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◆戦史 1895-1910年 Hadtörténelem 1895-1912
<戦史FAQ目次 Hadtörténelem GYIK Index
19世紀末の英国紳士
(うそ)
(朝目新聞より引用)
「2ch.軍事板」◆(2003/03/08~) 米西戦争を語るスレ
レス回収済
「朝目新聞」(2013/06/28)●『八甲田山の惨劇』 行軍開始30時間で発狂者が続出,210名中199名死亡 惨劇は何故起きたのか? (of 哲学ニュースnwk)
『岡義武著作集』書評――昭和の悲劇の種は,すべて大正時代にあった
< 塩津計
『岡義武著作集』書評――日本の政治システムを作った男と壊した男
< 塩津計
『指揮官の決断』(山下康博著,中経出版,2008年)
〔略〕
八甲田の惨劇は教訓として存分に生かされ,2年後に開戦した日露戦争で大いに役立った.
しかし,あまり知られていない事実であるが,青森五連隊が遭難したちょうど同時期,実は同じ師団の弘前三十一連隊が,ちょうど逆コースで十和田湖を経由する八甲田越えに挑戦しており,12日かけて,脚気で途中下山したわずか1名を除いて,1人の死傷者を出すこともなく,見事に成功する快挙を成し遂げていたのである.
本書は,弘前隊の指揮官であった福島泰蔵大尉の伝記も兼ね,青森隊と弘前隊を比較することによって,両者が明暗を分けた理由や,その後に与えた影響などを幅広く考察したものである.
青森隊と弘前隊は,行軍の目的や隊の編成・規模も異なるので,単純には比較できないのであるが,それでも事前にかけた準備の量があまりにも違っていたということは確実に言えるそうである.
弘前隊は,それまでに真冬の岩木山を踏破したり,夏の十和田湖に挑戦するなどして,事前に十分に練習を重ね,地元の住民によく調査して,冬山の歩き方や寒さのしのぎ方など,多数の情報を入手して入念な研究を重ねていた.
対して青森隊は,わずか2泊3日で温泉地まで行軍するといった,一見簡単に見える演習に油断し,事前の対策を怠ったばかりか,出発前日の壮行会で朝まで酒を飲んで寝不足と二日酔いで挑んだ隊員も多数存在したそうである.
中でも,山の地形に詳しい地元民を案内人に雇ったか否かが決定打となったらしい.
青森隊は,せっかく案内を申し出た地元民に,
「お前はただ金がほしいだけであろう」
と怒鳴りつけて退けたそうである.
単なる伝記を超えて,現代の我々に多くの教訓を教えてくれる,お勧めの1冊です.
福島泰蔵大尉は優れた軍人であったが,組織の中では波風を起こしがちな人物であったらしく,八甲田越え成功の後に,だめな上官と衝突し,閑職に左遷される.
そして日露戦争で壮絶な戦死を遂げる.
彼もまた,明治の男であり,悲劇の人物であった.
――――――「はむはむの煩悩」,2008年10月20日 (月)
『山県有朋 愚直な権力者の生涯』(伊藤之雄著,文春新書,2009.2)
『ヨーロッパの百年』(ヘールト・マック著,徳間書店,2009.6)
読み始めたんだが,面白い.
同時代の様々な地域を同時に書くことで,ヨーロッパの20世紀を俯瞰的に描写している.
まだ上巻だけど,ヨーロッパ現代史への良いとっかかりになっている.
惜しむらくは,作者の旅行に合わせて都市の様子が書かれているので,欧州史に詳しくない身としては,現代なのか過去なのか区別が付きづらくなることが時々ある.
------------------軍事板,2011/08/29(月)
青文字:加筆改修部分
【質問】
ガダルカナル島での,オーストリア海軍と原住民との衝突について教えてください.
【回答】
1895年にオーストリア海軍の砲艦「アルバトロス(Albatros)」が地質学者のHeinrich
Foullon von Norbeeckらを乗せて太平洋のソロモン諸島へ向かいました.
しかし1896年5月,Foullonは同諸島のガダルカナル島で原住民の待ち伏せ・襲撃にあって死亡.
その後,アルバトロスから派遣されたオーストリア軍は原住民との小競り合いを展開し,オーストリア側は兵学校の士官候補生1人と水兵2人が殺され,数名が傷を追ったようです.
その後オーストリア砲艦は,オーストラリアのシドニーを訪問して数ヶ月滞在した後,シンガポールとインド洋経由で帰国の途につきました.
これは,当時のオーストリア産業界と海軍が南太平洋諸島に関心を抱き,調査隊が派遣された折に起きた出来事でした.
【質問】
「世界で一番短い戦争」がギネスに載っているそうですが,その詳細を教えてください.
【回答】
英国の軍艦が1896年8月27日の9時にザンジバル島を砲撃して,9時45分にザンジバルが降伏したのが,歴史上最短の戦争です.
ドイツと英国は数年間東アフリカの海岸の小さな島ザンジバルに関する領土紛争で争っていました.
1880年代後半から1890年代の初頭にかけて,島は英国の管理下に徐々に置かれました.
この間ザンジバルのスルタン(イスラム圏の君主)は従順に英国の命令に従いました.
しかしながら,スルタンが1896年に死んだ時,彼の次男は王位を簒奪しました.そしてドイツの支援で,彼は新しいスルタンである事を宣言しました.
英国はザンジバルがドイツの支配下におかれることを懸念し,新しいスルタンに退位を迫りました.
しかしスルタンは退位を拒否し,2,500人の兵士を集め,旧式の青銅製カノン砲(1658年以来発射されていなかった!)を再配備しました.
これに対抗して英国は,沖に停泊した一群の軍艦から島を砲撃し始めました.
スルタンは報復の有効な手段を持っておらず,45分後に降伏しました.http://www.guinnessworldrecords.com/
【質問】
アントニオ・コンセリェイロとは?
【回答】
ブラジルの宗教指導者(1828-97).
1896-97年,アンティクリストと断定して新しい共和政府の政策に反対し,バイーア州カヌードスにおける農民反乱の先頭に立ったが,失敗して壮絶な死を遂げた.
(J. L. ボルヘス Borges 「伝奇集」,岩波文庫,1993/11/16, p.260訳注)
【質問】
「ハワイ諸島がアメリカの州として組み込まれたのは,ほっておいたら,そのうち日本が占領して領土にしてしまうからとの危惧から,当時のアメリカ首脳陣が判断したため」
というのは本当でしょうか?
【回答】
アメリカのハワイ併合(1898年)は,その前にハワイ共和国っていう白人支配の国が出来てて,そこからの「要請」に応じるかたちで併合している.
つまり最初からアメリカ併合のための土台は出来上がっていたので,
「日本がハワイを併合してしまう!」
なんて最初から思ってなかった.
日本とハワイ王朝の接近は,あまりいい目で見て無かったろうけど.
当のハワイが,第7代国王カラカウア王(1836~1891年)の下,何とかしてアメリカからの合併を阻止したくて,日本に歩み寄っていたというのも事実で,1881年(明治14年),外国元首としては初めて来日し,赤坂離宮で明治天皇と会見.
王は明治政府に対し,それまで日本と締結されていたハワイ側有利の不平等条約を改正し,諸外国としては初めて日本に対し不平等条約撤廃をした.
これは,白人支配が強まる中,日本の支援と,さらに日本人からの移民をしてもらうことで,勢力均衡を図ろうという王の考え.
さらに自分の姪と,日本の皇室の男性(山階宮定麿親王)と姻戚関係を結び,生まれた子供に王位を継がせ,究極的には日本とハワイで合併しましょうと提案したが,これは断られた.
姻戚関係を結んでしまうと,日本とアメリカの関係が悪化してしまうからだ.
【質問】
米西戦争って何?
【回答】
1998年6月,突如キューバに集結していたスペイン軍50万が,アメリカ東海岸に上陸.
アメリカは防戦一方の戦いを強いられ,一般市民を含む,20万人の死傷者が出た.
1年後,講和条約締結.
スペインにフィリピン,プエルトリコ,グアムが割譲された.
(うそ)
米西戦争(Spanish-American War)は,1898年にキューバとフィリピンを舞台に,アメリカとスペインの間で戦われた戦争,
キューバ独立戦争におけるスペイン軍の残虐行為によって,アメリカにおける反スペイン感情が高まってきたところに持ってきて,たまたま,アメリカ海軍の戦艦「メイン」号がハバナ湾で爆発.
アメリカの新聞が「爆沈はスペインの卑劣なサボタージュによるものだ」と書き立てたことで,アメリカ世論では主戦論が高まり,マッキンレー大統領は,「キューバの自由と独立のため」米軍の介入を決定.
スペインとの全面戦争に突入した.
5/1のマニラ湾海戦で,スペイン艦隊は米艦隊に敗北し,米軍の支援を受けたフィリピン独立軍がスペイン軍を攻撃して,7月には独立を宣言.
米軍も6/30には先発部隊が上陸し,8/14には,フィリピン駐留のスペイン軍は降伏した.
一方,キューバでは,7/3のサンチャゴ海戦において,封鎖されていたハバナ湾から脱出しようとしたスペイン艦隊が,米艦隊に捕捉されて壊滅.
7月中には米軍はキューバを占領して,7/25にはプエルトリコへも米軍は上陸した.
ついでに6/20には,グアムも占領している.
スペインは艦隊を喪失して継戦能力がなくなり,8/12には交戦は自然停止.
12/10のパリ条約調印により,手続き上の終戦を迎えた.
もし米西戦争が無かったら
・キューバ,フィリピンはそう遠くない内に独立すると思われるが,特にフィリピンは米国の影響力が殆ど無い.
・南洋諸島がドイツ領にならず,必然的に第一次大戦でも中立地域であるため,日本が南洋諸島を領土に出来ない.
・ハワイの米国併合が無くなる・・・とまでは行かなくとも遅れる.
・パナマ運河工事着工が遅れる.
こう考えてみると,二十世紀の太平洋は全く別物になったんだなあ.
逆にスペインがあっさり手を挙げて,キューバの独立を承認していたら,フィリピンや南洋諸島を失わずに済んだろうね.
軍事板,2003/03/09-03/12
青文字:加筆改修部分
【質問】
サンチャゴ海戦における,米西両艦隊の兵力は?
【回答】
アメリカ海軍
North Atlantic Squadron (Rear Admiral William
Thomas Sampson)
Armored Cruiser NEW YORK (ACR-2)
: 8,150 tons, 21 knots, 6x8", 12x4".
Battleship IOWA (BB-4) :
11,410 tons, 16 knots, 4x12", 8x8",
6x4".
Battleship INDIANA (BB-1) :
10,288 tons, 15 knots, 4x13", 8x8",
4x6".
Battleship OREGON (BB-3)
: 10,288 tons, 15 knots, 4x13", 8x8",
4x6".
Armed Yacht GLOUCESTER :
786 tons, 17 knots.
Flying Squadron (Commodore Winfield Scott
Schley)
Armored Cruiser BROOKLYN (ACR-3) :
9,215 tons, 21 knots, 8x8", 12x5".
2nd class Battleship TEXAS
: 6,315 tons, 17 knots, 2x12", 6x6".
Battleship MASSACHUSETTS (BB-2)
: 10,288 tons, 15 knots, 4x13", 8x8",
4x6".(給炭中で戦闘には不参加)
Armed Yacht VIXEN :
806 tons, 16 knots.
スペイン海軍(Admiral Pascual Cervera)
Armored Cruiser INFANTA MARIA TERESA :
6,890 tons, 20 knots, 2x11", 10x5.5".
Armored Cruiser ALMIRANTE OQUENDO :
6,890 tons, 20 knots, 2x11", 10x5.5".
Armored Cruiser VIZCAYA
: 6,890 tons, 20 knots, 2x11", 10x5.5".
Armored Cruiser CRISTOBAL COLON
: 6,840 tons, 20 knots, 2x10"(未装備),
10x6", 6x4.7".
Torpedo Boat Destroyer PLUTON :
400 tons, 30 knots, 2x14"TT.
Torpedo Boat Destroyer FUROR :
370 tons, 28 knots, 2x14"TT.
米海軍は4隻の戦艦と2隻の装甲巡洋艦を主力としていたのに対し,スペインは装甲巡洋艦4隻.
とても勝負にならない.
スペイン側の優位点は,艦隊速度が5ノット速い事と,駆逐艦(当時は水雷艇駆逐艇)を持っている事だけ.
アメリカ側も駆逐艦には警戒していたそうだ.
また,スペインの装甲巡洋艦「クリストバル・コロン」のベース艦である,イタリアのジュゼッペ・ガリバルディの兵装は,8インチ連装+10インチ単装.
春日と同じ.
しかし「クリストバル・コロン」は,10インチ単装砲を積んでおらず,副砲だけで頑張った.
軍事板,2003/03/
青文字:加筆改修部分
【質問 kérdés】
装甲巡洋艦「ニューヨーク」について4行で教えてください.
Kérem, mondja meg páncélozott cirkálóról megy sorokban.
【回答 válasz】
ニューヨーク ACR-2 はアメリカ海軍の装甲巡洋艦で,1893年8月1日就役.
1898年4月に勃発した米西戦争では,同月にキューバのマタンザスを砲撃,5月12日にサンフアンのエル・モロッコ・キャッスルを砲撃した後,7月3日のサンチャゴ・デ・キューバ海戦に参加した.
1911年2月16日,「ニューヨーク」という艦名を戦艦 BB-34 に譲るため,サラトガと改名された後,1917年12月1日,その艦名も巡洋戦艦
CC-3 に譲ってロチェスター Rochester と再度改名.
1938年10月28日に除籍され,フィリピンのオロンガポ造船所に係留されていたが,1941年12月に日本軍によって撃沈された.
【参考ページ Referencia Oldal】
http://hush.gooside.com/name/s/Sa/Saratoga/Saratoga.html
https://www.navsource.org/archives/04/acr2/acr2.htm ※図1~3引用元
https://www.pacificwrecks.com/ships/usn/rochester.html
「ニューヨーク」二面図
「サラトガ」時代
「ロチェスター」時代
mixi, 2018.6.16
【質問】
米西戦争の際,米艦が奥艦を誤射する寸前まで行ったそうだけど,詳細を教えてください.
【回答】
米西戦争が勃発したちょうど1ヵ月後の1898年5月,当時オーストリア海軍長官&艦隊総司令官を務めていたヘルマン・フォン・スパウン提督は,装甲巡洋艦「カイゼリン
ウント ケイニギン・マリア テレジア」(艦長ジュリウス・フォン・リッパー)をカリブ海の西インド諸島に派遣しました.
その目的は,同地にあった自国の権益の保護で,また,必要に応じ,この地域(米西戦争の戦域)より自国の領事やその他の国民を非難させるという使命も持っていました.
ところで不運にもこのオーストリア艦は,当時同諸島のキューバに派遣されていたスペイン海軍の装甲巡洋艦「インファンタ・マリア
テレサ」と外観がそっくりで,掲げている国旗も類似,おまけに一時スペイン艦隊と行動を共にしていたらしいのです.
そこで悲劇が起こりかけました.
7月3日の早朝,オーストリア海軍の装甲巡洋艦「マリア
テレジア」はキューバのサンチャゴ港を出港しましたが,当時港内にはスペイン艦隊が存在し,アメリカ艦隊はその封鎖活動をしている最中でした.
この少し後スペイン艦隊も出港してアメリカ艦隊と交戦(実際には一方的に追跡された)しましたが,アメリカ側はまだ同海域にあったオーストリア巡洋艦「マリア
テレジア」をスペイン艦と思い込み,その後数時間に渡りひそかに追跡し,アメリカ側の10300トン級戦艦「インディアナ」はまさに発砲寸前の状態でした.
その直前にインディアナの艦長が間違いに気付いたようですが.
この難を何とか切り抜けたリッパーの「マリア
テレジア」は,多数のヨーロッパ人やラテンアメリカ人が避難している同諸島のジャマイカに向かい,8月の停戦・戦争終了ののち帰途に着いたとの事です.
その後この艦艇は1900年の義和団事件の時には中国海域にも派遣され,同地で軽巡洋艦「ツェンタ」などと合流していますが,この時期同軍艦を指揮していたのがアントン・ハウスでした.
【質問】
ドイツがアフリカで行った絶滅政策とは?
【回答】
約100年前にドイツは南西アフリカで,植民地軍がヘレロ(ホッテントット)族・
ナマ族を虐殺,特に前者に対しては意図的に絶滅政策を実行しています.
なお,この問題について,ドイツ政府は昨年「道徳的謝罪」と開発援助の約束で「解決」しています.
【質問】
20世紀の戦争の至るまでの経緯について,詳しい本を教えていただけませんか?
【回答】
半藤一利「ドキュメント 太平洋戦争への道」(PHP文庫)
……といっても「20世紀の戦争」って括りが大きすぎる.
せめて「どの戦争」の「何処の国」って絞っては?
加えて「戦争に至る経緯」ってのが厄介.
例えば太平洋戦争に至るまでとすると,下手すれば幕末や明治維新まで遡る事に・・・.
欧米列強とか,当時の時代の空気まで再現する本となると,思い浮かぶ本はない.
Wikipediaか世界史の教科書でいいかも知れない.
軍事板,2010/01/11(月)
青文字:加筆改修部分
【質問】
20世紀初頭あたりに民間で戦艦クラスの大口径砲を製造できた会社は,どんなところがあるのでしょうか?
【回答】
英国だと,Vickers-Armstrong(両社が別会社と数えた場合は2社),ROF,Beardmore.
米国は,Bethlehem-Steel辺りかな.
日本だと,日本製鋼所.
ドイツはKrupp.
イタリアだと,AnsaldoとOTO.
フランスだと,Schneider.
二重帝国だと,Skoda辺りだったか,と.
眠い人 ◆gQikaJHtf2
【質問】
日本陸軍兵士の軍服が明治の学ランみたいなデザインから,昭和で見られるカーキ色に変わったのは何時なんですか?
【回答】
なぜ日本陸軍はカーキ色を迷彩色に採用したのか?
http://ww1.m78.com/question/khaki.html
によれば,帝国陸軍の兵士がもっとも早くカーキ色の制服を着用したのは,北清事変(1900年)のときです.
ただ,日露戦争(1904)が勃発しても,応急動員師団として想定されていた第5師団(広島)を除いて,従来の濃紺色の制服を着用していました.
カーキ色の制服が兵士全員に行き渡ったのは,沙河対陣の頃だったようです.
軍事板
青文字:加筆改修部分
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明治~大正期の陸軍軍装一覧表の錦絵
おそらく何かの教本に挟まれていたものでしょうが,ちゃんと将校肩章は金の特色刷りで凝ってます.
襟章解説の下には,兵/下士官が着用した“防寒襟”の解説があり,これも面白い.
こういう紙物も好きですねー.
戦前は,陸軍や海軍も一般市民向けにプロパガンダ&啓蒙本や写真集を多く出版していたので,そういった一冊だと思います.
戦争中もまだ調子の良い1942年ぐらいまでは,結構上質な紙と印刷で写真集を作っていて,何冊かは手元にあります.
ただ,兵器は結構修正されているので,あまりアテにはなりません.
よしぞうmaro' in mixi,2007年05月30日02:09
~05月31日 01:02
▲
【質問】
北清事変における日本赤十字の活動は?
【回答】
北清事変では陸軍の要請で,広島に病院を設置すべく準備を整え,7月15日に医員2名,調剤員補1名,看護婦10名及び通訳,事務員各1名からなる第1救護班が東京を出発します.
今回は,初めて外国軍人も治療する事になる為,看護婦と外国軍人が懇ろになる事を警戒して,佐野社長も出発に際し,看護婦の紀律についての訓示が大半を占めたりしています.
16日,一行は広島に到着しましたが,陸軍省からの命令が一転し,病院を組織しての外国人兵治療は中止となり,広島陸軍予備病院に於いて,傷病者救護を幇助する事になり,第1救護班はフランス人患者36名を担当する事になります.
その後,戦闘が激しくなるにつれて後送患者は増え,最盛期には救護班7個,看護婦編成の救護員9組,合計204名が広島で活動する事になりました.
特に7月21日~9月9日に掛けて,戦地から続々と重症者や外科患者が到着したにも関わらず,軍医や看病人が少なかった為,日赤の救護班は1日平均2,026名の患者を治療しました.
この中でもピークは8月上旬で,軍医2名と医員1名で500名余の傷病者の救護に当り,受け持ち患者は1人平均百数十名以上に達し,勤務時間は午前8時から午後10時の14時間勤務となりました.
しかも,重症者が多かったにも関わらず,適当な手術室と器材が無く,臨時募集の看病人は教育不足で人数も不足した為,「看護を求むと雖も悉く満足せしむる能わず」と言う状態でした.
これは看護婦も同じで,2名で38名を担当した事もありました.
9月半ば以降は清国内での戦闘の終熄と患者の治癒退院により,入院患者は減少し,救護班は漸く愁眉を開きました.
この救護員派遣時に,軍に於ける救護員の待遇が定められました.
その契機は,小池正直陸軍省医務局長が8月7日,第5師団と留守第5師団の両軍医部長に発した「赤十字社救護員待遇方ニ就テハ師団長ニ意見ヲ申出テ相当ノ取扱方ヲ定メ看護婦ニ対シテハ一層ノ保護ヲ加ヘ其ノ面目ヲ保タシムル様殊ニ注意相成度」との通牒です.
山口素臣第5師団長はこれを受け,中島雄次郎陸軍総務長官の同意を得て医員,調剤員,看護婦監督,通訳を士官,看護婦長,組長は下士官,看護婦は兵卒と同等の待遇とする事を示達しました.
更に,広島陸軍予備病院では,看護婦の下に看病人を置いて力仕事に従事させ,雇婦を各病室に配置して看護婦を補助させるなど看護婦の負担を軽減する措置が執られています.
また,前線に近い場所にも日赤の要員は派遣されています.
1900年7月24日に行った陸軍大臣命令により,大沽運輸通信支部に理事1名,医員10名,調剤員補1名,看護人長2名,看護人30名から編成された「大沽特派救護員」を派遣します.
この地では上陸当初,救護員は水不足と蚊,南京虫の襲来に悩まされました.
特に水は赤く濁り,濁水を沈殿させて洗濯に用いても,衣類や手拭いは間もなく赤く染まってしまい,飲料水は1日1人2~3升が軍兵站部から支給されたものの,屡々腸カタルに罹る者が出ました.
因みに,彼らの任務は内地後送患者を天津から大沽へ護送し,これを陸軍輸送船に収容した後,輸送船に乗り込み,宇品までの船内救護に従事すると言うものであり,固定した場所での勤務は余りありません.
また,救護員は西沽と塘沽に患者診断所を開設しています.
西沽診断所は医員2名,看護人2名を配置して,乗船前の後送患者を治療し,塘沽診断所は医員1名,看護人2名を配置して,同地の軍人軍属を治療する任務に充てられました.
丁度,救護員が到着した頃に通州で戦闘があり,直後に北京が陥落した事から,8月10日~9月10日までの1ヶ月間,患者後送の為,大沽から宇品へ向かう事9回で907名を後送した他,西沽診断所で1,907名,塘沽診断所で911名の患者を治療した他,同地の軍衛生部員が前線に出動した事から,彼らが運営していた西沽患者集合所を引き継ぎ,此処で3,080名を診断しました.
更に,連合軍の山海関攻撃が決定すると,同地派遣の日本軍負傷者救護の為,医員1名,看護人1名を派遣し,10月27日には陸軍大臣の命令で,第5師団兵站管区内の衛生部業務を幇助する為,天津へ医員5名,看護人長1名,看護人17名が派遣されました.
山海関が陥落すると,同地に運輸通信支部が開かれ,派遣されていた医員と看護人は,患者療養所(後の山海関兵站病院)で勤務しました.
山海関陥落後,大沽の救護員は,山海関と宇品間の船内救護に従事し,8月から1901年3月までに陸軍輸送船10隻に前後20回乗り組み,1,489名を後送しています.
ただ,この時は外地からの後送だったため,現地で調達出来る衛生材料や食料には限りがあり,その輸送は救護上の一大惨事とまで言われ,日赤内で課題として上がっています.
大沽に続き,8月20日には天津への派遣命令が下りました.
これに対し,日赤は第8~第12救護班の5個救護班を編成し,理事1名,事務員3名,医員10名,調剤員補5名,看護人長5名,看護人組長5名,看護人45名の総勢74名を8月26日に宇品から出発させました.
当時天津には275名の傷病兵が残されていましたが,軍医以下の衛生部員は部隊に伴って前進し,天津兵站病院には3名の軍医と僅かな衛生部員しか残っていませんでした.
そこで,日赤はその運営を引き継ぎ,天津兵站病院と4つの分院に第8~11救護班が入り,第12救護班は通州兵站病院に配属されました.
この地では病原体が猖獗を極めており,救護員も罹患して20%の要員が入院か休養となってしまいました.
天津での任務も通州の患者を天津に護送し,同地の兵站病院に収容した後,後送の為大沽へ護送する任務です.
当時,通州と天津の間は白河を船で4~5日掛け,天津と大沽の間は鉄道で2時間でした.
この他,外来患者の診療や天津で外国兵の為に負傷した一般人の治療をも実施しています.
意外ですが,こうした措置を丁寧に行った事から,負傷者の日本軍に対する信頼は非常に篤かったと言います.
天津兵站病院は,11月末で患者の後送を中止しますが,この時点での患者数は,天津92名,通州19名,山海関22名,西大沽分院12名で,患者内訳は脚気が最も多く,腸チフス,赤痢,マラリアの順でした.
1901年3月には全体で350名程度が残留しているに過ぎなくなっています.
この頃は勤務時間にゆとりが出来た事から,連合軍各国の野戦病院に視察を行ったり,また各国の軍医も日本軍の病院を訪問し,救護員との交流を行ったりもしています.
因みに,彼らが注目したのは脚気の治療法だったそうです.
と言うのも,欧米各国には脚気患者がいませんでしたから.
1901年3月に陸軍大臣は,全救護班の勤務解除を命令しました.
外地での救護患者の総数は,3,727名を数えています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/05/28 22:40
さて,大沽から宇品の間,患者を後送するのには,大枚を叩いて英国で建造した病院船,博愛丸が用いられました.
日赤は,6月27日に同船の大沽派遣を陸海軍大臣に出願し,28日に認可されました.
翌29日,山本権兵衛海軍大臣は,大沽の東郷平八郎常備艦隊司令長官に対し,博愛丸に
「相当ノ監督補助ヲ為シ及便宜ヲ与ヘ日本戦派遣ノ旨趣ヲ諸外国司令長官若クハ首席将校ニ通知ス」
ることを訓令します.
博愛丸の病院船艤装は昼夜兼行で行われ,7月1日には早くも横浜を出港しました.
大沽到着は7月7日です.
同船には54名の救護員が乗り組みましたが,その中には看護婦長1名,看護婦組長1名,看護婦9名がいました.
大沽や天津に派遣された救護団は,看護の人員が全て男性で構成されており,船内教護員としての女性の登用は初めての事でした.
博愛丸の大沽到着後,東郷司令長官は,山本海相の訓令に従い,日赤は私設の団体で陸海軍大臣監督下にある事,同船には外国軍人や一般人の患者も収容する事,同船は事情の許す限り,「ジュネーヴ条約ノ原則ヲ海戦ニ応用スル条約」(但し当時は未発効)の趣旨に基づき行動する事,同船の視察は何時でも差支え無い事を在大沽各国艦隊の先任指揮官に通知しました.
これに対し,各国から謝意が寄せられ,早速,フランスが直ちに負傷者41名の収容を依頼してきます.
フランス軍の傷病者は日々増加していましたが,本国から回航されてくる病院船は8月中旬にならねば到着せず,仏印に移送するにしても,激暑の中では患者が到底輸送に堪えられないと判断した為です.
また,博愛丸には各国軍医の視察が相次ぎ,その評価は非常に高いものでした.
イタリア艦隊からは
「軍医博愛丸ヲ参観候処設備ノ整頓セルヲ見テ,非常ニ満足致居リ候」,
フランス艦隊からは
「当艦隊付軍医長ハ主管事務上ヨリ,同船ノ設備一覧候事殊ニ有益ナル儀ニ可有之候御申越相成候」
と言った文言の感謝状を貰っています.
博愛丸は11月2日までに大沽~宇品を7往復して1,536名を収容し,91名を転送,1,420名を輸送しました.
因みに転送とは,収容し,治療を終えた患者や軽傷者を陸軍輸送船に移乗させる事です.
収容者中,21名が死亡したものの,4名は全治しました.
第1回輸送でフランス将校2名,下士官1名,兵卒33名,第2回輸送でフランス兵卒57名を輸送しています.
第3回輸送後,輸送力を向上する為,病床を46床増設して,定員を200名から246名に増やし,第5回で215名,第6回で221名,第7回231名を輸送しました.
この他,大沽では停泊中に戦闘に巻き込まれて負傷した中国人を,軍司令部の依頼により船内に収容して手術したりもしています.
続いて,弘済丸が7月13日に艤装を完了し,救護員を乗り込ませての演習を実施した後,16日に派遣命令を受けて,22日に横浜を出航しました.
弘済丸も大沽~宇品を7往復し,1,316名を輸送しました.
収容後,または輸送中の死者は7名でした.
こちらは,第1回輸送でフランス将校1名,下士官1名,兵卒18名を輸送し,第2回輸送では二重帝国下士官1名,兵卒1名,第3回輸送ではフランス兵卒5名を収容し,輸送しています.
こうした病院船で輸送された患者の4分の1は傷者で,その他は病者でした.
病者で最も多かったのは赤痢であり,胃腸病,脚気,腸チフス,呼吸系疾患にマラリア患者までいました.
その為,1航海毎に病室の他,被服,器具,繃帯の消毒を実施しています.
12月になると大沽の海面氷結により任務を中止し,横浜に帰港しました.
病院船任務を解かれたのは4月2日付です.
ところがその直後の4月6日,弘済丸は陸軍輸送船に徴用され,同船への救護員25名の派遣が命じられています.
結局,弘済丸は6月8日に宇品に帰港するまで,大沽,山海関と宇品を3往復し,患者326名を輸送しました.
時に,この北清事変での病院船の運用は,本来行ってはいけない事も実施してしまいました.
病院船の運用に関しては,
「ジュネーヴ条約ノ原則ヲ海戦ニ応用スル条約」
の第4条第2項で,病院船は,
「何等軍事上ノ目的ニ使用セザルコト」
を義務づけています.
しかし,この時の両船は,患者や職員以外に,陸軍大臣の通達で陸軍省の承認無く乗り組ませる事を禁止してはいましたが,陸軍当局の命令や公用によって,日本と北清を往復する軍人軍属,官吏などは同大臣の承認無く便乗させる事が出来るとされ,更に陸軍省の要請に応じてその郵便物を搭載していました.
人員は元より,信書の輸送についても,直接又は間接の作戦動作の為に病院船を使用する事にあたり,病院船の特権を濫用する背信行為に当ります.
偶々,北清事変と言う内乱への介入戦争であって,国と国同士が正式に殴り合う形での戦争ではなかったので,事は余り大事に至りませんでしたが,もし大規模戦争となっていたならば,真っ先に病院船の拿捕に至る様なケースでした.
ハーグ海戦条約が未だ良く理解されていない為の誤解とは言え,太平洋戦争時に病院船に武器を隠したり,兵隊を輸送させたりと言う違反行為の萌芽が,この時から既に見られていた訳です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/05/29 21:56
【質問】
『八甲田山死の彷徨』(新田次郎著,新潮文庫; 改版,1978/2/1)
なんてどうか?
【回答】
ま,所詮は小説だから・・・真実とは(ちと)かけ離れた部分もある(らしい)
陸自の弘前駐屯地(だったかな?)には当時の記録があって,それとの比較をしてみたら,結構違う部分があったそうな.
て,伝聞でスマソ・・・
一応言っておくと,俺もその本持ってるし,軍ヲタなら一度は読むべきとも思う.
ミリ屋哲 ◆ZIX.r92I :軍事板,2001/11/17
青文字:加筆改修部分
八甲田山に関しては昔文春文庫から「八甲田山から帰ってきた男」というノンフィクションが出ていましたね.
たしか,弘前第31連隊の福島大尉の方を中心に扱ったものだったような.
かれこれ10年ぐらい前に読んだおぼえがあります.
軍事板,2001/11/17
青文字:加筆改修部分
【質問】
旧陸軍の八甲田山雪中行軍について質問です.
陸軍は寒さや氷雪に対する研究の一環として雪中行軍を実施したのですか?
【回答】
正確には
「冬季に海岸線を使わずに,日本海側と太平洋側との間を軍隊が移動できるか?」
を調査・検証する目的で行われました.
初期の日本軍の対露戦略は「本土防衛」を目的にした専守防衛だったのです.
(後に大陸に出兵する戦略に変更される)
専守防衛の場合,敵が何処に上陸するかは不明なので,防衛側は数カ所の海岸線を防備し,敵の上陸地点を特定してから,増援を送り込む必要があります.
この時,露海軍によって津軽海峡が制圧され,艦砲射撃によって海岸線の道路・鉄道が通行不能となる事態が想定されていました.
そんな訳で,冬季に八甲田山を越えて軍隊が移動できるか?を実験する為に雪中行軍が行われたのです.
【質問】
八甲田山の雪中行軍訓練の兵士達は,かまくらを作ってその中で焚き火をすることで体力を温存し,天候の回復を待つことはできなかったんでしょうか?
【回答】
濡れると体温を奪う,綿系の肌着しか着ないで,初日から,普通に平地を歩くだけでも重労働になるような重装備で,ろくに飯も食わずに,単に歩くだけで体力を大きく消耗する雪の上を強引に突き進んで,夜までには,既に体力を危険なまでに消耗していた上に,猛風雪のせいで,まともに煮炊きできないどころか,焚き火さえもできなくて,体力を回復することもできないまま,夜半の異例の低温に晒されて,その時点で既に凍死寸前状態に至っていて,翌日も同じ状況が続いたせいで,あっさりとバタバタと凍死したもよう.
生き残ってる人というのは,山小屋や洞窟を見つけてそこに逃げ込んで,しかもそれでも16名中2名しか生き残れなかったとか,そういう例ばっかし.
よく言われる,発見時立ったまま氷付けになってたとかのは,吹雪が強すぎる&装備が足りないとかで,雪洞を作ることもできなかったようだ,って言われてるね.
雪が深いなら,カマクラのように盛り上げるまでもなくて,単に風が入りにくい具合に穴を掘って,何人かずつまとまって入るだけでも,外気温よりかなり暖かくなることは明らかだし,実際にも初日はそうして,何とか過ごしたみたいだけど,濡れると体温を奪う綿系の肌着が濡れたままの状態で,しかも,体温を維持する元になる食事なしでは,「辛うじて初日のうちには凍死しないで済んだ」だけで,「そのまま救助を待って何日か
過ごす」ことは,誰もできなかったはず.
そこまでで既に,正常な思考能力が失われていたようで,翌日は,もう支離滅裂.
初日に,ジタバタと動きまわらないで,全員で協力して,そういうことが可能なようなでっかいカマクラを作っていれば,事態は全然違っていたかもしれない.
ただし初日の前半に,引き返そうと思えば問題なく引き返せた時点で,予定通りに突き進もうという意見に押し流されたそうだから,そういう「消極的な方針」は,どの時点でも「出せない雰囲気」が充満していたんじゃないかな.
そういった硬直した思考が,本当の「死因」だったのかもしれない.
ちなみに雪中行軍については,事件後に五連隊がまとめた「遭難始末」と,小笠原孤酒氏が生存者の証言と当時の資料を元に書き上げた,「八甲田連峰 吹雪の惨劇」という本が有る.
軍事板
青文字:加筆改修部分
▼ 明治時代,日本陸軍が八甲田山で遭難し,兵士のほとんどが亡くなった事故はあまりにも著名であり,拙ブログでも以前取り上げたことがあるが,亡くなられた方々のお墓にお参りしてきた.
お墓の隣には,遭難事件に関する博物館があり,当然見学してきた.
興味深い史実が多数展示・紹介されていたが,個人的に特に興味をひいたのは,彼らが来ていたコートの薄さである.
これでは,京都でさえ真冬は耐えられないと思った.
博物館見学後,ちょうど八甲田山の遭難した行軍ルートを車で走る.
むちゃくちゃ険しい峠というわけではないが,真冬は猛烈にふぶくんだろうね.
これが,捜索隊が最初に発見した後藤伍長の銅像である.
後藤伍長は,このように立ったまま仮死状態で発見されたそうである.
数少ない生存者の1人でもある.
ちなみに余談ながら,私の父は,現役の陸上自衛官だったころ,よく八甲田山に遊びに来たそうである.
もちろん,真冬ではなく,夏や秋だったとのことであるが.
▲
【質問】
八甲田山遭難事件の後,山口少佐は本当に自殺したのか?
【回答】
山口少佐の拳銃自殺説は,当初はほとんどなかった.
青森衛戍病院が陸軍軍医学会雑誌に発表した「明治三十五年凍傷患者治療景況」によると,心臓麻痺で死亡したと記述されている.
ところが,山口少佐の実兄である成沢中佐が,家人に
「弟は自殺したが,世間に言ってはならない」
と口止めしていたとの証言がある.
これを成沢中佐の娘から聞き出したのが,「吹雪の惨劇」の著者である小笠原孤酒で,新田次郎にも伝えられ,「八甲田山死の彷徨」に生かされたらしい(児島襄も自殺説を取っている).
また陸上自衛隊青森駐屯地にある「防衛館」には,自決に使われた拳銃が残されている.
一方,松木明知(「明治三十五年凍傷患者治療景況」を発掘した人)によると,山口少佐は凍傷が酷く,とても引き金を引ける状態ではなかったとしている.
さらに「明治三十五年凍傷患者治療報告」と「歩兵第五連隊雪中遭難ニ関スル衛生調査報告」を発掘,「上下肢甚シク凍傷シ指趾蒼白硬固手足強ク膨張シ」とあるのを示し,持論を補強した.
高木勉も心臓麻痺説を取っている.
諸説合わせるに,陸軍が
「本来は自決ではないのを自決とし,遺族にもそう伝えた.しかし公表すると他の生存者が後追いするかもしれないので,秘するよう言い含めた」
とのややこしい手法を取ったらしい(松木はここから軍による謀殺説を発展させているが).
なお,青森衛戍病院にあったはずのカルテは,何故か紛失しているそうだ.
【質問】
H Speed Sightとは?
【回答】
施条砲出現で砲弾の軌跡が安定したことにより,正確な照準器が求められた結果,19世紀末に一般的に使用されるようになった照準器.
以下引用.
これは砲身前方(耳軸環または砲口環)に固定するフロント・サイト(照星)と,砲尾環に取りつける,高さ調節可能なリア・サイト(照門)から構成されており,形状がHという形に似ているリア・サイトからフロント・サイトを通して見ることにより,照準線が設定された.
この機種では,自艦の速力や風の方向,砲弾初速度の変化などの影響も,ある程度考慮できるようになっており,船体が動揺していて目標が照準器の視野内へ入ってきたときに射撃の瞬間を判断した.
(多田智彦;防衛技術研究家 from 「世界の艦船」,
海人社,2003/10,p.79,抜粋要約)
【質問】
方位盤 Director はどのようにして誕生したか?
【回答】
19世紀後半,砲身に取りつける照準器の改良によって正確な射撃ができるようになり,射距離も延伸してきたが,複数門搭載されている各砲の照準・発射は全く独立であり,艦としての統一性はなかった.
また,船体の比較的低い位置に設置されていた砲から目標を照準するのは,荒天時の波飛沫や砲煙に妨げられる場合は困難だった.
そこで砲の照準器とは別途に,専用の旋回俯仰架台に取りつけられた望遠鏡式照準器,すなわち方位盤で目標を照準し,得られた旋回角・仰俯角を砲の慣性に使用する,というアイディアから,英海軍で誕生.
方位盤は,戦艦の司令塔やマストの高所などに設置されたことがあったが,機器の信頼性や信号伝送の問題などで評判は芳しくなく,射撃指揮装置の構成品としての地位を確立するのは,諸問題が解決される20世紀に入ってからだった.
詳しくは, 「世界の艦船」(海人社,2003/10),p.79(防衛技術研究家,多田智彦著述)を参照されたし.
【質問】
Range Clock とは?
【回答】
1900年代初めにヴィッカーズ社で開発された連続距離計算機.
測距儀が開発されると,主力艦の艦橋や司令塔など,見晴らしの良い場所に設置され,射撃に必要な目標距離の測定に活用された.
測定された距離は,伝声管や電気的な距離通報器を通じ,砲側に伝送されることになった.
しかし,固定目標の場合は問題ないが,移動目標では測定時点と射撃時点との時間差が問題となる.
19世紀末から20世紀初頭にかけて軍艦の最大速力が増大し,15ノットを越えて20ノット近い艦も現れた.
もし,自艦と目標艦とがそれぞれ約20ノット(約10ヤード/秒)で接近するとすれば,お互いの距離は1秒間に約20ヤード近づくことになる.
上記の時間差が例えば5秒の場合,射撃距離は100ヤードもずれることになる.
この問題を解決するために開発されたのが
Range Clock である.
この機械装置は,距離目盛を刻んだダイアルを指示する指示針を駆動する時計のような機構で構成されていた.指示針がスタートの距離値に設定され,時計機構が距離変化の割合(距離変化率)に対応する速度で動くように調定された後,クロックはスタートから刻々変化する距離を指示するので,この値を読み取るのである.
ダイアルで最初に設定する距離指示針の値(スタートの距離値)は,測距儀による距離測定で求められた.
また,調定する距離変化率の値は,簡便法では単に測距儀で計測した,異なる2点の距離の差を,ストップ・ウォッチで計測した時間によって紙上で割り算して求めた.
しかしこの方法は,自艦と目標艦とがほぼ同一直線上を移動している場合にしか適用できなかったので,一般的にはドゥマリック
Dumaresq と称する計算尺を使用して求めた.
詳しくは, 「世界の艦船」(海人社),2003/10号,p.80(防衛技術研究家,多田智彦著述)を参照されたし.
【質問】
ドゥマリック Dumaresq とは?
【回答】
英海軍のドゥマリック大尉が考案した計算尺で,自艦(射撃艦)で基地の値である自艦進路および自艦速力,さらに推定値である目標進路および目標速力を調定すると,距離変化率を目盛尺上で読み取ることができた.
この方法では,ドゥマリックに調定する目標艦の速力や進路を推定しなければならず,その結果を利用してレンジ・クロック(連続距離計算機)から得られる刻々の距離値は,必ずしも正確とは言えなかったが,連続的な距離が得られるようになったということは,大きな進歩であったと言える.
詳しくは, 「世界の艦船」(海人社),2003/10号,p.80(防衛技術研究家,多田智彦著述)を参照されたし.
【質問】
白瀬矗(のぶ)って誰?
【回答】
白瀬矗(のぶ)(1861-1946)は,現在の秋田県金浦町で,400年以上歴史のあるお寺(浄蓮寺)の長男として生まれた.
1910年,イギリスのスコット隊と,ノルウェーのアムンゼン隊と同じ頃,やはり南極点到達を目指して南極探検に出発したが,猛吹雪にはばまれ,2日目で撤退.
帰国後は講演生活の後,金浦町へ帰ったが,借金の返済のため決して裕福な生活ではなかったという.