c
「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ サイト・マップへ
◆ナポレオン戦争 Napóleoni háborúk
<戦史FAQ目次
(画像掲示板より引用)
「2ch.軍事板」◆(2003/02/16~) 軍事板ナポレオン!【映画ワーテルロー2】
レス回収済
『1809 ナポレオン暗殺』(佐藤亜紀著,文春文庫,2000/08)
・・・たぶん,軍事的なことに興味を持ちながら,そういうことに絡めとられるのが嫌な美学者・佐藤亜紀たんが,1809年ヴァグラム戦前夜のウィーンを舞台にくりひろげる,ナポレオン暗殺の陰謀劇・・・・のパロディ.
橋梁専門の工兵士官を主人公にしたとこが,面白かったです.
------------馬刺しくわせろ:軍事板,2001/11/09
『ウェリントンの将軍たち ナポレオン戦争の覇者』(マイケル・バーソープ著,新紀元社,2001.9)
『クラウゼヴィッツのナポレオン戦争従軍記』(金森誠也著,ビイング・ネット・プレス)
「戦争論」以外のクラウゼヴィッツの論文等も多く,海外ではよく研究されているのですが, 日本では中々手に入らなかったのが残念でした.
これは割と読みやすかったし,値段も手ごろなのでおススメです.
――――――軍事板
「新ナポレオン奇譚」(G.K.チェスタトン著,春秋社,1984.6)
『戦闘技術の歴史4 ナポレオンの時代編』(R.B.ブルース他著,創元社,2013/4/23)
「ナポレオン」(アンリ・カルヴェ著,白水社新書,1979)
「ナポレオン 獅子の時代」(長谷川哲也著,少年画報社,2003.10)
『ナポレオン帝国 ヨーロッパ史入門』(ジェフリー・エリス著,岩波書店,2008.12)
ナポレオン帝制の行政,司法,軍事,経済,教会,帝国貴族,属国支配についての制度とその現実を,共和制からの継承や変更と言う視点から解説した書籍.
広範囲を扱っていますが,読み易く,コンパクトに纏まっています.
印象的だったのは,
・文官組織がナポレオンの軍隊的精神を取り込んだ結果,軍隊的な規律や職業倫理を持つ集団になったと言う指摘
・旧貴族への融和政策により,公職における旧貴族出身者の割合が,高位になる程多くなっていた
その影響を受け,歴代の最高司令部勤務の将官達は,旧貴族出身者の方が多った
ナポレオン帝国下の組織は,「有能な平民出身者の集団」では無く,「旧貴族と有能なブルジョアジーの集団」だったとの指摘.
軍隊の構成に関する部分は,
『反ナポレオン考』
両角良彦
朝日選書
と合わせて読むと面白いかと.
――――――軍事板,2011/09/09(金)
青文字:加筆改修部分
「ナポレオンの軽騎兵」(エミール・ブカーリ著,新紀元社,2001.2)
「ナポレオン秘話」(ジョルジュ・ルノートル著,白水社新書,1991.8)
なお,ナポレオン書院ネタとナポレオン・ヒルのネタは,ありきたりなので自粛
【質問】
チャンドラーの『ナポレオン戦争』,相応の値段で復刊してほしい.
1冊1万は高すぎだし,古本屋ではもっと高いし.
【回答】
俺はあれが「相応の値段」だと思うよ.
あんなニッチなものを,全力で全訳して出してくれたんだからな.
ああいう10年に1回あるかどうかの博打企画には,黙って払ってやるのが漢.
手が出ないなら,古本で3000円もあれば買える英語版を買って,頑張って辞書片手に読めばいい話.
300冊(中の人情報)刷って,全5巻で1500冊,1冊1万で1500万.
4人だかで訳しててチャンドラーにも金払ってじゃ,全然足りない.
ボッタクリどころか足が出てる.
数が刷れりゃ,もっと値段も落とせただろうが,お前らが基本買わねーから小部数しか刷れねーんだよハゲ.
[―{}@{}@{}-] in 軍事板,2011/01/05(水)
青文字:加筆改修部分
【質問】
ナポレオンの日本語の伝記とかで,ナポレオン・ボナパルトが革命初期にはイタリア語読みで,「ナプリオーネ・ブオナパルテ」とか呼ばれてたという表現がよくありますが,原語主義がないあの頃に実際そう呼ばれてたんですか?
そうだとしたらナポレオンは正式に改名したんですか?
それはいつのことですか?
【回答】
改名なんかしてない.
ナポレオンの出身地であるコルシカ島は,当時はフランス領だったけど,イタリア領だった時代もある.
地理的にもフランスよりイタリアに近く,地図を見ただけではなぜフランス領か分からないぐらいなものだ.
そしてナポレオンはイタリア方面の軍功によって出世したようなものだし,そうして当時オーストリア領だった北イタリアをフランス支配下に納め,イタリア王にもなっている.
そんな訳でイタリア語読みをされていても全然不思議じゃないのだが.
ナポレオン自身,フランス系なのかイタリア系なのか微妙だし,実際イタリアとの縁も深かったのだ.
特に初期には.
世界史板
青文字:加筆改修部分
【質問】
国民半数死亡の未曾有の混乱を教訓に,宗教戦争がヨーロッパから消滅した訳だが,ここまで事が大きくならず,ウェストファリア条約が発効されなかったら,ナポレオン戦争も共和主義vs教会伝統の宗教戦争になってたのだろうか?
第一次大戦も新教勢(英独墺)vs旧教・正教勢(仏伊露)とか?
【回答】
前々から皆,宗教戦争とかやる気なくなってたし.
30年戦争でフランスが,プロテスタントに肩入れしてるところからしてさもありなん.
その前でも,サン・バルテルミでユグノー派ぶっ殺しておきながら,ネーデルラントの新教と手を組んでたりするしね.
アウグスブルグの宗教和議からの一連の流れの終着点であって,条約1つだけ取り上げて語ることでもないと思うが.
加えてオランダとベルギーの様に,宗教対立が消えたわけでもない.
人は条約1つくらいで変われないけど,その一方,大きな時間の流れで徐々に変わっていくものだし.
欧州の宗教がらみの問題でややこしいのは,結構昔から皆それなりに,宗教と政治を割り切ってやってるところに,時々むやみやたらに宗教的情熱に動かされた輩が出てくるところだと思う.
空気読めてないというか.
あともう一つ.
ポーランド王国は伝統的に宗教や宗派に寛容で,ネーデルランドやスコットランドからのプロテスタント難民を大量に受け入れていて,また,国内もこの当時はシュラフタ層の2-3割程度がプロテスタントだった.
国内にはイスラム教のタタール人の貴族もいたほど,多文化主義を貫いた,
当時のヨーロッパとしては非常に特殊な社会だった.
だからそもそも,特定の宗派同士の利権がらみの争いに介入したくない,というのがポーランド(議会)側にあった.
世界史板,2010/04/27(火)
青文字:加筆改修部分
【質問】
ナポレオンって天才って言われてるけど,具体的に何に秀でてたの?
法典とかまとめたから行政とか?
【回答】
軍隊を率いて敵に勝つ能力.
自分自身が軍を率いた戦場では,どんなに劣勢でもほとんど負けを知らなかった.
軍事的才能だけで,ヨーロッパの地図を塗り替えた.
政治面でもそれなりに有能だったが,天才と言うほどではない.
ナポレオンの政治面の業績は,ナポレオン個人の能力より,優秀な政治家や官僚や学者を多く抱えていたことによるところが大きい.
そーいう人たちを飼いならすのは,立派な才能だが.
人心掌握術も天才的だしね.
士官学校時代の非リア充ぶりはなんだったのかと思うぐらい.
ちなみに本人自身は
「戦場での勝利より,ナポレオン法典が俺様の大業績」
と主張しているが,ナポレオン法典はカンバセレスの功績.
世界史板,2010/02/09(火)~02/10(水)
青文字:加筆改修部分
【質問】
ナポレオンは暴君だったのか?
【回答】
最近の研究本により,暴君説が優位に立っているという.
以下引用.
〔略〕
〔2005年〕11月末に出版されたクロード・リッブ(Claude Ribbe)著「ナポレオンの犯罪」という本によって,ナポレオン暴君説が一挙に優位に立ちました.
リッブは黒人の著名な学者であり,フランス政府の人権委員会の委員でもある人物です.
リッブは,ナポレオンは,人種主義的・疑似科学的理論を打ち立て,ジェノサイドを行った人物であり,ナチスの先駆者と見なされるべきだ,と指摘したのです.
すなわちナポレオンは,フランス革命によって廃止された奴隷制を,その8年後の1802年に復活させ,また有色人種のフランス入国を禁止する法律を制定するとともに,カリブ海のフランス領のハイチとグアドループ(Guadeloupe)における奴隷の叛乱を壊滅させるために,これら両島の12歳以上の黒人は根絶やしにする方針を立て,新たにアフリカからおとなしい奴隷を輸入することにし,6万人ものフランス軍を現地に派遣し,叛乱に関与した黒人のみならず,手当たり次第に黒人を射殺し,犬にかみ殺させ,溺れさせ,毒ガスで殺し(注5),その結果約10万人の黒人を殺戮した,というのです.
(注5)
フランス軍は,奴隷船に黒人達を詰め込み,一晩中硫黄を燃やして二酸化硫黄を発生させて殺害した.世界最初のガス室だ.
また,叛乱のリーダーの一人の肩にその妻と子供達の前で将校肩章を釘で打ち付けた上,その場で妻子を溺死させる,といった残虐行為を行った.
(http://www.washingtonpost.com/ac2/wp-dyn/A25167-2005Jan20?language=printer.1月23日アクセス)
〔略〕
【質問】
ナポレオン時代のフランスの財政状況は?
【回答】
革命により,王制が引っ繰り返ったフランスでは,相変わらず財政危機が深刻になっていました.
これを克服するため,財政専門家達は,中央銀行を設立することと,没収した貴族と教会の土地を担保に証券を発行することで財政危機を克服しようとします.
しかし,国家による財政運営に不信感を抱いていた議会側は前者の設立に反対し,後者の土地担保証券だけを発行することになりました.
これにより,当時のフランスの債務残高20億リーブルに対し,売却可能な国有地を24億リーブルと見て証券を発行することになります.
ただ,その証券の額面を大口として高金利の債券形態とするか小口にして低金利の貨幣形態にするかすったもんだの末,先ず,債券として発行を始めることになります.
しかし,銀行券の需要は強く,民間銀行がその土地担保証券を担保に,少額紙幣を発行し始めたので,議会はその代わりになる証券を小口化することにして,多くの人が利用できるようにしました.
こうして15億リーブルが発行されたのですが,当初,国王政府の債務償還の為であった証券が,革命による干渉戦争,そして,防衛戦争(周辺諸国への侵略)に対する戦費調達にすり替わり,紙幣発行権限は銀行から議会に委譲され,議会によって,アシニア紙幣というものが発行されるようになりました.
革命軍による対外戦争は,防衛的側面も有していましたが,本来の意味は外国領土を収奪しての財政危機の克服という本末転倒な手段です.
そのアシニア紙幣,1792年には13.6億リーブルが発行され,当初は兌換紙幣だったのが,土地売却による償却が追いつかず,不換紙幣となり,オランダ,英国の参戦で更に増刷,猛烈なインフレーションが発生します.
紙幣の削減のため,1793年には強制国債徴募が行われ,所得10万リーブルに対し,95%課税を行うと言う威嚇で,10億リーブルを調達しようとするのですが,流石に資本家は愛想を尽かし,1.25億リーブルしか応募がなかったりします.
それでは間に合わないので,政府は永久国債というものを発行することになりますが,この利率は従来より大幅に下がった5%.
従来からあった終身年金も5%以下に利率を変更させ,その他の債務も利率を5%に統一した上,その利払いを大増発を続けるアシニア紙幣で行ったので,価値が下がる下がる状態.
物価を安定させるため,ジロンド派は穀物に最高価格制を,ジャコバン派は,全商品に最高価格制を敷き,やっとアシニア紙幣の価値は額面の半分に戻りますが,1794年のRobespierre失脚で放棄され,税収は歳入の54%に落ち込み,残りはアシニア紙幣の増発に頼る有様で,1795年6月の月間インフレ率は80%に上ります.
1795年の紙幣発行残高は292億リーブルに達し,翌年2月には昨年末に宣言した発行上限の400億リーブルに達し,これ以上のアシニア紙幣の発行は出来なくなりました.
しかし,歳出削減,増税は何れも不調に終わり,1796年3月にはアシニアに変わる紙幣,マンダを新領土の売却収入を担保に発行することになりました.
この紙幣はアシニア30に対し1の割合で交換されましたが,忽ち額面に対する価値は下落し,発行月には35%,夏には6%の価値しか無くなり,8月には税をこのマンダで受け取ることを拒否することになってしまいます.
万策尽きた政府は,1795年にオランダから2億フランの賠償金を取り立てたのを皮切りに,北イタリアから4500万フラン,ヴェネチア,教皇領,エジプトと相次いで遠征して,その国庫に入っていた資金を没収し,3.6億リーブルを稼ぐことになります.
最終的にこの財政危機は例によって,例の方法,即ちデフォルトで解決することになり,犯罪者と亡命者の保有債権は棒引き,永久債と終身年金の3分の2をバウチャーで支払い,残りは国債に整理して将来元利金を正貨で支払うという約束をします.
これによって,1788年の2.6億リーブルの債務は1799年に7530万リーブルに削減されることになりましたが,国債の正貨支払いは実現せず,バウチャーにしても,市場価格は額面の1%程度と言う酷いものでした.
ちなみに,同時期の英国は,戦費に議会の同意を得て,長期国債を次々に発行します.
しかし,フランスと違って,直接税が導入されたので,歳入は安定し,デフォルトを行わなかったので国債自体の利率は低く設定されており,発行した国債を元手に戦費にしたり,各国政府に資金を供与するなどしてフランスを苦しめたりしています.
このフランスのデフォルトの繰り返しが,実はNapoleonを追い詰めることになっていくのです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年02月03日20:23
【質問】
ナポレオンはどのようにしてフランスの国家財政を立て直したのか?
【回答】
経済状態の混乱の中,民衆が期待を託したのが,Napoleonです.
一応,デフォルトを繰り返したが為に,皮肉にもフランスの財政状態は英国より遙かに改善されていた訳ですが,その信認は失墜していました.
このため,その長い戦争の期間,彼は戦費を借金以外の方法で調達することになり,しかも,不換紙幣は発行することがありませんでした.
さて,Napoleonが登場したBrumaire18日のクーデターが発生すると,今まで10フラン内外で推移していた5%国債の価格は一気に高騰し,20フランと倍になりました.
5%国債を17日に購入した人が,僅か3日後に資産を倍にしたと言う話も伝えられています.
1799年12月から彼は財政改革に取り組み,革命政府が廃止した間接税を導入して,1800年からは国債利子を正貨で支払います.
更に中央銀行としてフランス銀行を設立し,1803年には金銀複本位制に復帰,1802年の予算は25年ぶりに均衡を回復させるなど,目覚ましい成果を上げていきます.
その戦費については,極力占領地から徴収することで,本国からの資金流出を避けて国債発行を回避しました.
具体的には,オーストリア,プロシアからの巨額賠償金の取り立てで,これを国外に駐留していたフランス軍の戦費に充て,更に正貨を本国に環流させるようにしました.
こうして得た正貨は,1799~1814年の間に8億フランに達しています.
一方で彼は,国債を発行しませんと言いながら,5%国債は発行していますが,赤字国債ではなく,短期債務の統合のためであり,この状況を続けたことで,1812年のロシア遠征まで均衡財政が続きました…但し,綱渡りですが.
このような財政政策の結果,フランス国債の信認は回復し,その価格は,1797年の時点で額面100に対し6.215,即ち金利は82%に上っていたりするのに,1799年に同じく100に対し14.625,同じく金利は34%に低下し,1801年になると平均53.65,最高値は68まで回復し,金利は10%を切るようになりました.
こうして1807年には,一時額面の93.5%にまで回復します.
1808年にはNapoleonは,額面の80%以下で取引されている国債を,減債基金で買い取るように命じ,1811年には英国が巨額な国債と海外送金で下落していたのに対し,均衡財政を保ち,フランも平価を維持していました.
そう言う意味では,彼の財政再建は成功したと言えるでしょう.
但し,低金利で国債を大量発行し,それで資金を調達することは,彼を以てしても未だ無理で,帝政予算は英国議会に比べると予算審議過程が不透明であり,このため,デフォルトを嫌う大陸の資金は英国へ流出していきます.
そして,財政均衡政策に大打撃を与えたのが1812年のロシア遠征失敗で,その巨額賠償金の支払いによって信認は大きく低下し,Waterlooでの敗北で,減債活動は停止,最終的に1814年の時点で,折角90%以上行っていた国債の価格は,一時額面の45%まで下落することになりました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年02月04日21:57
【質問】
ナポレオン戦役の収支は?
【回答】
少なくとも短期的には,フランスにとってはじゅうぶん割の合うものだったという.
以下引用.
ナポレオンのフランスは,ライバルのイギリスと比べても,3分の1の税金で済んだ.
1803年にフランス人は15.2フランの税を支払ったが,征服されたオランダ市民は64.3フランも支払っていた.
1806~07年のプロイセン出征時には,年間歳入の三分の1を征服地の租税で賄ったが,これには外国に派遣している軍隊からの収益は含まれていない.
フランスとその衛星国の軍隊は,略奪を働くことも許され,さらに数万人もの住民を徴兵した.
「イギリスがフランスより財政資源と管理で優れていることを考えれば,ナポレオンが最終的に敗北するのは間違いない」
との政敵の主張に対し,ウィリアム・ウィルバーフォース<1759~1833.イギリス・ホイッグ党の下院議員>は「アッティラ<?~453.フン族の支配者で,ヨーロッパの広大な地域を支配>の蔵相は誰だったか」
と反駁した.
Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)上巻,p.109
【質問】
ナポレオン戦役において,英国が結局勝利することができた要因は?
【回答】
圧倒的な金融上の優越のためだという.
以下引用.
イギリスが誇るパワーの主な要素は金融であった.
1690年代から1815年まで英仏両国は帝国の地位を巡って争ったが,結局イギリスが勝利を収めた最大の要因は,その「圧倒的な金融上の優越」に他ならない.
産業革命以前でも18世紀のイギリスは比較的豊かで,経済も当時としては進んでいた.
フランスは領土の面でも人口の面でもイギリスを上回り,1760年代のフランスの歳入はイギリスより30%も多かった.
それでも,国家の富を引き出す上で,イギリスの金融,信用制度のほうがフランスと比べ,遥かに効果的だった.
イギリス人は既に,1789年当時のヨーロッパで一番の重税を負担し,ナポレオンの時代までに,平均的なイギリス人はフランス人の3倍もの税を収めていた.
ハノーバー朝の時代<1717~1901>には歳入の60%を間接税が占め,また,1780年代までには10万社もの企業から消費税が支払われていた.
それより重要だったのは公共信用制度である.
18世紀のイギリスは,フランスよりも遥かに低い金利で資金を借り入れることができたのだ.
これが可能だったのは,投資家達がイングランド銀行をはじめ,1690年代に設立された各機関を,また,とりわけ議会による金融のコントロールを信用していたからだ.
金融制度が秩序だっていて,透明性があり,効果的でもあったので,有産階級は,自分達と同類の人々にコントロールされている国家に対して喜んで金を貸したのだった.
対照的に,国王に金を貸すのは非常にリスクを伴ったため,結果的に高い割増し金は避けられなかった.
イギリスは対ナポレオン戦争中に,フランス陸上帝国の資源をヨーロッパ大陸に釘付けにしておくため,同盟国に報酬を支払った.
この戦略は1813年から14年に頂点に達したが,その莫大な資金のおかげで,ナポレオンが最終的に敗北するまで,ロシア,オーストリア,プロイセンの軍を戦場にとどまらせることが可能になった.
1700年代から1815年までに発生した戦争の最中に,イギリスの貿易は実際に栄えたのに対し,フランスの商業や船舶は破壊され,フランスの貿易や海運業者も打ち倒されてしまった.
さらに,イギリスの富が増し,一連の勝利を収めたことによって,イギリスの議会政体や支配階級が正当性を獲得して強化されたのも当然だった.
Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)上巻,p.207-208
【質問】
ナポレオン戦役時代の英国の財政状況は?
【回答】
さて,もう一方の当事者である英国の財政では,フランス革命に伴い革命政府支配地居住者の在英資産を保護するために3%国債を購入し,イングランド銀行がその口座を管理することになります.
また,英国に逃避してきた海外資金の受け皿としても英国国債は用いられたため,1797年まで長期国債の金利は上昇を続け,一時6.35%に達します.
これらの国債は,戦費調達と海外送金であり,欧州大陸で戦闘を繰り広げている英国軍に戦費を,連合国には貸付金や支度金を送金して彼らを支えることになります.
プロイセンなどドイツ諸邦には1794~96年に460万ポンドの貸出しと,1796~97年に162万ポンドを含め,1795年に各国に940万ポンド,翌年は450万ポンドを支出しました.
これらを含め,1793~1816年までに英国が支払った支援金と融資金は,5700万ポンドに達しています.
一方で金(延べ板の方)は,革命の混乱でフランスから流出していたものが,紙幣の価値下落で逆にフランスに逆流出するようになりました.
このため,金準備が心許なくなり,戦費の際限ない支出と海外援助による国債発行高の増加で物価は上昇を続けます.
戦費の調達のため,政府は民間からの資金調達を図り,愛国国債を発行しますが,その条件は現金100ポンドに対し,国債は112ポンド10シリングの額面のものとなり,償還は平和条約締結後2年以内に額面で償還することが出来るというもので,4日間で1800万ポンドを完売しました.
ところが,1797年には海軍費が増大し,軍事費は1792年の7.4倍の4100万ポンドに達し,全体の歳出は3.6倍にもなりました.
このため,葡萄酒,砂糖,煉瓦,茶,煙草,新聞,ガラスなどの物品税は引上げを繰り返し,建築用石材,犬,工業用馬に税が課せられたりしますが,歳入は2138万ポンドと到底足りず,4000万ポンドを国債に依存することになります.
こうして経済不安が続き,金兌換要求は止まらず,しかも,1797年2月にはフランス軍がWalesに上陸するという事件があって,民心は動揺し,更に金兌換は加速,これに音を上げたイングランド銀行は,同月末に正貨支払いを停止する措置を執りました.
ちなみに,当時の英国の金の保有高は,1794年に700万ポンドありましたが,この時期には108.6万ポンドに減っていました.
英国,危うし(ぉぃ.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年02月04日21:57
1797年のイングランド銀行の金兌換停止は,それなりに痛手でしたが,それでも英国が調達した資金で,1798年にはNelsonがマルタ島を占領したり,アブキールで勝利したりしています.
決して死に金ではありませんでした.
しかしその代償は大きく,金兌換停止後,英国経済をじわじわと痛めつけます.
特に金貨,銀貨と言った金属通貨の流通が途絶えた為に,通貨流通量が減少を始めました.
このため,イングランド銀行は小額紙幣の発行を始めます.
これは,1797年第1四半期に970万ポンドだったのが,4年後の同時期に1600万ポンドに上り,卸売物価指数は47%増加しました.
この物価騰貴は国債発行に影響し,1800年には現金100ポンドに対し額面147ポンドの国債,即ち金利換算4.47%の3%国債の発行を余儀なくされ,1801年は同じ条件で額面175.75ポンド,即ち金利換算5.26%,1802年には現金100ポンドに対し,3%国債50ポンド,4%国債50ポンド,5%国債25ポンドの三種混合プラス1860年満期の年金が付いて,金利換算5.24%の国債を発行する羽目になります.
ちなみに,国債の大量発行によって低利借換えは制限を受け,3%のそれの低利借換えは1888年にやっと行われた状態でした.
こうして国債も発行額が巨額すぎてそろそろ頭打ちになってきて限界を露呈したこと,物品税の増税もEnclosureの進展と穀物価格急騰で労働者の所得減少が始まり限界に達して駄目になります.
フランスなら,此処でデフォルトが登場しますが,とりあえず議会制民主主義国家の英国では,これを打開するために画期的な手法が導入されました.
それが,1799年4月に,「戦時課税」として導入された所得税です.
この所得税は課税最低限が60ポンドで,60~120ポンドまでは120分の1~11分の1までの累進課税率が課税され,200ポンド以上の所得には10%の比例税が課税されました.
所得税の課税対象になったのは,全人口の3%強である32万人でしたが,課税額は年平均600万ポンドに及んでいます.
これは1802年のアミアン和約で廃止されましたが,1803年の再戦で,再び復活します.
今度は,比例税の対象が150ポンド以上に引き下げられ,その代わり税率は5%になりました.
また,課税方法は前回の申告制から,所得を不動産,公債利子,給与などの5つに分類し,それぞれを源泉徴収する仕組みに改められました.
この比例税の税率は1806年に再び10%に引上げられ,こうして,1815年まで年平均1400万ポンドの税収を生み出しました.
これは税収全体の約20%に上ります.
このほか,関税,物品税の増税も併せて行われ,租税負担率は1786~92年が10.6%だったのに対し,1801年16.7%,1811年には23.6%に達しました.
これにより,1793~1815年の対仏戦の戦費8.3億ポンドの内,40%相当の3.3億ポンドを税収によって賄う事が出来ています.
この間,例えば1812年秋のイベリア半島ではWellingtonは,本国から毎月戦費として10万ポンド送金するように依頼があり,本国からは金塊と金貨でそれが送られたり,1813年にはイングランド銀行からスペインとポルトガルに向けて,140万ポンドの金貨が送られたりしています.
こうして,Napoleon戦争の1811~1815年の間,海外で戦う英国軍へは6500万ポンド,同盟国には2400万ポンドが送られますが,このため,1812年にはポンドはスペイン・ドルに対し,40%も減価し,金貨は造幣価格を43%上回り,スターリング建てでは1オンスは5ポンド11シリングになっていました.
課税と長期起債の他,戦費調達のそのほかの手段には,大陸諸国からの資金流入があります.
前回書いた様に,フランス人の在英資産を,英国では国債として管理しましたが,これは1801年15万ポンドだったのが,1810年には172万ポンドに増えた他,オランダ,スペイン,ドイツ諸国の非居住者の国債保有総額は,1810年に国債残高の2.4%に上る,1454万ポンドに達しています.
ちなみに,前述の所得課税は,非居住者に対する国債の利子課税は免除されていました.
この間,国債の発行金利水準は,5%台を推移し,1810年には一端4%台前半に下落しますが,激戦となった1812年には再び5%台に戻ってしまいました.
1815年に戦争が終わると,金利は4.48%に落ち着くようになります.
こうして,Napoleonの没落と共に戦争は終わりますが,英国は世界各地に戦略的要衝を得たものの,国民の税負担は1800万ポンドから7800万ポンドに増大し,国債残高は2.4億ポンドから8.6億ポンドに達し,その利払費は9100万ポンドから3億ポンドに上りました.
英国政府は,戦時体制から平時体制に速やかに移行するため,1816年には所得税を廃止し,戦時麦芽税を廃止して1500万ポンドの減税を実施,これでも1821年には租税負担率は21.6%と,戦前の倍になっており,引き続き,麦芽税,塩税などの物品税を廃止していき,税収は減少を開始します.
また,戦争を避けて英国に逃避していた海外資産も順次,元の鞘に収まり,短期債券は1818年の国債金利3%台への復帰によって,長期借換えされ,大蔵省によって,3%国債と3%利下債の2700万ポンドについては,11ポンド支払えば3.5%利付で10年間償還が行われない国債への高利借換を実施して歳入を増やすことに成功します.
1821年に漸くイングランド銀行は金兌換を再開し,戦前と同じ経済活動が戻りますが,巨額の債務に関してはその償還は積極的に行われず,寧ろ税負担の軽減に国庫の余剰金は向かうことになります.
ちなみに,米国は関税の引き上げによって,南北戦争で累増した国債の償却を行っています.
英国が減債政策を採り始めるのは,1860年代になってからだったりするわけです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年02月06日22:08
【質問】
ナポレオンの軍隊は戦争に行っても,1ヶ月の内実際銃を撃つのは1~2日で,あとの20数日はひたすら歩き通していたとそうですが,毎日どれだけ歩くのでしょうか?
ネットで調べるとドーバー海峡からドイツまで600kmを1ヶ月で歩いたそうですが,大体1日20kmくらいですが,1日何時間くらい歩くのでしょうか?
当時はそれだけを歩くのためにどんなのカロリーの食事をしていたのでしょうか?
数時間ごとにトイレ休憩?みたいなものはあったのでしょうか?
歩きすぎてヘロヘロになって倒れたりしないのでしょうか?
脱落したらペナルティーはあったのでしょうか?
あとあの当時の兵士ってみんな室内で寝れるわけ無いと思いますが,野宿というか地面に毛布で包まって寝たのでしょうか?
寝袋みたいなものを使ったのでしょうか?
あと,部隊ごとテントみないなもので寝ていたのでしょうか?
【回答】
ナポレオンは知らないが,兵隊は歩くものだ.
行軍速度は完全武装で1日8時間程度で20kmなら,まあ普通.
カエサルは昼夜行軍で50km歩かせたことがある.
休みは数分の小休止から数十分の大休止まで,定期的に入れながら歩く.
日本陸軍には悪名高い六キロ行軍というのがあって,これは休憩まで含めて時速6km維持だから,行軍というよりランニング並の速度.
それで8時間で48kmを歩かせるというか走らせるわけだが,熱帯でこれをやると1割2割は脱落した.
これ以降は,というより二次大戦の時代,すでに列強では自動車による兵員輸送が基本になっていた.
日本陸軍の歩いた距離は,現代人の想像を絶する狂気の沙汰.
はだしのゲンで看板屋の社長が部下におんぶさせて,帝国陸軍の行進はこんな生易しいもんじゃないとか言っていたような・・・
歩兵で野宿は当たり前.
野営設備の充実度はその国による.
立派な幕舎を毎度こしらえる軍隊もあれば,毛布にくるまるだけの軍隊もある.
世界史板,2009/05/06(水)
青文字:加筆改修部分
【質問】
産業革命以前の世界で,戦時において一国が保有していた師団の最大数を教えて下さい.
【回答】
近代軍における師団(division)は18世紀半ば,フランスのサックス元帥により生み出され,1776年ギベールの軍制改革により取り入れられた.
それがナポレオン大陸軍により欧州中に広まった.
だから産業革命以前?に最大の師団数を持っていたのは,徴兵制を取っていたフランス大陸軍.
具体的な数まではわからない.というか総師団数は戦役により増減するので,ナポレオン自身も
わかんなかったかもしんない.
【関連リンク】
「ナポレオンとフランス革命前の軍事思想家達」
ちなみに上記論文は九州大学理学部物理学科助教授が「趣味」で書いたもの(笑)
【質問】
ヘルメットが一般的になる前,ナポレオン戦争時代とかの兵隊が被っていた帽子って,多少なりともの防御効果があるのでしょうか?
また,あれの正式な名前ってなんて言うんでしょうか?
【回答】
ヘルメットが一般化したのはWW1の頃だから,ナポレオン戦争の頃から100年近く期間があり,当然,帽子の種類も移り変わっている.
ひとまず,ナポレオン戦争当時のフランス軍が被っていた帽子はシャコ(筒帽)という.
防弾性などは無い.
銃の発達と共に鎧や兜が銃弾を防げなくなっていった時代なので,一部兵種を除いてあの時代の防御装備はかなり軽装.
帽子の下に鉄兜を被っていたとしても,どのくらい防げたか怪しいので…
(もっとも現代でもそれはほぼ同じだが)
確かに,昔から皮は防刃効果があるので帽子,胴衣などに使われてきた.
多少の緩衝作用もある.
銃弾に対しても拳銃弾程度だと,革のジャケットはそこそこの効果(止められはしないが)がある.
あちこちに当たりやすい頭部の保護にも多少はなるだろう.
しかし,シャコみたいな帽子だと,乱戦時には脱げるだけ,邪魔になるだけで,効果はゼロとは言わないまでも
,マグレみたいなもんだろ.
この場合,帽子の大事な効果は「防寒」だよ.
彼らは防御のためではなく,防寒のために帽子を必要とした.
雨除けとしても大事.
もちろん既出のさまざまな目的もあるが,命令されなくても,なんとかして帽子を手に入れて使っただろう.
あと,あの時代の軍服や帽子は,双方の銃の発砲煙で煙幕状態になってしまい,視界が悪くなるんで敵味方の識別や,指揮官が戦況を把握しやすいように,派手・特徴的なデザイン重視のものを着用していた.
ナポレオン軍の帽子
(作・ミリグラム)
【質問】
姓の使用が一般化したのはナポレオン時代から?
【回答】
徴兵を含む富国強兵政策上都合が良かったため,ナポレオン民法典で義務化され,それが他の近代国家にも普及していった.
***
民法750条の規定と言うのは夫婦の氏について規定した項目で,現在はこの様に書かれて居ます.
夫婦は,婚姻の際に定めるところに従い,夫又は妻の氏を称する.
法律用語では「氏」ですが,普通の日本語ではこれは「姓」と呼んでいます.
「姓」と言うのは広辞苑では,「一族.家すじ.氏.苗字.」と書かれており,「氏」は,「同じ血族の集団.それを表示する名.うじ.姓(せい)」で,姓と氏を同意義に解釈していますが,古代中国では姓と氏と名字とは全く違うものです.
但し,時代と共にこれが日本語化されてくると,姓と氏が同一視されるばかりではなく,家の名に当る家号の部分も名字と言う形になっていきます.
姓を「苗字」と言う事もありますが,これも,「苗」と言う文字に苗裔(血筋,遠い子孫)と言う意義があることから,当て字に用いたのが定着したのではないかと言われています.
中国や朝鮮では,「氏名」とは言わず,「姓名」と言います.
英語ではfamily nameと言い,これが中国や朝鮮の人々にとっては一番すんなり理解出来る言葉だそうです.
しかし,英国人は通常Surnameを用い,米国人の場合はLast
Nameを用い,フランス語はNomと称しています.
個人名のことは,英国人はGiven NameまたはChristian
nameと言い,米国人はFirst name,Second name,またはMiddle
nameの語を良く用い,フランス語はPrenomと称しています.
このうち,東洋圏の人々が理解出来るのは,Given
Name,つまり,親から与えられた名と言う意味で,First
nameやらChristian nameは理解しにくいとされています.
姓の利用は,紀元前5世紀の中国が最も早いと言われています.
ヴェトナムや朝鮮では,その影響を受けて,紀元10世紀頃には庶民でも姓名の使用が開始されています.
欧州では,紀元前2~3世紀頃のローマ貴族の間で家名(姓)を用いていますが,5世紀の西ローマ帝国滅亡によりその使用が廃れ,9世紀に入って再び復活しています.
但し,庶民に広まるまでには至らず,上流階級の中の狭い部分に限られていた様です.
ゲルマン民族は13世紀から地方豪族,貴族間での姓の使用が確認されていますが,一般庶民には未だ受容れられていません.
姓の使用が一般化したのは,1804年のナポレオン民法典で,全国民に対し,家系の名としての姓を,同一家族の子々孫々が代々相続して名乗るように義務づけてからです.
このナポレオン民法典は,フランスだけでなく,当時ナポレオンが影響力を行使していた各国に対しても効力を発し,各国の国民も同様に,姓のない者は姓を創って名と共に名乗る事を命じました.
以後欧米各国では,,創姓使用の気運が波及し,20世紀に入るとそれが全世界に拡大していきます.
これは国民皆兵の徴兵義務合理化や効率的な徴税方法の開発など,近代国家組織を整備する為の行政の必要性から生じたものです.
日本では,従来から農民でも「姓」は持っていましたが,公然と姓を名乗る事になったのは,1875年2月13日の太政官布告からです.
これも,富国強兵政策など近代化政策を進める上での必要性から行われたものです.
アジア地域では,1944年にラオスが創姓を国民に奨め,1916年にタイが創姓普及運動を開始,インドは英国の進出に伴い,18世紀後半から徐々に東インド北部から姓の使用が広がり,19世紀後半に掛け,北部インドや西部インドに向けて広がっています.
イスラーム圏にあるトルコについても,1934年から1936年の間に全国民に創姓登録を行う運動が開始され,これに刺激を受け,イランやアフガーンでも相次いで創姓運動が起こりました.
とは言え,未だに姓を用いていない国も多く,アジア地域では,ミャンマー人全部,インドネシア人の95%,マレーシア人の大部分,アフガーンの各部族の多数,パキスタン人の相当数,ラオス人の約30%が個人名のみで社会生活を営んでいます.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/09/20 21:40
青文字:加筆改修部分
【質問】
19世紀の軍事について質問です
オーストリアの本読んでて,兵の士気についてこんな内容があったのですが
「兵士の士気が低くて散開させると逃亡する恐れがあったので,ライフル銃の導入に躊躇するほどだった」
・・・すいません,意味がよくわかりません(汗
分かる方いたら教えてください.
【回答】
19世紀に,それまでのマスケット銃に代わってライフル銃が登場しました.
尖頭弾,ライフリング等の新技術の導入や,工作精度の向上などによって,射程と命中精度が格段に向上しました.
それによって,散開して敵を一人一人狙い打ちにするという戦い方ができるようになりました.
言い換えれば,そういう戦い方をしないと,新式のライフル銃も旧式のマスケット銃と大差ないわけです.
それをふまえて考えると(ほかの部分も読んでみないことには確かなことは言えませんが),
ライフル銃を有効に活用するためには散開隊形をとる必要があるが,兵士を散開させると逃亡する恐れがある.
じゃあ,ライフル銃なんか導入しても,ちゃんと運用できないよなあ……という考えで,ライフル銃の導入に躊躇した,ってことだと思います.
上の言葉をひっくり返すと
「散兵戦術やれないならライフル無くてもいいや」
ってことになるけど,
これは,当時のライフルは従来の銃より弾込めに時間がかかる(2倍はかかるという記述も)という欠点があったから.
従来の集団で集団を狙う用法ではそれほど優秀でもないわけ.
もともとライフルを用いた散兵戦術の有効性が確認されたのはアメリカ独立戦争.
狩猟の経験をそのまま軍事に活かせるところが訓練不足のアメリカ軍にとってよかったらしい.
(ライフル銃はもともと猟銃として発展した.15世紀には既に考案されていたそうな)
【参考画像】
ハンガリー歩兵
【質問】
散兵戦術は対砲兵用の戦術だったのでは?
【回答】
確かに散兵戦術は砲兵(及び機関砲)による損害を減らせるけど,必ずしもそのために誕生したとは言い切れない.
横隊戦術が廃れて散兵戦術のみが残った理由は,確かにそうだけど.
【質問】
プロイセンとオーストリアの国力が逆転したのは,いつごろからか?
【回答】
19世紀に入ってからだという.
以下引用.
1740年代から1870年代まで,オーストリアの北方には最大のライバル,プロイセンがいた.
この時期を通じて,プロイセンの潜在的な資源や歳入は,ハプスブルクよりも遥かに劣っていた.
例えば1788年,ウィーンはベルリンの歳入の2倍,兵士の数でも50%上回っていた.
しかし19世紀になると,ドイツ北部の経済はオーストリアよりも急速に工業化した.
さらに重要だったのは,プロイセンが常に,オーストリアよりも軍事的・財政的資源を効果的かつ冷静,理知的に動員し,利用したことである.
1500年から1914年まで,ウィーンはオスマン軍に2度に渡って包囲され,フランス軍に同じく2回占領され,プロイセン軍には18世紀半ばと1866年の2回,占領の一歩手前まで迫られた.
これに対し,オーストリア軍は一度としてコンスタンチノープルやベルリンに迫ることはなく,1814年にようやくパリに入城できたのも,ロシア,プロイセン,イギリスとの同盟のおかげだった.
Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)上巻,p.306
【質問】
ドイツは「参謀本部」というものを発明したらしいですが,
1.これはいったい何が新しかったのか?
2.なんでドイツはこんなものを発明しようと思ったのか?
3.どういった面でこのシステムが有利に働いたのか?
について教えてください.
【回答】
1. 参謀本部の雛形が生まれたのはナポレオン戦争時代.
当時,参謀は司令官の命令を筆記したり,命じられたことをそのまま実行する側近という存在でした.
これに対しプロイセンの参謀は作戦の立案,補給の管理,移動計画の作成,他部隊の調整といった作業を分担して行い,司令官の負担を軽減しました.
今では官民どこでも当たり前の,こうしたスタッフはこのとき生まれたのです.
2. 当時プロイセンなどの反フランス勢はナポレオンという天才的司令官に翻弄され,これに対抗するためです.
3. 共通の教育を受けたスタッフが配属されることで各地域の部隊間で意思の疎通が図られ,大勢のスタッフが分担して作業を行うことで情報や命令の伝達速度が増し,部隊の機動性が増加,司令官が決断に専念できるため,自身の本来の能力を発揮できる,などです.
そして,後に戦争の規模がさらに拡大していくと,司令部の負担する作業が膨大となり,現在に至るまで,参謀の存在は不可欠となったわけです.
【質問】
パリの凱旋門とかって「門」という割には門扉もないし,そもそもシャンゼリゼ通りのど真ん中じゃ
,門っていうのはおかしい気もするんですが,これは何か意味あるんでしょうか?
【回答】
凱旋門の歴史は,ローマ時代に遡ります.
凱旋門は,どれも軍の指揮官としての皇帝の戦勝を記念して,フォロ・ロマーノに抜けるように建造されました.
では,なぜフォロ・ロマーノに抜けるような門を建てたのか?という疑問ですが,これには,古代ローマの凱旋式の性質と関係があるように思われます.
通常,軍人は,武装したまま,市内に立入ることは禁止されていました.
しかし凱旋式のときは,軍の指揮官は,武装し,戦車に乗って,フォロ・ロマーノに入ることができました.
凱旋門は,この軍人としての栄誉ある市内への入場を記念したものだと思います.
門というのは市内へのエントランスですから,凱旋の記念碑としては,門を建造するのがもってこいだったのでしょう.
こうして,記念碑のようなド派手な門が建造されたのだと思います.
おそらく,ナポレオンは,古代ローマの栄華をパリに再現したかったのだと思います.
彼はローマの美術品を略奪するなどして,古代ローマへの強い関心を見せておりますし.
ただ彼自身が,どこまでローマの凱旋門の歴史や意味を知っていたかは,わかりません.
私は,フォロ・ロマーノと凱旋式の関係から,凱旋門の意味を推測してみましたが,
実はローマ以外の都市にも凱旋門は存在するので,それらをナポレオンが知っていれば,
「ローマ風の都市計画=凱旋門」
と紋切り型にに判断したかもしれません.
凱旋門をくぐって出陣し,またそこをくぐって帰還するのが,彼の夢だったのでしょうか….
【質問】
18世紀末~19世紀初頭の戦列艦やフリゲイトは,なぜ砲塔式ではなく,舷側に数十門も砲を並べる搭載方式だったのか?
【回答】
「下手な鉄砲,数撃ちゃ当たる」に適していたため.
以下,その根拠.
初期の大砲には照準機能は殆どないに等しく,砲身の方向と仰角を経験的に調整し,あとは命中弾を得るまで繰り返し射撃するしかなかった.
しかも当時の艦船は小さく,波による動揺も大きかった.
帆船であるから高いマストや多くの索を持ち,それらに風を受けることによる動揺もあった.
照準装置のない砲と,揺れる船体.
これでは射撃精度に多くを期待する事はできず,砲の数を増やすことによって命中弾を得ようとするしかなかった.
かくして戦列艦やフリゲイトは,数十門の砲を舷側に並べることになった.
遠距離からの射撃も行われたが,これらの砲が威力を発揮するのは,外れようもないほど接近してからであった.
当然,その距離では敵の砲撃も外れないわけで,自分が致命的な損傷を受ける前に敵の戦闘能力を奪うためにも,多数の砲が求められたのだろう.
そのような状況では,射撃の威力は,照準よりもむしろ発射速度によって決まることになる.1門当たり数名の砲手達の装弾・装薬作業が遅れず乱れないように監督・指揮し,しかも周囲に敵弾が命中して木片が飛び散る中でも,戦意を失わずに発射を続けさせることが,この時代の射撃指揮であった.
したがって,砲手達の作業に怒声を飛ばして叱咤し,時には鞭で脅かす掌砲下士官達が,当時の最高水準の「射撃指揮装置」だったのだろう.彼ら掌砲下士官が部下に与える訓練の成果と,部下を掌握している程度が,射撃の成果を決定したのである.
(岡部いさく from 「世界の艦船」,海人社,2003/10,p.69-70,抜粋要約)
射撃を行う場合,艦上で目標を照準する方法は,極めて大雑把だった.照準器というものはまだ存在しなかったし,目標までの距離がポイント・ブランク距離 Point Blank Range ――砲弾が海面に落下する距離――以下であっても,非常に近くなければ目標に砲弾が当たるということは偶然に近かった.
照準は,射手の目を砲身の中心線に平行に,砲身の外側の仮想的な線を目標まで延長することにより行っていた.この場合,砲口外径は砲尾外径より細くなっているので,仮想的な線の傾斜を補正しなければならない.
砲尾と砲口との肉厚の差を補正するため,砲口または砲身の中心部付近にディスパート・サイト Dispart Sight と呼ばれる割れ目を入れた固定部,すなわち照星を設ける必要性が認識されたのは,比較的早い時期からであったと思われ,17世紀の砲射撃に関する数件の文献に記載されている.
しかしながら,相手の顔が判別可能なほどの近距離での射撃では,ディスパート・サイトが一般的に使用される事は少なかった.
18世紀頃の砲照準に使用された唯一の方法は,砲尾環に刻まれたクォーター・サイト・スケール Quarter Sight Scale を利用することだった.
これは砲尾環に水平の位置から2-3度の仰角までクォーター度,すなわち4分の1度(=25分)毎に刻み目を入れ,この刻み目と砲口環上の一点とを結んで照準線を構成するのである.
照準線設定後,船の動揺にどのように対処するかということも大きな問題だった.
当時の砲は一般的に,方針は舷側の砲門から突き出ており,戦隊がロール(横動揺)すると砲身は上下する.
砲身がほぼ水平(海面にほぼ並行)になったことを見計らって発射しても,特に火縄式着火の場合には作動遅れから,砲弾は目標より高く飛び上がったり,または海面に突入することが多い.
砲身が下から上へ上がる場合(アップ・ロール)と上から下へ下がる場合(ダウン・ロール)のどちらの瞬間を捉えて射撃するかという問題は,18世紀初頭から議論があったらしい.
アップ・ロール射撃は,ヤードや索具など帆装を破壊するフランス海軍の戦術に好都合であり,ダウン・ロール射撃は英海軍の船体破壊戦術に適していたと言われている.
艦載砲や砲術をリードしていた英海軍で,砲尾環の刻み目や照準器のことが真面目に考えられ,その結果,正確な照準線を構成して砲に必要な府仰角を与えるために様々な道具が考案されるようになったのは,フランスとの戦争(ナポレオン戦争)が終結〔1815年)してからだった.
19世紀初頭,英海軍ではネルソン海将に照準器使用が提案されたが,反応は好意的ではなく,
「我々の船はいつものように敵に十分接近するので,目標を撃ち損じる事はありえない」
というような返事であったという.
ネルソンといえども,何らかの道具を使用して射撃命中率を上げるとか,射距離を延伸するというような事は考えなかったらしい.
1805/10/21,スペイン南部,トラファルガー岬沖でネルソン指揮下のイギリス艦隊とフランス・スペイン連合艦隊が激突した.
両艦隊が接近し,フランス・スペイン連合艦隊は1000ヤード以上の距離から発砲したが,当然,命中弾はなかった.
一方,イギリス艦隊は,敵から浴びせられる砲弾の中を接近し,ネルソンの近距離射撃という戦術通り確実に命中弾を得て,大勝利を収めることになる.
(多田智彦,同 p.77)
【質問】
タンジェント照準器 Tangent Sight とは?
【回答】
多田智彦(防衛技術研究家)の解説によれば,以下の通り.
19世紀初頭に艦砲にも活用されたと想像される照準器.艦船における砲射撃のための初めての道具と言える.
タンジェント照準器は,砲尾環に取りつけて高さを変える事のできる金属柱である.
金属柱の頂部(照門に相当)を砲口環または砲身長手方向のほぼ中央部(耳軸近辺)に取りつけたディスパート・サイト(照星に相当)とによって照準線を構成するが,高さを加減することによって砲の仰俯角(すなわち射角)を変化させるようにした.
つまり,所定の高さの金属柱の頂部(照門)から目標が照準できるように,砲の仰俯角を設定するのである.
ある種類のタンジェント照準器は黄銅製の六角柱で,その一面には角度目盛が刻まれている.
残りの5面には,各々異なった発射薬量と砲弾種類に応じた距離目盛が刻まれている.
射撃時には,該当する面(発射薬量と砲弾種類)の射距離目盛と第1面の角度目盛とを対応させ,射撃に必要な距離から角度,すなわち砲身設定に必要な仰俯角度を読み取るのである.
このタンジェント照準器では,仰角5度までが対応可能だったが,それ以上の仰角が必要なときには,木製のタンジェント目盛尺を使用して,10度や12度の仰角に対応した.
木製タンジェント照準器は,砲架のステップに垂直になるように取りつけ,船体の傾斜を示す振り子と共に使用された.
また,今日で言うライフル・スコープのような照準器も発明され,1830年代に使用されたが,前装砲は再装填のため,砲架を前後に移動するたびに設定が狂うことが多かったので,間もなく使用されなくなった.
タンジェント照準器使用により,海面に対してほぼ水平の位置に設定していた砲身の角度を上げて射撃するようになったということは,射距離延伸の点では大いなる前進だが,それを有効利用するためには,射撃前に目標距離を把握しておかなければならない.
当時の目標距離測定は,自艦上から六分儀で目標艦のマストまたはその他の部分で高さの分かっている箇所を見込む角度(仰角)を測定する,自艦の艦首と艦尾から目標を見込む角度(旋回角)を測定する,または自艦のマスト上から目標を見込む角度(俯角)を測定するなど,三角法で距離を計算して求める方法が取られた.
特に最初の方法では,目標艦の各部寸法を知っておく必要があるが,英海軍では仮想敵国フランスの各種艦船の寸法詳細を入手していたようだ.
19世紀半ば頃の120門搭載のフランス戦列艦について,三本の帆柱各部の他,砲門など低い位置にある部分も含め,合計28ヶ所もの海面上の高さを英海軍が把握していたことが記録されている.
この三角法を利用するという目標距離測定方法は,19世紀末に現れる目標距離測定専用装置である測距儀 Range Finder 開発に繋がるのである.
このように射撃のための道具を利用するようになった結果,19世紀半ばにはポイント・ブランク距離より長い距離での射撃が可能になったはずであるが,トラファルガー海戦(1805年)以降は大きな海戦がなかったため,実戦での射距離記録が残っていない.
一説によると,英海軍では1200ヤード以上での射撃が推奨されていたが,船体動揺や発砲時の煙の影響で,有効射距離はせいぜい700ヤード程度ではなかったかと想像される.
(from 「世界の艦船」,海人社,2003/10,p.78)
【質問】
廃れていた騎兵をナポレオンが復活させた,って本当?
【回答】
16世紀に,テルシオの発達と共に騎兵が一時的に衰退したのは事実ですが,ナポレオンの150年前のグスタフ・アドルフの時代には,三兵戦術が編み出され,騎兵は復活しています.
トビ in FAQ BBS,2009年9月16日(水) 21時7分
青文字:加筆改修部分
三兵戦術の騎兵は,あくまで衝撃力を期待した突撃兵力としての復活であって,非西洋的な弓騎兵的(ただし銃使用)な物がそれ以前に続いていたような.
(兵器と戦術の日本史 あるいは 兵器と戦術の世界史 あたりの記述だったと思いますが,確証なし)
bugaisha in FAQ BBS,2009年9月22日(火) 10時57分
青文字:加筆改修部分
【質問】
ナポレオン戦争の頃の戦記ものとかの記述を見ると,よく大砲を何門も鹵獲or破棄したって描写が見られます.
なんでそんな簡単に分捕られたり破棄したりするのでしょうか?
【回答】
重たい大砲が,まだゴム車輪も無い台車の上に乗っかってるんだ.
おまけに道はろくに舗装されてもいない田舎道.時には泥濘.
動かすのは大変で,逃げるときともなればもっていけるはずも無い.
しかも,直接照準で馬匹又は人力牽引の砲なので.鈍重な上に割と最前線近くで撃ってるから,敵陣を崩せば鹵獲も可能だった.
逆に自軍が追撃されている時は放棄せざるを得ないことが多いので,可能なら敵に利用されないように砲を破壊する.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
ナポレオン時代に既にロケット砲部隊がいたと聞きましたが…?
【回答】
子供の頃,学研の「宇宙」「飛行機・ロケット」図鑑の隅っこに載っている,あの心踊る赤服の英国兵が,斜面にロケット花火ならべて撃っている絵の元ネタですが,あれはどうも,1805-1815の英国とオーストリア2カ国のみで使われた,Sir
William Congreveいう人が発明したロケット砲部隊のようです.
デビュー戦は当然,1805/sep.~/dec.にかけてのオーストリア・キャンペーンでしょうが,1814年頃には完成の域をみてたようです.
172人のロケット部隊が,車両も使わず840本のロケットを運べたという簡便性が売り物でしょう.
また,弾頭も,当時の大砲砲弾とおなじ,32,24,18,6ポンドとなってます.
参考文献
P.J.Haythornthwaite「Weapons & Equipment
of the Napoleonic wars」
軍事板,2003/02/21
青文字:加筆改修部分
【質問】
ナポレオン軍は気球を使わなかったの?
【回答】
エコール・ド・ポリテクとか工兵技術や砲兵学校の造営には熱心だったようですが,よくいわれるとおりブルネイだったかの潜水艦や,フランス革命時の第1気球観測中隊(1er
Compagnie d'Aerostiers 創設1794/3/23)の継承や支援には,ナポレオンはあまり熱心じゃなかったようですね.
第1気球観測中隊(1794-1799)には
L'Entreprenant(エンタープライズ号),
Celeste(北極星号?),
Hercule(ヘラクレス号),
Intrepide(イントレピッド無敵号)
の4つの気球が存在.
エジプト遠征にナポレオンはうち1個もちだしたが,うまく活用できなかったようです.
部隊は1799年解体.
以降,普仏戦争の有名な内相ガンベッタの脱出の頃まで使われなかったようです.
参考文献
P.J.Haythornthwaite「Weapons & Equipment
of the Napoleonic wars」
ナポレオンと科学技術 : 軍事板,2003/02/17
青文字:加筆改修部分
【質問】
ハイドンって誰?
【回答】
フランツ・ヨーゼフ・ハイドン Franz Joseph
Haydn(1732~1809)は,ウィーン南東,ローラウ村生まれの作曲家.
1761年,オーストリア東端のアイゼンシュタットに居城をもつハンガリー貴族パウル・アントン・エステルハージ侯爵の副楽長に採用されるまでは,定職のないフリーの音楽家として苦労していた.
晩年のハイドンはミサ曲の創作にむかい,また,ナポレオン軍のオーストリア侵攻に対抗して書いた「神よ,皇帝フランツを護りたまえ」は,のちにオーストリア国歌そして現在のドイツ国歌とった.
【質問】
ウィーン体制について勉強しているのですが,邦語文献で何かありませんか?
今持っているのは,『キッシンジャー 回復された世界平和』と,高坂正尭の『古典外交の成熟と崩壊』だけです.
【回答】
ウィーン体制とは何か? : ポール・W・シュローダーの議論を中心に
桃井 治郎
ciniiでオープンアクセスなのは3件.
貴方の関心分野に一番近いのは↑と思われる.
次いで「ウィーン会議」で検索すると,下記のように史跡めぐりもある.
『インターネットでめぐるフランス革命とナポレオン戦争関係の史跡』
軽部 恵子
他に「タレーラン」「正統主義」「神聖同盟」等うまく単語をひねり出してみては.只ですぐ読めるものだけでも,もっと見つかると思う.
何の単語が良いのか分からないなら,とりあえず19世紀の世界史(西欧史)をまとめた趣味サイトや,大学の講義ノートのサイトに行って,関連しそうな単語の収集を行う.
その上で,ciniiや他の学術データベースに放り込んでみる.
煮詰まったら一晩置いて,また検索にチャレンジ.
収集した文献に新しい言葉があったら,またそれを放り込んでチャレンジ.
これを繰り返してるだけで,結構楽しいよね.
岩見浩造 ◆Pazz3kzZyM :軍事板,2011/07/07(木)
青文字:加筆改修部分
ただし,岩見浩造なる人物の情報は,(1)自作自演さえ行うなどして,(2)無意味で過剰な攻撃性を見せ,(3)事実無根の言いがかりも,無視できない数含まれる――といった点から考えて,バイアスが強いと推測されるため,鵜呑みは避けたほうが賢明な模様.
その信頼性についての考察は,こちらを参照されたし.