将軍の家督争いが発端のはずなのに,何で9代将軍が決まった後も,戦いが続いたのですか?

 【回答】
 それまでも幕府内で,有力者同士の争いが多発していました.
 年表を見て下さい.
 足利義満が南北朝を統一した後も,様々な乱が立て続けに起こっています.
 当時の人は,自分が生きている間に,必ず一度は戦争に遭遇した訳です.

 それが全国的な戦乱にならなかったのは,有能な将軍が特定の有力者を標的にして,幕府への反乱という形にして摘んでいたからです.
 これら反乱の多くは,家督の相続に関わるものでした.
 したがって反乱が鎮圧された後でも,完全には解決せず,いわば家督の問題が根を引いていた家は,日本中に存在したのです.

 応仁の乱では将軍家そのものが,家督の問題をこじらせてしまい,これによって従来の鎮圧された筈の,他の有力者の家督の問題にまで火がつき,全国的な戦争になると同時に,将軍家の権威が地に落ちて,無政府状態を招来してしまいました.
 京都での戦乱が無くなった後も,将軍家および将軍を担ぐ細川家は,将軍の役割である,地方への武力による統治を及ぼす事が不可能になり,細川家の中でさえ下克上が進行して,畿内も大混乱に陥りました.

 室町幕府自体が,将軍家が巧妙に地方の有力者を共食いさせる事で,権威を保っていた政権でした.
 その影響力が完全に及ばなくなったのが,戦国時代に突入した理由です.

日本史板,2003/10/04
青文字:加筆改修部分


 【質問 kérdés】
 もしタイム・トンネルなどを使い,現代から平和維持軍を送り込んで,応仁の乱を初期段階で強制的に止めたとしたら,どういうことになりますか?
Ha az idő alagú stb.-et használ, küldje a békefenntartókat és határozottan zárja Ónin Háborút le korai szakaszban, mit számít?
 ここでは歴史の改変が現代に与える影響は考えないこととします.

 【回答 válasz】
 細川勝元が面目を失ったことから起きた戦いなので,それが回復されることがない限り,戦乱を止めることは難しい.
 国連PKOが派遣されている地域で実際に起きているような,「超時空PKO」の目の届かないところでの小競り合いが断続的に発生する可能性が高い.
 PKOに対するテロ攻撃もありえる.
 その当時生まれた兵種である「足軽」によるヒット&ラン攻撃が頻発するだろう.
 最悪の場合,かえって戦乱が長引くかもしれない.

 なお,現実のPKOは品行方正の集団などでは決してなく,未成年売春など問題起こしまくりなので,超時空PKOがそれに似たような存在であるなら,別の確執も発生する可能性も高い.
 郷村との間で揉め事起こして,一揆を起こされるかもしれない.
 その場合,権力側への強訴の性格が強い一揆とは異なり,PKO自体を排斥するための一揆となるので,明治以降の一揆のような苛烈な殺し合いになるだろう.

 他方,和平に反対する勢力に対し,PKOの武力を背景にして圧力をかけることができるので,日野富子らによる和平工作が,史実よりも早く進展するかもしれない.
 継戦派の畠山義就と大内政弘も,近代兵器の前には屈せざるを得ないだろう.

mixi, 2017.9.6


 【質問 kérdés】
 大内政弘って誰?
Ki az Óucsi Maszahiro?

 【回答 válasz】
 大内政弘は,最盛期には周防・長門・豊前・筑前,さらには安芸・石見の一部を領有し,強大を誇った守護大名.
Óucsi Maszahiro a hatalmas Sugo-Daimjó (feudális hadúr), aki bírt Szuou, Nagato, Fuzen, Csikuzen, Aki része és Iwami része a fénykorában.
 文安3(1446)年8月27日,大内教弘(のりひろ)の長男として生まれる.
 応仁の乱では西軍の山名宗全に加勢して,応仁元年(1467年)7月に上洛,およそ10年間にわたり畿内各地を転戦する.
 しかし,この隙に乗じ,文明1(1469)年には少弐頼忠(政資)に筑前国を奪取されたり,翌年には伯父の教幸が挙兵して政弘に反旗を翻すなど,領国支配は危機に陥り,「もらうもんもらわんと,タダでは停戦できん」という状況に.
 そのため,文明5年(1473年)に山名宗全・細川勝元が相次いで病死し,山名・細川両氏が和解した後も,政弘は足利義視を京都の自邸に迎え入れ,戦いを継続.
 そこで和平工作を行っていた日野富子は,朝廷と夫の足利義政に働きかけ,文明9(1477)年,大内政弘に対し,従四位下左京大夫(さきょうだいぶ)という官位を与えると共に,周防・長門・豊前・筑前の守護職と石見・安芸の知行地を保証.
 これでようやく大内政弘は京都から撤兵し,山口に帰国.
 翌年9月,九州に渡って少弐氏を討ち,筑前を平定.
 以後,知行制を進め,また,山口の評定衆・奉行人の整備を行い,応仁の乱でゆるんだ領国支配の強化を図った.
 長享元(1487)年,幕府の要請に応じて近江六角氏討伐に派兵.
 延徳3(1491)年には自ら上京して六角氏を討伐した.
 明応4(1495)年9月18日,没.享年51.
 墓は山口市滝町の法泉寺にある.

 【参考ページ Referencia Oldal】
https://kotobank.jp/word/大内政弘
http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2010/11/post-305d.html
http://chuburujapan.com/blog/?p=11626
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/masahiro.html

日野富子に対してゴネる大内政弘(想像図)
(こちらより引用)

【ぐんじさんぎょう】,2017/9/8 20:00
を加筆改修


 【質問】
 室町時代が終わったのはいつ?

 【回答】
 広義には,1333年(元弘3)鎌倉幕府滅亡のあとをうけて,同年の建武政府の成立から,1573年(天正1)南山城の槙嶋城における室町幕府の崩壊までをいうことが多い.

 しかしこの見解も,終期に関しては異説もあり,
・1568年(永禄11)の織田信長上洛までとする意見,
・1576年の安土築城までとする見方
などがある.
 いずれも次の安土桃山時代,ないしは織田・豊臣時代(略して織豊期ともいう)へと続く,政治史上の時代区分であるとの認識では一致している.

 中世後期という場合は,この広義の室町時代を指すのが普通である.
 織田政権を,全国統一を目ざした近世的権力とする見方に立てば,終期は1568年に置くのが妥当であろう.

日本史板,2003/03/06
青文字:加筆改修部分


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