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戦史FAQ目次


 【link】

『明治期国土防衛史』(原剛著,錦正社,2002.2)

 今までで一番読み応えがあったですね.
 専ら我が国の地方の要塞を,延々と書いた本ですが,朝の3時から読み始めて,読み終えたのは夕食の前でした.
 A5判,800頁の大著です.

------------ZII ◆RPvijAGt7k :軍事板,2011/02/23(水)

 【質問】
 明治の日本にあった鎮台とは?

 【回答】
 1871年に発足した鎮台は,地方の治安維持を担う為,藩兵の整理,再編成を行なって編成されました.
  明治六年の段階で,六鎮台約32,000人.
 当時の模範兵制はフランス式でした.

 師団は鎮台と異なり,担当地域を防備するものではなく,一個の戦闘単位として自由に行動できる機動性を有します.
 そのため,師団では師団自体移動しつつ戦うための部隊(工兵大隊,大小架橋縦列,輜重兵大隊,野戦病院など)が重視されています.

 鎮台の場合は,歩・騎・砲は揃っていますが,工兵,輜重兵は小部隊でしかなく,なおかつ,衛生関係の部隊はありません.
 明治九年の段階で,工兵は全国で二個大隊強,輜重兵は一個中隊強に過ぎません.
 また,揃っていたとは言っても,砲兵も七個大隊,騎兵も二個大隊しか存在しませんでした.
 これは,当時の明治政府が,国防方針として外征を全く視野に入れていなかったためです.

 明治政府が国防方針を専守防衛から外征に転ずるのは明治二十年代になってからです.
 鎮台制度では,ロシアの脅威に対抗出来ないことから,山県有朋,川村純義,西郷従道を中心に,外征軍への転換に関する意見書を1871年12月に早くも提出.
 そして1884年の甲申事変の失敗により,対外侵攻のための軍事力の計画的拡張に務め,1888年に六鎮台(東京,大阪,鎮西(熊本),東北(仙台),名古屋,広島)を廃止して,師団が編成されています.

 これは当初,ドイツの山砲兵師団の編制をそっくりそのまま移植したものですが,日清戦争に至るまでに,輸送部隊関係(弾薬縦列大隊,輜重兵大隊)はやや簡素化されています.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2

 【参考文献】
山田朗著「軍備拡張の近代史」,吉川弘文館,p.6-19

▼ 余談だが鎮台制度は,以下のような副産物も生み出している.

[quote]

 ヘラヘラの万橘だって,人情ばなしのうまい相当なはなし家だったんですが,しばらく旅回りをして,東京にもどってくるてえと,もうすっかり客層がかわっているし,仲間の円遊なんかが,ステテコ〔踊り〕ですっかり売り出しているから,
「ちえっ,バカバカしい世の中になったもんだ.はなし家が落語をやらないで,踊りで人気をとるなんて……」
と中(ちゅう)ッ腹で,神田の寄席を出て,小田原提灯で足元を照らしながら,九段の牛ヶ淵まで来て,石ィ腰おろして考えごとをしてるてえと,竹橋の鎮台(兵営)で,ラッパが鳴り出した.
 それが,「ヘラヘラ,ヘラヘのヘ」ときこえたそうです.
「うん,これだ!」
ってんで,あくる日から万橘は赤手ぬぐいで鉢巻ィして,赤地の扇子ゥ持って,
「赤い手拭い,赤地の扇ィ,これをひらけばおめでたや.ヘラヘラヘッタラ,ヘラヘラ,ヘラヘラのヘ……」
とやったところ,これが大当たりをとって,そこからヘラヘラが始まったそうですよ.

[/quote]
---------『びんぼう自慢』(古今亭志ん生著/小島貞二編,立風書房,1981/2/10),p.186-187


 【質問】
 善通寺に師団を設けた積極的な理由って何?

 【回答】
 まず,善通寺は交通の要衝で,此処から四国各地に行くことが出来ます.
 一朝事が有れば,即座に対応出来る位置にあります.
 また,瀬戸内海に面しているため,外征を行う場合にも,船舶輸送が容易に行える土地になります.
 更に,広島,姫路などの各師団との連携が容易に取れます.

 また,牙が抜かれたとは言え,高松はかつての朝敵であり,其処に師団司令部を設置する訳にいきません.
 徳島はあまりに大阪,姫路に近く,かつては高知に吸収されていました.
 香川も同様に,最初は徳島に,次いで愛媛に吸収されていましたが,愛媛に関しては,広島の対岸にあり,その影響下にあります.
 ならば,高知は,と言うと,これも反政府運動の盛んな土地であり,かつては自前の軍事力で暴動を鎮圧したことがあり,政府としては疑問の目で見ているところがありました.

 これらを勘案すると,いずれも県都に師団を設置するのは難しかった訳です.
 善通寺の場合は,京極家自体が勤皇派ですし,地域的に比較的安定していた為,広島鎮台の分営が最初に設置された流れもあり,次に師団を拡張する際に,この分営を師団に昇格させたと言う形になっています.

眠い人◆gQikaJHtf2


 【質問】
 明治以後,広島にはなぜ軍事上重要な施設が集まったのですか?

 【回答】
 まず,九州は情勢不穏のため重要施設を余り置くことが出来ず,中国でも,防長二カ国については,仮想敵国である清国やロシアに面しているから戦時には艦砲射撃を受ける可能性がありました.
 瀬戸内海なら内海なので,関門,紀淡,明石など海峡に要塞を構築してしまえば,海軍による侵攻はほぼ防衛できます.
 また,瀬戸内海の広島近辺には島嶼が多く,ここに砲台を据え付けることで,例え中に侵入されても,撃退可能です.

 しかし,瀬戸内海でも四国側に拠点を置いたのでは,本土から孤立するため,補給などに難があり,余り軍都として相応しくない.
 岡山は逆に大陸から遠く,補給線が延びる.
 広島なら,戊辰戦争で浅野家が官軍として戦ったことで情勢は不穏でもない訳で….

 それと,最大の要因は,鉄路が広島までしか延びていなかったことです.
 1870~80年代当時は官営鉄道がやっと東京~神戸間を敷設した状態で,その他の地区への敷設はまだまだでした.
 其処で,各企業家が中心となって,各地に鉄道を敷設します.
 現在の東北線,両毛線,常磐線,関西線,福知山線などは元々私鉄でした.

 現在の山陽線である,神戸からの鉄道も山陽鉄道という私鉄で,元々は神戸~姫路だけ敷設する予定でしたが,官許を得る際に,馬関まで敷設するように要請を受け,1894年に広島まで開通していました.
 ここから先は舟運に依った訳で,補給路の末端と言うことで,広島が自然と軍都の性格を帯びていくことになります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2


 【質問】
 「国宝師団」による弘前城利用の変遷について教えられたし.

 【回答】

 1868年1月3日,京都の鳥羽・伏見で旧幕府軍と新政府軍とが激突し,戊辰戦争が開始されました.
 各地の大名家は幕府に付くか,新政府に付くかで藩論を統一する為,喧喧囂囂の議論が繰返され,中には血の雨が降った所もありましたが,弘前津軽家は激論が交わされた結果,当初は日和見で,奥羽鎮撫総督の命が下れば庄内藩攻撃に出兵しましたし,奥羽列藩同盟が成立するとそれに加わったのですが,その時の当主である津軽承昭は,新政府に与している熊本細川家の細川斉護の四男であり,再婚相手は五摂家筆頭の近衛家の女であった事から,宗家の近衛家から親書が下されると,勤皇方に旗を巻き替えました.
 こうして,宿敵の盛岡南部家征討の為,野辺地戦争に出兵して犠牲者を出したりしました.

 また,榎本武揚率いる旧幕府軍が籠城した箱館戦争に於いては,奥州触頭に任ぜられて,青森に集結した官軍諸藩の兵站を担う事になり,その出費は藩財政を圧迫しています.

 1871年7月14日,明治新政府は廃藩置県を断行して,日本各地にあった諸藩は解体を余儀なくされ,従来知藩事として自領内を統治していた旧藩主は,家禄と華族身分を保障され,東京に呼び集められる事になりました.
 因みに,津軽承昭は伯爵に任ぜられています.

 一方,軍関係組織である藩兵も解体された事から,これも中央集権が進められ,8月には東京,大阪,熊本,仙台に鎮台が設置されて常備軍が置かれました.
 そして弘前城には,弘前県庁と東北鎮台第1分営が置かれることになります.
 因みに,11月に明治政府は,旧大名の城郭を全国的に取り壊す事を決定します.
 しかし,維新の際に弘前藩は勤王派に与した事から,本丸と武芸所を取り壊しただけの,寛大な措置だけで済みました.

 ただ,それも長くは無く,9月4日に斗南県小参事広沢安任と八戸県大参事太田広城の建言により,弘前県に七戸,八戸,斗南,黒石,舘(旧松前藩)の5県が合併される事になり,21日に城郭内に置かれていた弘前県庁は,元寺町1番地に移転し,旧城地は兵部省が管轄する事になりました.
 その僅か2日後,9月23日には県庁が電撃的に弘前から青森へと移転する事になり,名称も弘前県から青森県に変わる事になりました.

 残ったのは,本丸にあった東北鎮台第1分営でしたが,これも1875年暮れには青森に移転してしまいました.

 こうして,一度は県庁所在地となった弘前は,一地方都市へと格下げされてしまいました.
 当然,弘前城は門を閉ざして荒廃するままになっていました.

 そんな中,1871年12月に旧藩士の有志等が兵部省に対して,士族や無産の人々の生計確保の為,旧城郭を破毀して桑や茶畑に変える様要求し,郭内の建物や雑木も売却して授産開墾の資金に充てようと考えました.
 1884年1月,再び士族達が食用牛の集牧地や乳牛の放牧地として利用して,興産の道や牧畜農家の自活の道を拓く為,旧城地の借用を青森県に願い出ています.
 請願者として名を連ねた小山田鉄弥と言う人物は,後に第6代弘前市長を勤めた士族で,請願した当時は自ら北津軽郡相内村(現在の五所川原市)で牧場を経営していました.

 しかし,これらの請願は,城地が既に軍用地であった為,聞き入れられる事はありませんでした.

 1889年,陸軍省は施設増設の資金捻出の為に,不用地の売却を計画し,全国19箇所の旧城が翌年に旧藩主などへ払い下げられましたが,弘前城は陸軍省が将来使用するとして,払下げの対象となりませんでした.
 これに対し,津軽家は旧城との縁故を繋ぎ止め,城跡の全形保全に執着していました.
 この為,津軽家としては弘前城の払下げを,強く政府に願い出ていたのです.

 1893年,津軽家は弘前市に相談し,市が陸軍省から旧城を「拝借」することを願い出る事にします.
 陸軍省は公共用とすれば旧城利用を許すとした為,表向き市が旧城を公園として「拝借」する事にしたのです.
 実際には,津軽家が旧城を拝借したのも同然でした.
 津軽家は公園の設計書を作成し,維持費を支弁し,管理さえしていたからです.

 こうして旧城の貸与が,陸軍省から為されました.
 貸与期限は1909年8月までの満15カ年で,この時に津軽家と弘前市は,「弘前市公園ニ係ル契約証」を取り交わし,旧城に対して陸軍省から払下げの命令があれば,津軽家に譲渡して納金させると言う事にしていました.
 1894年10月以降,朽ちた橋が架け替えられ,外堀の浚渫や櫓門が修繕されました.
 1896年には旧本丸石垣が崩壊した為,天守が南側に一時移動されました.
 この様に,荒れ果てた城内は,美観を備えた遊覧地として機能し始めた訳です.

 ところで,一度弘前と,陸軍との関係は途切れたのですが,青森に第1分営が移転した後,これを基に歩兵第5聯隊が編成される事になりました.
 また,青森県全体としては,1885年に三本木(十和田市)に陸軍軍馬局出張所が置かれ,1896年6月には軍馬補充部三本木支部となるなど,軍関係施設が充実する様になりました.
 因みに,海軍関係では,1902年7月25日に勅令により下北半島の大湊に,海軍水雷団が設置され,1905年10月には大湊要港部が設置されて,大湊水雷団が12月12日に廃止されました.

 1896年9月,陸軍第8師団が弘前に設置されることが決定し,1898年12月1日に新兵の入営が行われて編制が完了しました.
 第8師団司令部は,現在の弘前大学農学生命科学部がある敷地に置かれ,それに面した通りは「師団通り」と呼ばれました.
 師団の各施設は,弘前城付近と現在の弘前大学付近に設けられ,弘前衛戍病院(現在は国立病院機構弘前病院)や弘前偕行社(現在は弘前厚生学院記念館)の施設も新たに建設されて,軍都・弘前としての性格が色濃くなっていきます.

 そうした中,1897年6月に師団に地所を献納していた津軽家は,旧城総体と同評価額の師団用地の交換を願い出ました.
 津軽家にとって,この城の払下げは悲願でしたが,陸軍省からの返答はなく,逆に1898年8月になると,三の丸の土地51,018坪が陸軍兵器支廠の用地として引き渡す羽目になりました.
 この地には,火薬庫,兵器庫,被服庫等が建設され,一般人の出入りが禁じられます.
 弘前市は園路を確保するため,三の丸東門の北方(現在の青森県立弘前中央高等学校裏門前)の濠を埋め,土居を切って,三の丸への通路を確保し,賀田門内の坂上で濠を埋め,土居を切って二の丸へ抜ける通路を造ります.

 此処に至り,1902年以降,津軽家は弘前市に対し,公園の管理を辞退する事となりました.
 その最大の理由は,将来的に城が払い下げられないからと言うものでした.

 こうして,1902年5月以後は弘前市が弘前城公園の管理を行い,市は本丸や二の丸にあった飲食店を郭外に移転させ,7月には土居を切り拓いて兵器支廠地への道路を造り,兵器運搬の便に供しました.
 そうした中,1906年9月には本丸跡で藩祖為信公300年祭が挙行され,その事業の中で藩祖為信の銅像を建立する計画が興り,その候補地として本丸が浮上しました.
 弘前市は,津軽家の意志を継承するかの様に,陸軍省に旧城の払下げを請願します.

 丁度その頃,陸軍省は軍隊教育費拡充のために不用地を処分しようとしていました.
 その不用地の1つに弘前旧城が選ばれ,兵器支廠の土地以外の土地が払い下げられました.
 そして,払下げ費用のうち天守部分の50円は,津軽家が「弘前市公園ニ係ル契約証」に基づいて支払っています.
 つまり,弘前城が正式に弘前市のものになっても,天守部分だけは長らく津軽家が所有していました.

 因みに弘前第8師団は,その直前に終結した日露戦争に於いて,1905年1月に黒溝台の戦いで多くの犠牲を払ったものの,その活躍がロシア軍総退却の切っ掛けとなり,「国宝師団」として賞賛されましたから,その関係もあったのかも知れません.

 1909年9月,藩祖為信の銅像除幕式と開市300年祝賀式が,本丸跡で開催されました.
 これは旧弘前藩の士族や弘前市民にとって,旧城が正式に弘前市に戻ってきた事を象徴する出来事で,その時に除幕された為信の銅像は,城下町弘前の象徴として長く市民に親しまれていました.

 それでも,三の丸は中々帰ってきませんでした.
 1922年3月の大正軍縮に於いて,1925年には弘前歩兵第52聯隊が廃止されました.
 この聯隊舎には31聯隊が移る事になり,その跡地が不用になる事から,弘前市は陸軍に無償払下げを申請しました.
 その中には,市内小学校の連合運動会や消防組の連合運動会等を実施可能な運動場確保のために,弘前公園外郭の陸軍火薬庫の移転を要望してきた事が書かれています.
 しかし,無償払下げや火薬庫の移転はなりませんでした.

 結局,これが返ってくるのは,敗戦を待たなければなりませんでした.
 因みに,弘前市内の軍事施設の内,三の丸の兵器庫は弘前大学教育学部校舎となり,市内豊原にあった野砲兵第8聯隊兵舎は,市立第三中学校の校舎として,それぞれ使用されています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/12/31 23:50
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 会津藩士が屯田兵となるまでの経緯は?

 【回答】
 会津藩と言えば,朝敵となって,本土に攻め込まれた挙げ句,藩主松平容保と嫡嗣の喜徳は他藩永預,謹慎,領地は一端没収され,藩士は捕虜として会津の他,東京や高田に送られてしまいました.
 しかし,容保に実子容大が誕生すると,名跡の継続を許され,容大は下北半島の斗南3万石へと移封されることになりました.

 因みに,斗南とは「北斗以南皆帝州」と言う意味で,現在のむつ市に当たります.
 会津23万石から斗南3万石へと,8分の1に近い大幅減封となり,しかも,この土地は火山灰地で耕作地に乏しく,実収7,000石に過ぎません.
 後に陸軍大将となる柴五郎は,その回顧録に,猟師に射殺遺棄された犬の死骸を,犬の飼い主に貰って2名の藩士が談合で半分に分け,家族が飢えを凌ぐと言った話を載せています.

 柴五郎はその犬肉が喉を通らなかったのですが,その五郎を見た父がこう言います.

------------
 武士は戦場で兵糧尽きれば犬猫でも食って戦うものだ.
 特に今回は賊軍に敗れて辺地に来たのだ.
 会津武士は国辱を濯ぐまで餓死は出来ない.
 ここは戦場なのだ.
------------

 かくも凄まじい生活を強いられてきた会津藩の武士達ですが,元々彼等の総数は,4,000戸,17,000名とも言われていました.
 しかし,8分の1の石高,しかも実収が更にその4分の1程度ではそれだけの家臣を養えません.

 当然,彼等の殆どは斗南に行く事も出来ず,失業せざるを得ませんでした.
 因みに,柴五郎の回顧録には,会津に帰る者210戸,農商に帰する者500戸,江戸その他に分散する者300戸,斗南に移住する者2,800戸,そして北海道に自発的移民をする者200戸と書いています.
 斗南に2,800戸の人々が行っても生活出来ません.
 明治新政府の人々は,これらの会津降伏人を軍務官の管理に置いて,北海道の開拓に向けようと考え,参議の木戸孝允にその取り扱い方を命じました.

 木戸は1869年2月10日,こう述べています.

------------
 会津降伏の処も,いよいよ北地の論一決仕り候.
 追々軍務とも相談仕り置き候.
 一万余人を彼地に相移し候と申す事,中々容易に御座無く候処,先達来会津人の面々にも話し,篤と朝廷御旨趣も申し聞かせ候処,一統意外に奮発仕りおり候様に相察,朝廷の御為粉骨尽力仕りたき存念にて,主人重罪万分の一を相償たしとの志も相見え,如何にも憐れむべきの至りにて,且つ又朝廷の於いても,今日に至り候ては,天下御一視にて,会津人と言えども至る所皇国の民につき,此上は一人も其処を得候様あそばされたきの思食は申上るまでもなこれなく….
------------

 こうして,政府は箱館府に以下の指示を下します.

------------
今度会津降伏人蝦夷地ノ内,発作(発寒)部,石狩,小垂内(小樽)3箇所へ開拓ノ為移サレ,右取扱方ノ儀ハ軍務官ヘ仰付ラレ候条,彼ノ三カ所同官へ引渡スベキ旨御沙汰候事.
------------

 とは言え,この頃の箱館府は榎本軍に追われて本土に逃亡していた為,実施は後の事となります.
 なお,当時会津降伏人には1人当たり2人扶持の手当が支給されていたので,以前の伊達陪臣よりは優遇されていたと言えます.

 7月8日,軍務官は兵部省に改組され,同時に北海道の統治組織として開拓使が設置されました.
 兵部省は会津降伏人始末荒目途を作り,2年に4,000名,3年に8,000名の合計12,000名を移住させ,家屋3,000戸や農具など460万円,米9万石を要求し,更に石狩や小樽内などの小部落単位では無く,伊達陪臣の様な一円支配として,田城国と言うものを設置する様要求しました.
 なお,北海道が11カ国86郡に分けられたのは8月15日なので,田城国は存在していません.

 ところが,田城国の一円支配要請後間もなく,兵部省は田城国の開拓使移管を申請しました.
 開拓使が設置されたのだから,開拓使が蝦夷地一円支配をしなければならないという論理でしたが,維新政府の実力者であった木戸孝允が怒って兵部大輔大村益次郎に阻止運動を進め,一端開拓使に移管された石狩近辺は再び兵部省管轄に戻ります.
 短期間中に朝令暮改されて,会津人からしてみたら迷惑な綱引きです.

 その様な綱引きがあって,8月15日の北海道国郡区画後,石狩郡,高島郡,小樽郡の兵部省支配が決定され,9月に更に瀬棚,太櫓,山越,白糠,阿寒,足寄の6郡も兵部省管轄となりました.

 10月銭函に到着した開拓使判官の島義勇は,早々に札幌本府建設に取りかかりましたが,札幌に入る沿岸地帯が総て兵部省管轄となっており,札幌経営上,不便極まりない状態になっていました.
 開拓使と兵部省の間に何らかの確執があった事が伺えます.

 11月,開拓使と兵部省との間に協議が持たれ,1870年1月を以て兵部省は北海道分領支配から全面的に手を引く事になりました.
 従来の兵部省支配地9郡の内,瀬棚,太櫓,山越の3郡に歌棄郡を加えて,斗南藩知事松平慶三郎(容大から改名)の支配地とし,会津降伏人,つまり移住の会津旧臣を総て斗南藩に委ねる事になりました.
 他の石狩,白糠,小樽,足寄,阿寒の6郡は開拓使管轄に入ります.

 しかし,斗南藩知事の松平慶三郎には還された旧臣士族を開拓の方向に指導する事が出来ませんでした.
 結局は開拓使が受け容れて配置する他無く,降伏人引き受けをたらい回しにしたツケが回ってくる事になったのでした.

 因みに,木戸が彼等を兵部省管轄に置く事に拘った理由としては,北辺対露紛争が生じた場合は,彼等の戦闘力に期待し,援軍が到着するまで玉砕覚悟で戦ってもらえれば良いと言う捨て石的な見方を持っていたのでは無いかとも言われています.

 ただ,当時の政府の能力としてロシアと一戦を交える余力は無く,兵部省としても,開拓使は移民扶助中心であろうし,会津士族は一般扶助取扱とは異なる開拓,授産の法を考えるべきだと思っていたようです.

 未だ,会津降伏人に対する政府の方針がきちんと決まっていなかった事が伺えます.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/06/25 23:01
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 余市郡における屯田兵開拓の経緯は?

 【回答】

 さて,会津降伏人の扱いとして,新政府が考えたのが,兵部省に預けての北海道開拓でした.
 この為,兵部省は北海道に直轄地を置き,1869年9月に会津降伏人100戸を小樽に入植させ,札幌近辺の開拓を開始します.
 しかし,札幌は開拓使使用地である為,この地への入植は断念し,当別を跋渉して移転計画を立てました.

 結局,1870年に兵部省は北海道から手を引き,会津降伏人,否,会津士族は旧主である斗南藩主に引き渡し,同時に瀬棚,太櫓,山越,歌棄の4郡を支配させました.
 兵部省としては,海岸漁業の地であるので,旧臣撫育にも都合が良いだろうと言う言い分だったのですが,斗南の地は前述の通り,余りにも貧しく,戻ってきた旧臣を扶養する力は最早ありません.

 そこで,開拓使にその土地の統治を依頼する事にしたのですが,開拓使は断ります.
 進退窮まった移住者達は,新設の樺太開拓使に救いを求めました.
 開拓使次官の黒田清隆は樺太専任であり,樺太開拓使はこれを引き受け,先ず余市に待機させて,後で樺太に移住させる事にしました.
 しかし,樺太開拓使はその後の朝令暮改で,1872年には北海道開拓使と合併してしまい,会津士族の樺太移住問題はとうとう立ち消えとなりました.

 そうは言いつつ,何時までもこれを放置しておけないので,開拓使は会津士族を余市郡に定着させる事とし,黒川村と山田村の2つの村が作られる事になります.

 因みに,これらの200戸余とは降伏謹慎の後,朝敵の責を負って自刃した城代家老萱野の一味と見做された人々で,北海道への流罪とされて,江戸品川湾から13日の船旅を経て,信香(小樽)の海岸に上陸します.
 流罪とは言え,食器の給与や上陸民の世話などを施され,信香,若松,色内方面の漁師に宿舎の割当を受けて大いに歓待されたと言います.
 食糧は1人1日玄米1升が宛がわれ,同時に銭100文が支給されました.

 これを見ると先日の伊達士族は元より,斗南に移住した藩士より生活が保障されている感じです.

 1869年の小樽着第1陣は103戸,第2陣が108戸で家族を合わせると700名余となります.
 その後,兵部省から斗南藩に移管され,その時には玄米の支給が中断されて外国米となったりし,それも中断される事になりましたが,先述の通り,黒田清隆開拓次官を頼って開拓使募移民として保護を受ける事になり,当初は石狩当別開墾とされたものの,後に余市川沿岸の地に居を定める事になりました.

 この余市と言う土地は,地味肥沃,水運の便も良く,海産物も豊富でした.
 しかも,開拓使募移民であった為,家屋の用材は南部手島で手配したものを函館で切り込みをして,川崎船で余市川を遡り,部材を下ろして建築,こうして1871年旧4月に小樽から移住する事になりました.
 この時の移住者は169戸600余名,翌1872年には11戸60余名で,前述の211戸に比べると少し足りませんが,多分,小樽在留中に斗南に移住したり,会津に帰ったりしたか,逃亡,或いは死亡したかの何れかと思われます.

 そして,彼等は血判の入植御受書を開拓使に提出しています.
 これには,朝敵と目された汚名を濯ぐ決意を以て開拓を成功させる事を誓っています.
 この血判書は,第1回193名で,後に遅れて移住した斗南からの移住者を含む33名が書き加えられました.
 この受書提出を以て,会津士族団は余市郡へ入植し,総代宗川熊四郎の下,現在の余市町の基礎である黒川村,山田村を建設しました.

 因みに,黒川村の黒川とは,開拓に便宜を図ってくれた開拓次官黒田清隆の「黒」と総代宗川熊四郎の「川」から採り,山田は開拓権判官大山荘太郎の「山」と黒田の「田」を合わせたものとされています.
 黒川村は150戸,山田村は50戸に分かれて入植し,5戸1組で五家と称しました.

 こうして意気揚々と刀を鋤に持ち替え,農具の給与を受けて,熊笹や雑草と戦いながら豆や蕎麦を蒔いて開墾を続けていくのですが,慣れぬ農業に効果が上がらず,給与米の3年を過ぎると,生活に不安が出て来ました.

 そこで,開拓使が採用したのが,「規則掘」と言う規定です.
 男は1日20坪,女は7坪の責任開墾を奨励し,土地所有及び1反歩金2円の奨励金を出しましたが,効果は無く,農業に倦んだり,この土地での生活を諦め,しかも,単身者など足手纏いの無い身軽な者達は,余市を捨てて小樽や札幌へと転地し始めました.
 この為,開拓使は新墾機械を以て援助し,会社組織を指導します.

 1873年,黒川村が開墾会社を設け,1874年4月に黒川村の東蔵太,山田村の川俣友次郎が開拓使本庁で,修業人講習生として,札幌で米国式農機具の操縦法や一般農学知識の受講を受け,1876年に帰郷して,余別,当別,手稲の各地に指導員として知識の普及に努める様にしました.

 更に1875年,林檎,葡萄,梨,李と言った西洋果樹苗木が開拓使から交付されました.
 農業経験不足の上に,今まで育てた事の無い果実です.
 因みに,余市郡沢町の漁師町にも果樹の苗は交付されましたが,漁業者の片手間では成功せず,黒川,山田の苗甫では一部成果を挙げるに留まりました.
 ところが,1880年に札幌で催された農業仮博覧会への参考出品をした所,忽ち余市の林檎は名声を博する様になり,旧会津士族は元より,周辺農民達も飛びつく事になります.

 品種は緋衣,柳玉,紅玉,国光,青龍,オートレー,祝,紅魁と言ったもので,本来は外国品種名で呼ばれていたのですが,それを日本名に直しても覚えるのは大変だった事から番号を付けました.
 紅玉や国光は6号,49号の名で宣伝される様になったのです.

 こうして,開拓は徐々に軌道に乗っていく事になります.
 とは言え,此処に行き着くまでは生活が大変で,周辺の漁師村に大豆売りに出掛けるのですが,武士の矜恃が邪魔をし,買って欲しいと売り込む勇気が無く,網元の家の周囲をぐるぐる回り続けたと言う話も少なくありませんでした.

 1877年の西南戦争では,北海道各地の士族達は屯田予備兵として東京まで出征しますが,余市の旧会津士族にも声が掛かり,一部は屯田予備兵として同じ様に出征した人もいたと言います.
 ただ,この兵士達はどちらかと言えば,山田村や黒川村から行ったものではなく,札幌方面の転住者ではないかと言われています.

 因みに,伊達の時もありましたが,会津士族も1872年9月頃に民籍編入となったとされています.
 ただ,その頃には既に藩という概念そのものが彼等の間から失われてしまい,結局,会津士族の士族復籍は,1893年になるまで持ち越されています.

 今は余市と言えば,ウイスキーですが,当初は果樹で有名だったりするのです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/06/26 23:13
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 幻に終わった五島家北海道移住の顛末について教えてください.

 【回答】

 さて,1869年9月14日付の官報の前身である太政官日誌第96号に次の様な記述があります.

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 五島銑之丞
 後志国磯屋郡ノ内,後別川東 但,川属之
 右其方支配ニ被 仰付候事
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 五島家と言えば,九州は長崎県五島列島を領する石高12,500石の大名家ですが,銑之丞はその一族で,先祖の時に五島列島内から3,000石を分知されて旗本となり,交代寄合に属していました.

 交代寄合と言うのは,3,000石以上の無役の旗本で参勤交代をする寄合の事で,大名や旧家,特に外様大名の分知に多くいます.

 五島氏は元々宇久氏を名乗り,水軍を中核とする武士集団でした.
 出自は,五島列島最東北部の宇久島で,そこから南下してほぼ列島の支配権を握り,福江島福江に居城を置いて,豊臣秀吉より純玄が所領を安堵され,以後,五島氏を名乗ります.
 純玄は文禄の役で出陣中,実子の無いまま陣中で病没した為,小西行長の斡旋で一族の大浜玄雅が五島氏を継ぎ,江戸幕府成立後は小西行長の要請を受けて出陣したものの,後に東軍に荷担した事で所領を安堵され,1612年に就封した盛利が大坂の陣に出陣して奮戦し,将軍秀忠によって15,530石を安堵され,福江藩となりました.
 そして盛利の代に,従来の中世的権力体系を改め,家臣団170余家を城下に集中させる「福江直り」を1634年に強行して,1635年には堀江茂兵衛による検地を実施し,知行制を確立しました.

 1655年,盛利の後を継いだ盛次が卒去した際,盛勝が11歳で就封したのですが,幕府は幼君の統治を問題視し,叔父の盛清が後見人となります.
 この時,盛清はその後見役引き受けを条件に旗本への出仕を幕府に嘆願し,1660年,彼は柳間詰交代寄合として3,000石を分知され,陣屋を富江に構えて,福江藩は12,530石に減ぜられました.
 そして,この分知により,領内有数の漁場である有川浦が分割され,富江の有川村と福江の魚目村の海境争いを引き起こし,それは幕末にまで及ぶ事になります.

 幕末の1868年に銃隊68名と砲2門を率いて上洛した五島盛徳にはある野望がありました.
 朝命に従って京都市中を警衛し,勤王の意志を明らかにした五島盛徳は,新政府に対し,王政復古による今後の警備体制強化の出費の為,富江領3,000石を福江に合併したい旨,申し出ました.

 この時の富江領主が,五島銑之丞盛明です.
 銑之丞は福江の本家にやや遅れて上洛しました.
 直ちに彼も参内し,領地3,000石の安堵を受けて安心したのですが,帰国を延期させられた上,間もなく参内を命じられ,福江側と同席で,福江藩による全五島列島支配を申し渡された上,領地没収の代わりに蔵米3,000石の沙汰を受ける事になります.

 驚いた富江側は,この措置を是せず,福江側と激しい対立を引き起こします.
 いくつかの妥協案が出されたものの和解にはほど遠く,京都への嘆願工作も成功しなかった富江側は,遂に一揆を準備する様相を呈してきました.
 騒動の報を聞いた長崎府判事の井上聞多(後の元勲井上馨)は,出張説得に努めますが,事は中々順調には進まず,1869年には政府からも事情聴取の為渡辺昇を派遣し,その報告に基づいて政府の処断が下されました.

 富江の復領嘆願の内1,000石は認められたものの,その地域に行政権を行使する事は出来ず,結局,福江側の意図する通りとなってしまいます.
 そして,9月,政府は失意のどん底にあった富江の五島銑之丞に,先述の沙汰書を下して,北海道の支配地を与えた訳です.

 つまり,政府は伊達の陪臣とか,斗南藩の連中とか,富江の人々など,手に余った者達は総て北海道に移住させようという政策を強引に進めたのです.
 今の何処かの国の政府と思考形態が非常に似ているのは気のせいでしょうか.

 こうして,国内の平穏を図ったのですが,実際には五島銑之丞は,1871年8月の支配罷免まで,北海道への調査も移住も行いませんでした.
 結局,この地は名目だけの分領地になってしまった訳です.

 一方の福江側も,五島列島の一円支配が復活し,盛徳が廃藩置県で生まれた福江県の知藩事になったのも束の間,1871年には,知藩事免官となり,五島家の福江一円支配は束の間の夢に終わったのです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/06/27 23:05
青文字:加筆改修部分


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