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◆◆西南戦争 Szacuma felkelés およびその他の騒擾事案
<◆明治維新 目次
戦史FAQ目次

「急速は事を破り,寧耐は事を成す」(西郷隆盛)

(こちらより引用)


 【質問】
 なんで維新後,西南諸国の反乱が多かったんですか?

 【回答】
 幕府を打ち倒した自分達に対する扱いが軽いと彼らが考えたから.皆が皆,維新政府で活躍できたわけじゃないしね.
 そこへきて,廃刀令や秩禄処分で士族の特権も消え去り,徴兵令で武士階級そのものが無意味になった.

 政府主流になれなかった面子が最初は武力蜂起した.
 でも,日本最強と思われた薩摩の士族が政府軍に負けたから,自由民権という「大義」を掲げて議会での巻き返しを図った.
 自由党・改進党が与党になった時の猟官運動の凄まじさと,その後の選挙で議席を守るために凄まじい選挙妨害をしまくったことを見れば,彼らがいかに主流派になることに執着したかハッキリしている.
 政治なんて,主流派・多数派にいなければ具体的な政策実現もできんから,仕方ないっちゃ仕方ないが.

(日本史板)


 【質問】
 征韓論に伴う政変について質問したいのですが,一般的には
「不平士族の不満を国内からそらす為に,韓国に出兵しようとした西郷一派と,今は外国どころではないと主張した大久保一派の争い」
というように言われていると思います.
 しかし,西郷は別に韓国に出兵する意志はなく,ただ単に無礼な扱いをする韓国に,遣使として自分を派遣するように頼んだだけであり,大久保がそれに反対したのは,
「西郷が行っては確実に殺されて,それこそ戦争になる」
という理由で,どちらかと言えば征韓論というより,遣韓論による意見の相違であったという話も聞きます.
 これはどちらが正しいんでしょうか?

 【回答】
 征韓論は,遣欧派と留守政府派の権力闘争の道具でしかない.
 征韓論だけを見ていると,その辺りのことは分かりにくいけど,太政官政府の制度変更や版籍奉還~廃藩置県,それに絡む大蔵省や司法省などでの薩長と土肥その他の対立を見れば,征韓論そのものは重要でないことに気付く.

 征韓論は,幕末期から佐藤信淵や吉田松陰などにみられるが,大島正朝(友之允,対馬藩)や木戸孝允(桂小五郎,長州藩)などの主張を経て,一方では勝海舟(義邦,幕臣)の欧米勢力に対する日清韓3国の提携構想となり,他方では戊辰戦争直後の木戸や大村益次郎(蔵六,長州藩)らの軍事出兵を背景とする征韓論となった.
 おりしも,明治新政府の国書の形式からする,朝鮮側の受理拒否問題から端を発し,1869年(明治2)から翌70年にかけては,外務省派遣の佐田白茅(素一郎)や森山茂らの対韓出兵論,あるいは柳原前光(さきみつ)(外務大丞)の対朝鮮積極論などが出され,これに対しては賛否両論があった.
 明治政府は1872年5月,これまでの対馬と朝鮮との関係を絶ち,対朝鮮交渉は外務省の専管とし,ついで8月,外務大丞花房義質(よしもと)らを釜山草梁館に派遣して折衝させたが,不調に終わった.
 翌73年に入り,朝鮮側の排外鎖国政策は〈洋夷〉への反感と相まって高まり,日本との修交を依然がえんじなかった.

 かくして三条実美太政大臣は,閣議に対朝鮮問題を論じた議案を付し,そのなかで
〈今日ノ如キ侮慢軽蔑之至ニ立到リ候テハ,第一朝威ニ関シ国辱ニ係リ,最早此儘閣(お)キ難ク,断然出師之御処分之(これ)無クテハ相成ラザル事ニ候〉(一部読下し)
といい,当面,陸海の兵を送って韓国の日本人居留民を保護し,使節を派して〈公理公道〉を朝鮮政府に説くことを提議した.

 参議西郷隆盛は即時出兵には同意せず,使節にみずからがなろうとし,板垣退助,後藤象二郎,江藤新平,大隈重信,大木喬任の諸参議が賛同していったん内定はしたものの,正式決定は岩倉使節団の帰国をまつこととした.

 しかし使節団帰国後もこの遣使問題は延引され,大久保利通と副島種臣の参議就任をまって賛否両論がたたかわされた.
 岩倉具視や大久保,木戸らは強硬にこれに反対し,その結果,三条に代わって閣議をリードした岩倉のもと,大久保,木戸に大隈,大木も同調し,10月24日西郷の遣韓使節は中止が決定された.

 西郷,板垣,後藤,江藤,副島はいっせいに下野.
 これがいわゆる征韓論分裂であり,明治6年10月の政変といわれるものである.
 この征韓派と非征韓派の対立を,異質の政治勢力(その程度の差で諸説は分かれる)とみるか,同質の政治勢力の対抗ないし政府主導権の争いとみるかで多くの見解が出されており,また,西郷はあくまで交渉による朝鮮との修交を求めたもので,これまでの彼の征韓論者的イメージを否定する意見も出されている.

日本史板,2003/03/13
青文字:加筆改修部分
なお,元のレスには,コトバンクから転載された文章が含まれていたため,
著作権が発生しないと考えられる範囲で,元レスから抜粋した.


 【質問】
 西南の役における薩摩反乱軍の装備,編はどんなものですか?
 維新からかなり経っていますし,銃砲は少ないですよね.やはり白刃戦が主で銃や砲は城の攻撃,防御に少しといったところですか?

 【回答】
 銃器もかなり豊富に持っています.
 基幹部隊は前装式ながら施条小銃が行き渡っていたようです.
 大砲は四斤山砲約20門を主力に,臼砲などを有しました.
 ただし,弾薬は十分ではなかったようです.

 編制については,基幹部隊は本営+7個大隊(各10個小隊の約2000人)+大砲隊からなります.
 10個小隊から1個大隊を編制する方式は,仏式陸軍編制と同じです.
 うち,第6大隊と第7大隊は不完全編制で,連合大隊として運用されました.
 このほか,小荷駄隊や雑多な諸隊数千人が加わっています.

軍事板
青文字:加筆改修部分

四斤山砲
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 戊辰戦争のとき,官軍側の薩摩藩兵は洋式の黒い軍服を着ていたはずなのに,西南戦争での薩摩兵は,当時の錦絵などを見ると和装(ヨロイ姿)です.
 戊辰戦争では洋式の軍装で戦った薩摩兵が,なんで10年後の西南戦争では和装の旧式軍装になってたんですか?
 10年前の軍服は残ってなかったんですか?

 【回答】
 そりゃ,官軍と薩摩兵を一目で判らせるための錦絵の演出.
 実際には薩摩軍側に,西郷挙兵の報を聞きはせ参じた和装の士族もいたし,西郷が官を辞した時に一緒に軍を辞めた将校などは軍服を着ていたし,例の薩摩藩の洋式の黒い軍服を着ていた兵もいて,統一された軍服が西郷軍にはなかった.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 西南戦争での熊本城篭城は堅牢だったのでしょうか?
 統率が取れてなく,士気も低い官軍が,士気の高い薩摩に押されただけだと聞きました.

 【回答】
 非常に堅牢でした.
近代装備を一応は備え,精強でもあった薩摩兵相手に,質・量ともに劣る鎮台の守備隊が持ちこたえたわけですから.
 西郷自身,砲撃に持ちこたえた熊本城の城壁を見て,
「清正公と戦をしても勝てっこない」(←鹿児島弁に転換してください(笑))
と思わずつぶやくほどでした.

>統率が取れてなく,士気も低い官軍が
>士気の高い薩摩に押されただけだと聞きました

 まあ,薩摩兵に比べれば,士気も高くなく,数にも劣る鎮台の守備隊が,篭城を選択するのは当然のことでしょう.
 薩摩軍も,一隊で包囲してさっさと北側へ進路をとるべきだったという意見もあります.
 しかし,薩摩軍としては,鎮台に備蓄されていた弾薬が欲しかったし,熊本城を落とせば,非常に宣伝効果も高い.
 鎮台の兵は弱兵だし,落とせるはずだ….
 てなわけで,攻略に掛かったんですが,熊本城の堅牢さの前に落としきれず,結局,史実のような結果をもたらしてしまう要因となりました.


 【質問】
 西南戦争での薩軍の進路を教えてください.

 ぐぐっても,
「えびの市→加久藤→人吉の後,熊本城~田原坂」
と漠然と記述されているサイトばかりで,熊本に居たことのある人間には逆に分かりにくいです.
 人吉から田原坂まで,どのような経路を辿ったのでしょうか?

 【回答】
 熊本までの道程は各大隊事に違います.

   【一番大隊(2月15日出発) 三番大隊(16日出発) 五番大隊(17日出発)】
 鹿児島→横井(休息)→伊集院(休息)→市来湊町(宿泊)→向田(休息)→阿久根(宿泊)→野田(休息)→出水(宿泊)→水俣(宿泊)→湯の浦(休息)→佐敷(宿泊)→田ノ浦(休息)→日奈久(宿泊)→川尻→熊本城

   【二番大隊 四番大隊(16日出発) 独立一,二番大隊(15日に加治木を出発)】
 重富(休息)→加治木(宿泊)→溝辺(休息)→横川(宿泊)→湯の尾(休息)→大口(宿泊)→久木野(休息)→佐敷(宿泊)→田ノ浦(休息)→日奈久(宿泊)→八代(休息)→小川(宿泊)→川尻(正午頃到着)→熊本城

   【本営・砲隊(2月17日出発)】
 重富(休息)→加治木(宿泊)→溝辺(休息)→横川(宿泊)→栗野(休息)→吉田(宿泊)→人吉(宿泊)→八代(人吉八代間は船で下る)→川尻砲隊の一部は鹿児島~加治木間は航路,西郷一行は重富~加治木間は船で移動.2月19日に大雪のため当初予定していた大口~山野~水俣のコ-スを栗野~吉田を経て加久藤超えに変更.

 又米ノ津~佐敷間での移動に航路を利用した部隊の記録もあり,全隊が同じ行程で移動したと考えないで下さい.例外の行程で移動している部隊もあります.

奇兵本営:日本史板,2004/01/16
青文字:加筆改修部分

 熊本城包囲の後は,いったん桐野,村田,篠原が高瀬まで北上して官軍と戦闘し,その後に田原坂まで退いて持久態勢.
 桐野は田原坂ではなく山鹿方面で策動.

日本史板,2004/01/16
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 西南戦争における軍旗紛失事件とは?

 【回答】
 乃木少佐の歩兵14連隊が薩軍に軍旗を奪われた事件.

 2月22日,植木向坂で薩軍4番大隊9番小隊,5番大隊2番小隊と乃木少佐の歩兵14連隊第3大隊と交戦,
 戦闘は午後7時前後に始まり21時40分頃双方が退却.
 しかし,官軍退却の前後に,乃木少佐に兵十数名と共に殿軍を命じられた連隊旗手河原林雄太少尉が,4の9小隊押伍岩切正九郎に斬殺されてしまい,岩切は河原林少尉の背嚢を探り,連隊旗を一緒に現場にいた夫卒の荒木利八に「分捕品を持っておれ」と連隊旗を渡してしまった。
 しかし荒木は5の2小隊(小隊長村田三介元近衛少佐)所属の夫卒だったので,連隊旗は村田三介の手に渡り5の2番小隊の手柄になってしまった。

 村田はその連隊旗を携え是を本営に致し2月24日山鹿に移動。
 3月3日の熊本城攻撃の時に,本営に保留してある連隊旗を逸見十郎太が持ち出し,之を自軍の塁に立て,熊本城篭城中の兵を挑発。
 後ち3月11日山鹿鍋田に於いて村田三介が戦死すると,村田の功を賞して,連隊旗の白地の処に村田三介分捕りの6字を記し,遺髪と共に之を村田の遺族に贈る。

 西南戦争終了後,九州臨時裁判所出張所下方限警察署に収監された大小荷駄折田三之助の密告により,初めて連隊旗の所在を知った政府は,村田の妻佐和子に連隊旗の所在を尋ねるも,家屋と共に焼失したと答えて事実を語らず,警察は村田の仮家屋を捜索するも発見出来ず,その後も警察はたびたび村田家および村田の実家を捜索.
 その間,佐和子は布団の中に隠したり氏神堂に隠したりしたが,ついに明治11年1月に下方限警察署に召喚.
 同暑署長赤木義彦は佐和子を取調べ,白状しなければ,村田の遺児次男籐八(数ヶ月前に生まれた)を拘留すると威嚇し,又,佐和子の実母にも説得を加えて,佐和子もついに連隊旗の所在を申し立てる。
 この時警察は何故に虚言を申したかと詰問すると,佐和子は官に於いては連隊旗は既に奪還せりとの御達と答えた。
 佐和子等が帰家する時は,警察で用意した人力車で帰ってきた。

 取り戻された連隊旗は,赤木が陸軍に提出するも,その件に関しては一切沙汰等がなく,連隊旗は終戦まで陸軍省の倉庫に保管されていて,書類と共に焼却処分された。
 村田家から連隊旗を取上げたのは政府,警察,軍の指図ではなく,署長赤木義彦の単独行動のようで完全な勇み足でもあった。

 連隊旗奪取に関った岩切,荒木は,戦役後も存命で,この件について証言を残している.
 佐和子尋問にさいして拷問の有無を当時確認したところそれはないとの回答。

 補足
 軍事板の皆様はソ-スが好物なようなので御参考までに
西南戦争従軍日誌 第十四連隊第二大隊
薩南血涙史
西南の役薩軍口供書
鹿児島県資料 西南戦争第二巻,第三巻
NHK歴史への招待17巻(軍旗紛失事件)
西南戦争に於ける薩軍の編成 4の9番小隊を例に(奇兵本営論文)
 ※連隊旗は終戦まで陸軍省の倉庫に保管されていて書類と共に焼却処分された」とする記述は,NHK「歴史への招待」17巻(軍旗紛失事件)よりの目撃証言なので,今となっては確実な裏付けにはならないが,参考までに載せました。

(HN "奇兵本営")

 【質問】
 NHK歴史への招待では,軍旗は床の間にあった,という説を採ってますね。乃木が軍旗を旗手に背負わせたのは事実だろうが,それは旗は旗でも大隊旗か何かだったんでは?,という仮説を立てて。
 この,軍旗は床の間にあった,という説についてはどう思っておられます?
 【回答】
 結構難しい質問 ですね
 連隊旗分捕りの経緯は2~3説ありますが,床の間放置説も否定出来ないと思います。
 床の間放置説の発端は,教導役で薩軍と植木に入った高田露(協同隊)の
「植木町の本営らしき家に,連隊旗と思われる紫の房の旭日旗がたてかけてあったのを見た」
 これは2月22日植木の戦いで14連隊第3大隊が銃器弾薬,諸物資と一緒に連隊旗を放置したまま撤退した状況を前提とした高田の目撃談と思います。
 自分の解釈では,この高田説は分捕り後に,5の2小隊が自軍の陣に放置しているのを目撃したと思っています。

 理由
 軍夫荒木利八の証言,
「私が連隊旗を預かり,本営に届けた処,きとくなること,追って沙汰致す。と言われた」
 岩切証言,
「仰向けに倒れた士官を調べると,背嚢に挟んであった約2尺程に巻いた旗を軍夫に渡した」
 また2月22日の戦闘で14連隊が連隊旗を放置したまま撤退する程追詰められた状況ではない事,
この日の戦闘での4の9小隊日記に分捕り品として記録されている物資は小銃のみ7挺で,世間に流布されている大量の物資を残して敗走した状況は考えられない.むしろ2月23日木の葉の戦いで小銃360挺,弾丸1万2千発を破棄して敗走したこの日が,軍旗を放置したまま敗走する可能性がある事.
 しかし高田が軍旗を目撃したのは23日の朝との事。

 次に否定理由
 1 押伍岩切正九郎,軍夫荒木利八の証言は,夜間での戦闘行為の事であり,両人ともその時点では明確に旗が連隊旗とは確認していない事。
 2 荒木利八の証言を裏付ける具体的な資料が欠ける点。~いつ渡したのか~誰に渡したのかその経緯が不明な点。
 3 この件に関しての村田三介,5の2小隊の記録がない点(逆にも両方の点でも)

 まぁ結局のところ,どの説も今となっては裏付ける決定的な資料がないので,地道に状況証拠を見つけて判断するしかないと思います。
 今後,もし連隊旗の分捕り経緯が解ればそれはそれでいいのですが,自分的には日本の終戦に際して焼却処分されたと思われる連隊旗が,どこからか発見されたらいいと思っています。

(HN "奇兵本営")


 【質問】
 西南戦争時,乃木少佐率いる第14連隊が,植木街道の戦闘で薩兵の夜間斬り込みに遭い,混乱のさなかに連隊旗を奪われたそうだが,乃木は処罰されなかったんだろーか?

 【回答】
 乃木少佐は谷鎮台司令長官を通じて参軍山県有朋に軍旗喪失の待罪書を提出,処分を請うたが,
「旗手が戦死して状況が急迫の場合は不可抗力である」として不問に付された。

 軍旗を喪失してからの乃木は,死に場所を求めていたとしか思えない.
 田原坂で左足を撃たれる
→久留米の野戦病院に搬送
→脱走,戦列復帰
→左腕を撃たれる
→高瀬の野戦病院に搬送
→軍旗紛失の件は不問とされる
→熊本城内の参謀室で自決を試み,児玉源太郎に軍刀を取り上げられる
→翌朝失踪
→3日後山王山で断食している乃木が発見される

 西南戦争から数十年後,このエピソードはアメリカ陸軍士官学校の教科書の中で「軍人の責任」という項目の代表例として紹介される様になる(現在はどうか不明).
 ダグラス・マッカーサーは乃木のファンとして有名.

(軍事板)


 【質問】
 なぜ田原坂で近接戦闘が発生したのか?

 【回答】
 田原坂の地図。
http://mapbrowse.gsi.go.jp/cgi-bin/nph-mm.cgi?b=325503.50&l=1303836.30
 官軍は北から攻撃.薩軍は田原坂~辻~藤尾の線で防御。間にある木葉川沿いの低地は泥濘地で行動困難(当時)。

 地図だけではわかりにくい(つーか分からない)が,田原坂は道路の両側が堡塁状になっており,両側からの白兵襲撃が容易な地形。

戦術より更に下位の戦闘レベルで見ると,塹壕戦の様相にかなり近い。

 道は曲がりくねっており両側は堡塁状。しかも竹林で視界は効かない。資料館のある手前辺りの峠(石碑のある辺り)は多少視界が開けるが,ここは尾根になっており,兵力は蝟集しがちになる。

 その一方で,五郎山付近は高地から瞰制されやすく,これもまた進撃は困難。薩軍は一部で塹壕も掘っていたし。

 官軍は辻付近を占領して砲兵を推進,田原坂を西から砲撃したが,途中の木葉川一帯低地に着弾するのも多かったそうな。

(軍事板)


 【質問】
 西南戦争時の抜刀隊ですが,なぜ槍ではなく刀を武器にしたのでしょうか?
 戦国時代の昔から,直接手で持って扱う武器の主力は槍であり,刀はサイドアーム扱いだったと聞いておりますので疑問に思いました.

 【回答】
 まず,主力は槍だとかサイドアームどうこうもちょっと違うが,それは置くとして.

 江戸時代を通じて日常的に携帯可能な武器は刀だった(身分標識だからでもある).
 加えて幕末の政情不安は史上,類を見ないほどの剣術の隆盛を引き起こした.
 そして西南戦争に於ける抜刀突撃というのは,主に弾が無い時や,銃が撃てない時に行われている.
 普段,小銃を持ってても腰に差せる刀と違って,槍は嵩張り過ぎる.
 銃砲に無力なのはどちらも同じとくれば,携帯性が良いほうが便利.

 欧州では銃が使われるようになっても槍は装備され続けたが,これは騎馬の突撃に対しては,単発式の銃では一回の射撃で騎馬部隊を壊滅させられない場合,射程距離の関係で次弾を装填して射撃する前に,相手が自分達のところに到達してしまうから.
 これを防ぐために,槍を持った兵が銃兵の後ろから槍を突き出して「槍衾」を作り,騎馬の接近を防ぐ必要があった.
 やがて「銃剣」というものが普及すると,銃そのものを「槍」とできるため,銃と槍の二本立ては不要になる.

 日本の場合は騎馬戦術が発達しなかったため,歩兵の装備として銃が普及すると,歩兵が槍を装備することはなくなった上,「銃剣」が発明されなかったために,「銃を槍とする」戦術も誕生しなかった.

 西南戦争では平民主体の政府軍は,刀の扱いに慣れていない兵が多く,士分主体の薩摩軍に対して刀による白兵戦で激しく遅れを取った.
 しまいには薩摩軍が突撃してきただけで,恐慌をきたして戦列が崩壊することが多発したため,士分出身が殆どを占めた警察官で特別に編成した部隊を投入し,薩摩軍に対抗させた.
 これが警視庁抜刀隊.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 何の本か忘れましたが,西南戦争で,薩軍の抜刀攻撃で装備に勝る筈の鎮台兵が多数死傷し,対抗策で警視抜刀隊を急遽組織する苦境に陥った経験が,後の日本陸軍を白兵戦至上主義に導いた・・・って話,ホントですかねえ?

 【回答】
 半ば本当だよ。正確に言うと,この時期はまだ「白兵戦能力の向上」が課題だったと言うことだけれども。

 日本陸軍建軍以来,白兵戦能力の不足は悩みの種で(日露戦直前の偕行社記事とかにも,彼我の白兵戦能力の隔絶に危機を感じているのが伺える)これの向上は急務だった訳。

 ただ明治30年代後半までは,歩兵繰典に明確に
「歩兵の主たる戦闘手段は小銃の一斉射撃」
とされていた訳で,西南戦争直後から白兵戦至上主義になった訳ではない。

 この火力重視はフランス式歩兵操典(明治38年の歩兵繰典改訂まではフランス式が基本)の影響.
 軍制自体は,明治18年頃のメッケル来日に前後して逐次行われたけど,各種教範・繰典はそれ以前からの物がベースになって,根本的改正が為されないままだった。

 第1次大戦の青島攻略とかでも,案外火力の集中に意を払っている。

 ただ,後の陸軍戸山学校で,軍刀操法について薩摩の薬丸示顕流剣術の伝書が取り寄せられ技法が研究された(伝書は後に空襲で消失の由)ことはあった。
 示現流は薩摩御留流儀で知られた剣術だが,そこから分派した薬丸自顕流の方は,技法をより簡素で実践的(技数を十にまで減らしたとか)に改め,主に下級士族(当然,西南戦争の薩兵に多数の遣い手がいた)に広まったとか。
 西南戦争の戦訓が,意外なところで影響を及ぼしたのかもしれない。

(ミリ屋哲 ◆StCoSUah7Q他)

(ただし,初めての戦闘で興奮した兵士が,当時の前装銃に弾丸を二重装填して発射したものとする説もあります.
 自分はどちらか断定する根拠を持ちませんが.)

軍事板


 【質問】
 三角半島北岸に揚陸したところで宇土で包囲され,南岸からは不知火~松橋ラインで阻止されると思われ.
 外海に面し,かつ兵站線の脆弱な部分を狙うとすれば,阿久根~串木野の範囲で後方を断ち切るのが妥当であろうが,史実の上陸地点が日奈久だったのはどういう判断だったのか?

 【回答】
 阿久根~串木野で上陸したところで,薩軍後方連絡線は人吉方面で維持されるでしょうから。
 それよりは日奈久に上陸して八代平野を支配した方が妥当かと思われます(日奈久~田上~坂本のラインで薩軍の後方連絡線切断).

 串木野-国分を電撃戦で突破し鹿児島包囲…と考えそうだが,あすこは山間部だらけなのだな.
 薩摩に行ってみれば判るが,市や町は山の合間に点在していて,拠点制圧が極めて困難な地形なのだよ.
 熊本平野のちょっとした丘陵でしかない田原坂で,あれだけの遭遇戦を繰り返したのだから,これが敵地での戦闘に引きずり込まれたら…

 薩摩でもたついてたら,全国の禄を切られた不平士族が蜂起しないとも限らない.
 これは明治政府にとっての正念場で,時間との闘いとも言えたのではなかろうか.
と,少々俯瞰的に見てみる.

(軍事板)


 【質問】
 西南戦争が日本の海運業界に与えた影響について教えられたし.

 【回答】
 西南戦争には,中央より鎮台兵や巡査隊と言った人々が6.6万人も動員されて九州の戦いに参加しましたし,彼等が手にする武器,弾薬などの軍需物資,現地で消費する食糧,衣料など膨大な数の物資が必要でした.
 これらは,当時の貧弱な道路インフラでは荷を捌ききれず,全て汽船によって九州の主な港に輸送され,其処から軍夫の手によって,南九州の前線へと運ばれたり,前線に歩いていったりした訳です.
 こうした汽船の徴用数は130隻で,岩崎弥太郎の率いる三菱会社は,1,000トン以上の大型船の殆ど,そして,上海航路就航船を除く殆どの船舶,44隻を動員しました.

 これは当然,儲け話です.
 他にも一杯船主と呼ばれる,1隻しかない船の持ち主が挙って徴用に応じたりしています.
 このため,各地の一般旅客や貨物輸送は圧迫され,運賃が暴騰すると共に,全く汽船を持っていない人々も,海外から汽船を買う,或いは新たに建造するなどして海運業に進出する者が増え,この時期110隻の船舶が増え,船主は70余名が新たに登録されました.

 汽船会社も各地に設立され,関西から瀬戸内に掛けて,和歌山に明光会社,共立会社,淡路に淡路汽船会社,岡山に偕行会社,広島に広凌会社,徳島には船場会社,太陽会社,高松には三港社,丸亀には玉藻会社と様々な地域汽船会社が誕生しています.

 その後,明治10年代になると,先行会社は大阪~下関間を毎月3往復するように成っていきます.
 1880年には神戸偕行社(岡山に誕生した偕行社が神戸に移転したもの)が神戸~多度津~三津浜~別府~八幡浜を結ぶ郵便路線が開設され,郵便物がこのルートで配送されることになりました.
 当時,定期航路が開設されると政府は郵便物の輸送を命令しており,東京発の新聞紙,雑誌類などの郵便物は,中国・四国宛のものは神戸,九州宛のものは長崎へ東京から船便で輸送されています.
 因みに,偕行社は1870年に岡山池田家中の安井改造と言う藩士が提唱して設立された蒸気船航行会社で,この頃には大小20隻以上の蒸気船を有している中々有力な汽船会社でした.

 また1881年には,江州彦根の商人大西定兵衛が臼杵留惠社の後援で大分丸,第一臼杵丸,第二臼杵丸を建造して大阪~多度津~三津浜~別府~佐賀関~臼杵~佐伯~細島への航路を開設し,同じ頃,佐伯の宮崎喜兵太は,佐伯丸を建造して,大阪~北四国の各港~別府~細島の航路を拓き,その後,亀鶴丸を建造して,日向油津まで航路を延長する様になっています.
 大阪から各地へ出航する船は月々で延べ60隻近く,広島(宇品)への寄港はうち20隻(広島止まりが12隻),山口の各港に寄港して下関,西九州に赴く船は延べ27隻と非常に多い船が瀬戸内海を行き来しています.
 正に,海路は山陽道交通の大動脈だった訳です.

 この時期の会社所有船は,偕行会社(兵庫)が静凌丸,明凌丸,運貨丸,六甲丸,速凌丸,第一凌波丸,第二凌波丸,安凌丸,光運丸の9隻,共立会社(和歌山)が新和歌ノ浦丸,太陽会社(徳島)が太陽丸,朝陽丸の2隻,船場会社(徳島)が長久丸,末広丸,鵬勢丸,巳卯丸の4隻,撫養会社(徳島)が撫養丸,大安丸の2隻,広隆社(広島)が広凌丸の合計19隻で,残りが個人船主で2隻以上所有しているのが,大阪府では,猪飼徳兵衛(平穏丸,雄ノ丸,此花丸,三保丸),杉村佐太郎(狭貫丸,浦安丸,無事丸),住友吉庄衛門(安寧丸,康安丸),大西定兵衛(第四大分丸,鎮西丸),南方一郎(静海丸,静竜丸),寺村富永(明光丸,明事丸),兵庫県の岩崎英之助(第一赤穂丸,第二赤穂丸,第三赤穂丸),和歌山県の阪上伝吉(名草丸,和歌浦丸),広島県の橋本吉平(平運丸,平辰丸),愛媛県の菊池行造(八幡丸,新八幡丸)で残り48隻が所謂個人の一杯船主で,その数は大阪に11隻,兵庫に4隻,岡山に2隻,大分に2隻,愛媛に1隻などとなっています.

 こうした航路の拡大と隻数の増加は西南戦争後,次第に競争となっていき,過当競争による運賃収入の低下,メンテナンスを考えない航行などによる事故の多発などマイナス面が大きくなり,1884年,これらの多くの船は,一つの会社,即ち大阪商船の下に結集されていくことになっていきます.

 因みに,私の父方の祖母の家は,代々岡山の廻船問屋で,明治期に汽船業界に進出しましたが,台風で持船が沈み,陸に上がって公務員となったと聞いています.
 もしかしたら,この中に,うちの祖母の家の持船があるかも知れません.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/07/17 23:34


 【質問】
 西郷隆盛は自害後に首を介錯させてますし,会津の娘子軍も重傷を負うと介錯させています.
 敵に首を取られるのは恥との考えは,この当時の武士階級の人は普通に持ってたんですか?

 【回答】
 敵に首を取られることそれ自体が恥なのではなく,殺される(前後の)ことで損なわれる自身や味方の名誉や,蒙るであろう恥辱を慮ってのことですよ.
 西郷南洲は一応総大将ですし,中野竹子は陵辱の可能性がある.
 そうでなくても,官軍に「会津の士どもは女子供を矢面に立たせたる臆病者」などと嘲笑されるネタになる訳にはいかないと考えてしまうでしょう.

日本史板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 西南戦争の戦後処理で処刑された人っていないの?
 逮捕された後に釈放された人って話も聞かないけど…

 【回答】
 処刑された大物だと,鹿児島県県令の大山綱吉.
 ただ,彼を薩摩軍・・・と言うよりも西郷軍なのですが,その幹部かと問われると複雑な気がします・・・・・・

 直接に戦闘参加した薩軍の大物幹部は皆,戦死か自刃してます.
 薩軍以外の参加諸隊だと,熊本隊の幹部は池辺吉十郎他数名が処刑.
 佐土原隊の鮫島元,福島隊の坂田諸潔なども処刑されてます.

 服役例は,薩軍だと野村忍介,河野主一郎他,降伏した中~下級幹部.
 薩軍以外も,隊の規模と役職に応じた中~下級幹部.
 どちらも獄死以外は1~10年の懲役刑で,釈放されてます.

 役職のない兵卒の場合,何か理由でも無い限りは,基本無罪放免でした.

日本史板,2010/05/03(月)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 稲田騒動とは?

 【回答】

 1869年6月,版籍奉還により,諸大名は土地,人民を朝廷に返還しました.
 従来の公卿や大名は廃されて華族となり,旧大名は藩知事をとなって,現石の10分の1をその家禄とします.
 これで大名は藩知事という朝廷の地方行政官となった訳です.
 また,一門から平士に至るまで,一様に士族と称して身分格式が無くなりました.
 中間,足軽等の軽輩はそのまま卒と言う身分に格付けされました.

 ただ,問題になったのが各藩の陪臣,即ち藩士の家来です.
 藩によって多少の差はあれど,陪臣は皆,卒に編入されることになりました.
 しかし,中小の藩なら未だしも,大藩ともなれば,藩の陪臣と言っても,藩直臣の中士,下士より高禄の者や,藩政上有能な力を発揮した者もいます.

 朝敵となった仙台藩の場合は減封もあって地方知行の陪臣は全員召し放ち,つまり,クビとなったのですが,徳島藩の場合は稲田家中の様に,稲田家を離れて郷付銃卒と言う本藩の卒となります.
 稲田家臣では無く,徳島藩卒族として扶助を受ける事になる訳です.

 徳島藩士族は新制で家老級が1,000石の一等士族,中老級が200石で二等士族,物頭は100石で三等士族,平士は50~36石で四等士族となり,以下大小姓10石で五等,中小姓8石で六等,御帳格7石で七等,徒士8石八等と定め,五等士族以下は若干のプラスとなりました.

 稲田家臣は従来重臣の井上九郎右衛門が500石,三田昻馬,七条弥右衛門等200~300石の家臣が数十名おり,尾張以来の譜代家臣も少なくありません.
 また,三田は尊皇派の中心人物であり,維新の元勲となった三条実美や岩倉具視と言った公卿達と親しくしていました.
 それでも,彼等は陪臣という格付けで皆等し並に郷付銃卒として扶助を受ける身分になります.

 元々,本藩士は白足袋,陪臣は浅黄足袋として区別され,軽く見られていました.
 しかし,元はと言えば稲田家は兄弟分,客分扱いの特別な家柄であり,形の上では陪臣であっても,他の陪臣とは違い,本藩士と同格であると言う意識が稲田家臣にはありました.

 蜂須賀家の淡路一国加増も,稲田の大坂の陣に於ける功績によるものですし,此の度の維新でも,稲田が本藩の因循を超えて働きました.
 だからこそ,蜂須賀家は賞典禄を得,戊辰戦争でも朝敵の負い目を受けずに済んだので無いかと言う自負もあります.

 本藩側から見れば,大坂の陣の功績は稲田だけでは無く,幕末維新に際しても,将軍への忠告も行ったし,幕府の下で勤皇の勤めはそれ相応に努めているとしています.
 更に言えば,稲田が稲田藩とか洲本藩という僭称をしているのは,主君に対する許すべからざる行為であり,特別の家柄と言っても,稲田だけを特別扱いすれば,他の家老からも不満が出ると言う事情もあります.
 稲田だけ特別扱いする訳には行きません.

 とうとう,この両者の対立は次第に激化していきました.
 稲田家臣団は給与を減らされて卒に格下げになった上,本藩の統制下に置かれ,しかも郷付銃卒ともなれば,先ず庄屋の支配を受けることになると考え,稲田家からは離れたくない意志を表明しました.

 この家臣一同の議を受けて,稲田邦植は藩へ上申します.
 稲田は創業当時から特別の家柄であり,最近の勤皇運動で格別の恩典を受けたのだから,稲田の家来個々へ渡される扶助を纏めて邦植に渡して戴き,稲田は元の通り家来と支配関係の儘に置くことをお許し願いたいと言うものです.
 因みに,当時邦植は若干16歳であり,本藩は邦植幼少で部隊司令は務まらないと言う立場を取ります.
 これは邦植にとっては屈辱の何者でもありませんでした.
 現に戊辰東征に際し,邦植は率兵出陣しているのですから,稲田側ではこの主従の団結こそ国力の基であるとも言います.
 そして,長年に亘って蜂須賀の膝下に置かれていた独立への思いが芽を出し始めました.

 こんな事になるなら,先祖の稲田九郎兵衛植元は,弟分の儘でも秀吉の恩賞通り独立大名になっているか,或いは蜂須賀支藩の形を取っていれば,この様な厄介事は起きなかったかも知れません.
 因みに,御三家付家老の場合,ほぼ総て独立を果たしています.
 徳川親藩と外様大名の違いと言えばそれまでかも知れませんが.

 困り切った藩知事の蜂須賀茂韶は,政府に稲田の特別扱いを要請しますが,政府にも妙案は無く,万事藩知事に任せると言う回答を行います.

 本藩側は12月になって,稲田に示した譲歩条件は,九郎兵衛旧家来は陪臣で,従って総て士外の者で有るが,特に士と卒とを分けて取扱うと言うものでした.
 しかし,稲田家臣団は本藩の士族では無く,稲田の士族家臣と言う事を主張,そして稲田側はこの問題の解決は徳島藩からの分藩,独立以外には無いと中央政府,有栖川宮や岩倉具視に直接運動を始めました.

 そうなると,本藩も黙っていられません.
 分藩反対の工作を開始しました.
 一部には稲田側の策士である三田昻馬を斬れという過激な声も出て来ました.
 稲田征伐の計画も密かに練られ,賛成して血判をする者も出て来ましたが,藩庁の重臣達としては,此処で内乱を起こしては,折角朝敵にならずに済んだ徳島藩が御取潰しになりかねないと過激派を宥めます.
 それでは,と有志達も政府工作を考え,数名が上京して三条実美や岩倉具視等に会って稲田の不逞を訴え始めます.
 この為,東京の藩邸に外交方を設け,阿部興人等が活動しました.
 阿部等は,岩倉の諸太夫で阿波海部郡出身の海部閑六を手蔓にしましたが,朝廷工作については,長い間,稲田側の経験と顔の広さがあり,中々上手く行きませんでした.

 ところで,士卒の分離案も稲田側に拒否された藩知事は,遂に稲田家臣全員を士族とする決断を下しますが,稲田の独立姿勢は変わりませんでした.
 士族になると言うことは,徳島藩士になる訳で,稲田との主従関係は断ち切られ,稲田家の独自性は失われると考えたので,本藩過激派と稲田側の感情的な対立は最早抜き差しならぬ処まで来てしまいました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/06/29 22:51
青文字:加筆改修部分

 蜂須賀と稲田の関係は悪化の一途を辿り,分離独立運動に発展するまでに至ります.
 稲田の家臣一同は,稲田家の祖先を祀った稲基神社に集合し,1870年3月11日,血判盟約して分藩運動の方向を確認しました.

 この騒動が全国的にどの様な影響を与えるか.
 新政府は,新たな騒擾の種を撒き散らす様であれば,徹底的な弾圧も辞さない構えを見せていました.
 実際,戊辰戦争に活躍した長州諸隊は国の基を及ぼしかねない危険思想の持ち主達として,勝ち組にも関わらず弾圧された訳です.
 徳島でも同様に弾圧が行われない共限りません.

 ただ,岩倉具視としても座視している訳には行きませんでした.
 その一策として浮上したのが,徳島藩と稲田家を物理的に引き離そうというもので,1つの案として,稲田家の北海道移住策が朝廷内に出て来ました.
 そして,岩鼻県権知事の小室信夫と,福島県権知事の立木徹之丞を説得の為に徳島に派遣しました.
 小室は,元はと言えば平田系の国学者で,学友の徳島藩士中島錫胤等と共に,足利尊氏の木像の首を斬って曝し,京都守護職の探索を逃れて,中島共々徳島藩に拘禁されていましたし,立木は元々稲田の家臣で,戊辰戦争の際に徴士として政府官僚になった人材です.
 調停役として,過去の経緯から両人が適当とされ,白羽の矢が立ったのです.

 3月下旬,2人は徳島に赴き,権知事蜂須賀茂韶等に岩倉の内命を伝え,又,稲田邦植やその重臣を藩庁に呼んで説得に努めました.
 しかし,稲田家臣は説得に応じず,不満を抱いて洲本に戻ります.
 その後も,幾度か話し合いが持たれますが,容易に決着が付きませんでした.

 因みに,岩倉案は,稲田家を北海道静内郡及び色丹島に移住させ,開拓が一応成功するまでを10年と見て,稲田14,500石の内邦植の新家禄1,000石を差し引いた13,500石を毎年開拓資金として本藩から送ると言うものですが,これは当時の藩財政から言っても困難ですし,稲田としても遠い北海道へ飛ばされた上,その地は本藩の管轄内に入ると言う訳で,双方不満が残る裁定でした.

 とは言え,ここで政府側が折れて分藩を認めてしまうと,似た様な境遇の諸藩が我も我もと出て来る恐れがあります.
 10年間の給禄と言っても,10年も藩体制が続くとは岩倉も思っていなかったと思われます.
 廃藩置県を目前に控えて,厄介事は北海道にやってしまおうと言う程度の問題意識だったのかも知れません.

 ところが,3月27日,稲田側から「何卒出格の思召を以て分藩仰せ付けられ候様,朝廷へ御願立仰付け下され候へば…断然北地移住仕り度愚意に御座候」と言う分藩と北地移住との条件が旧家来一統から出されました.
 また,4月1日には稲田重役名で,家来達は北海道に移住するが主人は国を離れられない.
 分藩は願いたいと言う書面,又,同日付で邦植より,自分は行けないが家来達は宜しく,と言う2通の書面が出されています.
 藩主無しの分藩と言う事態が意味するのはよく判らないのですが,これではいよいよ稲田分藩の動きが積極的に出て来たと言う事で,本藩はこれを叛逆と見做す事になります.

 結局,岩倉の使者達の使命は果たされること無く,空しく帰朝.
 その後,岩倉は徳島藩参事から事情を聴いたりしていましたが,4月28日に朝廷は蜂須賀藩知事に対し,稲田九郎兵衛同伴で上京せよと言う命令を下しました.
 この同伴命令を聞いて,いよいよこれは分藩を申しつけられるのか,と,本藩の藩士達は激高することになりました.

 そう言った騒擾状態の5月5日,岩倉の諸太夫海部閑六から,朝廷には稲田処罪の考えは無く,知事に命じて藩士と稲田を和解させる為の上京だとの情報が入ります.

 そこで徳島の過激派は考えました.
 朝命が下れば,徳島藩は手も足も出せない.
 事を起こせば藩知事の責任となる.
 その前に稲田を討伐して藩士が責任を取れば良い,と.
 こうして過激派は徳島諸隊を集め,5月13日早朝に稲田討伐決行を決定しました.
 徳島諸隊の稲田襲撃情報は,逸速く阿波猪尻の稲田邸に伝わり,家中の400名は直ぐに集合しました.
 戊辰実戦の経験者が多い稲田勢と,200名足らずの徳島諸隊では,勝敗の行方は目に見えて明らかです.

 しかし,稲田邸を預かっていた拝村吉左衛門は,例え防衛戦でも戦えば喧嘩両成敗になるから,此処は一応高松に難を逃れようと指示し,夜陰に乗じて讃岐に潜行しました.
 脇城中の稲田家菩提寺から位牌を護持する精神的余裕を持って行動し,一行は高松藩に使者を出して避難許可を願い,高松藩は宿舎を提供して手厚く稲田勢をもてなしました.
 高松藩は,以前朝敵とされた際に,稲田家の人々が四方八方手を尽くしてくれて追討を撤回してくれた恩人でもあります.
 結局,高松藩に保護された本土の稲田勢は,騒動終了後ものんびりと帰国しています.

 ところで,脇町方面に過激派が進撃したとの報を聞いた藩庁は,驚いて監察と弁事2名を派遣,藩庁の2名は必至に過激派を止めたのに聞き入れられず,遂に「行くなら我が屍を超えていけ」と2名とも切腹するという悲劇が起こります.
 この2名の死は結局無駄で,彼等はその屍を踏み越えていったのですが,先に見た様に,稲田一統は既に高松に逃れたままで襲撃は失敗に終わりました.

 これに反して洲本方面は悲惨でした.
 本土の稲田領と情報が途切れた為に,洲本では的確な判断が下せなかったのです.

 取り敢えず,徳島側の襲撃を予測しつつ,此処で抵抗したら主君に累が及ぶと言うので,稲基神社に集合した時,絶対無抵抗主義を申し合わせていました.
 洲本宇山の稲田屋敷を襲撃したのは銃士100余名,銃卒4大隊,大砲4門でした.
 不意を食らった稲田側では,若い連中が憤激して応戦しようとしますが,老人達がこれを抑え,先ず婦女子を逃がしてから自分たちも避難しましたが,逃げ遅れて無抵抗の儘銃殺される者,屈辱感に堪えかねて切腹する者,婦女子含めて多数の犠牲者が出ました.
 その損害は自殺2名,即死15名,重傷6名,軽傷14名,焼き払われた家屋は稲田邸,益習館など居宅11戸,長屋13棟に及びます.

 事件の報告は20日夜半に東京の徳島藩邸に届きました.
 知事が知らされたのは翌21日で,知事は直ちに参内して帰国の許可を得ました.
 23日に中弁の田中不二麿が知事に同行すると共に,小室信夫が徳島県大参事となって事態収拾に当たりました.

 8月,暴動の処分が決まります.
 斬10名,流終身26名,流7年1名,終身禁固8名,禁固3年32名,禁固2年半5名,その他謹慎と言うもので,どちらかと言えば,徳島に有利な裁定となっています.
 そして,稲田分藩問題は,10月17日,太政官より稲田邦植及びその家来に対して北海道静内郡移住命令が下されると共に,稲田の徳島側の封地は総て淡路に変更され,その淡路も,北半分は兵庫県に管轄替えとなりました.
 淡路が兵庫になった事により,稲田家とその一統は兵庫県貫属となり,徳島からの分離は出来たのですが,独立した訳ではありません.

 因みに,稲田邦植は1871年5月15日,積年の王事に尽くした功により,従五位に序せられることになりました.
 当時の開拓判官岩村通俊,5万石の丸亀藩知事である京極朗徹も同じく従五位なので,独立の中小大名並みの位階を与えた所に,朝廷側の苦心があったのかも知れません.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/06/30 21:30


 【質問】
 竹橋事件って何?

 【回答】
 1878.8.23,皇居の水堀にある竹橋付近に駐屯していた,日本陸軍近衛砲兵大隊が起こした叛乱事件.
 西南戦争の論功行賞の遅れと不公平,それと戦後に給与が削減されたことへの不満が,叛乱の動機.
 約260名が,週番士官深沢巳吉大尉らを殺害し,大蔵卿大隈重信公邸に砲撃を加え,周辺住居数軒に放火,さらに天皇のいる赤坂仮皇居に進軍し,集まる参議を捕らえようとしたが,近衛歩兵隊,鎮台兵により鎮定された.

 【参考ページ】
http://meiji.sakanouenokumo.jp/blog/archives/2007/08/post_546.html
http://homepage2.nifty.com/kumando/mj/mj050709.html
http://www.geocities.co.jp/npowaro/raku-27.htm
http://hino.anime.coocan.jp/takebasijiken/takebasijiken-2.htm
http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/6031730/top.html

【ぐんじさんぎょう】,2011/03/31 20:40
を加筆改修

(画像掲示板より引用)

Bernoulli in 「軍事板常見問題 mixi別館」,2011年03月11日 04:57


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