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◆◆◆◆国際電信 Nemzetközi kommunikáció
<◆◆◆通信網整備 Előkészítés kommunikációs vonalhoz
<◆◆新政府誕生以降
<◆明治維新 目次
<戦史FAQ目次
【質問】
日本における国際電信の始まりは?
【回答】
さて,多難な時期である1867年,ロシアは清国から沿海州を奪い,ウラジオストクに軍事基地を作り上げます.
そして,日本に対し,ウラジオストクから日本との間の海底ケーブル敷設を要求しています.
これは幕府が対応する以前に,幕府そのものが消滅した為,話は立ち消えになりました.
これが新政府になって蒸し返され,とある企業の海底電信線敷設に繋がっていきます.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/05/21 21:53
ところで,1870年4月23日,日本にとっての大問題が生じました.
箱館駐在のロシア領事代理タラフテンベルグから,外務省初代外務卿沢宣嘉宛に,1通の書簡が舞い込んだのが発端です.
その書簡の主旨はこうでした.
――――――
アジア・ロシアから日本へ,日本から支那への海底ケーブルを建設することについて,今回ロシアに設立された会社から申し立てがあった.
ついては,我が国と格別の親善関係にある貴日本政府の承認を得たい.
――――――
これは,1867年に有耶無耶のまま終わった日本とロシア間の電信敷設の蒸し返しであり,今回は,デンマークの大北電信とロマノフ王朝との間で合弁会社「大北・支那・日本拡張電信会社」を設立し,それを「ロシアに設立された電信会社」として売り込みを行ってきた訳です.
取り敢ず,日本としては箱館開拓使に命じて内情を調査させることになりました.
その結果,シベリアのウラジオストクまたは南西部のポシエットから横浜,大阪,長崎,上海,香港に電信を布設しようとするもので,3カ年以内,上海~香港は5年以内に完成させる予定であることが判ります.
一方,5月になると「デンマーク特使」ジュリアス・フレデリック・シックとオランダ公使のファン・デア・ホーフェンが澤と外務大輔になっていた寺島宗則を訪ねてきます.
シックは「シベリア~日本~清国間電信布設の為の会社が既に設立されているので,日本の港にケーブルの陸揚げを依頼したい.ついては政府の許可を頂きたい」と言う書類を提出し,そこには,更にこう記されていました.
――――――
大北・支那・日本拡張電信会社に長崎・大阪・神戸・横浜・箱館,更に今後開港される港への海底ケーブルの陸揚げをお願いしたい.
そして,各港相互間の通信を行う事,各港に電信局を作ること,陸揚げ室から電信局までの陸上電信線を布設し,その為の用地を確保すること,を免許されたい.
機械や用品類への一切の税を免除すること.
会社職員には政府の保護を与えられたい.
周防灘,備後灘,播磨灘,住吉灘の内海を自由に測量することを許可されたい.
――――――
例によって,日本はこれを店晒しにし,6月になっても国内での相談はおろか,翻訳すら出来ていない状態でした.
痺れを切らせた大北電信は,6月19日にデンマーク海軍大尉のエドワード・スエンソンを派遣し,彼は澤,寺島に面会を求め,厳しく催促を行います.
流石に此に於て,裏でロシアとデンマークが一体で動いていることが日本政府にも判ってきました.
また,6月29日には米国より,サンフランシスコから日本・清国に至る太平洋海底ケーブルの陸揚免許が申請されてきましたが,こちらは資金面から上手くいかず,結局デンマークとの折衝が残ることになります.
取り敢ず,国内電信を実用化しただけの日本にとっては,国際通信の折衝は初めてで,中々簡単には対応出来ませんでした.
デンマーク側は,ドイツ,フランス,ロシア,英国と言った外交機関と結託して日本政府に圧力をかけてきます.
彼らの言い分は,どの国も直ぐ近くの大陸沿岸に電信線が来ているのに,日本に繋がっていない為,手紙を蒸気船で運ばねばならず,それは不便なので日本が招聘する外国人にとっても問題だと言う論法で迫ってきた訳です.
「ここで列強に屈する訳にいかない」と寺島は思ったかどうかは知りませんが,7月以降,伊藤博文,大隈重信,井上馨等と相談(因みに,こうした相談の多くは築地の大隈邸で行われたので,「築地の梁山泊」と言う名が付いた)し,シックとの必死の遣り取りが始まりました.
ぼんやりとは見えているものの,裏事情は完全に把握出来ず,しかも日頃の相談相手だったパークスも,この問題では相手側に立っていたので,苦しい折衝となったのです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/05/23 22:46
さて,デンマークの大北電信会社の話ですが,この大北電信会社は3年前に一度取り上げています.
電信網は,英国を中心に発展していきます.
日の没する所の無い国である英国は,広大な植民地を保有しており,その植民地との連絡には電信網は欠かせないツールでした.
一方,北欧諸国やロシアは,陸上より海底を繋ぐ方が便利であった為,いくつかの電信会社が北海やバルト海に海底ケーブルを曳いて商売をしていました.
技術的には英国に頼っていますが,資本は主に北欧が中心でした.
ロシアは野心的ではありましたが,技術的には未熟であり,自分たちでケーブルを敷設する能力は無く,かと言って,方々で英国と対立している為に,英国に無碍に頼るのも出来ない…と言う事で,北欧系の会社との関係を築いていきます.
こうした北欧の3つの電信会社が1869年6月に合併して,Great
Northen Telegraph Co.を築きます.
日本語に訳すと,これは「大北電信会社」となる訳です.
この会社は北欧だけに飽き足らず,新たな活動の場を求めていきます.
しかし,殆どの海洋は英国が既に抑えており,近くに商売出来そうな場所はありませんでした.
唯一,世界地図で空白だったのが極東だったわけで,彼らは商売する場所として,ロシアと組んで,此の地に進出を企てたのです.
この時期,世界の電信網は,英国系の電信会社がインドとロンドンを結ぶ回線の建設を進めており,紅海や地中海などの海洋を通る印欧回線を使ってのロンドン~アジア回線をやっと完成させた所でした.
もう1つ,英国からアジア植民地を結ぶ陸上線は,障害や妨害続きで苦労の最中であり,アフリカ一周回線,東南アジア,中国大陸と言った回線の敷設でこの会社は多忙を極めていました.
従って,英国系の会社がこの地域に手を延ばすのは,もう少し先になりそうでした.
一方,シベリア経由で欧州と極東を結ぶ回線もウラジオストックで止まっており,ロシア内部の利用も殆ど無く,宝の持ち腐れ状態でした.
既に仕えるインフラがある上に,商売敵は此の地にやって来ていない.
此処に目を付けた大北電信会社の首脳陣は,裏地おから日本まで海底ケーブルを布設し,更に日本から上海まで曳けば,北部ヨーロッパ~シベリア~極東~中国~東南アジア~インド~(アフリカ)~欧州~アメリカと言う世界を周回する回線が出来,その通信量は膨大なものになる,と言う事はこの回線の一部を握る大北電信会社は大きな利益を得ることになる,と言うものでした.
その為にまず,大北電信はロシアに働きかけ,ロシアとの合弁ダミー企業である「大北・支那・日本拡張電信会社」を設立します.
ロシアは,この会社との間で,「ウラジオストク~長崎」だけでなく,「横浜~長崎~上海~福州~香港回線の建設」,及び「ロシアが将来北京まで曳く陸上電信線を,この海底ケーブルに接続する」という契約まで結び,免許状を与えていたのでした.
清国や日本の主権などは,端から有ったものではありません.
因みに,この会社は日本との折衝が終わると直ぐに消滅し,大北電信の極東部門になってしまいます.
これは,英国が植民地を経営するのによく使った手法でした.
清国との交渉は順調に進み,上海に日本からの海底ケーブルを陸揚げする権利を獲得した上,上海~香港間の沿岸海底ケーブルの敷設権も獲得してしまいました.
こうして,外堀を埋め立てた上で,日本へとその触手を伸ばしてきた訳です.
日本の後ろ盾だった英国の立場が,これで蔑ろにされた訳ですが,英国としても,香港から上海までのケーブルが完成すれば,自分たちの香港~ロンドン線が潤うと算盤を弾いた為に,事前に了承していました.
英国側の電信線は,ロンドン~インド回線の改善に成功し,1870年にはインド(マドラス)~マレーシア(ペナン)~シンガポール~マニラを経て香港に達し,更に上海へと延ばしつつありました.
従って,1871年以後は香港~厦門~上海間には2つの会社の回線が並列し,激烈な競争が展開されることになります.
ところで,1870年の6月までは何とか矛先を躱し続けていた寺島でしたが,7月に入ると各国外交官が入れ替り立ち替り圧力を加え始め,結局,結論を出さざるを得なくなりました.
デンマークのシックは,契約期間に関して「70年」と吹っ掛けておいて「30年にしてやる」と言い,ロシア領事からは,「大北電信は欧州で有名な人物が経営しているから大丈夫だ」などと言ってきます.
フランス公使書記官は,ロシアが大北電信に与えた免許状を示し,ウィーン電信条約に基づいたとする日本側分収金を提示していきました.
因みに,このフランス公使書記官は当初,寺島とシックの通訳をしていたので,日本側の交渉が相手に筒抜けだったりします.
通訳が相手の味方なのでどうしようもありません.
それから,ドイツの代理公使はシックの代理人を務め,「早く返事せよ」と迫ってきます.
時に,この海底ケーブルの経路が問題でした.
彼らは,長崎と横浜の間を布設するケーブルを,「瀬戸内海経由」で行う様求めてきたのです.
瀬戸内海は,内海ですから当然のことながら,深さや波の荒さが全く違い,海底ケーブルを布設する場合は,瀬戸内海経由の方が楽で安価です.
しかし,瀬戸内海経由を承知させてしまうと,工事が安価且つ短期に出来てしまう為,日本が横浜~長崎の陸上電信線を完成させないうちに大北電信が海底ケーブルで横浜~長崎の通信網を完成させてしまう可能性があります.
そうなると,日本国内の基幹電信網を外国企業に取られてしまうことになりかねない…更に言えば,これを口実に租借地を設置するかも知れない.
元々,電信のことを熟知していた寺島は,この点に関しては強硬に反対し,四国の太平洋側を通すことを承知させました.
ドイツの代理公使は次に,海底ケーブルの陸揚げ地についても折衝してきました.
元々,全開港地に海底ケーブルを陸揚げすると言う要求で,それは開港地が増えると自動的に海底ケーブルを陸揚げする権利を有すると言う理不尽なものです.
こちらも寺島は頑張り抜き,全開港地を長崎,神戸,大阪,横浜に縮小し,更に長崎と横浜の2港だけに後退させる事に成功します.
7月初旬,長崎と横浜への陸揚権認可は避けられそうに無い状況になってきました.
寺島としては,少なくとも敷設後何年かしたら買い戻す事が出来ないかと言う相談をパークスに持ちかけますが,パークスの返事は「無理だろう」と言うにべもないものでした.
8月になるとドイツの公使館書記官が,免許状の具体的な条項について周旋を開始し,更に列強各国の外交官達は,シック等を天皇に合わせろという要求を出してきます.
これも拒否すると寺島は頑張り抜きました.
8月24日,シックとの最終会談が持たれることになりました.
日本側は澤外務卿と寺島外務大輔,そして参議の副島種臣が出席しました.
副島の出席は,この会談を最終的なものにしたいと言う,列強からの圧力と言われています.
シックはこの席上,極めて高圧的に,日本が結論を遅らせているのは国際法違反だと述べ,不利な話になると,「その件については後で大北電信と相談せよ」と逃げています.
それに対し,寺島は猛然と言い返して会談は緊迫した雰囲気になりました.
この時の主な議題は,買収問題と免許期間でした.
前者については協定の内密の付属書に於て,「大北電信の同意があれば」と言う但し書き付で,買収や共同経営が可能と記すことになりました.
後者については,日本側の主張は20年,シックの主張は「70年だが,まけて30年にしてやる」と言うものですが,結局30年で決着しました.
こうした日本側に不利な条項になったのは,既に清国が外国に任せてしまった為でもありました.
こうして,8月25日(新暦で9月20日)に,沢宣嘉外務卿と寺島宗則外務大輔とシックとの間で,『大北・支那及び日本拡張電信会社と称するデンマークの会社に免許せられた権利に関する日本政府とデンマーク国王陛下の使節との間の約定』と言うもので,本文11条と内密の付属書2条から成っているものです.
1. 大北電信会社の海底ケーブルを長崎と横浜に陸揚げし,両港間を九州と四国と本州の太平洋側を通って連絡し運営する.
またこれに伴う海岸や陸地の施設を大北電信が建設し運営する.
2. 大北電信の施設に日本人による危害が加えられた場合は賠償請求が出来る.
3. 日本政府の公電は優先的に扱う.
4. この約定の有効期間は30年とする.
5. 日本政府は大北電信の施設を保護する以外は干渉したり関与したりしない.
また,他の企業に権利を与える場合,大北電信より有利にしない.
6. 大北電信会社が承諾すれば,施設を日本が買収したり共同経営したりすることが可能である.
とまぁ,骨子からすれば,日本には国際通信施設を建設する能力が無いので,大北電信会社が代って建設して運営するのだから有難く思え,的なものであり,実質的には大陸側と日本との国際通信の権利は外国企業に奪われたことを意味しました.
更に,日本の領海内や国土内でも大北電信会社の持ち物とされたものには日本側は手を出せず,通信に関しては植民地になってしまった訳です.
但し,救いだったのは,開放港を長崎と横浜の2港に絞ったこと,瀬戸内海ルートの開放を頑として認めなかったこと,将来この海底ケーブルを買収出来ると言う条項を強引に入れ込んだことの3点でした.
この長崎~横浜間回線の問題は,1871年11月に結ばれた「電信事業創業約定」にて,「日本政府の国内陸上電信線が速やかに完成した場合は,その布設を見合わせる」と決められた事で生きてきます.
この為,日本政府は是が非でも陸上電信線を布設しなければならなくなったのです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/05/24 23:43
さて,1870年.
寺島宗則は何とか大北電信会社のゴリ押しを,最低線で凌ぐ事に成功します.
しかし,勝負はこれから始まりました.
長崎と横浜の間の電信網を早急に整備しなければ,その幹線すら外国の手に落ちかねなかったのです.
大北電信会社は直ちに活動を開始し,早速電信局を設置します.
その場所は最初,長崎市松ヶ枝町,大浦天主堂近くのベルビューホテルに間借りして開設し,程なく大北電信長崎支社が,ホテルより少し北の今の新地町に立てられ,此処で日本側の電信線と連絡し,ここから外国へは大北電信会社の権利となってしまいました.
長崎港は測量され,結果的に陸揚げは地形上無理であるとして,陸揚室の位置は電信局から4km南に少し離れた千本に決定しました.
ここで,海底ケーブルの端末が海から陸上に揚げられ,陸上の電信線を繋げ,専用の電信線で市内の大北電信長崎支社に繋げられることになります.
1871年6月には長崎~上海間の海底ケーブルの布設が完了しました.
これは清国方面が英国企業との競争があって布設が急がれた為です.
長崎~ウラジオストク間は少し遅れましたが,それでも8月には布設が完了します.
そして,8月12日から早くも上海線の運用が開始され,11月にはウラジオストク線の運用も開始されました.
此に於て,日本から上海またはウラジオストクを経て,欧州や米国にまで通信が出来る様になりました.
大北電信会社は元々,日本の位置づけをウラジオストクと上海との間の単なる中継点と言う観点からしか見ていませんでしたが,その後,日本は富国強兵を旗印に,アジア諸国の中でドンドンと発展していきます.
勢い,海外との通信量も拡大し,予想以上の収益を上げることになりました.
日本から電信を打つと,上海~香港経由の場合,英国系回線のサービスが良く,旨くすると数時間,悪くとも1日でロンドンやワシントンに電報が届く様になりました.
そうなると,次は横浜~長崎の陸上回線に焦点が移ります.
一応,大北電信会社に対し,太平洋側海底ケーブルというハンデを背負わせたものの,もし,日本側で回線が完成しなければ,大北電信会社に先を越され,海外回線のみならず,国内幹線までもが海外企業の支配下に入ってしまうことになります.
この為,1870年に調印後直ちに英国に資材一式を発注しますが,これが中々届かず,英国や大北電信か散々脅しを受けています.
資材が届いて陸上線工事が開始されたのが1871年8月のことでした.
工事所管は工部省で,工事責任者は当初後藤象二郎が担当しましたが,間もなく伊藤博文に取って代わりました.
伊藤博文は1878年に井上馨に譲るまで工部卿を勤め,日本の近代化に大いに貢献した人物です.
この頃の政府の姿勢は電信敷設に懐疑的で,横浜~長崎間の回線工事に費用をかける位ならば,軍備を増強すべしと言う意見が大勢を占めていたのですが,伊藤博文はそうした意見を封じ込めます.
伊藤は,寺島と同じく,鉄道,港湾,通信のインフラが外国企業に取られる危険性をよく承知しており,特に外国通信網を抑えられてしまった今,国内通信網の整備を最優先課題としたのです.
電信線工事の実行部隊の責任者である電信頭には,佐賀藩出身の石丸安世が任命されました.
石丸は,同郷の大隈重信の推薦で工部省入りしますが,英国留学の経験もあり,電信の知識も豊富で,適任の人材でした.
更に,技術畑の先覚者である田中久重や沖牙太郎とも親しく交わっています.
こうして工事が開始されたのですが,庶民にはこうした西洋技術は未知のものであり,伴天連の魔法とか,病気が伝染すると言ったデマが流れ,扇動された彼らにより,電線切断や工事人襲撃と言った工事妨害もありました.
そうは言っても,そうした過激な行動は一部に留まったようです.
因みに,この頃,岩倉使節団にいた大久保利通が,ニューヨークからロンドン経由で政府に電報を打ったのですが,長崎までは数時間で来たのに,そこから東京まで早飛脚で3昼夜かかったと言う笑えない話もありました.
こうしたこともあり,早期開通が政府でも叫ばれる様になりました.
この電信線工事,1869年に東京~横浜が開通しており,横浜~長崎の電信線工事だけの予定でしたが,実際の工事は東京と長崎から開始されています.
つまり,既設の電信線とは別にもう1本敷設された訳です.
その後,途中に多数の電信局が設置され,その途中局を発着信地とする電報が多数有ると予想される様になると,1本の線だけでは回線容量が逼迫すると見込まれ,1872年9月からは更に横浜~長崎間の回線が着工されました.
即ち,東京~長崎の間は最初から2本の線が敷かれることになったのでした.
工事は,東京側,長崎側の他,中間点の大阪~神戸間でも開始されました.
東京~横浜の次に電信が開通したのは1870年8月の大阪~神戸間で,大阪~西京間が1872年4月,西京~横浜が同年9月,長崎~佐賀が1873年4月に着工して,10月に神戸まで開通しました.
この工事の途中,1872年2月に,国内通信回線の目処が立ったとして,日本政府は大北電信会社に「長崎~横濱間太平洋側海底ケーブル布設権の廃止」を通告しますが,大北電信はこれを認めず,廃止に合意したのは,実に10年後の1882年になってからです.
この通信線工事で一番の難所となったのは,当然のことながら,赤間関,つまり関門海峡でした.
幅870mで水深が10~20mの海峡ですが,今まで海底ケーブルなど布設したことが無い人々が行うのですから苦労は人一倍です.
当初は空中を渡そうとして,背の高い松の木を利用して電線を張りました.
しかし,当時は蒸気船が出たとは言え,蒸気船でも帆走設備も有しています.
案の定,米国船のマストが電線に引っかかり,敢えなく切断されて失敗に終わりました.
そこで,海底ケーブルを敷設することにしました.
その方法は現在の様に専用船がある訳で無く,小さな和船を先頭に1隻,後方に2隻並べて後方の2隻の上に板を渡し,その上に海底ケーブルを巻いておき,先頭の1隻に漕ぎ手がおり,後方の2隻にケーブルを繰り出す人が乗って,人力でケーブルを繰り出すと言うもの.
この時使用したケーブルは,英国の大西洋横断ケーブルの余剰品を1870年に海峡横断や河川横断用に購入しておいたものでしたが,貯線施設がなかったので,横浜の海岸に放置しておいたら,砂に埋まって中々取り出せず,やっとの思いで取り出した一部を用いたと言われています.
敷設の最初は,比較的軽い深海用のケーブルを使い,船も櫂で漕ぐという方法を用いましたが,障害が発生した為,次には丈夫で重い浅海用を横浜海岸の埋まった場所から必死で取り出して試みました.
深海用は深い所に置くので,特にメンテナンスが必要ないのですが,浅海用は不安定で障害が起こりやすいので,深海用に比べると意外に外装が頑丈に出来ており,それだけ重くて持ち運びがしにくいものとなっていました.
これは流石に20人や30人の人足でも持ち上げられず,曳航も櫂付の和船では無理なので,蒸気船「電信丸」で2隻の和船を曳航して敷設を行いました.
余りに重い為,多くの怪我人を出しながら,兎に角,1872年8月にやっと海峡に1条のケーブルを通すことが出来ました.
これは日本人としては初めての海底ケーブル敷設でした.
その後,直ぐに1条を追加し,1874年までに3条に増えています.
因みに,関門海峡越えにはもう1つの方法が用意されていました.
それは,「両岸に電信局を設けてそこで受信した電信用紙を船で向こう岸に運んで打ち直す」と言う原始的な方法でしたが,幸にもこの方法はとらずに済みました.
こうした様々な苦心の末,1873年2月より東京~長崎間の国内電信幹線2回線の敷設が完成しました.
取り敢ず,国内通信網を海外勢力に渡すと言う最悪の状態だけは避けることが出来,伊藤博文,寺島宗則,大隈重信等は愁眉を開くことになります.
そして,4月からいよいよ日本の陸上回線が大北電信会社の海底ケーブルと繋がり,日本にも国際通信時代がやってきます.
この頃,文明開化の象徴として官ばかりでなく民間でも電信熱が高まり,電信例文集や略語(符丁)集が様々に出版されました.
符丁の数は数万にも上り,この頃の符丁が実は日露戦争の軍事用暗号の基礎となっています.
また,小学校でも正しい電文の作り方を教える様になりました.
長崎の日本側電信局は,当初は大北電信に間借りしていましたが,1874年には新地町に大北電信長崎支社に隣接して建てられ,その電信用紙の遣り取りは,2つの建物の間を,「樋」を使って行っていました.
ただ,初期の頃の電信は,品質が余り宜しくなく,東京や横浜から直接長崎に届いた訳でなく,豊橋,神戸,赤間関で,一端電信技手が電文を受取り,それを送信し直すと言う手段が執られています.
しかし,1880年には回線容量が逼迫していなければ,東京,横浜~長崎の通信はほぼ直通になりました.
とは言え,海外の通信は人手を介して打ち直されました.
これは陸上と海底での信号の形式が異なっていたからです.
こうして,国内電信に関しては日本が勝利を収めることが出来ましたが….
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/05/25 23:37
さて,大北電信との確執は此の後の話として,電信は各地に敷設されていきます.
東京~長崎回線の建設中に工部省は,東京から北へ向かう回線を着工します.
そして,1874年には東京~青森~北海道の回線が竣工しました.
北海道の回線は,津軽海峡の下を通る海底ケーブルであり,関門海峡の下を通る様に簡単にはいきません.
仕方なしに,海底ケーブルの敷設は大北電信会社に依頼します.
但し,海底ケーブルは製造こそ英国に依頼しましたが,設計は工部大学校の招聘教授であるエアトン教授と,その教え子達の共同作業であり,これを通じて,エアトン教授は日本の学生達にケーブル設計法を伝授した様です.
1876年になると本州~四国の海底ケーブルも完成し,沖縄や千島の様な周縁部を除く日本主要部が通信回線で結ばれる様になります.
そして,これから日本海側に枝を伸ばすなど,面としての通信回線である電信網を形作っていき,1879年には電信局が113箇所設置され,北海道,本州,四国,九州の全ての地域をカバーする様になりました.
これは鉄道網の発展よりもペースの速いものだったりします.
これとは別に,電話は1876年に米国のベルが特許を出願したものですが,日本には早くも1877年に導入され,一部で試用される様になってさえいます.
実際に実用化が開始されるのは,1890年以後,更に長距離通話が可能になるのは明治後期から大正にかけてであり,国際電話は昭和に入ってからですが,これは電話技術が電信よりもより高度な技術だったからに他なりません.
この為,長らく電信が長距離通信や国際通信の花形でした.
因みに,1876年8月には榎本武揚が,ロシアとの外交経験などから「日本~朝鮮」「長崎~ウラジオストクに2本目」の海底ケーブルを敷設すべきだと主張したのも宜なるかなだったりします.
電信機も発展していきます.
導入最初はABC指示型のブリゲー電信機でしたが,1871年10月に,英国からモールス符号自動印字式電信機が輸入されると,直ぐにモールス式に置き換えられました.
特に長距離通信は最初からモールス式でした.
自動印字機というのは,モールス符号を巻紙に自動的に記入する,当時としては十分なハイテク装置でした.
当然,初期のモールス信号は,アルファベットしかなかったのですが,工部省の吉田正秀は和文用モールス符号を定めています.
日本語のモールス符号は,幕末にオランダ人が提案していたのですが,1869年には読売新聞を創立した子安峻がそれに代る新案を示すなど,結構百家争鳴状態だったようです.
吉田の和文モールスは,アルファベット用と一部重複しているのですが,日本語の方が文字数が多いので英文モールス符号を基礎に和文に当てはめながら苦労して作り上げています.
しかし,文字の使用頻度についての検討が不十分で,効率という点では最適解ではありませんが,普及し始めてから変更すると色々と混乱が生じてしまう為,後々まで使用されることになりました.
モールス符号は通常,送信機にて長さの違う符号の通りに電鍵を打ち,その通りに電流が流れ,その電流の通りに受信機側のペンが用紙の上に降りていきます.
電信技手はこの印字を見て,それをアイウエオに置き換えて用紙に記入します.
後に,トン・ツーの音を耳で聞いて即座に文字に直して記録する音響方式が普及しました.
しかし,これだと打鍵の人間によって間違えてしまう可能性があります.
この電鍵を打つのを自動化したのが鑽孔式自動電信で,手で電鍵を打つ代わりにモールス符号のトンを上下の2孔,ツーを上だけの孔と下だけの孔の組み合わせで表現しています.
この鑽孔式はABC指示型の生みの親であるホイートストンの発明で,1882年に日本に導入されました.
海底ケーブルの通信波形は極めて特殊なものです.
陸上の電柱に架渉される裸線に比べ,海底ケーブルは格段に電気性能が悪く,且つ長距離を同心する為,通常のモールス符号では相手局に伝わる時にはそれがトンなのか,ツーなのかが判らないと言う状態になります.
そこで,モールス符号のトン(短点)をプラスの電流波形,ツー(長点)をマイナスの電流波形とし,短点用波形と長点用波形とで長さを一致させると共に,陸上よりゆっくりと送信する方法です.
謂わば,現代の通信回線でも用いられているデジタル通信用二進符号にとても近い信号形式にも通じるものとなります.
因みに,初期の大西洋横断ケーブルでは通常のモールス符号を使った為,信号波形が変形しすぎて読み取ることが出来ないと言う事故が続発しました.
その理由を学者が考察したのが,波形伝送理論の最初とされています.
ところで,当初は電信は1対の電信線では1本の電文しか送信出来ませんでした.
つまり,割り込みが出来なかったのです.
しかし,増大する通信量に対応して捌ききれません.
そこで1対の電信線で2本の電文を同時に送れないかが研究され,二重電信法が出来ました.
1880年に横浜~神戸間に二重電信機が導入され,以後,全国の電信局に広がっていきます.
また,これを更に高度化して,たった1本の電信線で送信2組,受信2組の合計4組の電文を同時に遣り取り出来る四重電信法も実用化されています.
これは多値通信に近い考え方を機械的に実現するものです.
更に,電信の送達距離を伸ばす工夫も為されました.
それまでの単流法では,電鍵が押されている時のみ電流が流れ,電鍵が押されていない時は無電流ですが,新たに複流法と言う方式が考案されました.
これは,電鍵が押されていない時にはマイナスの電流が流れ,押されている場合はプラスの電流を流すと言うもので,これにより,モールス符号の到達距離はほぼ2倍になりました.
とまぁ,こうした技術革新が漸進的に為されていったのですが,一般にはまだまだ電信はキリシタンバテレンの術という偏見も強く,熊本の神風連の乱の時には,電信局に乱入して日本刀で電信機を叩き切ると言う過激行動もありました.
こうした偏見が払拭され,電信の利点が認識される様になったのは,1877年の西南戦争です.
ご存じの通り,西南戦争は,西郷隆盛を担いだ不平士族達が,政府を相手に戦闘を繰り広げた最後の内戦でしたが,これの鎮圧部隊と東京の明治政府との間の連絡に電信線が大活躍し,臨時の電信線も架設されました.
西南戦争時の戦場周辺に於ける政府軍用仮設電信局の数は,実に53箇所,臨時電信線の総延長は24里10町(約100km)に達しています.
とは言え,初期には様々な笑い話もあり,薩摩に軍を進めた官軍首脳が電信で政府に宛てて「賊軍敗走自殺又は降伏」(ゾクグンハイソウジサツマタハコウフク)と打ったのに,政府に届けられた電文が,「賊軍敗走し薩摩煙草を吹く」(ゾクグンハイソウシサツマタバコヲフク)と変換され,読んだ側は目を白黒と言う局面もあったそうです.
これは,カタカナを漢字に変換するので,こうした笑い話が生まれた訳です.
西南戦争が終わると,大北電信に握られていた外国電報事務が日本側に委ねられます.
これは,1878年3月に外国電報事務を司る東京電信中央局が完成した為であり,そうした電信事務や電信技能に通じた人材を明治政府が必死で育てたことを意味します.
人材育成の為,政府は工部省内に技術系教育の機関である工学寮を1871年に設立します.
教授達は主に英国から招聘されたのですが,これは工部省の首脳だった伊藤博文と山尾庸三の建議に依るものと言われています.
1872年には,専門科目を学ぶ大学と,今の高校に相当する小学とに分けられ,大学内に電信科が設置されました.
他に,土木,機械,造家,実地化学,溶鋳,鉱山でしたから,如何に電信が国作りで重視されたかが判ります.
因みに,この工学寮大学校電信科は,世界最初の大学に於ける電気工学系学科だったりします.
この中から様々な人材が輩出していった訳です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/05/26 23:35
さて,どうも最近の東京大学工学部卒はグダグダなのが多い様に思えるのですが,その遠い先祖である工学寮大学校電信科からは多数の技術者が輩出しています.
電信科1期生は,佐賀藩出身の志田林三郎のみです.
在学中からその天分を存分に発揮し,初代工学寮大学教授のエアトンに可愛がられていました.
そして,連名で多くの英文論文を執筆して,英国の学会に投稿しています.
得意は数学でしたが,実学でも大いに才能を発揮し,1875年にイタリア歌劇団が来日した時には短時間でしたが日本で初めて電灯を点灯するのに成功しています.
また,1877年の西南戦争時には,学生仲間の高峰譲吉と共に,政府の依頼で軍用気球の製造に挑戦し,これに成功したりもしています.
志田は,高峰譲吉を含む工学寮大学校22名の同期の内,ダントツの首席で卒業して,1880年には高峰譲吉と共に,英国のグラスゴー大学に留学して英国の物理学者ケルヴィンに師事しますが,1年目から早くも頭角を現わして,ケルヴィン卿を驚かせました.
怖い物知らずというか,遙かに年長の英国学者の間違いを堂々と指摘し,学業成績ではクラスのトップを走り続け,在英4年間の間に,論文賞始め多くの名誉ある賞を受賞し,10歳で大学に入ったケルヴィン卿をして,「志田は私の教え子の中で最も優秀だった」と言わしめたほどの天才でした.
帰国後も電信電話学の分野で数々の業績を上げ,ヘルツが電波をする3年前,マルコーニが無線電信を発明するより10年も前の1885年,30歳の時に,水を利用した無線電信に成功しています.
他に,地電流を記録する電流自記機を発明したり,27歳で日本人初の工学寮大学校教授,32歳で日本人初の工学博士になって,33歳になると,榎本武揚を会長に担いで電気学会を設立して自分は幹事になって会を切り盛りし,同時に東京電信学校長を務め,更に逓信省工務局長に就任して,日本人のみでの初の津軽海峡海底ケーブル敷設を企画し,また日本初の電気関係の研究所の奔り,「電気試験所」の設立にと八面六臂の活躍を行いました.
しかし,こうした無理が祟ったのか,僅か36歳にして結核で病没してしまいました.
ケルヴィン卿は非常に悲しみ,グラスゴー大学には留学した後輩達がケルヴィン卿に贈った志田夫妻の等身大の人形が飾られているそうで,未だにグラスゴー大学の入学式の学長挨拶では,志田林三郎の話が出て来るそうです.
3期生になると,エジソンに学んで電力工学に関係した学者である藤岡市助,帝大教授で電気学会長を務めた中野初子,電気試験所の初代所長に31歳の若さで就任し,無線通信や海底ケーブル開拓に取り組んだ淺野應輔,無線解説書をものした神田選吉などがいます.
この工学寮大学校は,1877年に工部大学校となり,電信科は電気工学科となって,1886年になると東京大学工芸学部と合併して東京帝国大学工科大学,つまり東大工学部になっていきます.
一方,理論研究だけでなく,電信装置類の製造や修理と言った業務を行う技手の養成も急務でした.
機械が壊れたら一々英国に送って修理するのは費用も時間もかかります.
この為,1872年に工学寮の組織の中に電信機の修理や製造を行う「電信寮製機所」が設置され,指導者として御雇外国人のドイツ人シェーファーを雇いました.
初期の従事者は10名ですが,此処からスピンアウトして,新しい産業を興す人々も多く輩出しています.
その後,この製機所は「逓信省電信燈臺用品製造所」となりました.
更に同じ年には,電信オペレータを養成する「電信修技学校」が併設されますが,電信オペレータと言っても,ただ電鍵を叩くだけでなく,電気的知識や修理技術も持っていなければなりません.
その後,修技学校は逓信官吏練習所と改称され,義務教育を終えたばかりの子供達を雇い入れ,電信オペレータに育て上げる実業学校として位置します.
この為,貧しい家庭でも向学心のある子供達が,手に職を付けて社会で活躍する為の登竜門ともなっていました.
因みに,この逓信官吏練習所出身の小原國芳と言う人は,電信技手として日露戦争時に大隅半島の電信局で働き,その後京都大学で学んで,卒業後は教育者となり,後に玉川大学,成城大学,千葉工業大学を設立しています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/05/27 23:15