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◆三山時代以降 Szanzan Időszak
戦史FAQ目次


 【link】


 【質問】
 北山王とは?

 【回答】
 北山王については,王府の正史には詳しい記述がなく,知られているのは,明の記録と,民間の口承によるものだ.
 それによれば元々羽地城を拠点としていた,羽地按司(あじ)の●尼芝(はにし・・恐らく羽地の読みを明側で記録する際の当て字かと思われる)が,14世紀のはじめに(1322年頃?)一族の今帰仁按司を攻めて,これを滅ぼし,北山王になったという.
 敗れた今帰仁按司の子孫は各地に逃れたという伝承もあるので,ある程度事実であると思われる.

 今帰仁按司は初代の●尼芝,二代目の珉(みん)と続き,三代目の攀安知(はんあんち)で最後を迎える.
 ただし,初代の治世は記録上70年にも及んでおり,恐らく複数の人間を明側で一人と誤認した可能性もあるが,なにせ,正史の記録が全くないのでなんとも言い難い.

 さて,最後の北山王の攀安知だが,正史では「武芸絶倫」で「淫虐無道」とされる.
 沖縄の王府の正史は,敵対者なり前王朝の最後の当主は皆,暴悪な人物と記載しているので,どこまで本当なのか疑ってかかるべきだろう,
 後の経緯を考えると,彼が強圧的な人物で,支配地域の山北の按司たちから信服されていなかったのは確 かなようだ.

ギシュクラ in mixi,2008年01月20日03:22

●=「巾日」


 【質問】
 第1尚氏王朝はどのようにしてできたのですか?

 【回答】
 そのころ南の中山王国では,察度が開いた王統の2代目の武寧王の治世であったが,正史によれば例によって暴政を行い,民心が離れていたと記している.
 これを正すべく1405年佐敷按司の思紹と,その息子の尚巴志が兵を挙げた.
 武寧王は支えきれず王城である浦添城を開城,いずこへかと去った.
 その没年も墓所もいまだ不明である.
 勝った尚巴志は父の思紹を王位につける.
 これがいわゆる第1尚氏王朝(1406~1469)である.

ギシュクラ in mixi,2008年01月20日03:22


 【質問】
 なぜ北山討伐は始まったのか?

 【回答】
 北山・中山・南山の三つの王国だが,その勢力は中山が一頭地抜いていたようで,明に対する朝貢の回数の記録を見ても,北山は中山に全く及んでいない.
 にも関らず,あるいはなればこそ,攀安知は武備に力を入れ,兵馬を訓練し,一説では中山王国への攻撃計画を立てていたという.

ギシュクラ in mixi,2008年01月20日03:22

 しかし攀安知の企てる中山攻撃計画は,羽地(はねじ)按司によって中山王に通報された.
 羽地按司は兵を先に動かし攻めねば悔いを残すと,先制攻撃を薦めた.
 同様の通報は北山王の支配下の国頭(くにがみ)按司,名護按司からももたらされた.
 ことほどさように攀安知は,その配下に見限られていた訳だが,原因としては口碑では,周辺の按司を攻め,人質を取るといった行動に出て,深く恨まれていたためという.
 そのような行動に出ざるを得なかった背景としては,山がちな北山に比して中山は,元より生産力に上回る上,思紹と尚巴志が積極的に明と交易するようになり,国力の差が明確につき,中山に与する方が得なことが誰の目にも明白になっていたのではないだろうか.

ギシュクラ in mixi,2008年01月20日23:32


 【質問】
 北山討伐の戦闘経過は?

 【回答】
 1416年(1422年説もある)思紹は息子の尚巴志に北山討伐を命じた.
 3月11日尚巴志は浦添(うらぞえ)按司・越来(ごえく)按司・読谷山(よみたんざん)按司の軍勢2000人とともに首里を進発,翌12日に名護に到着,羽地寒天那(寒汀那?)港で,羽地按司・国頭按司・名護按司率いる軍勢約700人と合流し船に乗船,今帰仁に押し寄せた.
 当時の沖縄の人口は8万人ほどと言われているので,未曾有の大軍勢と言えるだろう.

 攀安知は既に中山軍の進発の情報を得ていたのだろう,勇猛で鳴る腹心の本部太原(もとぶてーはら)とともに万全の準備を整えて待ち構えていた.

 13日,ついに決戦の火蓋が切られた.今帰仁城は三方向を急な斜面に囲まれている上に,その城壁は堅固であり,攀安知率いる軍勢の士気も高く,尚巴志率いる中山軍の3昼夜に渡る攻勢はことごとく失敗に終った.

 正攻法では城は落とせぬ.
 尚巴志は策を練り直すことになった.
 彼は地理に明るい羽地按司を呼び,今帰仁城の防備について尋ねた.
 羽地按司は,城は西南方向(資料によっては東北になっているものもあり)が堅固であり,そこは防備が薄いであろうことを教えた.

 尚巴志は攀安知は「淫虐無道」の人物でその配下は彼に信服しておらず,腹心である本部太原は「勇あれど謀なし.貪欲の人」であるので,利をもって誘えば調略することも可能であるといい,防備の手薄な城の西南部から城内へ密使を送り込み,絹織物を贈って本部太原に内応を約束させることに成功した.

 翌日,本部太原は攀安知に
「我らは久しく城門を出でて戦っておらず,敵方はきっと我らを臆病者と思っておりますぞ.
 王と臣が交代で城門を出て戦わば,敵が破るるは必定」
と王をけしかけた.
 勇猛をもって鳴る攀安知は,まさか罠とも思わず本部太原の言葉を信じ,自ら軍を率い大手門から打って出た.
 その勢いは凄まじく,中山軍は蹴散らされ敗走した.
 勢いに乗り追撃する攀安知が城を振り返ると,なんと城から火の手が上がっている.本部太原が謀反を起こし,城に火を放ったのだ.

 急ぎ城に引き返す彼の前に本部太原が立ちはだかった.
「汝既に道なし.我は中山王に降る」
 激怒した攀安知は本部太原に斬りかかり,これを切り倒したが,既に城内には敵兵が侵入し,もはや落城は必至であった.
 攀安知は神を呪い,相伝の宝刀「千代金丸」を引き抜くと今帰仁城の守護を祈願していた霊石カナヒヤン(金ヒャブ御嶽のご神体)に
「我を守護もせず.我とともに滅びん」
と叫んで叩き斬り,宝刀を志慶真(しけいま)川に投げ捨て,短刀で自ら首を刎ねて死んだという.

 北山王は与論島や沖永良部島も版図に収めており,攀安知の長子である真松千代王子が沖永良部にいて永良部世の主と称していたが,北山王国の滅亡の報を聞いて自害した.

 ここに北山王国は滅亡,尚氏によって今帰仁には一族が監主として置かれるようになった.

 ちなみに攀安知の一族は逃げ延びたものもおり,現在までその系譜は伝えられている.

 また彼の宝刀は「千代金丸」は後に第二尚氏の手に渡り,現在にまで伝えられ,今は那覇市に寄贈されて重要文化財となっている.

ギシュクラ in mixi,2008年01月20日23:32


 【質問】
 今帰仁城はどんな城だったか?

 【回答】
 今帰仁城は沖縄の戦国時代ともいうべき三山鼎立時代に,北部を支配した北北王の居城であり,標高100メートルの岩山の上に立つ城の規模は,那覇の首里城(中山王の居城である)に匹敵した.
 出土する陶器等は中国や東南アジア各地の各地からのもので,運天の港を支配し,広く交易をして強大な勢力を誇っていたという.

ギシュクラ in mixi,2008年01月20日03:22

 なお,YouTubeには「今帰仁城1」という映像があるが,著作権的に微妙.
 観光プロモーション用に旅行代理店が作ったもののようだ.


 【質問】
 冊封制の下の中国と琉球の関係は,どんなものだったのか?

 【回答】

 近代以前の中国は,陸上部が大きい分,海洋に進出して領土を拡張しようと言う考えに至っていません.
 一方,古代から中国周辺の国々は,その中国の産物,技術,文化が必要だったので,中国を尊重して希求してきました.
 この結果,中国を宗主国とし,周辺の国々を服属国と言う立場で無ければ,国交を認めないと言う態度を中国に採らせることになります.
 足利義満が日明貿易を実行した際のやり方もこう言った形です.

 周辺の国々の君主は,中国皇帝から国王に任命する詔勅が授けられました.
 天子の言葉を冊と言い,諸侯に任ずること,土地を与えることを封と言う所から,皇帝から国王に任命されることを冊封と言います.
 これを琉球語でサッポーと言います.

 とは言え,この冊封は皇帝が国王に任命したからと言って,中国は決してその国の主権を侵したり,領土に侵入したり,政治や宗教に干渉したり,歴史認識がどうのなどと言う事は有りません.
 中国自身にとっても,親密な国交が続き,平和が保たれれば,戦争よりも遙かに経済的に,且つ,中国の権威が維持出来るからです.

 服属国は,皇帝に対して臣を称して,方物を貢ぎます.
 方物と言うのは,その土地の産物を言いますが,琉球の場合は,公益によって入手した日本や東南アジアの産物も方物と称して中国に運びました.
 これに対し,皇帝は朝貢してきた方物よりも遙かに高価な絹織物などを賞として返礼し,朝貢使が持って来た方物を,市価よりも遙かに高い値段で買い上げました.
 従って,周辺諸国はこの朝貢は貿易として充分になり立ちました.
 特に,1371年に明が海禁令を出して以降は,朝貢が唯一の貿易方式となっていました.

 1368年,元を倒して皇帝に即位した明の大祖は,1372年,行人の楊載を琉球に遣わせて,入貢を促しました.
 琉球国中山王の察度は,王弟を遣わせて入貢しましたが,これが琉球による入貢の最初の事例となります.

 中山王の武寧は,1404年,明の成祖に父の察度の使を報告し,冊封を請いました.
 成祖は察度の諭祭使と武寧の冊封使を派遣しました.
 これが琉球の冊封の始まりでした.
 この頃の琉球は,中山,山南,山北の3国に分かれ,それぞれの王が朝貢を行っていましたが,中山王の思紹と尚巴志の時代に,山北と山南は中山に併合されました.
 尚巴志の子の尚忠の時代からは,明国は冊封正使と,冊封副使を派遣し,正使と副使が琉球国の先王の諭祭と正使の冊封の礼を挙行するようになります.

 1534年,尚清の冊封使に陳侃と高澄が任命されました.
 尚清の父である尚真が50年に亘る治世をしていたので,明朝の礼部にも福建の布政使にも琉球の冊封に関する記録が完全に残っていませんでした.
 冊封使は当時,福州で船を建造し,それに乗って琉球に航海しました.
 冊封の詔勅を奉安するものなので封舟と言いますが,その造船のこと,船員募集のこと,護送の兵員の選び方など,全く訳のわからぬ手探りの中で,言いしれぬ困難の連続でした.
 そして,実際に見た琉球は,それまで本で得た知識とは全くかけ離れたものでした.

 陳侃は自分の味わった苦しみ,航海の不安などを,次使に再び経験させないようにしようと決心して,記録を残しました.
 それが冊封琉球使録と言う書物で,これは清の時代になり,最後の琉球国王である尚泰の冊封時まで,冊封使の殆どの人物によって書き継がれていきました.
 なお,清代になると,聖祖などは予め琉球の歴史を纏めるように,と言った形で,使録の中の重要なテーマまで冊封使に与えており,単なる申し送り書から明朝,清朝での琉球研究書に変貌していきました.

 この御陰で,中国の周辺諸国の中でも冊封使録が残っているのは琉球国の他にはありません.
 また,琉球の歴史もまた,この使録の御陰で日付のしっかりとした歴史として編集されています.
 特に芸能史に関してはこの資料無くしては成り立たないと言っても過言ではありません.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/09/17 22:51
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 琉球は清と日本に二重朝貢してたと,東アジア外交史の授業では習ったのですが,違うのですか?

 【回答】
 それで間違ってないよ.
 江戸時代の琉球は,良く「幕藩体制下の異国」とか言われるし.
 建前上は琉球を清の朝貢国とすることで,その利益を薩摩は独占した.
 この日清両属の状態は,清にも幕府にも都合よかったので,近代まで温存されることになった.

オツガイ ◆EAbyJft1LY :世界史板,2011/01/26(水)
青文字:加筆改修部分

 琉球の朝貢自体は間違ってない.
 しかし,それが「沖縄」対大和意識の現れとか言ってるのは,ただのアホ.
 元はあの地域に琉球なんて存在してなかったし,自分らを琉球民族とか思ってなかった.
 中国との関係の中で「琉球」をあてはめられて使い始めたのと,本島が政治的な統一ができてからで,せいぜい14~5世紀頃から.
 しかも薩摩が,元々同化していた沖縄の人間に,大和風の名字や風俗を禁止して「異民族」に仕立て上げた事が大きい.
 同化を拒否された事で,反発の混じった擬似民族意識が出てくるのは,在日とか海外のマイノリティとか共通なんだよ.

 周辺の宮古や八重山とか与那国に至っては,「琉球」の侵攻を受けただけで,琉球人でも琉球でもないわけ.
 宮古なんて歌謡の起源説もあるのに,勝手に「琉球歌謡」として奪われて.言葉も南は別れてて,文化的に琉球人とは異なるのに,政治的に「琉球人」扱いにされてる.

 国民国家意識とか持ち出して,単一民族思考批判してる奴が,沖縄が元から一つの民族みたいな意識持ってたみたいに主張するのって笑えるよな.
 自己矛盾に気づいてないというか.

世界史板,2011/01/26(水)
青文字:加筆改修部分

※要出典


 【質問】
 そもそも沖縄は,清の属国だった琉球王朝に薩摩が攻め込んで,無理矢理日本の領土にしただけではないのですか?

 【回答】
 明治期に沖縄の漁師さんが,台湾に漂流して地元民に殺害される事件がありました.
 日本政府は,台湾は無政府状態の離島とみなして台湾征伐を計画しましたが,清国が自国領であると主張し,沖縄の漁師さんの件について謝罪することと引き換えに,台湾征伐を回避.
 逆にこれは,沖縄は日本領であると言うお墨付きを,中国側からいただいたことになりますた.

 今更中国人が沖縄の領有権を主張しようがしまいが,琉球民族が日本人であることを自認されるかどうかとは関係ないですねえ.

軍事板,2009/12/05(土)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 島津が琉球を占領したときに,何で中国は何も言ってこなかったの?
 明治になってから騒ぎ出したイメージがあるんだけど.

 【回答】
 朝貢国には,大雑把に,二種類ある.

 一つは,歴然とした力関係による属国で,宗主国の立場が非常に強い場合.
 宗主国からすると,朝貢国は,搾取の対象で,ナワバリ.
 タテつくようなことが無いなら,或る程度は自由にさせてやるけれども,その代わり,みっちり租税を出せよ,ということで,形は朝貢でも,実質は課税.
 朝鮮半島がだいたいこういう形で,元・明・清に従属していた.
 大国のナワバリだから,外国がちょっかい出すと,宗主国の兵が守りに来る.

 もう一つの形は,宗主国の側が非常に弱い場合.
 タテついて勝手なことしたところで,兵を出して攻めたり,交易を閉じて苦しめたりすることが殆ど不可能な国に,宗主国の側が,金品の直接的な援助や交易上の特恵を与えたりして,頼み込んで来てもらってるようなところ.
 この場合,宗主国側のメリットは政権にハクが付くこと.
「あんな遠い所,あんな戦力のあるところが,ウチの皇帝に対して臣下の礼を尽くしてるよ」
となると,内乱が起きたりしない,
 力ずくで貢物を取ってる朝貢国が離反しにくい.

 琉球は,明・清に対して,後者の関係.
 頼み込んで来てもらっていてるから,朝貢船は帰りにお土産を満載して帰ってくるし,台湾や福建や広州や温州等の港に内国待遇で自由に寄航し,交易する権益を与えられていた.
 頼み込んで来てもらっているけれども,政情不安に助け舟だすほどもでもなく,島津に攻められたときにも見て見ぬフリをされた.
 「倭寇」を恐れて手出しができなかった.
 見て見ぬフリなら好都合と,建前上は琉球藩王府を残し,何食わぬ顔で琉球の進貢船や交易船を出させ,土産物や交易の利益の上前をはねていた.

世界史板,2009/09/14(月)
青文字:加筆改修部分


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