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<戦史FAQ目次
【質問】
江戸時代における鉱脈の探し方は?
【回答】
1769~1850年まで,佐藤信景,信季,信淵の三代に亘って編まれた著作,『山相秘録』には次のように書かれて居ます.
――――――
1. 砂金のある川を探し,その上流を辿りて鉱脈を見つけるべし.
2. 尾根から露出した鉱脈を見付け,鉱脈に沿って掘り下げるべし.
3. 山相及び精気を発する山を探査すべし.
――――――
また,金山発見法三には,こう書かれています.
――――――
金を多く含有する山は大半下渇れにして,その山下の渓川に必ず金精銀精の石がある.
5月より8月の晴れたる夜,金精は黄赤色の炎のような光彩を発する.
――――――
更に,『石見銀山日記』には,こう書かれています.
――――――
筑前国博多の商人神屋寿禎は,出雲国杵築の鷺銅山に向かう航海の途中,日本海の沖より南山に光を見付け探査し,銀山を発見した.
三人の堀子をつれて仙山に登り鉱石を発見し,1516年より本格的な採掘に着手した
――――――
現在,鉱脈を探すのには,地形,地質探査を行い,地下調査の為のボーリングを何カ所も行います.
岩盤にぶつかるとダイヤモンドを埋め込んだビットを回転させ,岩石コアを採取して地下深くまで調べ,地表から,空からと最新技術を駆使して概要を把握してから採掘に掛かります.
しかし,こうした概要を把握しても,実はそれは貧鉱山だったり,常識外れの富鉱山だったりと,地球は気紛れだったりする訳です.
さて,一攫千金を狙って,16連休,暇を持て余しているのであれば,金鉱脈探し何ぞは如何でしょうか.
山師に騙されても当方一切責任は負いませんが….
そうそう,砂金は扨措き,山金というのが本当に金色を発するのは精錬してからで,金鉱脈は乳白色であることが多く,その中に黒い斑点がありますが,此の部分が金を含む各種金属の部分となります.
黄金色の金属光沢を持っているのは,実は熱水中の硫黄と結びついた黄鉄鉱で,全然違いますから,お間違いなきよう.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/04/21 21:58
▼ さて,石見銀山が見つかったのは,1526年に博多商人の神谷寿禎が出雲国鷺銅山の銅を買付に日本海を航行していたところ,南の山に「嚇然たる光」を見つけたのが始まりと言います.
山が光るとは些か信用しがたい話ですが,佐藤信淵が著わした『山相秘録』にある「最初遠見の法」にはこうあります.
――――――
凡そ山相を観るには,必ず其の山の太祖を正南に当て,正北の方より相する事,古よりの定法なり.
月は五,六,七月を上とし,日は雨の新に晴れたるを上とし,時は巳より未の間を上とす.
暑中雨の新に晴れたる時に南山を遠望すれば,雲消し霧滅して,諸峯の願色,宿酒の頓に醒めたるが如き者なり.
是の時に当りて太祖・太宗より兒孫までの層巒を熟視するに,青翠の中に別に霞光瑞靄を発して,鮮明他に異なる所なるは,即ち諸金含有の山相なり.
此を最初遠見の法と名付く.
――――――
因みに「霞光瑞靄」と言うのは宝貨を蒸発する精気の事です.
まぁ,こうした迷信の類でも,山師の間では秘事として相伝されてきたものです.
江戸期には山相学と称して探鉱法を理論化する動きもありましたが,大抵の場合,それは山師の長年の経験によって山の見立てが行われていました.
秋田佐竹家の山奉行黒沢元重が著わした,『鉱山至宝要録』と言う書物にはこうあります.
――――――
此山には金ありそふなど思ハヾ,其山に鉉有るを尋べし.
其間消たる時などに,雪崩の所などにて見る事あり.
草茂れば見えかねぬ物なれば,春,草木の生長せぬ内に見たるがよし.
若,草余程生たる内に,草生ぬ所あれば気を付て能々見るべし.
金のある所には,草木生ぬ物なり.
金山を見立るは,其山にて見付けるもあり,一里も二里も川下にて金砂を見付て,其上の土,掛砂とりて金気有ば,夫次第に段々川上へ取り登り,川二筋の所は両川を取りて,金気有る方の川上へ取り登りて,山に付ては山幾つ有共,其山毎の土を掛盞にて見,金気の有る山を金山と知るなり.
――――――
つまり,山見立ての方法は,第1に植物の有無から判断し,第2には川に落ちた鉱石を見付け,そこから遡上して母岩を見付け出すと言う方法が書かれています.
石見でも,「金銀の山を創する事,葱芽をはしめ草木の色を見立て」とありました.
葱芽つまり,野蒜,浅葱,都葱などの類が繁茂している場所で,しかも葉が青く茎が赤いのであれば,その下には鉛が埋まっている可能性が高いとされており,シダ類の特定の植物も,痩せた土地に芽が出るのですが,その下には銀が埋まっている可能性が高いとされていました.
こうした植物や岩に着目した探鉱法は何も日本だけではなく,16世紀の欧州にもありました.
ドイツの鉱山学者アグリコラが著わした『デ・レ・メタリカ』と言う書物によれば,こうあります.
――――――
次に私たちは鉱脈の漂石に注目する.
これは渓流の為に地中から掘り出された物で,長年月の後に,再び一部土に覆われるのである.
この種の漂石が地上に転がっているか或いは面が滑らかになっている時は,鉱脈は大抵かなりの遠距離にある.
何故かというと,渓流が石を鉱脈から遠く運んで運ぶ際に表面がすり減った物なのだから.
更に私たちは鉱脈を探す際,霜に注意しなければならぬ.
霜がおくと全ての草は白くなるが,鉱脈の上に生えた草にはならない.
最後に私たちは立木に注意しなければならない.
鉱脈の立木はその葉が春になると青みを帯びるか或いは鉛色になる.
その小枝の先は主として黒みを帯びるかその他不自然な色になる.
――――――
鶏が先か卵が先か,欧州が先か日本が先かはよく分りませんが,非常に似た方法を採っていたことになります.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/08/15 21:24
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【質問】
江戸時代の鉱山病対策および補償は?
【回答】
さて,以前にも秋田佐竹家の鉱山に於ける桜肉の話しや佐渡金山の話しで少し取り上げましたが,こうした鉱山では坑道を掘って作業をする事から,酸素不足による酸欠状態,或いは金堀をする際に出る粉塵や照明の油煙を吸い込んでの塵肺が多く発生しています.
現在では,粉塵マスクなどの装備も充実していますが,それでも,100%防げるものではありません.
まして,江戸期にはそんな装備など有りませんから,そうした病気で銀掘人の死亡率は非常に高かった訳です.
佐渡金山でも佐竹家の鉱山でも同じですが,こうした稼人の寿命は,20~30過ぎくらいまでで,それ以後は,死ぬか或いは生きていても働く事も出来ない身体になってしまいました.
「よろけ」或いは「気絶」と呼ばれた塵肺に罹患すると,「せきをせき,煤の如きものを吐き」遂には死に至ると言う,恐ろしい疾患でした.
この治療法として当時試みられたのが,軽症ならば松葉を入れた酢を飲ませる様にすると言うものですが,それすら喉を通らない状態であれば,酢をそのまま飲用させると言うものでした.
その酢も,最上のものは木酢で,キタイスギの木の実を取り,それを搾って木酢にするのが良いとされていました.
因みに,但馬の生野銀山では,気絶の予防の為,口に梅干しを含んで坑内に入り,出て来たら煙毒を除去する為に濁酒を1杯飲めばいいとされていました.
当然,こうした過酷な条件ばかりだと江戸時代と雖も人は集まりません.
佐渡金山の場合は,その為,流刑人がこうした鉱夫として投入されましたが,石見銀山の場合は流刑地でもないのでそう言う訳には行きません.
そこで,代官所によって2つの対策が取られています.
1つ目は,銀山御取囲と言う制度で,一種の労災保険制度でした.
これは,気絶を煩って働く事が出来ない状態になった場合,本人だけでなく,その家族に対しても一人につき玄米2合5勺宛を生涯に亘って支給するものです.
御取囲の手続きは,山組頭等の山役人を通じて銀山方役所に願い出,許可の後に支給されました.
当然,此の支給は療養中に限られ,回復した場合は本人から山組頭等にその旨が届けられて打切りとなりますし,本人死亡の時点でも同様です.
2つ目は御勘弁味噌と言う制度で,稼人の保養の為に味噌を支給するものです.
これは山役人に大豆,糀,塩などの原料を支給し,味噌に拵えさせて稼人に与えました.
例えば,幕末である1863年の「御勘弁味噌渡方稼人名前帳」によれば,この年に大豆2石3斗6升,糀1石1斗8升,塩1石1斗8升が味噌作りの為に山附17名に支給され,その後味噌として1人につき1貫600目の割り当てで稼人117名に支給されていました.
そう言えば,秋田佐竹家の鉱山では殺生禁断などと言われていましたが,桜肉と称する馬肉の特売があったりしましたね.
これも,一種の保養の為の制度と言えるでしょう.
良く江戸時代は暗黒時代であるとか言われます.
確かに,姥捨てとか子殺しなんて言うのもあった訳ですが,一方で,各大名家は,老親を扶養する為の手当を出したり,子ども手当を支給したり,こうした労災保険制度の拡充や,特配による栄養状態の維持改善を図ったりしていますし,他には貧乏で生活出来なくなった人に対し,開墾地や指定した島で耕作作業を数年行わせてその間一切の賦役を免除して再起を図らせるなど,結構現在以上に手厚い福利厚生を行ったりもしています.
ある面では現代の日本よりも手厚い部分が一概にあったりするので,この面から見れば,江戸時代が暗黒時代であるとは断言出来なかったりします.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/08/18 23:15
【質問】
江戸時代以降の蝦夷地での金山開発の状況は?
【回答】
江戸期の大名家と言うのは,彼等に対し,幕府が「万石以上の面々」と呼んでいたように,原則として石高1万石以上を有する家が対象になっています.
例外は2つあり,1つは足利将軍家の末裔たる喜連川家,もう1つは蝦夷地の松前家です.
元々,石高とはその名の通り,米の出来高を以て知行高とした訳ですが,蝦夷地は北方で米の収穫が出来ません.
従って,元々は蝦夷島主と言う賓客扱い,綱吉の頃からは交代寄合と言う旗本扱いだったのですが,1719年以降は1万石格として交代寄合の儘,大名同様に処遇されるようになります.
しかし,寛政の改革に批判的だったことから,1799年に蝦夷地の内,浦賀~知床岬までの地を召上げられ,更に1807年には一旦全島の上知を命ぜられ,陸奥伊達郡梁川,上野甘楽・群馬郡,常陸信太・鹿島郡の内から9,000石を領する交代寄合旗本に落とされます.
が,復帰運動が功を奏して,1821年に福山に再帰封を許され,1831年に1万石格に復帰,以後,1855年に木古内以北,乙部以北の蝦夷地が再び召上げられ,松前地方のみ領することになりましたが,代替地として梁川と出羽村山郡東根の合計3万石と,村山郡尾花沢1万4千石の幕府領を預かって3万石格に昇進し,1864年に乙部から熊石に至る地が返還されると共に,1863年に寺社奉行,1864年には老中格となり,幕閣に列するまでに至っています.
で,蝦夷地は,米が取れない分,様々な物成で生計を立てていました.
その中には実は砂金があったのですが,初代慶広は,1604年に本多正信を通じて家康から蝦夷島の金山を全て慶広に任す旨の通達を貰っていました.
しかし,当時,幕府は草創期にあり,貨幣制度の確立を達成する為に,家康は秀吉に倣って,佐渡,石見,伊豆の金銀山を独占していました.
もし,此の時点で慶広が砂金採取に乗り出し,それが莫大な富を生み出す事が判明すると,蝦夷地は松前家の領地ではなくなり,幕府の直轄地となってしまう.
そう考えた慶広は,砂金採取には極めて慎重になっており,1608年の大久保長安を通じた砂金調査をも丁寧に断っています.
丁度その頃,佐渡や伊豆の金山の産金量が減少しつつあり,1634年には出羽の延沢銀山を山形の鳥居家から,1662年には摂津の多田銀山を永井家から取上げています.
当然,それを見越して慶広は砂金採取をのらりくらりと躱していた訳です.
1616年,慶広が没して公広の代になると,1617年から東部楚湖と南の大沢,知内川流域での砂金採取が開始されました.
慶広は厳しい入国規制を敷いていましたが,砂金採取ともなると,労働力は当然必要になっていきます.
其所で,砂金採取に限って移民に寛大な措置を執ります.
砂金採取の噂は,全国を駆け巡り,一攫千金を夢見る砂金堀達がどっと押しかけ,さながらゴールドラッシュ並の騒動となります.
1619年には5万人以上,1620年には8万人が蝦夷地に渡ってきました.
これだけの騒動になったので,公広は覚悟を決めて砂金100両を幕府に献上して採掘を願い出た所,献上した砂金は返され,蝦夷地の金山(砂金場)の領有を残らず認められました.
これで安心した公広は,採掘を奨励したので,産金は俄に盛んとなり,彼方此方で次々と砂金場が開かれました.
知内川流域では,家中の蠣崎蔵人,奉行の佐藤喜右衛門らの差配の下,1621年から大量の産金が為されるようになり,知内川の水源である千軒岳採金場では金山奉行蠣崎主殿友広,蠣崎右近宗儀が砂金を管理し,鉱山師には仙台の住人喜介を登用,その下に山尻孫兵衛,水間杢左衞門等がいました.
産金場に労働力や必需物資を運ぶ大船は,この頃毎年300艘も松前湾に投錨したと言います.
ところで,秀吉はキリシタンに危機感を募らせ,外国人宣教師を追放し,キリシタンが闊歩していた港などを接収していきます.
家康も同じ様に危機感を募らせ,1612年に禁教令を発し,1613年には再度禁教令を全国に発して,キリシタンの追放を進めました.
1614年には高山右近,内藤徳安,加賀山隼人等のキリシタン大名や高位の武家を長崎からマニラに追放し,信徒は棄教か追放の二者択一を迫られる様に成っていきます.
京都や大坂のキリシタンで棄教しない信徒71名(これは家長のみの数なので実際にはもっと大人数)は,津軽に流され,此処で慣れぬ新田開拓に従事することになりました.
しかし,折悪しく津軽はこの頃天候不順で収穫は皆無で,困り果てた彼等は長崎の信徒に助けを求めます.
この窮状を書いた手紙は長崎にいたアンジェリスと言うバテレンの手に渡り,彼は長崎の信徒から食糧・衣類を船に満載出来るほど集めると,自ら津軽に赴くことになりました.
因みに,このアンジェリス,1602年に来日し,1614年の追放令を巧みに逃れて布教活動を行っていた人物です.
アンジェリスは津軽に赴くと,流人キリシタンや出羽の鉱山で働く信徒を慰めました.
これが端緒となり,彼の奥州,松前への伝道が始まった訳です.
当時,奥州は未だキリシタン迫害は無く,キリシタンにとって最も安全な場所でした.
また,当時は伊達政宗の家中で見分の領主だったのが後藤寿庵ですが,彼も熱心なキリシタンでしたので,アンジェリスが活動するのに何も問題がありません.
こうして伊達家領地に於てのキリシタンの数は1,800名に達し,4箇所に教会が建つまでになります.
また,出羽の鉱山でも多くの迫害を逃れたキリシタンが働いていました.
丁度この頃,蝦夷地で砂金が産出されるようになり,関ヶ原で敗れた浪人や迫害を逃れたキリシタンが蝦夷島に渡って砂金堀として紛れ込んでいきます.
そして,「蝦夷地では迫害がないので働きやすい」と言う噂が届くと,津軽の流人キリシタンでも蝦夷地に脱走する者が出て来るようになります.
アンジェリスも蝦夷地に渡る事を決意し,1618年6月,深浦港から蝦夷地に渡る事にしました.
但し,蝦夷地への渡航者は,商品を携えた商人か,砂金堀ではないと許されませんでしたので,彼は商人名義の御手判(通行手形)を携えて商品を持って上陸します.
そして,彼こそは蝦夷地にキリスト教の教えを広める為にやって来た最初の神父であり,且つ,蝦夷地に渡った最初のヨーロッパ人でもありました.
ところが,80名ほどの船客の中に,アンジェリスを神父と喝破した人が3人いました.
1人は公広の甥であり,残りは僧侶だったそうです.
公広は,松前のキリシタン信徒を招いてアンジェリスが神父であることを巧妙に聞き出すと,信徒等に対し,
「松前の良き場所招じ,彼に馳走すべし」
と述べて,公広自身が宿舎を指定し,更に,「天下は日本から神父を追い払ったが,松前は日本ではないのであるから,松前に来ることは大事もない.若し余(アンジェリス)が彼(公広)に礼(訪問)したければしてもよく,又,余の守っている逼塞(微行)の為に礼をしなくとも宜しい.何れを取るも余の自由にして差支えない」と言って,神父を賓客の待遇にしたと言います.
徳川政権に対し息を詰めるような日本全体の空気に対し,「松前は日本ではない」と言うのは勇気があることではないか,と思ってみたり.
また,松前家の徳川家に対する姿勢も垣間見えて興味深い話です.
この時,アンジェリスは10日間松前に滞在し,本州からの移住者は1万人であること,金堀人夫は更に多く5万から8万人に達すること,港は松前のみとする決まりだったが,日本各地から人夫や必需物資の輸送に年間300艘の大船が発着していること,松前には15名,そして,アンジェリスの働きで若干のキリスト教が居たこと,が報告されています.
しかし,アンジェリスが松前を離れた直後,松前家はキリシタン禁令の布告を出しました.
神父の訪問を機に信徒が増え,問題になっては,と考えた上つ方が居たのかも知れません.
ただ,此の禁令の対象は専ら領内住民であって,一時滞在者,所謂旅人や砂金堀には何のお咎めも有りませんでした.
因みに,以後,アンジェリスともう一人カルヴァリオ神父が交互に松前を訪れたりしていますので,余りキリシタン迫害の強い意志は無かったのであろうと言われています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/04/22 22:10
さて,先日来,蝦夷地の砂金について色々と触れてきた訳ですが,北海道では至る所に砂金を発見することが出来ました.
江戸期に開発されたのが,標高1,072mの大千軒岳周辺です.
特に知内川上流,支流からは多く産金がありましたが,知内川,石崎川,大鴨津川,小鴨津川,大沢川の上流,支流でも,採掘が行われていました.
千軒岳産の砂金は丸みを帯び,尚厚みがあって,種のようにふっくらした感じがあります.
角があるもの,鱗片状の薄いもの,微細な砂金は全く含まれておらず,金の質も22金(1,000分の916)で通るくらいの優秀なものです.
此の地域の砂金はコシャマインの乱以後,一旦採取は中止されましたが,明治末年から再び採金が再開され,昭和初期まで採取されていました.
今でもよく探せば砂金が採取出来るそうで,現在でも時々趣味者がやって来るそうです.
同じく江戸期に開発されたのが,松前に近い利別川上流のピリカベツ川,チュウシベツ川一帯で,此処でも盛んに採取されていました.
産金地に入る為には,利別川を遡るより内浦湾を流れる国縫川を遡る方が便利で,稲穂峠を越えて30kmほどで御ピリカベツに達しますが,胆振と後志の国境で国縫川は尽きています.
産金地で最も砂金が多いのは,ピリカベツ川,長万部岳を水源とする利別川,チュウシベツ川の3つの川が合流している三股附近で,1889年当時は,何所の土砂を掬っても砂金が見つかったと言う記録があります.
此処でも,明治後期から採取が再開されています.
因みに,此処で採取された砂金は国縫川を通って搬出されたのでクンヌイ砂金と呼ばれています.
また,利別川の河口である瀬棚海岸の浜にも砂金が豊富にありました.
これは,上流から流れたものが滞留し,波浪に洗われて砂状の微細になったので,浜砂金と呼ばれていました.
江戸期でもシャクシャインの乱が起きた寛永期に開発され始めたのが夕張川上流です.
直ぐに乱が起きて開発は中止となりましたが,1899~1900年から開発が再開されました.
この頃,夕張川一帯では何所を掘っても砂金が取れましたが,トクニカネオベツ川,パンケモユウパロ川,白金川,シュウバロ川,ペンケモユパロ川が主な産金地で,砂金ばかりか白金もこの地から採取されていました.
夕張川の砂金の特徴は,丸みのあるものや鱗状のものと形状,大きさは様々ですが,色は一様に美しい山吹色をしています.
金質は1,000分の金858.75,銀117.2と良質な部類で,昭和に入ってからも未だ採取が続けられていました.
因みに,夕張岳を越えた空知川の支流,十梨別川とその上流も産金地で,1891~1912年まで盛んに採取が行われていました.
もう一つ,寛永期に開発されたのが,日高山脈を源にする十勝地方の川から採取された砂金です.
特に歴舟川(日方川)上流,中ノ川,ヌビナイ川支流は1897年頃から100名程度の砂金堀が入ったと言われています.
歴舟川の砂金は厚みがあり,金粒形で全体に丸みを帯びた形が多く,金品位830程度の20金とされています.
また,河口付近の海浜にも砂金が多くあり,1873年10月,榎本武揚が北海道を巡回した時,アイボシマで浜砂金を洗って2分4厘を採取したと記録が残っています.
この地での産金は1897年頃から大正年代まで採金が行われていました.
1898年頃,オホーツク海に注ぐ幌別川,頓別川の無数の支流や沢から砂金が発見されました.
此の地方は江戸期には全く開発されていない処女地であった為に産金量は多く,川筋によって色や形が違いました.
特にペーチャン小川の砂金は松葉金と呼ばれ,鋭い稜角を持つものの,植物や苔の繊維の様な細い線錯綜した特殊な形の砂金でした.
枝幸地方の砂金は,概して金品位800以上の良質で,中には1,000分の金878.6,銀118.0と言うものもありました.
時に一旦シャクシャインの乱で北海道の鉱山開発は頓挫したのですが,明治に入ると開拓の一環として開拓使によって地下資源開発が推進されることとなり,米国から技術者を招いて地下資源調査を実施しました.
しかし,砂金については採取跡は見つかるものの,有望な金鉱は1箇所も発見出来ませんでした.
その頃,甲府閥の実業家で軽便王と呼ばれた雨宮敬二郎は,シベリアで砂金が豊富に採れると言う話を聞き,それなら地続きの北海道でも金が採れるはずだと思い,榎本武揚に此の構想を持ち込みます.
そして,伝手を頼って,1886年,北海道庁から渡島,函館付近,石狩地方の砂金採取許可を得る事に成功しました.
敬二郎は山形県西村郡三泉村に居た「小泉衆」と呼ばれる,最上川流域の練達した砂金堀を集めて1890年に採取調査団を結成し,松前から東蝦夷地,西蝦夷地へと移動しながら数年間採金を続けました.
此の調査団は,余り芳しい成績を上げず,1894年に解散しますが,其の後は気のあった者同士数名が組を作り,川筋毎に新金田を求め北上し続けました.
そして発見したのが枝幸の金鉱田だった訳です.
当時のオホーツク海沿岸は千石場所と呼ばれた鰊網の櫛比する全盛時代で,ネコとカッチャを背負った異様な風体の砂金堀を見かけても,関心を抱く人は殆どいませんでした.
ところが,1897年になると鰊の回遊路が変わったのか,資源枯渇の為か,鰊がさっぱり捕れなくなります.
全盛時代には,宵越しの銭は持たなくても網さえ打てば直ぐ稼げたので,お金を貯める人はいなかったのですが,不漁になるとお金のない漁民達は,寄昆布を拾って飢えを凌ぐ有様となり,中には金を求めて山奥を彷徨する者も出て来ました.
そうした中,枝幸近辺での金鉱田発見で,1週間に20~30匁を採取した者が出たとの噂が浜を駆け巡り,日を追って採取者は増えていきました.
1898年の鰊漁も不漁となると,1,000名が枝幸金鉱田周辺を掘り始めました.
勿論,彼等は採掘許可を取らない密採でしたが,宗谷支庁は漁民の窮乏を救う為として是を黙認し,枝幸の戸長も,「密採でも構わぬから山へ皆行け」と村民に勧めたと言います.
この頃は砂金堀ではなく,砂金拾いの時代で,素人でも1日に1匁から1匁半採ることが出来ました.
この年の砂金採取総量は約40貫,1匁の地元相場が3円70~80銭なので,ざっと約15万円が村内に流れ込んだことになります.
当然,近隣村の住民も先を争って砂金場に出かけ,それぞれに某かの金を得た事で急場を救われました.
1899年初夏,頓別川の支流ペイチャンのその又小支流の小川で新たな金田が発見されました.
此の小川は枝幸でも最も金量が豊富な地区で,最初は1人当り1日50~60匁の採取があったと言われ,此の噂を聞きつけて,老若男女を問わず,神職僧侶まで山に分け入り,小学校でも「砂金採取の為高等科生の欠席多し」と記録に書かれたほどの騒ぎになりました.
金田は芋の子を洗う勢いで,その数は5,000名以上とされています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/04/24 22:55
北海道で砂金が採れる!と言う噂は,素早く全国を駆け巡りました.
新聞は,
「砂金の大塊は累々として横たわり,小塊は砂礫の如く目に映じ,一朝数万円の砂金を採取し得らるべし」
などと無責任に書いて囃し立てたものですから,全国から砂金について何ら予備知識も持たない者達が一攫千金を狙って北海道に押し寄せました.
中には家財を売払ってきた者も居ましたが,見ると聞くとは大違い.
熊の出る様な山奥で,山や川を掘る重労働に恐れを成し,大半は早々に帰国してしまいました.
しかし,1898年冬,砂金鉱区の出願が許可された者が出ると,1899年には道内は元より東京からも,我も我もと鉱区出願が為され,砂金の採れる各川筋の大半に鉱区主が出現しました.
1897年には僅か76鉱区だったのが,1898年には109鉱区,1899年には457鉱区,1900年になると751鉱区と激増しています.
鉱区主はそれぞれの許可地に採金事務所を設け,傭人あるいは請願巡査(町村や会社,個人が費用を出して警官を派遣して貰う制度に基づくもの,つまりは国家警察を警備員代わりに使った)を派出させて,密採者を取締り,採掘人から入区料を徴収して,採取させています.
枝幸では1898年1~8月まで,枝幸郵便局の窓口から小包で送った砂金だけで,51貫521匁あった事から,産金総額は少なくとも120貫目はあったと言われています.
1899年の鉱山監督署調査では,枝幸全部の採取高は119貫811.53匁とされていますが,密採されたものも含めると,1899年には全体で270貫程度あったのではないか,と計算され,以下,1900年に140貫,1901年に70貫と概算して,金額にして200万円程度の産出量と計算している資料もあります.
北海道庁の調べでは,1900年がピークで,328貫43匁(1,229.1kg)であり,砂金堀の数は4,267名おり,これは北海道に於ける全鉱業従事者の30%を占めていました.
これだけ想定産出量に幅があるのは,密採の分が不明であることや,認可された砂金堀でも,南アフリカ並のセキュリティチェックを行わない為,容易に,或いは衣服に潜ませたり,或いは大粒の金は飲み込んで腹中に隠すなどして持ち出したからでした.
こうして,同時期に金が産出され,未曾有のゴールドラッシュとなったカナダのクロンダイクと並び,「東洋のクロンダイク」と呼ばれた枝幸地域の砂金ですが,掘りやすい場所の金は掘り尽くし,1900年5月,米国式の樋を使用する大規模な採取法が導入されてしまうと,伝統の流し掘り,岡堀りは廃れていき,砂金堀達は経営者と採取人と言う雇用関係に変わっていきます.
正に強者共が夢の跡,と言う訳です.
今でも,枝幸地域,特に最も豊富に金があったウソタンナイ川周辺には,砂金を採った掘り跡が転々としています.
また,この砂金フィーバーに纏わる話も数多くあり,ある場所には,砂金を掘ってそれが溜まると枝幸の街に通い,金が尽きるとまた,米,味噌を担いで帰ってくる生活をしていた砂金堀達が,次第に掘れる砂金が尽きると,彼方此方の砂金場に渡り歩くうちに病に倒れ,そのまま死んでしまい,後には無縁仏の墓が累々と残っていると言う話もあります.
また,ウソタンナイ川の地名に「ババ殺しの沢」と言うのがあります.
これはゴールドラッシュの際に,婆さんが大木の下を掘ると,バケツ一杯の土に3匁(11.25g)の砂金が採れる溜場に当りました.
婆さんは欲に駆られて,更に掘り下げていった所,突然大木が倒れ,婆さんは木の下敷きになって死にますが,羨ましそうにその婆さんを見ていた砂金堀達は,その大木が倒れるや否や,婆さんを助けるどころか,その大木が倒れた穴を夢中になって掘り始めたと言います.
大木の怒りに触れたのか,欲望に殺されたのか,此の沢は,誰言うと無く「ババ殺しの沢」と名が付いたそうです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/04/25 18:47
【質問】
江戸時代の佐渡金山の状況は?
【回答】
江戸期,金山に必要な人的資源としては,技術職である山師を始め,金穿大工と呼ばれた採掘坑夫,石撰女と呼ばれた選鉱婦,坑道を保全する為の土木技術者たる山留人,排水を担当する水替人,その他道具を作る鍛冶職,水替人の為に桶を準備する桶職人,炭焼人など様々な作業に多くの人間が必要でした.
佐渡金銀山は慶長以降盛んになり,特に坑内労働者の需要が高まりますが,佐渡島内の人的資源では全く賄うことが出来ません.
しかし,金山の噂を耳にした日本海沿岸の諸国,越後は元より,出羽,加賀,越中,越前,そして内陸の会津,信濃,甲州などから一攫千金を夢見て多数の人間が佐渡に流れ込んでいきました.
当然,彼等は各大名家にとって見れば農業生産の為の貴重な人的資源です.
例えば,加賀前田家の場合は,こんな禁令を出しました.
――――――
当国中町人百姓共其外如何様之者不帰他国之金山之相越事令堅停止訖
若法度之旨に背き相越輩に於ては間次第其一類悉可成敗者也
――――――
つまり,加賀前田家の領民が他国の金山に赴いて稼ぐ事を固く禁じ,もし,それがバレた場合は,一族郎党は悉く成敗すると言う厳しい禁令です.
しかし,金山への移住は元より,三年以上の年季奉公を禁止しても一向に金山への出稼ぎは減りませんでした.
ただ,幕閣としては,何時までもこんな状態を放置するのも大名家の体面を傷つけるのと,人件費を節約する為にも,こうした外部からの移住者に頼る施策は行わないようになっていき,最終的には江戸,大坂,長崎から貧農の次男以下が職を求めて都市に集ってきた無宿人を捕まえて佐渡送りにしたり,罪人を佐渡に送り込んだりして,人的資源を確保する様に成ります.
さて,地底の状況は如何ばかりか….
中は薄暗いので照明は欠かせません.
当初は松脂を笹の葉に包んで細長く絞った蝋燭,薄く削った檜を縄にして,それに油を染込ませた紙燭と言う松明の一種を使っていましたが,これは煙が出るので,坑内に長く留まることが出来ませんでした.
そこで,元和年間に「つり」と言う油を燃やす照明器具が考案されます.
「つり」は,鉄製容器に油を入れ,灯心に浸して火を点すもので,これは自由に持ち歩けるので,明治期まで使用されています.
とは言え,坑内に火を使うと言う事は当然,中の酸素を消費します.
坑口が2箇所有ればまだ空気の流れはありますが,行き止まりの坑では,煙,石粉,糞尿で空気は淀み,下手をすれば酸素不足で呼吸困難となったり,一酸化炭素中毒で死に至ることもありました.
油は当初菜種油を使っていましたが,1640年頃から安い桐油に変え,150年間はその油を用いていました.
しかし,金の産出額が減ると,経費節減の為1794年からは島内産の魚油に変えます.
その魚油は,悪臭を放ち油煙で眼は赤く腫上がって,悲鳴を上げながらの作業だったそうです.
坑道を掘り進むと,地下水が湧出します.
当時はポンプなどと言うモノは無く,放置すれば坑道は水没します.
其所で,傾斜した坑道に樋を順に並べ,桶で水を汲んでは樋に流す,水替人が従事する人力の排水作業が必要となり,彼等は昼夜を問わず,交代で排水を行う過酷な作業を行っていました.
坑道を切り開くのは金穿大工の仕事です.
坑内の岩の中に白く走る鉱脈を堀取って行く作業を担当していますが,当然,堅い鉱石を掘るのも,割るのも全て手仕事.
初期の数十年は,槌と鏨と矢(鉄製の楔)だけで行っていました.
この金穿は,2人1組が原則ですが,坑内は1名しか入れない狭い場所が多く,消耗も激しい為,交代で掘る様にしていました.
彼等が1日に掘れる量は,1日平均して硬質の鉱脈で9cm,軟質の鉱脈でも20cmほどしか掘り進むことが出来ませんでした.
鉱脈に沿って掘っていくと,ウネウネと進む事になり,恰も蟻の巣のような状況になっています.
因みに,彼等の賃金は出来高払いで,富鉱帯に当ると短期間で良い金になります.
しかし,貧鉱脈だったら悲惨です.
絶えず坑内で煙と石粉を吸いながら坑内で掘り進んでも賃金は低く,暗い地中で過重労働の為身体を壊す者が多くいました.
それでも,富鉱帯に当るのを夢見て,なり手は沢山いたそうです.
穿大工は,貧農の次男以下,各地の出稼ぎ人,浮浪者,人身売買などで寄せ集められた者達です.
これを山師が請人となって,食住は山師が差配していました.
彼等の姿は,1663年の年代記には,こうあります.
――――――
大切山の大工共面体油煙にて染まりし故,「けたえ大工」といひ習はしたる由
――――――
「けたえ」とは「気絶え」の意味で,通気不良の事を指します.
1756年の『四民風俗』と言う書物では彼等をしてこう書いていました.
――――――
是は鏈を堀候時金銀の毒気有之石埃或は灯油の煙を吸ひ其上堀場にて代合候手明の間は其所に臥候儀ども,彼是疲れの故三十ヶ年先までは必定短命にして…
――――――
当時の金穿大工の労働寿命は5年とも3年とも言われ,40歳を越す人は稀でした.
死なないまでも,「よろけ」と言われる状態に成って働けなくなります.
「よろけ」とは,現在の塵肺の事ですが,この塵肺は早くから知られていたらしく,唐箕を1本のダクトに連結し,坑口から坑内に送風している絵図も残っており,通風をよくして改善しようとはしていたみたいです.
こうして掘り出された石は,坑口に運び出され,入口に設けられた建場小屋に持ち込まれます.
これを石撰女が割って,白い石を打ち落とし,黒色の金銀を含む部分だけを取っていきます.
金鉱石の白い石英質部分にある銀黒と呼ばれる部分に金銀が含まれていたので,それを選り分けていった訳です.
そして,選り分けられた鉱石を搗き,挽き臼によって微粉化し,セリ板で石や土を流して自然金を採取します.
これには銅や鉄,珪酸など不純物が含まれていますので,これを純金にする方法が灰吹法が利用されました.
灰吹法は朝鮮から伝わった技術と言われ,柳緒宗と言う朝鮮の地方官が鉛から銀を作る術を倭人に伝習したと言う罪で処罰された事件が,『朝鮮王家実録』に掲載されています.
鉛から銀を作るのは,正に灰吹法な訳です.
灰吹法は,最初に坩堝の中に動物の骨や松の葉を燃やした灰を中に敷き詰めていきます.
次に,鉛と和紙に包んだ金粉を灰の上に置き,坩堝の周囲に炭を置いて過熱します.
更に坩堝の上に鉄棒を渡して,上部に炭を置いて上から過熱すると,鉛と金の合金の湯が出来ますが,この湯面に鞴で空気を吹き付ける事で,鉛や不純物を酸化します.
酸化した鉛や不純物は湯面に浮きますが,表面張力が小さいので,灰の中に染込んでいき,全部染込むと残ったのは表面張力が大きく,灰に濡れないので純金のみ中心部に玉状に成って残り,吹金になります.
最後に,これら吹金を集めて鋳込むと完成です.
当然,選鉱でも灰吹の段階でも微粉やら不純物などが飛散したりするので,これを吸い込むと色々身体に差し障りが出て来ます.
鉱石が出て来ても,なお,人の命を奪っていった訳です.
正に,佐渡おけさに唄われている,「佐渡の金山此の世の地獄」です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/04/15 22:41
【質問】
江戸時代の製鉄業の状況は?
【回答】
戦国期の日本は,鉱産資源が豊富な国でした.
山陰地方には石見銀山が有ったりする訳ですが,更に蹈鞴製鉄も盛んで,松江では田部家,櫻井家,絲原家が代表的な鉄師(鉄山経営者)として名を馳せていました.
この蹈鞴は,戦国期は元々小規模なもので,1つの鉄山に数カ所蹈鞴を整備していた様です.
1600年以降は,吉川氏に代って堀尾氏が入部し,近世鉄山政策が展開されます.
しかし,衣斐川での鉄穴流しによる宍道湖への砂流入が,松江城の防御に有害である事から,1610年,鉄穴流しの停止が通知されました.
これは鉄師達にとって死活問題であり,1634年に京極氏が入部すると,鉄師達は度々愁訴に及びます.
その結果,1636年に鉄穴流しは解禁となり,1638年の松平氏入部の時には,仁多郡内で10箇所も蹈鞴創業が行われていました.
松平家ではこの鉄の生産品に着目します.
1648年に早くも買鉄制を敷き,鉄の専売制を始めますが,1687年にはこの専売制は廃止されました.
つまり専売制の廃止は,自由販売を行おうとする鉄師達の抵抗が激しかった為の様です.
その代わり1648年に取入れられたのが運上銀制で,1687年以後は運上銀に加えて駄別銀を徴収し,1694年には轆轤操業に天秤鞴を導入した場合,運上銀を3割増しにするなど制度の改定を加えつつ,1870年頃まで継続されています.
その後何度か専売制への移行を試みますが成功せず,1722年,遂に買鉄制は諦めました.
但し,松江松平家では鉄師を統制する為に,鉄方頭取を置き,鉄山経営に関わる諸事を取り仕切らせる事にしました.
1726年からは鉄方法式が発せられます.
この法令は,従来の私売を維持しながらも,田部家,櫻井家,絲原家を始めとする特定の鉄師9家のみに蹈鞴10箇所,鍛冶屋3軒半の操業を認め,関係諸村の鉄山・腰林・鉄穴をそれぞれの蹈鞴付とし,鉄山経営に必要な物資は松江松平家が供給する体制としたものです.
鉄師達は,合計で銀160貫匁を先納し,その先納銀と松平家から鉄山業従事者の扶持米として払い下げる養米代金を差引精算するものでした.
こうして,松平家に認められた鉄師は,その保護下で更に成長を遂げる事になります.
しかし,1780年,幕府は鉄流通統制政策である大坂鉄座制を導入し,鉄価格が大暴落することになりました.
この危機に対し,松平家を後ろ盾に大坂の問屋から多額の借り入れをしたり,蹈鞴や鍛冶屋を藩営事業として,松平家主導で経営難打開の方策を採るなど,鉄山業の維持を模索する方策を採りました.
何故にこれだけ松平家が鉄師に肩入れするか,と言えば,生産品を入手して釜甑方と言う藩営事業として,その鉄を使った鍋や釜を鋳造していたからです.
この原料である銑は,鉄師に割り当てられ安価で購入されると共に,作事方,軍用方に於て入用の鉄も,鉄師に割り当てて安価で購入したり,特定の鉄師に生産や納入を請け負わせました.
財政が好転した後の1851年からは,仁多,飯石,大原三郡産の鋼について,これを御趣向鋼と言う専売制とし,此処で生産された鋼は大坂蔵屋敷に運び入れ,入札による売却を行っています.
ところで近世期の製鉄事業は,蹈鞴場での生産と大鍛冶場での生産の2つに分けられます.
蹈鞴場では鋼,銑を生産し,大鍛冶場では蹈鞴場で生産された銑を原材料として,割鉄(錬鉄)を生産します.
近世後期になると,販売の主力は割鉄となり,大坂,北陸,九州などに販売されて,その後,割鉄から農具など諸道具が生産されていました.
こうした鉄師達は当然,原材料を入手しやすい山間部に蹈鞴場や鍛冶場を構えて生産している訳ですが,櫻井家からの分家で神門郡奥田儀村(現在の出雲市多伎町)で鉄山業を営んだ田儀櫻井家のみは,海岸部の口田儀村(現在の出雲市多伎町口田儀)に越堂蹈鞴を経営していました.
元々は,本家から分家して神門郡に進出した後,山間部で鉄山経営をしていましたが,1760~70年代に石見国の住人から越堂蹈鞴を購入し,海岸部に進出,更に1810年代末~1830年代に山間部に蹈鞴場・大鍛冶場を購入して業容を拡大し,蹈鞴場3箇所,大鍛冶場4箇所を経営する鉄師となっていきました.
田儀櫻井家の蹈鞴場では銑が中心で,越堂蹈鞴では鋼ではなく大量の銑を生産しています.
他の鉄師が銑をそのまま販売するより,生産銑を大鍛冶場に運んで割鉄に仕上げて販売する形態を取っていったのに対し,田儀櫻井家は,本宅に隣接する大鍛冶場での割鉄生産と販売を維持しつつ,越堂蹈鞴では大鍛冶場への原料銑納入と共に,大量の生産銑がそのまま販売されています.
何故,田儀櫻井家がこうした利益率の低い事を行っていたか,と言えば,海岸部に蹈鞴場を設けていたからです.
つまり,山間部から北前航路の港に製品を運ぶには運賃が掛かります.
海岸部に蹈鞴場が有ると言う事は,陸送コストを省く事が出来,利益の低い銑でも充分にペイ出来ます.
また,田儀櫻井家は,鉄師としてだけではなく,口田儀の港町である田儀浦に多くの屋敷を保有し,更に1860~70年代にかけては幸徳丸,彰徳丸と言う廻船も保有して,倉庫業や回船業にも進出しています.
この利益も莫大なものがあり,安い銑を生産して薄利であっても,充分埋め合わせが出来ていました.
勿論,田儀櫻井家の廻船だけでは荷を運びきれませんので,同じ田儀浦を拠点にした廻船業者鳥屋尾家の廻船が銑を,西廻り航路を利用して大坂,北陸,九州などの各地に輸送されています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/03/07 21:09
【質問】
踏鞴製鉄について教えられたし.
【回答】
以前にも松江松平家の話でこの地域の砂鉄製錬の話は触れましたが,もう少し詳しい話をば.
踏鞴製鉄と言うのは,粘土で築いた炉の中で原料の砂鉄と木炭を燃焼させ,砂鉄を3~4日掛けて溶融させて各種の鉄製品を得る製鉄法となります.
この技術は18世紀半ばに確立されています.
砂鉄は出雲でまず採掘が行われ,近世からは周辺の伯耆,美作,備中,備後,安芸,石見なども主要産地に加わります.
出雲を領する松平家ではこれを強力に保護し,そこからの運上益に大きく依存する政策を採っています.
この間,中小の鉄山経営者は集約され,それぞれが大地主になっていきました.
中国地方の砂鉄には真砂と赤目の2種類があります.
山陰側には真砂が多く,これは黒雲母花崗岩から生じて黒みがかり,チタン,燐の含有が少ない.
山陰側はこれと逆に赤目が多く,こちらは花崗閃緑岩または花崗岩から生じ,少し赤みを帯び,チタンや燐などの含有量がやや多いとされます.
また,産出場所の特性から,山脈丘陵から採取されるものが山砂鉄,川から採取されるのが川砂鉄,海岸から採取されるのが浜砂鉄であり,中国地方では山砂鉄を主成分に,これに適宜他の砂鉄を混ぜて用いていました.
生産方法として,山陰側は真砂を用いて鉧を生産する鉧押法を,山陽側は赤目を使って銑を生産する銑押法を主に採用していました.
山砂鉄を採掘する方法は,慶長年間に開発された鉄穴流しと言う流し掘りです.
この方法はなるべく南向きで急傾斜を為し,始めは山頂に近い部分を選んで,水路を導いて水流を導きます.
水路を確保した後,水流に沿う山の斜面の土を,鉄穴師が打鍬で下方から崩して水流へ掘り崩していきます.
砂鉄を掘る鉄穴場から,この土砂を水路に落とし込み,下流へと導いた後,山池と呼ばれる砂溜りに流れ込みます.
この山池からは更に水流を用いて,階段状に設けられて勾配の付いた大池,中池,乙池と順番に通過させ,比重の軽い土砂を水と共に溢れさせて脇の排水路に放出させ,比重の重い砂鉄分は池底に沈殿していきます.
その池底には板が敷いてあって,これを上流に向けて柄振で掻き起こすと次第に砂が水流によって取り除かれ,これを下流に向けて繰り返すことで砂鉄分の純度が増し,品位が高まっていき,最後に洗い桶で仕上げて純度も様々な砂鉄を採取すると言う誠に効率の良い方式を採っています.
原料は砂鉄だけではありません.
当然,これを溶かす為の炭が必要になります.
踏鞴製鉄には,「砂鉄七里に炭三里」と言う言葉があります.
つまり,7里以内に砂鉄の採掘場があり,炭焼き場が3里以内に無いと採算が取れないと言う意味です.
3里以内に炭焼き場が無くなる,即ち木炭を取り尽すと,作業場は他に移す必要がありました.
因みに踏鞴場1カ所,鍛冶場2カ所を支障なく運営していく為には,約3,900町歩の山が必要でした.
木炭の原料となるのは楢が主ですが,他に栗,ブナ,槇などで偶に樫も用いました.
炭木は1m前後に切り,これを釜に立てて詰め,焚口から火を付けて5日間燃やし続けました.
ただ,全てが完全に炭化したものではなく,中には半焼けのものもあります.
踏鞴場では大炭と呼ばれるものですが,鍛冶場では小炭と言う消し炭状のものを用いました.
小炭は主に農家の副業で生産されたものが充当されています.
木炭は砂鉄を溶かすだけではなく,還元剤としての役割もあります.
従って,固定炭素量が多くて還元性が良く,燐などの不純物を含まないことが条件として望まれていました.
中国山地の場合,花崗岩の風化した森林に覆われています.
花崗岩を母岩とする砂鉄は不純物の含有量が遙かに少なく,花崗岩の風化した森林から作られた木炭もまた,燐の含有量が低い為,それを原木として木炭を作り,その木炭で製錬を行うことで,より不純物の少ない鉄鋼が得られることになります.
さて,原料は揃ったので,製鉄の話は明日以降に.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/12/13 21:27
さて,砂鉄と木炭が調達出来れば,それを踏鞴に焼べて鉄を作ります.
江戸期から使われた踏鞴で現在残っているのは,菅谷鑪と言う踏鞴で,踏鞴場全体を含む家屋毎保存されています.
この踏鞴の大きさは,高さ約4尺,長さ約9尺,幅2.2尺となっており,長方形の箱形で炉壁は酸性耐火粘土で形作られています.
その炉の下には,「本床」と言う防湿施設になっています.
これは地下を10~16尺平方位の広さに掘り下げて,最下部の半分くらいを角石,小石,柴,莚の層を作り,その上を粘土で上塗りして本床と「小舟」と言う熱や湿気の遮断層が作られています.
この部分は,小舟に薪材を装入して点火し,炉底を十分に乾燥させることを目的としています.
この乾燥作業は,昼夜を分かたず薪を400~600貫も燃やしながら,40~60日続けられたと言います.
乾燥作業が済むと,その灰を本床にも小舟にも敷き固めて,更に粉炭などを叩き込みます.
その上で初めてその上部に炉が築造され,両側に足踏み式の天秤鞴が設けられました.
鞴の風は,20本近い竹製の木呂と言う導風管を通じて,炉の下部に両側から吹き込まれています.
菅谷鑪では,炉に接する所謂羽口の部分は鉄製となっていて,高熱から保護される構造になっていました.
製鉄の総技師長である村下の技術と共に,この本床造りが重要な位置を占めていました.
これが不備だと,品質の良い鉄を得ることが出来ないからです.
踏鞴炉は恒久的なものではなく,3~4日に渡る製鉄工程が終わると,新たに行われる製鉄工程の為に,地上に出ている部分だけをその都度構築し直していたりします.
炉を形成している粘土も,踏鞴製鉄には重要な材料の1つでした.
これは砂鉄溶融の作業中に融剤として働く機能を有しており,粘土の選定は村下の秘伝となっていました.
融剤の働きとは,砂鉄に含まれるチタンなどの不純物と粘土の主成分である珪酸塩を上手く結合し,炉外に滓(ノロ)として排出することにあります.
つまり,作業中に炉の内部がどんどん抉られていき,3昼夜が経過してしまうと作業不能に陥ってしまう様になります.
特に踏鞴操業の最終工程では,炉壁の一部が透けて炉内の炎が見えるくらいになって来,崩れそうになると,作業者は新たに粘土を塗って保繕していました.
こういう状況なので,炉の上部は作り直す必要があった訳です.
踏鞴操業は,村下の指導の下,炭坂と言う副技師の役割に当たり,村下と2人で砂鉄を入れる役,炭を焼べる炭焚,鞴を踏む番子など専属の労働者によって賄われていました.
この部分は非熟練労働者が介在する余地がなかった訳です.
その踏鞴炉には砂鉄と木炭が30分毎に交互に投入されます.
鉧(けら)押作業は,4つの工程に分かれます.
最初が籠り期で,木炭に点火し,送風によって炉内が高熱化し始めた時期です.
この時期には溶融しやすい質の「籠り砂鉄」と呼ばれる砂鉄を,「タネ鋤」と呼ばれる,平たい板に長い柄の付いた道具に乗せて投入し,炉熱の高まりに応じて量を増やしていき,炉内の温度が高まってくると,溶融しにくい砂鉄を投入していきます.
次いで籠り次ぎ期となり,これは籠り期に続く蓄熱期であり,炉内温度が相当高くなるので還元も盛んになり,熔滓(スラグ)や熔銑の生成が順調に進んでいきます.
この期の後半では,炉内に凝固物を生じます.
そして,上り期と言う最も火の勢いが強く,炉況が盛んになる時期です.
この時期は,砂鉄と炭の装入の回数,量が最も多く,鞴の送風度も強化しなければなりません.
この間に熔融が進み,炉壁下部に湯地穴を開けてノロを放出します.
更に熔融によって生成された銑もまた流し出していきます.
鉧押では,この間に炉底で鉧が成長して大塊となっていきます.
最終の下り期になると炉壁が火熱によって侵食され,粘土分が溶剤の役割を果たしつつ鉧塊など生成物中に 溶け込んでいき,炉内容積が大きくなります.
更に鉧塊も大きく肥大化し,送風が炉の中央まで届かなくなるので温度が低下していきます.
暫くして,炉内に残る砂鉄の還元が終わってから送風を停止すると,製鉄の一工程が完結します.
これを一代と言い,一代が完結すると,崩壊寸前となった炉を崩し,中で成長した鉧を引き摺り出します.
炉から取り出した鉧は,重さが700~800貫目程度有ります.
鉧塊は放冷した後大どう(どうは金偏に胴)場へと運び,大型の分銅(大どう)を落下させて鉧塊を破砕した後,付着したノロや木炭を取り除きます.
この大どうは約300貫ある大きな分銅で,これ水車の力で約30尺くらいの高さにまで引き上げて鉧塊の上に落として粉砕し,一つの欠片を30貫くらいに分割しました.
鉧塊全てが鋼ではなく,表面には銑もありますし,歩鉧と言う粗悪な鋼も付いています.
鋼も同一質ではなく,部位によって良否がありました.
これらを鋼造場で職人が粉砕し,選別をしました.
銑押の場合は,原料の赤目や海浜鉄川砂鉄が熔融しやすく,溶融した金属や鉱滓を取り出す湯地口から時々銑を流し出します.
この方法でも若干の鉧が出来ました.
そうして破壊した炉を新たに築造し直し,灰木を焚いて再び乾燥工程に入り,次の製鉄工程へと入っていく訳です.
砂鉄を木炭で直接還元して鉄を作る,直接製鋼法である鉧押で得られた鉧の内,上質鋼は市場へとそのまま出荷されました.
銑の方は,鋳物用または他の歩鉧と共に殆ど大鍛治屋へ送って,小炭を使って加熱し,半溶解の状態にして脱炭し,鍛錬することで滓を絞り出すと言う作業を行い,これにより錬鉄を造り,商品化します.
この錬鉄を通称包丁鉄とか割鉄と言いました.
出雲地方ではずっと鉧押法が主流でしたので,踏鞴場に2~3軒の大鍛治屋が付属していました.
一方,山陽地方では赤目が多く,銑押が主体でしたので,踏鞴場の数に比して独立経営の鍛冶屋数が多く,特に安芸ではこの傾向が著しかったそうです.
ここでは出雲地方の鉧押を主に述べましたが,全国的には銑を得る過程の方が圧倒的でした.
てことで,砂鉄について,再び深く触れていく訳で.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/12/14 22:27
日本において製鉄の原料に適した砂鉄は中国地方と東北地方の特に太平洋側に分布しています.
伯耆の鉄山師である原重仲が著した『鉄山秘書』には,凡そこう書かれています.
「鉄山に於ける優先順位は,砂鉄が第一であって,「一に砂鉄,二に炭木山,三に炉用の粘土,四に米穀安価,五に船着き場の近く,六に鉄山師が有能,七に鉄山職人の良否」であり,砂鉄を第一にするのは鉄山経営の基本で,砂鉄が悪くては製鉄が出来ないし,砂鉄の知識がなければ成功は覚束ないと言うことです.
改めて砂鉄について触れると,採取場所によって,山砂鉄,川砂鉄,浜砂鉄,層状砂鉄に分類されます.
山砂鉄は,花崗岩類の岩石が風化により各成分鉱物が分離し,砂状を呈したもの.
それを掘り崩し,水を用いて谷川を流下し,堰を築き溝を掘り,板樋を伝って水洗,淘汰,採集したもので,中国地方ではこれを「小鉄(こがね)」と呼び,前に述べた様に赤目と真砂に区別しています.
赤目は磁鉄鉱の他に赤鉄鉱,珪酸鉄,チタン鉄鉱を含み,砂鉄粒が細かく,色が多少の赤みを帯びています.
真砂は磁鉄鉱の他は珪石の荒粒が混じる程度で他の鉱石を含むことが少なく,色は赤目に比べて黒いものです.
中国地方では,出雲,伯耆に真砂が,備中に赤目が多く産出しています.
因みに,東北地方でも山砂鉄を産しますが,赤目と真砂の区別はせず,ただ,砂鉄を「砂」と呼び,山砂鉄は「柾」と読んでいただけです.
川砂鉄は,文字通り川から採取されます.
川が急速に流速を減じる様な場所に堆積するもので,河川が山間を出て平野に入る部分に最も多いとされています.
出雲の斐伊川は山砂鉄の山地が源流であり,平野に入る部分に山から運ばれた砂鉄が大量に滞留していました.
これを採取するのは自然に河水によって淘汰沈殿したものを採取するだけです.
但し,こうした川砂鉄は採取が簡単な反面,様々な上流のものが混じり合っている為,品質が一定せず,全体的に山砂鉄に比べて量も少ないものでした.
その川から運び出された砂は海に流れ出てその部分で流速がゼロとなり,河口付近で滞留します.
しかし,海には波や海流がありますから,そのうちの一部は他の地域に運ばれ,浜辺に打ち上げられることになります.
これが浜砂鉄です.
当然,浜砂鉄は砂鉄や砂の割合は一定せず,品位も様々なものです.
とは言え,伯耆や石見では日本海沿岸の浜砂鉄が用いられていますし,東北地方では八戸の種市海岸に打ち上げられた浜砂鉄が用いられています.
最後の層状砂鉄は,洪積層中に存在する砂鉄のことです.
日本では岩手県九戸郡久慈町や大野村付近,青森県下北郡北岸一帯が有名な層状砂鉄の産出地域です.
品位的には,非常に高いもので純砂鉄鉱粒と見えるほどのものもありますが,普通「上鉱」と呼ばれるものは,半分が砂鉄で鉄分が37~38%含むものを指します.
砂層の中に含有されているので,高品位なものから全くの砂層に至るまで各種の品質のものがあって鉱量の計算が非常に困難なものではあります.
層状砂鉄の内,洪積層に属するものは,黒色の磁鉄鉱粒そのままのものもありますが,多くは一部が変化して褐鉄鉱となり,それが磁鉄鉱粒や砂粒の表面を覆い,全体を固結して一種の固まりと化しているものが多く,「菓子の落雁または粟おこし状」と表現されています.
久慈地区のものは「ドバ」と呼んでいました.
層状砂鉄はまた段丘砂鉄とも言います.
これは浜砂鉄が汀線の昇降や海水の干満によって絶えず集散していると,そこの地盤が緩慢に上昇すれば段丘砂鉄となるからで,この段丘砂鉄そのものは洪積世のもので,江戸期から山砂鉄として利用してきました.
盛岡南部家の鉄生産の中心地区であった田野畑及び岩泉地区では,花崗岩の風化,分解によって生じた磁鉄鉱の現地堆積鉱床から「柾砂」と呼ぶ砂鉄を主に採取していましたが,他に海岸段丘もあり,「ドバ」も用いていたのではないかと考えられています.
最上質の山砂鉄は,真砂の場合,色は浅黄色で粒度は少し大きめ,握ってみた時に砂石を感じるものと言い,これは石英が含まれている事を表わしているそうです.
これを火に焼べてみると,音を立てて弾けるもので,こうした砂鉄は白砂山から採取出来,大きな岩が割れ落ちる様なこともなく,しかし崩しやすくて細かく砕け,その上,水に流した時に砂鉄を多く含有している様な場所が最高であるがその様な場所は希でした.
中品位の砂鉄は,「山鳥まさ」と言う色が赤か青の細かい砂に,土が半分混じった様な山や,灰の様に軟らかい砂山から採取されるものですが,この様な砂鉄では釼は作れないとされています.
釼吹きをしたとしても,出来たものは弱くて折ろうにも折れず,釼に鍛えても切れ味が悪いものになります.
但し,銑鉄としての用途は十分です.
とは言え,中品位の砂鉄を産する山には,色が青く粒度が小さくて,握った時に灰を握る感じで手応えのないものがあり,この砂鉄では釼は疎か銑鉄すら出来ない役に立たないものもあり,識別に非常に熟練を要するとされていました.
これを見分ける為に,火に焼べてみるとか吹けるかどうかの試験を勧めています.
この他,砂鉄を手に握って揉み解し,赤色になるものは銑鉄を吹きやすく,揉んだ砂鉄に息を吹きかけ,多くが吹き飛んでしまうのは低品質である,また掌の上で揉んで水中で揺らして洗うと,手の筋に染込んだ様になるが,その時流失が少なくて手裏に溜まるものは品位が高いと言う見分け方もありました.
川砂鉄の場合は,砂中に埋もれた岩陰に滞留しているものを洗い上げて採取したものが品位も良いとしています.
これは,流水選鉱と異なり,長い年月流れの中で自然淘汰されているので,低品位の砂は全て流れてしまうからです.
川砂鉄は銑鉄に向いており,山砂鉄ばかりで吹く鉄山でも,少し川砂鉄を混ぜてやれば鉄が湧きやすい性質を持つとされています.
これを洗浄する場合は,水を少量用いて,手間暇掛けてゆっくり洗浄することが指示されており,洗滌する桶の上半分に溜まった砂鉄は,「釼押」に用い,桶の末端に溜まったものは,鉄の吹き始めである「こもり」から入れて,立ち上がり操業を意味する「のぼり押」に用いるとしています.
浜砂鉄は更に潮に揉まれて選鉱されているので砂や石も良く分離されているとして,銑鉄を作るのに向いているが,釼は作れないとしています.
鉄の性質は軟らかくて弱く良品は少ないものの,細工しやすいとして,これは石見で良く用いられていました.
備中の赤目砂鉄は低品質ながら性質は良好な砂鉄であり,伯耆でも備中に近いところから取り寄せて「のぼり押」の段階で用いる様にしていたそうです.
吹方についても,真砂とは違い「流し庭」つまり,「銑押」と言うやり方で吹く様にしていました.
「銑押」は銑が湯となって流れ出るのを炉の前の部分で取り溜める方式です.
ただ,刃金は出来ず,刃金吹の様に吹いてしまうと炉の中に出来る固まりである「重鉄」と言うものになり,これはちょっとやそっとでは折れない鉧の一種です.
これは「切かね」と呼んで延釼の様に切り割って,再び大鍛治で熱して錬鉄に加工し直す必要がありました.
南部地方の砂鉄については,砂鉄の採取をする際,目当ての山2~3カ所で4~5尺試掘してその土を碗に入れて平にしてから何度も水で流し,残った砂鉄が雁首1つ分あれば砂鉄採掘場所の不振を初めても良いとされています.
因みに,こうした試掘に関しては伯耆の方が先進的で,伯耆の指南書には1升の砂に砂鉄が3匁あれば良く,5匁あれば上々であると具体的な数値を上げて解説しています.
先に東北では真砂と赤目についての区分がないとしていましたが,「白柾」と「川柾」と言う区分がありました.
「白柾」は白土山にあり,「川柾」は赤土山にあるとされていますが,これが真砂と赤目なのかはいまいち不明です.
また,「ドバ」と言う言葉もありますが,製鉄炉の寸法を柾とドバで変更するべきであると言う記述があり,何らかの区別があったものと推測されています.
東北の場合,洪積層が多く花崗岩地帯の少ない南部八戸ではドバを主体に柾も使われており,南部盛岡では花崗岩類岩石地帯が広がっていた為,柾を主体にしていました.
ただ,柾を主体にしたと言っても,海岸段丘もあるので,ドバも併用して製鉄を行っていたようです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/12/15 23:16
踏鞴製鉄の生産法は中国地方と東北地方で少し方式が違うようです.
中国地方では鉧押法と銑押法の2種類があります.
鉧押には山砂鉄の真砂が使われ,鉧塊を作るのが目標です.
鉧はどう場で打ち割ってから,鋼造場で鉧塊の中に生成した鋼を取り出します.
その後に残った歩鉧は,鉧塊作成の過程で出た銑と共に大鍛治場に送られます.
大鍛治場は左下場と本場に分かれていて,2段階で脱炭操作の為の鍛錬を実施します.
銑と歩鉧から作られる最終製品は錬鉄であり,中国地方では割鉄とか包丁鉄と称していました.
銑押は山砂鉄の赤目が主体で,川砂鉄や浜砂鉄も用いられます.
こちらは銑を作るのが主目的ですが,鉧の生成も避けることが出来ません.
とは言え,鉧の生成は最小限に抑える工夫をするのが,この技術の要諦となります.
生成銑は一部を鋳物用として出荷すると共に,大半は鉧と共に大鍛治に回して錬鉄を作るか,専門の大鍛治屋へ売却する様にしています.
東北地方では銑押法を一般的に「吹」または「鉄吹」と称していますが,場合によっては「中国流」としている史料もあります.
山砂鉄として柾と土場の2種類があり,川砂鉄と浜砂鉄とを配合して用いていました.
鉄吹で出来た製品は,荒鉄(●鉄,粗●)と言い,荒鉄の生成が主目的でしたが,こちらも,鉧状のものが出来ることは避けられず,これを「しな(金偏に品)鉄」と称していました.
南部の場合は荒鉄は鋳物用として出荷されますが,大半は他領への移出品として出荷し,仕入れた鍛冶屋で延鉄に仕上げられています.
また,荒鉄の一部は「しな鉄」と共に鍛冶屋(中国地方の大鍛治と同じ)に送って錬鉄を生産する工程を取りました.
要は,東北地方の踏鞴製鉄は銑押法と大して変わらないと言うべきかも知れません.
鋼の生産はあるにはありましたが,その量は3年で500貫匁程度であり,全体の生産量からすれば微々たる代物となっています.
因みに,銑や荒鉄は現代の製鉄法では銑鉄と同じで,熔融状態で鉱滓と同様に炉の外に流出することが出来るものであり,製錬中に生成鉄の中に3~4.5%の炭素を含むものです.
一方の鉧や「しな」は炭素量3%以下で不融解物となりますが,様々な炭素量の鉄の集合体で,単純に「粗悪な銑鉄」とは言い切れ無い部分がありました.
この他,細鉄と言う製品がありますが,これは砕くことによって製品サイズを小さくしたものと,炉の中で自然に生じた小型のものの2種類があり,商品としては前者を意図しているものと言えそうです.
●=「金且」
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/12/16 23:10