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戦史 目次


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『幕末 もう一つの鉄砲伝来』(宇田川武久著,凡社新書,2012/09/16)


 【質問】
 海軍ってどの時代から独立した軍隊になったんだろうか?
 日本は黒船がやってくるまでは,海軍のようなものは無かったんだろうか?

 【回答】
 勝海舟(写真)は日本国海軍(幕府海軍),日本の主権者が国軍として創設した海軍の初代司令官.
 竜馬は海軍兵学校初代校長(みたいなもの),生徒には日清戦争時のGF長官伊藤祐之などがいた.
 海軍とは,
「海洋国益保護,海洋法秩序の維持,海難救助,海洋調査,海洋における国家主権の維持,海上交通の防護」
が任務であって,陸軍の支援を主目的にしていた日本の戦国時代の「水軍」とは根本的に違う.

 昔のは海軍ではなく海賊勢力.
 誰かの命令に従って動くわけではなく自分たちの意と慣習のままに動き回ってた.
 それが厳島合戦辺りになると陸上勢力の統制下に置かれる有力な水軍というのも出始めたわけだ.海上交通権を握る為に戦う部隊という点では「海軍」だな.

 海軍という概念ができたのが大航海時代~植民地の時代.
 ヨーロッパでは,それまではおまけ程度だった海軍(といえないがそれに順ずる存在)が,一気に重要な役割を果たすようになった.
 一方,日本ではそんな時代はなかったので,発達どころか江戸時代にわざと退化させた.

 で,海軍がなぜ重要になったかというと,言うまでもなく植民地とのルートの確保やらなんやらでとにかく「海」が重要になった.
 それに早く気がつき,海軍の整備を進めたのがスペインやオランダ・そしてイギリス.
 この辺が近代海軍(つまり現代につながる海軍の元)の原型じゃないかな?
 時代が進み,場所も日本に移って明治維新になると,当然どの国のさらに進歩した海軍を持っている.
 日本が近代国家を作るにあたって海軍力は重要なわけで,当時の欧米列強の海軍を手本に海軍を整備したといっていいと思う.
 「海軍」って言葉がいつできたのかは知らんが,先述のように,海軍というと19世紀後半から現代ぐらいを指す.(本格的な海軍,制海権やシーレーンの防衛などを行うとすると)
 だから日本において「海軍」と言えば19世紀から現代に至る,海上戦力を保有した国家の軍隊の1組織ってこと.

 長ったらしく書いてしまったが,こんなもの所詮「言葉遊び」であって,結論なんか絶対出ないと思うけどね.

unknown
&軍事板,2005/07/22(金)(黄文字部分)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ペリー艦隊来航当時の徳川幕府の艦船装備は?

 【回答】
 和船十数隻.蒸気船は皆無.
 最大艦は関船「天地丸(あめつちまる)」で,76挺立,全長28m.第3代将軍,家光の時代の建造.
 将軍が乗る「御座船」は永寿丸.12挺立,全長17m.

 詳しくは「世界の艦船」2006年10月号,p.116(中名生正己 なかのみょうまさみ =日本海事史学会会員=著述)を参照されたし.


 【質問】
 ペリー艦隊来航以前に,幕府が蒸気軍艦保有を計画したことはなかったのか?

 【回答】
 あった,と言えるかもしれない.

 天保後期,江戸湾防備をする為には,羽田・下田両奉行所の設置,川越松平家,忍阿部家による相州,房総の警備,鉄砲方の増強,大筒組の創設など陸上警備に重点が置かれ,海上での阻止は余り顧慮されていませんでした.

 とは言え,幕府は不可解な動きをしています.
 1843年4月,蒸気罐及び蒸気船が
「山海之運行自在之製作ニて,近頃イギリス抔ニては別て精巧工夫も盛ニ相成候由」
を聞き及んだ幕府が,オランダ商館長に対し,長崎で製作可能か,本国の注文が可能かを質し,それぞれの場合の経費と江戸間での回航費を見積もらせています.
 商館長は,蒸気罐と蒸気船についての簡単な説明を行った上,本国への発注可能性も経費も不明なのでバタヴィアに照会すると回答していました.

 この蒸気船,長さ150ft程度の船で,教育の為に航海士以下10名の乗組員を日本に招聘した場合の給料や年間経費までも問い合せていたりします.
 因みに仕様には,「船之沈ミ深サ成丈浅方可然」となっており,遠浅の江戸湾内での使用を想定していた事が伺えます.
 ただ,本国への照会に対する回答期限は幕府側は一切付けておらず,本当に導入する気があったのかどうかは,未だに不明な部分が多かったりします.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/03/18 22:15


 【質問】
 幕末における,幕府のスループ整備状況は?

 【回答】

[quote]
古来より異船ニ紛候品御停止と申も深き御趣意有之故之儀と被察,殊ニ新規新法之儀ハ万事差支多きものニ有之,右スループ之儀ハ外国より渡来いたし候節之御設け二候処,異様之品ヲ以対揚仕候は実以御国体ニ相拘,残念之儀ニ御座候,抑日本之儀ハ古来より神国と相唱へ,一姓血統世界第一之御国柄二候処,蛮夷鴃舌鳥獣同様もの用ひ候品態々模擬製作いたし,夷狄之風俗ニ任せられ候ハ可恥之甚と奉存候,尤浦賀奉行追々申上候通,実用便利之品二は可有御座哉ニ候得共,伊豆守儀蛮夷之事実逐一論究考策仕罷在候事共被存,全西洋者流紙上之論談之趣ヲ尤と存,追々申上候哉ニて,古来よりの御制度ニ違ひ候而も已ならす,蛮夷え対御外聞二も拘り,自然日本之御恥辱を引出やう之次第二も可成行哉と恐入候義に御座候
[/quote]

 19世紀に入り,オランダの外海防衛力が弱まり,かつ,欧米諸国の東方進出が顕著になってくると,英国や米国,フランス,ロシアから果てはデンマークに至るまで,日本に軍艦を派遣して通商を求める様になってきます.
 幕府としても安穏としておられず,海防に強化する事になる訳ですが,水野忠邦政権の時代は,松平定信政権に反発する勢力が主体であったことから,海防は陸上からの砲撃を以て良しとすると言う時代が続きました.
 しかし,その戦法は依然として甲州流軍学に立脚したものであり,19世紀から欧州各国で発達してきた歩兵,騎兵,砲兵を主体とする戦闘とは相容れないものだったりします.

 これを改める動き,例えば,1840年に実施された高島秋帆とその門下による西洋流軍学を用いた徳丸原での演習は,幕府の鉄炮方から酷評されます.
 つまり,これらの諸兵科戦術を用いると言う事は,全員が火器を執って集団で戦うと言うものであり,従来の様に個人が刀槍を手にして,個人と戦うと言う戦術とは相容れないこととなり,それを受容れると言う事は,支配階級として日本に君臨してきた武士の立場を危うくする事になります.

 この為,高島秋帆の演習は,万人から受容れられるものではなく,モルチール筒(臼砲)とホーイッスル筒(榴弾砲)各1門を高島秋帆から買い入れ,幕臣一人に高島流砲術を皆伝する様に命じただけで終わりました.

 当時の時代的には,一方の端に西洋技術を導入することが,技術だけではなく,様々な分野に波及する事を恐れ,新たな外国技術の導入を認めない現状維持論派と,他方の端には有用であれば,西洋技術を積極的に摂取すると言う西洋文化摂取論派,そして,中間的な存在として風俗や言語などの日本の制度の根幹に関わる分野の欧化を防いで,有用の西洋技術のみを摂取せよと言う選択的摂取論派の三つに分かれていました.

 例えば現状維持論派は鳥居耀蔵に代表され,西洋文化摂取論派は高島秋帆に,そして,選択的摂取論派は徳川斉昭に代表されますが,水野忠邦政権の幕閣では現状維持論派が多数を占めていました.

 さて,海防と言う観点から見れば,当時の湾岸防備,特に江戸湾内の防備はお粗末の一言に尽きました.
 松平定信も,万一の場合は戦闘ではなく降伏の使者となる覚悟を定めていましたが,それから何ら進展していません.
 一度,ロシア船などによる乱暴狼藉を契機に異国船打払令が打ち出されますが,阿片戦争の結果を見るに異国を刺激して全面戦争になるのを恐れ,これを撤廃し,薪水給与令に変更し,緊張緩和に相務める様になります.

 しかし,水戸徳川家の徳川斉昭等はそうした措置を手緩いとして,その復活を度々建議しています.
 これを復活させようと幕閣で図ったのが,水野忠邦の跡を襲って老中首座となった阿部正弘でした.
 彼の異国船打払令復活の前提にあったのは,海軍力の強化でした.
 外国と事を構えるにしても,戦力がなければ意味を為しません.
 その為にも,洋式船を建造して,諸外国の船に対抗できるようにしなければ成りませんでした.

 ところが,水野忠邦政権末期の1842年10月の法令では,三本帆の禁止が通達されています.
 これは異国船との誤認防止の意で設けられた可能性が高く,これを通達することにより,諸家の遠見番所で和船を異国船と見誤り,海防の為に動員をかけて諸家の疲弊を招かない様にする為のものと考えられます.

 当時,幕府の海防掛には,先述の三派閥のうち,現状維持論派が多数を占め,更に意思決定が彼らによって為されており,洋式船の導入など以ての外と言う空気が醸成されていました.
 この三本柱の禁止通達が有ったことで,洋式船の建造に対するハードルが高くなった訳です.

 実際,各大名家が洋式船を建造する事を悉く却下しています.
 例えば,水戸徳川家や佐賀鍋島家が「バッテイラ」と言う小型の西洋型短艇を建造するのを阻止していますし(しかし,彼らはその意向を無視して,小型船なら禁令に違反しないであろうと考え,密かに建造した),宇和島伊達家でも,非常時の属島との往来用に小型洋式船の建造を幕府に願い出て一蹴されています.

 1846年にJames Biddleが率いる米国東洋艦隊の来航時,その2隻の船には,江戸中の大砲を寄せ集めても対抗出来ないことが明らかとなり,幕府,その中でも矢面に立った浦賀奉行が執拗に海防強化を申し出てきます.
 守旧派ばかりの中心を為していた海防掛は,その提案に悉く抵抗を続けます.
 その中で抵抗していたのは,洋式船の導入と,屯田兵,農兵制の採用を海防の任を担っていた諸大名家に認める事でした.
 但し今度の洋式船は,水戸や佐賀が建造した「バッテイラ」から発展した「スループ」であって,大船建造の禁に触れないとした根回しをしていましたが….

 取り敢ず,阿部正弘は,海防掛の抵抗を退け,先ずスループ1隻の建造を浦賀奉行に命じました.
 それでも,3本帆の禁令を楯に海防掛は抵抗し,ではと言う事で2本帆柱に変えると,「本邦之船ハ帆柱一本」とまで言い切って,結局帆柱は1本にして建造が進められました.
 更に,この船をモデルに,江戸湾海防を担っている諸家にも同型船が建造されます.

 しかし,これまた海防掛は大小目付,勘定方も含め抵抗します.
 曰く,識別用に塗らせた赤黒の塗装は,前例がないと抵抗.
 曰く,船号として何丸と言う名前が無いと抵抗.
 元々,こうした多数建造船は,「何々形何番」と船名を付けるのですが,それは無視.
 曰く,帆装は…これは認められました.
 彼らの論理は,江戸城内では通用しましたが,船を見続けている浦賀奉行には通用しませんから.

 結局,スループ船の建造を認めさせられた訳ですが,冒頭に掲げた様な罵詈雑言を書き残していたりする訳です.

 今も昔も,全く官僚ってのは代わりませんねぇ.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/03/23 21:44

 1850年,スループ第一船の蒼隼丸が完成します.
 そして,5月26日,浦賀にて蒼隼丸の乗り試しが行われました.

 この時,蒼隼丸と従来の押送り船との競争が行われています.
 その結果,順風では差が無く,逆風では当然の事ながら蒼隼丸の方が勝り,凪では,櫓を漕ぐ押送り船の方が櫂を漕ぐ蒼隼丸よりも早かったとあります.

 一方,蒼隼丸が装備していた船首の3貫目ハンドモルチール筒2門と両舷の150目ダライハス筒6門については,風の順逆に関わらず,周旋自在に目標を捕えられ,揺れも酷くなかったと言う事で,期待通りの性能であったことが証明されました.

 蒼隼丸形は,長さ55尺,幅13尺,深さ4.2尺で,船体は24挺の肋材で構成し,長さ12尺の櫂を22挺備えるもので,大きさ自体は30挺立前後の関船に等しく,押送り船より4割程度大きいものでした.
 帆柱は原案では3檣縦帆だったものが海防掛の反対にあって,2檣横帆に改め,長さ25.5尺の弥帆柱と長さ38.5尺の本帆柱に梯形の帆を掲げることになり,その帆柱は起倒式としていました.
 帆の面積は,弥帆5端,本帆9端で面積比3割程度で,押送り船の弥帆3端,本帆6端と大して面積比は変り有りません.
 武装は,先述の通り,船首に3貫目のハンドモルチール筒(臼砲)2門,両舷に150目ダライハス筒6門を備えており,中々強力なものではありました.

 この第一船蒼隼丸は,竣工から僅か2ヶ月後の7月1日,砲の発射薬を作る製薬所が無い為に,開いた船艙で合薬を製造中に,火を発して船艙2棟と共に,焼失してしまいました.
 この時は蒼隼丸の他,日吉丸,千里丸も同時に焼失し,廃船同然の下田丸を半焼してしまい,浦賀奉行所保有の御備船の3分の1を失うこととなり,大型船は30挺立の長津呂丸1隻が残ったに過ぎませんでした.

 現状維持論派が多数を占める海防掛にとっては勿怪の幸い(この焼失をネタに伝奇ものの時代小説が一冊書けるかも)とばかり,代船建造など何処吹く風と頬被りを決め込みました.

 しかし,西浦賀蛇畠町の丸屋弥市と言う人物が,御備米1000俵,土蔵1棟,及び蒼隼丸形船1艘の建造費の上納を願い出ます.
 浦賀奉行所では,米も金も無く,有事の際には町人に諸色を立て替えさせて炊き出しをすると言う為体状態ですので,これを奇貨(と言うか,本人の意思か,奉行の示唆かは定かではないにせよ)として,1851年1月11日に幕府はその上納を認め,3月10日には土蔵の建築を認めると共に,蒼隼丸形船の建造を浦賀奉行に下します.

 それには,第二船は,櫂を櫓に変更し,塗装は中止して白木造りとするとし,1850年12月に現状維持論派が巻返しを図って,「砲撃自在で進退弁理の船」は洋式軍艦であるから,異国船に紛れ込まさない様に,その建造に掣肘を加えると言う意味での洋式船建造禁止の通達が幕閣で取上げられ採択されたと考えられるも,今回に限りその例外として認めると言う一文が加えられています.
 つまり,完全に幕府内では現状維持論派がほぼ完全勝利を収めたと言うべきかも知れません.

 兎にも角にも,第二船晨風丸が1851年6月に完成します.
 船体は杉材で,矧目には瀝青を塗布して防水し,銅板で舷檣を包み,備砲は艦首に3貫目ハンドモルチール筒1門,胴木両端に150目ダライハス筒6門を搭載しています.
 因みに1854年までに浦賀奉行所では,日吉丸,千里丸の2艘を建造して,全部で4艘のスループを保有していましたが,うち3艘は焼失してしまいました.
 しかし,同型船は江戸湾を警備していた彦根井伊家と会津松平家が6隻を建造していました.
 同じく江戸湾警備の忍松平家と川越松平家は,計画はしていたものの,建造に至ってはいなかった様です.

 当時,江戸湾防備は,1851年3月に下田警備を韮山代官江川太郎左衛門に移管し,有事の際の出兵を,小田原大久保家,掛川太田家,沼津水野家に命じ,1852年4月に竣工した鳶巣,鳥ヶ崎,亀ヶ崎の3つの台場を川越松平家に引き渡しました.
 5月には西浦賀の警備を彦根井伊家の管轄となり,浦賀奉行は港内警備と異国船応接を担当するだけの存在となります.

 これだけの体制を取っておけばもう安心と考えたのでしょう.
 海防掛の目付は防備強化策が行われる1850年の段階ですら,迅速な「蒸気船やバッテイラ之類」の侵入の可能性を認めたものの,それらは「打払焚沈候も容易」と簡単に片付けています.
 彼らが如何に陸上防備に重きを置き,時代の流れを読んでいなかった事かうかがい知れますね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/03/24 21:12


 【質問】
 薩摩軍艦「昇平丸」建造までの経緯は?

 【回答】
 薩摩では,当主である島津斉彬を中心に,幕府よりも大船主義者だったりします.

 元々,1844年以来,薩摩が領有していた琉球にも,欧米の艦船が頻繁に来航する事になった事から,琉球防衛上の観点からも,海軍力の整備が急がれました.

 1852年10月15日,斉彬は襲封後,初めて江戸に参府しますが,22日には早くも老中阿部正弘に伺候し,琉球防衛の為の軍艦建造を諮り,阿部から賛同を得ました.
 この時,阿部自身は,米国艦隊の来航について,幕府の評議が定まらないと心配げに語っていたと言います.

 12月初旬,斉彬は軍艦の雛形を阿部に見せますが,彼は海防掛と老中の両名に届書を提出する様にアドバイスします.
 と言っても,これはあくまでも表向きの届書で,27日に留守居が届書1通と琉球船の絵図2枚,異国船の絵図1枚を月番老中の牧野に,届書案1通と琉球船の雛形2艘,異国船の絵図1枚を阿部に差出しました.
 1853年2月8日,海防掛奥右筆組頭に対し,届書を提出した事を以て承認と見なして良いか確認し,間違いない旨の回答を得ます.
 なお,建造地については琉球を予定していましたが,1854年の斉彬と阿部の会談の結果,桜島で建造しても良い事になりました.

 その届書には,非常時に藩兵を大島から琉球に派遣する為には,大砲を搭載し,安全にと回する船が必要であるが,国元で「軍船」,つまり洋式軍艦を建造するのは,禁令に抵触する上,他にも響くので公許は得られないであろう.
 よって,琉球船に肋材(まつら)を多数入れて堅固にし,舷側の彩色の砲門を真の砲門に仕立て,万一の場合は大砲を搭載し,平時には島々を回る輸送船として用いたい.
 従来,届けずに建造していた琉球船に大砲を搭載しては風聞も自ずと立とうが,琉球防御の為の船であって,通常の琉球船と同様に鹿児島と琉球の間で用い,領外には出さない,としていました.

 琉球では元来,清への朝貢の為にジャンクを建造し,3回ほど中国と行き来した後,戦闘用の艤装を撤去して薩摩に派遣していました.
 これを楷船と言い,斉彬が計画していたものも軍船仕立ての琉球船を建造するものも同型になる筈でした.

 ところが,実際に桜島で起工した琉球船は,1854年12月12日に洋式軍艦昇平丸として完成します.
 つまり,当初の届書に書かれていた琉球船は名目上だけのもので,実際には洋式船を建造していた訳です.
 これが成立したのは,元々琉球は幕府にとって見れば,建前上外国と言う存在でしたので,其処でどんな船を建造しようが,国内法上何ら問題はないと言う立場を取る事が出来ました.

 こうした老中阿部正弘黙認の上,洋式軍艦を建造していたのは,他にも水戸徳川家,肥前鍋島家が挙げられます.
 海防掛が頑迷であるが故に,阿部もこうした苦肉の策を執らざるを得なかったのでしょうが,これが結果的に幕府の寿命を縮めた事は否めないのではないでしょうか.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/04/02 22:21


 【質問】
 ペリー艦隊来航後,幕府はどのように海軍力強化を図ったのか?

 【回答】
 Matthew Calbraith Perry艦隊に完膚無きまでにやられた幕府は,今更ながら江戸近郊防備の為に海軍力の整備を企図します.
 先ずは手っ取り早くオランダに対し,Matthew Calbraith Perry来航後の1853年10月には,早くもオランダに対し,軍艦を7~8隻発注することにしましたが,折も折,欧州ではクリミア戦争が勃発し,局外中立を守るオランダは武器・艦船を輸出出来なくなりました.

 この為,1854年9月に発注をやり直し,コルベットを2艘を発注した他,海軍伝習の為の教官団の派遣を依頼することになります.

 しかし,それだけでは防備の為の海軍力は不充分であり,1853年7月浦賀の御備船として,老中から浦賀奉行に対し,必要とする軍艦案を提示する様命令します.
 それを受け,浦賀奉行は8月に洋式軍艦4隻を建造する案を提示しました.
 2隻は先に焼失した下田丸・蒼隼丸の代船で,長さ108尺,幅27尺,深さ18尺,大砲10門搭載の二檣軍艦で,ブリッグ形式の本格的な軍艦,残り2隻は日吉丸・千里丸の代船で,前者よりは小さく軽めに造り,費用は前者より1割減となった応接並びに偵察用の軍艦でした.

 浦賀奉行の案は,勘定奉行,町奉行,寺社奉行,所謂三奉行の賛成を得,又,海防掛の抵抗空しく,それ以外の目付にも異論が無かった為,承認されましたが,隻数は下田丸・蒼隼丸の代船1隻と日吉丸・千里丸の代船2隻の合計3隻になりました.
 1854年5月には,前者に属する本格的軍艦である鳳凰丸が完成します.
 この艦は,隻数が減じられた分,設計を見直したのか,最終的には長さ120尺,幅30尺,深さ19.5尺と一回り大きく,帆走設備もブリッグ形式からバーク形式となっています.

 こうして幕府自ら大船建造に邁進した訳で,また,幕府としても大名諸家の力を宛にする必要があり,1853年9月15日,遂に大船建造令の解除を布告しました.
 丁度,将軍徳川家慶が薨去し,家定が新将軍に就任する事になり,代替りの武家諸法度の公布があった為,これは第5条に「大船製造可言上事」と独立して定められ,1854年9月25日に公布され,成文化されました.

 但し,この大船建造解禁の主旨は第一義として,江戸湾防備の船を建造する事にあり,諸大名家の海防の為の船は,その充足後とされているのが味噌です.
 12月5日に薩摩島津家が蒸気船3隻を含む15隻の軍艦建造計画を幕府に提出した折りも,老中阿部正弘から島津家に対し,費用は公儀から下付するので,完成次第2~3隻の上納を打診され,島津斉彬はこれを了承し,1855~56年に建造された船のうち,昇平丸など3隻が幕府に献上されています.

 また,韮山代官江川太郎左衛門が砲の鋳造と砲台築造で手一杯の為,老中阿部正弘は海防参与に命じていた水戸徳川家の徳川斉昭に対し,領内の蘭学者鱸半兵衛による軍艦建造を依頼し,彼はこれに応え,1856年5月に旭日丸を竣工させました.
 これも,江戸湾防備の為の船だったりします.

 このほか江川太郎左衛門に命じて,蒸気船の製造を命じましたが,工業的基盤が整っておらず,これについては芳しい成果が上がっていません.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/04/01 23:54


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