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◆◆韓国軍 Koreai hadsereg
<◆ヴェトナム戦争・目次 Vietnami háború Index
<戦史FAQ目次
【質問】
なぜ韓国はヴェトナム戦争に参戦したのか?
参戦はお金のためだったって本当?
軍事板,2001/05/22(火)
青文字:加筆改修部分
【回答】
まず,ヴェトナム戦争と言う言葉は,米国側の見方です.
これがヴェトナム側から見れば,抗米戦争(chien
tranh chong My)となります.
米国がヴェトコンと呼んでいたのは,ヴェトナムから見れば,南ヴェトナム解放民族戦線であり,南ヴェトナムの崩壊はヴェトナムから見れば解放となります.
韓国も,越南の平和を守る為の「自由の十字軍」と言う名目で,この戦争に参加しました.
ヴェトナムへは韓国軍の内,青龍・猛虎・白馬の3つの部隊が派遣されましたが,ヴェトナム人は,これらの部隊を「韓国軍」とは呼ばず,「朴正煕の軍隊」と呼び,その「朴正煕の軍隊」は,米国の傭兵であると見做されていました.
この「朴正煕の軍隊」は,彼方此方で虐殺事件を引き起こしました.
意外にも,当時米軍などと戦ったヴェトナムの将校は,韓国軍に対して同情的です.
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韓国は米国と違って植民地の経験がある.
植民地の苦しみを経た民族だから他の民族を侵略しない.
一度植民地経験をした民族派他所の国を植民地にしようとしないと思う.
当時,韓国政府は米国の圧力の下にあった.
米国が韓国をヴェトナムに引きずり込んだのだ.
これが最も大きな罪である.
韓国はヴェトナムと同じ分断の経験がある.
同じ民族同士の戦争をした韓国人は,他の民族の苦しみを知っている.
だから他民族を侵略出来るとは考えられない.
韓国に罪があるとしたら,自主を護れなかった事だ.
米国の要求を拒む事が出来る力を持てなかった事が罪だと言える.
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ところが,韓国軍のヴェトナム派兵の議論は1950年代の李承晩政権から既に始まっています.
朝鮮戦争が一応の休戦を迎えた翌年の1954年,第1次インドシナ紛争でフランス軍が敗退すると,国連極東軍司令官ジョン・ホール将軍が記者会見で,
「李承晩大統領は,インドシナ共産軍と戦っているフランス軍支援の為,韓国軍戦闘師団のインドシナ派兵を提議した」
と明らかにします.
これが最初の李承晩のヴェトナム派兵の試みの最初で,李承晩は,インドシナでの共産勢力拡大は自由世界に対する国際共産主義の侵略であって,自由アジア国家は一致した行動で阻止せねばならないとし,韓国は積極的に防御すると言う意志を表明したりしています.
これに対し,これ以上余計なプレイヤーを入れたくないフランス政府は,この提議に反対し,李承晩の野望は潰えます.
米国も同様に,米軍が北朝鮮に対して韓国に駐屯しているのに,韓国軍が派兵する事への米国世論の反発を理由に,この提案を拒絶しました.
次にヴェトナム派兵が浮上したのは,1961年11月ワシントンで開催された,朴正煕とケネディの第1回米韓首脳会談です.
朴正煕は,一応民主的に選ばれた李承晩を,軍事クーデターによって追放した直後であり,権力の継承と言う意味で,その政権は正当性を欠いていたので,米国の支持に政権の存亡を賭けていました.
この会談で,米国は日韓国交正常化と,形式上最小限の選挙を実施する事,つまり,合法的な政府を樹立する民政移譲の形を整える事を要求事などを要求し,朴正煕はヴェトナム参戦の可能性を含め韓国からの支援を提議しました.
その後,1963年10月15日の選挙で第三共和国が発足します.
しかし,最初の4年の任期の間,朴正煕政権は日韓国交正常化に反対する学生デモと野党の激烈な批判,与党内部での統治権への強力な朝鮮に曝されました.
朴正煕は,1963年10月の大統領選挙で,尹?善を15万票差で抑えて当選したものの,合法的な民間政府を転覆させて新政府を樹立したと言う正統性の欠如は如何ともし難いものでした.
こうした限界の中で,朴正煕政権は,経済成長を成し遂げる事で政府の正統性を確保しようとします.
しかし,米国がヴェトナムに肩入れし始めると,韓国への軍事・経済援助が減少します.
そうなると,朴正煕政権の基盤が揺らぎだします.
そこで,朴正煕はヴェトナムの軍事支援を行う事で,ヴェトナム特需と言う経済効果と,派兵の対価として援助を獲得すると言う目的を設定したと考えられます.
当時,韓国経済は,外貨不足と物価高による経済危機が蔓延している状態でした.
更に不景気,食糧難まで加わり,全国民の生活は疲弊していました.
こうした状況にも関わらず,米国は今までやっていた無償援助を借款に変え,軍事援助移管などの緊縮財政政策を採ったので,成長政策を求める韓国経済は深刻な状況に陥ります.
朴正煕に対抗する逆クーデターの試みと,クーデター指導者間の内部軋轢も又,朴正煕政権を脅かす要素でした.
実に,1961年5月から1963年12月まで,12回もの逆クーデターの試みがあったのです.
1963年12月に合法的文民政府となったものの,文民政府の軍事クーデターでの転覆可能性の前例を作った為に,軍部内に動揺と権力闘争が生じ,これもまた,朴正煕政権を圧迫する大きな要素となりました.
こうした政治状況下で,朴正煕はヴェトナム派兵を1つの政治的突破口と考えたようです.
そして,朴正煕政権はヴェトナム派兵を決定しました.
これは,他のアジア諸国に比して相対的に強い冷戦意識で,ヴェトナムを冷戦の戦場と捉えた事に加えて,米国から駐韓米軍の撤収や縮小をしないと言う確固たる公約を得て,韓国の安全保障を確保し,更に米国から経済的・軍事的援助を獲得,ヴェトナムでの外貨獲得という実利が作用して下されたものです.
つまり,第三共和国政府は様々な危機に直面していて,それを打開しようと,積極的に派兵した訳です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/01/22 23:06
青文字:加筆改修部分
【質問】
ヴェトナム戦争への韓国軍参戦に対し,反対の声はなかったのか?
【回答】
韓国軍のヴェトナム派兵については,特に批判も無く行われました.
しかも,韓国と言うのは,日本の植民地支配を受けていて,ヴェトナムへの派兵には多くの批判がありそうなのですが,全くそう言ったものがありません.
例えば,嘗ての独立運動家で野党の政治指導者でもあった朴順天が,飛行機で上空からヴェトナムを眺め,恍惚の余りヴェトナムの大地に唇を付け,
「我が民族が初めて他所の国に軍隊を送り,民族の威力を発揮したこの感激,この肥沃で広大な大地が我々のものであったらどんなに良かったか」
と,『東亜日報』に寄稿したりするのは園市例です.
また,文化人では毛允淑は,
「もう一つの戦線で国軍に出会う」
と言う詩を書き,ヴェトナム派兵は「自由を齎す」為のなので,「死を厭わず」「しっかり戦え」とし,「行けども深まる密林,泥沼」に若者達を追いやりました.
そう言う意味では,嘗ての日本と同じ事を彼らは行い,そこがどんな所で,何をする所なのか伝えてやりもせず,頑張れ,頑張れ,と拍手を送り,背中を叩いた訳です.
一方の当事者である米国では,マーチン・ルーサー・キング牧師が,ヴェトナムへの,宣言だけの反対に留まらず,ヴェトナム戦争投入の為の徴兵に反対し,米国の若者に「良心に沿った反対」を求めた事とは対照的です.
例えば,1967年4月4日にマーチン・ルーサー・キング牧師が,マンハッタンのリバーサイド教会で行った,
「ヴェトナム戦争からの独立を宣言する」
と言う演説では,こんな事を述べています.
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兵役について若者と相談する時,彼らにヴェトナムでのアメリカの役割が何なのかをはっきりと説明し,「良心に沿った反対」と言う対案を示してやらねばならない.
私は,母校モーハウス大学で70数名の学生がこの道を選択した事を嬉しく思う.
米国がヴェトナムに関して取った行動が,不名誉で不正義な事だ,と知る総ての人に,「良心に沿った反対」を勧める.
更に,徴収対象年齢に該当する総ての牧会者も,牧会者としての徴兵免除特権を放棄し「良心に沿った反対者」の地位を探る事を勧める.
人間としての信念を持つ総ての人は,自分自身の信念に相応しい抵抗の方法を探らねばならない.
我々は皆抵抗しなければならないのだ.
(中略)
世界革命で正義の側に立とうとするなら,国全体がラディカルな価値観の革命を経ねばならない.
機械とコンピュータと利潤と財産権が,人間よりも大切なものと見做されるのならば,人権主義と物質主義と軍事主義と言う,巨大な三つ子は決して征服されない.
(後略)
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事実上ヴェトナム戦争を引き起こした米国の場合,自国内の良心的勢力が徴兵反対と反戦の声を上げたのに対し,韓国ではこうした動きはありませんでした.
第1次派兵,第2次派兵は国会で満場一致で通過し,第3次派兵は反対意見が出たものの,纏まった論調になりませんでした.
国会が第4次派兵を通過させた時には,既に世界の潮流は,反戦の動きが大きくなっていました.
1966年に英国の哲学者バートランド・ラッセルは,
「ヴェトナムでの戦争犯罪に関する国際裁判所」
を組織し,フランスのジャン・ポール・サルトルも,1967年2月,この裁判所が開催したストックホルム会議の時から執行委員長として参加しました.
この裁判では,サルトル始め代表者は,ヴェトナムでの米国の行為が,民間人への広範囲で無差別な大量虐殺,ジェノサイドと言う戦争犯罪に他ならないと言う結論を下しています.
同じ頃,米国でも反戦運動が本格的に展開し,1968年のジョンソン大統領は大統領選不出馬に追い込まれました.
そんな時でも,韓国ではそんな反戦の声が,中々聞こえませんでした.
「大韓ニュース」は「勇猛無比の海兵隊」神話を作り上げ,依然として釜山港では女子学生が涙のハンカチを振り,派兵軍人の勇名は誇張されてメディアを彩りました.
当時の進歩的雑誌であった『思想界』ですら,ヴェトナム戦争への反対論が出て来る事は滅多にありませんでした.
そんな状況ですから,他のメディアなどは言わずもがなです.
米国の精神分析学者ウォルター・C・ランガーは,
「ドイツの狂気を作ったものはヒトラーであると同時に,ドイツの狂気がヒトラーを作ったと言う事が出来る」
と述べています.
朴正煕は,その狂気にかこつけて,延べ32万人の兵力をヴェトナムに送り出しました.
このヴェトナム戦争は,危機に瀕していた朴正煕政権を盤石なものにしました.
ヴェトナム戦争で政権の基礎を固めた朴正煕は以後,暗殺されるまで,長期政権を維持し,暗鬱な暴圧政治を続ける事になります.
この様に韓国では,1960年代後半世界を覆った反戦の流れに背を向けていった訳です.
そして,韓国はヴェトナム戦争で10億ドルを稼ぎ出し,韓進や現代が大企業に成長出来る基礎を築き上げました.
ただ,この10億ドルという数字は,稼いだ分を計算しただけであり,支払わなければならなかった対価や,派兵せずとも得る事が出来た経済効果である機会費用は全く考慮されていません.
従来,韓国にとってヴェトナム戦争と言うのは,「反共聖戦」の名の下に行われたと言う神話でした.
ヴェトナムで,韓国軍は数々の虐殺事件を引き起こしていますが,その辺りの総括は未だに行われていません.
そう言う意味では,日本に対して「謝罪と賠償」と求める以前に,ヴェトナムに対しても謝罪を行う必要があるのでは無いか,と思うのですが….
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/01/23 22:06
青文字:加筆改修部分
【質問】
べトナム戦争では,韓国軍は強兵だったの?
【回答】
三島瑞穂氏の『地上最強のアメリカ陸軍特殊部隊』にも,
「軍規の徹底と軍上層部の統率力は,アメリカ軍より韓国軍の方が比べ物にならないほど優れていた・・・」
と書いている.
但し三島氏は,軍規無視がその強さの秘密だと,個人的に考えているそうだ.
アメリカ軍が事前警告を行い奇襲出来ないのに対して,韓国軍は事前警告無しでの攻撃が出来る.
非戦闘員対策で奇襲を台無しにせずに済むという事.
士気の高い理由としては,朝鮮戦争以来アメリカに助けられてきた恩返しが出来ると言う考えていた.
111 in 戦争・国防板,2009/12/04(金)
青文字:加筆改修部分
元々韓国軍は,韓国領内で跳梁跋扈する共産ゲリラ(韓国正規軍が連隊クラスでゲリラに寝返る程,混乱した情勢だった)対処にその全力を傾けており,さらにそのようなゲリラ戦対策を第一に指向していたので,旧日本軍士官学校出身で,尚且つ満州で対ゲリラ作戦に従事していた,経験豊富な韓国人将校が軍の中枢,特に前線指揮官層(有名な所では,間島特設隊に所属していた白善燁将軍)に多く配属され,熾烈な朝鮮半島でのゲリラ戦を通じて世界屈指のノウハウを持っていた.
ただ,ベトナムと言う異文化においては,対ゲリラ戦において最大の教訓,即ち”民心を掌握”することを異国の韓国兵が行うことは到底不可能であり,個々の北ベトナムゲリラとの”戦闘”では勝利できても,”戦争”には勝利できず,また,外国人である韓国人がベトナムで対ゲリラ作戦に従事するのは不適切であった……というのが韓国軍自身の評価.
戦争・国防板,2009/12/03(木)
青文字:加筆改修部分
【質問】
ベトナム戦争の時,韓国軍が参加したそうですけど,どれだけの働きを見せたのですか(軍事的に)?
戦後に米国からお金を貰っているみたいですから,結構な活躍をしていたのでしょうか?
【回答】
戦術面・住民宣撫面などで米軍より優れており,NLFにとって最も恐ろしい敵となったという.
その一方,有力であったと共に残虐であった,という資料もある.
wikiより引用;
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韓国軍の参戦
民家を点検するアメリカ軍兵士大韓民国の朴正熙政権はアメリカの要請により,1964年に最初の海軍部隊を派遣したのを皮切りに,1965年10月には陸戦部隊である猛虎師団1万数千を派兵して本格的に参戦.1973年3月23日に完全撤収するまでに総兵力約31万人をベトナムに投入した.
韓国軍はベトナム兵などを約4万人(公式記録)殺傷し,韓国軍の犠牲者は戦死約5千,負傷約1万に上った.
オーストラリアやタイ王国もアメリカの要請によりベトナム派兵したが,アメリカ以外の国としては,韓国が最大の兵力を投入した.
米韓の協定により,その後,韓国政府は派兵規模に応じた補助金を得ている.
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こんな資料も
http://www.special-warfare.net/data_base/
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ROK(RepublicofKorea)と呼ばれた韓国軍はアメリカ軍に次ぐ規模の西側派遣外国軍であった.
アジア圏における共産主義の拡大に危機感を募らせていた韓国政府は1965年夏,米軍の軍事援助のもとベトナムへの派兵を決定.
兵力は延べ37万名,最盛期には5万の兵力を南ベトナムに展開した.
具体的部隊としては韓国主都師団猛虎,白馬の2個師団,韓国海兵隊青龍1個師団の3個師団でいずれも韓国軍最強の部隊である.
韓国軍は早い時期よりベトナム戦争の長期化を睨んでおり,米軍基地のような簡易建造物による陣地構築ではなく鉄筋コンクリートの施設を建造した.
また,戦術も米軍とは違い,空軍や機甲部隊には頼らず,歩兵を中心とした接近戦闘を主体とした.
砲兵の数も少なく,ジャングルではもっぱら敵であるNLF,NVAと同じ戦術を駆使した.
さらに韓国軍では,敵を捕捉しないかぎり反撃は控えるという手堅い戦闘を見せ,NLFにとって最も恐ろしい敵となった.
アメリカ軍の撤退は1968年秋から始まるが,韓国軍はこの後もこの地に残った.
韓国軍は朝鮮戦争を体験しており民族間に強い国防意識を根付かせていた.
朝鮮,ベトナムと2度に渡る共産主義勢力との戦いは,韓国軍を勇猛果敢な世界でも最高峰の軍隊に育て上げた.
韓国軍がベトナムを去るのは1973年,実に7年間の軍事行動をし戦死者は4407名,負傷者は2万5千名であった.
韓国軍の戦争長期化の考えは当たり,初期の施設建造や人材面で米軍よりも有利な条件がいくつも存在した.
鉄筋コンクリートの施設は解放戦線の砲撃に十分に耐えたため,解放戦線も容易に突入はできなかった.
また,多くの通訳を擁し現地人との交流を図った.
軍規は極めて厳正で,戦闘時以外には村に対する放火をさせないなど,徹底したプロ意識も見せた.
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軍事板,2006/02/19(日)
青文字:加筆改修部分
その一方,有力であったと共に残虐であった,という資料もあります.
ただし,google検索してみると,誤訳や,ハンギョレ21のスタンスへの疑問(例えば,ピースボートでベトナムを訪問)が指摘されています.
ついでながら,この記事を韓国で載せた際,帰還兵からの脅迫を含む反発があったそうですが,その記事のURLは見つけられませんでした.
ただ,虐殺そのものを否定するのではなく,正義の戦争だから当然という帰還兵の主張が多かったと記憶しています.
http://www.altasia.org/hangyore/hangyore99256.htm
http://gimonshi.jugem.jp/?cid=3
http://www.altasia.org/hangyore/hangyore99256.htm
【質問】
韓国兵はヴェトナム戦争従軍の際,手当てはいくら受け取っていたのか?
【回答】
准将の場合,毎月210ドル,
中佐の場合,180ドル,
少尉は,120ドル
一方,参戦期間(1965~1973年)の派遣将兵の海外勤務手当ては計2億3556万ドル.
このうち1億9511万ドルが国内に送金された.
また,戦死者4968人に29億9245万ウォン,負傷者8004人に35億1317万ウォンが,それぞれ支給された.
「派遣将兵の手当てを政府が転用した」という話はガセ.
以下引用.
ベトナム戦の韓国軍戦死者,4968人に計30億ウォン
韓国国防部は2日,ベトナム戦争関連の外交文書,計17冊,約1700ページを公開した.これは,政府のベトナム戦争関連外交文書のうち,8月末に外交通商部が公開したものを除いた残りで,当時の派兵過程や派遣将兵の海外勤務手当ての実態,韓国の核不拡散条約(NPT)加入をめぐる韓米の鋭い対立が含まれている.
▲米国,戦闘手当て支給提案を拒否〓1969年4月,国防部は,「ベトナム派遣将兵の処遇改善」という文書で,将兵たちが米軍並みの戦闘手当てを受けるよう米国と協議することを政府に提案した.
当時,軍人報酬法には,戦時や事変など,国家の非常時の戦闘に従事する将兵にのみ戦闘手当てを支給するようになっていたため,派遣将兵たちは,戦闘手当てを受けることができなかった.
国防部は,
「海外勤務手当ては,本人とその家族の生計維持費であり,戦闘の危険に対する補償ではない.戦時・事変でなくても,国家のために戦闘に従事するのであるから,米国側に関連手当てを要求すべきだ」
主張した.
しかし米国は,追加負担は難しいとして,韓国の申し入れを拒否した.
▲海外勤務手当ての水準〓派遣将兵たちが米国から受け取った海外勤務手当ては,当時,韓国よりも国民所得のレベルが高かったフィリピンやタイの軍人と同様の水準だった.
准将の場合,韓国軍とフィリピン軍はいずれも毎月210ドル,中佐の場合,韓国とフィリピン軍は180ドル,タイ軍は210ドル,少尉は,3国いずれも120ドルの支給を受けた.
国防部関係者は,
「これまで,フィリピン軍が,海外勤務手当てを韓国軍の2倍以上受け取っていたと伝えられていたが,それは,自国の海外勤務手当てまで含んだためだということが,今回の文書公開を通じて明らかになった」とし,「派遣将兵の手当てを政府が転用したという長年の疑惑が解消された」
と述べた.
一方,参戦期間(1965~1973年)の派遣将兵の海外勤務手当ては計2億3556万ドルで,このうち1億9511万ドルが国内に送金された.
〔略〕
▲その他〓1960・70年代,韓国政府は,ベトナム戦争の参戦国に対して,活発な反北朝鮮外交戦を繰り広げた.
崔圭夏(チェ・ギュハ)外務長官は,毎年開かれていた参戦国外相会議で,北朝鮮の各種挑発行為を糾弾し,南侵の可能性を警告した.
一方,米国は,派兵期間に戦死または負傷した韓国軍将兵に対して,計65億563万ウォンの災害補償金を支給した.戦死者4968人に29億9245万ウォン,負傷者8004人に35億1317万ウォンが,それぞれ支給された.
軍別には,陸軍(1万282人)に53億2260万ウォン,海兵隊(2621人)に11億4451万ウォン,海軍(78人)に3705万ウォン,空軍(1人)に45万7600ウォンの順だった.
【質問】
「怪龍1号作戦」における,韓国軍による民間人虐殺事件について教えられたし.
【回答】
さて,青龍部隊は,1968年1月30日から2月29日にかけ,旅団規模で所謂「怪龍1号作戦」を展開しました.
この作戦は,1968年1月30日の北ヴェトナム軍と南ヴェトナム解放民族戦線のテト攻勢に対抗したもので,「テト攻勢反撃作戦」とも呼ばれていました.
北ヴェトナム軍と南ヴェトナム解放民族戦線が,青龍部隊の駐屯地ホイアン市内は勿論,ディエンバン県を攻撃すると,全旅団を展開してベトコン捜索掃討作戦を開始したのです.
公刊戦史にはこう書かれています.
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1968年2月12日(陰暦1月14日)第1中隊(中隊長 金錫鉉大尉)は,8時15分に国道1号線を偵察しつつ北に進み,フォンニュット村に進入したが,その後攻撃方向を西に転じた.
こうして11時5分に,中隊の戦闘部隊は目標11(フォンニー村を指す)を攻撃したが,この時,西方向から30余発の的の射撃を受け,迫撃砲で発射地点を砲撃し,制圧する事が出来たが,中隊に負傷者1名が生じ,後送した.
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ところが,青龍部隊が攻撃したフォンニー村と言う村は,「安全村」でした.
しかも,米国海兵隊キャップ小隊と姉妹結縁までしていた様な,体制側に従順な村だったのです.
その日,第1中隊は第1から第3小隊の順番で1列縦隊でフォンニー村の脇を通っていました.
その時突然,村から戦闘を行軍する第1小隊側に向けて射撃があり,1名が弾に当たって負傷します.
小隊長は中隊長に緊急連絡をしますが,中隊長からの応答は村を攻撃せよと言うものであり,第1小隊と第2小隊が方向を左に変え,銃撃して村に進入しますが,ベトコンは既に痕跡を消した後でした.
しかし,韓国軍は村人を2箇所に集め,集団虐殺を行います.
家に隠れていた人はその場で殺され,家は焼かれ,村は残らず焼き払われて,毛布やハンモックすら残っていなかったと証言が残っています.
その後,生き延びた人達は子供の遺体を箱や竹籠に,大人の遺体は大きな盆に入れ,それらを頭に載せたり,肩に担ぎ,引き摺って国道1号線を歩いて,南ヴェトナム政府軍歩哨所の前に死体を置き,青龍部隊の懲罰を求めました.
ところが,歩哨所の扉は固く閉ざされ,死体が腐るに任せます.
その後,腐敗した死体は村に戻されず,道路脇に埋められたそうです.
ところで,1968年7月米国のランド研究所は,“The
Viet Cong Style of Politics”(ベトコンの政治様式)と言う秘密報告書を刊行します.
この報告書は元々米国国防総省の依頼で,ランドの研究員達がベトコン捕虜と避難民300名にインタビューした資料を基に,ネーザン・ライツ教授が1966年に作成していたものですが,この報告書にも韓国軍の民間人虐殺に関する証言が数多く出て来ます.
ランド報告書とは別に米国国防総省は,1969年12月12日付で駐越米国大使館に文書を送り,韓国軍,取分け韓国海兵隊による,ヴェトナム民間人への非人道的行為の情報総てを求めました.
これは米国上院外交委員会のサイミントン聴聞会が開催される為です.
1970年2月24~26日にかけて開催されたサイミントン聴聞会は,米国の財政支援でヴェトナム戦争に参戦した同盟軍の問題を議論する為のものでした.
丁度この1969年12月当時,米国ではミライ虐殺事件が露見し,極めて厄介な時期でした.
この渦中で韓国軍による民間人虐殺事件が明らかになれば,下火になりかかった反戦運動が再燃し,傭兵の是非などでヴェトナム戦争の継続に致命的な打撃を受けると考えられました.
こうした理由が複合的に作用して,米国国防総省は駐越米国大使館に韓国軍民間人虐殺報告書を要請し,駐越米国大使館は駐越米軍司令部にこれを要請しました.
駐越米軍司令部は,監察部に対して,ランド報告書で提起された事態の調査と,米軍独自の韓国軍民間人虐殺の調査資料があるか探す様に指示しました.
300ページを越す膨大な秘密報告書の中には,1968年2月12日クアンナム省ディエンバン県フォンニー村で民間人69名が殺害された事件についての駐越米軍司令部監察部12月23日付報告書が入っていました.
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1968年2月12日日曜日13時頃,CAPデルタ2海兵隊とシルヴィア大尉そしてシークレスト下士官は西側の第1ルートの動きを調べていた.
韓国軍は村に砲撃を加えた後,自動火器で襲撃を始めた.
家が燃え,村から煙が上がるのが直ぐに見えた.
PF(南ヴェトナム民兵)の1人が,負傷した少年と女性をCAPに連れてきた時,漸く私は,韓国軍が村の民間人も銃撃し,もっと多くの負傷者が出ている事も判った.
15時頃,フォンニートフォンニュットに行き救援せよとの許可を得た.
警備隊は5名の海兵隊員と26名の民兵,そして情報将校で構成され,私はカメラを持って行った.
東側経路の敵の潜伏可能性を考え,フォンニー近くの道幅の広いルートを選んだ.
我々が発見したものを写真に記録した.(以後写真A~Pまでの解説)
村で写真を撮って気づいた異常な事の1つは,死体の山の周りで弾痕を見つけられなかった事だ.
これは村民総てが至近距離で撃たれたか,銃剣で刺された事を意味する.
この陳述書は,1968年2月17日,USMC J.ボーン上等兵が作成した.
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この証言を受け,駐越米軍司令官であるウェストモーランドは,1968年4月29日に初代駐越韓国軍司令官の蔡命新中将に宛てて1通の手紙を送ります.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/01/24 23:09
青文字:加筆改修部分
東洋の思想に,臭い物には蓋をすると言うものがあります.
駐越米軍司令官のウェストモーランドが,駐越韓国軍司令官の蔡命新中将に書簡を送りました.
これにはこう書かれています.
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親愛なる蔡命新将軍
貴方も良く御存知の様に,戦争犯罪の主張や不満が提起されると,私には適切な手続きを踏んで措置を執れという指示がやって来ます.
この指示はジュネーブ協定署名国としての米国の責任を果たす為に下されるものです.
私の指示の遂行の為に,ジュネーブ協約違反疑惑が提起された事件,つまり1968年1月12日クアンナム省ディエンバン県ディエンアン社のフォンニー村とフォンニュット村で発生したと報告があった事件の調査に,第3海兵隊師団の要員達が着手しました.
限られた時間での調査の結果,この事件は,同じくジュネーブ協定署名国である貴国が相応の関心を持たねばならぬものと認定し,我々の調査は終了しました.
同封した証言,写真資料,その他の文書は,第3海兵隊師団の基礎調査の過程で収集したもので,調査が完全で広範囲に渡るものを示すものではありません.
これに関連して,ディエンバン県の郡長がこの事件を韓国軍海兵第2旅団の旅団長と議論したと言う報告を受けました.
従って,この事件の詳細な報告書を恐らく将軍もお受け取りになったでしょう.
この事件の本質は深刻なものなので,この事件が徹底的に解決される事を待ち望んでいます.
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それから1ヶ月が過ぎた6月4日,蔡命新中将からやっと返事が届きました.
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親愛なるウェストモーランド将軍
クアンナム省ディエンバン県フォンニー村とフォンニュット村で起こった遺憾な事件に関連して,ジュネーブ協定違反疑惑が生じた事をお知らせ頂いた,貴下の1968年4月29日付の手紙を確かに拝受しました.
貴下もよく御存知のように,韓国軍がヴェトナムに初めて足を踏み入れて以来,本官は,ヴェトナムの友人との相互信頼と尊敬に基づき,友好的な関係を維持する為に,ヴェトナムの人々の生命と財産を守る事を繰返し強調してきました.
本官はまた,100人のベトコンを逃しても1人のヴェトナム民間人を救う為に最善を尽せと言う事を,重ねて強調してきました.
今日まで,本官はこうした指示と訓令を,ヴェトナムに派遣された韓国軍の総ての将兵が絶対的に遵守していると固く信じています.
その為,本官にはこの事件は極めて衝撃的で,深い関心を抱いています.
本官は直ぐに,この事件が起こった地域を管轄する海兵第2旅団長に,この事件の徹底した調査を指示する一方,本官の参謀達に,客観的に観点からこの事件の徹底した広範囲な調査をして,実際に起きた事を明らかにし証拠を集める事,及び,収集した証拠の価値を分析し,証拠の法的含意を分析するよう指示しました.
この指示に従って,1968年6月1日に完成した調査報告書の内容は以下の通りです.
先ず,1968年2月12日,海兵第2旅団の1個中隊がフォンニュット村近隣で掃討作戦を展開していた事.
しかし,明らかになった証拠と事実は,韓国軍海兵のどの部隊も,フォンニー村に入ったという主張と矛盾するばかりか,これを否定するものです.
逆に,掃討作戦に参加した海兵中隊はフォンニュット村を11時30分に立ち去り北東に移動しました.
虐殺があったとする主張は,韓国軍・米軍・南ヴェトナム正規軍の分裂を図るベトコンの必死の努力と結びつけて考えると,大量虐殺は陰謀行為であって,共産主義者が無慈悲に演出したものだと言う論理的結論に至ります.
従って,偽装した軍服で以て韓国軍が疑惑事件に関与したとする事は,敵が仕組んだ邪悪な陰謀に陥れようとする目的があると考えられます.
更に,善かれという意図での救助物資配達と,フォンニー村で発生した事件を結びつける事は,余りにも矛盾し辻褄が合いません.
実際,救助物資は軍事作戦を終える事にした,多くの村と集落に配達・分配されました.
従って,こうした疑惑の主張は根拠が無く,変更の可能性が有る,性急に下されたものと解釈しなければなりません.
結論を下すならば,明らかに韓国軍は,ジュネーブ協定に違反する如何なる事件にも,決して関与していません.
最後に,時宜適切な情報を提供してくださった貴方の親切に絶大なる感謝の意を表します.
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実際の調査はどうだったか.
青龍部隊憲兵隊で,隊長から「民間人虐殺事件の真相調査を命じる」と言われた捜査係長は,同時にこの様に釘を刺されました.
「但し,指針に従って調査せよ」
この「指針」の内容は,
「青龍部隊のような偽装服を着ていたが,青龍部隊を装ったベトコンの所行だ.
青龍部隊は決して民間人を虐殺していない」
と言うもので,真相を究明するのでは無く,単に調書だけを取れという命令で,
「憲兵隊長も旅団で指針を受け取ってきた.
民間人虐殺はあったが,事実の隠蔽だった」
と言う証言が,21世紀になって出て来ています.
憲兵隊の捜査要員は全6名,大隊に1名ずつ派遣され,旅団本部では捜査係長と下士官1名で,15日余りに亘り,2人で部隊を直接訪ね,朝から晩まで調書を作りました.
韓国に既に帰国していた第1中隊長は勿論,第1大隊長を再度ヴェトナムに呼び,事情聴取を行いました.
彼らが言う真相は次の通りでした.
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韓国軍が村の横を通り過ぎた所狙撃され負傷者が出た.
そこで村を包囲・攻撃し,住民が集団虐殺された.
生き残った住民がクアンナム省に陳情し,駐越韓国軍司令部が青龍部隊に真相調査を指示した.
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しかし,捜査係長が作成した報告書はその事実と異なり…,
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何時何処其処で作戦をしたが,民間人虐殺の事実は無く,作戦だけで直ぐに退却した.
民間人虐殺のような事が有ったのなら,それはベトコンがした事だ.
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こうして捏造された調査記録は,両断本部を通じて韓国の海兵隊司令部に送られ,結局,蔡司令官からウェストモーランド司令官に送られたのです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/01/25 23:09
さて,臭い物には蓋をし,米国軍に対しても頬被りを決め込んだ韓国海兵隊ですが,ひょんな事からこの事件が明るみに出ます.
1969年2月,サイゴンの下院議長に宛てて,フォンニー村の住民達は次のような請願書を送ります.
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敬愛なる議長閣下
私たちは,1968年2月12日,クアンナム省ディエンバン県フォンニュットの2つの村とフォンニー,タンフオン村で韓国軍に殺害された35家族の親戚です.
私たちは,フォンニュットの2つの村とフォンニーの人間で,此処で生まれてからずっと暮らしていました.
私たちは亡くなった35家族の問題の詳細な内容を,敬愛なる議長閣下に申し上げます.
1968年2月12日9時まで,私たちは貧しいけれども一生懸命に働く農夫であって,南ヴェトナム政府に勤める軍人がいる,或いは南ヴェトナム政府で働き亡くなった軍人の家族であり,御祖母さん,御祖父さん,そして未だ乳離れしていない幼子で構成された家族であり,ヴェトナム共和国統制地域下で極めて平和的に過ごしていました.(親戚は総て正式な市民証を持っていました).
突然韓国軍部隊がディエンバン県に駐屯し,彼らは私たちの地域で作戦を遂行しました.
村に侵入し,人々を家から引きずり出し,銃殺し,身体を切断するなど,野蛮な行為をしました.
韓国軍部隊は死体をそのまま,或いは隠したりして,現場を離れました.
事件後,地域責任者で有ったホアン・チュン少佐が,この事件を調査しました.
酷い状態の儘の犠牲者の写真を撮ったり,生存者への質問を手伝いました.
事件後,声が上げられない,生活の苦しい,知識も力も亡い私たちは,襤褸切れで覆われた墓地に毎日行き哀悼の意を捧げています.
この苦痛を言葉で表現出来るでしょうか.
しかし,私たち動揺に苦労している人達にも,こんな事態が生じた事が気になります.
虐殺が起こった日の今日,父母,夫,妻,子供,そして親戚の死を悼みます.
何と悲しい事でしょう.
市民権のある,四千年の文明のある,67名のヴェトナム人が虫けら扱いをされました.
不幸な犠牲者に対してどんな団体も僅かの同情心も示しませんでした.
これ以上待てません.
以下の要求を,国民に対して当然責任を持つべき機関である国会の議長閣下にお伝えしようと思います.
議長閣下が,韓国軍とヴェトナム政府に諮り,他の類似した事件で適用可能な規則に従い賠償して頂けるよう,お願い申し上げます.
有り難う御座います.
1969年2月 フォンニー住民代表
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この請願が功を奏したのか,1969年11月,事件当時フォンニー村を攻撃した中隊長,第1小隊長,第2小隊長,第3小隊長が韓国中央情報部,俗に言うKCIAで調査を受けました.
調査は,密室で個別に差し向かいで為され,作戦計画書と戦闘図を手にした捜査官は,
「過去の事だが,事実だけはありのまま正確に知りたい」
と告げます.
そして,彼らの前にヴェトナムの国道1号線沿いに死体が散らばっている写真を出します.
これは,作戦地域で米軍が望遠レンズで撮った物でした.
第2小隊長の述懐によると,こんな感じでした.
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海軍司令部から有無を言わさず行ってこいと言われた.小さな軍トラックに乗っていったが,着いたのは南山の中央情報部であった.
将校待遇をしてくれて,難しい事は無かった.
調査後,皆で食事をしたが,中央情報部員は,
「大統領が事実を知る為にさせた事で,今後の軍生活に不利益は無いだろう」
と言った.
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つまり,青瓦台も事実を知っていた訳です.
1970年1月10日,駐韓米国大使館が国務長官に送った秘密文書には,この事件の処理に関する報告があります.
当時の駐韓米国大使のポーターに依れば,朴正煕大統領の秘書室長,外務部長官などが,この県に関する緊急会議を開いたとあり,そして青瓦台は,この事件に関する韓国メディアでの報道禁止を指示しました.
青瓦台はポーター大使に,こうした話はベトコンの主張だという点を考慮するよう求め,米国国防総省と国務省に,疑惑の否認を求めました.
しかし,この時期のホワイトハウスの立場は断乎としたものでした.
国務長官が,ポーター大使に送ったメッセージに,米国の立場が良く現れています.
また,米国の国防総省は,韓国軍に対する如何なる指揮責任も無いと明言しました.
そして,虐殺疑惑には韓国人と南ヴェトナムのヴェトナム人が回答しなくてはならないとしました.
米国は駐越米軍司令部がこの事件を隠蔽しようとした,とマスコミや世論に指弾される事を心配していました.
虐殺の総ての責任は,韓国軍が持たねばならないと言うのです.
ともあれ,この事件は1970年1月22日に韓国軍将校,合同作戦参謀部長キム・ヨリム准将と合同情報参謀部キム・ミョンヒ大領の2名が,韓国海兵隊ヴェトナム民間人虐殺疑惑報道の調査にヴェトナムに発とうとする所で,突如終わりを告げます.
駐韓米国大使館が1月23日に,国務長官に送った電文には,1月22日に,韓国海兵隊残虐行為調査にヴェトナムに発つ事が報告されています.
しかし,キム・ヨリム准将は結局,ヴェトナムに行く事はありませんでした.
この頃米国議会で問題となっていた聴聞会で,この話が取り上げられることが無かったのも1つの原因です.
この問題に関しては,韓国国会でも議論されましたが,メディアは黙殺しました.
丁度,この頃は,「ヴェトナム現地化」の為に,米軍もその他の国の軍隊も帰還準備をしていました.
韓国海兵隊も,1971年12月から1972年4月にかけて撤退します.
結局,この事件も有耶無耶にされ,マスコミも抑制された所為で,「勇猛無比な」韓国海兵隊と言うイメージだけが韓国国内で先行してしまった訳です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/01/26 23:19
【質問】
ヴェトナム戦争において,韓国軍が民間人虐殺を繰り返したのは何故か?
【回答】
さて,韓国のヴェトナムへの派兵は4回に渡って行われました.
最初の派兵は,1964年で,この時は移動外科病院とテコンドー教官団の派遣であり,国会は満場一致で承認しました.
2回目は,1965年1月に国会に上程され,賛成106名,反対11名,棄権8名で承認されました.
この時の派兵は,ピドゥルギ部隊と言う建設支援団でした.
3回目は,戦闘部隊の派兵で,司令部の他,猛虎部隊(首都師団),青龍部隊(海兵第2旅団)が主力でした.
これは1965年8月の事で,賛成101名,反対1名,棄権2名で承認されました.
実際,3回目は承認されるか微妙な情勢だったのですが,朴正煕政権は,同時に「韓日協定批准同意案」の審議を提出し,野党がその通過に反発して欠席したついでに派兵案が承認されました.
4回目の派兵は,1966年3月で,首都師団第26連隊,白馬部隊(第9師団)が派兵されましたが,この時の国会決議は,賛成95名,反対27名,棄権3名での承認でした.
このヴェトナム派兵は,以前,ラオス介入でも触れたように,米国にとっては,「戦争の国際化」を意図したものでした.
自由主義世界を守る為として,米国はこの戦争への参戦を25カ国に要請しましたが,それに応じたのは,オーストラリア,ニュージーランド,台湾,フィリピン,タイ,英国,韓国の7カ国だけで,しかも,韓国と英国以外は,砲兵部隊や工兵隊と言った後方支援部隊の派遣に留まり,英国に至っては殆どアリバイ作りのように,タンソンニャット空港に,儀仗隊6名を派兵したに過ぎません.
儀仗隊6名の派兵など,殆ど戦力として意味を為さない訳で,英国はこの戦争を名分の無い戦争と考えていた訳です…
まぁ,無い袖は振れないと言う部分も大きかったのかも知れませんが.
それに対し,韓国は延べ312,848名に及ぶ大兵力を動員しました.
1964年9月22日,先に述べたように第1次派兵として,軍の医療部隊とテコンドー教官団が,ビントゥアン省ブンタウに上陸し,次第に拡大して行った訳です.
韓国軍部隊は,国道1号線で結ばれる主要都市に駐屯していました.
白馬部隊はカムラン,ニンホア,トゥイホアに,猛虎部隊はソンコウ,クイニョン,フーカットに,青龍部隊はチューライ,ホイアン,ダナンに駐屯しました.
駐越韓国軍総司令部は首都サイゴンに,駐越韓国軍野戦司令部がニャチャンに置かれ,韓国軍は1973年の撤退までに大隊で参加した大規模作戦に1,175回,小規模作戦576,000回を遂行しました.
そして,この作戦中に5,099名が命を落としました.
確かに,韓国軍はこの国のインフラを整備し,病院と学校を建て,生活必需品を支援し,テコンドーを普及すると言った活動をしましたが,一方で,ディエンバン県だけで3,340名の民間人が韓国海兵隊によって殺され,1,734世帯が被害を受け,961名が負傷し,その被害額は610億ドンに達していました.
当時の韓国軍の作戦形態は,純粋な戦闘と討伐作戦を組合わせたものでした.
ヴェトナム戦争での討伐戦略は,ベトコンの遊撃隊活動の根拠地になり得る自然村落や散在している家を粉砕し,住民を新生活村と呼ばれる戦略村に移し,遊撃隊と住民達との接触を遮断すると言うものでした.
1965年5月25日に駐越韓国軍司令部が刊行した戦訓集では,
「部落は総て敵の活動の根拠地」
であり,
「ゲリラ補給,人的資源及び情報収集の拠点は部落に置かれており,ベトコンの下部構造の基盤は部落と住民である」
と強調していました.
こうした教育を受けていた軍人達が,討伐に出て村に足を踏み入れた時に,敵の潜在的基盤である村の住民達に対する虐殺を行わなかったら,戦意を疑われかねません.
ヴェトナム戦争のような前線の無い戦争では,民衆の支持を受けた側は食糧や医薬品,生活必需品の補給を得る事が出来,その戦争の勝利条件は民衆の支持を得られるか否かという面にかかります.
そう言う意味では,南ヴェトナム民族解放民族戦線と北ヴェトナム軍は,南ヴェトナム人民の支持を得なければなりませんから,北のヴォー・グェン・ザップ将軍が,兵士達に人民のものは例え藁一本でさえも只で持って来てはならないと言う教えを説いたのは言わずもがなです.
しかし,そうした「人民の海」に隠れたゲリラを探索すると言う事は,南ヴェトナムの人総てを潜在的な敵と見なす必要があります.
米軍報告書にはこう書かれています.
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韓国軍はゲリラ戦の政治的な面を本当に理解出来ないでいた.
韓国軍の報告書に依れば,
「フォンニー地域の民衆を分析すると,約30%はベトコンかその協力者かのどちらかで,約40%はベトコンのシンパでこの地域に熱心なベトコン活動家がいる事を示している」
としており,態度を決めかねている者は即ち,ベトコンと見做すとしている.
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元々,韓国軍にとってヴェトナムは縁もゆかりも無い地域でした.
そうして,結局は北朝鮮の話を引き合いに出す事が多く,そうなると,
「アカは殺しても良い」
とか
「殺さねばならない」
という意識が浸透していきます.
結果的に,その意識が潜在的に住民達を「アカ」と捉え,本物のベトコンの代わりに罪の無い人々が殺されるに至ったのです.
蔡命新司令官は,
「100人のベトコンを逃しても,1人の民間人を保護せよ」
と言う訓令を出していましたが,そんな話は部隊の誰一人として聞いておらず,輸送船の中では,
「韓国軍を殺して死体を鉄条網の上に掛けておく」
とか
「捕まれば両手両足を裂いて殺す」
と言った話が大半を占めていました.
戦争の大義も無く,既に,敵への恐怖心と敵愾心に支配されてヴェトナムの地を踏んだ軍隊にとっては,ベトコンは血も涙もない邪悪な存在であり,別の人種だと言う認識が浸透していました.
その為,ただただ「殺す」と言う行為だけが意識の中でクローズアップされ,老若男女の区別無く虐殺の対象となったのです.
ところで,こうした民間人虐殺が行われた村々の入口には,「慰霊碑」あるいは「憎悪碑」と呼ばれる石碑が建っています.
これらは地方政府によって建立されたもので,1986年にドイモイが行われるまでは,「憎悪碑」と言う名前が付けられ,虐殺が起きた年月日,時間,死んだ人々の名前と年齢が刻まれています.
しかし,最近では「慰霊碑」と言う名称になっています.
最近のヴェトナム政府の方針は,
「過去に蓋をし未来を見よう」
と言うものです.
この意味する所は,ヴェトナム戦争当時,北ヴェトナム軍第5師団第20連隊長だったレ・チ・トゥオン予備役准将に依れば次の通りです.
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韓国軍による虐殺地域の一部住民も,「過去に蓋をしよう」と言う政府施策に従っているだろう.
しかし,その胸の恨みと苦痛を,どうやって取り去る事が出来るだろうか.
個別に議論し,酒でも飲んで,申し訳無いと言って解決するようなものでは無い.
何せ,虐殺なのだから…取り去ろうと思って出来るのだろうか.
政府の言う意味はこういう事だ.
我々は80年間,フランス植民地下に生きてきた.
そして日本に占領されもし,米国と30年に亘る戦争もした.
戦争で受けた苦痛は,そのどの民族よりも酷かった.
これ以上の苦痛を抱かせる訳には行かないのだ.
過去の傷跡を思い出させる事は,腸を切るような苦痛を与える事なのだ.
今は傷跡を癒やし,人々の力を「経済発展」の下に結集する事が必要なのだ.
これは一端過去の苦痛から抜け出してこそ可能なのだ.
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また,過去に縛られていては生きていけない為でもあり,過去に縛られたままならば,どうして未来に向かう事が出来るだろうかと言う意味もあります.
ヴェトナムには,その昔グエン・チャイと言う英雄がいました.
明がヴェトナムに侵攻してきた時にこれを打ち破った将軍です.
彼は,明が敗れて敗走する際,その軍師達に食糧と船を与えたと言います.
つまり,ヴェトナムは古来より勝利の後に和解をしようと努力していたと言う事です.
ただ,自由,独立,幸福が侵害される時には,何時でも立ち上がって闘う事もまた行います.
この60余年間,ヴェトナムは自由を獲得し,独立を勝ち取って来ました.
そして平和が訪れた今,彼らの願いは幸福であり,その幸福を得る為にも,過去に蓋をして未来を見ようとしているのです.
但し,
「過去に蓋をして未来を見よう」
というのは過去を不問に付そうと言う訳では無く,過去を見据え,真実を話した上で,互いに赦しを得ようと言うものです.
韓国がヴェトナム戦争に参戦して,民間人を多数虐殺した…その事実を認めないうちは,説得力が無いばかりか,
「過去に蓋をして未来を見よう」
としていないと指弾されても仕方ありません.
韓国と言う国は,日本に対して何かにつけて色々と言い募ってきていますが,少なくとも,日本はある程度の真実を話している訳です.
そう言う意味では,今の韓国にこそ,
「過去に蓋をして未来を見よう」
と言う精神が必要では無いかと思うのですが.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/01/27 23:24
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