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◆◆◆モンゴル帝国戦史 Háború története Mongol Birodalom
<◆◆モンゴル帝国
<◆13世紀
戦史FAQ目次


(画像掲示板より引用)


 【link】


 【質問】
 モンゴルは金の皇帝をアルタン・カンと呼んだそうですが,金自身は何と称していたのでしょうか?
 カガンなのか,カンなのか,それともまったく別の称号だったのか.
 それとも中国に対しては皇帝で,遊牧民等に対してはカンやカガン等と,相手によって使い分けていたのでしょうか?
 あと,耶律大石はグル・カンと称したらしいが,カガンでないのはなぜでしょうか?
 契丹ではカガンの称号を用いていたと思うのですが.

 【回答】
 中国に対しては皇帝で,遊牧民等に対してはカンやカガン等と相手によって使い分けていたよ.
 皇帝はあくまでも中華に用の名称として使用してたから.
 金王朝は遊牧民などに対しては『天王』とでも名乗ってたんじゃないかな?

 耶律大石のグル・カンとは,全てのとか全世界のカン(汗)と言う意味.
 唐の太宗(李世民)がテンカガン(天河汗)と呼ばれていたのと似たようなものじゃないかな.
 ちなみに鮮卑,柔然の君主は『河汗(かがん)』という称号で呼ばれていて,モンゴル帝国の皇帝の称号である『ハーン』は,この『河汗』に由来している.
 それとカン(汗)もカガン(河汗)も大体,意味は同じ.
 あと契丹は安史の乱以降辺りから,河汗を勝手に名乗り始めた.

世界史板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 なぜチンギス・ハーンはホレズムへ進攻したのか?

 【回答】
 チンギス・ハーンは通交を望んだが,そのための隊商がホレズムの守将によって全員処刑されたためだという.
 以下引用.

-------------
 チンギス・カンの炯々たる目が西トルキスタンへ向けられたのは,1218年の夏である.
 まずカラ・キタイに進攻し,その攻略は僅か3ヵ月で為され,一度も見たことのない優美な果実・絨毯・葡萄酒・優美な工芸品などが手,次々と沙漠を越えて蒙古高原へ送られていった.
 カラ・キタイもさることながら,チンギス・カンが最も大きい魅力を感じているのは,その向うの未知の大国ホレズムであった.
 チンギス・カンも,この回教徒の大集団が屯している地帯にはうっかり手を出せない気持ちだった.
 まず平和手段によってホレズムとの通交を策した.王族や武将達の間から出された者達で450人の一団が組織され,隊商として沙漠の国へ向かった.
 この一団は,シル・ダリヤ河畔のオトラルに到着したが,同地の守将であるガイルカンによって商品は略奪され,450人のモンゴル人は悉く処刑されてしまった.
 ガイルカンは,自分が為した行為がいかなる結果を招くかは想像もできなかったに違いない.全西トルキスタンはこれから何年にも渡って,殆ど人類が考えることのできぬほどの大きい報復を受けなければならなかったのである.

-------------(井上靖著『西域物語』,朝日新聞社,2003/6/1《オン・デマンド版》,p.85-86)
-------------
 無名のモンゴルの首領がフワーリズム・シャー<ホラズム朝とも言う>に当てて手紙を書き,次いで強大なブハラのムスリム支配者に対し,2国間の協定を提案した.
「余は日出づるところの統治者なり」手紙は気取って宣言している.「貴殿は日沈むところの統治者なり.友好と親善と和平の,固き協定を結ばん」
 モンゴルの首領は,のちにチンギス・ハーンとして知られるようになったが,高慢なフワーリズムからは返事を得られず,使者を急送すると,その使者は顎鬚を焼かれて送り返された.
 それは,チンギス・ハーンがムスリムの王族から受けた最初の侮辱ではなかった.
 トルクメン軍の心地良いキャンプで,カーペットの上に座るよう勧められたときは,絨毯の下に穴が掘られているのを発見した.
 当時世界を代表する文明の傲慢さは,大きなイスラム都市を沙漠にまで落ちぶれさせるほどの激しい怒りをチンギス・ハーンに起こさせた.

-------------C. Kremmer著『「私を忘れないで」とムスリムの友は言った』(東洋書林,2006/8/10),p.92

 互いに関連性のない2つの文献に,ほぼ同様の記述が見られることから,これが通説であると考えられる.

チンギス・ハーンと,そのテーマ・ソング


 【質問】
 チンギス・ハーンとホレズムそれぞれの総兵力は?

 【回答】
 蒙古軍20万に対し,ホレズム軍40万.
 以下引用.

 1218年,チンギス・カンは親族・重臣・老臣を集めて,ホレズムへの進軍を令した.
 そして1219年,20万のモンゴル兵は兵甲を纏った狼群となって,蒙古高原を発し,アルタイ山脈を越えた.

 チンギス・カンはイルティシ河畔に留まり,そこで夏から秋までを過ごし,ホレズムの動静を探るという慎重な態度をとった.
 そして,チンギス・カンが全軍にホレズム北東国境への侵入を命じたのは,秋の中頃であった.

 ホレズムはモンゴルに対して40万の軍勢を,天山から発しアラル海に注ぐシル・ダリヤの長い帯に沿って点在する何十かの城砦に配していた.

 狼軍は襲いかかった.
 チンギス・カンの長子ジュチ(画像)は第1軍を率いてシル・ダリヤの下流に,次子チャプタイ,3子エゲディの2人は第2軍を率いてシル・ダリヤ中流のオトラル城に,それからモンゴルの若い武将達は第3軍としてシル・ダリヤ上流に,4子ツルイは第4軍の長として,シル・ダリヤの向こうにあるホレズム軍の大拠点ブハラ城を目差した.

 全軍出動に先だって,チンギス・カンは麾下(きか)の全将兵に,この作戦の意味を2つの命令によって明らかにした.
 一つは,この作戦は主権者ムハメットの息の根を止めるまで継続しなければならぬこと.
 2つは,降伏者は生かし,反抗者は老若男女,兵と市民の別なくことごとく殺してしまうこと.
 チンギス・カンの,この作戦に対する向かい方がいかなるものであったか,これによって知ることができるというものである.
 そしてまた,チンギス・カンは出陣に先立って,自分の後継者を第3子エゲディに定めた.
 チンギス・カンにとっても決死の遠征であったのである.

(井上靖著「西域物語」,朝日新聞社,2003/6/1《オン・デマンド版》,p.86-87)


+

 【質問】
 ブハラはどのように蒙古軍の手に落ちたのか? 

 【回答】
 蒙古軍は沙漠地帯を横断し,途中の城砦から財と兵を徴発しながらブハラに到着,ブハラの篭城軍をアム・ダリヤ河畔で破り,ブハラを廃墟としたという.
 以下引用.

 チンギス・カンは,ブハラを目差す末子ツルイの兵団に身を置いた.
 そして月余に渡って沙漠地帯の行軍を続け,最初の城砦であるゼルヌーク市に達した.
 そして,城門の前において叫ばしめた.
――モンゴルの大軍,城門に迫れり! 汝ら,もしいささかなりとも抵抗せば,城塞家屋はたちまちにして滅却! 汝等もし降伏せば生命財産を全うせん!
 抵抗はなかった.一切は宣言通りに行われた.市民は城外に出され,若者は兵として徴せられ,他は住居に帰るを許された.
 それから3日間に渡って城内は掠奪され,めぼしい物は軍に収められ,砦という砦はことごとく破壊された.
 更に月余の行軍の果てにヌールの城邑に達するや,ここでも同じことが行われた.
 そしてモンゴルの大騎馬隊は一路ブハラを目差した.途中で越年し,ブハラ郊外に達したのは1月中頃であった.
 城内の篭城軍は2万,それをモンゴルの大軍は包囲した.
 降伏の勧告は前と同じように為されたが,篭城軍はそれに応じなかった.
 2万の篭城軍は城から打って出て血路を開こうとしたが,アム・ダリヤの岸でそのことごとくが屠られ,ためにアム・ダリヤの流れは赤く染まった.
 モンゴル軍は再び城邑にとって返し,なおそこに居残っていた4百の兵を3日がかりの戦闘で屠った.
 これが終わると,ブハラの市民は着の身着のままの姿で城邑から出された.
 そして女性という女性は兵に分ち与えられ,男達は軍に徴用され,財産はことごとく没収され,その上で空っぽになった城邑には火がつけられた.ブハラの町は文字通り灰燼に帰してしまったのである.

 モンゴルの兵団は,鬼哭啾啾(きこくしゅうしゅう)たる無人の廃墟を後に,ブハラよりもう一回り大きい城市サマルカンドを目差した.

(井上靖著「西域物語」,朝日新聞社,2003/6/1《オン・デマンド版》,p.67-68)


 【質問】
 サマルカンド攻防戦における双方の兵力は?

 【回答】
 モンゴル軍は20万以上.
 ホレズム軍は4万~6万としているが,定説はない模様.
 以下引用.

 この時サマルカンドにはいかなるホレズムの兵力が貯えられていたか.有名なドーソンの「蒙古史」は守備兵4万と記しているが,それぞれ古い資料によって学者達の見解はまちまちである.
 中央アジア史の権威で30年ほど前に亡くなったウェ・バルトリドは大著「モンゴル侵入時代のトルキスタン」において,色々な推定を披露している.11万の軍と30頭の象という古い記述もあれば,4万,5万,七万という記録もある.また,トルコ人,タジク人,ガール人,ハラジ人,カルルク人などを含む6万人であったという説もある.
 ホレズムもまた,モンゴルの来襲に備えて相当の兵力をサマルカンドに集結していたのである.

 元の太宗の時,編まれた,モンゴルの「古事記」とでも言うべき「成吉思汗実録」には,モンゴルの金国侵冦までのことが記されてあるが,惜しくもそこで筆は擱(お)かれてあり,モンゴルの西トルキスタンにおける行動は,この書物からは知ることはできない.
 この方面の研究で古典的名著とされているものはドーソンの「蒙古史」であり,〔略〕ドーソンに依ってモンゴルのサマルカンド侵略を見てみよう.
 〔略〕

 途中,チンギス・カンは兵を割いて近隣の2城に向かわしめ,主力はそのまま富める城市サマルカンドを囲んだ.
 ブハラの男達は,そのことごとくがサマルカンド攻略のために連れて来られていたが,ここへの行軍の疲労のために落伍した者は皆,斬られていた.
 〔略〕

 サマルカンド攻囲軍は,ブハラ攻略時よりずっと大きく膨れ上がっていた.ブハラ市民の中の男という男をことごとく挑発してきていたし,また,ブハラからサマルカンドへ来る途中の農村を過ぎる度に,農村の住民の多くを徴していた.いずれもサマルカンド攻城作戦に使うためのものであった.

 〔略〕

 チンギス・カンは城を囲むと,先ず捕虜を戦闘隊形に配置して,10人ごとに旗を上げさせた.
 城内の防衛軍の目には,雲かのごとき大軍が西の西方に犇き合っているように見えたことは,言うまでもあるまい.
 そうしているところへ,オトラル攻略の目的を果たしたチャプタイとエゲディの軍が来たり会した.ために攻囲軍は更に数を増した.

(井上靖著「西域物語」,朝日新聞社,2003/6/1《オン・デマンド版》,p.92-94)


 【質問】
 サマルカンド攻防戦の経過は?

 【回答】
 緒戦にサマルカンド市民軍が討って出てきたが,モンゴル軍に包囲されて全滅.
 守備兵は2千を残して降伏.
 1千はモンゴル軍を突破してホレズム王の軍に合流できたが,残る1千は中央寺院において全員戦死したという.
 以下引用.

 サマルカンドを囲んだモンゴル軍のその後の動静と,この美しい城邑の悲劇がいかなるものであったか,バルトリドの「モンゴル侵入時代のトルキスタン」によって紹介してみよう.
 〔略〕

 チンギス・カンは,サマルカンド郊外のサライ宮殿に落ち着いた.時代が降って,後にチムールもまた同名の宮殿に入っているが,もちろん名称が同じで,場所もほぼ同じ西の郊外であるとされているが,同じ宮殿ではない.
 チンギス・カンは城を囲むと,先ず捕虜を戦闘隊形に配置して,10人ごとに旗を上げさせた.
 城内の防衛軍の目には,雲かのごとき大軍が西の西方に犇き合っているように見えたことは,言うまでもあるまい.
 そうしているところへ,オトラル攻略の目的を果たしたチャプタイとエゲディの軍が来たり会した.ために攻囲軍は更に数を増した.

 包囲三日目に,突如として烈しい戦闘は開始された.城からサマルカンドの市民達だけで構成された突撃軍が討って出てきたからである.このときの出撃軍の数は5万とも伝えられ,あるいはまた7万とも伝えられている.ホレズムの正規軍は加わっていなかったので,まったく市民だけの決死隊で,彼らがいかにモンゴルに対して烈しい敵意を持っていたかが分かる.

 モンゴル軍は一度退却し,その上でこしゃくなサマルカンド市民軍を待ち伏せしていた.
 いかに烈しい敵意を持とうと,サマルカンドの市民兵は千軍万馬のモンゴル軍の敵ではなかったのである.
 包み込まれては討たれ,包み込まれては討たれ,5万あるいは7万のサマルカンドの市民兵は,ただ一人をも残さず屍となってしまったのである.

 この緒戦の決定的敗北が,篭城軍の士気にいかに大きく影響したかは,容易に想像できることである.城を囲まれて5日目にして,篭城軍は降伏する以外いかなる手段もないことを知ったのであった.
 しかし,降伏を潔しとしない兵達もあった.それらの兵2千は砦に拠って最後まで闘う決意を固めた.
 城内の兵は,決戦派と降伏派の2つに分かれたのである.

 決戦派が砦に拠ったあとで,軍の司令官トゥガイ・カンはモンゴル軍との間の交渉に乗り出した.
 トゥガイ・カンは,モンゴル軍が提出するただ一つの条件をそのまま呑まなければならなかった.そのただ一つの条件というのは,降伏兵の一人残らずが無条件でモンゴル兵に仕えるということであった.
 暫くして3万の兵は城を出た.これと同時に市民達は市民達で,また代表をモンゴル軍に送って,降伏の誓約をした.

 城門が開かれると,直ちにモンゴルの騎馬隊は入ってきた.
 彼らが最初に為したことは,防備施設の破壊であった.頑強に抵抗しようとする兵達の拠っているただ1つの砦を残して,他はことごとく跡形ないまでに壊された.
 この作業が終わると同時に,サマルカンドの市民達は城市から出されて,郊外の1ヶ所に集められた.
 そして市内はモンゴル兵達によって徹底的に掠奪され,めぼしい物は一物残らず軍に収められ,不要な物は壊された.

 そうしたことが為された後で,抵抗派の拠っている砦はモンゴル兵の突撃に曝されたが,この戦闘は激烈凄惨を極めたものであった.
 モンゴル兵はまず,鉛の管に拠ってでき上がっている運河を壊し,その水が砦の一部に溢れて,その側壁のある箇所を削り取ったのを合図に,そこを突撃路として最期の攻撃に移ったのであった.
 このとき,砦の抵抗軍の司令官アルプ・エル・カンは1千人の決死の兵を率いて砦から打って出て,モンゴルの隊列を突破してホレズム王の軍に合流することができた.
 しかし,砦にはなお1千人の守備兵がおり,この方は中央寺院に集まったが,ここでモンゴル兵の放った火の中で,モンゴル兵の猛攻の的となって全員討ち死にしてしまわねばならなかった.

(井上靖著「西域物語」,朝日新聞社,2003/6/1《オン・デマンド版》,p.93-95)


 【質問】
 モンゴル軍に占領された後のサマルカンドはどうなったのか?

 【回答】
 降伏兵3万は皆殺しにされ,サマルカンドは廃墟とされたという.
 以下引用.

 初めトゥガイ・カンに率いられて降伏した兵達は,郊外の1ヶ所に集められ,生命だけは助けられるという期待は裏切られ,そこで全員殺されてしまったのである.3万人以上の兵と,20人の指揮者が含まれていたとも言われる.大量虐殺である.

 それから,城から出された住民達も郊外の1ヶ所に集められたが,その内,技術者,職人の3万人は,チンギス・カンの一族に分け与えられるために遠く蒙古高原へ送られ,他に同数の3万の男達は攻城作業のために徴せられた.
 残った物はどれだけあったか不明だが,恐らくは使いものにならない老人や女子供達許りであったのであろう.これらの者は20万ディナールの身代金を払うことによって,廃城となったサマルカンドの町へ戻ることを許された.
 しかし,サマルカンドの町へ戻っても,徴発はなお次々に行われた.暫くしてサマルカンドは見る影もない無人の都に化してしまったのである.

(井上靖著「西域物語」,朝日新聞社,2003/6/1《オン・デマンド版》,p.95-96)


 【質問】
 チンギス・カンのムハメット追撃はどうなったのか?

 【回答】
 2兵団を追撃部隊として差し向けたが,ムハメットが病死していたと知ると,コーカサス,東欧を荒らし回った後,4年後に帰還したという.
 以下引用.

 チンギス・カンは,全くの死の町と化したサマルカンドにおいて,各方面の作戦に行動していた枝隊の来たり会するのを待って,その上でサマルカンドを棄てた.ホレズムの主権者ムハメットを追撃しなければならなかったからである.
 そして,その目的のために2つの部隊が編成された.
 チンギス・カンによって最も信頼されているジュペ,スプタイの2人の武将が,その2つの兵団の指揮者となった.
 この2兵団はその後,長く消息を絶ったが,ジュペとスプタイはチンギス・カンの期待に背かず,ムハメットを追って,カスピ海の南岸を迂回したが,ムハメットがカスピ海の孤島に逃れ,そこで病死していることを知ると,ムハメット追撃という目的のなくなった2兵団は,子の頃から何物かに憑かれたような行動を起こすことになる.
 コーカサス山脈を超え,行く先々で,敵対する諸民族の連合軍を破り,ブルガリアに入り,各所で戦闘を続けながら,次々に城邑を廃墟とし,イラク・アジエミ,アゼルバイジャン,クリギスタン,グルジア,シリア,アルメニア,キプチャック,ブルガリアと,目の前に現れる諸城市を攻略していく.
 その行動は,風に煽られて次々に山野を焼いていく火のそれに似ていた.
 そして,それでも足りなくて,ジュペ,スプタイの2兵団はオロスに侵入,オロスの諸侯の連合軍を破り,南オロスを瞬く間に修羅場に化し,ドニエプル河畔からアゾフ海沿海地方を目差した.全くの魔軍の通過であった.
 そして満4年経ってから,この兵団は帰還するが,2人の統率者の内,ジュペはこの底抜けの大遠征の途上,病死していた.

(井上靖著「西域物語」,朝日新聞社,2003/6/1《オン・デマンド版》,p.97-98)

 ホレズム王アラジン・ムハメットの運命は,サマルカンド陥落の日を境にして大きく捻じ曲がった.
 それまで夢にも思わなかった悲運がのしかかってきたのである.
 ホレズム領内に侵入してきた敵は,普通の敵ではなかった.それが通過して行くところはことごとく灰燼に帰し,都邑も人も亡んだ.
 しかも,廃墟になったサマルカンドを基点として,モンゴルの2集団はムハメット追跡のために動き出し,本隊はホレズム領内の全都邑を滅却するために行動を開始したのである.

 サマルカンドが火に包まれた日から,ムハメットには逃亡があるだけだった.
 まだ何十万かの軍隊はあるはずであったが,そんなものはホレズムの王には何の頼みにもならぬ無力なものに見えた.実際にまた無力であった.次々に城邑は破壊され,住民は殺されていった.

 ムハメットはあちらに逃げ,こちらに逃げ,遂に逃げ場所を失って,カスピ海の一孤島に逃げ込んだ.
 モンゴル兵が蒙古高原を発し,アルタイ山脈を越えたのは1219年の春であり,ホレズム国内に侵入してきたのはその年の秋である.
 そしてムハメットがカスピ海の孤島に入ったのは1220年の後半のことであろうと思われる.
 いかにモンゴルの追跡が神速を極めたものであったかが分かる.
 ムハメットは今や全く無力であった.貧しく,しかも病を得ていた.
 不運な王は死期の迫るのを知ると,子供達を枕元に集め,ジェラル・ウッディンを後継者に任命し,兄弟が力を併せたなら必ず国を救い出せるだろうと言った.
 ムハメットの遺骸はその島に埋葬されたが,経帷子(きょうかたびら)もなく,シャツ1枚を着せられて葬られた.1221年の1月10日のことである.

(同,p.100-101)


 【質問】
 ジェラル・ウッディン最初の戦いの様子は?

 【回答】
 モンゴル軍の包囲を300人で敵中突破したものの,弟2人は捕らえられて処刑されたという.
 以下引用.

 ジェラル・ウッディンは弟達からの情報を得ると,自分もまた沙漠の中の拠点であるウルゲンチに赴いた.
 新しい若いホレズム王のために,9万の兵が集まった.
 ジェラル・ウッディンはしかし,気を許すことはできなかった.9万の兵が彼の指揮下にあったが,それらは全くの寄せ集めの無頼漢達であった.
 モンゴルの兵団はウルゲンチを目差していた.
 この報が入ると,部下達は動揺した.中にはジェラル・ウッディンを捉えて,降伏を図ろうとする者さえあった.
「モンゴルの狼達が近付いている許りでなく,この城の内部にもいつ反乱を起こすか分からぬ狼達がいっぱいおります.ひとまずここを逃げ出す以外仕方ないでしょう」
 部下の幹部の一人であるティムール・メルリックが言った.この男はホレズムの中で勇猛を以って聞こえていた武将であった.
 ジェラル・ウッディンはメルリックの言を容れ,夜に紛れて城を出た.メルリック,2人の弟,それに3百の親衛隊が加わった.

 しかし,彼らは間もなくモンゴル軍に大きく包囲され,その輪が次第に縮められつつあることを知らなければならなかった.
 ホレズムの若い王の一隊は16日かかってカラ・クム沙漠を横断し,ネッサを目差したが,行く手はモンゴルの兵団によって遮られていた.

 ジェラル・ウッディンの最初の戦闘は行われた.3百余人が一団となってモンゴルの兵団の中に突入して行った.
 そして敵中を突破して,ヒンズークシュ山中のガズニに向かって奔った.
 この戦闘で2人の弟達はモンゴルに捉えられ,首を刎ねられ,その首は槍に刺された.

(井上靖著「西域物語」,朝日新聞社,2003/6/1《オン・デマンド版》,p.)


 【質問】
 パールワンの戦いとは?

 【回答】
 ジェラル・ウッディンがモンゴル軍を山間部に誘導し,モンゴル軍に対して勝利した戦い.
 以下引用.

 ガズニに逃れたジェラル・ウッディンは,ここで6万から7万の兵を集めることに成功した.ホレズムの新しい若い王であるということには,まだこの程度の魅力はあったのである.
 これを知ったモンゴル軍は,同じヒンズークシュ山中のバーミアン地方へ移動を開始するに到った.
 これに呼応して,ジェラル・ウッディンもまた軍を動かした.
 そしてパールワンにおいて両軍は接触し,2日に渡って激戦は展開された.

 ジェラル・ウッディンは戦闘については天才的なものを持っており,作戦が決定すると,それを遂行するためには勇猛であり,果敢であった.
 モンゴル兵達は中央アジアにおいて,初めて手強い相手にぶつかったのであった.
 モンゴルの狼達は身動きのできない山間部に誘導され,そこで包み込まれ,散々に痛めつけられて,手痛い敗戦を喫した.敗走する途中において,多くのモンゴル兵は討たれた.

(井上靖著「西域物語」,朝日新聞社,2003/6/1《オン・デマンド版》,p.102-103)


 【質問】
 インダス河畔の戦いとは?

 【回答】
 ジェラル・ウッディン軍がモンゴル軍にインダス河畔にて包囲され,起きた戦い.
 ジェラル・ウッディン軍は大敗し,残存兵力はインダス川に飛び込んで対岸に逃れたという.
 以下引用.

 〔パールワンの戦いの後,〕やがてこのホレズム再興軍は,モンゴルの主力兵団がこちらに移動しつつあるという報告を受けた.主力兵団という以上は,チンギス・カンの率いる部隊に違いなかった.
 ジェラル・ウッディンは兵を纏めて,インドに向かって退却を開始した.
 しかし,このホレズム軍がガズニを引き上げてから15日目には,モンゴル軍もまた北インドへ入っていた.殆ど信じられぬような速さであった.
 そして,ジェラル・ウッディンの軍はインダス河畔において,チンギス・カン自身が率いるモンゴル軍の捉えるところとなったのである.
 こうしたところは,訓練された兵団と,雑多な民族の交じり合った烏合の衆との違いであった.
 この場合に限らず,ジェラル・ウッディンはいつも部下には恵まれなかった.勇敢な武将ティムール・メルリックだけが頼みであった.
 インダス川の流れを弦として,モンゴル軍の半円形の布陣は徐々に縮められて行った.戦闘は各所で行われたが,モンゴル兵の敵ではなかった.
「パールワンの場合と反対になりました.あのときはモンゴルを山間部に閉じ込めて,散々やっつけたが,今度はこっちが川岸に閉じ込められて,さんざん討たれています」
 ティムール・メルリックが言うと,
「いや,我々の場合は,まだ逃げる道がある」
 ジェラル・ウッディンは言った.
「逃げる道!? どこですか」
「川のほうには敵はいない」
 このジェラル・ウッディンの言葉で,ティムール・メルリックは一瞬,息を呑んだ表情をしたが,
「よろしい,やってみましょう」
と言った.
 やがて,全軍に最後の突撃をして血路を開くこと,若しそれが成功しない場合は,インダス川に飛び込んで逃れること,こういう命令が下された.

 最後の突撃は空しかった.兵は討たれ,包囲陣は縮まった.
 ジェラル・ウッディンは胸甲を外して馬に跨り,馬諸とも20フィートの断岸からインダスの流れに飛び込んだ.
 ティムール・メルリックが続き,兵が続いた.
 ジェラル・ウッディンは盾を背にし,軍旗を手にして濁流を渡っていった.
 モンゴル軍から矢は一斉に射出されたが,間もなく矢の雨は歇(や)んだ.チンギス・カンが矢を背後から浴びせることを止めたからである.
 チンギス・カンにも,このホレズムの若い王の行動は,胸のすくような勇敢さで映ったのである.

 ジェラル・ウッディンはインダスの濁流を渡りきると,対岸で生き残りの兵4千を集め,陣容を立て直して,モンゴルの追跡を避けながらデリーに向けて退却して行った.
 翌年,モンゴル軍はインドから引揚げて行った.
 ガズニは再びジェラル・ウッディン軍の根拠地にならぬように,形ないまでに壊された.

(井上靖著「西域物語」,朝日新聞社,2003/6/1《オン・デマンド版》,p.103-105)


 【質問】
 ジェラル・ウッディンはその後,どうなったのか?

 【回答】
 インダス川を再び渡って徐々に失地を回復していったが,新たなモンゴル遠征軍の前に敗北し,逃亡中,名もなきクルド人に殺害されたという.
 以下引用.

 ジェラル・ウッディンは,父から受け継いだ広大な土地を回復するために,再びインダス川を渡り,徐々に四隣を征服し,勢い漸く強大になったが,チンギス・カンが歿し,その子エゲディの即位と同じ,新たに中央アジアに派せられてきたモンゴル軍と干戈を交えなければならなかった.
 ジェラル・ウッディンがモンゴル軍に囲まれたのは,イランとイラクの中間の,クルド人の住む山地であった.
 その急襲を受けるや,ジェラル・ウッディンはひとたびは2,3の従者と共に逃れることができたが,小さい集落において,遂に名もなきクルド人のために殺されるに至った.1227年のことである.

 後世,史家は,ジェラル・ウッディンを極端と言えるほど勇敢で,静かで,重々しく,無口だったと伝えている.
 それと同時にまた,贅沢で飲酒と楽曲に耽り,酔って寝ていることが多かったとも伝えている.
 勇敢ではあるが,部下の統率力に欠けるところがあったのは事実のようである.

 しかし,モンゴル軍に対するただ一人の抵抗者として,当時の被征服民達がジェラル・ウッディンに大きい魅力を感じ,少なからぬ期待を寄せていたことは,彼の死後,自分こそジェラル・ウッディンであると名乗るペテン師が多く現れたことで明らかである.

(井上靖著「西域物語」,朝日新聞社,2003/6/1《オン・デマンド版》,p.105-106)


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