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◆◆海軍 Haditengerészet
<◆日清戦争
<戦史FAQ目次
清国海軍の士官たち
(画像掲示板より引用)
「D.B.E. ミニ型」◆(2007/12/18) 日清戦争-海軍活躍絵巻(情報源かーずSP)
【質問】
日本一国なのに,どうして連合艦隊なのですか?
【回答】
時は明治27年.いよいよ風雲急を告げる日清関係を前にして,当時の最新鋭艦をもって編成されていた「常備艦隊」と,2線級の艦艇をもって編成されていた「西海艦隊」をもって,日本海軍最初の連合艦隊が編成されたのが,その起原.
初代司令長官は伊藤祐亨中将.
↓の「聯合艦隊」の項参照
http://homepage2.nifty.com/nishidah/t_xa9.htm
【日露戦争後の連合艦隊解散の辞】
百発百中の一砲能(よ)く百発一中の敵砲百門に対抗し得るを覚らば,我等軍人は主として武力を形而上に求めざるべからず.
惟ふに武人の一生は連綿不断の戦争にして時の平戦に依り其責務に軽重あるの理無し.
事有らば武力を発揮し,事無かれば之を修養し,終始一貫其本分を尽さんのみ.
過去一年有半彼の風濤と戦い,寒暑に抗し,しばし頑敵と対して生死の間に出入せし事,固より容易の業ならざりし,観ずれば是亦長期の一大演習にして之に参加し幾多啓発するを得たる武人の幸福比するに物有らず.
神明は唯平素の鍛練に力め,戦はずして既に勝てる者に勝利の栄冠を授くると同時に一勝に満足して治平に安ずる者より直に之を奪ふ.
古人曰く「勝て兜の緒を締めよ」と
明治三十八年十二月二十一日
連合艦隊司令長官 東郷平八郎
【質問】
戊辰戦争で榎本武揚が艦隊を率いて脱走した際の旧幕府の海軍力について,よく「東洋一」と表現されているのですが,明治政府の海軍力は清より劣っていて,日清戦争当時でも劣勢だったとも言われています.
これはどういうことなのでしょうか?
清が1870~80年代にかけて急速に,海軍力で日本を凌駕したということですか?
【回答】
まったくその通り.
清国には李鴻章という人物がいて,彼によって清国の海軍は建設されたといっていい.
彼が1870年に直隷総督と北洋大臣(北の海の海軍大臣)に任命されてから,関税収入を利用して北洋海軍を急速に拡張している.
特に1885年に購入して北洋艦隊に配備された戦艦「鎮遠」と「定遠」の2隻は,世界的にも大艦と呼んでもいい立派な戦艦で,日本海軍にとって脅威だった.
軍事板,2006/02/20(月)
青文字:加筆改修部分
ただ,清朝の対日海軍増強策は後手後手に回って,予算要求に対して支払いが追いついていません.
対日艦隊である北洋水師は確かに最新最強の軍艦で固めてはいますが,ほかにも南洋水師・広東水師・福建水師も並行して増強せねばなりませんから,とりあえず北洋水師を増強しつつ,型が古くなったら他の艦隊にお下がりする形式で増強をしました.
明治7年に沖縄の漁民が台湾の原住民に虐殺された征台の役において,日本は即座に日進・筑波・孟春・龍驤を派遣しましたが,当時の清朝は対抗艦を持ちませんでした.
そこで翌年に,龍驤・虎威・飛霆・掣電の4隻をアームストロングから購入しますが,これは機動力のある日本砲艦とは正反対に,固定砲のレンデル砲艦でした.
レンデル砲艦は主砲が旋回しないので,多数の船がないと使い物になりません.
しょうがなく,明治12年に鎮東・鎮南・鎮西・鎮北,14年に鎮中・鎮辺・海鏡清を購入して糊口をしのぐ形になります.
ようやく明治14年に念願の定遠・鎮遠を購入して形勢逆転となるわけですが,予算不足で3隻目の甲鉄艦は断念して巡洋艦済遠で我慢しなければなりませんでした.
今度は来遠・靖遠・致遠などの巡洋艦,平遠・超勇・揚威などの本格的砲艦の整備に時間がかかりまして,日清戦争勃発時には,広東水師から広甲・広乙・広丙などをレンタルして補充するなどしているので,やっぱ足りてないと判断できるんではなかろうかと….
鷂 ◆Kr61cmWkkQ :軍事板,2006/02/20(月)
青文字:加筆改修部分
【質問】
中国の今の国旗は五星紅旗ですが,日清戦争時代の清国海軍は,軍艦にどんな旗印をつけていたのでしょうか?
【回答】
1863年の海軍創設時は,皇帝の権威を表示するため,船首旗には黄地に青龍を置くことになっていましたが,紆余曲折があり,緑地に黄色い聖アンドリュー十字が描かれ,中心部に三角の中に青龍が描かれる海軍旗が制定されています.
ちなみに,緑地に黄色い聖アンドリュー十字は,海軍司令官に就任した英国人Charles
Gordonの一門に伝わる色だったり.
1872年11月10日に,この旗が清朝の公式海上用官用旗,海軍旗となりますが,1890年からは,中央の紋章部分のみが取り出されて,矩形となり,黄地に青龍が描かれるだけの旗(下画像)となりました.
これが,1912年の清朝崩壊まで続きます.
蛇足ながら,緑地に黄色の聖アンドリュー十字の旗は,中央に描かれた青龍が除かれ,海事税関旗となりました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2006/03/04(土)
青文字:加筆改修部分
【質問】
北洋水師って何?
【回答】
北洋水師 Beiyang Fleet は,日清戦争で壊滅した,清朝の艦隊.
水師とは「艦隊」の意味.
1874年,南洋水師から抽出された艦艇4隻をもって,その始まりとされ,清仏戦争のあった1884年当時は,清国海軍で2番目に大きな艦隊に成長していた.
最盛時には清国海軍は4個艦隊(北洋水師,南洋水師,福建水師,広東水師),83900総トン,78隻を擁していたが,1888年,西大后の宮殿の修理・建設に,その予算が流用されたため,艦隊建設は停止し,そのまま日清戦争を迎えた.
<以下,所属艦艇>
装甲艦
定遠型 : 定遠 - 鎮遠
装甲巡洋艦
經遠型 : 經遠 - 来遠
防護巡洋艦
致遠型 : 致遠 - 靖遠
済遠
広甲 ※
広乙型 : 広乙 - 広丙 ※
巡洋艦
平遠
揚威型 : 揚威 - 超勇
砲艦
鎮東
鎮西
鎮南
鎮北
鎮中
鎮辺
練習艦
康済
威遠
畝捷
補助艦
泰安
鎮海
操江
?雲
水雷艇
左隊一号
左隊二号
左隊三号
右隊一号
右隊二号
右隊三号
福龍 ※2
捷順
定遠一号 (定遠艦載艇)
定遠二号 (定遠艦載艇)
鎮遠一号 (鎮遠艦載艇)
鎮遠二号 (鎮遠艦載艇)
※
この3隻は日清戦争勃発時,たまたま,恒例の北洋水師での連合繰練に派遣されていた,広東水師の巡洋艦.
清国海軍は統一された組織になっておらず,各艦隊は異なる軍閥に所属しており,日清戦争は北洋艦隊以外の艦隊にとっては,「我々とは無関係な戦争」だったため,それら3個艦隊のうちで,日清戦争に参加したのは,この3隻のみ.
※2
元は福建水師所属だったが,日清戦争当時は北洋水師所属.
【参考ページ】
http://ja.wikipedia.org/wiki/北洋艦隊
http://en.wikipedia.org/wiki/Beiyang_Fleet
http://www.beiyang.org/index1.htm
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/3853/clh/jyun2.htm
http://www.warbirds.jp/ansq/2/B2000631.html
http://sinojapanesewar.com/forces.htm
【ぐんじさんぎょう】,2012/07/08 20:40
を加筆改修
【質問】
日清戦争の黄海海戦の参加艦艇を,3行で教えて!
【回答】
清国側は丁汝昌提督率いる北洋艦隊で,戦力は装甲艦2,巡洋艦10,水雷艇2.
対する日本海軍は伊東祐亨中将率いる連合艦隊で,戦力は巡洋艦8,コルベット2,砲艦1,仮装巡洋艦1.
海戦は日本側勝利に終わり,清国艦隊は威海衛湾に逃げ込んで,そこに立て篭もりましたとさ.
●清国海軍
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●日本海軍
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松島 |
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厳島 |
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橋立 |
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扶桑 |
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千代田 |
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吉野 |
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浪速 |
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高千穂 |
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秋津洲 |
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比叡(鉄骨木皮) |
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赤城 |
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西京丸(木) |
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【参考ページ】
http://ww1.m78.com/topix-2/battle%20of%20yalu.html
http://www.geocities.jp/kigiken/shipping1.html
http://www007.upp.so-net.ne.jp/togo/dic/data/koukai.html
日清両艦艇艦型図等一覧
(画像掲示板より引用)
厳島
(こちらより引用)
【ぐんじさんぎょう】,2012/06/24 20:40
を加筆改修
【質問】
三景艦って何?
【回答】
「三景艦」こと「松島」型防護巡洋艦は,清国北洋艦隊の主力である砲塔装甲艦「鎮遠」「定遠」に対抗すべく建造された,日本海軍のビックリドッキリ・メカ.
「定遠」級が30.5cm砲をそれぞれ4門備えていたが,当時の日本には,真っ当に対抗できる戦艦を造る予算もなければ,港湾施設もないので,「じゃあ,32cm砲を1門だけ積んだ,巡洋艦4隻を建造すれば,なんとか対抗できるんじゃね?」という発想で建造.
しかし蓋を開けてみると,32cm砲は訓練未熟による故障頻発で役に立たず,代わりに副砲の速射砲と高速性とをもって,「定遠」級の甲板上を焼け野原にすることに成功し,黄海海戦に勝利を得た.
※ 32cm砲が役に立たなかったのは,「射撃時の反動」を4000tの艦では抑えられなかったため,とする記述も見られるが,ここでは『日本巡洋艦史』の記述に従った.
本当にそのような問題で使えなかったのだとすれば,日清戦争後,直ちに主砲が換装されているだろうはずだが,実際には32cm砲は除籍されるまでそのまま搭載され続けている.
【参考ページ】
『世界の艦船増刊第32集 日本巡洋艦史』(海人社,1991),p.40-43
http://www.geocities.co.jp/Technopolis-Mars/5908/3k/index.htm
http://ww1.m78.com/topix-2/battle%20of%20yalu.html
http://homepage2.nifty.com/nishidah/stc0303.htm
【ぐんじさんぎょう】,2012/06/26 20:40
を加筆改修
【質問】
三景艦について詳しい本あったら教えて下さい.
ポーランド語とかだとハードルが高すぎますが,英語にあったらそれでもかまいません.
図面とかあると,なお嬉しいです.
【回答】
何号か忘れたが世艦の黄海会戦100年特集.
ここ15年の間に出た出版物では,一番まとまってるし安価.
さすがに版元に在庫はないと思うけど,ヲタ本専門の古書店探せば結構ある.
あと,資料としては使っちゃいけないけど,パヤオの『雑想ノート』は読み物として面白いし,よく調べて書いてある.
WW1以前の近代軍艦について書かせたら,あの人は熱い.
軍事板,2011/01/31(月)
青文字:加筆改修部分
【質問】
巡洋艦「秋津洲」って何?
【回答】
「秋津洲 Akitsushima 」は,日本海軍の防護巡洋艦であり,計画設計から建造まで初の純国産艦.
先の三景艦の4番艦となるはずだったところ,佐双左仲・造船少監の強硬な反対により,英国式の堅実な設計に変更され,1890年に建造された.
アームストロング 1892年型 15.2cm(40口径)単装速射砲4基を主砲として搭載し,日清戦争では輸入巡洋艦と比べても遜色のない活躍をしたという.
【参考ページ】
『世界の艦船増刊第32集 日本巡洋艦史』(海人社,1991),p.44-45
http://military.sakura.ne.jp/navy/c_akitu1.htm
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/3853/clh/jyun2.htm
http://homepage2.nifty.com/nishidah/stc0304.htm
http://ja.wikipedia.org/wiki/佐双左仲
http://www17.big.or.jp/~forlife/NewFiles/%8FH%92%C3%8FF/akitu.html
http://battleships.ru/warships/akitsushima_1890_jpmalkov/ship_rsmalkov.html
【ぐんじさんぎょう】,2012/06/28 20:50
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【質問】
「定遠」級装甲艦って何?
【回答】
装甲艦「扶桑」,フリゲート「金剛」「比叡」を輸入する等して,増強を図る日本海軍に脅威を感じた清国が,ドイツに発注した装甲艦で,1885年に就役した.
主砲としてクルップ 30.5cm(25口径)連装砲2基を搭載し,就役当時,「東洋一の堅艦」と言われた.
黄海海戦では損傷を受けて撤退したが,工業能力の低い清国では修理叶わず,以後は威海衛に回航されて浮き砲台とされ,最期は「定遠」は大破・自沈,「鎮遠」は日本海軍に鹵獲,編入された.
【参考ページ】
『世界の艦船増刊第32集 日本巡洋艦史』(海人社,1991),p.151-152
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9A%E9%81%A0%E7%B4%9A%E6%88%A6%E8%89%A6
http://battleships.ru/warships/ting_yuen_1879_cnmalkov/ship_rsmalkov.html
http://battleships.ru/warships/chen_yuan_1880_cnmalkov/ship_rsmalkov.html
http://www42.tok2.com/home/fleet7/Museum/Muse516.html
「定遠」級イラスト
「鎮遠」兵装配置
(図はこちらより引用)
【ぐんじさんぎょう】,2012/06/29 20:50
を加筆改修
【質問】
経遠級装甲巡洋艦って何?
【回答】
列強の東洋支配に対抗すべく,清国がドイツのフルカン社に発注した装甲巡洋艦で,「経遠」と「平遠」の2隻.
当初の予定では,「定遠」級装甲艦と同型艦となるはずだったが,予算不足で巡洋艦となった.
先に発注された防護巡洋艦「済遠」を装甲巡洋艦に改設計したものであり,1887年に竣工し,同年12月に清国海軍に引き渡された.
黄海海戦において,清国艦隊の先頭にあった経遠は,集中射撃を受けて炎上沈没.
平遠は同海戦にて損傷を受け,威海衛に撤退.
北洋水師降伏後の1895.2.17,日本海軍に鹵獲・編入され,日露戦争にも参加した.
【参考ページ】
http://en.wikipedia.org/wiki/Chinese_cruiser_Jingyuan_(1887)
http://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%93%E9%81%A0%E7%B4%9A%E5%B7%A1%E6%B4%8B%E8%89%A6
http://mpmc.web.fc2.com/keien.html
中川務・阿部安雄編著『幕末・明治の日本海軍』(KKベストセラーズ,2010),p.78
経遠
(こちらより引用)
その装甲断面図
(こちらより引用)
【ぐんじさんぎょう】,2012/07/19 20:50
を加筆改修
【質問】
水雷艇「福龍」って何?
【回答】
「福龍(Pu Lung)」は,1886年にドイツで竣工した,清国福建水師の大型水雷艇.
排水量 115t 全長42.75m 全幅5.0m.
機関は石炭専焼で一軸推進,最大出力1,016馬力,速力20ノットの快速艦だった.
黄海海戦では北洋水師と共に戦い,日本海軍の仮装巡洋艦「西京丸」に,至近距離から雷撃するなど奮闘したが,1985年,威海衛にて日本海軍に鹵獲された.
日本海軍では,同じ名前のまま再就役――「ふくりょう」と呼んでいた模様.
しかし,同型艇がないために艦隊に編入しづらく,ほぼ一貫して竹敷要港部に附属し,韓国沿岸の警備に従事していた.
1900年には,老朽化した汽車缶から水管缶へと換装,大型の1本煙突だった艦容が,2本煙突の平凡な艦容に改造された.
日露戦争中は内地にて,軍港警備に従事し,1908年除籍された.
【参考ページ】
中川務・阿部安雄編『幕末・明治の日本海軍』(KKベストセラーズ,2010),p.82
http://ja.wikipedia.org/wiki/福龍 (水雷艇)
http://homepage2.nifty.com/nishidah/stc0648.htm
http://mpmc.web.fc2.com/hukuryuu.html
【ぐんじさんぎょう】,2012/07/21 20:00
を加筆改修
【質問】
「鎮級」砲艦って何?
【回答】
1874年に起きた台湾征討により,海防力強化の必要を強く感じた清国政府が,イギリスに発注した砲艦.
1880~1881年,ニューカッスルのアームストロング社エルジック工場で11隻が竣工し,北洋水師に所属した.
常備排水量はたった420tなのに,28cm砲という,当時の巡洋艦並みの主砲を搭載していたのが特徴.
小型艦に大口径砲を積み込み,ローコストで装甲艦に対抗しようという思想に基づいて建造されたためで,イギリス人技師レンデルが考案したことからレンデル式砲艦と呼ばれる.
このあたりの発想は,日本の三景艦と似たようなもので,日本海を挟んで対立していた日清両国が,共に似たような発想の軍艦を建造していた,という点は興味深い.
けれど三景艦よりも小さい艦に28cm砲は,やはり無理があったようで,発砲すると反動で艦がストップしたという.
しかもこの28cm砲は旋回機構を持たず,前にしか撃てなかったため,実戦では全く役には立たなかった.
1985年2月,威海衛にて,「鎮東」「鎮西」「鎮南」「鎮北」「鎮中」「鎮辺」の6隻が,日本海軍に鹵獲された.
「鎮辺」でなく,もし「鎮白」であったなら,麻雀が成立したのに,惜しいな.
ちなみに「鎮級」というのは,この日本海軍時代につけられた,この6隻の総称.
1903年,「鎮北」以外の5隻が除籍,1906年には「鎮北」も除籍され,他の官庁に移管されたり,魚形水雷(のちの魚雷である)の標的にされたりした.
【参考ページ】
中川務・阿部安雄編『幕末・明治の日本海軍』(KKベストセラーズ,2010),p.80-81
http://military.sakura.ne.jp/navy/o_tinto.htm
http://www.down.ne.jp/ish/ijn/gbhist/other2.html
http://www.beiyang.org/bybq/zhend.htm
「鎮東」
(こちらより引用)
同側面図
(こちらより引用)
「鎮北」側面図
(こちらより引用)
【ぐんじさんぎょう】,2012/07/31 20:00
を加筆改修
【質問】
中央砲郭装甲艦「扶桑」って何?
【回答】
佐賀の乱や,台湾問題に関する清国との対立の結果,海軍力不足を痛感した明治日本政府が,装甲コルヴェット「金剛」型と共に英国に発注した,小型装甲艦.
建造当時は装甲フリゲートと呼ばれたが,実態は装甲コルヴェット.
しかし「日本初の戦艦」扱いされることもある.
完成時は,帆走設備を持つ3檣艦で,船体中央の中甲板砲郭に,クルップ
1861年型 24cm(20口径)単装砲を,上甲板砲郭にクルップ
1863年型 17cm(25口径)単装砲を,それぞれ片舷2基ずつ装備し,煙突は昇降式.
明治26(1893)年に近代化改装を行い,2檣に改正されて帆装は廃止.
煙突を固定式に改め,17cm砲を撤去して,アームストロング
12cm(40口径)単装速射砲を,上甲板砲郭に片舷2基ずつ装備した上に,アームストロング
15.2cm(40口径)単装速射砲を,前後に1基ずつ搭載し,翌年,日清戦争に参加した.
ところで,「扶桑」が国名になっている「あの世界」では,この艦は「日本」という名前にでもなったのだろうか?……
【参考ページ】
『世界の艦船増刊第24集 日本戦艦史』(海人社,1988),p.12-13
『世界の艦船増刊第32集 日本巡洋艦史』(海人社,1991),p.9
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/3853/jnbh/jnbhD1.fusou.htm
竣工直後の「扶桑」
(こちらより引用)
明治33年春の修理・改装後の「扶桑」
同側面図
(こちらより引用)
【ぐんじさんぎょう】,2012/07/02 20:20
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【質問】
あちらの大学の必須科目「中国革命史」の教科書にはこんな記述があるらしいけど,日本海軍はこんな卑怯なことをしたのか?
「9月17日,中国海軍提督 丁汝昌が率いる北洋艦隊が,鴨緑江口大東溝海上で日本艦隊と大規模な海戦を展開した.これが『黄海大戦』である.
この海戦で 日本艦は初め米国国旗を掲揚して中国艦隊に接近し,突如
日章旗を掲げて北洋艦隊を攻撃した.
5時間に及ぶ『黄海海戦』で中国艦は沈没5艘,日本艦は大破6艘であった.
中国の主力艦隊は,李鴻章の命令で威海衛に退却したが,後に全滅した」
http://www.threeweb.ad.jp/logos/dcc2/akasia2/akasia34.htm
【回答】
黄海海戦戦闘模様
http://www.geocities.co.jp/MotorCity-Circuit/2971/shipping1.html
当時の日本海軍が米国旗を掲げて偽装するなんて考えにくいんだが
それに,まともな海軍であれば,敵対する敵の艦影くらいは記憶させるだろう.
日本艦艇はフランス製やイギリス製が主で,アメリカのものはない.
それを考えれば見分けがつくはずだが,,
もしつかなかったとすれば,だまされた方が悪いとしか言うしかないな.
ただし黄海海戦は,三景艦の役立たず舶来30cm砲と,近代海戦への素人童貞な混乱のせいで,日本海軍艦艇もかなりの打撃をうけた‘辛勝’なんだな.
黄海では北洋水師主力艦隊の無力化を図った上で撤退するのが精一杯.
砲艦「赤城」と仮装巡洋艦「西京丸」などは,沈まなかったのは幸運としか言いようが無い.
こんな低速でか弱い船2隻が巡洋艦3隻と距離800メートルで撃ち合えば,普通なら助からん.
事実,赤城は艦長坂元少佐以下死傷者28名 西京丸も30サンチ砲弾その他を満身に受け大破.
この2艦が狂ったように撃ちまくるのと,清国の巡洋艦が低練度&低士気だったのが幸いした.
定遠・鎮遠が実際に無力化されのは後日の威海衛戦で,しかも沈んだ定遠は自沈・自爆だし.
敵の海上戦力を無力化し海上交通路を確保するという戦略企図は達成できたから,完璧に勝ちは勝ち.
黄海海戦(日清戦争:1894年9月17日)経過@本日,天気晴朗なれど
http://www.high-sea-fleet.com/naval_txt/YaLu.html
定遠の主砲弾(和歌山/有田・須佐神社)@帝国陸海軍現存兵器一覧
http://www.asahi-net.or.jp/~ku3n-kym/sonota/teien/teien.html
なお,上述の砲艦「赤城」は非常な幸運艦であったらしい
この黄海海戦で沈まなかったのみならず,除籍後は運送船「赤城丸」として長らく使用された.
そして太平洋戦争も生き延び,戦後二回沈没するが浮揚して復帰(一度は台風で浸水沈没 二回目は触雷沈没).
艦齢,実に62年に及び,昭和28年に老朽化により解体された.
現在は「高橋幸宏」として活躍中の丁汝昌
(こちらより引用)
【質問】
黄海海戦では,装甲のある軍艦は日本海軍に何隻あったか?
【回答】
海人社の「日本巡洋艦史」をめくってみましたが,黄海海戦参加の日本艦の内,
舷側装甲があったと言えるのは,
千代田(92mm)
比叡(137mm,ただし鋳鉄)
扶桑
のみです.
扶桑は鋼船で,しかも水線全体に渡って装甲帯を持ちます.
この艦のタイプシップは,1870年に建造された英国の中央砲郭艦Iron
Dukeを小型化したChileのAlmirante Cochraneです.
一方の比叡は(同型艦,金剛も)舷側装甲を持ちますが,これは船体中央部にのみ施されており,船体は鉄骨木皮構造です.
こちらのタイプシップは,RussiaのGeneral
Admiral,英国のGem級巡洋艦になります.
千代田の舷側装甲も中央部のみでした.
他の艦は,いわゆる防護巡洋艦と呼ばれるもので,舷側装甲はなく,水平線付近の中甲板の全面に2~3インチの装甲を張っていました.
したがって,もしも清国海軍が,当初の予定通りに速射砲を多数配備していたなら,日本艦も被害続出だったのではないかと言われています.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2
消印所沢 ◆z3kTlzXTZk)
【質問】
防護巡洋艦とは?
【回答】
防護巡洋艦は,近代的な巡洋艦発展直前までの艦種で,
「舷側に装甲板を持たず,多くの場合,喫水線よりやや上方の中甲板に薄い装甲をはって防御甲板となし,その下に機関部,弾薬庫など重要区画を収めた方式の巡洋艦」(日本の軍艦「重巡Ⅰ」)
となってます.
【質問】
黄海海戦時に砲塔内で負傷した伏見宮元帥は,敵弾による戦傷ではなく膅発発事故によるものだっただというのは本当ですか?
【回答】
その可能性もある,という話.
過去ログにあったのでコピペします.
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長面の宮の負傷に関しては野村實氏が「天皇・伏見宮と日本海軍」でとりあげているが,主に黛治夫の調査によるもの.
この事故は俗に
「第3砲塔の砲塔長だった伏見宮が,砲塔付近で炸裂した敵弾により負傷した」
と言われているが,
・戦後多数のインタビューや資料をまとめ刊行された博恭王の公式伝記によると,「敵弾が砲塔に命中し,右砲砲身を切断,吹き飛ばした」とされていること
・強固な構造の30センチ砲身が,敵弾の命中により切断される事例・公算は極めて少ないこと
・1937年にかつて三笠砲術長だった加藤寛治に,砲術学校教官だった黛治夫が,この件を問い合わせたところ,事故であったことを認めたこと
・戦後,伏見宮負傷後第3砲塔の指揮に当たった三笠分隊士が黛の質問に応じ,膅発事故であったことを認めた
・博恭王の伝記で,砲塔内勤務だった一水兵の記述に一連の事象を「珍事」としていること
など
ソースが隔たっていますし,どこまで信じるかは微妙だが,「実戦の参加者・負傷者」であることが一つの伏見宮が権勢を誇った一因なわけで,これが事実で当時周知のことであったら歴史に影響はあったのかしら・・・など考えてしまう.
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鷂 ◆Kr61cmWkkQ :軍事板,2005/08/15(月)
青文字:加筆改修部分
【質問】
幕末に幕府や諸藩がせっせと買い込んだ艦船は,日清戦争の頃はどうしていたの?
【回答】
1860~1868年の間に,日本が輸入した艦船は,188隻に達したともいわれるが,内容は玉石混淆.
クリミア戦争や南北戦争後に余剰化した中古軍艦も多く,日清戦争の頃には大半が,既に老朽化して廃船になっていた.
また,明治新政府は財政難により,海軍の規模を大幅に縮小,明治2年には軍艦3隻,運送船4隻しか在籍していなかった.
(その後,諸藩から艦船の献納を受ける)
<明治27(1894)年まで生き残っていた幕末艦船>
「孟春」(砲艦.1867年建造,のちに佐賀藩が購入.その後は測量や朝鮮半島警備に従事.1896年廃船)
「鳳翔」(砲艦.明治2年,長州藩に到着.1881年以降,練習艦.1899年除籍,1906年廃船)
「龍驤」(装甲コルベット.熊本藩主・細川慶順の命により,英国で1865年建造.1888年に機関を撤去し,係留されたまま,砲術練習艦として使用さる.
1893年に除籍されるも,その後も横須賀の砲術練習所で使用.1908年,売却)
「蟠龍」(砲艦.元は英国王室ヨットだったが,1858年,英国から将軍へ寄贈.1888年,高知県に無償で払い下げられ,捕鯨船に.その後,商船に転進した後,1897年解体)
【参考ページ】
中川務・阿部安雄編『幕末・明治の日本海軍』(KKベストセラーズ,2010)
【ぐんじさんぎょう】,2012/07/20 20:00
を加筆改修
【質問】
日清戦争直前の日本の海運能力は?
【回答】
1880年頃の関西を起点とした航路に就航していた船は,110余隻,70余名の船主に達していました.
当時は三菱と共同運輸の双方が,横浜を中心に激しい競争を繰り広げていて,満身創痍の状態であり,それでは外国汽船会社に漁父の利を与えかねないと,政府首脳や両社の社長が話し合いを重ね,1885年に漸く,両社が合併して,日本郵船会社を設立しました.
この日本郵船会社は,日本の海運業界のガリバー的存在で,三菱会社からの汽船29隻,帆船1隻及び,共同運輸からの汽船29隻,帆船10隻の合計69隻を保有していました.
とは言え,この日本郵船は半官半民に近く,正副社長や理事は,保証期間中政府が特命することになっています.
又,航路の開設についても,政府の命令に従い,例えば1886年2月にはその命令で,長崎~天津航路を運航しています.
日本郵船の運航航路は,三菱創業時の神戸~高知に加え,横浜~神戸~下関,横浜~四日市,本州~北海道などと成っていました.
このうち,本州~北海道は安定した営業でしたが,1889年7月に東海道線の新橋~横浜が全通すると,横浜~神戸,横浜~四日市の路線は急激に減少し,廃止,縮小されたりします.
1894年の路線は,横浜~神戸~下関~長崎~上海が週1回1往復,神戸~下関~長崎~釜山~ウラジオストクが月1回1往復,神戸~下関~長崎~釜山~天津が月1回1往復,神戸~下関~長崎~対馬~天津~牛荘が月1回1往復,神戸~尾道~下関~境~新潟~函館~小樽が週1回1往復,神戸~鹿児島~大島~琉球が20日毎に1往復,神戸~下関~長崎~マニラが月1回1往復となっていました.
郵船が圧倒的な大きさを誇る一方で,瀬戸内を中心とした船主は互いに競争したり協調したりを繰り返していました.
とは言え,このままでは郵船に負け,自滅してしまうと言う反省が彼等の間からも起こり,1884年5月有限責任大阪商船会社が設立されます.
設立時は船主55人,提供船舶93隻(15,400トン(1隻平均165トン))と郵船よりも大所帯でしたが,その実,過当競争で疲弊した船ばかりで,有効に活用出来るのはそのうち7割程度でした.
設立当初の航路は,これまでの船主が運航してきた18本線と4支線でしたが,業績不振で将来採算見込のない,第16本線の大阪~撫養線,第4支線の飾磨~多度津線,第18本線の大阪~須崎線,第3支線の一部である広島~尾道線,第11本線の大阪~尾道線,第2支線の馬関~広島線を廃止して,15本線と2支線(一部縮小)となり,新たに需要の見込める,大阪~長崎~鹿児島線,大阪~沖縄線,大阪~福山線の3本線を開設しました.
又,明治初期は航海技術が江戸時代の稚拙な航法に依っていた為,山陽航路でも,大畠瀬戸の難所を避けて,四国沿岸に沿って三津浜に寄港し,その後,針路を一転して山口県室津に至り,三田尻から下関へと向かっていました.
商船となってからは人材も育ち,航法にも慣れてきた為,1886年下半期からは尾道~竹原~音戸~広島~柳井と言った山陽路に寄港し,三津浜寄港を廃止,1887年11月からは山陽航路は伊予各港を経由する事を止めて運航を効率化することになります.
とは言え,拡大したり土佐商船などを買収して路線拡張を続けては居ますが,元々一杯船主の集まりであり,資金力に乏しく,政府からの助成金を得て,新型船の導入を図ることになります.
でもって,政府からの助成金を受けると言う事は,その政府の命令に従って,航路を開設しなければ成りません.
この為,大阪~三角線,大阪~若津線,大阪~多度津線,三角~百貫線,馬関~長洲線を開設することになりました.
引き替えに助成金(1888年から8カ年,年額5万円,これに加え,郵便航送料として同期間,別途2万円)を得ると言う事は,商船の体力向上に非常に役立ちました.
一応,日本の船舶輸送業界はこの様に,半官半民の日本郵船と従来船主の合同体である大阪商船の2大会社に依って運航され,この大阪商船の大合同に参加しなかった社外船は,殆どが近距離の弱小船主であり,余り競争相手となる存在ではありませんでした.
しかし1885年上半期に,山口県徳山を本拠にした共栄社が,第1徳山丸で中国地方の沿岸部路線を開設し,宇和島の宇和島運輸会社が,第1宇和島丸で大阪~宇和島間の路線を開設し,大阪商船に対抗する様になります.
更に大阪の共同組(後に尼崎汽船)が,大阪~下関間の中国地方沿岸航路,大阪~伊万里間の九州航路を開設し始めます.
共栄社は山陽丸と防長丸を追加して,大阪商船の路線に対抗,尼崎汽船は第1運輸丸,第2運輸丸,電信丸を投入し,宇和島の宇和島運輸会社は第1宇和島丸に加え,第2,第3宇和島丸を追加投入,他に和歌山の共立汽船は,東海運輸丸と共立丸で大阪商船に対抗,九州は福岡の大川運輸も大川丸で対抗しました.
大阪商船は,対抗策として新造船または船舶改装で対抗しようとしますが,既存船舶の補修に足を引っ張られ,船舶改良が思う様に進みませんでした.
こうした競争は,先ず第1段階が運賃値下げで貨客争奪戦が行われ,第2段階は旅客に対するサービスとして,賄いを良くする,乗客全員にタオルを渡す,行き着く所は,船中で寝酒まで提供したり….
寄港先では,代理店の回漕業者の若い者が,自社の提灯片手に木賃宿や旅籠を回ってお客を捜し,荷物を担いで,伝馬船で本船まで送り届けるなどのサービス,乗客獲得合戦に至りました.
ここまで行くと,再び共倒れになるのは目に見えているので,各船主と郵船,商船首脳との間で調整が行われ,1890年以降は,各航路で合併計算方式が行われ,1893年には関西汽船同盟と言う一種のカルテルが成立し,航路別の運航会社が定められる事になります.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/07/22 22:41
さて,一昨日,商船との競争について書いた訳ですが,その競争相手の1つが尼崎汽船でした.
尼崎というのは,別に尼崎市とは全く関係なく,会社を尼崎伊三郎と言う人が興したものです.
彼は最初,1880年に60トンの運輸丸を購入し,伊勢湾内の航路を拓きました.
当時は,尼崎汽船ではなく,共同組と称していました.
しかし,伊勢湾内の航路は,瀬戸内航路と同じく一杯船主が多数出現し,過当競争が繰り広げられます.
この事態を憂慮した,時の県令などの斡旋により,話がまとまり,協定が成立しました.
この結果,共同組の航路は廃止することとなり,1885年,第3運輸丸と言う船と共に,航路を伊勢湾汽船に譲渡し,別の航路へと進出を図ります.
そして彼が目を付けたのが,当時,隆盛を極めていた瀬戸内航路です.
先ず1885年3月,大阪~下関間で,中国地方各港を経由する山陽航路を開設し,第1運輸丸,第2運輸丸を就航させます.
次いで8月には,大阪~伊万里間の九州航路を拓き,これに電信丸を就航させました.
こうして資本を蓄え,1888年4月には,九州航路を長崎経由三角港まで延長して,第2電信丸を投入,12月には175トンの新運輸丸が竣工して山陽航路に加わりました.
1889年6月になると,153トンの新造船第3電信丸を山陽航路に投入し,8月には新たに大阪~多度津~岡山航路を開設,これに第1運輸丸,第2運輸丸を転用します.
1892年になると,新たに大阪~神戸~下関~九州西南各港~鹿児島の鹿児島航路を開設.
また,北九州へは若松航路を開設しています.
更に,1893年には大阪~坂越の播州航路を開設して,第1姫路丸を就航させました(1909年3月廃止).
11月になると,更に大阪~細島の細島航路を開設しますが,これは同盟船主の協定で,1894年には早くも廃止しました.
共同組は,この様に拡張を重ねてどんどん規模が大きくなり,1904年に尼崎汽船共同組,1905年には尼崎汽船部となります.
以後,関門~別府線(1906年3月~1909年2月),宇品~尾道線(1907年1~10月),下関~境線(1909年3月~1910年3月),長崎~島原線(1909年3月~1910年9月),高松~土庄~岡山線(1909年3月~),宇品~今治(1910年8月~),宇品~三津浜線(1912年6月~)と就航と廃止を繰り返したりしています.
当時,山陽航路も過当競争にありました.
最終的には調整が行われた訳ですが,明治中期は未だ自由主義経済状態でした.
例えば1885年,山口県徳山に資本金30万円の汽船会社共栄社が誕生します.
この資本金の出資比率は,25%は毛利家本家,25%は徳山毛利家が,残りを徳山毛利家の士族公債と有志の出資となっています.
航路は下関~大阪間で,第1~第3徳山丸と言う汽船を投入します.
当時の俗謡では,「船は一丸機械は名草,程の良いのが佐伯丸」と言われましたが,この「一丸」が第1徳山丸の事でした.
ところが当時,この航路には三菱,大阪商船,尼崎汽船,共栄社その他の一杯船主が犇めいており,運賃やサービス競争が激しさを増していました.
前にも述べた様に,乗客運賃は半額,遂には乗客に賄い付きの酒まで出す状態.
共栄社は各徳山丸の他,更に金城丸,玄洋丸,鯉洋丸を加え,下関を起点に,博多,長崎,若松,更に山陰航路まで手を伸ばします.
大阪商船はこれに対抗する様に,赤間関出張所を開設して,航路に新造船を配し,尼崎汽船は新運輸丸の竣工で対抗するなど,競争は益々熾烈になりました.
この競争は1888年まで続きますが,先ずは共栄社の体力が落ちてきました.
有力者の中には,大阪商船に合併する様に勧告する者も居ましたが,経営陣は言う事を聞かず,危険を感じた毛利家は出資を引揚げてしまいました.
これにより,共栄社は資金不足に苦しみ,福川の福田丈之進が資金を持ち込んで社長となります.
彼は北海道航路を新設して,同地で新株を募集したり,紀州航路を新設して,此処でも新株募集を行いますが,船腹不足で約束の定期運航が出来ず,信用を失い,遂に土佐汽船会社に身売りすることとなりました.
とは言え,土佐汽船会社も倒産一歩手前で,とうとうこの土佐汽船会社は日本郵船に合併されることとなります.
こうした弱肉強食の世界の中,尼崎汽船だけはその競争によく堪えました.
元々,尼崎汽船は尼崎家の個人会社であり,家族的な雰囲気が会社にありました.
この為,船員が船主に同調し,米代だけで働くという状態でしたし,船主も本社に踏ん反り返っていた訳ではなく,自ら船に乗り込んで,船客や荷主にサービスに相務めた為,非常に人気が良かったのもあります.
また,ニッチとして,他の会社が引き受けても,余り真剣にしなかった鮮魚輸送には,途中の寄港地を省いて,赤間関から大阪に直行した為,大阪の雑魚場からの受けも良く,鮮魚輸送は尼崎汽船が独占状態でした.
因みに,この尼崎汽船はその後,保有トン数1万トンと,大阪商船に次ぐ勢力となり,1940年には陸軍に97式戦闘機と97式軽爆撃機を各1機献納した記録が残っています.
1942年,交通大合同に伴い,現物出資を以て関西汽船設立に参加し,発展的解消を遂げました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/07/24 23:11
【質問 kérdés】
葛城型スループ艦について教えてください.
Kérem, mondja meg a Kazuragi osztály szlúpról.
【回答 válasz】
葛城型は1887~1888年にかけて国内で建造されたスループ艦.
Kazuragi osztály az szlúp, akit Japánban épített 1887 és 1888 között.
同型艦は「葛城」「大和」「武蔵」の3隻.
鉄骨木皮で,機関出力が増大し,従来の帆走主体から汽走主体となった.
「大和」「武蔵」は後に測量艦となり,戦艦のほうの「大和」「武蔵」よりも多くの功績を挙げた,と福井静夫は述べている.
【参考ページ Referencia Oldal】
http://military.sakura.ne.jp/navy/c_katur1.htm
http://onohama.blog130.fc2.com/blog-category-3.html
https://www.jasnaoe.or.jp/zousen-siryoukan/2016/160530-jasnaoe-Spring-OS2/2016S-OS2-7.pdf
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/81005739.pdf
mixi, 2018.1.4
【質問】
軍歌『日本海軍』の五番,
「大和」魂一筋に 国に心を「筑波」山
「千歳」に残す芳名は 「吉野」の花もよそならず
とありますが,同曲は日露戦争以前に作られたとありますが,既に海軍は「大和」という軍艦を保有していたのですか?
【回答】
有名な戦艦大和は,同名の軍艦としては2代目に当たります.
初代軍艦大和(巡洋艦)は,明治20(1887)年11月6日に竣工しています.
その後,海防艦,ついで特務艦(測量艦)に変更され,昭和10年4月1日に除籍.
長らく港に係留されていましたが,昭和20年9月18日,嵐のために沈没しています.
●初代「大和」(建造時の正式名称は「大和艦」)の要目・略歴
3檣汽帆兼用鉄骨木皮スループ,
排水量1480トン,
速力13ノット,
17センチ砲2門,
12センチ砲5門
明治16年2月23日 起工
明治18年5月1日 進水
明治20年11月6日 竣工
明治31年3月21日 三等海防艦に類別
大正元年8月28日 二等海防艦に類別
大正11年4月1日 特務艦(測量艦)に類別(日本海にある「大和堆」は測量艦大和が発見したもの)
昭和10年4月1日 除籍,司法省に譲渡され浦賀港内に係留され少年刑務所の宿泊船として使用
昭和20年9月18日 台風のため横浜港内で沈没(昭和25年解体)
つまり,二代目大和(戦艦大和)が沈没した後も,初代大和はちゃっかり浮かんでたんだよね.
軍事板
青文字:加筆改修部分
初代「大和」写真
(画像掲示板より引用)
【質問 kérdés】
スループ艦「武蔵」について教えてください.
Kérem, mondja meg a szlúp "Muszasi"-ről.
【回答 válasz】
スループ艦「武蔵」は葛城型の3番艦で,1884年10月1日に横須賀造船所(後の横須賀工廠)で起工され,1888年2月9日に竣工した.
A szlúp "Muszasi" a Kazuragi osztály harmadik hadihajó, 1884.10.1-ben
kezdődött az építése a Jokoszuka hajógyárában (miután Jokosuka Arsenal)
és 1888.2.9-ben fejeződött be.
日清戦争において,仁川方面警備や大連・旅順・威海衛攻略作戦等に参加.
1896年以降,東北地方,北海道および千島列島の警備等に従事.
1898年3月21日,三等海防艦に類別.
1897年以降,海防艦籍のまま測量任務に従事し,1925年にかけて日本近海の水路を測量.
1902年5月1日,暴風のため根室湾口で座礁.
同年7月17日~10月6日,横須賀造船廠にて修理.
日露戦争において,津軽海峡警備.
1912年8月28日,等級改定で三等が廃され二等海防艦に類別変更.
1922年4月1日,姉妹艦「大和」と共に特務艦(測量艦)となった.
1925年,北海道西方において北日本海最大の漁礁を発見.武蔵堆と命名さる.
同年,天売島-焼尻島間を測量し,武蔵水道と命名さる.
1928年4月1日,除籍.
同年10月3日,司法省に移管し,小田原少年刑務所三崎繋留宿泊船として使用さる.
1935年,廃船.
その後,解体された.
【参考ページ Referencia Oldal】
http://www.gyokyo.net/%E4%BC%9A%E7%A4%BE%E6%A6%82%E8%A6%81/%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%A0%86%E3%81%A8%E3%81%AF%EF%BC%9F/
http://military.sakura.ne.jp/navy/c_katur1.htm
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/3853/clh/jyun1.htm
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/81005739.pdf
mixi, 2018.1.3
【質問】
第1号型水雷艇って何?
【回答】
清国海軍の脅威に対抗するために導入された,日本海軍最初の水雷艇(当初は水雷船といった)
水雷艇が出現して間もない1880年,英ヤーロー社に第1号~第4号の4隻が発注され,横須賀造船所で組み立てて,第1号は1881年,残る3隻は1884年に竣工.
兵装は,艇首から突き出した棒の先端に取り付けた爆薬を直接,敵艦舷側に直撃させる「外装水雷(スパー・トーピドー)」だったが,1885年,魚雷発射管を搭載する方式に変えられた.
日清戦争時には既に旧式化していたため,内地警備に従事.
1899年に除籍された.
ちなみに就役当初は第○○水雷艇と称されたが,明治20年代初めからは「号」を付けて第○○号水雷艇と呼称されるようになっている.
【参考ページ】
中川務・阿部安雄編『幕末・明治の日本海軍』(KKベストセラーズ,2010),p.74
http://ja.wikipedia.org/wiki/第一号型水雷艇
http://military.sakura.ne.jp/navy/o_tpno1.htm
【ぐんじさんぎょう】,2012/08/03 20:10
を加筆改修
【質問】
第5号型水雷艇って何?
【回答】
明治18(1885)年度計画によって建造された,日本海軍の水雷艇.
フランス海軍の第75号型水雷艇を元に,ルイ=エミール・ベルタンが設計を行った.
第5号~第9号はフランス・シュナイダー社で建造され,小野浜造船所で組み立てられたが,第10号~第14号,第16号~第19号は,建造・組み立て共に小野浜造船所で行われた.
造船所の名をとって「クルーゾー(Creusot)型」と呼ばれる.
第1号型に比べ,船体がやや大型化して速力も増し,魚雷発射管も2門に増強されるとともに砲力も改善された.
しかし安定性が悪く,日清戦争では第12号が,旅順口小平島沖で強風のため座礁している.
また,小さな船体に機関を押し込めた感じのする艇で,非常に居住性が悪かったといわれる.
大半の艇が威海衛夜襲に参加し,第9号が被弾損傷して航行不能となり,放棄.
これを清国海軍に捕獲された(戦後,艦隊に復帰)
日清戦争後の台湾平定作戦では,第16号が荒天のため沈没.
残る13隻は日露戦争時,主に内地の港湾警備に従事した後,1907~1910年にかけて除籍,売却されている.
【参考ページ】
中川務・阿部安雄編『幕末・明治の日本海軍』(KKベストセラーズ,2010),p.74
http://ja.wikipedia.org/wiki/第五号型水雷艇
http://homepage2.nifty.com/nishidah/stc0637.htm
写真は第14号(1900年)
(こちらより引用)
【ぐんじさんぎょう】,2012/08/04 20:10
を加筆改修
【質問】
第15号型水雷艇って何?
【回答】
明治18(1885)年度計画によって建造された,日本海軍の水雷艇.
同型艇は第15号と第20号の2隻.
フランスのノルマン社に発注されたもので,「ノルマン型」とも呼ばれる.
こちらも第5号型と同じく,ルイ=エミール・ベルタンの設計によるものであり,第5号型との相違は,ボイラーに水管缶を搭載し,エンジンが3段膨張式であった点.
完成後,内地に輸送し,呉鎮守府造船支部(旧小野浜造船所)で組み立て,1893年に竣工した.
しかし同年11/24,千葉沖において台風のため,両艇は衝突事故を起こしている.
日清戦争では澎湖島攻略作戦に参加.
1919.4.1,共に除籍された.
【参考ページ】
中川務・阿部安雄編『幕末・明治の日本海軍』(KKベストセラーズ,2010),p.75
http://ja.wikipedia.org/wiki/第一五号型水雷艇
http://military.sakura.ne.jp/navy/o_tpno15.htm
【ぐんじさんぎょう】,2012/08/07 20:40
を加筆改修
【質問】
第22号型水雷艇って何?
【回答】
ドイツ・シーヒャウ Schichau 社に発注されたことから,「シーヒャウ型」とも呼ばれる,日本海軍の水雷艇.
同型19隻.
これらは第25号を除き,ドイツで建造された後に分解して舶送,国内の建造所にて再組立された.
まず第22号,第23号が1889年に発注され,1893年に竣工.
その図面によって,第25号は日本国内,呉造船支部にて建造され,1895年に竣工した.
残る16隻,第31~38,44~49,60~61号の建造は,日清戦争後のこととなり,第49号までは1900年に,第60~61号は1901年に竣工した.
このクラスは,旋回圏が大きく,小回りが利かない欠点があったとされるが,威海衛夜襲において,第22号は「定遠」に魚雷を命中・大破させるという戦果を挙げている.
しかしその帰途,第22号は風潮に圧せられ,龍廟嘴に座礁.
翌朝,清軍の龍廟嘴砲台から砲撃を受け,破壊された.
第23号は日清戦争後の1898年,北海道就航の途中,渡島半島福山で暗礁と接触.
その後荒天のため,船体が二つに折れ,放棄された.
残る17隻は,日露戦争にも参加し,日本海海戦において第34号,第35号が戦没.
それより前,1904年に第48号も,旅順攻略中に座礁沈没している.
生き残った各艇は,1913~1915年にかけて除籍された.
【参考ページ】
中川務・阿部安雄編『幕末・明治の日本海軍』(KKベストセラーズ,2010),p.75
http://ja.wikipedia.org/wiki/第二二号型水雷艇
http://military.sakura.ne.jp/navy/o_tpno22.htm
http://homepage2.nifty.com/nishidah/stc0639.htm
【ぐんじさんぎょう】,2012/08/09 20:40
を加筆改修
【質問】
威海衛の戦いって何?
【回答】
日清戦争中の1895年(明治28年)1月20日から2月12日にかけて発生した戦闘であり,威海衛湾に立てこもる清国北洋艦隊の残存艦艇撃滅と海軍基地の制圧とを日本軍が目指したもの.
1/20,日本海軍陸戦隊が,山東半島先端の成山角灯台を占領して戦闘が始まり,第2師団,第6師団が引き続いて上陸.
2/2までに,威海衛湾の山東半島側が日本軍に占領され,北洋艦隊の残存艦艇14隻が孤立.
しかし,「定遠」の30cm砲を始めとする,北洋艦隊による艦砲射撃は,日本陸軍砲兵隊を圧倒.
地上からの砲撃による北洋艦隊制圧は難しいと判断した日本軍は2/5午前3時,艦隊の艦砲射撃と,陸軍の砲撃による支援の下,海軍水雷艇隊を威海衛湾内へ突入させ,襲撃する作戦を決行.
魚雷攻撃をもって「定遠」を大破させ,「来遠」「威遠」等3隻を撃沈.
9日の明け方にも,日本軍水雷艇隊は2回目の襲撃を行い,「靖遠」を撃沈する.
これら襲撃の結果,清軍水兵は,威海衛湾に安全な場所はないと悟って反乱.
2/11,北洋艦隊の丁汝昌提督は,降伏圧力に抗し切れず服毒自殺.
かくして2/15,北洋艦隊は降伏の調印をしたのであった.
【参考ページ】
http://ww1.m78.com/sib/ikaiei%20torpedo.html
威海衛湾地図
日本海軍のノルマン型水雷艇
(こちらより引用)
月岡芳年の弟子,年章が描いた「日本艦隊強勇威海衛ヲ撃破之図」
(こちらより引用)
【ぐんじさんぎょう】,2012/07/03 20:30
を加筆改修
【質問】
日本赤十字の病院船建造までの経緯について教えられたし.
【回答】
さて,日清戦争では,日赤は外地の兵站病院の他,内地の予備病院や捕虜収容所での活動に携わったのですが,初めての実戦で色々と戸惑う事が多く,必ずしも実態と合っていない状態も見受けられました.
そこで日赤では,日清戦争後,戦時救護準備の一環として,戦時に派遣すべき救護班の編成や装備などを定める規則の研究を行い,1898年10月,8章54箇条からなる「戦時救護規則」を制定し,陸軍大臣と宮内大臣の認可を得ています.
それによると,日赤の救護事業は救護班,患者輸送縦列,患者輸送船,患者休養所,材料庫の5種類で構成されます.
その中心を為す救護班は,医員2名,調剤助手1名,看護人長又は看護婦長1名,看護人又は看護婦10名(内,彼らを束ねる伍長が1名),事務員1名,人夫2名の合計17名で編成し,1個師団に付20個班を準備するとしました.
この救護班1個で,患者約100名の救護を標準としました.
患者輸送船については患者200名以上の輸送を標準とする甲種と,100名以上を標準とする乙種を各2隻準備し,前者には理事1名,医長1名,医員3名,調剤員1名,書記1名,調剤助手2名,看護人長2名,看護人40名(内,彼らを束ねる伍長4名),磨工1名の52名,後者には29名(医員2名で看護人が半分,他の編成は同じ)を配置するとしました.
更に1899年7月になると海軍大臣並びに宮内大臣の認可を受けて,4章25箇条からなる「海軍傷病者救護規則」が制定されました.
海軍に関しては,救護団を以て救護事業を行い,1鎮守府に付,1個救護団を準備するとしています.
その救護団の編成は,理事1名,医長2名,調剤員1名,書記1名,調剤助手1名,看護婦長又は看護人長1名,看護婦又は看護人20名(内,彼らを束ねる伍長2名)で,救護団1つで患者100名の救護を標準としました.
海軍に対する傷病者規則も制定されたので,「戦時救護規則」は「戦時陸軍傷病者救護規則」に改称されましたが,最終的に,北清事変を契機に,陸軍と海軍別個の規則を統合して,1903年11月に「日本赤十字社戦時救護規則」が制定されています.
日清戦争で日本赤十字社が最も苦労したのは,患者の輸送手段の確保でした.
日本は四方を海に囲まれている為,傷病者を内地に運搬する為には船舶が必要です.
しかし,戦時になると民間船は兵員や武器弾薬,糧食の輸送用に徴用されてしまう為,患者輸送用の船舶を得る事が困難になる上,一般の民間船をそのまま利用した場合は,敵艦の攻撃を受けたり,拿捕の危険性がありました.
そこで,日赤は患者輸送船を保有する事になりましたが,その建造には巨額の費用を必要とし,維持費も馬鹿になりません.
何よりも,戦争にならなければ巨体をあたら持て余すだけになります.
この為,日本赤十字社ではその資金で患者輸送船2隻を建造し,それを日本郵船に売却して,必要に応じて郵船使用する契約を結びました.
双方で交わされた契約書によると,日赤は郵船に病院船2隻を20年賦で売却します.
日本郵船は平時にはこれらを普通船に改造して自由に使用する事が出来ますが,年賦が完済するまでの20年間は,日赤が必要とする場合は何時でも30日前の通知により病院船に改装し,日赤の使用に供さねばならないとしていました.(因みに,戦時には通知後7日以内となっている)
なお,日赤が病院船として使用する際には,所定の使用料及び改装費,乗船する医員や看護人の食費などの諸費用は日赤が負担する事になっていました.
こうして英国で竣工したのが,2,636総トンの博愛丸と2,627総トンの弘済丸で,博愛丸は1899年4月10日,弘済丸は6月28日に横浜に到着しました.
1隻の建造費は約54万円も掛かったのですが,当時,欧米の赤十字社でも,病院船を2隻も保有する国はありませんでした.
両船は横浜到着後に陸海軍当局と日本郵船の意見を容れて内部を改装し,実地演習を実施しています.
ところが,病院船の運用については重大な国際法の懸念が生じました.
と言うのも,本国へ陸上戦闘の傷病者を後送すべき病院船が保護されるかどうかと言うのが不明確だったからです.
陸上戦闘の傷病者を輸送する列車や患者縦列に関しては,ジュネーヴ条約第6条により,これに従事する人員と共に中立を保障されますが,戦地から本国に陸上戦闘の傷病者を輸送する赤十字社船舶の保護についての規定はありませんでした.
1868年に策定されたジュネーヴ条約追加条款には,第13条に於いて締約国政府が認可した救恤団体が認可する患者輸送船は,中立と見なすと言う規定を設けてはいましたが,これは未発効であった上に,海上戦闘で生じた傷病者を対象とするものと解されていました.
赤十字国際委員会も,陸上戦闘の傷病者を後送する船舶については,同条款の対象外との見解を示していました.
如何にも海のない国,スイスで生まれた条約らしいというか何というか.
幸いにして1899年7月にハーグで開催された万国平和会議の席上で,「ジュネーヴ条約ノ原則ヲ海戦ニ応用スル条約」が採択されて,この懸念は解消しました.
同条約では,第2条に於いて個人又は公認された救恤協会の費用によって艤装された病院船で,所属する交戦国の命令を受け,且つ開戦時又は交戦中,その使用に先立ち船名を敵国に通告したものは等しく尊重され,捕獲を免除すると規定しました.
この結果,1901年に博愛丸と弘済丸は同条約に従い,外部を白色に塗装し,その中間に赤色の横線を付しました.
そして,1903年の戦時救護規則によって,名称を患者輸送船から「病院船」と改める事になります.
その病院船が初めて利用されたのが,1900年に起きた北清事変でしたが,この北清事変は,日赤にとって陸軍ではなく,海軍に対する初めての救護事業でした.
ところが,最初に編成され,佐世保鎮守府病院に派遣された救護団半個部隊(医員1名,調剤員1名,書記1名,看護婦長1名,看護婦10名の合計14名で編成)は,佐世保に送り出されたものの,佐世保に外国人傷病者は1人も来ず,肩すかしに終わっています.
しかし,中国本土での清国軍兵士や,義和団員と,8カ国からなる外国軍の戦闘が激しくなるにつれて,日赤は陸海軍両大臣に博愛丸の大沽派遣を出願し,6月28日にそれが認可されると,清国から日本兵や外国兵が宇品港に後送されてくる事が予想されました.
その為,7月7日に桂太郎陸相に対し,救護班2個を広島に派遣して1病院を組織し,外国人を含む傷病者の救護に従事したい旨を出願し,9日に出願を許可されましたが,今度はMASHもさぞやと言うくらい大忙しの状況に陥っていきます.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/05/27 23:02