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◆◆階級 Társadalmi osztály
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<戦史FAQ目次
憂う御家老
(画像掲示板より引用)
『将軍の生活』(石井良助著,明石書店,2013/2/28)
【質問】
江戸時代の身分制度ってどの程度機能していたんですか?
有力商人なんかは,旗本やしょぼい大名より力ありましたよね?
【回答】
豪農が武士になったり,武士が貧農に没落したりと,厳密なものではなかった.
武士の株ってのは普通に売り買いされていた.
形式上は養子という形を取ってるけどね.
土地から上がる米の量は変わらず一定だが,インフレで物の値段は上がる.
米の年貢を納めれば,農民はなにを作ってもいいから,特産品を開発して江戸などで売ることが出来れば,丸儲けになる.
年貢米も豪商が売買して,暴利を貪っていたわけだし.
例えば渋沢栄一は豪農の出身だが,武士になって徳川の世を終わらせようとしたが果たせず,逆に徳川の家臣となってヨーロッパに渡り,帰国した後明治政府の官吏となっている.
山本七平が「近代の創造」で,渋沢栄一をモデルに,このような厳密ではなかった江戸末期の身分制のことを書いている.
また例えば,勝海舟の曾祖父は,越後の貧農出身の盲人.
盲人だけは高利貸しができたので,そこからスタートして大商家になった.
で,子供の中でも算盤のセンスがあった末子のために,御家人株を買った.
これが男谷家.
その海舟の祖父ってのは,目論見どおりに頭がよかったようで,幕府の勘定方として出世して,男谷家を旗本に昇格させただけでなく,庶子の三男のために旗本株まで買ってやった.
これが海舟の父の勝小吉.
勝家は結構な名家なんだけど,その時代には落ちぶれて家屋敷も売ってた.
小吉は形式上は養子に出されたのだが,実家に住み続けたどころか,貧乏な勝家の皆さんも,一緒に男谷家の屋敷に住まわせてもらっていたらしい.
てなわけで,経理の才能や商才があったら結構,農民から武士になれたのよ.
だからこそ小銭を持っている農民や商人は,自分の子供を熱心に寺子屋に入れた.
日本史板,2009/05/23(土) & 2010/01/12(火)
青文字:加筆改修部分
イザヤ・ペンダサンの一件を見るに,山本七平もソースとしては今一つのようだが.
【質問】
江戸時代は「士農工商」ではなかったの?
【回答】
「士農工商」という言葉自体がデタラメ.
これは明治期の人が,幕藩体制下の身分秩序のことを呼ぶのに使った言葉だが,江戸時代の実態とは関係が乏しいんだよ.
言葉自体は中国からの輸入物らしい.
実際には,武士とか貴族が上位に来て,その下に農工商などの庶民が来たってだけ.
町民より農民が上位に置かれたというのもウソらしい.
あと.「農」とされているのは,「町民以外の庶民すべて」程度な意味っぽい.
そうそう,「町民」という身分階層は,江戸時代の定義としては,商家・長屋を管理する大家などといった,武士による統治を補佐する重要な地位の人を指す言葉であって,農村における庄屋などと同格だった.
もちろん,庶民は町人ではない.
いわゆる江戸っ子たちの大多数は「町人」じゃないわけ.
公的な序列としては,実のところ,町の統治に関わる町人の方が,農村の統治に関わる庄屋より上だった.
同格だが少し優先,という位置づけらしい.
同様に,町に住む庶民の方が,農村に住む庶民より上に置かれた模様.
士農工商という呼び方とは違って,農民の序列は商人より低かったわけだよ.
日本史板,2011/12/22(木)
青文字:加筆改修部分
【質問】
武士と農民がはっきりと分かれたのは,いつ頃からですか?
江戸時代でも,農民が帯刀して名字を名乗ったりしてしたり,浪人や貧乏武士が耕作したり,区別ははっきりしない,て認識でいいですか?
【回答】
江戸時代の名字帯刀は大名への功労や,地元への貢献など功績を認められた際の特例.
郷士の類いは様々な例があって,簡単に説明するのは難しいが,多くは戦国以前から武士だったものが土着の土地ないしは封じられた場所で農村生活を営んだもの.
どちらも武士とそれ以外の階級が明確に差別化されていたからこそ生まれた例外といえる.
一般的な身分制度の確立としては,秀吉の太閤検地や刀狩りが最大の要因であるとされ,さらに江戸時代に入って身分制度が継続的に固持されたため,完全に定着されたとしている.
が,地方の有力武家の発祥は飛鳥時代・平安時代まで遡れるケースも多く,代々続いていた地方代官が武家化したのが起源の武家大名も数あるため,戦国時代と言えども身分の移動は早々楽ではなかったともいえる.
農民が雑兵として雇われる,もしくはその反対などは別として.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
うちの祖先は豪農だったらしいんですが,豪農って何ですか?
【回答】
18世紀半ば以降,小商品生産の展開に伴って成長していった村方地主をいう.
経済的には作徳地主として小作人から小作料をとり,買占め商人として前貸しによって,小生産者の生産した商品を手に入れ,みずからも生産者として年季奉公人を使役しながら,穀作とともに商品生産を行っているという,三つの性格をもっている.
社会的には,村落共同体の代表者として共同体的規制関係の頂点にあるとともに,村役人として農民支配の末端機構に組み込まれて,階級的強制関係の先端に位置づけられていた.
これらの豪農には,それまでの名田地主・作徳地主が転化したものと,商業活動や商品生産によって成長してきたものとの二つの系譜があり,後者は多くの場合,村方騒動によって村方地主としての地位を獲得していった.
この村方騒動は中期村方騒動と呼ばれ,18世紀半ばころに各地に起こった.
豪農は,幕藩領主と結んで殖産興業政策の尖兵となったり,都市商人と結んで商品集荷機構の末端機能を果たしつつ,商品生産をいっそう進展させ,それを編成していった.
小商品生産の展開は,小農民経済の自給性を大きく崩していった.
小農民にとって貨幣の生活の中に占める比重が大きくなるにつれて,商品の価格の意味が変化していき,労賃が上がり,商品価格が上昇した.
他方,主要な市場である都市を核とした全国市場は,幕府の強い統制下にあったから,その価格上昇が全国市場の商品価格を直接規定することはできなかった.
こうして19世紀初めの価格・労賃騰貴問題が起きた.
この過程で豪農は,その地主的性格を強めていき,小商品生産者にたいしては前貸しの性格を強めながら,問屋制的編成の道を推し進めていった.
この間に,農民層の分解が進み,一方で豪農が成長するとともに,他方に労働力販売によって生活の大部分を賄わなくてはならないような半プロレタリアを広範に生み出していった.
この豪農-半プロの矛盾関係を基軸として展開したのが,幕末維新期の世直し騒動である.
明治初年,政府は各地の有力な豪農たちを軸にして地方行政の体制を作ろうとした.
このことは,豪農たちを政府に結びついた有力豪農と,それ以外の中小豪農とに分裂させることとなった.
生産者的性格を保ちつづけていた中小豪農は,内に半プロとの矛盾関係をはらみつつも,農民たちと提携して生活と生産の擁護と発展のために運動することとなった.
この動きは,まず地租改正・徴兵令・教育令に対する反対運動として現れ,ついで自由民権運動に連動していく.
民権運動が終息し,明治国家体制が確立する過程で,豪農は寄生地主制の中に組み込まれていった.
一部はついえて小農民となり,一部はみずから寄生地主となり,一部は巨大地主の手代的地位を与えられるという方向をたどり,豪農は解体していった.
日本史板,2003/02/22
青文字:加筆改修部分
なお,元のレスは,コトバンクからの転載である模様.
そのため,著作権が発生しないと考えられる範囲で,元レスから抜粋した.
【質問】
江戸時代,商人がお金で武士の位を買ったそうだけど,商人によって武士の位はどの様なメリットがあったの?
【回答】
名字帯刀の権利のことなら,「俺は大物ですよ」というのを商売に生かすため.
本当に武士として処遇されたという話なら,俺には分からんが,農家や商人の息子がなんだかんだで武士になるならともかく(土方歳三とか),商人が侍になるってのはほとんど無理,と言うか俺は新撰組しか知らん.
また,商売は浮き沈みがあるし,個人の才能ってのも結構必要だ.
その点,武士なら大人しくしていれば,毎年給料が入ってくる.
それに次男,三男を抱えていれば,彼らの食い扶持も考えてやらないかん.
昭和の昔には,田舎の金持ちの商売人や大農家なんかは,息子のために特定郵便局長の権利を買ってやっていたもの.
これも似たようなもん.
日本史板,2010/01/11(月)~01/12(火)
青文字:加筆改修部分
▼ さらに 顧客を広げる好機にはなったみたい.
武士はやはり筋目を重んじるので 名目でも武士に近いほうが 取引相手に選ぶことが多い.
同じ様に身分が近い武士相手に交際できますから 訴訟などのときに縁故を頼って力になってもらえるってこともある.
江戸時代の農村の訴訟についての新書で読んだことがあります.
訴訟となると 天領や関東周辺だと 江戸に出たりして費用が馬鹿にならない.
千葉の農村の例だと 千両近く負担した例もあった様で そのためには武士のコネも必要でした
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ソース:『江戸の訴訟 御宿村一件顛末』(高橋敏著,岩波新書,1996.11)
ここに出てくるのは 江戸の庄屋の兄弟が 江戸で武家の用人として奉公していた場合ですが 商人が武士となった場合にも 同じ様な状況になりえたと思います.
本人はともかく 親類や知己がそれなりの地位につくこともありえるのですから.
閻魔さくや in FAQ BBS,2010/2/19(金)
青文字:加筆改修部分
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【質問】
江戸時代の武士のちょんまげですが,階級の違いとかで髷も違うんでしょうか?
それとも単に好みで,個人ごとに色々な髷を結っていたんでしょうか?
【回答】
髷についてのお触れがどうなっているかは知らないが,身分で違うのは,タボ(襟足の部分の形)のみだったと思う.
町人は今のお相撲さんのようにふくらませるが,武士はひっつめに結う.
町同心は中間だったようだ.
大きい髷(TVなんかで柳生十兵衛がやっているような)や,長く髭を伸ばすのは,自分を大きく強くみせようという意識の現われで,歌舞伎者なんかの行動と通じるものがある.
だから江戸初期のカブキ者なんかは,出来るだけ奇抜で目立つ格好をしたりする.
風紀上よろしくないと幕府は考えた.
で,そういう戦国の遺風な格好は,平和な時代なんでやめましょうということに.
(正式な法として指示されたかって点は知りませんが)
ところが,そういう意識を変えるのは難しい.
当時はヒゲがない=貧弱と見られるような感じだったので.
(少し前の時代,髭が薄かった豊臣秀吉なんかはわざわざ付け髭をしたりしていた)
そこで老中の誰かが,あえて髭を剃って見せて(登城した姿を見た大名たちが驚いたとか記録にあったような)
手本を示すことで髷も小さく,髭も小さかったり無くしたりという格好を皆がするようにになっていった.
月代の形は,お城や役所に出仕する,ちゃんとした武士は,今のちゃんとした勤め人が,背広ネクタイ形式のように一定形式になっている.
月形半平太や沖田総司がやっている月代を狭めた形は,正規の出仕役人でないんで変形だろう.
自分の想像では,月代を広くするとマゲに行く髪が少なくなるんで,量を稼いでいるんでは思う.
(本多髷という,やたら月代の広い形もあった)
マゲも市中の医者は,茶筅が多かったようだ.
また,公家学者は月代をそらなかった.
(戦に行かず兜もかぶらないから,剃る必要がないという趣旨か)
月代の部分をタワシのように伸ばしているのは,浪人やなんかで「お勤め人」でないんで,ズプラを決め込んでいるからだろう.
旗本ヤッコといわれている不良武士は,ビンの部分をふくらませて威勢を張った.
今の一部の若者がソリコミをするようなものだろう.
説明が見つからないが,子供が前髪をつけるのは,マゲを前に引っ張るためのようだ.
まだ毛が軟らかく前髪がないと,マゲが後頭部へずり落ちる.
この意味で元服して前髪を落すのは,髪の毛も(多分体毛も)ちゃんと成長した証しと見れる.
日本史板
青文字:加筆改修部分