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◆◆経過
<◆ヴェトナム戦争 目次
<戦史FAQ目次
「古森義久」◆(2010/06/02) ベトナム戦争はどう終わったのか
「ワレYouTube発見セリ」◆(2007.11.26) Vietnam War - Hue City 1968
『ワンス・アンド・フォーエバー』(Harold G. Moore & Joseph L. Galloway著,角川文庫,2002.5)
原題"We were soldiers once... and young"
同名映画の原作.
ヴェト=ナム戦争最初のヘリボーン作戦,その顛末を書いたノン・フィクション.
第一空中機動師団第三旅団第七騎兵連隊と,ヴェト=ナム正規軍の死闘を描いたもの.
双方の軍人の証言を丹念に綴り,軍の動き,戦闘描写もリアルだった.
M16の故障とか,何発当てても死ななかったとか,蟻塚のヴェト=ナム兵の怪とか,エピソードもいっぱい.
それに,当時の大隊長が原作者なので,軍の編成,その問題点ももなかなか詳しく書かれている.
ストーリー前半は米軍の辛勝,そして後半の米軍の壊滅を冷静に描いている.
訳もこの手のものにしては珍しくGOODだった.
帯のオノ・ヨーコが気に食わんが.
------------眠い人 ◆ikaJHtf2 :軍事板,2002/05/25 & 06/19
青文字:加筆改修部分
【質問】
ヴェトナム戦争の大まかな流れを教えてください.
【回答】
■1953年
・朝鮮戦争停戦
■1954年
・ディエン・ビエン・フー攻防戦
■1961年
・CIDG(民間不正規戦グループ)計画開始
■1962年
・キューバ危機
■1963年
・アプバクの戦い
■1964年
・トンキン湾事件
・北爆開始
■1965年
・韓国軍派遣
・アメリカ海兵隊,ダナン上陸
・イアドラン渓谷の戦い
★ワンス・アンド・フォーエバー
■1967年
・ケサン攻防戦
★プラトーン
■1968年
・テト攻勢
★フルメタル・ジャケット
・ソンミ村虐殺事件
・サイゴン攻勢
■1969年
・アッシャウ渓谷の戦い
★ハンバーガーヒル
・米軍,一部撤退
・ホー・チ・ミン死去
■1970年
・ソンタイ捕虜収容所奇襲
■1973年
・パリ和平協定調印,米軍撤退完了
■1973年
・サイゴン陥落
軍事板,2003/03/17
青文字:加筆改修部分
【質問】
ベトナム戦争の戦闘経過を,簡単に教えてください.
【回答】
1960年12月,南ベトナム解放民族戦線が結成され,南ベトナム政府軍を攻撃開始することで戦争勃発.
1963年01月,アプバクの戦い:アプバクの村で,テーラー将軍指揮下のヘリボーン作戦を,共産軍が待ち伏せして敗北させたことで,JFKは大規模介入を決意.
1964年08月,トンキン湾事件を機に,米議会は戦争拡大を支持.
1965年02月,米軍,北爆開始.
1965年11月,米第1騎兵師団と北ベトナム正規軍がイアンドラン渓谷で,ベトナム戦争初の正規軍同士戦闘を行う.
1967年07月,共産軍,ダナン基地を攻撃.
1968年01月,共産軍,テト攻勢.攻勢そのものは失敗だったが,米世論を大いに動揺させる.
1968年12〜1969年04月,ケサン包囲戦.互いに消耗戦となった後,共産軍は撤退.
1970年04月,南ベトナム軍とアメリカ軍がカンボジアに侵攻し,カンボジア内戦勃発.
1971年02月,南ベトナム軍とアメリカ軍がラオスに侵攻.
1973年03月,アメリカ軍,ベトナムからの撤兵完了.
1975年03月,サイゴン陥落.
【参考ページ】
http://www.special-warfare.net/data_base/101_war_data/vietnam_war/landwar_vn.html
http://en.wikipedia.org/wiki/Vietnam_War
http://www007.upp.so-net.ne.jp/togo/dic/he/vietnamwar.html
http://www.mekong.ne.jp/directory/nagamekong/vietnamwar.htm
【参考写真】
faq060801y.jpg
(画像掲示板より引用)
【ぐんじさんぎょう】,2010/12/19 20:40
を加筆改修
【質問】
何でヴェトナムは南北に分かれていたの?
【回答】
インドシナ戦争(=フランスからの独立戦争)から追っていかないと.
日本敗戦後,改めて乗り込んできたフランスに対し,ホーおじさん達が抵抗し,54年のディエン・ビエン・フー陥落で一応,ベトナム独立.
(このときフランスは合衆国に泣き付いているが,武力介入は無し)
▼ 本当はヴェトミン戦争第1次インドシナ戦争が終わったあと,南北で統一選挙やって民意を問うはずだったのに,<反共>ということで,アメリカがゴ・ジン・ジェムたて,17度線以南に南ヴェトナム(ヴェトナム共和国)を作っちゃった.
反共傀儡政権はフィリピンでエドワード・ランズデールがつくって成功したからね.
ゴ・ディン・ジェムは植民地時代のエリート(フランス育ちフランスの作った学校を卒業&カトリック).
そのジェム政権が無能で腐敗しきっていたため,南の民衆の支持を失った.
高官を親類で固め,仏教徒(国民の7割)を弾圧.夫人はゴ・ディン・ニュー(ジェムの弟)の妻,通称マダム・ヌー(チャン・レー・スアン)はブランド品を買いあさっていた.
第二次ベトナム戦争(第二次インドシナ戦争)は54〜62年の南ベトナム政権に対する内乱でもあり,南ベトナム政府軍が「やる気が無い」のは当然かもしれない.▲
軍事板
&hogehoge in FAQ BBS(黄文字部分)
青文字:加筆改修部分
その前があるよ.
中国への補給ルートの確保のためと,対日戦の為にアメリカはインドシナの民族組織に武器援助をやってました.
その民族組織が,あとにソビエトから教育されたホー・チミンが加わってベトミン軍になった訳です.
ほんとに,アメリカのやる事は・・・・・・
【質問】
ドミノ理論とは?
【回答】
http://www.sankei.co.jp/databox/paper/9709/paper/0908/tokuha.html
によれば,
――――――
将棋倒しのように冷戦期の東南アジア諸国が次々に共産化していくことを警戒し,米国のベトナム介入強化の根拠となった考え方.
1954年の東南アジア条約機構(SEATO)結成時に当時のダレス米国務長官は
「東南アジアのすべての国々が中国,北朝鮮,北ベトナムの後を追って共産主義陣営に陥落することを防がなければならない」
と述べている.
――――――
北ヴェトナムが勝っても,大したドミノ現象が起こらなかったのは,歴史が示す通り.
【質問】
アメリカがヴェトナムに介入するのは不可避だったのか?
【回答】
回避できていた可能性もあった.
「対ソ連への封じ込め」が,「共産主義全体への封じ込め」に発展したのが,ヴェトナム介入の重要な要因だろう.
以下,ナイ教授の意見を引用
「もし,ソ連の色が黒だとすれば,中国は赤であり,ヴェトナムは黒,カンボディアは赤であった.
チェッカー盤型そのものパターんが展開された.
皮肉にも,1国でも共産主義の手に落ちれば,他の国々もそうなるというドミノ理論のゆえに,アメリカはヴェトナム戦争に介入した.東アジアでのゲームはドミノよりもチェッカーに近いことに,もっと先見の明をもって,アメリカは気づくべきであったろう.
そうすれば,アメリカは局外にとどまったかもしれない.「敵の敵は味方」というチェッカー盤型のパターンは,無政府状態の中で有益な予測をなす手助けとなる,地政学からの古くからの伝統なのである」
結局,共産主義への恐怖感が外交を硬化させたと言うことかな?
詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授『国際紛争』(有斐閣,2005.4)第2章を参照されたし.
【質問】
「封じ込め政策」は,ヴェトナム戦争にどのような影響を与えたのか?
【回答】
イデオロギー的な対立が深化するにつれて,ケナンが本来主張していた「直接的な軍事力を用いない」均衡勢力型の封じ込めから,直接的な力の行使を用いた封じ込めへと変化し,「ソ連の脅威に対抗する」という名目で,それは正当化された.
冷戦の初期においてのアメリカの課題は,以下にソ連の侵食から,トルコとギリシャを守るか?ということだったが,これは言い換えれば,東部地中海において,アメリカがイギリスの肩代わりをすることは可能か?ということであった.
アメリカ国内においては,この問題をどうやって国民に説明するか?ということだった.
以下,ナイ教授の文章を引用.
--------------------------------------------------------
ジョージ・マーシャル国務長官らは,きわめて慎重であった.他の人々,すなわちディーン・アチソン国務次官やアーサー・ヴァーデンバーグ上院議員は,これをより大きな大義とすべく道義的トーンを欲した.
したがって,トルーマン大統領が自らの行動をトルーマン・ドクトリンといて説明した時,彼は全ての地位における自由な人々を保護するのだと語ったのである.
--------------------------------------------------------
また,ソ連に対する「封じ込め」を提唱したジョージ・ケナンは,スターリンの侵略的意図に対抗するよう警鐘を鳴らしたが,封じ込め政策自体にイデオロギー色が強まるにつれ,幻滅を感じるようになった.
ケナンの主張は,ソ連の「力」(パワー)を封じ込めようとするものであって,本来,アメリカの軍事力を直接的に介入させることなく,バランス・オブ・パワーに乗っ取り,ソ連との均衡を取ろうとするものだった.
だが,イデオロギーを重視する人々によって「共産主義そのもの」を封じ込めるために,アメリカは直接介入すべきだ,という主張が主流になった.
「世界を共産主義から守るため」という考えが徐々に主流になっていったのである.
この考えがベトナムにおいて,共産主義国家同士の対立というファクターを軽視するという結果を招いた.
これについて,ナイ教授は以下のように説明している.
--------------------------------------------------------
アメリカは,中国とソ連の力,それに共産主義イデオロギーの拡大を封じ込めなければならないと考えるようになっていた.
封じ込めのドクトリンが1947年の東部地中海から1950年代の東南アジアに移行するにつれ,それは野心的かつ成功しそうにもない介入を正当化するものとなったのである.
結論として言えば,単純で絶対的な非介入という原則は,実際にはしばしば破られたが,非介入という規範は依然として重要である.
非介入への例外は,それぞれのケースごとにその動機・手段・結果を検討することで判断されなければならない,と言えるであろう.
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・元来「封じ込め」とは,直接的な軍事力を用いないことを重視する.
・「ソ連への封じ込め」が「共産主義への封じ込め」というイデオロギー色が強まったことによって,ベトナム戦争への介入は正当化された.
・介入についても「個々のケース」を考えなければならない.
詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授『国際紛争』(有斐閣,2005.4),第6章を参照されたし.
一方,ケナンは,ベトナム戦争への介入について,以下のように述べています.
--------------------------------------------------------
われわれがヴェトナムの共産主義勢力(彼らは実際には何よりもナショナリストであったのだが)とみなしたものを敗北させ,その国に何らかの反共政府を確立しようとして,長期に渡り,高い代償を支払いながら,結局不成功に終わった
(中略)
そもそもどのようにしてわれわれはこの動乱に足を踏み入れたかという問題であり,第二は,この努力が成功しそうもないことはほとんどはじめから明らかであったのに,十年以上もその努力を続けたのはなぜかという問題である.
(中略)
そもそもこの紛争に介入した理由としては,当時ワシントンに存在していた信念,すなわちソ連が世界制覇の計画の一部として,アジアの軍事的政治的征服に着手しており,東南アジアにおける自らの勢力を確立しようとするヴェトナムの共産主義たちの活動は,そのいわゆるソ連の「計画」なるものの一部であると言う信念が,重要な役割を果たしたのであると.
アメリカが自分自身のために創作したこのシナリオにとって基本的な点は,ホー・チ・ミンと彼の同調者はソ連の傀儡に過ぎないし,したがって彼らによるヴェトナム制圧はソ連による征服に等しいという確信であった.
ワシントンには,ヴェトナムの共産主義がマルクス主義イデオロギーよりもナショナリスト的衝動によって動かされている可能性を信じない雰囲気があった.
右に述べた二つの前提はいずれも誤りであった.
ソ連の指導者たちは世界制覇の青写真を持っていなかった.
彼らの心理は第一義的には防衛的であった.
当時,彼らとホー・チ・ミンとの間になんらかの関係があったとしても,ヴェトナムを支配下に収めようというホー・チ・ミンの意図はモスクワの支持とは無関係であった.
今日われわれは,ソ連の東南アジアの共産主義者との結びつきが当時実際にはまだ弱く,始まったばかりのものであったことを知っている.
ホー・チ・ミンは本当に第一義的にはナショナリストであって,彼の共産主義イデオロギーの言辞にも関わらず,もしわれわれが彼にそうするよう仕向けたならば,おそらく共産圏と我が国とに対してそのどちらにも偏らない関係を維持しようとしたであろう.
我が国の最高の専門家の何人かはこのことをわれわれに教えようと試みたが無駄であった.
--------------------------------------------------------
ジョージ・ケナン著『アメリカ外交50年』(岩波文庫,2000/10),246-248ページより引用.
【質問】
ベトナム戦争の「トンキン湾事件」は本当にアメリカの自作自演なのでしょうか?
【回答】
トンキン湾事件には第1次と第2次があり,両方を分けて考える必要があります.
まず,1964年8月2日の第1次トンキン湾事件ですが,トンキン湾で,アメリカの駆逐艦が,北ベトナム海軍(当時)の攻撃を受けたのは事実です.
ただし,その前に,アメリカの駆逐艦は,北ベトナムの領海内で作戦行動をしており,さらに,北ベトナム側の警告も無視していました.
国際法上,北ベトナムの行為は正当なものだったのですが,アメリカ側はこれらの事実を伏せ,「北ベトナムから攻撃された」ということのみを公表しました.
8月4日の第2次トンキン湾事件については,北ベトナム海軍による攻撃そのものがでっち上げだったというのが,現在の定説です.
【質問】
イアンドラン峡谷の戦いは,アメリカが勝ったということで良いのでしょうか?
敵の根拠地にノコノコ少人数で降下した上,危機的な状況になるまで撤退しないというのは,判断ミスを繰り返しているようにしか見えないのですが…
【回答】
撤退しないのではなく.撤退できないが正解.
一応,戦闘の最中もヘリによる負傷者の後送は行われてた.
イアンドラン渓谷の戦いは戦略的に見て負け.戦闘的に見て勝ち.
この戦闘で北側は米軍の情報をかなり仕入れたらしい.
まぁ,初めての北ヴェトナム軍と米軍との戦闘だったしね.
◆◆◆テト攻勢以降
【質問】
テト攻勢の失敗の原因は,北側の装備が貧弱だったせいなのですか?
【回答】
主に予断,およびマスコミ対策のまずさが原因.
前線や現場の兵士は,こう思っていた.「この日に戦闘は起こらないだろう」
これはアメリカの情報機関が掴んだ情報を,軍や政府の上層部が「そんなわけはない」と握り潰した為.
そのため,情報関係者は個人的ネットワークを通じて情報を広め,ヴェトナム現地の軍司令部はある程度予想はしていた.
その為,「やはりか!」とは思っても「まさか!」と思った上級軍人は少なく,最初の衝撃から米軍と南ヴェトナム軍は素早く立ち直り,冷静に対処できた.※
確かにケサンやフエでは苦戦したが,全体的に北ヴェトナム軍の行動は予想の範囲内で,軍事的には北ヴェトナム軍と解放戦線は米軍の掌の上で踊ってたと言ってよい.
・・・しかし,それはあくまで”純軍事的”な話で,それまであまりマスメディアが報道しなかったこともあり,
「北ヴェトナム軍は弱体で,我がアメリカは一方的に勝っている」
と思っていたアメリカ国民には,激しい衝撃を与えた.
特に,サイゴンの米大使館攻撃の戦闘の模様がTVで生中継された衝撃は大きく,
「アメリカはこの戦争で勝てないのではないか?」
という印象は,その後の反戦運動を一気に加速させる.
尚,物量,特に兵力では,戦争の全期間を通じて北ヴェトナム軍の方が,常に米軍を上回っている.
アメリカは約350万の総兵力の内最大で約50万人を派遣していたが,それでもヴェトナム派遣軍司令官ウエストモランド将軍は
「最低でもあと20万は必要です」
と発言,政府関係者を絶句させた.
※余談だが,テト攻勢発起時,米海軍の空母コンステレーションはベトナムへの戦闘航海を予定通り終了し,横須賀に入港していた.
攻勢開始の報に接して同艦は緊急出港,再びベトナムへと向かった.
しかし,かなりの乗員が上陸しており,中には横浜あたりまで遠出していた者も居て,後に乗員積み残し事件として問題になった.
彼等の多くは空母間輸送機便で追って帰艦したが,後に米海軍初のエースパイロットとなるランドール・カニンガム大尉もこの中に含まれていた.
軍事板,2005/10/08(土)
青文字:加筆改修部分
▼ ちなみに南ベトナム解放戦線は1968年のテト攻勢で消耗させられ,あとは北ベトナム共産党にのっとられたというのが当方の意見.
当時,開高健,日野なんとかとか皆,上記意見を主張したが,ベ平連に罵倒された.
▲
【質問】
情報機関が掴んだテト攻勢情報を,なにゆえ米軍や政府の上層部は「そんなわけない」と判断したのでしょうか?
【回答】
テト,とはヴェトナム暦での正月のこと.
この時期は北も南も年末年始休暇を兵士に取らせ,国家総出で年末年始を祝うので,自然と休戦状態になった.
それが恒例だったので,テト攻勢のあった年も
「あー,現地の年末年始休暇が近いなぁ,
ここの国の連中は,年末年始には戦争を投げ出しちゃうから,今年もこの時期だけは戦争はないな」
と,ごく普通に思われていた.
それに加えて,アメリカ軍の上層部(ペンタゴン)と政権中枢(ホワイトハウス)は誤算続きで,戦争の行く末に嫌気がさしていたので,思考が現実逃避的だった.
人間は煮詰まってくると,自分の信じたいものしか信じなくなるので,「そうであってほしい」が「そうだろう」「そうに決まっている」と,どんどん状況判断ができなくなっていく.
――――――
戦線から遠のくと,楽観主義が現実に取って代わる.
そして,最高意志決定の段階では,現実なる物はしばしば存在しない.
戦争に負けてるときは特にそうだ
―――――― J・F・ダニガン著『戦争のテクノロジー』より
軍事板,2005/10/08(土)〜10/09(日)
青文字:加筆改修部分
テト攻勢時の一場面
(画像掲示板より引用)
【質問】
ベトナム戦争の時の有名な映像で,テト攻勢の時に南側の警察関係者?に兵士が頭を撃たれて処刑されるシーンがありますが,あれは適法なのですか?
【回答】
ベトコンを国家警察長官が拳銃で処刑してる写真かな?
一応あれは合法.
兵士というのは語弊があって,兵士なら軍服を着てないといけない.
どう見てもあれはベトコンの「ゲリラ」だから,裁判やってから処刑した方が望ましいけれど,テト攻勢という状況下では即時処刑も間違いじゃないと.
【質問】
ファルージャ総攻撃でよく引き合いに出される,ヴェトナム戦争のフエ攻防戦が行われた「テト攻勢」ですが,歴史資料などには,この「テト攻勢」がヴェトナム戦争の帰趨を決めた戦いである,とされています.
しかし,資料を見る限り,この「テト攻勢」で大損害を受けたのは,どうみても北ヴェトナムと民族解放戦線の方で,戦術的にも戦略的にもアメリカが勝った,と言って差し支えない結果だったと思うのですが・・・.
何故,「テト攻勢」はアメリカの世論をヴェトナムからの撤退に傾かせるほどの受けとめられ方をしたのでしょうか?
それ以前と比べても,そんなに莫大な損害をアメリカ軍が出したようには思えないのですが・・・.
【回答】
多くの場所でアメリカが優勢だったが,たまたま劣勢だったところにテレビカメラがあった.
そんで,みんなが見てる時間帯に,アメリカ兵の累々たる死体が放映され,
「なんだ,アメリカ勝ってるなんて嘘じゃん」
と反戦運動がおおいに盛り上がってしまった.
つかね,テト攻勢で報道各社が絵的に良いからと言う理由で米軍の損害シーンをやたらと使ったため,報道を見ている人間には米軍が大敗北を喫したように見えた.
実際には北ベトナム側の損害の方が圧倒的に多かったし,それによって北ベトナム正規軍はほとんど活動出来なくなった.
故意か偶然かは分からないけど,自国のメディアによって情報操作が行われちゃったのよね.
で,報道の自由を尊重してほぼフリーで取材をさせていた米軍も,それ以降は報道に対する対策も重視するようになった.
純粋に軍事的な結果だけを見れば,テト攻勢は大失敗.
◆◆米軍撤退以後
【質問】
アメリカはいつ頃からヴェトナムからの撤退を考えていたのか?
【回答】
2006年に公開されたところによると,北爆の最中の1972年6月22日に,ニクソン大統領の安全保障担当補佐官だったキッシンジャーは,周恩来首相に対し,北ヴェトナムが南を併合してもかまわない,と示唆したような発言をしているから,その頃からだろう.
以下引用.
1972年6月22日に,ニクソン大統領の安全保障担当補佐官だったキッシンジャーは,中共の周恩来(Zhou Enlai)首相に,(北爆を含め,南北ベトナムで米軍が北ベトナム/ベトコンに対して猛攻をかけていた最中に,)
「もしわれわれが支那の共産主義政府と共存できるのなら,インドシナでもそれを受け入れることが可能なはずだ」
と語ったことが,このほど明らかになりました.
これは,米軍が南ベトナムから撤退してからしかるべき期間を置けば,北ベトナムが南を併合してもかまわない,と示唆したものと考えられています.
キッシンジャーは,ニクソン政権としては当時,ソ連に対抗するため,中共に接近しようとしており(注1),自分も中共向けにこのような媚びた発言を行ったが,南ベトナムを放棄するつもりは全くなかったのであって,放棄せざるを得なくなったのは,その後の米国内の政治力学のせいだ,と弁明これ務めていますが見苦しい限りです(注2).
(注1)キッシンジャーは1971年の7月10月に中共を秘密訪問して周と会談し,1972年2月のニクソン訪中による米中首脳会談(ニクソンと毛沢東(Mao Zedong))を実現した.
(注2)1973年にパリ平和協定が締結され,北ベトナムは南ベトナムへの軍事介入を止め,米軍は南ベトナムから撤退することとされた.
米軍は協定に従って撤退したが,北ベトナム軍の攻撃で1975年4月に南ベトナム政府は打倒され,間もなく南ベトナムは北ベトナムに併合された.
当然北ベトナムにも伝えられるという前提でキッシンジャーは周に対し上記発言を行ったはずであり,何も知らなかったノルウェーの選考委員会がノーベル平和賞をパリ平和協定の当事者であったキッシンジャーと北ベトナムのレ・ドクトの両名に授与したいと発表したとき,厚顔無恥にもキッシンジャー(だけ)がこれを受けたことには開いた口が塞がりません.
〔略〕
(以上,事実関係はワシントン・ポスト(5月28日アクセス),及びWikipedia(5月29日アクセス)による.)
【質問】
ベトナム戦争がアメリカの侵略だったとして,何故北ベトナムはパリ協定後,攻撃を続けたのですか?
【回答】
ヴェトナムは本来一つであるべきで,南はフランスの作った傀儡政権だから.というのが北ヴェトナムの主張.
本来なら自分たちがヴェトナム全土を統治する筈なのに,フランスは,共産主義勢力がヴェトナムを支配するのを嫌って南半分に勝手に傀儡政権を作った.
そしてアメリカは,フランスから南の支配権を引き継いで,傀儡政権を支援し続けてきた.
そのアメリカが撤退する.
ならば今度こそ,ヴェトナム全土は自分たちが統治する.
ゆえに南が併合を拒否した以上,実力での併合を目指す.
北ヴェトナム政府的にはそういうこと.
【質問】
ベトナム戦争終了後,アメリカが米軍や南ベトナム軍の現地の軍属や協力者のために艦船を出して救出作戦をしたのは知ってますが,具体的にどの範囲までの人が救出の対象にされたのでしょうか?
【回答】
"Sensitive"な人達,米軍,CIA及び諜報機関,USAID(アメリカ国際開発局)に属していた人々までです.
これが最低限度の要保護者.
後は,金の力で座席を買った人々になります.
こうした要保護者の撤退は,1日目までは何とかなりますが,2日目から混乱が始まり,3日目には収拾が付かなくなって,必要な人々の搭乗が不可能な場合も屡々でした.
例えば,Danangの場合は,「要保護」の人員は,領事館の米国人職員50名とその現地スタッフ1,000名になります.
しかし,その家族を含めると1万人以上に膨れあがったりしています.
彼等は1ヶ月掛けて撤退させる予定でしたが,進撃が急で,それどころではなかったりしました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2
【質問】
高校の時に授業でベトナム戦争の映像を見たのですが,空母の上からヘリを次々に海上に捨ててました.
当時は音声がよく聞こえず,何故あんなもったいない事をするのか分からなかったのですが,ご存知ないですか?
【回答】
それは1975年4月30日にサイゴンが陥落する寸前,米軍によって行われた米国人や米国関係者救出作戦の一場面.
サイゴン沖に停泊した空母「ミッドウェイ」そのほかに,米海軍や海兵隊のヘリによって人員のピストン輸送が行われたが,救出作戦のリストに載らなかった南ベトナム軍人が,北ベトナム軍による粛清を恐れ,いちかばちか「ミッドウェイ」にヘリで殺到,強行着艦.
最初はヘリごと収容していた「ミッドウェイ」も,あまりに機数が多く,もはや乗る者もない南ベトナム政府軍のヘリを投棄せざるを得なかった.
軍事板
不時着以外にも,孫引きになりますが,ジロミ・スミス著「空母ミッドウェイ アメリカ海軍下士官の航海記」にScott McGaugh著「Midway Magic」から引用された文章によると,
――――――
甲板にヘリと難民が溢れているところに,セスナ機が着陸要請.
しかも,燃料が一時間分しかないとのこと.
エア・ボスの指示で着陸のためにヘリをどけることになったが,スペースの確保は不可能.
しかたなく何機かのヘリを捨てて,45分後に着陸準備を完了させた.
――――――
ということもやったとか.
私も,ポコポコと捨てられるヘリの映像を初めて見たときには,目が点になりました(笑
寄星蟲 in mixi支隊
そのセスナはO-1観測機.乗っていたのはリ・ブン少佐.
問題の観測機は現在フリリダ州ペンサコラの米海軍航空博物館に永久保存されているのだとか.
他に,空母「ミッドウェイ」周辺の海上には,着艦できなかったヘリも何機も不時着している.
ベタ藤原 in mixi支隊
CIA系民間航空会社であるエアアメリカ等の機体も,米兵から嫌われて捨てられたようなことが書かれていたと思います.
傭兵扱いされて嫌悪されていたようですが,記憶書きなので要確認です.
映画でない方(ジャーナリストが書いた映画のネタの一つになった本)の「エアアメリカ」(クリストファー・ロビンズ著,新潮文庫,1990.8)に出ていました.
同書によればたしか,別の国の米軍基地にたどり着いたものの,力尽きて半ば墜落して壊れた輸送機(会社への官品貸与?)では
「あんたの飛行機はもう駄目だ」
と気の毒そうにいわれたら,パイロットは
「いいえ,貴方のです,お返しします」
というコントもあったとか.
【質問】
ベトナム戦争についてWikipediaで調べたら,
『しかし在留日本人は……北ベトナム政府や市民などから迫害を受ける可能性が低いことなどを理由に,アメリカ軍のヘリコプターに乗ることを拒否された……ために,混乱下のサイゴンに取り残された』
とあります.
取り残された日本人はどうなったのですか?
【回答】
日本政府は3月下旬から退避勧告を出しており,一時滞在者や婦女子の避難は終わっていました.
しかし,元日本兵を含む現地永住者や外交官,報道関係者など250人が残っていました.
日本政府は,日航に依頼して救援機(150人搭乗予定)を用意しましたが,かなり手間取り,マニラまで前進した時点で,サイゴン空港が砲撃で使用不能となって,失敗に終わりました.
米軍に依頼し,少なくとも30人分のヘリの座席も確保しましたが,実際には約束の米軍バスが来ず,大使館の指示で約70人集まった避難民は搭乗できませんでした.
ただ,少数の報道関係者が個人的に動いて,報道陣救出枠で乗り込んだケースはあるようです.
http://mickeymouseclub.ifdef.jp/html/vietnam_rekishi_saigon01.htm
脱出できなかった日本人は,そのまま市内に残ったのがほとんどです.
北ベトナム軍は,米国関係者の脱出が終わるのを待って市内に侵入したため,市街戦に巻き込まれるような事態は無くて済みました.
あと,日本人が集まってたホテルだったかに北側兵士がやってきて,武器突きつけられて身体検査されたケースもあったようですが,日本人ということで割とあっさり解放されたという体験談を読んだことがあります.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
ベトナム戦争でも戦後,元南ベトナム兵への粛清などはあったのですか?
なんとなく,共産主義=虐殺ってイメージがあるので,出来たら詳しい数字等を教えてくれないでしょうか?
【回答】
南政府・軍の高級士官・高級官僚に対する粛清のようなものはありました.
といっても,ありがちな逮捕→即銃殺という流れではなく,再教育キャンプに収容して,一般社会から隔離する,という感じです(収容中に事故死・病死といったパターンも結構あった).
南政権に対する南側の野党指導者(≠解放戦線関係者)も再教育キャンプ送りになっています.
また,それ以外の一般の旧南市民にも,新経済区送りという一種の強制収容がありました.
これは元々は,ベトナム戦争末期にかけて急増した旧サイゴン市民を開拓にあてる,といった目的で始まったのですが,希望者が少なかったため,人数合わせとして,反革命的と当局から睨まれた市民を名目志願,実質強制という形で開拓地(実態は開拓に不向きな荒れ地,ジャングルであることが多かった)に送りつけていました.
ボート・ピープルの発生の原因として,共産党政府の汚職や華僑の迫害と共に,この新経済区送りから逃れるために脱出した,というケースが多いです.
【質問】
サイゴン陥落後,世界各地の南ベトナム大使館と外交官はどうなったのですか?
【回答】
新政府の権威を認め忠誠を誓った連中はまもなく呼び戻され,短期間の再教育キャンプに送られ,シャバに戻ってほっとした途端に,また適当な理由をでっちあげて再教育キャンプ送り,と無間地獄の苦しみを味わっている.
近くの図書館でベトナム関連のコーナーを探すと,元南外交官の回想録がいくらも見つかるはずだ.
ついでながら,南の解放戦線に加わっていたゲリラたちも,ほとんど全員再教育キャンプ送りになり,多数がいじめ殺された.
【質問】
なにゆえベトコンが勇者扱いされるどころか,その様な虐待を受ける事になってしまったのですか?
【回答】
ベトナム政府(元北ベトナム)とベトナム解放戦線(南ベトナムの反政府組織)は,元々別組織.
解放戦線はベトナム労働党が主導してたものの,構成員にはいわゆる民族主義者も多く,必ずしも共産主義者というわけではなかった.
米帝,フランス,南ベトナム政権といった共通の敵がいればこそ共闘路線も歩めるが,それが無くなれば競争相手でしかない.
社会主義政権下で,共産党政府以外の政治勢力など認められるわけもない.
unknown
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もちろん,全員が全員キャンプ送りにされて行方不明になったわけではない.
でも,統一後のヴェトナムでの解放戦線出身者の扱いはあまり良くなかった.
アメリカ独立戦争に参加した「ミリシア」が,独立後は連邦政府の政策にことごとく反対し,徴税を拒絶するのでワシントンが苦労したように,「反政府勢力」は,それまでの政権がひっくり返って反政府側が「正統政府」になると,新政権の足を引っ張る勢力とみなされる.
なまじ「政府に文句があったら実力に訴えればいい」という行動をとったがために,「権力者」の側に立った者からは警戒と恐怖の対象になる.
なので,解放戦線に参加してた人は,ホンのちょっとしたことで「国民の敵」扱いされることになり,逃げそこなった元南ヴェトナムの政府/軍関係者と一緒に再教育キャンプ行きになって結局,帰ってこなかった人も数多い.
農村の人はともかく,都市部でレジスタンス活動に従事していた,いわゆる「インテリ」階層の人には,その扱いに我慢がならず国を逃げ出した人や,身の危険を感じて国外逃亡した人も数多い.
詳しいことは,『ベトナム戦争の「戦後」』っていうタイトルの本があるので,読んでみるといい.
また,『ブラザー・エネミー サイゴン陥落後のインドシナ』(ナヤン・チャンダ著,めこん,1999.12)という,社会主義者のシンガポール人ジャーナリストがベトナムやらカンボジアの身内弾圧と虐殺を描いた本もある.
アメリカ発でない,中立的立場で書かれたもんならこれが1番だろうな.
興味深いのは北ベトナム指導者のほとんどが「親米的」で,そこが解放戦線の指導者との決定的違いだった点だ.
軍事板
青文字:加筆改修部分
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「狡兎死して走狗煮られ,飛鳥尽きて良弓蔵わる」
【質問】
アメリカは,
「ドミノはひとつが倒れれば隣が倒れ,さらにその隣も倒れる…というように,すべてが連鎖的に倒れてしまうので,倒れる前に食い止めなければならない.」
というドミノ理論で,ベトナム戦争に介入しましたが結局,ベトナムの隣国のカンボジアとラオスが共産主義国家になったのみで,それ以上,東南アジアでは拡大しませんでした.
アメリカが危惧した東南アジアで次々に共産主義国家が誕生する状況にならなかったのは,なぜでしょうか?
【回答】
共産主義国家を名乗るものたちに「派閥」ができたから.
アメリカに追従するものたちを「西側」とひとくくりにするように,それらの地域は「東側」であっても,それぞれ歩むところが違ったというところ.
ビルマなんかそうだけど,親中一辺倒の社会主義政権はある時期までは,とりあえずアメリカの敵にはカウントされない状況だった.
また,本尊の中国が文化大革命の混乱で,ベトナム戦争以降,それ以上介入する余力を失ったことや,中ソ論争に始まる中国・ソ連の対立によって共産化を支援する外国が無かった.
ソ連も東欧・アフガニスタンに介入する力はあっても,東南アジアまでは手が回らなくなっていた.
さらに,ドミノ理論が現実にならないよう,アメリカも頑張った.
フィリピン:最も忠実なアメリカの前哨国家
タイ:ここも基本的には忠実な前哨国家.政権が左にぶれると軍部がクーデタ起こして親米路線に.
インドネシア:容共スカルノ政権打倒の軍事クーデタ→親米スハルト政権に.
要するにアメリカの金と軍事的プレゼンスとCIAの暗躍が効いたってことだな.
世界史板
青文字:加筆改修部分
【質問】
退役軍人の恩給(ベトナムで長く勤務)を,虚偽の申告で貰う人がいると聞きましたが.
【回答】
これも全米規模で行われていることで,書式の番号を忘れましたがベトナム従軍者の恩給申請の書式が自己申告なので,勝手に前線で戦闘参加して後遺症を受けたと書き込む連中が多いのは事実です.
偽後遺症連中の申告した書類と,実際の軍歴を照らし合わせて本人達に見せ付けて尋問する自主映画が,確かどこかのROTCの生徒達が作成して,賞をもらったとか聞いたことがあります.
【質問】
映画『ランボー』だが,町に立ち寄った時点で「浮浪者が住み着くと困る」みたいな感じで追い出すのってどうなのよ?
【回答】
ランボーがどうこうではなく,あの時代の帰還兵の問題自体が映画のテーマだろ.
ランボー個人がなにかしそう,ではなく,戦争で病んだ帰還兵を嫌がるのは都会でも田舎でも一緒
.
明るい時代でないのならなおさら.
そういや帰還兵がフラッシュバック起こして,発作的に犯罪起こすのが問題になってたんだよな,当時.
イラク戦争の帰還兵も,もうそろそろ……
【質問】
すみません,前から気になってたんですが,このページのいちばん上にあるアニメ画像について教えてください.
【回答】
20年ほど前に公開された,「ペンギンズ・メモリー
幸福物語」というアニメ映画だ.
サントリーのCMが元になった映画だな.
アニメーションで登場人物が擬人化されたペンギンなだけで,ストーリーは大人向けの恋愛映画の転用.
確かストーリーそのものは有名な演劇だかミュージカルのほぼそのまんまだった筈.
主人公のペンギンは戦地帰りで,戦場での日々に思い悩まされる.
731 名前: 名無し三等兵 [sage] 投稿日: 2008/09/24(水) 00:32:09 ID:???
なんというパヤたん.
736 名前: 名無し三等兵 [sage] 投稿日: 2008/09/24(水) 00:56:58 ID:???
SDのペンギンでヴェトナム戦争帰還兵の話だからな・・・.
何考えてあんな企画が通ったのかいまだによくわからん.
軍事板,2008/09/24(水)
青文字:加筆改修部分
【質問】
かなり前ですが,NHKかどっかで,アメリカのある娘さんが,ベトナム戦争で行方不明になった父が抑留されている情報をつかんで,なんとか探し出そうとしたドキュメントがあったのですが,ベトナム戦争でベトナム側の捕虜になった米兵が,政治的取引の為に密かに抑留されているという設定の映画(ランボー,地獄のヒーロー,地獄の7人)がよくありますが,実際の所これらの真偽はどうなんでしょうか?
【回答】
「合成した写真などをMIAの家族やNGOなどに売りつける」という商売があったそうな.
数年前だったか,ロシアの雑誌切り抜きから作った偽物のMIA写真が出回って大騒ぎになった事があったが,ああいう事例は数多いらしい.
また,うろ覚えなんだが,15年ほど前ベトナムの刑務所に入れられていた日本人僧侶が釈放された際,
「アメリカ人数名と接触した」
と証言した事がある.
彼が逮捕されたのは南北ベトナム統一後だったので,すわMIAではないかと騒ぎになり,アメリカ政府の調査官が来日して聞き取り調査を行った.
事の真偽は不明.
ただ,この僧侶は英語が話せなかったため,一体どういう出自のアメリカ人なのか?,そもそも本当にアメリカ人だったのか?は不明.
ちなみに白人二人・黒人一人の三人組だったそうだ.
J・C・ポロック「ミッションMIA」冒頭では,ベトナム難民などからの聞き取り調査(ポリグラフによる追試を含む)を行った結果,ベトナムで複数の米国軍人が抑留されている可能性が高い,との一節がある.
もっとも,良く読んでみると,
「鎖に繋がれた白人の一団が,ジャングルの奥地へと連れて行かれた」
といった類のもので,抑留されている具体的な人名や,あるいは疑う余地のない写真などが出てきた例は,寡聞にして聞かない.
なお,ラオスで抑留されていた米兵捕虜約40名は,戦争終結後全員処刑されていた事が,後に明らかになっている.
あとは自分で判断していただきたい.
軍事板,2005/04/27(水)
青文字:加筆改修部分
【質問】
岐阜市の「ベトコン・ラーメン」は,何かヴェトナム戦争にゆかりがあるの?
【回答】
ヴェトナムとは何の関係もなく,ベストコンディションの略.
http://www.condition-best.com/
http://www6.ctktv.ne.jp/~ma-ko65/betokonraumen.html
http://gourmet.jp.msn.com/restaurant/details.aspx/restaurantid=3667/ptid=15/
はっきり言って,焼きニンニクがたくさん入った,普通の豚骨ラーメンでしたね.
まずくもないが,うまくもない,印象の薄い代物でした.
(まずければネタにもなったのですが)
faq17c10.jpg
faq17c10b.jpg
新所沢の三等兵◆Uk in mixi,2007/10/31/00:04
ベトコンラーメンは日本各地に有るようで,その場所で微妙な違いがあるようですね.
岐阜仕様は,醤油ベースの丸揚げニンニクに野菜,輪切り唐辛子
宮崎仕様は,とんこつベースのにら,ニンニク,野菜,豚肉
とかなり違うようです.
(にんにくが共通のようですが)
ここからは推測ですが,おそらくベトナム戦争のときに,強いアメリカを翻弄するベトコンの強さと,言葉の響き
,南のほうだから辛い,というあたりから名づけられたのでは無いかと.
で,しばらくして,「ちょっとマズいよなぁ」という事で,「ベトコン→ベストコンディション」という意味を当てはめたのでは無いかと推測します.
ちなみに私の行った店(岐阜のベトコンラーメン香楽
という店)は,
「アメリカにも負けない屈強な…」
と思いっきり表記して有りました
(かなり古い看板だったのでその当時から?)
(そっちの看板も撮っておけば良かったなぁ と)
味は,食ってるときに唐辛子の辛さがスープに溶けて行き,あまりの辛さに最後は涙目になりました.
【質問】
何故ベトナム政府はアメリカに対し て,ヴェトナム戦争の不発弾の処理費用を請求しないのでしょうか?
やはりベトナム戦争時にアメリカ軍が残していった装備で,ベトナム軍はかなりの恩恵もらいましたし,クラスター爆弾等の不発弾を再利用しているためでしょうか?
【回答】
一.
北ベトナム(即ち現ベトナム政府)とアメリカ合衆国間は,いわゆる戦争状態では無かった.
双方とも宣戦布告をしておらず,”公式”では北ベトナムVS南ベトナムの戦争となっている(アメリカはあくまで南ベトナムを”援助”しただけ.勝手に介入して勝手に撤退した)ので,アメリカは補償する必要がない,という建前がまかり通っている.
ベトナム政府もそれを追認している.
二.
ドイモイ(ベトナム版改革開放)以後,ベトナムは経済成長を遂げるために,アメリカとの関係構築を最優先課題に掲げ,その結果多大な利益(輸出入の急成長とそれによる経済発展)を上げている.
ベトナム政府もその国民の大多数も,過去の補償問題をあれこれ弄り回すより,アメリカとの緊密な関係を維持することを最優先にしている.
ベトナム政府と国民の不発弾問題の,アメリカに対するスルーっぷりは余りにも異常.
調べていてかなり当惑した.
大量の放棄された軍需物資?
大戦争終わって軍縮真っ盛りのベトナムにとって,全く違う兵器体系の装備を貰っても,あんまり良い顔はしないと思うよ(処理するだけでどれだけの手間と金がかかるやら.)
少なくとも,戦争の傷以上のメリットはもたらさないだろうねぇ.
戦争・国防板,2009/08/09(日)
青文字:加筆改修部分