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戦史FAQ目次


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「とある素人の歴史考」◆(2010-05-09)江戸時代の安全保障


 【質問】
 江戸時代になぜ兵器は発達しなかったのか?

 【回答】
 太田述正コラム#1617(2007.1.14)によれば,文字通り武器が実用から遊びの対象になったためだという.
 その根拠として,
・徳川幕府は大名達が銃を作ったり持ったりすることを制限したばかりではなく,幕府自身が銃の技術革新をする努力をやめてしまい.その代わり江戸時代の日本は花火大国になった.
・刀は武器というより,武士の身分を示す装身具として完成していった.
という事例を挙げている.

 なお,同ブログの該当箇所は,『大江戸テクノロジー事情』(石川英輔著,講談社文庫,1995.5)を元ソースとしており,ゆえにC(普通)レベルの信頼度はあると愚考する.


 【質問】
 山鹿素行とは?

 【回答】
 赤穂浪士の討入りと言えば,良く歌舞伎や浪花節,活動写真なんかで取り上げられる題材ですが,その際,必ず出て来るのが「山鹿流の陣太鼓」と呼ばれるもの.
 実際には大石内蔵助は陣太鼓なんぞ打ち鳴らしては居ない訳で,実際には裏門を掛矢で打ち破って吉良邸に押し入ったので,その音が太鼓の音と間違えられた訳で.

 で,これが何で山鹿流の陣太鼓と勘違いされたか,と言えば,少し前の記事で赤穂城の縄張について触れた様に,山鹿素行は赤穂浅野家と因縁浅からぬ存在で,浅野内匠頭長矩の祖父である浅野長直の時代に山鹿素行は赤穂淺野家の兵学師範に招かれて,家中の士の教育を行っていますし,長矩も弟の大学と共に,山鹿素行に入門しています.
 更に,後年,山鹿素行は幕政批判の廉で赤穂謫居を命ぜられ,赤穂に蟄居中,大石内蔵助良雄の祖父大石良欽の家に出入りした事もあり,江戸雀達の中に,この様な話が自然と出来上がっていったものと思われます.

 因みに,山鹿素行の教育では士道を強調し,清廉を尊び,金銭によって動く事を廃したので,長矩がこれを実行したから吉良上野介に嫌われたのだという説も無きにしも非ず….
 そう言う意味では,赤穂事件の遠因を作ったのは山鹿素行かも知れません.

 全然関係のない話,吉良上野介は封土で出来る塩の恨みがどうのと言う話が実しやかに流れていますが,確かに十州塩に比べると吉良家の領地での塩生産は微々たるものだったりします.
 しかしながら,塩の製法を聞こうとして果たせなかったとか,間諜を捕えられて云々と言う話は眉唾物で,寧ろ,労働集約型の産業であった塩の製法なんか,他国者でも誰でもオープンに参加出来るし,十州塩の業者もそうせざるを得ないので,この説も余り信頼が置ける話ではありません.

 話を元に戻して,山鹿素行と言う人,前にも少し触れましたが,彼は1622年と言いますから豊臣氏滅亡から7年後に会津若松で生まれました.
 6歳の時に父に伴われて江戸に出,幼くして漢籍を学び,9歳で林羅山の門下生となり早熟の秀才として知られました.
 そして15歳で小幡景憲に入門し,21歳で甲州流軍学の印可を授けられた訳です.

 小幡景憲とその門下生であった北条氏長は,当時の軍法が戦闘法が主であったのに対し,流石に平和になった時代に戦闘術の様な物騒なものを研究するのはこれからの時代如何なものかと考え,治国平天下の道を唱道する方向に進め,戦争の技術学から国家護持の作法として,武士の学問としての道を説く様にしていきます.
 こうした流れは,幕府としてもウエルカムだったので,この甲州流軍学を奨励したのです.

 山鹿素行はこの小幡・北条の兵学を更に進め,武士道に代わる士道を提唱し,武士の教養の基本となる武教を説いていきました.
 こうして,『武教小学』『武教要録』『武教全書』によって注目され,これを採用し,推し進める事で,武士の武官としての役割から行政官,即ち文官としての役割へとシフトしていく様に仕向けようと,大名家が挙って素行を雇い入れ,藩士の教育に当らせたのです.
 赤穂浅野家もその一つで,浅野長直は1652年に素行を禄1,000石で召し抱えました.

 しかし1660年,素行は赤穂での職を辞して江戸に戻り,塾を開き,子弟を教えます.
 その内,素行は幕府が奨励する朱子学に疑問を抱き,それが現実に合わないとして,『聖教要録』と言う書物でそれを批判し,それが為に,素行は幕閣から処断され,赤穂謫居を申し渡されて,9年もの間,赤穂で生活していました.
 その間は,専ら学問に専念し,多くの書物を完成させています.
 1679年,素行は許されて江戸に戻り,浅草田原町に居を構え,家を積徳堂と号して多くの子弟を教え,赤穂浪士討入りの17年前の9月26日,64歳で没しました.
 その後,彼の学問は実子高基(藤助)と,養子政実に引き継がれ,前者は平戸松浦家の当主松浦鎮信に,後者は弘前津軽家の当主津軽信政に登用され,両家で伝えられていきます.

 その死は,素行の娘の子,つまり孫に当る津軽耕道の『山鹿誌』に依れば,次の様に描かれています.

 1685年8月10日に病気を発し,9月下旬に重篤状態になりました.
 この為,松浦鎮信,津軽信政,大島出羽守ら門人の礼を取っていた人々が集まり,懸命の手当をしています.
 諸侯達は,或いは手紙を送ったり,或いは自ら赴いて医師を招いて治療を施すも容態は回復せず,松浦鎮信などは自ら籠に乗って,曲直瀬玄朔の弟子で四代将軍家綱の侍医である井関玄説の屋敷に赴き,往診を頼む事までしていました.
 そして,9月26日に身罷った訳ですが,8月から病気を発した訳でなく,実際には克明に付けていた日記が5月9日で終わっている事から,その頃から身体の変調が始まっていたのではないかと思われます.

 では,素行の死因は何か.

 松浦家の家老滝川弥一右衛門の手記『滝川弥一右衛門蔵秘覚書』と言う文書があります.
 これは,主君の命令を受け,素行の病床に侍り,主君に対する素行最後の教訓を聞き,臨終を見届けた記録で,素行は病床に赴いた弥一右衛門に対し,鎮信に対する建言として当主としての心構えを詳しく語り,多年懇情を受けた事についての感謝の意を述べてからこう話しています.

――――――
 此の節重病追ってさしおもり,身体の色迄変易仕り候.
 志言の申上げ納めと存じ奉り,残らず申す儀にて御座候.
 宜しく御聞に達せらるべく候
――――――

 身体の色迄変わった…とあります.
 そして,「同年九月二十六日御死去.御病気は黄痰にて候」とあります.
 素行は8月に黄疸が出て,1ヶ月半続いて死去した,つまり,彼の死は肝臓病によるものと判断される訳です.

 では,素行はどんな肝炎だったか.

 1ヶ月半で死去すると言う事は,最も考えられるのは劇症肝炎であると思われるのですが,劇症肝炎の主徴候は肝性昏睡が不可欠の条件です.
 ところが,素行は死の直前まで意識がはっきりしているので,昏睡症状が出た訳ではありません.
 となると,肝炎の可能性がありますが,現代医学では肝炎はA型〜E型まで知られています.

 江戸期の日本人に見られた肝炎と言うのはA型肝炎だそうです.
 A型肝炎でなおかつ急性であった場合には,意識障害が無く,劇症肝炎の定義に当て嵌らない重症型が屡々あるそうです.
 従って山鹿素行の死は,100%とは言え無いまでも(黄疸を起こす症状としては,他に慢性肝炎,肝硬変,肝臓癌,胆嚢癌もありますが,症状が余り当て嵌らないそうな…),A型肝炎の重症型ではないか,と考えられるそうです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/12/14 21:15


 【質問】
 江戸時代の国友鍛冶の,鉄砲生産の状況は?

 【回答】
 さて,豊臣家が滅亡すると,日本には徳川に対する敵が居なくなりました.
 そうなると,鉄砲バブルは弾け,幕府からの発注も無くなります.
 一応,国友鍛冶には1615年に家康から与えられた扶持がありますが,174石9斗2升3合の扶持の内,年寄4名で90石と半分以上を占め,残りの分を年寄脇9名で18石,若年寄4名で6石,平鍛冶27名はそれぞれ2石〜7升と,扶持だけで生活出来る状態にはありません.
 そこで,惣鍛冶達は幕府へ鉄砲発注を要請しましたが,駿府奉行彦坂九兵衛からは,「既に扶持が与えられている以上,新たに生活を支援することは出来ない」と断られました.

 しかし,これでは鍛冶達の生活が出来ない為,惣代達が自らの扶持を返上してでも鉄砲の発注を賜りたいと懇願したところ,扶持の代わりに毎年580石分の鉄砲納入を命じられることとなりました.
 以後,国友鍛冶は幕府の直轄鍛冶ではなくなり,単なる請負団体に変貌していきました.

 580石分と言うと,元和期までは160匁玉筒が2丁,50匁玉筒7丁,30匁玉筒12丁,6匁玉筒65丁であり,寛永期以降は160匁玉筒5丁,50匁玉筒17丁,30匁玉筒40丁,6匁玉筒83丁に引上げられています.
 その後,1618年には水野監物の名で,寿斉,徳左衛門,善兵衛に,将軍秀忠好みの30匁玉筒10丁を発注しますが,この時には,「将軍の鉄砲以外造るな」とか,惣代に対しての統制も厳しくなりました.
 とは言え,鍛冶達も生活の為には働かなければならず,1619年に鍛冶達は,幕府御用以外に諸大名の注文に応じること,それぞれ,出入り先の大名を持つことを願い出ています.
 これに対し幕府も,明細書の提出を条件に統制を緩和する方向に動きました.

 1633年,国友では大きな騒動が勃発しました.
 この年,国友は外記流の鉄砲100丁を受注します.
 内訳は,
500匁玉筒10丁,
300匁玉筒10丁,
100匁玉筒10丁,
50匁玉筒58丁,
20匁玉筒12丁
であり,この代米として,大津御蔵から9,085石の手付け分6,000石(残りは全納品後,1637年に受け取る)を受け取ります.
 この時,その内の2,500石を惣代,寿斉等が受け取り,残りの3,500石を鍛冶仲間70名で分配しました.
 ところが,大坂の陣で活躍した鍛冶で製造数の分配を減らされた者がおり,彼らはそれを不満に思って,祖父の代の実績を無視した惣代のやり方に憤慨しました.
 更に,大坂の陣では惣代でなかった者が,惣代に加わり,しかも代米の1割を平然と受け取ったことが対立状態を高めました.

 この頃から,惣代から年寄を名乗り始めていた国友寿斉,国友善兵衛,国友兵四郎,国友徳左衛門と10人の鍛冶とが対立し始め,1635年6月に鉄砲の割付けを巡って奉行所に言上書を提出し,更に1636年になると,代米の配分を巡って,10名の鍛冶,牛介,清兵衛,甚太夫,甚五兵衛,加兵衛,甚兵衛,勘左衛門,善右衛門,勘右衛門,七兵衛が独立の訴訟を起しました.
 彼ら10名を十人方鍛冶と言います.
 この頃の発注方式は,鍛冶の数に応じていたので,年寄方中心の数の多い惣鍛冶が80%,残りは十人方鍛冶が取る様になっていました.

 その訴訟の最中,1637年には島原の乱が発生し,幕府はその鎮圧の為に大量の注文を国友鍛冶に出し,年々の580石分の他に3,085石の代米が支給されました.

 寛永年間の1633〜1644年までの間に大小筒1,032丁が発注され,代米14,663石が支給されています.
 しかし,この頃に鉄砲の代価が下げられ,元和頃は50匁玉筒が75石,300匁玉筒が640石だったのが,1637年には50匁玉筒32石と半分以下,300匁玉筒に至っては249石と約3割にまで買い叩かれる様になっています.

 その上,島原の乱が終熄すると,今度こそ国友は厄介者扱いされ,1640年に彦根井伊家が加増になった時には,国友を井伊領に加えようとする動きが表面化したりもしました.
 この動きは,年寄達の「特定の大名の私領となっては鉄砲上納に差支えが生じる」と言う嘆願で,小谷宿と国友が交換され,国友が天領になりました.
 そして,勘定奉行松浦内蔵守から,国友の租税は全て大津代官所(御蔵)に納める様達しがありました.
 一方で,鉄砲の発注は急減し,1640年以降は修復筒の他に発注が無くなり,1641年以降は救済策として毎年,大坂城の中筒の掃除を行う様仰せつけられますが,鍛冶達は窮して,自作の鉄砲を他領へ質草として納めて生活していかなければなりませんでした.

 因みに,寛永期,将軍家光が井上外記に命じて国友鍛冶に連発銃を試作させたことが記録に残っています.
 家光の命令により,勘左衛門達十人方鍛冶は1638年に出府し,以降9年間,御秘事鉄砲の製作に関わっていましたが,1646年に幕府砲術師範だった井上外記と稲富喜太夫が口論の末,双方合い果て両家とも断絶するという事件を引き起こした為,連発銃製作は中止となり,鍛冶は帰国させられました.

 1663年に再び幕府から井上外記の子,井上左太夫が秘事手砲の道具を完成する様命じられ,国友の十人方鍛冶を使う事になります.
 この頃にはこの連発銃を試作していた鍛冶達は殆どが死亡していましたが,勘左衛門のせがれは秘事鉄砲の製作を能く心得ていた様で,出府の命令を受け,直ちに製作に掛かり,寛文年間にその銃を完成させ,上納しました.
 その鉄砲は暫く使用していたようですが,1670年に破損し,再びその修理の為に出府して,遂に井上左太夫の配下で,150俵10人扶持を宛がわれて,以後,子孫は井上家の配下で切米を受け,幕末まで秘事鉄砲鍛冶として勤めていました.

 ところで,訴訟がどうなったかは明日以降に,また.

眠い人 ◆gQikaJHtf2, 2010/02/16 23:40

 1648年,鍛冶達は家康から与えられた由緒書を盾にして,鉄砲の発注増を願い出,大小836丁の細工が発注されて,代米4,200石と金1,027両2分の支払いを受けました.
 更に,1651年になると由井正雪の乱が起き,幕府は武器統制と治安維持の為に,1656年に3匁玉筒800丁の注文を行いました.

 この頃,明暦の大火が起きて,幕府としてはその復旧資金を手当てしなければならず,鉄砲の注文を一時中止することになりましたが,国友だけは特別の由緒があるとの理由で,番筒10匁玉筒234丁,20匁玉筒100丁(代米696石7斗1升),30匁玉筒100丁(代米1,088石9升5斗),50匁玉筒22丁(代米362石4斗1升)の合計456丁(代米で2,148石7升,金額にして160両)の発注がありました.
 また,1658年には10匁玉筒,20匁玉筒,30匁玉筒,50匁玉筒が合計479丁の発注が為され,1659年に222丁(代米988石)の発注が為されるなど,3年間で2,000丁と言う大量発注が行われ,再び国友は好景気に沸きました.

 1664年になると,惣鍛冶と対立していた十人方鍛冶にも,初めて独立して玉薬奉行から発注がありました.
 総数で3匁5分玉筒1,000丁ですが,惣鍛冶が800丁,十人方200丁の配分が為されています.
 此処に,漸く十人方鍛冶が公儀に認められることになった訳です.

 1667年,1658〜1661年に発注された番筒2,000丁を上納した際,惣鍛冶方の年寄国友徳左衛門と国友善兵衛に,十人方代表の富岡清兵衛と岡部甚太夫が付添って,代金を受け取りました.
 この配分は当初予定通り,惣鍛冶方8割,十人方2割でした.
 1668年には稲富流10匁玉筒63丁,20匁玉筒55丁,30匁玉筒69丁,代金2,845両分の発注がありましたが,この時の配分は惣鍛冶方73%に十人方27%でした.
 十人方に与する人数が増え,十人方は配分について不平を述べましたが,この時は取り上げられませんでした.

 しかし,1669年に行われた3匁5分玉筒1,175丁,10匁玉筒69丁,20匁玉筒115丁,30匁玉筒131丁,代金にして4,941両分の発注では,惣鍛冶方と十人方それぞれ745丁ずつの配分となりました.
 この割合は1706年まで続き,またこの年から,それまで代米だった支払いが代金に改められました.
 1石は1両換算で,年間支払額は501両2分となり,代金は前渡しされる様になりました.
 この頃は,3匁5分玉筒の発注が多く,これは制式銃として1丁1両2分の代金が定められています.

 江戸初期の頃は国友鍛冶の数は50軒前後で推移していましたが,この頃には十人方が増えて73軒に達しています.
 一方で,代米が代金に代わった様に,国友にも貨幣経済の波が押し寄せ,物価の上昇が以前にも増してひどくなり,この年には両者打ち揃って,代価を20%引上げてくれる様,嘆願し,これが叶えられました.

 また1671年には,1669年発注分の1,490丁が上納され,十人方の代表である善右衛門と七郎左衛門は,初めて将軍への御目見を願い出て許され,以後,将軍への御目見には十人方の代表も加わることになります.

 1672年発注分は,外記流筒,30匁玉筒341丁,20匁玉筒837丁,10匁玉筒1,294丁,代金にして20,625両の大量発注が為された年です.
 今回も,惣鍛冶方と十人方それぞれ1,241丁に等分されましたが,この大量発注は流石にバブル状態で,後々の生活が出来ない為,1682年まで年々,御留守居方支配の鉄砲として501両2分宛の上納が命ぜられることになりました.
 年間の上納数は,大筒,30匁玉筒15,20匁玉筒18丁,10匁玉筒22丁でした.
 1683年には同額で3匁5分筒334丁を上納しますが,1684年以降になると同じ金額で大筒と小筒を隔年に上納する様に改められます.

 しかし,こうした救済策を以てしても,大勢の鍛冶は生活に苦労し,1673年には御留守居方支配のみならず,組筒全てを国友に発注する様に願い出,1675年には将軍家綱に上申して,年々上納の筒の他,9年に1度,32組の3匁5分玉筒1,430丁の掃除と破損修理を行う許可を得ることに成功します.
 この頃の鍛冶職は専門職ではなく,半農の鍛冶職でした.
 ところが,手間賃が安く農業もそんなに儲かることなく,一方で物価が騰貴して生活が苦しくなり,遂には田地を売ってしまったり,諸家に抱えられて国友を去る者も出て来て,段々と幕府御用を勤めるのが苦しくなっていきます.

 また,元禄文化が華開く頃になると,鉄砲の発注は再び減らされることになります.
 1698年には,再び国友村は稲垣安芸守領に村替えを命じられましたが,辛くも幕府裁定によって三川村に取り替えて貰いました.

 ところが,こうした苦労も束の間,1706年には十人方が納めた鉄砲の唐銅の筒に手抜かりがあり,1707年に十人方鍛冶の御用は差止められました.
 更に,この頃から幕府は金策に苦しみ,緊縮財政を打ち出したことから,上納筒の発注数は大幅に削減され,更に江戸表までの運送費も国友村の負担になってしまいました.
 この御用差止めで事件に直接関与した25軒の十人方鍛冶はその後帰農しましたが,その他は国友の南に住んで,南鍛冶と呼ばれて幕末まで続きました.
 一方,惣鍛冶方は北鍛冶と呼ばれ,44軒ありました.

 以後,惣鍛冶方のみ鉄砲の発注を受けることになりましたが,年間発注量は300両とされ,内訳は30匁玉筒,20匁玉筒,10匁玉筒の所謂大筒なら,35丁で302両,3匁5分玉筒の所謂小筒なら200丁300両を隔年で上納することになりました.

 とは言え,時は元禄バブルの時代.
 炭や鉄の値段も上がり,鍛冶達は代金値上げを申請しましたが,幕府も財政難で,発注数は逆に減らされていく始末でした.

 1709年には生活援助の為,定式発注の他,等分,大単笥方預かり古銃5,694丁,御供単笥方預かり古銃1,767丁の修理が許され,此の内,2,337丁の修理を実施し,残り5,124丁は拝領して帰りました.
 この時の上納に用いた往復人足15,786名分の駄賃は幕府負担とされ,大筒張り替えと,小筒の手当として銀160枚が下付され,一時国友は活気を取り戻しましたが,この作業に10年かかり,尚かつ,出府費用が重なった事から益々鍛冶一同は困窮していきました.

 しかし,庄兵衛,藤兵衛,忠右衛門,平四郎等は田地を転売したり,借金したりして修理に専念した為,この褒美として,4人には国友鍛冶の中で家名のない家督を,玉薬奉行から年寄を通じて与えられることになりました.
 これを褒美家督と呼びます.
 藤兵衛は元々早水姓でしたが,鍛冶一統の費用を負担した功により,絶家となっていた国友鍛冶の名家辻村藤太郎及び善左衛門の名跡を継ぎ,庄兵衛は彦九郎の名跡を,忠右衛門は権右衛門名跡を,平四郎は藤十郎名跡を継ぎました.
 ただ,これは永代のものではなく,権右衛門と藤十郎名跡は後に跡目が出来た為,引上げられています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2, 2010/02/17 22:38

 さて,しつこく国友の話.

 18世紀に入ると,幕府自身も困窮し始め,国友への発注は疎か,その支払いも滞っていく様になります.
 国友鍛冶も,毎年の出府費用や鉄砲の運搬費用に加え,江戸に建てた会所の借地賃を支払うなどの支出,更に諸式高騰により,鉄砲1丁の利益が少なくなってきているのに支払い賃は抑えられたので苦しくなりました.

 1769年の段階で,年寄脇の忠右衛門,上層鍛冶の丹蔵,藤兵衛,藤太夫ですら,家が修復出来ずに他人と同居するという有様でした.
 上層鍛冶でもこんな有様ですから,下層の鍛冶の困窮たるや想像するに難くなく,鍛冶以外に農耕で凌ぐなど他の収入源を探したり,鍛冶株の兼併などを考えたりしています.
 鍛冶職の養子は,14〜15歳から才能のあるのを取り立てて使いましたが,早世する者,身を持ち崩す者などが続出して鍛冶の軒数は次第に減少し,1780年代には26軒となり,絶えた家の株は預かり株となりました.
 但し,幕府からの発注は44株分為されていましたので,絶家も預かり株として製造に関わりましたし,有力な鍛冶は子弟を分家させ,名跡を継がせたりしました.

 こんな折,所謂天明事件と呼ばれる事件が起きました.

 発端は,年寄である善兵衛が年番として倅の真蔵を伴って上京し,1年の江戸詰を経て1785年4月に江戸から帰還した時です.
 この時,善兵衛は,毎年国友鍛冶に渡される代金300両の内,江戸詰諸費用として60両を差し引いた240両を国友鍛冶に手渡すことになっていましたが,今回善兵衛が持ち帰ったのは100両のみで,助太夫に64両1分,兵四郎に22両を渡し,善兵衛父子の路銀6両は別として,他は消費したと伝えました.

 残りの年寄は善兵衛を激しく問い詰めますが,明確な回答が為されず,鍛冶一同は助太夫宅に集められると,激高し,費用が支払われないので,今年上納すべき鉄砲の製作を中止することを決して,9月に助太夫,平鍛冶の彦市,助左衛門の3名が公儀に詳細を説明する為に出発し,後で兵四郎も後を追います.
 10月,彼らは江戸に着き,江戸町奉行所で吟味が行われることになりました.

 ところが,この一件は国友鍛冶仲間の私情であり,未だ年度上納の期限ではないからと取り調べは行われませんでした.
 しかし,12月になっても鉄砲の上納がなかったので,玉薬奉行は善兵衛を呼び出し,取り調べを始めました.
 一方,平鍛冶は彦市と助兵衛を惣代に究明を願い出ていました.
 しかし,善兵衛はこの一件は彦市等が我が儘な勝手な振る舞いで上納を遅らせ,それを善兵衛一人の責任にしていると逆に彦市たちを糾弾する始末.
 結局,この争いは,善兵衛があやふやな回答しか出来なかった上,彼には返済能力がないことが判明したことから,1786年12月に揚屋入りを命ぜられることになりました.
 1787年に善兵衛は牢死し,倅真蔵も前年に病死,家には母,妻,伯母のみが残った為,善兵衛家は断絶の憂き目に遭っています.

 なお,嘆願の為に出府していた兵四郎,助太夫,助兵衛,新四郎,藤兵衛,彦市,丹蔵,門左衛門の8名は,野田伊左衛門預かりとなって,10数回の取り調べが彼らに行われました.

 この事件以後,国友鍛冶は綱紀粛正を申し合わせ,御用発注は必ず帳面に記載すること,幕府から受け取った金は封をしたまま国元へ届けること,そして,年番立会の上で混乱がない様に割り当てること,会所の経費は倹約第一のこと,出府中に遊興はしないことが申し合わされました.

 最終的に,兵四郎達は町奉行に呼び出されて放免となり,この年の注文,3匁5分玉筒105丁は捨損とし,残り50丁と100匁玉筒2丁,10匁玉筒3丁を1788年3月までに上納することを命じられて,この事件は終熄しました.

 国友では年寄の力が落ち,度々の騒擾に幕府は冷ややかになって,定式発注は従来300両分あったのが200両分にまで減らされ,30匁玉筒10丁,3匁5分玉筒100丁のみとなってしまいます.
 その上,1797年10月には,国友西部の酢屋忠兵衛方から出火して,20数軒が類焼してしまう悲劇に見舞われました.

 これに加えて,国友に追い打ちを掛けたのは,隣に君臨している彦根井伊家との関係悪化でした.
 元々,彦根井伊家は国友と関係が深く,鉄砲も早くから国友に発注していました.
 中でも国友兵四郎は,名義上ではありますが,井伊家御用となっていたりもしています.
 ところが,兵四郎も老境に差し掛かり,諸事一切を国友斉治とその父の年寄助太夫に任せたことで,再び国友は騒擾に包まれました.
 兵四郎は先の天明事件でも活躍した様に,平鍛冶に慕われていた人だったようですが,斉治はそんな人格者ではなかった様で,国友鍛冶である次郎助の家督を取り上げたり,隠米を取り上げたり,上納筒配分金を取り上げたり,1806年には白綾小袖の取り上げなど,横暴な振る舞いが目立ち始めました.
 こうした出来事により,平鍛冶の態度も硬化し,遂に1809年にこの対立が幕府に漏れてしまいます.

 そんな折,1811年に当代一の国友鍛冶として名高かった国友藤兵衛一貫斉が,彦根井伊家からの注文で,代金117両の200匁玉筒を製作しました.
 当時は,オランダの制海力が衰え,外国船が日本沿岸に屡々姿を見せるようになり,井伊家も譜代として江戸表の海岸防備を任されていた為,大筒の装備が緊急の課題と見なされていたからです.

 藤兵衛は,これを製作すると慣例に従って10月に年寄に報告しました.
 一方,彦根井伊家は藤兵衛を呼び出し,以後,彦根井伊家御用掛を申しつけました.
 藤兵衛は,それだけ優秀で実力があったからなのですが,先祖代々から年寄と言うだけで胡座をかいてきた従来の人々にとっては面白くありません.
 そこで,年寄は彦根井伊家に対し,藤兵衛を年寄同様に井伊家に出入りさせることを拒み,注文に応じられないことを申し入れると供に,藤兵衛に対しては,その注文を辞退する様に迫りました.
 しかし,井伊家は申し入れを却下します.

 兵四郎は他の年寄と諮って,事の次第を井伊家の鉄砲奉行に送ったのですが,これを知った彦根井伊家は激怒し,結果,鉄砲奉行は兵四郎を呼び出して,掛かる非礼な書状を受け取れないとして突き返し,1812年9月には藤兵衛を除いた年寄と三職の彦根井伊家への出入りと家中の国友への発注を禁じました.

 国友鍛冶は,原料などの手配を彦根に頼っていたものが多く,注文された銃も彦根井伊家を通過しなければ搬出出来ません.
 ある意味,国友鍛冶は完全に兵糧攻めにあった訳です.
 その上,1810〜25年まで幕府からの定式発注も停止されていました.

 1815年,助太夫等は奉行所に呼び出されました.
 この頃,兵四郎は老衰にて床に伏し,徳左衛門は病気だった為,国友鍛冶は助太夫と斉治父子に任されていました.
 彼らは,彦根井伊家の代表者である山下藤太夫と対決させられ,藤兵衛も証人として江戸に呼び出され,1816年5月から渦中の人物になってしまいました.
 以後,藤兵衛自身も7年間江戸に滞在することになってしまいました.
 この間,藤兵衛の他,平鍛冶の市九郎,彦左衛門等も出府し,国友惣鍛冶の考えを奉行に申し伝えた結果,1817年に年寄助太夫と斉治父子は揚屋入りを命じられて,終熄に向かいます.

 こうなると,年寄として今まで肩で風を切っていた者たちは没落し,助太夫や兵四郎も老境に達して,残ったのは若い徳左衛門1人だけとなります.
 それでは御用が勤められないとして,遂に年寄の権威は失墜し,家康の法度も名実ともに意義を失いました.

 時代は新たな時期に進もうとしており,実力のある鍛冶が頭角を現してくることになります.
 その代表的な人物が,国友一貫斉藤兵衛でした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2, 2010/02/17 22:38


 【質問】
 江戸時代,岩橋善兵衛という人が作った「鉄砲眼鏡」(てっぽうめがね)なるものがあるらしいのですが,名前だけで,形状も用法もわかりませんでした.
 この詳細についてどなたかご存じありませんか?

 【回答】
 確実なソースに問い合わせたところ,次のような回答を得た.
 ソースは明かせないが,FAとして信用してくれ.

 「鉄砲眼鏡」の用途は鉄砲とは関係ない.

 その当時の「遠眼鏡」は伸び縮みによってピントを合わせるのが普通であり,和紙製などが多かったのに対し,「鉄砲眼鏡」は伸び縮みせず,ネジでピントの小幅な調整ができる仕掛けであり,鉄製のものもあった.

 その外見(伸び縮みしない直線状,鉄製,ネジなどが付いている)から「鉄砲眼鏡」と呼ばれているだけである.
 もちろん狙撃銃のスコープとして使われたわけではない.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 大江戸ロケットについて教えられたし.

 【回答】
 さて,今日は隅田川の花火大会でもありました.
 花火の原型は,江戸期に伊賀や甲賀の忍者が利用する火術史を集めた『万川集海』に,打火炬や飛火炬として,納められています.
 これは,黒色火薬を竹筒に固く詰め込んだものに火を付けて噴出させるもので,後に羽根が付いており,一種の火箭的なもので,夜間でも見えるのろしの様な役割を果たしていた様です.

 1612年8月には徳川家康が駿府城内で,唐人が打ち上げた煙火を見た記録があります.
 これは,「車火,縄火,流星種々珍敷華火仕唐御座候.」と言うもので,様々な花火だったようです.
 そして,徳川の世が固まっていくと,砲術家は転業し,中には花火師になっていった人々も居ました.

 江戸中期には,1658〜1660年の両国川開きに,龍勢打上げの記録があります.
 尤も,余りに人気だったのか,1673年になると,絡繰り花火が火災の危険のある人家密集地で打上げ禁止とする禁令が出されていたりもしますが.

 後に,打上げ玉による花火は急速に進歩して,竹筒の小さなものから木筒の大きなものとなり,連続打ち,大玉打ちと著しく進歩していきます.

 その技術が各地に伝わり,秩父地方ではこれが龍勢として発展していきます.

 この龍聖は,火薬筒に樹齢30年の通直な松材を使用します.
 松材は皮を削り,鋸で二つ割りにした後,内面を刳り抜き,再び合わせて木栓を打ち込んだ後,外側を削り,紡錘形にしてから,細い方から筒の外側に1年生の若竹を割って皮を剥いで作った箍を20〜30個付けます.
 因みに,箍は少し内側に嵌め,余裕を残しておき,火薬を詰めた後,余裕シロを切り落とします.

 矢柄となる竹は,真っ直ぐな2年生の肉厚の薄いものの中から長さ2〜30m,直径27cmほどのものを伐り出し,集落のよく見える場所に立てて2〜3週間乾燥させます.
 これは,乾燥の他,本年打上げの意志を示す看板となります.

 その龍聖には,中に「背負物」と呼ばれる中身を詰め込みます.
 これには大勢で和紙を貼り合わせ,紐を張り込んで色付けや印を書き込んで柔らかく揉んで仕上げた大落下傘とか,唐傘を10〜20本詰め込んだりします.
 唐傘の場合は,柄の部分に花火や砂袋といった錘的なもの,それに多少の細工と印を入れて開きやすい工夫をしておきます.

 火薬を詰め込み始めと詰め込みの最後に筒に密着させる為に,上質の粘土を採って乾燥させ,臼で粉末にしたものを,練って詰め込みます.
 現在では,火薬原料として粉末商品を購入しますが,その昔は,硝石,炭,硫黄の粉末は手作りでした.
 硝石に関しては,常に集めた床下土を化合させた泥煮を行い,抽出しました.
 こうした火薬原料を良く篩い混合して,酒,茶,柿渋などの水分を含ませて,更に篩で刷り込んで混合し,その後包んで20時間寝かせます.

 火薬筒への火薬詰は,筒の背くらいの穴の底に細い方を上に据えて両側から2名で押さえ,先ず粘土を詰め込み,その上に湿らせた火薬を30〜35に分封したものを1包宛入れて筒穴に樫製の決め棒を差し込んで押さえ,手の反対の左右から掛合を持った2名で力一杯交互に100回宛打ち込みます.
 これにはチームの連携が必要で,火薬にむら無く力を掛けてひび割れない様にしなければなりません.
 これが20回以上続きますが,即ち,全体で6000〜7000回叩いて仕上げる事になります.

 打上げ当日は,矢柄竹に切り込みを入れて火薬筒の定着を良く加工して取付け,「背負物」に落下傘を組み付け,仕上げていきます.
 この際,上昇中に引火しない様な工夫や苦心がなされています.
 背負物は,上昇の頂点で縛り付け部分を焼き切るのですが,これも各流派に工夫がこらされています.

 打上げには,四方にしっかり足を踏ん張った打上げ櫓の中心に掛けて点火します.
 ちなみに,昔は松の立木の太い枝とか,野中の空井戸を発射機として用いた記録もあったりしますし,200kgに達する様な超大型のものを打ち上げたりしたそうですが,今は中型が多いみたいです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/07/31 23:28

 日本の火薬ロケットには,龍勢に代表される上昇・飛行する垂直型と,ロープを張って火薬筒を吊し,水平方向に走らせる綱火とか縄火と呼ばれる水平型の2種類に分かれます.
 綱火の系統には,火薬筒の噴射力で灯籠や神輿を吊ったり,絡繰り人形や船などを動かす芸能に派生・発展したもの,竿や棒に回転できるような仕掛けを作り,そこに火薬筒を数本取付けて噴射させ,勢いよく回転させる回転型もあります.

 日本には,こうしたロケットは消滅した地域も含めると31カ所に達しました.

 垂直型は,流星と言う名称で,米原,甲賀・瀬古,朝比奈,草薙,飯田,鼎,竜星と言う名称で小千谷片貝,龍勢では,刈谷,朝比奈,草薙,吉田,小川,東秩父,桶川・八幡原,小平,龍生では水海道・坂手,龍水と言う名称で,つくば・百家,平仮名のりゅうせいでは江戸とあります.
 此の内,草薙と朝比奈は,龍勢は昼間に打ち上げるもの,流星は夜間に打ち上げるものとしての区分が為されています.

 水平型は,綱火と言う名称で,刈谷,豊川・進雄神社,清内路,本川根,桶川・八幡原,三本綱と言う名称では,伊那・小張,伊那・高岡に,縄火は小千谷片貝,草花火,そして,御神灯籠と言う名称で,越後の岩村・和納にあります.

 回転型は,車火と言う名称で,豊川・進雄神社,火車として江戸で,くるくると言う名称で伊那・高岡で,バレンや朝顔と言う名称で岩村・和納にあります.

 神社の名前が出て来る様に,大抵は神社の祭礼に奉納し,夏なら悪疫退散,無病息災と暑気払い,娯楽として行われていましたが,秋なら収穫感謝を目的としていました.
 夏と秋の端境に行う場合もあり,この場合は五穀豊穣祈願も為されています.
 災難避けとしては,伊那・小張,同高岡では火難避け,水海道の坂手では降雹避けを祈願します.

 また,興味深いのが,こうしたロケット文化圏をプロットしていくと,駿府城を囲んでいる様にも見え,「駿河の龍勢文化圏」と呼ばれています.
 家康が駿府城防御の為,周辺地区に火薬技術を広めて烽火ネットワークを作り上げた可能性も否定出来ません.

 まぁ,他にも傍証を積上げていくと中々興味深い話が出て来ますが,それは明日以降にでも.
 と言っても,今週は早く帰れるのだろうか.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/08/01 22:18

 さて,先述の様に,手製ロケットの作成については,一定の法則みたいなものがあります.
 1つは江戸を中心として,多摩,秩父,桶川,水海道,伊奈,つくばを結ぶ北関東,もう1つは,駿府を中心とした草薙,朝比奈,本川根などを結ぶ周辺地域,そして,静岡の周縁部にある飯田や豊川,刈谷,近畿に近い甲賀や米原です.

 これを辿っていくと,面白いことに気がつきます.

 それを解く前に,草薙や朝比奈,米原の龍勢について少しばかり.

 草薙の龍勢は,草薙神社の秋季例祭日である9月20日に奉納されます.
 昼間の打上げが龍勢,夜が流星と称され,伝承としては1712年に木砲から打ち出されたもので,ロケット形式はもう少し後に奉納が始まったと言われていますが,定かではありません.
 しかし,草薙神社自体は,久能山東照宮の搦手の位置にあり,幕府から烽火や煙火の技術を伝授されて,有事に備えたとされています.

 本体は先端より頭,吹,尾の3部分で構成され,全長8〜17mです.
 火薬筒部分は吹と呼び,直径7cmほどの孟宗竹が用いられています.
 昔は崖から打ち上げられたのですが,現在はタテジ棒と呼ばれる発射台をその都度組み立てます.
 点火された龍勢は,白煙・轟音と共にタテジを垂直に離昇し,頂点に達すると,頭に仕込まれた変化火薬が弾き出されると言うものです.

 秩父吉田の龍勢よりは,重量にしてほぼ半分で,最高高度も半分より少し上の300m程度しか上りません.

 朝比奈の龍勢は,静岡県藤枝市岡部町の西北部一帯で打ち上げられるもので,この地は山間地ではありますが,朝比奈川沿いに開けた河岸平野には水田と集落が点在しています.
 この地域,全部で13連で龍勢が製作され,六社神社の秋の祭礼である10月17日に合わせて打ち上げられます.
 かつては豊作の年だけでしたが,現在では2年に1度,偶数年に実施されます.
 発祥は,この地を治めていた朝比奈氏と岡部氏との間の連絡に用いられた烽火から発展し,その後,ロケットに発展して現在に至っています.

 朝比奈の龍勢は全長18m前後で,先端から「ガ(ガンタ)」,「フキゴ(吹き筒)」及び「オ(尾)」の3部分から成り,黒色火薬を詰めるフキゴの部分は,真竹か孟宗竹などが用いられ,外周に麻紐を巻き付けます.
 元々は夜打ちのみでしたが,大正期に昼打ちも始まりました.
 上昇の極点で,朝比奈の龍勢は,ガに仕込まれた吊り傘,曲筒,星と言った「曲物」が打ち出され,落下時には吊り傘が開く様になっています.
 重量は草薙のものとほぼ変わりなく,最高高度は少しだけ高い400mほどです.

 米原のものは流星と書き,現在は米原市の一部である旧坂田郡米原町のみですが,かつては9カ所で行われていました.
 伝承に依れば,1600年の関ヶ原の合戦後,この地に落ち延びた石田三成方の落人が当地に隠棲し,烽火の製法を土地の者に伝授したのが起源であるとされており,かつて流星を打ち上げていた地区も,中山道沿いの関ヶ原と三成の居城だった佐和山城との間に点在しています.
 こちらは特定の打上げ日や場所ではなく,神社の改築や公共建造物の竣工など,行事の度毎に秘技を披露していました.

 米原の流星は非常に小型であり,特に大きな発射台を準備しなくとも,2〜3名で打ち上げられる簡便なものです.
 しかも,吉田や静岡の龍勢が,柄に竹を長く伸ばして尾翼を付けていないのに対し,こちらは矢竹に「風切り」と呼ぶ羽根を付けています.
 その全長は,日傘3本付きで約5mと他の4分の1程度でしかなく,カケバイと呼ばれる発射台もハシゴと竹の棒を組み合わせた様な簡素なものです.
 中心部にコッポケと呼ばれる火薬燃焼室を持ち,日傘などをその周りに縄で巻き付けて,竹の「ハジキ」と呼ばれるカバーで先端を覆います.

 発射されると轟音,噴煙と共に上昇し,その極点で日傘や矢吊りなどを切り離して開かせると言うものですが,重量は意外に重く,秩父吉田と同じくらいの最大40kg,最大高度は約500mに達します.

 少し,静岡や秩父のものとは構造が違っていますね.

 同じ様な構造のものは,滋賀県甲賀市の瀬古地区にもあります.
 こちらは忍者の飛び火箭が起源とされ,薬師堂の縁日である毎年9月12日に打ち上げられます.
 こちらは米原のより更に短く全長が約1mほど,オガラか葦1本で方向安定棒とし,竹棒を地に突き刺して発射台とします.
 火薬量も非常に少ないのですが,何も付けない上に軽い分高く飛び,約200mは上昇します.

 形状から言えば,甲賀や米原,そして,清内路のものは,烽火あるいは忍者の打火炬の類からの発展であろうと考えられます.

 一方の刈谷や豊川は,家康の出身地である三河であり,徳川家を支えた鉄炮隊の技術が伝承された可能性が考えられますし,草薙や駿府周辺は,家康のお膝元ですから,その周辺部を防衛する為の早期警戒網を構築した可能性が高かったりします.

 桶川,伊奈,水海道,小千谷,岩室と言った地方は,徳川譜代大名が封ぜられています.
 特に,牧野康成,牧野忠成親子,松下重松と言った面々が,江戸の将軍家防衛の為の早期警戒網を構築する為に龍勢を用いたのが,その後,平和になっていった事から祭礼や芸能化した可能性も高かったりします.

 吉田に関しては,他の龍勢とは関係性が余り見られませんが,天領であることから,徳川,伊奈氏との関係,また,秩父地方は,昔から硝石生産が盛んで,1589年に鉢形城主の北条氏邦の弟である佐野城主の北条氏忠が尻内郷に対し,煙硝年貢の上納を命じていた記録があります.
 また,江戸期後期になると,硝石搗き用の水車が秩父の荒川寺沢や上影森など8カ所に設けられ,忍松平・阿部家に25万貫も上納していました.

 こうした背景を考えると,江戸幕府と言うか徳川家康という人は,これらの地を江戸や駿府防衛の第一線と考え,一朝事ある時には,直ぐに敵が来た事を報知出来る様に,こうした場所に火薬を使ったロケットを保護したのではないか,と思えてくるのですが,さて.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/08/02 22:42


 【質問】
「白川郷の地下には軍需工場があったんだよ!!!!11」
「な,なんだってええええ????????」

 【回答】
 まぁ,半分冗談ですが,半分はマジです.

 白川郷と言えば,世界遺産に指定された合掌造りの家屋密集地で有名な場所です.
 村の西側には2,702mの白山を筆頭に1,700m級の高山が連なり,東側も籾糠山を筆頭に1,700mの高山が連なっています.
 村は庄川に沿っていますが,その上流部は日本海と太平洋を分ける分水嶺となっていて,典型的な山村の佇まいです.
 そんな所に,軍需工場が作られよう筈もありません.

 ところで,白川郷は江戸期には米を作る為の水田を充分に確保出来ませんでした.
 しかし,税は納めなければなりません.

 現金収入を得る為の主要産業としては林業があり,森から木を伐り出して,庄川に沿って富山方面に流す事で収入を得ていました.
 他の主要産業としては,山を越えた越中城端が絹機業の先進地であった事から,水田の代わりに山の斜面を焼いて作ったナギ畑で桑を栽培して,蚕を飼い,繭を作って,城端に供給していました.
 1870年編纂の『斐太後風土記』では,飛騨国中繭生産は最多を誇っています.
 他にナギ畑では,穀類,豆,野菜を栽培し,自家使用に充てていました.

 それでも,米や塩は別の所から購入する必要があります.
 しかし,北隣の前田家の支配地である五箇山と共に,この地は交通不便な土地でした.
 越中五箇山は,江戸期,加賀前田家の流刑地となっていました.
 北山は更にその上流部にある訳で,この地は金森家の廃絶後は高山代官支配地と成りますが,
代官所のある飛騨高山へは20里7町(79.3km),
美濃郡上八幡まで21里11町(83.6km),
最も近いのが飛騨古川で8里26町(34.3km)
ですが,此処へ行く道は主要街道である庄川沿いの白川街道経由ではなく,登山道の様な険しい天生峠越えの道で,物資の輸送に使えるものではありません.
 次いで近いのは,
越中城端の12里35町(50.9km)
で,こちらは距離はありますが白川街道に沿っていて,しかも国境の小白川は標高347mと比較的低く,主要な街のある地区の標高500mからしても比較的緩やかな勾配であり,幕府直轄領であるのに,物資の輸送は主に越中方面から送られていました.

 こうした難点はありますが,木があり,蚕を飼っていて,しかも主要街道から離れて不便な地域で格好の産業があります.
 それが焔硝造りです.

 焔硝は黒色火薬の原料の一つであり,硝酸カリウムのことです.
 そして,黒色火薬は硝石,硫黄,炭粉から製造されます.
 黒色火薬は,鉄炮を撃つ際に必要なものですから,戦国期以降,各大名家はその供給に非常に意を払いました.
 この黒色火薬の原料である炭粉は,木炭を粉にすれば得る事が出来,日本は山国なので余程平坦な地でない限り,領国の各地で得る事が出来ます.
 硫黄にしても,日本は火山国ですから,活火山のある地や温泉から容易に採取できます.
 しかし,硝石は水溶性の為,雨の多い日本では直ぐに溶けてしまい,天然資源としては産出しませんでした.
 鉄炮伝来の初期は,硝石は中国からの輸入に頼っていましたが,コストが掛かる上に,大量使用の際に量を確保出来ません.
 其所で,各地の人々は知恵を絞って,焔硝の国産化を模索していました.

 一つは床下の土です.
 床下は雨の影響を受けにくく,硝酸イオンを含む土が少なくありません.
 其所で得た土から硝酸イオンを取出し,焔硝を作る様になっていきます.
 こうした土は,風で吹き集められた木の葉や小枝,床下に潜り込んだ小動物の排泄物や毛,死骸,其所に住む人の垢や毛が長い間に変化して出来たもので,一度硝酸イオンを取出す為に床下の土を掘り起こしてしまうと,次にそれを得る為に,数十年も掛かります.
 そんなに待てませんから,五箇山や白川郷では,合掌家屋の床下で積極的に硝酸イオンを蓄積する術を考え出し,焔硝土の生産を行い始めました.

 古文書では,越中五箇山の焔硝は,1570〜80年に起きた石山合戦の際に,大坂石山本願寺に納められたり,1573年には北陸一向一揆にもこの焔硝が送られた記録があります.
 前田家の支配と成った後,1605年以降は毎年,米の代わりに五箇山の焔硝は前田家に納められていました.
 その数は始めの30年は毎年2,000斤(約1.5t)に達し,以後は,更に多くの焔硝を納めています.
 五箇山では少なくとも16世紀後半から焔硝製造が開始されましたが,白川郷にその技術が伝わるのも早かったと考えられています.
 白川郷での焔硝生産は,1688年頃から記録には出て来るのですが,多分それより前に行われていた事は確実です.

 越中五箇山での焔硝の作り方は,『五ヶ山焔硝出来之次第書上申帳』に記録されています.

 焔硝土の材料は,蚕糞,稗の葉・茎など栽培植物の不要部分,山草,良質の畑土,そして人尿です.
 先ず,6月に蚕を飼育する頃に合掌家屋床下の囲炉裏近くに,3.6m四方,深さ1.8〜2.1mの擂鉢状の穴(焔硝穴)を掘ります.
 穴の底に稗の茎・葉を敷き,その上に畑土と蚕糞を混ぜて約30cm程の厚さに入れ,更にその上に稗,蕎麦の茎・葉,煙草の茎,麻の葉など栽培植物の不要部分と山草を15〜18cmに切って載せます.
 土・蚕糞の層と,栽培植物・山草の層を交互に作り,床板の下15〜18cmの高さに重ねていき,焔硝床を作って,最後に焔硝床に人尿を散布すれば準備は整います.

 当年の8月に焔硝床を切り返し,原料を加え,翌年から春・夏・秋の3回,焔硝床を切り返して原料を加えると,4〜5年経つと硝酸イオンが蓄積した焔硝土が出来上がります.

 因みに,山草は,五箇山では蓬,猪独活が挙げられていますが,白川郷ではクロバナヒキオコシや赤麻も用いたという記録があります.
 これらは肥料や薬草として用いられたもので,焔硝土造りには効果があると考えられたのかも知れません.

 焔硝土の原料には,人尿中の尿素,蚕糞中の尿酸,稗の茎・葉や山草の中の蛋白質など窒素化合物が含まれています.
 これらの窒素を含む化合物は,土の中で微生物によって分解されてアンモニアが生じ,アンモニアは亜硝酸イオンに,更に亜硝酸イオンは硝酸イオンとなり,土壌微生物による硝化が行われていく訳です.
 自然界では,硝化によって出来た硝酸イオンは,植物に吸収されて蛋白質に作り替えられ,その植物を食べた動物が出した糞や死体中の窒素化合物,枯れた植物体や落葉の窒素化合物は,再び土の中で硝酸イオンとなっていくのですが,これを途中で断ち切るのが,焔硝土作りだったのです.

 因みに,植物が育つには窒素化合物が必要ですが,植物はそれを直接利用する事は出来ず,豆の根にある根粒に棲む窒素固定菌くらいしか,直接空気中の窒素ガスを窒素に変化させることが出来ません.
 この為,日本では作物が利用出来る窒素を補給する為に,堆肥などの有機肥料を作ってきました.

 一方,硝酸イオンを作る硝化菌も同様に直接窒素ガスを利用する事が出来ない為,尿素,尿酸イオンを原料として硝酸イオンを作ります.
 この為,焔硝土内で硝酸イオンを多く作る為には,硝化菌が利用出来る窒素源を多く供給しなければなりません.
 先の五箇山の焔硝土の原料中では,蚕糞,独活,虎杖,猪独活,クロバナヒキオコシと言った山草は多くの窒素を含んでいますが,稗や黍の茎・葉は窒素を余り多く含んでいません.
 もう一つ重要な窒素供給源は,人尿です.
 人間が食べた蛋白質は,体内で燃焼して残った窒素は尿として排出されていきます.
 この為,人尿を加える事で,窒素を硝化菌に与えていた訳です.

 因みに,焔硝を多く生産した大名家としては,他に阿波蜂須賀家が挙げられます.
 阿波の名産と言えば,藍です.
 この藍の原料である藍玉の作り方は,以下の様な感じです.

 蓼藍の葉を寝床と言う建物の中に積み上げ,その上から水を散布して発酵させます.
 こうして発酵させた蓼藍の葉が「すくも」と呼ばれるもので,「すくも」を丸く固めたものが藍玉となります.
 この生産過程で,寝床の土間や腰板に白い結晶として析出されたのが徳島の焔硝になっています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/03/01 21:46

 五箇荘の焔硝床は,囲炉裏近くに2間四方の穴を掘って生産していた訳ですが,白川郷のそれは,台所,客間,作業場と可成り広範囲に渡っています.
 台所の南側が最も深く,東西,南北とも緩やかな傾斜で浅くなっていきます.
 深さは,台所の作業場寄りの部分で120cm,囲炉裏の直ぐ南では110cmです.
 床下の土の元の深さは床板から80cm前後なので,そう言う意味では五箇荘の焔硝床よりも浅い訳ですが,広さは相当な規模に上っていました.

 その焔硝土は,カルシウムだけでなく,カリウム,ナトリウム,マグネシウム,珪酸,燐酸を多く含み,他の部分の土は酸性なのに対し,pHはアルカリ性に成っています.

 白川郷の合掌家屋では殆ど全てと言って良いくらい,こうした焔硝土の反応が床下から出ており,これらの家屋の床下では,大量に焔硝土を作成したものと考えられます.

 この焔硝土からは,硝酸イオンを抽出して硝石を作ります.
 これには,底擦切りに栓の出来る小孔の付いた大きな桶(土桶)が必要です.
 この土桶は,直径も深さもまちまちで,各家で工夫したものと考えられます.
 焔硝土はこの土桶に8分程入れ,焔硝土の上,約6cmまで溜まる様に水を加え,一晩静かに置いておきます.
 翌朝,土桶下部にある小孔の栓を開け,滴り落ちる抽出液を集めますが,これを「一番水」と言い,硝石を取出すのに使います.
 更に,土桶の底に小孔を空けた状態で再び焔硝土に水を加え,別の桶に抽出液を集めますが,こちらは「二番水」と言い,新しい焔硝土から「一番水」を採るのに利用します.

 硝酸イオンは極めて水に溶けやすいのを利用した工程で,これにより,「一番水」では約80%の硝酸イオンが抽出でき,「二番水」を合せると90%以上の硝酸イオンを抽出する事が出来ました.

 こうして採取した「一番水」は,沸騰させて濃縮し,木灰で処理します.
 焔硝土にはカルシウムやマグネシウムが多く含まれている為,硝酸カルシウム,硝酸マグネシウムで析出される上,これらの化合物は水に溶けやすい為,「一番水」を幾ら濃縮しても結晶を得る事が出来ません.
 これに,大部分が炭酸カリウムで出来ている木灰を加えると,カルシウムやマグネシウムを水に溶けない炭酸塩にして取り除き,残った上澄みを硝酸カリウム,即ち硝石の状態にする事が出来ます.

 化学式で書くとこうなります.
Ca(NO3)2+K2CO3→CaCO3+2KNO3
 或いは,
Mg(NO3)2+K2CO3→MgCO3+2KNO3
となる訳です.

 こうして木灰で処理した「一番水」は,更に濃縮した後笊で漉し,一晩静かに置くと粗製硝石(灰汁煮焔硝)と言うものが析出される訳です.

 五箇山の記録では,灰汁煮焔硝を水に溶かして煮立て,沈殿と濾過でゴミを取り除いて静置する事3日で飴色の結晶が得られます.
 これを中煮焔硝と呼び,この中煮焔硝を笊に入れ,湯に入れて溶かし,中折れ紙1枚を中に挟んだ木綿布7枚で濾過します.
 この濾液を7日間静置すると,20cm前後の笊状の結晶が得られますが,これを上煮焔硝と呼び,これが前田家に納められました.

 五箇山の場合ですと,「一番水」は33倍に濃縮した後,木灰にて処理し,更に2倍濃縮する必要があります.
 しかし,白川郷の焔硝土では,11〜22倍に濃縮するだけで,100度に於ける硝石の飽和温度(これ以上溶けない濃度)となる事が判りました.
 五箇山では,焔硝床1坪当り9〜10kgの灰汁煮焔硝を産出していましたが,白川郷では,17〜30cmの焔硝土層の厚さが有れば10kgの硝石を取れる事が判りました.
 白川郷での焔硝土の厚さは,家によって変わりますが,大体60〜100cmですから,1坪当りの生産高は五箇山と同じかそれ以上の10kg以上と計算されています.

 因みに,欧州では14世紀後半頃,この方法と同じ様な方法で硝石を得ていました.
 1561年にドイツ人が書いた記録では,焔硝土に石灰や牡蠣殻を加える事を記しています.
 白川郷や五箇荘の焔硝床の場合,カルシウム供給源として,蚕糞や山草(赤麻,虎杖,猪独活,独活,クロバナヒキオコシ)があり,特に蚕糞には最も多くのカルシウムが含まれており,蚕糞や山草には窒素源としてだけではなく,カルシウム源としての働きも重要だったりします.

 また,焔硝土にはカリウムだけでなくナトリウムも多く含まれています.
 焔硝土のカリウム/ナトリウム比は1.1〜5.2です.
 原料のカリウム/ナトリウム比は,蚕糞が17.7,栽培植物と山草は22〜161で,平均82です.
 つまり,カリウム/ナトリウム比を焔硝土のレベルまで下げるには,ナトリウムを多く含む原料が必要です.
 それが人尿と言う訳です.

 因みに,江戸期,白川郷の人々が蛋白質,ナトリウム,カリウムをどれくらい摂取していたか,と言えば,蛋白質は1日当り75g摂取していたと考えられます.
 この量の蛋白質を摂取すると,尿中の窒素は9.6gです.
 また,塩は1日当り30〜40g摂取していましたが,当時の塩は不純物が多かった為,尿中のナトリウムは平均8.8g程度となります.
 更に,カリウムはナトリウムの半分の摂取とすると,平均4.4g,尿中のカリウム/ナトリウム比は0.5,窒素/カリウム比は2.18です.
 と考えていくと,焔硝の窒素の内,人尿に由来する窒素の割合は14〜63%の範囲で,平均35%と考える事が出来ます.

 焔硝を採るのに人尿を使うのは極めて理にかなったものである訳です.
 昔の人たちは,これを多分体験的に得たのでしょうね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/03/02 22:24

 さて,ドラマ「赤かぶ検事奮戦記」,初代のフランキー堺の時は良く見ていました.
 娘で法廷で対決する弁護士役の倍賞千恵子,星野知子の時代は良く覚えていますが,片平なぎさの時代は余り覚えていません.
 春川ますみの奥さん役も,フランキー堺と合っていて,ほのぼのとした味わいがありましたっけ.

 そのドラマにも出て来る赤かぶの漬物と言えば,飛騨の名産品です.
 白川郷でも勿論,冬を乗り切る為の食品として秋の終わりに,1年分の量を大きな桶に漬けています.
 蕪の切漬は,赤蕪の根と葉を切ってから漬けたもので,1週間後から食べられる様に成ります.
 俗に赤かぶ漬と呼ばれているのは,永漬けと言われるもので,丸の儘の赤蕪に唐辛子もしくは山椒を加えて塩で漬けたもので,翌年の田植え時期から食べ始めます.
 この赤かぶ漬は,乳酸発酵で酸味が加わり,生の赤蕪の苦味が抜けた美味しい漬物です.
 漬物としてではなく,時には焼いて食べる事がありました.

 この他,冬に食べられたのは,大根葉です.
 最近のスーパーでは葉っぱ付き大根は中々売っていませんが,八百屋では手に入れる事が出来ます.
 白川郷では,自家用の畑で育てており,コテズナ,スナと言う漬物として,又,茹でて乾燥させた後に煮て食べられていました.
 コテズナは,大根葉を茹で,その茹で汁と共に重石をしておくと出来る漬物で,塩を使わず,乳酸発酵で作られる酸っぱい漬物であり,厳寒の地でしか出来ません.
 スナは,大根葉を細かく刻んで塩漬けしたもので,冬に取出して塩出しした後,味噌汁に入れたり,スナガユと呼ばれる雑炊に入れて食べていました.

 とまぁ,此処まで書くと何と貧しい食生活かと思うでしょうが,どうしてどうして,白川郷には焔硝と言う換金製品がありました.
 焔硝は,昨日も書いた様に床下の焔硝土を集める事から始まります.
 これを煮て灰汁煮焔硝を作り,灰汁煮焔硝は上煮屋と呼ばれる肝煎りの家に集められ,中煮焔硝若しくは上煮焔硝に精製された後,村外に販売されます.

 これが幾らで売れたかと言えば,1813年の大坂城内御鉄炮方に売った記録では,御用焔硝の価格が1貫(1,000匁)当り銀22匁とされていました.
 焔硝1斤は300匁(1.125kg)ですので,1斤当り銀6匁6分となります.
 また,他国で民生用に出荷される「他国出し」については,1775〜1780年頃の信称寺文書では,金沢で売る精焔硝の仕入れ価格として,1斤当り銀4匁,即ち1両で4貫500匁の価格が書かれており,これは高すぎるのでまけてくれと要求した記述が残っています.
 推定ですが,「他国出し」の価格は大体これくらいの価格だったと思われます.

 各家が生産する灰汁煮焔硝については,同じ信称寺文書中の「悪煮焔硝附留帳」では,「〆拾六斤弐百拾目也 代弐歩五拾参文」と書かれており,1両(銀60匁)を4歩,4,000文とすると,灰汁煮焔硝1斤当りの値段は銀1匁8分4厘4毛となります.
 当時の米の価格は,信称寺文書に記されているのが,米1石当り銀30匁3分〜45匁2分の間で,平均すると米1石当り銀40匁となっています.
 米1石40匁とすると,灰汁煮焔硝21.7斤(6貫508匁)で米1石を購入する事が出来た訳です.

 灰汁煮焔硝の1世帯当りの生産量は,時代は下りますが1868年の中切地区の記録が残っており,それに依れば,42軒中35軒が灰汁煮焔硝を生産していて,1戸当りの平均生産量は,7貫600匁(28.5kg)となっています.
 あくまでもこれは平均であり,15軒は7貫以上を生産していました.
 実際には幕末は諸物価高騰で,比較には価しないかも知れませんが,仮にこの灰汁煮焔硝の生産高が18世紀末と変わらないとすると,35軒中16軒が米1石を購入できた計算になります.
 因みに,1817年の資料では,米1石は灰汁煮焔硝5貫415匁相当と言う記録があるので,先の数字を当て嵌めると,20軒が米1石を購える事になる訳です.
 米1石と言う数字は,1人が1年間に食べていけるだけの主食の量ですから,この焔硝が重要な収入源の柱であったことが伺えます.

 18世紀末の白川郷では,主要交通路は白川郷北部の野谷から馬狩を通る山沿いの道で,庄川沿いではありませんでした.
 馬狩にある信称寺は,歩荷などの宿泊所にもなっており,此処には牛を使って45石もの米が運び込まれていました.
 又,別の文書では,馬狩から北の小白川や南の中切地区の平瀬まで搬送していた記録もあり,白川郷内では隈無く大量の米が流通していました.
 主要交通路である,前田家の越中との国境にある口留番所では,物資輸送の記録が付けられており,1856年の記録や1864年の記録では年間266石の米,1872年の記録では573.8石の米が白川郷に搬入されていました.
 当時の白川郷の人口は約2,400名,約260世帯ですから,1世帯当り1〜2石の米を購入していた事が判ります.

 勿論,1石が大人1人を1年間食べていけるだけの米の量ですから,2,400名に対し266石では,十分な量の米を供給出来た訳ではありません.
 ご飯と言えば,銀舎利100%ではなく,米に稗を加え更に稗糠を加えた「稗ご飯」でした.
 これは寝る前に米と稗を大鍋に入れ,囲炉裏の側に置いておき,朝起きると,囲炉裏の中央の五徳に載せて炊きます.
 稗糠は炊きあがった後に入れ,杓文字か菜箸で一気に混ぜて,鍋を横の五徳に移動させて蒸らすと出来上がりと言うもので,近年まで白川郷ではこの「稗ご飯」を食べていました.
 稗糠は油の含有量が多く,これを加える事で,旨さが増したそうです.
 意外にも,米の取れない地区でも,稗だけで飯を炊いた集落はなく,その場合でも米を他の地域から購入していたと言います.

 これだけでは腹が朽ちません.
 其所で,主食の補いとして栃餅を囲炉裏で焼いていました.
 ただ,この栃餅の糯米も繋ぎ程度で,灰汁抜きした栃の実に雪花菜や四国稗の粉が加えられたものでした.
 他に穀物として,黍,粟,高黍,蕎麦,大麦,小麦を粉にして団子,又は熱湯で溶いた蕎麦掻き的なものが作られていました.
 一方で,栃は食しているのに,山村で良く出て来る楢の実,即ち団栗は食されていないのも面白いです..

 このほか,白川郷では,自家栽培として豌豆,蕪,南瓜,胡瓜,牛蒡,大角豆,大根,茄子,人参,葱と10種類の野菜を育てていました.
 集落当り平均7.1種類ですが,これは飛騨の他の集落に比べても多い方ですから,焔硝や絹糸を売った資金で,野菜の種を購入していた事が伺えます.
 特に,南瓜や甘藷が日常的に主食の補いとして摂取されています.

 栽培した豆は味噌にもしていました.
 旧暦で最も寒い寒の時期に年中行事として作られたもので,主に味噌玉にしています.
 作り方は大豆を大鍋で煮て,煮た後に臼と堅杵で潰し,米糠を加えて,熱いうち野球のボール大にして,一家総出どころか,集落総出で味噌玉を作り,囲炉裏の上の簀の子に載せて燻しながら2ヶ月間乾燥させると,味噌玉は完全に乾燥し,中は黴で一杯になるという仕掛けです.
 因みに,大豆の煮汁も塩を加えて残します.
 そして,春のお彼岸頃に味噌玉に塩と煮汁を加えて,仕込みをします.
 途中で混ぜなくても,夏場は発酵して泡が立ち,これを2〜3年熟成させると味噌が出来上がりです.
 この味噌は,稗ご飯や漬物と共に味噌汁,又は焼味噌として毎食食べられていました.
 その具は,季節の山菜,茸,センザイバタ,畑で栽培している野菜などです.

 意外に充実している食生活で,動物性蛋白源としては,夏になると川魚として,杜父魚,岩魚,山女魚,鱒,鮴,泥鰌を焼いて食べたり,燻製にして保存したりしていますし,海の魚は越中方面から歩荷によって,塩鱒,塩鮭,塩鯖,塩鰤,ハマチ,身欠き鰊,鯣,鰺,ほっけ,小糠鰯などが運ばれてきました.
 雪に閉ざされている冬には,野生動物が動物性蛋白源となり,11月から兎やムササビ,1月は羚羊,2〜3月には熊を狩猟していました.
 この他,狢,蛙,雉,山鳩なども狩って食べています.
 尤も,この動物性蛋白源は,正月や田植えなどのハレの日,狩猟に成功した日の食べ物ではあった訳ですが….

 稗ご飯以外は我々現代人の食生活よりもいいものを食べていたのではないか,と思ったりして.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/03/03 23:07

 白川郷での焔硝は黙っていても売れる訳ではありません.
 当初は周辺部や高山代官所に納品していた焔硝ですが,代官所を通じて大坂表に情報が伝わり,大坂城への納品が叶いました.
 これには,高山の木材商人として大きな力を持っていた田中屋や,白川郷の糸を西陣に送り込む為に商人となった,名主の血縁者などの力もあったようです.

 尤も,大坂城への納品が始まったのが,19世紀の初頭のこと.
 1813年9月の古文書には,名主と田中屋の連名で,高山代官所へ宛てた大坂城内御用焔硝の願書が残されています.
 その内容は,次の様なものでした.

――――――
 大坂上納の焔硝が年に5〜600貫目あると承知していますが,是非白川の焔硝をお買い求め下さい.
 見本を上納しますので,他国品と比べてみて下さい.
 品質の良い焔硝を1貫目当り銀22匁にて,今後変わらぬ値段でお請けします.
 雪深い地ですので,10月中には濃州郡上八幡まで運び,正月から2月中に大坂城内に上納します.
 代金は全て納め終えた後で結構です.
 以上の点を,大坂表鉄炮奉行様へお伝え下さい.
――――――

 更に1814年,1815年と続けて,上納焔硝は,当年より10年間は隔年500貫目,最高1,000貫目まで上納が可能である事,値段は金1両に付き,3貫100匁とすること,大坂までの運送については,大坂御城内御用焔硝の荷札や,飛州高山御役所の添書を附ける事,輸送経路は,白川郷から飛州野々俣口,濃州向住村,白鳥村,剣村,八幡町,下田村,上有知村,芥見村,中山道加納宿,守山宿,東海道草津宿,大津,伏見までと文書の遣り取りが盛んに行われ,大坂城内への上納は1815年から1822年までの8年間続けられました.

 それ以降,白川郷の焔硝は,尾州名古屋駒屋,濃州練屋,関本町(今の関市)升屋,名古屋京町鎰屋などに売られていました.
 主に白川郷の焔硝は,関西圏,中京圏に売られていましたが,1843年からは国家統制が敷かれ,焔硝製造鑑札が無いと,焔硝の生産や販売が出来ませんでした.

 1853年,ペリー来航から世の中が騒然としてくると,白川郷の焔硝は,江戸表に送られる事になります.
 当時,白川郷を含めた飛州の焔硝は,統制が敷かれてからは,高山の商人飯島屋喜兵衛を請負人として各地に売り捌かれていました.
 黒船の知らせは,ペリー来航より前の1853年5月には逸速く白川郷にも齎され,海岸防備の為,諸大名が飛騨の焔硝が買い上げる旨の情報が入ってきていました.

 当時,飛騨の焔硝は,五箇山の焔硝と共に質の高さを誇っていました.
 しかし,幕府からは成る可く安くこれを入手する様指示が為され,高山代官所を後ろ盾にした飯島屋喜兵衛は,この取引を独占し,今までより低い値段で買い取る事を通告してきます.
 更に,江戸表までの運賃として,売上代金の1割を差出す様に要求したり….
 これを不服とした郷中の名主達が,高山代官所に訴えるなどのトラブルが発生しています.

 更に,飯島屋は上煮焔硝ではなく,灰汁煮焔硝の儘,差出す様に迫りました.
 これらを一括して精製し,江戸表に運ぶ事で,焔硝価格を下げた訳です.
 これにも,白川郷を始めとする飛州各地の焔硝精製業者達は,高山代官所に名主53名連名の嘆願書を出して嘆願しましたが,取り上げられませんでした.
 この安値独占販売は,江戸表への上納を打ち切る1859年まで続きました.

 1860年からは自由販売が可能と成り,早速越中城端御会所より白川郷に焔硝買い上げの注文が舞い込みます.
 当時はどの大名家も軍備増強の為に焔硝確保に必死になっていましたが,普段の食糧購入を通じて情報を仕入れていた前田家が逸速く動いた訳です.
 白川郷では,他の商人に邪魔されない様,荻町村和田弥右衛門,椿原村四郎兵衛,御母衣村伊助の3名の上煮焔硝屋が「連中三人」と呼ばれる組合を作り,出荷を始めました.
 1860年から1865年に至る加賀前田家への焔硝出荷は,総計4,478.7貫,内訳は四郎兵衛が1,855.5貫,弥右衛門が1,714.6貫,伊助が908.6貫となっています.
 これらの焔硝が,戊辰戦争でも活躍したのかも知れません.
 因みに,白川郷にある和田家では,家の近くに焔硝小屋を構え,此処に焔硝を保管していました.

 現在でも,和田家住宅は合掌造りの家として残っていますが,その南面には便所小屋があります.
 これは母屋と共に国の重要文化財の指定を受けていますが,その中には松の木と亀をあしらった欄間があります.
 田舎屋とは言え,便所に欄間が何故あるのか,と言えば,その内部構造は中央に便所があり,奥に大きな桶が2つ設置されており,便所左手には,「コクソ部屋」と呼ばれる部屋がありました.
 桶は人尿を溜めておく為のものであり,「コクソ部屋」は蚕の糞を溜めておく為の部屋,即ち,この便所小屋は焔硝を生産する為の原料貯蔵庫の役割を果たしていたものでした.

 これらの原料から人々の糧と成る焔硝を作っていた訳ですから,昔の人々はこの原料達に感謝し敬う為に,便所小屋に欄間を刻んだのではないか,と言われています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/03/04 22:12


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