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「ダイヤモンド・オンライン」◆(2012/10/18) 「海軍の「父」たち」
『読みなおす日本史 日本海軍史』(外山三郎著,吉川弘文館,2013/8/8)
【質問】
明治期の日本海軍は,軍艦をどのように種別していたか?
【回答】
まず明治5年に,軍艦と運送船に分かれ,明治20年5月に,
艦齢10年以内の甲号,
水雷艇などの小型艦艇である乙号,
艦齢10年超の丙号
に分かれました.
次に,明治23年5月の海軍艦船籍条例で,
戦闘航海の役務に耐える軍艦を第一種,
水雷艇を第二種,
戦闘航海の役務に耐えない軍艦を第三種,
運送船,曳船,小蒸気船を第四種,
倉庫船,荷船,雑船を第五種
とする五種類に分けられました.
明治29年には,第一種(以前の第一種),第二種(以前の第三種),水雷艇(第二種),雑役船舟(第四種と第五種)の四種に集約されました.
実際に戦艦,巡洋艦と言った艦種が設定されたのは,明治31年に制定された軍艦及水雷艇水別標準が定められてからです.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2)
【質問】
明治期,大日本海軍にとって最大の敵は?
【回答】
明治期,大日本海軍にとって最大の敵は,清国海軍でもなく,ロシア極東艦隊でもなく,はたまたアメリカ海軍でもありませんでした……
明治15年,朝鮮半島で任牛の変が起きました.
これに対し帝国海軍は金剛,日進,天城,比叡を派遣しましたが,同じように艦隊を派遣していた清国海軍と一触即発の緊張状態に陥りました.
しかし,この時の帝国海軍は戦える状況にはなかったのです……
脚気で(w`;
同年,海軍兵学校十期生を乗せ遠洋航海へ出かけた軍艦龍驤は,艦長以下乗組士官までもが機関員の代わりをするという事態に陥りました.
操帆運用の水兵も汽走用の機関員(当時は火夫)が次々に倒れたのです……
脚気で(w`;
帝国海軍において脚気は深刻な問題であり,明治11~16年頃は常に兵員の2割から3割が脚気患者と云う事態に陥り,早急に解決しなければならない案件の一つでした.
ですが,医学会で 『脚気細菌説』 主流がを占める中,適切な対策が生まれるハズもなく,結局,帝国海軍は,明治23年の高木軍医大監による糧食改革が行われるまで,脚気に苦しみ続けることになるのです……
ベタ藤原 in mixi
【質問】
「日本海軍vsパン」の顛末を教えてください.
【回答】
初期の敵,脚気に勝利を収めた帝国海軍でしたが,次なる敵が帝国海軍の前に立ちふさがります.
新たなる敵の名前,それは,
【パン】
でした.
それまでの糧食を改め,脚気問題を解決した高木軍医大監でしたが,彼は積極的に日本の西洋化を推進しようとする,強烈な鹿鳴館思想主義者で,コレを機に海軍の食事を欧米風に改めようと考えていました.
そのため明治23年3月に発布された 『通達131号,糧食品経理規程』 では,主食の内,白米の給与は隔日40匁っきりで,後はパンか乾パンという事になりました.
当時の一般庶民にとってパンは馴染み薄いもので,新兵を教育する海兵団でのこんな逸話が伝わっております.
短艇撓漕訓練が終わって短艇を揚収しようとすると,新兵たちが短艇索を引くのをやめて,フラフラした格好をするので,教班長の下士官が,
「どうした! だらしないぞ!!」
と叱ると,新兵たちは,
「腹が減って力が入らなくて引けません」
と言う.
「お前たち,飯食ったじゃないか!」
と教班長が言うと,
「まだ飯は食っていません」
と新兵達は答える.
それを聞いた教班長は驚いて
「本当にまだ食べてないのか?」
と尋ねると,
「パンと砂糖のオヤツしか食べていません!」
と新兵たちは答えた,そうです(w`;
また,主食の白米が麦飯と乾パンに代わった際,軍艦海門では下士卒がこれに不満を持ち,ストライキを起こした,という話もあります.
結局この糧食改定は不評で,わずか3ヶ月後には白米給与は一回50匁の週6回に改められました.
でも,まぁ,パンは不評で,下士官兵はパンの柔らかい部分しか食べず,周囲の硬い部分(いわゆる「みみ」の部分)を残し,残飯として海中投棄していました.
このため,泊地には捨てられたパンの耳が漂い,海外航海に出る船があると,捨てられるパンの耳を狙ってカモメの群れが3日間ぐらいはつきまとうという有様.
たまたま同一泊地に停泊していた英国艦船の乗組員たちは,最初 「もったいないなぁ」 と思って,それを見ていたのですが,終いには反感をもつようになったとか,ならなかったとか(w`;
主計長の会報等では 『パンの耳』 をどうやって下士官兵に食べさせるかが研究の対象になりましたが,結局,妙案はでませんでした.
明治31年の改定でそれまで週15回だったパン食は週7回に減り,大正7年の改定で軍港内では週4回,それ以外では週2回. 昭和6年の改定で,軍港内では週3回,それ以外では支給しなくてもよい,ということになり,これにより帝国海軍は 『パンの呪縛』 から逃れることとなったのでした(w`;
ベタ藤原 in mixi
▼ これが昭和になると
「パンはアーマー,ロープはエンド」
という言葉があったようで,B級グルメ的なご馳走だったようなことが,「よもやま話」シリーズにあるはずです.
体面上,班長(?,海軍用語忘れました)とかは好みであっても食べませんが,下級者にとってはうれしい物だったそうです.
パン両端のミミの2枚を装甲板にたとえてアーマーといったそうです.
(「ロープはエンド」というのは一番後ろは楽なんだそうです.アーマーと違って下級者がつくと怒鳴られたらしいです)
――――――
「人名駄目」の起源は,明治天皇の
「軍艦である以上戦で沈むこともあろう.偉業を為した人の名を命けた艦が沈んでは失礼に当たる.
それでは帝國がかの人を軽んじているということにもなろう」
の一言による.
――――――軍事板
というのを聞きますが,それを記した文献についてご存じの方はいますか?
曳船 in 「軍事板常見問題 mixi支隊」,
2009年06月02日 01:34
【回答】
片桐大自著『連合艦隊軍艦銘銘伝』のP.24に書いてありますが,それによれば,広瀬彦太著『大海軍発展秘史』(1944年・弘道館図書)に書かれていたそうです.
でもって,その大元は,川村家(川村純義海軍大将家)文書にあった,川村純義から徳大寺実則宮内卿宛の文書だったみたいですね.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 「軍事板常見問題 mixi支隊」,
2009年06月02日 22:28
青文字:加筆改修部分
【質問】
日本海軍の夏略帽について教えてください.
【回答】
明治9年〔1876〕に制定.
明治29年からシュロ製になり,明治37〔1904〕年7月に廃止されていますが,この写真がそんなに古いものかは不明.
このまま残してくれてもある意味お洒落だったのに…(笑)
よしぞうmaro' in mixi,2007年08月09日04:08
青文字:加筆改修部分