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◆◆◆天領
<◆◆国力
<◆江戸時代(徳川幕府期) 目次
<戦史FAQ目次
【質問】
天領とは?
【回答】
江戸時代,大名や旗本の領地の事は私領と言い,徳川幕府直轄領の事を天領,御料,御料所などと言いました.
この原型は,戦国時代に各戦国大名が設置した蔵入地ですが,それをより大規模にしたのが豊臣政権の蔵入地です.
そもそも,豊臣秀吉は,織田信長の政策を引き継いで,重商主義を取っていたと言われますが,秀吉の治政後半の全国統一期には,検地と並行して全国各地に蔵入地が設定されています.
その数,全国35カ国に跨がり,実に200万石となっていました.
この内,畿内とその周辺部に,150万石が集中しています.
これらの蔵入地は年貢収入の基盤であると共に,こうした地に奉行や代官は元より,畿内の豪商や配下の大名を代官に任じたりした他,服従した外様大名の領内に太閤検地を実施し,そこに「太閤蔵入地」を設け,大名の家臣をその代官に任じ,その支配に当たらせる事もありました.
つまり,豊臣政権の蔵入地は,1つ目は常備軍の兵糧米や資源の供給地,2つ目は家臣や大名を代官に任命する事により,一種の論功行賞の地としての機能,3つ目に外様大名の家臣を豊臣政権に取り込み,外様大名を監視すると共に,外様大名家にくさびを打ち込む機能も有していました.
勿論,蔵入地としての機能の他,大坂,伏見,京都と言った主要都市や長崎の様な港湾を直轄化して商品経済や貨幣経済の成果の吸収を図ったり,全国の諸大名領の主要鉱山から産出する金銀銅の一部を上納させ,それらを以て金銀貨幣の鋳造を行い,貨幣経済の発展に努めています.
しかし,豊臣政権は短命に終わり,1600〜1603年にかけては,徳川家康や秀忠による江戸幕府機構の整備が進んでいきます.
その基盤となったのが,関ヶ原の合戦やその後に,豊臣氏始め西軍諸大名の領地を没収したり減転封したりして捻出した,630万石に上る土地でした.
これらは,東軍に与した諸大名に恩賞として与える一方,徳川氏自身も150万石を確保し,従来の領地である250万石に加え,400万石を領有するまでに至っています.
この400万石を親藩大名や譜代大名の創設,直轄領の設定に積極的に充て,豊臣政権と同じく,京都,伏見,奈良,大津,堺など畿内とその周辺の主要都市や長崎などを直轄化したり,佐渡,石見,生野と言った主要金銀山を大名から没収して直轄化し,諸大名に対し,圧倒的な経済的優位性を確保しました.
こうした事があったからこそ,大坂城攻防戦で,豊臣方に荷担する大名が全くいなかった訳です.
その後,1603年以降,江戸に幕府を開いた事により,これらの直轄領は幕府領に移行した訳です.
これも豊臣政権と同じく,年貢収入としての米金及び鉱山からの金銀銅が幕府の中心的財源なのですが,幕府の運営や諸大名,旗本,寺社,諸役人,その他への知行地として加増分,扶持分,役料分として利用されています.
その他,幕府の機能として,幕府の主要城郭及び御所,御殿などの普請や作事,諸河川の改修や堤普請,五街道の宿場整備,港や河岸の整備など陸上,水上交通,商品流通機構の整備や諸外国との交易,接待などの対外関係の整備として活用されていました.
幕府領維持の主目的は,当然,基盤が農業収入に依存するものなので,農業生産地帯としての役割であり,そこからの年貢米や年貢金の収入,例えば,本途物成,小物成,六尺給米,御蔵米入用,伝馬宿入用,三分の一銀納,畑永,その他が幕府財政の最大を占めます.
この農業生産基盤の確保を行う為,幕府は創建以来検地や新田開発を繰返し行い,生産高や年貢収納高の増加を目指しました.
2つ目の目的は,京都,大坂,奈良,堺,伏見,大津,山田,長崎と言った旧来の政治経済の中心地や港湾都市を直轄化して,商業,貿易,交通運輸及び商品流通の要所を押え,かつ都市商工業者を掌握する事により,対外関係を含めた政治的,経済的,軍事的支配圏を掌握しました.
特に,京都,奈良,伏見,大津は,幕府政権初期に於て,畿内とその周辺諸国の「非領国」地域の掌握に際し,政治的,経済的,軍事的に重要拠点だった所です.
京都は,畿内のみならず西日本全体に目を光らせる拠点であり,かつこれらの都市に於ては都市のみを支配したのでは無く,その周辺の農業生産地帯や商業地帯をも支配する,点と面の双方を支配する役割を担っています.
大坂は1619年以降完全に幕府の直轄下に置かれ,大坂周辺の東成,西成,住吉の三郡を幕領とし,矢張り点と面の双方を支配すると共に,大坂城には幕府直轄蔵を置き,畿内と周辺諸国の幕領の年貢米金を集中的に納めさせています.
長崎は,家光以降の鎖国体制に於ける対外関係の窓口であると共に,幕府による糸割符貿易やオランダ貿易の独占体制を維持する役割を担っていました.
3つ目の目的は,年貢地払いや年貢換金の場として,各地の商品流通の拠点である在郷町や在方町の掌握の他,新たに大勧進屋を中心に町立や市立を行い,これらの町や市を育成し掌握する一方,東海道や中山道などの街道の宿駅や関所・川関を直轄化,整備し,交通伝馬や商品流通体系を掌握すると共に,軍事的機能をも掌握しました.
幕領の設定に際して,幕府は,代官陣屋の設置と町立,市立を図ると共に,各国の在郷町や湊,河岸など商品流通の拠点を意図的に含めて,商品流通過程の掌握を図っています.
また五街道,脇往還と言った陸上交通体系の整備や江戸と上方間の南海航路,蝦夷地や日本海沿岸諸湊と上方や長崎とを結ぶ西廻り海運及び,蝦夷地や東北の太平洋沿岸諸湊と江戸を結ぶ東廻り海運の整備を行い,江戸,大坂,長崎と全国各地との商品流通機構の整備も行っています.
その上,関東や畿内においては内陸河川の開削,整備と河岸の設定により,内陸河川交通による商品流通機構の整備も図っています.
元禄期の場合,関東において86箇所の河岸が設定され,河岸問屋株の設定と共に,問屋株運上金を随時徴収しています.
4つ目は貨幣鋳造権の独占と,その材料である金銀,貨幣材料及び主要輸出品である銅を産出する主要鉱山の掌握です.
特に貨幣鋳造については,1606年に下総以東での獅噛銭の通用と撰銭令を出し,1608年には中世以来通用銭の中心であり,基準通貨でもあった永楽銭の通用禁止と永楽銭1貫文を鐚銭4貫文及び小判1両とする換算規準を設け,金銀鐚銭を通用貨幣としていると同時に鐚銭の撰銭も命じています.
この様な鐚銭を整理する為に,1636年には銀座役人秋田宗古に命じて,江戸と近江坂本で寛永通宝を鋳造させ,統一通貨として,1637年には全国普及を図る為に水戸,仙台,松本,吉田,高田,備前,豊後などに銭座を取立てさせ,銅銭の鋳造に当たらせています.
金座は,1595年に京都から家康が,後藤庄三郎光次を江戸に招き,小判を鋳造させた事に始まり,一時駿府,京都,佐渡にも置かれますが,佐渡以外は江戸に集約され,後藤家は勘定奉行の下で小判や一分金などの金貨の鋳造,鑑定,封印を独占的に請け負いました.
銀座は,1601年に家康が伏見に設置し,丁銀や小玉銀などを鋳造して中世以来の灰吹銀に代えて,全国的通用を図りました.
この銀貨の銀吹き手になったのが,堺の大黒屋常是であり,一時駿府や京都にも置かれますが,1612年には駿府の銀座を江戸に移し,常是の次男長左衛門が銀吹所となって,鋳造に当たりました.
こうして,幕府は貨幣鋳造権を掌握する事で全国の経済を掌握する一方,これは1695年に行われた,勘定奉行荻原重秀の小判改鋳による財源捻出に利用されたり,経済,物価安定の為に利用されたりもしています.
5つ目は,城郭や都市建設用材の産出地である,信濃の木曾谷や伊那谷,丹波,大和,飛騨の山間地帯の掌握です.
特に木曾谷の木材は,幕府初期においては江戸城を始め,幕府の主要城郭や朝廷の仙洞御所などの建設に用いられたので,これらの山を御立山とし,且つ伐出しや搬出の費用調達の為,周辺一帯を幕領としてその年貢米を充てる一方,筏に組み川下げする為,天龍川や木曽川の流域の要地も幕領とされ,そこに代官を配置し輸送の円滑化を図りました.
但し,木曾谷は1615年以降尾張徳川家に下され,幕府の手を離れています.
6つ目は,軍馬の供給地たる放牧場,鷹場の草原地です.
特に,鷹場は家康以降江戸周辺に設置されていましたが,1628年に鷹場法度の村触に関する担当代官制が決定され,江戸5里四方が将軍の鷹場に,また1633年には江戸の5里から10里までを,御貸場と言う御三家の鷹場も設定されています.
鷹場は綱吉時代に廃止されましたが,1716年に吉宗によって復活し,江戸5里以内6筋の鷹場に再編成されました.
馬の牧草地は1722年以降,吉宗が下総の小金牧や佐倉牧,安房の嶺岡牧などで軍馬の育成を目指して,直轄の放牧地を積極的に経営し出し,アラブ種の馬を導入して,品種改良にも取り組んでいます.
1700年の下総全牧所在の馬数は1,119頭ですが,幕末には小金牧が1,300頭余,佐倉牧は3,800頭余に及んでいます.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/06/06 23:52
青文字:加筆改修部分
さて,幕領は各地にありました.
幕領が何らかの形で存在した国は,全国68カ国の72%に当たる49カ国と蝦夷地に及んでいます.
この内,地域別に見て最も多いのが中国筋の10カ国で,以下,関東筋,海道筋,畿内筋の8カ国,西国筋の7カ国,北国筋の6カ国,奥羽筋の2カ国と蝦夷地となっています.
当然,この中にはホンの一時だけ幕領が置かれた地域もあり,ずっと幕領が存在していた国は40カ国前後です.
幕領…と言うか豊臣政権時代の徳川家の関東移封後の徳川家家領は,全部で100万石とされています.
その後,徳川幕府が開かれた近世初期の1640年代後半から1650年代にかけての正保・慶安期には,大体320万石となっており,その内大名預地が約18万5,400石となっています.
地方別の内訳は,関東筋が徳川家領と大して変わらず100万石前後で大名預地は無く,海道筋が大名預地約2万石を含む76万石,畿内筋が大名預地1,000石を含む75万石であり,これだけで幕領全体の78%を占めていました.
この他に奥羽筋に大名預地約6万8,000石を含む約18万石,北国筋に大名預地約3万6,600石を含む約17万石,中国筋には大名預地2万2,800石を含む約17万石,西国筋が大名預地約3万7,000石を含む約12万石となっていました.
1700年代初頭の元禄期になると,大名預り分は不明なれど幕領は400万5,600石に達し,正保・慶安期に比べて約80万石ほど多くなっており,これに推定された大名預地を加えると約450万石に達しています.
内訳は,関東筋が119万9,900石,北国筋68万5,700石,畿内筋66万7,200石とこの3つの地域で255万2,800石と全体の64%となり,江戸前期に比べると寧ろ減少しています.
北国筋が17万石から68.5万石に突出したのは,1693年に佐渡の総検地が行われ,それまでの年貢高を改め生産高表示により一気に13万石余を打ち出した為です.
一方,海道筋は49万7,300石と76万石から大幅に減少していますが,これは大名預地が含まれていない為と考えられます.
この他,奥羽筋が45万5,400石,中国筋が25万2,000石,西国筋が24万8,000石となっています.
江戸中期の1729年の記録では,幕領は444万4,500石と,元禄期の400万石から大きく増えています.
これは,正保・慶安期から見れば39%増ですが,元禄期と違うのは大名預地がこの石高に含まれているからです.
従って,これは元禄期の大名預地を加えた,推定高450万石にほぼ近い数字になっています.
この内,大名預地は68万8,600石となっています.
関東筋では大名預地は無く102万7,200石,海道筋は大名預地5万7,800石を含む79万400石,畿内筋が大名預地4万8,000石を含む72万4,300石…これには但馬が含まれています…と3つの地域で254万1,900石と幕領全体の57%に留まっています.
石高はそんなに変わらないのに,比率が低下しているのは,幕府領全体が増加した為です.
この他,奥羽筋は大名預地12万6,200石を含み,地域的には越後,下野の一部を含んだ形で50万200石,北国筋は大名預地39万8,000石を含み80万6,300石,中国筋は大名預地3万4,800石を含む44万4,400石,西国筋は大名預地2万4,400石を含む15万1,700石となっており,奥羽筋,北国筋,中国筋で数字が大幅に増加しています.
これは徳川吉宗が実施した,代官の見立による新田開発が盛んに実施され,新田検地もきちんと行われていたのが原因です.
大名預地については,享保改革で各地に適任の代官がいない場合には,当分の間大名に預け支配を委ねるという政策に基づくものです.
この代官不足の原因は,綱吉の時代に,幕府財政の逼迫を背景に初期以来の世襲代官を中心に,彼らの年貢引負を清算させる政策を実施した為,多くの世襲代官や有能な代官が失脚したり罷免したりされた為,有能な代官が不足したと言われています.
江戸後期の1838年の記録では,全幕領高は419万2,000石となっており,この内大名預地は76万3,400石と,享保期に比べると若干減少しています.
この内訳は,関東98万5,200石,海道筋は大名預地7万700石を含む68万8,500石,畿内筋は大名預地10万6,500石を含む63万700石とこの3つの地域で230万4,400石となり,石高はそんなに変わっていませんが,比率については,55%とやや低下しています.
この他,奥羽筋は大名預地17万1,000石を含む54万6,300石,北国筋には大名預地38万6,900石を含む74万2,000石,中国筋は大名預地11万1,800石を含む39万6,200石,西国筋は大名預地4万9,000石を含む20万3,300石とやや増加している形になっています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/06/09 23:11
【質問】
天領統治の方法は?
【回答】
さて,徳川家の所領400万石を統治するのは3種類の方法があります.
1つ目は,幕府代官が直接支配する代官支配地,2つ目は遠国奉行や出先役所の支配地,3つ目が大名又は旗本などに支配を委ねた預地です.
この中では当然,代官支配地が最も支配高が多く,多数の代官又は郡代,代官頭等によって支配されました.
幕府成立当初は,伊奈忠次,大久保長安,彦坂元正,長谷川長綱等代官頭,そして,島田重次,神谷重勝等の有力代官が,広汎な権限を持って広い地域を支配し,地方支配に関する幕府の基盤確立に活躍しています.
特に代官頭は,1590年の家康の関東入封以降,関東領国の徳川氏直轄領を年寄衆の本多正信の指揮の下,合議しつつ共同して支配に当たると共に,関東領国全体の支配にも当たっています.
この支配の為,代官頭は配下に多数の手代代官や下代を抱えており,彼らを駆使していました.
この手代代官や下代には,代官頭の出自により特色があり,伊奈忠次の場合は,三河譜代である為三河出身系の代官が,大久保長安は甲斐の武田氏旧蔵前衆出身である為,甲州系代官や後北条氏系代官を,彦坂元正と長谷川長綱は駿河の今川氏旧臣である為,駿河・遠江出身系代官をおのが支配下に置いています.
また,伊奈忠次は支配陣屋を武蔵足立郡小室に,大久保長安は武蔵多摩郡八王子に,彦坂元正は相模鎌倉郡岡津に,長谷川長綱は相模三浦郡浦賀に各々構えると共に,各地に出張陣屋,更には配下の代官も各地に陣屋を構え,支配に当たっています.
1598年に秀吉が死去した後,家康は五大老の筆頭として,豊臣秀頼を頂点にした公議の執政として振る舞っており,この体制は,1603年2月に家康が征夷大将軍に任ぜられ,徳川幕府を開設するまで続きましたが,この体制では,代官頭は,徳川氏直轄領の代官としての性格と,公議体制下の代官としての性格の二面性を持っていました.
後者としては家康が,関ヶ原合戦後西軍に属した諸大名の領地を,没収又は減封により捻出した630万石の領地の処分を行い,東軍に所属した大名への恩賞として加増したり,大名領の再配置や安堵を行う一方,前述の様に徳川氏も150万石をその中から割き,圧倒的な所領を有する様になります.
この中から,親藩や譜代大名を創設し,幕領を各地に設定していったのですが,この幕領は特に豊臣勢力の強い畿内筋や,その影響の強い中国筋や西国筋を中心に設定していきました.
同時に,畿内筋の京都,伏見,奈良,堺,大津など主要都市もその支配下に置きます.
更に,関東移封に伴い秀吉に取り上げられた旧領5カ国である駿河,遠江,三河,甲斐,信濃なども回復し,豊臣系大名を転出させ,代わりに親藩大名,譜代大名などを,東海道沿いの城地を中心に配置して,徳川領国化すると共に幕領を設定していきました.
関東筋でも常陸や下野等,更に陸奥南部の一部を既存大名の転出により捻出し,徳川領国化し,幕領を設定しました.
こうして,徳川領国の拡大に努める一方,幕領の拡大を図り,これらの幕領の支配には代官頭が活躍しています.
関東から東海道沿いは伊奈忠次が支配し,大久保長安は関東の一部である武蔵と甲斐,信濃,美濃,佐渡や畿内の近江,大和,石見など主として地域の支配に当たり,特に佐渡金山,石見銀山,伊豆金山等の鉱山や信濃の木曾谷,伊那谷,大和吉野などの森林資源を支配しました.
彦坂元正は相模鎌倉,伊豆の他,陸奥南部の一部である南郷や棚倉領等を支配し,長谷川長綱は相模三浦郡,武蔵南部等を支配しています.
彼ら代官頭は農政や年貢収受,検地,新田開発,知行宛行・割り渡し,寺社領の宛行・安堵,町立,市立,伝馬制度,鉱山開発,城普請,訴訟処理など幕領支配のみならず,幕府の基盤確立に重要な役割を果たしています.
その後,長谷川長綱が1604年に,彦坂元正が1606年に,それぞれ死去又は失脚すると,全国幕領の支配は,伊奈忠次が関東から東海道沿いの幕領を,大久保長安がそれ以外の幕領支配に当たりました.
その後,1607年以降に,駿府の大御所家康と江戸の将軍秀忠との二元政治を行うと,大久保長安が前者の年寄衆となり,伊奈忠次は後者の年寄衆に並ぶ地位に上り詰めました.
しかし,1610年に伊奈忠次が死去すると,その支配は大久保長安に集中する事になり,この為,長安をして,「天下の総代官」と呼ばれる様になっていきます.
ただ,こうした代官頭への権力集中は,幕府の創業期は兎も角,幕府の支配体制が確立し,職制が整備されていくと,幕府から見れば体制には危険と見做され,1613年に大久保長安が死去すると代官頭は廃止され,かつ,生前の贓物隠匿を理由に彼の子供は全員処刑されると共に,配下の代官や下代達も厳しく調べられ,処罰されていきました.
一方,伊奈氏の場合は,忠次の死後,長男の忠政が所領13,000石を継いで大番頭になると共に,忠次の政治的機能を継承し,次男の忠治は忠次の地方支配と代官統括の機能を継承し,かつ忠次は以下の代官や下代達も引き継いでいます.
こうした人的資産と権力を引き継いだ事が,伊奈氏が代々「関東郡代」となり,それを世襲した事に繋がっていきます.
因みに,「関東郡代」と言う職名は当初幕政上の正式な職名で無く,正式に登場するのは1792年に伊奈忠尊が失脚した後,勘定奉行久世広民が兼帯した時が最初と言われています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/06/07 23:17
青文字:加筆改修部分
さて,天領を支配するのは代官だけではありません.
遠国奉行も,そうした天領の支配を行っています.
江戸幕府の遠国奉行には,佐渡奉行,長崎奉行,伏見奉行,堺政所(堺奉行),奈良奉行,山田奉行,浦賀奉行,下田奉行等が有りますが,それぞれに支配地を有しています.
佐渡奉行は当初佐渡代官と呼ばれましたが,1600年以降佐渡一国と佐渡金山を支配し,金山経営を中心に佐渡の地方支配を行いました.
初期には年貢高で24,800石ですが,1693年に総検地を行い,130,300石に高改めをしています.
佐渡代官は,1635年に伊丹康勝が勤める様になってから,佐渡奉行と改称されました.
長崎奉行は1600年に設置され,南蛮貿易とか中国貿易の関係上長谷川波右衛門重吉,長谷川左兵衛藤広と言った豪商が任ぜられました.
長崎奉行の下には長崎代官が置かれ,こちらも村山等安,末次平蔵政直等の豪商が任ぜられています.
この内,地方支配は長崎代官の任務であり,長崎町とその周辺7,000石が長崎付支配地となっていました.
しかし,1657年4代目の末次平蔵茂朝が密貿易の咎で改易されると長崎代官は廃止となり,長崎代官の職務は長崎町年寄が代行し,1688年頃からは長崎奉行の兼帯となりました.
そして,1739年には長崎町年寄の高木作右衛門忠与が代官に任ぜられ,その後は高木家が幕末まで世襲しています.
伏見奉行は,大坂との戦火の余燼が収まった1623年に,伏見城の廃城と共に設置された職で,初代は小堀遠州こと小堀遠江守政一が任ぜられ,以後,1696年から2年間だけ京都町奉行の兼帯がありましたが,その後は幕末まで存続しました.
伏見奉行の支配地は深草など伏見廻り8ヶ村4,300石でしたが,伏見町政と同領の地方支配のみならず,京都御所の警備,西国大名の往来の監視,丹波・近江への法令伝達と訴訟受理,伏見・宇治・木津川などの川船監視も任務に含まれていました.
堺政所は1600年に米津清右衛門親勝が任ぜられ,1614年の長谷川藤広の時に堺廻り14ヵ郷を支配し,その後支配地は合計で10,000石に達しています.
これも1696年から6年間は,大坂町奉行の支配下にありましたが,幕末まで存続し,1664年以降は堺奉行と改称しました.
初期の機能には和泉国奉行として,和泉国内の統括と堺町政にありましたが,中期以降は堺町政のみに特化しています.
奈良奉行は1613年に大久保長安の事件後,その配下だった中坊左近秀政が独立し,大和幕領支配の中心となり,奈良の町政及び奈良廻り8ヶ村を支配したほか,吉野郡の幕領及び吉野杉の管理にも当たっており代官も兼ねています.
1664年に土屋利次が就任すると,これまでの代官職は分離され,以後奈良奉行は,大和の寺社支配と国中への法令伝達・治安維持を任務としました.
なお,奈良代官には五味藤九郎豊旨が任ぜられ,奈良の町政と大和幕領の地方支配,及び吉野杉の管理の機能を引き継いでいます.
山田奉行は,大岡越前守忠相が江戸町奉行になる前に勤めていた場所ですが,こちらは1603年から置かれ,長野内蔵允友秀と日向半兵衛政也が任じられて,伊勢国奉行として同国を統括すると共に,山田町政と伊勢神宮三方衆の監督にも当たりました.
こちらは若干の支配地があったと思われますが,石高は不明です.
下田奉行は1616年に伊豆下田番所が設置され,江戸廻船の監視と浦方の支配に当たったのが最初で,その支配地は1640年代は下田廻り4ヶ村3,000石となっていましたが,この4ヶ村は三島代官の支配地となり,1721年に下田奉行が廃止されるとその機能は浦賀奉行に移管されます.
1842年になって,再び下田奉行は設置されましたが,1843年には再び廃止,1854年に開港場となったので設置されたものの,1859年には三度廃止の憂き目に遭っています.
浦賀奉行という職制は幕府成立当初,特になかったのですが,1590年浦賀に代官頭長谷川長綱が陣屋を設け,三浦郡の支配と江戸湾への船舶出入り監視を行っています.
1604年に長綱が死去すると,甥の長谷川藤右衛門長重が引き継ぎますが,その後陣屋は廃止されました.
しかし,1721年に下田奉行が廃止されると,その機能を引き継いだ浦賀番所が置かれました.
この番所は,江戸湾への船舶出入り監視と,通行税の徴収に当たっており,1722年には東浦賀に浦賀奉行所が置かれ,1729年の支配地は周辺の浦770石が支配地でしたが,1838年には6,500石に増加しました.
なお,1624年には三浦半島の先端に三崎番所が置かれ,幕府御船手衆の向井忠勝が支配し,1625年には走水番所も置かれてこれも向井忠勝が支配しています.
両番所は1644年の忠勝の子忠宗の死去により,1645年以後は三崎奉行,走水奉行として独立し,各々江戸湾へ出入りする廻船の支配と監視に当たり,下り船は走水奉行が,上り船は三崎奉行が担っていました.
三崎奉行の支配地は,元禄期に三崎廻り1,400石,走水奉行支配地は同じく1,900石となっていました.
この両奉行所は1696年に廃止されて代官所となり,1721年以降は再設置された浦賀奉行の預地になっています.
他に,幕領を支配する形態としては,大名預地があります.
これは戦国時代に,戦国大名の領国内の支城に,支城付の蔵入地を設けたのが最初で,豊臣政権下に於ても,豊臣政権に服属した外様大名の領内や占領地を検地した際,その大名領内や占領地に太閤蔵入地を設定し,それにその大名又は近隣大名を代官に任じ,支配に当たらせる方式を執っていました.
例えば,出羽土崎の秋田氏や薩摩鹿児島の島津氏,常陸水戸の佐竹氏です.
この狙いとしては,大名領国内に豊臣氏の権力を浸透させ,その大名家の権力を牽制する目的がありました.
徳川幕府の大名預地も同様ですが,この性格は豊臣政権とは異なっており,幕府財政及び幕領の支配機構の整備,更には代官に適任者がいない場合に大名へ幕領を預けたり,大名の財政補填の為に預け私領並支配を認めたりすると言った,時期と幕府の財政政策との関係で様々な方式が執られました.
例えば,1643年に会津に保科正之を封じた折,幕領の会津・大沼・岩瀬の3郡と下野の一部南山領5万石を会津保科家の預地とし,年貢は幕府へ上納させるものの,「私領同前」に支配するのを認めています.
但し,これは保科正之が将軍の妾腹の子であった為の例外であり,この頃は一般的に大名の預地は設定されているものの,「私領同前」に支配するのは認められていません.
その後は,綱吉による幕府支配機構の整備,強化策による幕領支配の引締めと幕府財政立て直し政策により,幕領の代官支配への1本化が行われたため,大名預地は廃止されました.
しかし,これによる支配引締めが一定の成果を上げたためか,1696年には再び復活しています.
1712年には新井白石の「正徳の治」により,財政立て直しのためまたも預地は廃止され,代官の直支配が復活しました.
ところが,1722年に吉宗が行い始めた「享保の改革」では幕府財政立て直しのため,幕領の代官による年貢徴収率の低下と,綱吉時代の代官粛清の余波による有能な代官の不足と言う背景で,当分の間として,大名預地は復活しました.
事実,1732年には幕領高451万4,800石あるものの,此処から上がる年貢収納高は,74万8,300石と僅か17%しかありません.
五公五民とか四公六民と言った,大名家のそれと比べると倍以上の差があります.
この為,有能な代官の手が回らない所を中心に,幕領の年貢収納を各大名に任せた訳です.
但し,これには期限が無かったので,何時しか各大名家がこうした預地を「私領同前」に支配するという弊害が出て来たため,1789年に松平定信は「寛政の改革」で,預地の年期制を定め,原則として5年ないし3年と設定しましたが,1839年に水野忠邦が行った「天保の改革」では再び年期制を廃止しています.
この頃の預地の例には,1724年に発生した越後紫雲寺潟を始めとする質地騒動により,越後の幕領33万石総てが,同国の5つの大名家の預地とされ,1740年以降は徐々に直支配に戻されたものの,幕末まで影響が残っていたり,1807年以降の蝦夷地の,2度に亘る直轄化では,北方警備と蝦夷地海産物の一括支配を行いました.
また,1811年以降には江戸湾海防のために相模や上総,安房の沿岸部を譜代大名に割り当てて防衛に当たらせましたが,遠方の大名には経費の負担を補填するために,沿岸部の幕領から預地を割いて与え,これを「私領同前」の支配を認めています.
大名家だけで無く,旗本や大名家臣への預地もあります.
旗本預地は,江戸初期以来信濃伊那郡では多くの在地土豪を代官に登用していますが,3,000石の旗本である知久則直や,500石の旗本である遠山景直も,幕領の一部を預かり支配していますし,美濃でも大久保長安支配下で幕領の一部を預かり支配した,2,000石の旗本林勝正は,代官にこそなりませんでしたが,代官と同様の機能を果たしています.
一方で,山村甚兵衛良安と千村平右衛門良重は1619年までは信濃木曾谷,伊那谷の代官でしたが,この年以降木曾谷が尾張藩領になると,2名とも尾張徳川家の家臣であり,かつ幕府代官の身分も有すると言う二重の家臣となっています.
1750年以降も,尾張徳川家家臣である毛利源内に美濃中島郡内の新田地1,000石(実高1,400石)を預け,これは幕末まで続いていますし,1789〜90年の短期間だけですが,尾張の成瀬右衛門に美濃国内3,000石を預けています.
尾張徳川家にこうした預地が多かったのは,尾張藩領の濃尾三川地域の新田開発地が幕領となり,その石高が代官支配をするには余りにも少なかったため,近隣に所領を持つ尾張徳川家家臣に預けたもので,その支配は彼らの役所に於て行われています.
更に豊後でも,1601年に中津細川氏の家老松井康之に速見郡内17,200石が預けられ,1632年に細川氏が肥後に転封するまで,支配が継続されています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/06/08 23:38
【質問】
代官とは?
【回答】
一般に「天領」と言う呼び名は幕末〜明治期以降に一般的になり,幕府の法令上は御料,御料所,代官所と言われています.
この所有高は,先述の様に関東入国の際に100万石程度だったのですが,家康の晩年には200万石と倍加し,その後の開発や諸大名の改易,減封により綱吉時代には400万石に達しました.
実は,この他に幕府の直轄領に準じる旗本領が300万石もあり,全国の領地高3,000万石のうちの実に4分の1が幕府とその関係者の支配下にあった訳です.
幕府の直轄領のうち,町は奉行の支配地になっており,農村部は代官や郡代の支配地となっています.
こうした支配地は,全体石高のうち80%を占め,そこに暮らす農民達は,自らを「御料の百姓」と自称し,中々気位の高い人々でした.
勿論,各大名家の構造もこれと同じで,それぞれ家中に郡奉行や代官が置かれていました.
こうした郡代や代官は,テレビの時代劇では悪徳商人から「山吹色の菓子折」を貰い,苛斂誅求を行って農民を虐めたりしたと言う描かれ方をしていますが,実際には,こうした人々は直接農民に接触する機会が多い職であり,農民を虐めすぎると,一揆や騒動が起きて,罷免される可能性が高い職でした.
この為,悪徳代官もいるにはいますが,一方で自ら農民の中に入って固有の政策を打ち出し仁政を行い,人望のあった代官も少なくありません.
代官の支配領域の諸村は支配所或いは代官所と言い,代官が駐在する施設の敷地内の総てを陣屋,役人の執務場所を役所と言いました.
代官と郡代の違いは少なく,大体が警察や訴訟などの事務を取り扱う公事方と,財政と人別事務を取り扱う地方に分かれていました.
但し,役高は郡代の方が400俵と,代官の150俵より多く,しかも郡代は従六位の布衣で,一応多くの代官よりも格式が上です.(江戸地廻りの代官には布衣もいましたが)
郡代は25万石を支配した伊奈氏の世襲職である関東は別格として,美濃,西国(九州),飛騨では10万石以上を支配領域としていました.
これに対し,代官は各直轄領に配され,江戸の始めには70名以上いましたが,中頃以降は次第に減って4〜50名程度に減っています.
また,支配領域は関東の一部が10万石以上であることを除けば,大体5〜10万石の石高で,余り大きな支配領域を有してはいません.
更に,この支配地域の支配は常時代官が行っていた訳では無く,手付や手代などの属僚により民生が行われる事が多かったと言います.
郡代や代官の指揮命令系統は,何れも勘定奉行の指揮下に属していました.
しかし,京都代官の小堀氏は京都所司代に,同じく角倉,木村両氏は京都町奉行に,長崎代官高木氏は長崎奉行に属していました.
また,関東郡代伊奈氏は,勘定奉行兼任者も多く,この関係から屡々老中支配となり,別格の取扱いを受けていました.
その事務も,支配地の陣屋で取っていた他の郡代や代官とは異なり,武蔵国足立郡赤山陣屋(現在の川口市)と江戸馬喰町(現在の東京都中央区)の郡代役所で行っていました.
10万石の支配地を有する大名家では,多数の家臣が扈従します.
ところが代官は,幕府の地方行政官としての性格から転任が頻繁に行われ,役所の支配組織は非常に簡素なものでした.
代官役所の職員の人数は,江戸の役宅と任地の陣屋に40名程度が属している位で,これっぽっちの人数で広大な支配地の事務を行っていた事になります.
代官に配下には,手付・手代などが数人いましたが,首席を元締,次席は加判と言い,彼らが平手付・手代を統率し,その下に書役・侍・勝手賄人・足軽・中間等がいました.
手付・手代等その他の代官役所の吏員は,あくまでも代官役所の雇人で,幕府の役人ではありません.
始めの頃,手代は,農民や町人の中から,算勘に明るいものを選び,その選抜も代官が自由に採用や罷免を行える権限を有していました.
しかし,18世紀末〜19世紀初頭の寛政期になると,別に手付が任ぜられる様になりました.
この手付は御家人の譜代,抱席等より,代官の申請によって勘定奉行が任命した者で,代官が罷免されれば同時に解職されるのですが,中には経験を買われて他の代官に雇われる手付も少なくありませんでした.
ところで,幕府の費用の基は年貢米です.
1611年12月,諸国の直轄領の年貢米は幕府によって江戸に集められ,その財政基盤の拡充に乗り出していますが,江戸城の代官町付近には,伊奈備前守忠継,大久保石見守長安,彦坂小刑部元正等代官頭や代官所管の蔵が建ち並んでいました.
1642年以降は,直轄領の租税や幕府の一般会計の事務を総轄する勘定頭(後の勘定奉行)の職が設けられ,元禄以降は江戸に近い関東の代官は陣屋を引上げ,江戸の役宅や伊奈氏の様に馬喰町の郡代役所で事務を執る様になり,遠隔地の代官所の支配は,任地と江戸に手付や手代を配置して,常に密接な連絡の下に事務処理を行う様になりました.
1721年以降,幕府は勘定奉行を,年貢及び財政全般を所管する勝手方と警察及び裁判を所管する公事方に分け,郡代や代官の地方支配機構も同様に年貢徴収と民政一般を所管する地方と公事方に分けられました.
また役高なども変更されます.
先に見た様に,代官の役高は150俵程度ですが,この他に役料が支給されました.
初期の頃は,これに属僚の手当や役所の諸入費に充てる為,徴収した年貢米から口米永と言った付加税を取っていました.
しかし,幕府権力が次第に確立されると,年貢請負的性格が否定され,1725年以降は口米永も取らず,総てを幕府の収入とし,必要経費は改めて幕府から代官に支給されると言う方法が行われました.
この支給額は,代官所の支配高にも依りますが,高5万石について米70人扶持(1人扶持は玄米が1日5合の割で支給),金の方は西国(九州)で750両,中国で670両,五畿内・海道・北国・関東・東国の地方では600両が1年分で支給され,赴任費用も支払われる様になりました.
手付の年棒は米30俵2人扶持を平均とし,もし休職しても恩給的にそれをもらう事が出来ました.
これに対し手代の方は,大部分が農民や町人などの出身である為か,本給は無く,代官役所の経費の中から支給されたので,休職になってしまえば,全く生活が成り立ちませんでした.
1736年以降は改正されて,並の手代で20両5人扶持となりましたが,手代と言っても,実際には独立した生活をしていただけに生活は常に苦しく,それが故に村役人と結託して,不正や私曲を働く事も屡々でした.
因みに,前に見た様に,代官は不正をする者もいたりはしましたが,初期の頃は国土開発に優れた人々ばかりであり,こうした人々を罷免するのは国土開発が遅れるので,ある程度大目に見る傾向がありました.
それが変わったのは綱吉の時代の天和・貞享の頃,つまり,1681〜88年頃からです.
綱吉の治政29年間に死罪や免職になっている代官は実に51名に達し,総数からしてかなりの比率に達します.
この粛清により,江戸時代始めからの代官で職を追われる者が少なくありませんでした.
この様に代官や郡代は,3代位の世襲や,下手をすれば1代限りで終わる人も少なくありませんでした.
その一方,関東の伊奈氏,京都の小堀,角倉,木村の三氏,大津の石原氏,近江信楽の多羅尾氏,長崎の高木氏,伊豆韮山の江川氏の様に,世襲が続いた代官もいました.
更に享保になると再び代官の綱紀粛正が行われましたが,反面,勘定書関係や大番・書院番・小姓組番・新番・小住人と言った五番方とは別に,農民の中から優れた治水・土木の技術者や農業経営の手腕のある者を代官に抜擢するケースも少なくありませんでした.
寛政期になると,儒学者出身の代官もいましたが,緊迫する国際情勢の中でそれに対応できるよう,蝦夷や樺太の探検者が代官に就任するケースもあり,代官が勘定書の役人や地方巧者だけの独占職では無くなっていきます.
これは享保以降,天明飢饉,天保飢饉などの飢饉が相次ぎ,農村の疲弊が問題となったのが原因です.
この為,代官は年貢徴収や一般民政だけで無く,治水工事や開発による農村の復興を急務とし,芋の栽培や小間引き・堕胎の禁止などにも腐心しなければなりませんでした.
こうした中で,幕府の意を受けて年貢徴収に狂奔する代官もいましたが,農民の苦しみをそれなりに理解し,自ら遠い任地へ赴き,長期に亘り農村の復興に努め,仁政を以て直轄領の支配に当たった代官もいました.
この様な代官は生前や死後,領内の農民達により生祠や神社に祀られたり,頌徳碑や功徳碑に刻まれている場合も多くあります.
幕府は,綱吉の将軍就任と共に,1680年閏8月に代官の心得として7箇条の法令を出しています.
その第1条は,「民は国の本也,御代官の面々常に民の辛苦を能く察し,飢寒等の愁之無き様に申付らるべき事」とあります.
つまり,庶民は国の本になるもので有るから,代官たる者達は,その生活の実態を能く把握し,寒さや飢えの不安の無い様にする事を命じると言う事です.
今の非常事態のこの時代,こうした代官の心得を持って仕事をしている為政者は,東京のあの霞ヶ関にどれだけいるのでしょうかね.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/06/10 23:45
青文字:加筆改修部分
【質問】
江戸時代の大坂の町の状況は?
【回答】
大抵の場合,江戸時代,町を描いた風景画は,江戸ばかりであり,大坂は滅多に出て来ません.
しかも,江戸初期の豊臣の大坂を描いた絵画資料は,「大坂城図屏風」「大坂冬の陣図屏風」「大坂夏の陣図屏風」くらいしか無かったりします.
これらに描かれた大坂の町家は,平屋建てもしくは中二階建てで,屋根は板葺き屋根の上に石を置いた比較的粗末な建物が多く見受けられます.
これは豊臣秀吉の最晩年である1598年に行った,大坂城地再開発に関係があると思われ,恒久的な建物を建てる前に,関ヶ原で西軍が敗れ,それから暫くして大坂冬の陣,同夏の陣で,周辺市街地が焦土になったことも一つの要因になったと思われます.
豊臣が滅亡して徳川の時代になり,寛永年間の大坂を描いた「大坂市街図屏風」には,町家の多くは中二階建てとなり,屋根は石置き板葺きが一般的ですが,中には本瓦葺きの町家も登場して,屋根に卯建を立ち上げている家も出て来ます.
その大坂には,江戸期に入ると,西日本や日本海側諸大名家の領内から集めた年貢米や国産物を売り捌く為に各大名家が建設した蔵屋敷が集中しました.
その最初は,秀吉時代の天正年間に加賀前田氏と言われ,以後,17世紀初頭の元和年間には中堀川も整備されて,交通の便利な中之島や,土佐堀川,江戸堀川沿岸に集中するようになり,17世紀中頃の明暦年間に25,17世紀末の元禄期には95,1835年には111,1868年には135に達しています.
その中で四大蔵屋敷の一つとされた,佐賀鍋島家の大坂蔵屋敷の構造は,南から東側に掛けて「御米蔵」が,北側,西側には蔵役人の居宅である「長屋」が建並び,敷地外周を囲んでいます.
南西隅には堂島川から船を引き込む「御船入」があり,大道との交差点にはアーチ状の「船入橋」が架けられています.
屋敷内には中央部に「御屋形」(御殿)があり,船入に沿って「米会所」「御米蔵」などの施設が点在しています.
とは言え,大坂は町人の町であり,武家は人口のほんの数パーセントを占めるだけで,残りの大多数は町人が占めていました.
一番豪華なのは豪商の住まいです.
その中の一つ,住友家住宅は,間口60間,奥行20間,面積1,200坪あり,西半分は営業を行い,当主が生活をする本宅で,東半分は銅を精錬する銅吹所に当てられています.
本宅は表屋作りと呼ばれる構造で,敷地内にはシーボルトも訪れたとされる大広間もありました.
本宅関係としては4つの蔵,銅吹所関係は11の蔵が充当され,更に地下には立派な石を組んだ穴蔵(地下金庫)も完備していたことが最近の発掘調査で判明しています.
こうした豪商の住まいは,遠方から大坂に来た旅人達の観光コースにもなっており,江戸期に出版された大坂の観光案内書には,高麗橋の袂に建っていた櫓屋敷を皮切りに,その近辺の鴻池本宅,天王寺屋五兵衛,岩城枡屋の呉服店,そして三井越後屋呉服店が観光コースに組み込まれていました.
普通の商家でも,江戸市中のそれに比べると,住宅設備的にも非常に贅沢で,例えば,江戸の商家には風呂が無く,多くの人々が銭湯に行っていたのですが,大坂の商家には内風呂がありました.
また,江戸の台所の井戸も,木製の井筒ではなく,豊島石を刳り抜いた石製でした.
土蔵の屋根も江戸の様に棒漆喰ではなく,寺院の屋根の様に立派な本瓦を葺いたものが普通でした.
この様な江戸期の大坂商家の典型的な建物は,現存しているのは極めて少ないのですが,現在では旧緒方洪庵住宅が最も有名なものです.
ところで,江戸の話で「町人」と言う言葉をよく使うのですが,実は「町人」=庶民と言う構図は間違いです.
厳密に言えば,「町人」と言うのは,自分の家屋敷を保有している人に限られます.
それ以外の人々は,「借家人」と呼ばれるのが正解です.
1689年の大坂市中の世帯数は,家持が12,977世帯であるのに対し,借家は68,315世帯であり,実に84%が借家世帯でした.
「借家」と言うと,如何にも貧乏くさい「長屋」を想像するのですが,これまた時代劇のイメージであり,借家にはこうした裏長屋に代表される様な裏借家もありますが,一方できちんとした表借家もありました.
そして,大坂の場合は,通りに間口を開いた長屋建ての表借家が大きな比率を占めていました.
京都と大坂の借家形式を比べると,京都では建具付で,現在で言うツ○サのウィークリーマンション的な感じです.
天窓の張替えや井戸の釣瓶の修理は,家主が行うものでした.
一方,大坂では,外回りの建具は付いていますが,内造作,つまり,内部の建具や畳は借家人が自分で工面するものになります.
これは,それだけの資力がないと家が借りられないと言う反面,造作を職種に応じて自由に模様替えが出来る利点があります.
余談ながら,大坂では「借家人」を恥とする様な風潮は,無きに等しいものでした.
借家人の中には,家屋敷を持つだけの十分な資力が有るにも関わらず,借家人のままと言う人も居たくらいです.
これは,家屋敷を持つことにより,公役や町役の負担をするのを厭がった為であり,こうした風潮が広がることに溜まりかねた町奉行所では,こんな触書を出しています.
――――――
吝嗇のもの,心得違によって家屋敷持候より,借家住居の方勝手宜敷と心得,金銀蓄え候者も,近頃追々借家人に相成り候由聞き及び候,誠に本意を取失い候次第に候,以来金銀手廻り候者は,家屋敷諸事居たし候様,心がけ然るべく候事
――――――
また,住まいの製作についても,マスプロ的手法を取り入れていました.
1574年に建てられた紀州雑賀の本願寺御坊でも,既に「全て大坂にて切組み,船にて運送せし」と伝えられており,既に大寺院でもプレハブ工法が成立していたことが伺えますし,1606年に京都の醍醐寺で如意輪堂が再建された際にも,大坂であらかじめ建築部材を加工・調製し,現地でそれを組み合わせると言う建築工法が採られています.
1691年にオランダ商館のカピタンの御供として大坂を訪れたケンペルは,大坂の町家について以下の様に書き残しています.
――――――
畳や戸は同じ大きさで,長さが1間,幅は半間有り,全ての部屋のみならず言えそのものも,畳の大きさや状態や寸法に従って作られ,そして建てられている
――――――
これは,畳の大きさを基準にして住宅を設計した,即ち,畳割の手法について指摘している訳です.
畳割というのは6尺3寸×3尺1寸5分の畳に合わせて柱間を決める平面計画法で,畳割によって計画された間取りでは,どの部屋の畳でも他の部屋で仕えるという利点があり,更に畳割では開口部の内法寸法も標準化される為,戸障子の大きさも規格化され,既製品が使えると言う利点がありました.
これの真逆の手法が柱割と言う平面計画法で,こちらは江戸を中心に東日本で用いられた手法です.
これの利点は柱の間は経に同じなのですが,部屋の大きさによって畳の寸法が異なる為,畳や建具の互換性はありませんでした.
大坂ではこの畳割を用いたお陰で,規格化された建築部材が大量生産されました.
京都の人が書いた『立身大福帳』と言う書物には,町家を作る際に戸や障子は大工に作らせないで,大坂の阿波座か淡路町の既製品を買った方が安くて立派であると書かれている程です.
如何にも見栄えを気にする割に,始末屋の京都人らしい書き方ではありますね.
幕末期に刊行された『浪華買物独案内』と言う書物にも,大坂の阿波座戸屋町には戸障子・欄間・釘隠金物・床廻り天井板・走り・竈・蔵道具一式等を売る建道具店が軒を連ねていることが書かれています.
これらの店は,大坂市中は勿論の事,京都の町家や大坂近郊の農家にも需要があり,既製品の生産と販売のセンターとしての役割を果たしていたと考えられています.
しかし,こうした互換性の考え方が芽生えていたというのに,何故,その後の日本は隣の小銃とネジの互換性が無い方向に突っ走っていったのかしらん.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/03/06 22:35