c
「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ サイト・マップへ
◆◆通史 Orosz–japán háború hadtörténelem
<◆日露戦争 Orosz–japán háború
<戦史FAQ目次 Hadtörténelem GYIK Index
(boketeより引用)
「神保町系オタオタ日記」■(2006-09-07) [図書館] 日露戦争勝利のあとの図書分配
「神保町系オタオタ日記」■(2008-07-19)[明治]もう一人の少年も見た日比谷焼打ち事件
『日露戦争史』(半藤一利著,平凡社2012/6/22)
『日露戦争全史』(デニス・ウォーナー著,時事通信社,1978.10)
【珍説】
日露戦争で米国が仲介に入ったのは白人勢力を守る為の陰謀である.
日本の連戦連勝でロシアは壊滅状態だったのだから,米国が余計なことをしなければ,シベリアの半分とかいった莫大な戦利品を得られたはず.(高山正之「変見自在」,週刊新潮
Sep. '03)
【事実】
米国の陰謀どころか,ルーズベルトが仲介しなければ,講和自体がままならなかったと言えるだろう.
日露講和交渉を見れば,日本側が何より恐れていたのは戦争の継続だったことくらい,一瞬で分かる.
例えば,日本側と講和が成立したときの露代表ウィッテ外相の台詞.
「やった,日本は全て譲歩した!」
ロシア側は国内情勢の不穏化(その一部は日本が煽ったものだった)があったが,軍自体の動員戦力にはまだまだまだまだ余裕があった.
日本側が当初構想していた勝利の筋書きは,陸軍の決戦により敵極東の主力を殲滅させた後,シベリア鉄道の要所を押さえて粘り勝ちを狙う,だったのだが,その前提条件すら実現させられなかったのが,事実.
日本勝利ということになっている奉天会戦だって,ロシア極東陸上戦力の捕捉撃滅という,日本側が考えていた勝利条件は満たせなかった.
日露戦争は,それほど景気の良い戦いではなかったのだ.
だからこそ,泥沼状態の「ロシア側からの」打開策であった海上輸送遮断戦略が,日本海海戦の敗北で不成立に終わったときに,「これ以上陸戦だらだらやるより講和しようじゃないか」というルーズベルトの提案が通ったわけで.
日本側はすでに継戦能力は絶望的に枯渇していたし,殆ど実りのない交渉になるとは分かっていても,ルーズベルトの提案に乗るしかなかった.
当時「ロシアととにかく講和してくれ」というのは軍部の統一見解で,日本が自力でロシアを講和のテーブルにつかせる方法は全て不成立に終わった以上,仕方ない.(軍事板)
また,日本側の手の内は,ロシア側に読まれていたという.日本外務省の暗号は,ロシアに解読されていたというのである.
「かの諜報戦のヒーロー・明石元二郎にしてからが,ロンドンのホテルに滞在中,自分の所在は英国駐在武官しか知らないはずなのに,ロシアの女スパイからホテルに手紙が届き,パリで会ってみると,
『日本の外交暗号はロシアに解読されているわよ』
と警告されている.明石はこれを駐フランス公使・本野一郎と参謀本部に伝えた.
また,オランダの日本公使館に就職したロシアの女スパイが,三橋信方公使の机中の暗号書を写真撮影したものを,ロシアの別のスパイが日露戦争開戦後に本野一郎に売りに来たとの事実もあった.
これら暗号被解読の事実は,本野公使は本国外務省に報告.
だが外務省は対策をとらず,それまでと同じ暗号書方式の換字暗号を使い続けた(暗号書は定期的に変えたが).
そのため,ポーツマス講和会議では,ロシアに手の内を読まれた日本側は,交渉に苦心し,米ルーズベルト大統領の仲介でやっと講和に漕ぎ着けた」(松尾博志「日本の政府と軍部の情報軽視の『奇妙な伝統』」
from 「別冊歴史読本 太平洋戦争情報戦」 May
18, '98)
1次資料が明かにされていないので,この「女スパイ」の話は割り引いて聞く必要があるが.手の内が読まれてしまっていては,駆け引きにも何にもならず,有利な条件を引き出せるはずもない.「シベリアの半分とかいった莫大な戦利品」なんて,夢のまた夢.
【質問】
ポーツマス講和条約が締結されなかった場合,日露両軍はどんな作戦を取るつもりだったんでしょうか?
【回答】
ロシアについては,長春,哈爾浜方向に日本軍を誘導し,補給線を切断.
更に,補給が途絶えたところで一気に攻勢を掛け,日本軍を追い落とすと言う,朝鮮戦争のような状況を考えていたみたいです.
日本については,満州方面では持久戦を何とか行い,優勢な海軍力を利用して,樺太を占領後,浦塩を占領すべく,兵力を動かすと言う感じだったか,と.
どちらにしても,これ以上の攻勢は掛けられませんでしたが.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2006/01/11(水)
青文字:加筆改修部分
【質問】
よく日露戦争は,「実情は勝利ではなく,疲弊した両国による痛みわけである」って言われていて,実際に国民も日比谷焼き討ち事件を起こしたりしてますが,本当の本当は賠償金取れなかっただけで,大勝利じゃないですか?
だって樺太や満州や東清鉄道敷設権や沿海州漁業権とか,全部もらえたんですよ,ロシア相手に.
何が不満なんですか?
【回答】
当時のマスコミが煽りまくったから.
「大勝利のあかつきには,賠償金やシベリアまでとれる」
と新聞等がふきまくったから.
その後もヤツラはドンドン煽って,日本を間違った方向へ導いていく.
あ,今でもそうか・・・
まあ,ちょっと弁護してやれば,反戦系の新聞は「そんなことないはない」という主張もしていたが
,戦意高揚に反するということで,政府に取り締まられたりしたしな.
第一,威勢のいいことを言ったほうが売れるので,そういう論調になった.
二葉亭四迷が「桂首相のひとりごと」という文章を書いてるように,冷静な見方もあったが,結局大勢にかき消されてしまった.
そういう点も今でもかわらん.
庶民の側からすれば,戦前から増税されているし,戦後も賠償金が無い以上は国債の消化の為に,まず生活が楽になる見込みが無くなった.
当時の報道であらぬ希望を持ってしまった為に,失望感が大きかったと推察される.
政府上層部は,実態を当然把握してたんだが,それを発表してない.
言ったところでムダだという諦めがあったのかもしれない.
軍事板,2007/06/26(火)
青文字:加筆改修部分
【質問】
1905年11月の第2次日韓協約は,日本が銃剣の圧力により強制したものだったか?
【回答】
最近,そうだとする文書が見つかったという.
以下引用.
保護領化,銃剣で強制=ロシアで新資料-1905年の日韓協約
【モスクワ16日時事】日露戦争後,日本が韓国の外交権を奪い,朝鮮半島併合につながった1905年11月の第2次日韓協約は,日本が銃剣の圧力により強制したもので,韓国外相のなつ印を日本側が代行したとするロシア情報機関の機密公電がモスクワの帝国外交資料館で見つかった.
過去の日韓論争では,韓国側が日韓協約は非合法で無効と主張,日本側は当時の国際法では合法的で有効だとして対立したが,第三国による観察は論争に一石を投じる可能性がある.
この公電はロシアの歴史学者,ドミトリー・パブロフ無線・電子工科大教授の調査で発見された.
ソウルからの情報を基に,上海の情報拠点からロシア外務省に送られた公電(05年11月24日付)は,11月17日の協約締結の状況について
「14日から日本軍の多くの歩兵部隊,騎兵隊,砲兵隊が邦人保護を口実に昼夜ソウルの路上にあふれ,宮殿を包囲した」
「伊藤博文特使は将軍や部隊を引き連れて宮殿に乗り込んだ」
と伝えた.
17日の締結に関しては
「韓国閣僚が署名に抵抗したため,日本側は強権を発動.朴斉純外相の自宅に憲兵隊を送り,用意した条約文に署名を強要したが,外相が拒むので,日本側が自らなつ印した.伊藤特使は『これで保護領協定が締結されたと見なす』と宣言した」
「高宗皇帝は『条約を認めるなら,死んだ方がましだ』として拒んだが,日本の憲兵隊は宮殿内にもあふれ,抵抗できない状況に追い込まれた」
としている.
まあ,当時の国際状況を考えると,どの道,韓国に選択の余地などないわけだが.
【質問】
日韓併合のとき,李氏朝鮮軍はどうなったのですか? 日本軍に編入されたのですか? それとも解散ですか?
【回答】
1910年の韓国併合後,韓国軍の一部が日本陸軍に編入された.
「朝鮮軍人二関スル件」により,朝鮮軍人は日本陸軍武官の階級に相当し,現職にある者は朝鮮駐さつ軍司令部付,朝鮮駐さつ憲兵隊司令部付,朝鮮歩兵隊騎兵隊付とした.
これらは昭和6年に廃止され,退職させられた.
なお,朝鮮軍人の階級は副将,参将などの韓国軍時代の名称が使用された.
ちなみに朝鮮軍人の俸給は日本陸軍武官の6割程度であり,同階級の日本陸軍武官の次席とされた.
【質問】
日本併合前の朝鮮に海軍は存在したのでしょうか?
あったとしたら,どの程度の戦力を保有していて,併合後どうなったのでしょうか?
【回答】
海軍と言う組織そのものがありません.
海上防衛に関しては,元々清に委託していましたから.
眠い人 ◆gQikaJHtf2
【質問】
日露戦争後の日本を取り巻く戦略環境は?
【回答】
黒野耐によれば,戦争と革命とで疲弊したロシアは,フランス資本への従属に陥った結果として,英仏連合の側につかざるを得なくなり,英国の同盟国である日本との関係を調整しなければならなくなった.
また,北部満州の権益維持,極東ロシア領の安全保障のためにも,日本との強調が必要になったという.
フランスは,ドイツの脅威に対抗するための,欧州における戦略体制構築,インドシナ・中国におけるフランスの領土と権益の安全保障のため,日仏,日露,英露関係の修復に動いたという.
英国は脅威がロシアからドイツへと変化し,それにともなって日英同盟本来の意義が低下していく趨勢にあったという.
アメリカは,日本移民排斥問題のために日米関係が悪化の一途を辿り,また,中国における権益を巡って日米は激しく対立するようになったという.
詳しくは『日本を滅ぼした国防方針』(黒野耐著,文春新書,2002.5.20),p.20-22を参照されたし.
【質問】
「帝国国防方針」「帝国軍用兵綱領」の問題点とは?
【回答】
軍事戦略が国家戦略に優先するような策定システムだった事だという.
以下,抜粋要約.
「帝国国防方針」とは,日本の軍事戦略の基本プランと軍事力建設の目標を定めたもので,軍首脳が取り纏めた案を,政府が「最高国策」として認めた.
天皇と軍部首脳以外では,内閣総理大臣のみに閲覧が許される最高機密と定められていた.
「帝国軍用兵綱領」は作戦計画大綱であり,政府が国家戦略を明示した上で,軍部がそれを実現するための軍事戦略・兵力量を決めるということではなく,軍部がまず仮想敵国と軍事戦略を決め,必要とする兵力量を定めた上で,政府にその承認を要求するというやり方をとった.
これは,日露戦争勝利に伴う軍部の地位向上,発言力の強まりを反映したものであり,以後,軍事戦略が国家戦略を引きずる端緒となった.
共に1907年4月4日,明治天皇により裁可.
以後,世界情勢の変化に対応して3回に渡って改訂され,軍部にとって軍備拡張・予算獲得のための最も強力な武器となった.
(山田朗「軍備拡張の近代史」,吉川弘文館,1997/6/1,p.)
【質問】
明治40(1907)年の「国防方針」とは,どんなものだったのか?
【回答】
当時,参謀本部作戦課にいた田中義一中佐が書き上げた「随感雑録」を下敷きにして作成されたもので,1907.4.4,天皇によって裁可された.
黒野耐によれば,国防の意思を統一するという目的の他に,戦後における軍備拡張の正当性を確立する狙いがあったという.
日本周辺に急迫した脅威が見られないという情勢下において,陸軍が将来に備えて軍備を拡張していくのには,確固とした根拠が必要だったからだという.
詳しくは『日本を滅ぼした国防方針』(黒野耐著,文春新書,2002.5.20),p.27-29
を参照されたし.
【質問】
明治40年国防方針の問題点は?
【回答】
黒野耐によれば,陸主海主論争の教訓から,陸海軍とも納得するために南北併進の国家戦略となっていたが,北進はロシアと衝突する可能性を持ち,南進は米仏独蘭,さらに情況によっては英との対立に陥る危険性を秘めていたという.
また,この国防方針制定は,政軍間で協議することなく,軍が実質的に確定した後,西園寺首相には形式的に「基本方針」を審議し,「所要兵力」を閲覧することが許されるだけとなり,西園寺は天皇から審議を命じられて奉答するまでの約1ヶ月間,閣議に諮るどころか,誰かに相談した形式もないという.
これらのことは,国防方針が国家的見地で真に認知された国防政策の基準になれなかっただけでなく,日露戦争後の転換点において,日本が明確な国家の進路を打ち出せなかったことを意味するという.
詳しくは『日本を滅ぼした国防方針』(黒野耐著,文春新書,2002.5.20),p.32-33を参照されたし.
【質問】
明治40年国防方針の戦略は?
【回答】
黒野耐によれば,東亜の地域内に限定しているものの,海外に打って出る海外攻勢戦略をとり,
・大陸においては,韓国縦貫鉄道を南満州鉄道に連接して主幹線として,速やかに戦力を奉天付近に集中し,ハルビンを攻略して東清鉄道を遮断.
その後,戦力を転用してウラディウォストーク要塞を攻略し,戦争を終結させる.
・海洋においては,アメリカに対してはその極東艦隊を撃滅し,根拠地であるフィリピンを攻略し,来援する主力艦隊を迎撃.
独仏に対しては,その東亜にいる艦隊を撃滅し,ドイツの拠点であるチンタオ,フランスの拠点であるトンキン,サイゴンを覆滅する
という構想だったという.
そしてそれは,実際に予測される国際情勢推移とは矛盾しており,国防方針制定の実質的な第一の目的である,揆に軍備拡張ありきで,その論理付けをするためのものであるという側面が,強くにじみ出ているという.
詳しくは『日本を滅ぼした国防方針』(黒野耐著,文春新書,2002.5.20),p.34-35を参照されたし.
【質問】
明治40年国防方針の戦略は,日本政府の外交戦略とは一致していたのか?
【回答】
黒野耐によれば,明治41年9月閣議決定の「対外政策方針」では,日英同盟を基軸とした外交政策を推進し,露仏との協商により多角的同盟・協商網を作り上げて国家目的を達成する考えを示していたという.
そしてアメリカに対しては対立する可能性を認識しつつも,協調していくことに努める姿勢を示し,敵対国と認識していたのはドイツだけだったという.
これらは国防方針と比較して,
1.国家戦略の基本的方向性では,外交方針は東亜全域を対象とし,国防方針の南北併進よりも広範囲である
2.外交方針が日英同盟を主軸と考えていたのに対し,国防方針は1国防衛主義を「主」,日英同盟を「従」に位置付けている
3.外交方針がドイツのみを敵対国と認識していたのに対し,国防方針はロシア,アメリカ,ドイツ,フランスを想定敵国としている
という点で一致していなかったという.
詳しくは『日本を滅ぼした国防方針』(黒野耐著,文春新書,2002.5.20),p.35-37を参照されたし.
【質問】
「陸主海主論争」とは?
【回答】
日露戦争前に起きた陸海軍間の論争で,日本の国防の主体が陸軍にあるか海軍にあるかという内容のもの.
明治26年5月に発布された戦時大本営条例では,陸軍参謀総長が大本営における陸軍の幕僚長となることが明示されていたが,明治32年1月,山本権兵衛海相がこれを「陸海対等」の思想に改正することを提案したのがきっかけ.
明治天皇も決断できず,論争を中止する勅令を出すほどであり,明治36年12月になって陸海軍は,参謀総長と海軍軍令部長を,天皇に対する対等の補佐者とする主旨に戦時大本営条例を改正することで妥協したという.
詳しくは『日本を滅ぼした国防方針』(黒野耐著,文春新書,2002.5.20),p.30-31
を参照されたし.
【質問】
日露戦争後の,日本を巡る国際通信状況は?
【回答】
1905年9月,日露講和条約がポーツマスに於て調印され,日本の首脳陣はほっと一息つきます.
…何も知らされない国民は,マスゴミに煽られて暴発しましたが.
この月,日本政府とCommercial Pacific社との間で,東京~グアム間海底ケーブル敷設に関する協定が締結されました.
これはグアムから小笠原までは米国が,日本本土から小笠原までは日本が,それぞれ独自に敷設すると言うもので,当時の国力と技術力,それに既存設備から見れば,一応は相互平等の理念に立ったものでした.
日米間の通信は,意外な事に,常に概ね相互平等の関係に有り,ロシアや大北電信関係の様にトラブルは余りなかったりします.
この太平洋横断海底ケーブルは,1906年6月に川崎~小笠原間の敷設が完了し,8月に竣工.
1日にはセオドア・ルーズベルト大統領と明治天皇との間で,祝賀電文の遣り取りがありました.
これが,平和時に於ける日米直接通信の第1号となっています.
日露戦争中に敷設されたケーブルの内,海底ケーブルの方は,大北電信との協定が有り,清国・大韓帝国向けには一般商業用には利用出来ませんでした.
しかし,日本が租借した関東州の大連や旅順と本土との連絡には,用いる事が可能でした.
一方で,陸上に架設した電線網は最大限活用されました.
特に,朝鮮半島内では韓国内通信事業が日本に委託された為,総て日本が運用する事になり,そのサービスは格段に向上します.
これは,民間に対し,戦時中に架設した回線の多くを開放した為です.
それまでは,首都京城と義州,仁川,釜山を結ぶ回線が数回線あっただけで,しかもそれらは京城~義州と京城~仁川線は清国の一方的な強制によるものであり,最長距離の京城~釜山線も日本の強い要望で出来ただけ,これらを結ぶ支線などは一切無く,利用面では余りサービスの良くないものでした.
それが,この軍用回線開放で一気に近代的な電信網となった訳です.
9月からは軍用だった佐世保~大連間の回線による一般電報の受け付けが開始されました.
ところで,この時期は電気理論面でも,日本は先進国になりつつありました.
与謝野晶子の実兄である鳳秀太郎は,妹ほど有名ではありませんが,東京帝国大学教授として,理論から製造まで幅広い研究を行い,1921年には電気学会の会長にもなっています.
その業績については多くありますが,特に,「複素エネルギー不滅則(虚数のエネルギーもまた不滅であると言う法則)」や「鳳・テブナンの定理(どんな複雑な電気回路でもただ2つの要素に置き換えられると言う定理)」と言う現代電気回路理論の根幹を成す2つの法則の発見が大きかったりします.
時に,日本がロシアに辛勝した状況に於ても,相変わらず大北電信との問題は尾を引いています.
日本と清国との間の国際通信に関する話し合いは,相手が大北電信に委託していた為困難を極めました.
例えば,大連と芝罘との間の海底ケーブルは,元々ロシアが戦前に開通させていたルートであり,日本と清国のみの協定で再開は可能だったはずですが,大北電信社員が清国の電信行政の顧問だった為,話がややこしくなり,1908年10月にやっと協定が成立し,1909年に敷設が完了,6月から運用が開始されています.
この様に,大北電信との関係は1882年の新免許状が切れる1912年に山場を迎えます.
とは言え,丁度切りが良いので,今回は此処までにしとうございます.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/06/05 22:40
青文字:加筆改修部分
▼ 【余談】
日露戦争のお話.
旅順を守備するロシア軍は,わが第三軍に包囲されていたのだが,敵は包囲網の外と,伝書鳩を使って通信していた.
これを阻止するべく,鷹匠により訓練された鷹で,伝書鳩を襲わせる計画があったが,実用にはいたらなかった.
▲
【質問】
日本とモンテネグロは終戦協定を結んでないから,現在も戦争中って聞いたのですが,本当ですか?
【回答】
ネタとしては面白いのですが,1919年時点でモンテネグロ王国は消滅しています.
現在のモンテネグロがこの王国の後継国家と見なされているのかは存じませんが,もし後継国家なのであれば,恐らくモンテネグロ王国→ユーゴ王国→ユーゴ連邦→現モンテネグロという流れで,ユーゴスラヴィア連邦が日本と国交を結んでいますから,戦争が続いているとは言えないでしょう.
もし後継国家でないのであれば,1919年のモンテネグロ王国消滅時点で,「日露戦争」も終わったことになるかと.
▼ 追加回答:
最新の報道によれば,
日露開戦にあわせ,モンテネグロが派兵をロシアに打診
↓
ロシア断る
ということで,そもそも日本との間で戦争状態になったことはないそうだ.
▲